帆を持たない舟Ⅵ 「くちなしの花」

 リコが死んだ。

 首を吊られたままになっていたおれは、二日くらい後に体が急に楽になって、自力で縄をひきちぎれた。

「薬の効果……本当にあったのかよ」

 足元には二日間見つめ続けていた、リコの骸。

 骸を抱えておれは、夜の市場をふらふらと歩いていた。

 頭に船の飾りを乗っけた、バカみたいにふわふわしたドレスを着たおばさん。透けた蕾の中に閉じ込められて、必死に歌い続ける羽の生えた小さな人間。おれたちが目に入ったとたん、ぎよっとした顔でこっちを振り向く。血だらけの惨殺死体を持って歩く子供より、あんたらの方がよっぽど珍しい光景だと思うけど。それでも夜の市場の人たちは、そんな奇妙な物体は風景の如く流して歩き、おれたちを見れば小さな悲鳴をあげたり、しんと静まり返ってこっちを見てきた。

 おれはひたすら歩いた。そして人混みの中に見覚えのある姿を探した。

 バカみたいな笑い声を立てて、おっさんたちが数人で群れている。その中に聞き覚えのある声を聞き、とうとうそこにその見覚えのある姿を見つけた。

 半分竜と溶け合ったような、人間と竜の化け物。何かと夜の市場で世話を焼いてくれた、あの竜のおっちゃん。

 「おい、お前!」

 「ん〜、酔いすぎたかァ? 何だか聞き覚えのある声が、し。」

  振り返り、蛇のような瞳孔が きゅるっと細まる。集団が一気に静まりかえる。かすかに開いた口から見える、濡れた牙がてらてらと輝き、その口を細々と動かした。

 「それ、リコちゃん、か?」

 静けさの中呟くその声は、あまりにも弱々しかった。

 おれはどうしようもなくそれをじれったく思い、竜のおっちゃんが言い終わる前に何度も首を縦に振っていた。

 「そんな、何で、」

 「それどころじゃねぇんだよ! お前リコを生き返らせられる売りもんか何か、知ってんだろ、教えろ!」

 聞く立場なのに命令をする失礼なガキ。そんな奴に向けられた大人たちからの目は、怒りでも嘲りでもなく、哀れみに見えた。

 「坊主……」

 「金ならいくらかかったっていい! おれの腕でも足でも、代金が何だって良いから教えろよ!」

 「坊主。」

 「おれの魂か。人生全部か。そのくらいの代金だってありそうだなぁ、そんなんに怖気付くほどヤワじゃねえよ」

 「リク!」

 し……ん、と。夜の市場がもう一度静まった。竜のおっちゃんは肩で大きく息をしている。見つめてくる顔はあまりにも情けなくて、その顔はまるで何か哀願するかのようだった。

 「何、だよ、早く言えよ。」

 声が震えないよう必死に抑える。リコを抱いた時腕に付いた血はもう固まり、リコの頬と擦れてざらりと剥がれ落ちた。

 「坊主、よく聞け。」

 大きな手で、がしっと肩を掴まれる。

 まるでとって食われる瞬間だ。

 「元の世界でも夜の市場でも、どこのどんな世界にも、人を生き返らせる方法だけは無い。」

 こいつは今、どんな感情でそれを言っているのだろう。

 音の羅列が、おれの中に更に入り込む。

 「夜の市場では幽霊だってわんさかいるし、霊感に関係なく視える。だが……それは、相手が他人だからだ。例えばおれの死んだ家族や戦友がすぐそこに居たとしても、生きているおれには見えないように。」

 竜のおっちゃんの肩越しに見えていた、連れの連中が目に入る。

 何人かが悲しそうに目を伏せる中、一人だけ微笑んでこっちを見てきている奴がいた。年も服も違くて、連中の中ではこいつだけどこか浮いていた。

 そいつは微笑を浮かべながら自分で自分の胸を指で突き、首をゆっくり横に振った。

 おっちゃんが薄い鱗だらけの腕で突然、でもゆっくり、おれを抱きしめた。

 とげとげしていて硬そうに思えた鱗は、おれたちにぶつかっても柔らかくしなって、全く痛くなかった。

 「無いんだ。今のお前に、リコちゃんと会える方法は。諦めろ。……受け入れろ。」

 心臓を抜き取られたら、こんな心地だろうか。

 この喪失感のために、絶望という言葉はあるんだろうか。

 「はは、」

 ぐい、とひじでおっちゃんを押し退ける。少し体が離れ、お互いの顔が見えるようになる。

 おれは熱くなった目を見られないように、顔を下ろしたまま言葉を吐く。

 「使えねーな、知らねーのかよお前。いいよ、他のやつに聞くから。手始めにあの、おれに薬を売ったボロ布みてーなババァだな。年食ってる分、お前よかマシだろ。」

 「坊主……」

 竜のおっちゃんとつるんでいた親父たちが、痛々しそうにここから目をそらす。何だよ、何勝手に絶望みたいな空気にしてんだよ。

 「前に確か、お前。おれに楽して手に入れた力は何たら、とか説教たれてたよな。」

 竜のおっちゃんが気の毒そうに目を伏せる。お前まで、何勝手にご愁傷様みたいな態度とってんだよ。

 「おれはそんなこと考えなかったよ。いつだって何でも分かってるような口ぶりだけど、お前の言うことって割りかし当てになんねぇからな。」

 ひたすら、あいつらにおれの目を見られないよう目をそらし続ける。目の熱さが鼻にまで来ている。

 「だから、死人は生き返らないなんて信じない、ってか?」

 見えていないのに、あいつがこっちをひたと見つめてきているのが分かる。

 声、ふるえてる。

 「そうだよ。」

 夜の市場に話し声が、またさわさわと戻ってきている。そんなもんだ。何かあっても、周りはその時だけは反応するけれども、またすぐに忘れる。何事もなかったかのように。

 竜のおっちゃんが仲間に先に行ってくれ、と頼むのが聞こえる。おずおずと、その場からそいつらが離れる。竜のおっちゃんは何も言わず、何もせず、ひたすらこっちを向いて座っている。

 死んだ人は生き返らない。

 竜のおっちゃんの後ろにいる幽霊は、まるで口を失ったかのように何も喋らない。

――死人に口無し。

 この場合は違うのかもしれないけれども、そんな言葉が蘇った。

 おっちゃんが死なない限り、この幽霊はおっちゃんと、本当の意味で会えないんだ。

 






――お兄ちゃん、自殺した人って、死んだ後どうなるか知ってる?

――なんだよ。死ぬほど辛かった一生を送った代わりに、天国で至れり尽くせり、とかか?

――逆。自殺した人の魂はね、深ーい地獄に落とされるんだよ。それで地獄で、すごーく長い間反省させられるの。

――あ? 生きるのがもう限界だった奴に、あの世ってのは死んでからも追い打ちかけんのか? 残酷というか救われねー話だな。というかお前、なんでいきなりそんな話し始めたんだよ。

――この前、道端にいつも居た病気の人がもう耐えられないって自殺したでしょ。あれ、あの後どうなったかなあって思って探ってみたの。そしたら、普通の人が行く地獄と違う……そこ、見たことない地獄に繋がってた。

――それが自殺の地獄だったってか。

――うん。

――あー、はあ。何というか。お前、なんでも分かるのかよ。おれにはどういうことだかさっぱり分かんねぇ。魂を探るとか地獄を見たとか、どんどん人間離れしてってんな。


 いつかした、かつての会話の記憶が途切れてしまった。

 おれの目の前には、見慣れた自宅の天井が広がっている。白昼夢の映像が途切れ、視界が頭に戻ってきた。床の上で大の字に寝転がるなんて、親父がいた頃はしたこと無かった。

 最後に夜の市場に行った日から、数日が経っていた。何日も何日も、おれはずっとこの床に寝転がっている。

 その間飲み物も、食べ物も口にしていないはずなのに。多少の腹の空きはあれど、体は嫌なくらい元気だった。

 「もしかしてもう、食べなくても平気なのか……。」

 気だるい気分で体を起こすも、体は本当にもう、嫌なくらい元気だ。

――もしこれで飢え死に、なんてなってたら。それも自殺にカウントされたのかな。

 首をうなだれさせ、返ってくることのない会話の続きを始めるかのように、記憶に向かって問いかけた。

 夜の市場には行っていない。

 行けば気は紛れるのかもしれないけれど、何というか、それはしたく無かった。

 リコ一人だけが犠牲になったのに、助かったおれ一人が楽しんだり、少しでも今回のことが頭から離れたりするのは嫌だった。何だか、不誠実な感じがして。

 何よりあそこに行けば、それだけリコがいないことが悲しくなると思ったから。

 いつまでかは分からない、いつまでかは分からないけれども。おれは、今は前に進まず、ここでこの痛みをずっと抱えていたかった。

 床にこびりついた血もそのまま、割れたボトルの破片もそのまま。

 死体だけは物乞いに使いたいって奴に渡して、後はあっちで勝手に捨ててもらうことにした。

 親父のだけじゃない、リコの方もだ。

 死体は台車に乗せられて、物乞いがそれを引っぱる。葬式代を集めたい、と死体を連れて歩き回るだけで、体ひとつでやるよりも観光客からはかなりの同情の金が集まる。その死体は台車で町中引き回され、川かどっかに放り投げられて終わりだろうとも。

 だから親父の死体はその辺の適当な奴らに売って、せいぜい人の役に立ってもらうことにした。そいつらがその後親父の死体をどうしようが知ったこっちゃねえが、川や道端に捨てられたなら、あの親父にしちゃ万々歳な供養のされ方だろ。

 ただあいつらは、闇医者だの死体解剖だのにパイプを持っていて、そこに死体を売り渡しているみたいな噂があった。だから今頃あいつは、人の形さえしてないかもな。

 リコの骸は前々からの知り合いである、子供達数人だけで寄り集まって、何とか生きてるチビたちに渡した。供養まではいいけど、丁寧に扱ってくれよ、と頼んで。

 リコの酷い骸に、そのチビたちは泣き出した。そこのリーダー、おれと同い年くらいの男は「ありがとう、大切に扱わせてもらうからな」とだけ言って、らしくなく目を涙ぐませていた。おれたちは軽く抱擁し合い、解き。おれはあいつらを見送った。

 「本当はダチの死体なんか金儲けの道具にしたくねえ。なのに、そうしてやっと今日の飯にありつけるような自分に反吐がでるよ。こんなことしなくない。したくないのに、『よかった、これで今日生きられる』って。心の底で助かったとも思ってるんだよ。ダチだったのに、最低だよな。」

 あいつは最後にそう言った。リコを悼んでくれていることに変わりはない。きっと本人もそれは分かっているだろう。

 でもどうしても、感情の不純物を無視できないのだろう。おれもだ。

 だけれども、はたから見たおれにとってあいつはリコの死に対して誠実だった。それに間違いはない。

 それに、おれじゃとても死体の処理はできなかっただろうから。

 ありがとう、よろしくな。そう言っておれはあいつらに託した。

 そうして、おれは長いこと天井を見つめる日々に入ったのだった。

 ようやく体を起こす気分にはなったものの、それでも何かする気になるわけでもなかった。

 ただ久しぶりに出た外は、家の中と匂いがまるで違った。

 もう堂々と玄関も出入りできる。まあまあ慣れたとはいえ、それでもまだ変な感じは残っていた。

 チビたち、もうリコの骸をどこかに置いてったのだろうか。せめて簡単に目につくような場所でなかったら、それでいい。

 腹いっぱい食べれたかな、もう何日も経ったし、集まった金も使い切っちゃったのかな。

 こうして家の傍に流れる小川は何も変わらない。

 リコはちゃんと、天国に上がれたのだろうか。

 まさか地獄になんていないだろう、と、思いたい。

 上がれずに幽霊になってても、おれじゃ分かんないんだから。

 せめて無事に天国に行けたのかだけでも、教えてくれよ。

 雲間の切れ目から太陽がのぞき、降り注いだ光で草一面は眩く輝きだす。

 夜の市場は、幻想を描いた走馬灯みたいなものだったのだろうか。リコが死ぬ間際、束の間に見た、片割れの走馬灯。

 おれたちは、最期に幸せな夢の中を走れたんだ。











 「リク、リク! 坊主、おれだ!」

 枕元にでかい蛇が現れた。

 もとい、姿形が半分だけ竜になってる人間だ。

 こいつ、ただでさえ非現実的な見た目なのに、居る場所が自分の家となると、完全に頭がおめでたい奴にしか見えない。夜の市場の煌々とした妖しげな場所では、あんなに目に馴染んだのに。

 床に大の字で寝転がったまま、おれはそれをぼんやりと見つめていた。おっちゃんはおれの首根っこを掴み、まるで猫をつまみ上げるみたいにしておれを宙ぶらりんにした。

 ちょっと苦しかったけれども、痛くはない。そのまま竜のおっちゃんと同じ目線の高さで、男同士しばしば見つめ合う。

 「おい、リク。」

 ゆっさゆっさと、おれを掴み上げている方の手を小刻みに揺らす。それに着いていくように、おれの体もぶらんぶらん揺れる。

 「まるで抜けがらみてェだな……。まあ、何とか生きてるみたいで良かったよ。」

 「……何しに、来たんだよ。」

 竜のおっちゃんが、ガラス玉みたいな目でおれを見てくる。

 「バーカ! お前が生きてるか確かめるために決まってンだろ! お前、夜の市場にあれ以来ちっとも顔出さねェしさ。」

 「どうやって、ここ知ったんだよ。」

 ただの素朴な疑問に、竜のおっちゃんは押し黙ってしまった。こいつ、どんな手を使ってここを調べ上げたんだ。

 そんな手を使ってまで、おれを探しに来てくれたのか。

 「とにかくだ、生きてて良かった。どうせ暇だろ、夜の市場にでも行こう。何か美味いモンでも食わせてやる。そうだ、おれの行きつけの、若いねーちゃんがたっくさんいるとこに行くか?」

 若いねーちゃんならその辺にたっくさん居るのに、何言ってんだろう。

 おれが何も言わずに見ていると、竜のおっちゃんはごほんと咳払いをした。

 「ま、まァガキにはまだ早いか。酒も飲めねェしな。普通に美味いモンはどうだ。きっと、」

 「リコはあの世に行けたんだろうか」

 竜のおっちゃんの陽気な顔が、一瞬で冷えていく。いや、無理やり明るく振舞っていた顔が溶けていった、って言った方が良いのかもしれない。

 そうやって気遣ってくれてたから。

 でもごめんな、おれはまだ無理やり違うことなんて考えられないんだ。

 リコは幽霊になってその辺を彷徨ったりしていないだろうか。もうあの怪我は痛くないだろうか。

 それが分からなくても、せめてリコがもう苦しんでなければ、それさえ分かれば。おれ、いい加減前に進むからさ。

 竜のおっちゃんの顔が滲んで、よく見えなくなる。邪魔だからといくら涙を目から追い出しても、目の前は一向に拓けない。

 人目も気にせずぼろぼろと涙をこぼすおれは、このガラス玉のような目にどれほどみっともなく映っているのだろう。

 「リク……」

 おっちゃんは今のおれのザマを見て、何を思っているのだろう。

 「ごめんな、おれはあの世を知る手立ては、知らないんだ」

 やっぱり、分からないよな。

 「とにかく、何か食おう。まずはそれからだ。さかななんかどうだ? おれのおすすめだ。三途の川でとれたさかなはどれもこの世のものとは思えないほど美味いンだぞ。」

 涙がひと雫、またおれの目から落ちた。視界が明瞭になる。

 「今、何て言った?」

 摘み上げられたまま、おれは身を乗り出すように前のめりになった。竜のおっちゃんが軽く身をすくませ、じわじわと、後ずさるかのように体を引いていった。

 「さ、さかなは美味い……」

 「違う! 川の名前だ!」

 三途の川。

――あの世に行くために、死人が通る場所じゃないか!

 「か、川ァ? あぁ、三途の川か。夜の市場に流れてるあの川の名前だよ。それがどうし、」

 「それがあの世を知る手立てだ、バカ!」

 おれは手に入れた馬鹿力で、すぐさまおれを摘まむ竜のおっちゃんの腕をおれから引き剥がし、おっちゃんの首根っこを逆に掴んで引きずった。そうしておれは夜の市場へと、文字通り竜のおっちゃんを引っ張っていった。






 「へェー。三途の川って、あの世に行く関所みたいなモンだったのか。」

 「お前、んなことも知らなかったのかよ。」

 「なっ。だって、名前からして東洋の由来だろ。おれは西洋の産まれなんだ。東洋の話なんて知らん」

 そう言って竜のおっちゃんは ぷいと横を向いてしまった。

 無言のまま すたすたと歩く。先に口を開いたのはおれだった。

 「きっとおれみたいに、誰が三途の川を渡ったかを知りたい奴はたくさん居るに決まってる。そうなれば、金に汚ねえ手前らのことだ。絶対にそこに目をつけて、誰が通ったかの情報を売る奴が現れる。」

 「た、確かにな……。でも、絶対に全員が全員、あの世に行くために三途の川を渡るってわけでもねェんだろ? そういう商売をする奴らが居たとして、聞いても分からなかったらどうすンだよ。」

 「そしたら、また後で考える。そもそもそういう商売をしてる奴が居るかどうかだって、これから調べるんだ。」

 気持ちがはやり、おれはほとんど走るように歩いていた。ふっと気が付けば、竜のおっちゃんは後ろの方で手乗りトカゲみたいな大きさになっている。

 「別に無理してついてこねーでいいよ! 歳なんだから!」

 やはり薬〈死神の涙〉のおかげか、異様に体が軽い。いくら走っても疲れないし、まるで体が羽のようだった。そのままおれは三途の川に向かって走った。後ろの方で、歳じゃねェ、という絶え絶えの声が聞こえた。

 薄暗闇の中。月の光が落ちる大地は水に浸り、真っ白な花々が咲き乱れている。

 花の茂みを蛍が彷徨うように飛び交い、その光に照らされ、花は淡く輝く。

――もうすぐだ、もうすぐで川だ。

 いつもなら夜の市場に来れば、出るところは川のすぐ側なのに。なんで今日に限って、あんなに川が遠くにある郊外なんだ。

 湿地をくぐり抜け、最後に背の高い草をかき分けた。

 その途端、目に飛び込んできたのは、光だった。

 先に広がっていたのは濃紺の夜空に、星の光で眩しいほどに輝いている川。

 そこに浮かぶたくさんの小舟。そして夜の世界を泳ぎまわる、たくさんの……

 「星……?」

 夜空には全く動いていない普通の星と、流れ星ともまた違う、ゆるゆると動くたくさんの星があった。

 そして地面には土ではなく、河原らしい白くすべすべした小石がたくさんあり、それに混じって、たくさんの星が跳ねている。

 ここは夜の市場じゃないのか? こんな場所、夜の市場じゃ見たこともない。

 後ろから、追いついてきたらしい竜のおっちゃんの、息切れして絶え絶えの声が聞こえてくる。

 「あァ……。ここ、三途の川の下流だな。店の出入りも少ねェし、一回しか来たことねェけど何でいつもの場所じゃなくて、ここに出たんだ?」

 足首ほどの深さしかない、光り輝く川の上を滑るいくつもの舟。舟は星をたくさん乗っけていて、それをどこかに運んでいく。どこからか空っぽの舟がやってくれば、星の方からぴょん、と舟の中に入っていった。

 不思議な光景に絶句していると、小さな舟に乗って星を運んでいる奴らが、ちらちらとこっちを見てきていることに気がついた。

 見た限り、あれは人間だ。それでも自分たち以外の生身の人間が、ここでは珍しいらしい。

 適当な奴と目を合わせて、引っかかった奴に話しかける。

 「おい。ここは三途の川か?」

 おれは舟を漕いでいる奴の一人、はっきりと目があった、自分の同じ歳くらいの少年に話しかけた。

 そいつは子供にしてはいやに落ち着いた微笑みを浮かべて、おれの目を真っ直ぐ見つめ返す。

 「そうだよ。」

 返事はかなり簡素なもので、そいつはそれ以上何も言おうとはしなかった。

 ただ、まるで試すかのように薄ら笑いを向けてきていて、話を聞くらしい素振りではあったので、お言葉に甘えて次の質問をした。

 「この星は……じゃあ、死んだ奴らの魂か?」

 「何でそう思うの?」

 質問に質問で返してきた。この間にも、星たちはこのがらがらの小舟にぴょんぴょんと飛び込んできている。

 「死んだら人は、星になるって言葉があるから……。」

 リコとの会話が蘇る。

 夜のとばりのように、言葉の本来の意味を分からない奴らに使い続けられ、本当の意味を忘れ去られてしまった言葉たち。

 「死んだ人はお星様になる」っていうのも、それと同じ類なんだろうか。

 ふふっと、鈴が鳴るように少年が軽やかに笑った。

 「君にはこれがお星様に見えるんだね。でも正解だよ、これは魂さ。死んだ人のね。そして僕たちはそれをあの世に運ぶのが仕事さ。」

 心臓が跳ねた。

 だってそれは、おれの予想とは少し違ったけれども、いや、予想以上におれの求めていた情報に近かったから。

 腕を組みながら立っていた竜のおっちゃんも、ぴくりと反応する。

 おれは祈るような気持ちで、本当に聞きたかったことを口にした。

 「死んだ双子を探してるんだ。そいつがちゃんとあの世に行ったか、確かめに来た。」

 少しだけ見開いた少年の目とおれの目が交差する。

 周りでは、星たちがお互いに当たったりするたびに きらきらという音を鳴らしている。

 不思議で、軽やかで、きれいな音だった。

 その音に溶け込ませるように、少年が囁いた。

 「いいよ、皆に聞くね。大丈夫、来たんなら絶対に分かる。」

 さっきまでの笑みとは違う、見せてくれたのは寂しげで優しい笑顔。

 星の音が響く世界で、少年の、河原をしゃりしゃりと歩く音が重なった。

 


 「ぼくの所には来ていないよ」

 「私も。ごめんね、その子は見てない。」

 「おれのところにも。……でも、ここには来てる。」

 その言葉に、またもや心臓がどくんと跳ねた。

 おれよりほんの少し背が高いかくらいのふっくらとした少年が、持っていた分厚い本をおれに向けて広げた。

 おれは奪いそうな勢いでその本に飛びついた。

 その皮で覆われた本はところどころ剥げかけているといえども、本なんて高級品、初めて触ったから、無意識にあまり力を入れることができず、ぎりぎりで奪い取らずに済んだ。

 ふくよかな少年は栄養が指先にまで行き渡っている。ふっくらと横に広がった指で、書かれていた文字を指差した。

 「ほら、ここにお前の双子の名前が書いてあるぞ。」

 おれはリコの名前なんて言っていないのに。そしておれは字が読めないはずなのに。

 そこには確かに、「リコ」という言葉が刻まれていた。

 見たことない形の字なのに、他の並んでいる名前たちも読める。

 ルイス、キヨシ、ハジャ……。

 中には不思議な響きの名前もあり、そこには名前しか書かれていないはずなのに、その文字には本人の生が詰まっていた。

 ルイスという男は金やうす茶の不思議な髪の色をした人たちと、竜の鱗を剥がす仕事をしていた。危険な仕事と小さな集落に根付く差別に心を削られていったが、時々帰れる村で待つ、最愛の恋人のおかげで幸せだった。

 けれども仕事の途中で自分は死に、恋人を置いて死んでしまった。その者の記憶は、金髪の女の子が、とろけるような笑顔で自分を見上げる、苦しいほどに甘い記憶で途切れている。

 「おっと、だめだよ人の生涯を盗み見ちゃ。」

 白昼夢のような映像に溶けかけていたおれの意識に、明瞭な声が滑り込んできた。

 「本来ならこれだって、あんまり見せちゃいけないものなんだからね。」

 そう言って、最初におれが話しかけた少年が横から手を滑らせ、ぱたむとその本を閉じた。

 一瞬で通り過ぎた、誰かの一生にほうけていたものの、すぐに我に返ってそいつらに聞く。

 「ど、どういうことなんだよ。ここに来たのに、あの世に行ってないって。」

 少年の眉間にしわが寄った。

 周りの空気が若干冷える。

 童顔の少年は相変わらず大人びた表情で、俯いて自分のあごに手を当て始めた。

 「本来ならそんなはずはないよ。魂があの世に行ってるなら、ちゃんと把握できてるはず。」

 息が浅くなる。

――何で、どうして死んでまでリコは。

 自分でも何が言いたいのか分からず、頭の中の言葉はそこで途切れたまま、繰り返される。

 「考えられるとすれば、」

 童顔の少年の顔がくもる。周りに居た舟乗りたちに、好ましくないどよめきが起きていた。

 「……言えよ。」

 遠慮がちにこっちを見る目、手に隠された口が独り言のようにつぶやいた。

 「あの舟に、気に入られたのかもしれない。」

 どよめきに、さらに悲痛そうな声が混じり始めた。

 あんなにきれいに感じた星の音すら、今やその音は軋んだ雑音にしか聞こえない。

 「問題があってこの仕事から降ろされた、漕ぎ手のいない無人の舟……。」

 

 「通称、〈風鈴の帆〉と呼ばれてる舟だ」

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