帆を持たない舟Ⅴ 「彼岸花」

 「はぅっぐ、う、ぅううぐう!」

 舌が、喉が、胃が、体が。

 夜の市場の郊外で、こんな声が聞こえたら不気味だろう。痛みがおれを引きちぎらんばかりに思い切り意識を引っ張ってくる。

 買った薬が、とうとうおれの体に流し込まれたのだ。もうほとんど溜まっていた金で、あの決意した時から、そんなに時間がかかることもなかった。

 この得体の知れない液体を拒絶している。拒んで拒んで、ひとかけらも吸収しまいとしている。

 だけれども、その銀色の液体はまるで刺すように細胞にしゅるしゅると入り込んでくる。

 熱い、痛い、寒い、苦しい、痛い痛い痛い!

 「ぎ、ぃいいい! がっ、は……!」

 「リク!」

 リコの悲鳴のような声で、ようやく自分が叫んでいたことに気がついた。

 それでも、何も考えれなくなって、熱い、喉が震えている? 痛い、そうだ、震えてるんじゃなくて、これはおれが叫んでるん――

 「……ぁぁぁあああ!」

 「り、リク、リク……っ!」

 訳の分からない、世界が振動する中で、おれは長い意識の混濁に入った。






 薬を飲んだ後、リクの体はいきなり電流が流れたかのように跳ねた。

 そのまま膝をついて、呻きながら咳き込んだかと思えば、そのまま人形のようにそこに倒れ込んでしまった。

 私は、伸ばしたところでどうにかできる訳ではないと分かっていたけれども。ただたまらずに、リクに向かって手を伸ばした。

 しかし、そこで私の腕は硬直した。

 リクの体はまるで神経が壊れたかのように、びくんびくんと全身を激しく跳ねさせていた。

 「ひ、いやっ……」

 見たことの無いその症状に思わず、私は声をもらしていた。

 どうにかしないとだめなのは分かっているのに。

 身近な人の「異常」がこんなに恐ろしいとは思わなかった。

 頭の中の片割れの姿が、粉々になっていく。目の前のその姿に打ち壊され、目を向けることすらもう、

 「リコの嬢ちゃん!」

 私の意識に、明確な声が割り込んできた。

 その衝撃で我に帰り、跳ねるように私は振り返る。

 馬に鱗が生えたかのような顔。大きな体。

 急いで駆け寄ってくるその姿。

 「竜の、おじさん……」

 人間と竜が融合しかかったような姿をするそのひとは、かつて私とリクにこの薬のことを教え、お店を紹介してくれた、あの竜のおじさんだった。

 私を傍に寄せるようにして、竜のおじさんはリクに駆け寄った。そのまま鱗に覆われた大きな手で、包み込むようにリクを抱きかかえた。

 「本当にやっちまうたァ。おい、坊主! 聞こえるか!? 起きろ、叫び続けてろ!」

 抱きかかえていない方の手を、竜のおじさんは即座に閃かせた。そして平手で力一杯、リクの顔を引っ叩く。

 「う、う。」

 リクの眉間にしわがより、ひきしぎった歯から呻き声がもれだした、かと思えばその途端に。

 「ああああああ!」

 噴射するような絶叫。

 その声がまた、私の恐怖に響いてきた。

 「な、何するの、お兄ちゃ……やめ、やめてよ!」

 「この薬は意識持ってかれちゃおしめェだ! こいつが叫ぼうが何だろうが、とにかくひたすら目ェ開けさせ続けろ!」

 また竜のおじさんはリクを引っ叩く。そして大きな声をかけながら揺さぶった。

 「おい聞こえるか、坊主……リク! お前親父ぶっ殺して、リコちゃんと幸せになるんだろ! 起きろリク、廃人になりたくなかったら目ェ開けろ!」

 うっすらと開いている、リクのうつろな目におじさんは訴える。

 「リク!!」






 水の匂い。

 天蓋のように空を覆う木の枝を、水に揺蕩う光が撫でる。

 葉擦れの音と共にやってきた涼やかな風。

 夜の市場を歩いている人は、もうほとんどいなかった。空は白み、薄青に染まりかけている。

 朝が来るのだ。

 夜の市場で迎える朝とは、どんなものだろう。どこか場にそぐわないことを考えようとしてしまうのは、もう頭が疲れきって、現実を直視するのも疲れたからなのだろうか。

 リクは、私の膝で静かな寝息を立てている。

 まだ眉間にしわをよせてはいるものの、峠は越えた。

 「さって、もう大丈夫だろ。二、三日熱は引かねェだろうが、それが引きゃア、あとは怪物並みのパワーが誕生ってこった。」

 両腕で力こぶを作るかのような仕草をして、龍のおじさんがにかっと、おそらく、笑う。

 へぇ、竜はこれが笑った顔にされてるんだ。

 覚えとこうなんて思いながらおじさんを見ていると、おじさんは体をほぐすように伸びをした。

 「おれは帰るかな。じゃー二人とも、達者でな。」

 そう言って竜のおじさんは、また笑っているらしい顔を見せ、そして立ち上がろうと腰を上げた。

 まだ熱いリクの体を抱え、立ち上がることはできなかった。

 「あ、ありがとう……。」

 座ったまま、急いでおじさんに感謝を告げた。

 竜のおじさんは、中腰のままこっちを見ている。

 蛇のような瞳孔がきゅるきゅると動き、瞳の中の月がすごい速さで満ち欠けを繰り返していた。

 「なっ、なんだよしおらしく。特におれァ、何をしたわけでもねェっつーか。」

 そう言って、竜のおじさんはぽりぽりと頭をかいていた。大げさで古典な仕草だなあ、なんて思ったら、肩の力が抜けてしまった。

 「ン……ごほん。まー、あれだ。おれ的にはそれを見れただけでも充分な謝礼ってやつだ。だからその、気にすんな。あー、でも、報告だけはしに来てくれよな。何か好きなモン、おごってやっから。」

 そう言って見せた竜なりの笑顔は、もう私にはちゃんと笑顔に見えた。

 竜のおじさんは数歩歩いて、ひらひらと手を振った。

 「じゃーリコちゃん、達者でな。……あと、さっきみたいに、いざという時に笑うといいぜ。男ってェのは、意外とそういうのに弱ェから。じゃーな。」

 それだけ言い残して、竜のおじさんは朝もやがかかりだした夜の市場の向こうへと消えていった。

 「笑う……?」

 私は今、笑ってたのだろうか。

 いや、それもそうだけど。それだけでそんなに効果があるのなら安いものだけれども、本当にそうなのか甚だ怪しい。

 まあ、やってもお金がかかる訳でもないし。今度気が向いたらやってみるのも悪くない。

 さて、これからどうしよう。

 私の膝の上で寝ているリクを見る。おぶれば移動はできるからそれに関しては心配ないけれども、問題は熱が引くまでの間、どこに身を隠すかということだ。

 とは言うもののもう目星はついていた。

 ここ、夜の市場だ。

 ここにさえいれば、あいつに見つかるようなことはない。今まで夜の間しかここにいなかったけれども、三日間、ここで過ごす。

 空はいよいよ東雲色に染まり出して、朝の空気が夜の市場を覆い始める。

 朝もやをかいくぐるように光のカーテンが差す。闇の中に浮かんでいる姿しか知らない夜の市場が、朝もやと荘厳な光に包まれるのだ。夜の市場での、美しい朝が明け――

 「……え……。」

 空から目を戻すと、そこはいつもの、家のそばに流れる小汚い川のほとりだった。

 あんなに視界に覆いかぶさってきていた朝もやは、これっぽっちも見当たらない。一瞬前まで見てた空を見ても、朝もやがあった跡すらなかった。あの金色と桃色が混ざり合ったような空も、今目の前に広がるのは灰色がかった青の空だ。その先で小さく瞬いている、今にも消え入りそうな星。

 さっきまで柔らかかった草が、足の下でちくちくと刺し、硬い草が太ももに食い込んでくる。

――戻された。

 元の世界に、戻された。

 夜が明けたから? どうやって、どうして? 夜の市場は夜にしか存在しない?

 そんなこと気にしている場合じゃない、と頭の中を無理やり切り替える。

 不味いのは、夜の市場から強制退場させられたことだ。

 まさかこんなことが起こるなんて思っていなかった。あそこ以外、他に身を隠す目星なんて付けていなかったのに。どこかないの。たった三日間でいい、身を隠す場所を、

 ざくっ。

 その、枯れ草を踏みしめる音に全身が総毛立った。

――それ以上来るな、この豚!

――まだ朝じゃない、どうしてこんな時間に。

――何で、何でこんな時に限って!

 様々な感情が一瞬で交差する。うなだれたままのリクを、ほんのわずかに抱き寄せる。

 もう一度枯れ草を踏みしめる音がしたかと思えば、後ろにいるあいつが、私の背中を思い切り蹴り飛ばした。

 ばき、と体の奥底から鳴った音は、きっと背中の骨のどれかだった。

 私はリクの上に覆いかぶさるようにして倒れた。リクは、何とか無事みたいだ。

 リクがうっすら目を開けた。

 「お、お、お、お前らぁ! ど、ど、どこほっつき、歩いてたぁ! ずっと、よ、呼んでた、た、た、ろうが!」

――いつもの癇癪だ。

 父親様が呼んでいたのに、すぐ来なかったから不届き者にお仕置きを始めるらしい。

 いつもと同じ、いつもと同じ。

 髪を掴まれ、引きずられながら。そう自分に言い聞かせた。

 今日の気分は私らしい。ぐったりとしたリクには目もくれず、私の三つ編みをぐちゃぐちゃに掴んでいる。

 そうして一人、私は家の中へと引きずられた。






 がっ、ばきっ。

――リコ、リコ!

 家の中から鈍い音が聞こえる。

 そうして時おり意味不明の、言葉というよりは獣が鳴くようなけたたましい怒鳴り声が聞こえる。

 そして食器が割れる音のような、か細く高く聞こえるリコの悲鳴。

 どうにかしないと。

 おれは思うだけで、何ひとつ体は動かない。

――んなわけないだろ! ほら、動くだろ、いけよ! この腑抜け、早く行こうとしろ、早く!

 心は焦っているのに、体はあまりのだるさで、まるで動きたくなかった。

――きっと動かせるはずなのに。だるいから動きたくないなんて、ふざけんなよ!

 全身が膿んだみたいに痛くて、ぐんなりと熱い。そして特にひどかった倦怠感。

 ようやく体は這いずり出す。でも、それだけのことでも体はおっくうだ、おっくうだと言っている。

――大げさなんだよ、這いずらなくても行けるだろ、早く歩いて進め、はやく、早くはやく!

 そうしている内にも、家の中からは何かを打ち据えるような音が絶えず響いている。音が鳴るたびに、心と体が縮み上がりそうになる。

 やっと体が動くのに慣れてきた頃。普段だったらここから玄関までなんてほんの数歩なのに。たった五歩先くらいにある玄関の扉は、はるか遠くに思えた。

 ばん。

 それなのにおれが行くのを待たずして、扉は勝手に開け放たれた。

 それに続いてざく、ざくと迫ってくる足音。

 自分からその場所に向かおうとしてたのに、いざあっちから来たら身が縮み上がるなんて。

 扉の開けたのは当然、親父だ。

 リコはどうなった。

 その言葉を体が出そうとするよりも早く、おれは髪を掴まれ、引きちぎられそうな強さで引きずられていった。

 ささくれだらけの床板に擦り付けられながら、家の中に入っていく。

――リコ!

 リコは床の上でうつ伏せになっている。痛みの中でひたすら、見えない心だけがもがき苦しんでいるように見えた。

 体の熱さも痛みも忘れて、首をひねって親父のことを睨みつけた。

 板の上を引きずられて、すねや足の甲にぱきぱきと床のささくれが刺さってくる。

 そして足の痛みが ふ、と楽になったと思えば、今度は頭と髪に痛みが走る。引っ張り上げられた。

 そして目の前にあったのは、縄。

 何故だかその瞬間、おれの心は静かになった。

 いつも通り、いつも通りだ。

 もう考えるのすら億劫になって、おれは大人しく首にその縄をかけられた。







――リクの熱が引きさえすれば、この日々は終わるんだから。

――がまんしろ、あと少しなんだから。

 殴られ、蹴られている最中、ずっとそんなことを考えていた。

 ふっとなぶられる気配がやんだかと思うと、あいつは外に出て今度はリクを連れてきた。

 どうするのかと思えば、いつものあの部屋に入って、リクの首に縄をかけた。

 刺すような悪寒が体中に走った。

 そうだ、この後は首吊りが待っているんだった。何で忘れていたのだろう。頭の中が真っ白になる。

――いつも通り、いつも通りだ。

 呪文のように言葉を続ける。

 頭の中で、耳の奥で、私の首に食い込んでくる縄の音がする。足がつくぎりぎりの高さで吊られて。限界を超えた爪先がきしむ音がする。

 大丈夫、我慢しろ、これさえ我慢すれば、あとは。

 よみがえる、時間とともに千切れそうになっていく首、痛くなる頭の芯、とめどなく嘔吐えずく喉。

 『助けて、助けて。いつまで、足の指がもう、限界。首が絞まる、いやだ、怖い。がんばれ、足の指が折れても良いから、耐えて。足が使い物にならなくなっても、今だけ』

 生殺しの恐怖の中。必死に叫んだ心の声が繰り返される。

 リクを吊るしたあいつが、こっちに向かって歩いてくる。

――今だけ?

 床に顔を付けているので、今は床とあいつの足しか見えない。しかし顔を上に向ければ、あいつが私を見下ろしてきている。見おろす、見くだす?

 「あぁ……」

 感嘆の声が出る。何で気づかなかったんだろう。


 「やっていいんだ。」


 言葉がこぼれた。少し恥ずかしくて、ついついはにかんだ。

 今、とっても心が軽いの。でも同時に、こんなことに今まで気付かなかったなんて。って今さらすぎて恥ずかしいんだ。

 やり返していいんだ。

 晴らせばいい、屈辱を。蹂躙してしまえばいい。今ここでこいつを。

 今までどこか心の中で、無意識にこいつにされる仕打ちを我慢しないとなんて思ってた。

 でも何で気づかなかったんだろう。そうしないといけない決まりなんてないんだって。

 萎えた足腰に鞭打って、私はその場から立ち上がる。

 お父さん。

 死んで。

 私は父親が飲み散らかしたボトルのひとつを拾い、壁に向かって叩きつけた。

 手慣れた動作。一発でボトルの先に、尖ったヒビが完成する。

 スキップでもしてしまいそうな心地で、私は父親に駆け寄った。







――リコ……?

 薬の苦しみだか首吊りの苦しみだか分からない、混濁した世界でガラスの割れる音が響いた。

 そして立て続けに聞こえた、怒鳴り声や大きな音。

 開け放したままのドアから、ぴちゃっ、と血が飛んできた。

 その先を見ると、血を流していたのは、リコだ。

 頭から血が流れて、髪にはきらきらしたものが付いている。あれはもしかして、ガラスの破片だろうか。

 だって親父は手に割れたビンを持っている。まさか、あれで殴ったのか?

 リコはその場に崩れ落ちた。

 親父は足をあのビンで刺されたらしく、血の流れる足を押さえ毒づいていた。

 視界がぼやける。またもやどんどん、まぶたが降りてくる。

――おれ、本当に生き延びれんだろうか。

 気を失いそうになるたび、縄が首に食い込む。

 でも何だか頭がぼうっとして、何で足を突っ張って堪えてんだろうって気になってくる。

 視界の先では、頭から血を流したリコがまた立ち上がろうとしていた。あんなに血を流していたから、てっきりもう気絶したかと思ったのに。

 ここさえ我慢すればいいのに。

 リコに対しておれはそう思った。

 でも、果たして本当にそうなんだろうか?

 よく考えたら、おれの調子が戻るなんて保証はない。このまま毒みたいな薬で弱って死んでいくことだって考えられるんだ。そもそもあの薬、死神の涙って何だよ。あれ、何でおれ、こんなことに今更気がつくんだろう。

 もしかして、おれ、死ぬんじゃないだろうか。

 リコの頭の血だってかなり流れている。あのままだったら、もしかしたら血がなくなって死ぬかもしれない。

 何が我慢だ。どうして、今日生き延びれるなんて当たり前のように思ってたんだろう。

 リコがまたビンをひとつ割って、親父に飛びかかった。

 親父は難なくリコを殴り飛ばし、リコは床に叩きつけられる。傷んだ床が少しきしむ。

 突き出された親父の拳からは、血が流れていた。リコの持っていたビンで手を切ったらしい。でも、リコの耳からはさらに血が出ていた。

 ビンを盾にして、盾ごと押されて耳にぶつかったんだ。

 床に倒れていたリコが体をひっくり返す。左腕が変に曲がっている。折れたんだ。

 でもリコは、ものすごい目で睨みながらまた立ち上がった。今度は砕け落ちた大きな破片を拾って、親父の懐に突っ込む。

 破片が親父の腹を裂いた。でもきっとあのほとんどが脂肪だ。親父にしてみれば、痛いだけだ。

 逆に親父が、さっきリコから取り上げたビンをリコの体に、

 「り、こ……。」

 深々と、突き刺した。

 リコが膝をつく。うつ伏せに倒れて、駄目だ、そっちに倒れちゃ。床に押されて、さらにビンは深々と突き刺さったのだ。背中から、きらめくガラスの刃が赤くなって突き出た。

 まさか。

 まさかあれは、手のつけようがないんじゃ。

 リコはまた、立った。

 意外と大丈夫だったのか、少し安心した。しかし明らかに変だ。絶対に立てるような傷じゃない。

 なんだか、嫌な予感がした。

 親父が殴り飛ばす。起き上がる。よろよろと向かう。また殴る。起き上がる。殴る。起き上がる。

 「も……やめ、」

 喉が締め付けられていて声が出ない。親父が息切れしてきている。でもまだリコは立ち上がる。殴っても殴っても、明らかな致命傷を負わせても立ち上がる。

 親父が後ろによろけて、一歩後ずさった。

 血まみれの死体のような少女が、まだよろよろと近づいてくる。

 「く、く、く、くるんじゃねえ! くそ、くそ!」

 親父が木の椅子をつかんで、思い切りリコの頭を叩き割った。

 頭には、木の片が刺さってる。

 体中が凍りついた。

 リコは、動かない。

 そう思った瞬間、また立ち上がった。

――やめろリコ、もうやめろ!

 変だ、変だ、怖い、恐ろしい。親父はとうとう、尻餅をついた。四つん這いになって、出口に向かおうとする。だかだかと、大きな音を立ててみっともなく這い進む。床についた手がバキッという音を立てて消え、そのままそこに親父の巨体が吸い込まれていく。あれはさっきリコが殴り飛ばされた場所だ。そこに親父が手をついて、きしみ、床が抜けた。

 親父はまた悪態をつきながら、その穴から這い出ようと手をついた。穴の周りでは、折れた板が突き出ていた。

 後ろにはリコが迫ってきている。

 親父はおぼつかない足で床に足をかけ、そこに体重をかける。そこでまたばきっという音がしたかと思えば、親父の体はまた穴の中へと沈んでいった。案の定また穴から手が伸び、床に手が掛けられた。這い上がってきて、ただ今度は腹が木の片に串刺しになっている。

――え。

 腹が、木の片に串刺しになっている。

 まさか、まさかまさか。

 親父の腹の辺りは、どす黒い赤に染まっている。

 やったんだろうか。あの親父が消える時が来るのか。

 親父が腹を見る、絶叫する。大の大人が涙と鼻水を流して取り乱している。いてぇ、いてぇとか細い声を出して、震える体で横たわっていた。親父の体から生まれた血だまりが、床にどんどん広がっていく。

 ぴちゃん、ぴちゃん。

 はっと我に帰った。そうだ、リコ。

 その血だまりで、惨殺死体としか思えない少女が歩いている。

 親父の唇がか細く震える。歯が鳴り、詰まった鼻が息を立てる音がする。

 少女は親父の目の前に立つ。親父の、鼻の鳴る音が止まる。

 少女は割れたビンを、男の喉に深々と突き刺した。声とも取れないような音を親父が吐く。そしてその突き刺された破片が、喉から抜き取られる。すると、信じられないくらいの勢いで、親父の首から血が吹き出た。

 少女はそのまま何も言わず、よろよろと。噴水のような血を背に男から離れていった。

 茫然と、ただ目の前で起こっていることを追っていたおれの頭が、我に帰る。そしてその途端に感じた、体の奥底からの戦慄。

 「リ、コ……!」

 なんであんなに頑張ったんだ。こんな傷、もう助からな、いや、まだ夜の市場なら治す方法だってあるかも。ああでもまだ夜じゃないじゃない。何とかしないと、何とかしないと!

 全く場違いなのに、おれは涙をぼろぼろとこぼし出した。リコは親父を殺したんだ。でもリコがこうなっちゃ、何の意味があるんだよ。

 リコは幽鬼のように、ゆらゆらとこっちに近づいてきている。

 血と肉の中で見えたその顔は、とても優しく微笑んでいる。

 「待ってねリク、今、縄を……。」

 そのまま、力なくそこで倒れた。


 リコは、死んだ。

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