帆を持たない舟Ⅳ「宵待草」

 〈水子の怨念〉以外にも、取り扱ったものは色々だった。

 あれも売れるかも、これも売れるかもと調子付いてきたリコはまさに水を得た魚で、どこからかどんどんと商品を見繕ってくる。

 水子の怨念以外で、最初にリコが持ってきたのは『夜のとばり』。

 夜のとばりには、名前の方は聞いたことが無かったけれども、本体の方には昔から馴染みのようなものがあった。

 あれはおれたちがうんと小さかった頃、リコが夕暮れ空を指差して唐突に聞いてきたのだ。

 「ねえお兄ちゃん。この時間になったら下りてくる、あの黒いカーテンみたいなの、何だと思う?」

 おれはその時よく分からなくて、てっきり空が暗くなってきたことをカーテンにでも例えたんだと思っていた。

 だからその時は、「夜が近づいてるからじゃないの」「夜が近づくと、カーテンがおりるの?」「暗くなるからな」と、噛み合わない会話を繰り返していた。

 リコはその度に「そうじゃなくって」と怒っていたけれども、やがてそれは自分にしか見えないものだと悟ったらしく、いつの間にかリコは質問する側から教える側になっていた。

 「お兄ちゃん、ほら。今日は暗い幕が下りてるよ。」

 リコはそれを『暗い幕』と表現するようになった。ちなみにそれが比喩表現ではなかったことを知ったのも、実はここ最近の話だ。

 リコ曰く、暗い幕はいつも下りてくるのではなく、きれいな夕日の時や晴れが続く日によく下りてくるという話らしい。

 赤い空に被さるように、天のどこからかすすーっと薄衣が下りてくる。それは空いっぱいに広がっているらしく、例えるなら虹だそうだ。間違いなくそこに在って見えるけれども、空のどこに在るという風に定まっているわけではない物。

 逃げ水とか、蜃気楼で例えてもいいかも。リコはそんなことを言っていた。

 その暗い幕改め、夜のとばりが被さっている場所の空は、もう夜の世界だそうだ。

――昔の人の表現って、例えかと思ったら以外と事実からできた表現だったりするんだね。最近、それが分かってきたんだ。

 それを見えないおれたち、分かってないおれたちが使い古して、その言葉は事実から単なる表現に歪め、落としたってことなんだろうか。

 いつもだったらリコの言う、よく分からない話で終わった会話。だけれども、夜の市場という舞台があれば話は別だった。

 そこでは世界が逆転して、今度は分からないおれの方が世界にとっては異物だ。

 夜の市場に着いた時、驚いた。

 足を踏み入れた途端、さっきまで何も持っていなかったリコの腕に、影を剥ぎ取ったような薄衣が掛かっていたのだ。

 黒い布と言うには少し違う、その布が掛かっている箇所だけ、黒くではなく暗くなっている感覚。透き通ったその薄衣は、まさしく暗い幕、〈夜のとばり〉だった。

 そして意外にも、布が現れたことを驚いたのはリコも同じだった。おれは、何でそっちが驚いてるんだよと首を傾げた。リコの答えは、「こういう物は形があって無いようなものなの。一体どうして……不思議……。」だった。

 リコたちからすれば、ずっとこんな光景を見ていたから何も変わらないことで、「え? リクも見えるの?」みたいな反応かと思っていたから驚いた。それでもどっちにしろ、こっちにすれば分らないことが増えただけだけれども。

 そういう風に見えてたんじゃ無かったのか、あるようで無いって、じゃあどんな風に見えてたんだよ。って気になったけれど、リコに聞いても「うまく説明できない」と言われてお終いなことは知っていた。

 おれが『何を言っているのか分からなかった物』は夜の市場では当たり前であり、御用達であり。リコは自分の世界を見つけたと言わんばかりに、生き生きと輝きだすのだ。

 事実、夜のとばりはよく売れた。

 「あっ。これ、もしかして、夕方頃に掛かるあれじゃないの?」「すごい! お嬢ちゃん、夜のとばりを取れるんだね。あたしぐらいの霊能力じゃあ、そんなことできないよ。」

 その上こうやって、当たり前のことのように話が始まってくんだ。

 はいはい、おれは夜のとばりなんて見えなかったし、その取れるとか取れないとかだって。何の話をしているのかどうせさっぱりですよ。

 役立たずは雑草でもちぎってようかと、足元の草をぶちぶち引き抜く。

 何本か引き抜いているうち、見れば、ぶつぶつといっぺんに千切れそうなうってつけの草があった。

 草というか、花なのだろうか。生えているそれは赤くて細くて、まるで血の管みたいだ。

 がしっと掴んで、その血管をぶつぶつと引き抜く。手にその残骸が散らばった。

 かすかにさざめく水面みなもにそれを流し、どことも知れない川の先へ吸い込まれていくその草のような花を見送る。

 川岸に生える赤い花は、まるで血だらけの手みたいだった。川の底からその手が無数に伸びていて、風が吹くたびに揺れてうごめく。手招きをする。

 とん。

 肩をつつかれて、おれの意識はこっちに戻ってきた。振り返ると、この店を背に去っていくお客たちと、リコの仏頂面が間近に見えた。

 「だめ。何でか分からないけど、私が売り子だとあんまり売れない。たくさん売れた水子の怨念だって、ほとんどお客さん、リクと話してたじゃない。ちょっと私の代わりに売り子やってみてよ。分らないこと聞かれたら、教えるから。」

 適材適所。リコの提案は、そんな感じだった。

 確かにリコはお客に何か話しかけられても「はぁ」とか「そうですか」としか言わない。本当に本当に欲しいらしい人以外、買う人も出ない。

 水子の怨念の時も、おれがあること無いことそれらしいこと適当に言ってたら、他のお客は面白がって買っていった。あの愛人にされたお姉さんみたいに、切なる思いで買っていくような人じゃなくても……。

 そうして、おれたちは収まるところに収まった。愛想は悪いが、商品を用意できるリコが仕入れ係。その辺のことは全く分からないが、口が上手いおれが売り子の役目。

 そうしておれたちは、それぞれの長所を活かし合い、おかげで予想の何倍も早く売り上げが貯まっていった。






 「リコ、そろそろ商品もたまってきたんじゃねぇの。今日とか、夜の市場行かねーのかよ。」

 赤茶色の瓦礫の上をがりがり、がりがりと歩きながら、前を歩くリコに尋ねる。

 ここ最近「三つ編み」という、髪の毛をつなみたいにしてまとめた髪型をしているリコが振り返り、そのはずみで三つ編みが揺れた。

 相変わらず変な髪型だなあ。と思いながら、徐々に自分と分化していった自分の片割れを見つめる。

 片割れは相変わらずの無表情のまま、呆れとも嘲笑とも取れるため息をついた。

 「リク、またそれ? 一昨日も聞いてきたじゃない、夜の市場はまだかーって。そんなにあそこが気に入ったの? 身なりだって、最近ちょっと小綺麗にしだしたし。」

 「なっ、おっ、お前に言われたくねぇよ! お前だって最近ちょっと色気づいてきやがって、そんな媚び売るような格好で!」

 「は、何? 身だしなみ整えた方がお客がとっつきやすいって分かったからあそこに行く前は普通の格好してるだけでしょ? それが女の子の格好だからってだけだし。そもそも周りに媚び売り出したのはむしろそっちじゃない。腰低くして、へらへら笑って接客してるのはどこのどいつよ。」

 「うるへーー!」

 その後はリコとつかみ合いの喧嘩をして、結局は、今晩は夜の市場に行くのかどうかの話も流れた。

 さらさら、さらさらと、足首が浸かる程度の水が流れる。夜の市場と違って、川の周りの植物なんて枯れ草と藻くらいしか見つからない。あそこのふかふかした青い草たちと違って、ここの草は固いし、色褪せてるし、花も無い。

 家の近くの小川で、おれは喧嘩の傷を冷やしていた。隣でリコも、同じようにして傷を冷やしている。

 夕焼け色の水面を見ると、おれたちの顔が並んで映っていた。

 ほんの少し前まで、上から下まで全てが同じだったのに。今見た水面に映るおれたちは、確かに双子から分列しつつあった。

 いつも映っていたおれたちは、切られていない黒いぼさぼさの髪、汚れきった体、ぼろ布みたいな服という姿でしか無かった。そもそもそれ以外選択肢が無かったし、知らなかった。

 でも少しずつそれも変わっていった。

 おれは髪をばっさり切って短くしたし、リコは髪をまとめるようになった。さらにリコは夜の市場で試供品を試した際に、その効果で髪が銅貨みたいな赤茶色に変わってしまい、見た目にかなりの変化が付いた。

 正直言って糞親父のことがあるから、あまり普段からの見た目が変わるようなことはおれたちとしてもあってほしく無かったけれども、その商品を試せば好きな食べ物を一つ買ってくれるというので引き受けざるを得なかった。

 もしかしたらあの時食べた肉は人肉だったかもしれないが、牛や豚を食べて祟られないんだから、人だって食べても祟られない。

 見た目が変わるのが嫌なのは、糞親父をあまり刺激したくないからだ。

 あいつは常に理不尽だから、見た目が変わることも暴力を振るう口実の一つだ。あいつはおれたちの何かが変わることを気にくわない。身長が伸びるのも、新しい何かをするのも。おれたちだけ、何か良い方向に変わるかもしれないことを恐れている。

 だから今も、普段は今までと同じようなぼろ布を身に付けているし、用意したちゃんとした服を着るのは夜の市場に行く時だけだ。

 服は適当なお古を夜の市場の連中からもらえたし、曰く付きの服ならかなり安く買えた。

 「……今日はどこで寝ようか」

 川に手を浸したままのリコが、陽の落ちかけた空を見上げながらぽつりとつぶやいた。

 工場からの汚水が垂れ流されているらしいこの川には、死んだ虫や枯れ草が浮いている。

 「あの糞に見つからないところだな。っても、この前のとこは離れすぎてて、あいつの呼ぶ声に気付かなかった。近過ぎると見つかるし……。そうだ、家の近くに穴でも掘って、」

 「く、く、クソのくせに、に、二匹そろって悪巧み、か?」

 おれたちの世界をその声が引き裂く。

 ろれつの回らない、つっかえつっかえな喋り方。

 耳になじんだ、その、体が拒絶反応を起こすような声。

――あいつだ。

 即座に体の向きを変え、同時に後ろへ向き直った。夜の市場に浮かれていて、まるで感覚を鈍らせていた。いつもだったら家の中の足音どころか、椅子の上で動いた気配すら分かるのに。

 でももう遅い。あいつは起きて、呼んでもいないのに視界にいるおれたちを見つけてしまった。酒と麻薬に魂を売った、おれたちの父親が。

 「ふ、ふ、ふゆかいだから、おれの前にあらわれるな、っていつ、も、言ってるじゃねえか。おまえらのおもりがあるから、お、おれは幹部に上がれねえんだ。顔だって、見たくねえ。」

――その子どものおかげで、きったねぇゴロツキ共に媚び売れてんのはどこのどいつだよ!

 抜け落ちた歯の隙間からは、腐ったような息が漏れている。

 薬のせいでろれつが回らない舌は、どもりながら言葉を続ける。

 「お、おま、おまえら、最近あやしいぞ。ひそひそ様子がおかしいし、何より、にに肉付きが良くなってやが、る。」

――!

 リコの胸ぐらを、毛むくじゃらででかい腕が掴みあげた。

 「おしえろ! だ、誰かが、お前らを、せ、せ、世話してんだろ! おれに今まで生かしてもらってた、く、く、くせに、裏切る気か!」

 万事休すという顔をしていたリコが、糞親父の見当違いな内容の恫喝を聞いて、ふっといつもの無表情に戻った。

 「なんか言えよ! おぅ、おい!」

 「はっ……。」

 ため息のような、嘲笑のような息を吐き捨てる。

 「裏切るじゃなくて、捨てるって言った方が合ってると思うけど」

 そのまま、あの刺すような目で一瞥する。

 「誰かにお世話してもらえないと生きていけません、見捨てないでくださいって素直に言ったら。」

 糞親父の分厚い手のひらが、リコの横っ面を思い切りはっ倒した。

 リコは吹っ飛ばされて、二、三度地面に跳ねたかと思えば、萎びた枯れ草に ばっさとその細い体を受け止められた。

 「リコ!」

 リコの転がる先を見届けてから、糞親父に体ごと向き直る。

 「そのリコって、なな名前も! ど、どこで、付けてき、やがった!」

 がすっ。

 音が聞こえるより、体中に衝撃が走る方が先だった。

 蹴飛ばされたと分かるより、地面に体が叩きつけられたと分かる感覚の方が先だ。

 そして最後にきたのは、痛みだった。

 「ぐっ……う……!」

 前髪の隙間から見える微かな視界の先では、糞親父が宙に向かって吼えている。

 あいつは、狂いきった、生きているだけで罪になるような糞だ。

 なのに、その糞に一発やられただけで体が動かなくなるおれはなんなんだ。

 おれたちはクズでも、こんな腐った奴よりは、はるかにマシなはずだ。

 だけどそんな糞に力じゃこれっぽっちも敵わない。そんなおれたちはこいつ以下のクズなのか?

 子供だから、大人に力では敵わないから。

 そんな理由で、おれたちはクズ同然に成り下がらなきゃならないのか?

 首に縄がかけられる。こいつのいつもの「仕置き」だ。

 先に吊られていたらしいリコが、苦しそうな声を漏らしているのが聞こえてくる。

 そしておれも、手を離されて、ぐんっと首とつま先に圧力がかかる。

 全体重が首にかかって折れそうに痛い。首に食い込む縄、吐きそうだ、気持ち悪い。踏ん張る爪先はもう痺れかけている。

 足がつくぎりぎりで吊るされるこの仕置き。ついこの前もされたばかりなはずなのに、慣れたことのはずだったのに。

 泣いてせがんで、「ごめんなさい、許してください」と請いたいだなんて。

 夜の市場に出会って、まるで今までの日々が遠い世界のことみたいに感じられたんだ。

 そして夜の市場が目の前に現れてから、おれたちの全てが変わった。

 かのように、思えただけだった。

 何も変わってないじゃないか、どうしてこいつを殺せる手段なのに、その薬を飲むのをためらったりなんかしたんだ。決まってる、夜の市場に出会って、おれの頭の中からあの糞が薄れていっていたからだ。おれたちが何をされたか、どんなに憎い相手か、それを忘れるなんて。相変わらず、自分の馬鹿さには反吐がでる。

 こいつを殺さないと、おれたちは何も変わらないんだ。

 殺す。

 殺す!!!

 「ころし、てやる……!」

 部屋から出て行こうとする背中に向かって、細い息にしかなっていない決意を投げつけた。

 その投げたものが親父にぶつからなかろうが、どうでもいい。

 糞親父が、いや、畜生に言葉や意思が伝わるかどうかなんて、そんな所を追求しても意味が無い。

 おれたちにとっての意味ってやつは、こいつが死ぬかどうかだ。






 でもこの時は気付きませんでしたけど。思い返せばあの人、最期に父親らしいことしてくれたのかもしれませんねー。

 夢を叶えるための一歩を、なかなか踏み出せなかった息子。その背中を押してくれるなんて、いやいや父親らしいじゃないですか!


 例えそれが自分への殺意でも。






 そしてそこから少しして。

 おれはとうとう薬を飲んだ。

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