第二章 帆を持たない舟の章

帆を持たない舟II 「金魚草」

 赤茶けたレンガが敷き詰められた、いつも歩く貧民街の路地裏。そこで私は下だけを見ながら、ひたすら街の隅から隅まで歩き続ける。

 私たちにとっての心の救いは、野菜の皮やカラスの食べ残し。私はそれを熱心に探すのが、毎日の日課だった。

 しかしそうしている間もついふっと、頭にあの真っ赤につやめくスイカがよぎってしまう。あんなもの、食べるんじゃなかった。

 恨めしい。

 もう二度と食べられないなら、例え一時は喜べても私を取り巻く現実が変わりないのなら。より一層、これまでの何も変わらない日々が辛くなるだけなのに。

 足元のレンガや、むき出しになった土に、雨粒があたってはぱたぱたと音を立てている。透明な雫が小さく小さく跳ねていた。

 そうしていると目の前に、何か動く物が落ちていることに気がついた。

 それは私が近づくと、みゃあみゃあ鳴き、すがるような声を振り絞り始めた。

 まるで泣いているような鳴き声をあげる「それ」は、頭の片方が潰れている。そこはもう大分前にできた傷だろうに、ウジにたかられて、今でもそこは赤く生々しい傷跡のままだ。

 小さな子猫。親猫は死んだか、見捨てたか。絶望的な状況で、子猫はなんとか生きている。

 小さくて、泣いている姿がとても可哀想で。

 どうしても放っておくことができなかった。






 「……ただいま、リク。」

 「リコ。おかえり。」

 私たちはあの日以降、リクとリコになった。

 あのスイカの主催者さんは、名前の無い私たちを見るに見かねて、お揃いの名前をつけてくれたのだ。

 由来はよく分からないけど、リコ、という名前はまるで楽器の可愛い音みたいだからとても気に入っている。

 「リコ。どうした、それ……」

 あいつを起こさないようにと、私たちの声はいつも息を殺すようなかすかな音。こんな雨の日は、雨粒の音にかき消されて私たちの声は消え入ってしまう。

 だからそこに紛れてしまったからと、聞こえないふりをしたかった。けれど話の内容的にもそうはいかなくて。

 「……路地裏で、死にかけてる子猫がいたの。」

 リクは私の足についていた、取り忘れたらしい赤い塊を見ていた。

 「ウジにたかられて苦しんでて……だから、助けてあげたかった。可哀想で、放っておけなかったの……。」

 私の足にまで飛び散っていたらしいあの子の脳みそ。私は指で払い、それは部屋の隅の方へと飛んでいった。

 「……そっか、良かったな、その子猫。」

 そのまま二人でだんまりとした。

 隔てられた木の壁を通ってきたから、くぐもってしまった雨の音。

 「憎いから人を殺すって、どういう感覚なんだろう。」

 どちらともなく、恐らく、今お互いが同じように考えていただろう言葉を口に出す。

 「リコは、殺したい? あいつのこと……。」

 「……分からない。リクは?」

 「わからない」

 「…………。」

 また、訪れた沈黙。

 「楽しいって感じると思う?」

 憎い相手を殺せたら。

 「それが怖い。やめられなくなりそうで。その快感を知っちゃったら、きっと私はやめられなくなる。クズは殺しちゃえばいいって思うようになっちゃう。私は、今までそういう理由で生き物を殺したことがないから。

 リンチされて、死にきれなかった下っ端も、あの子猫もみんな、すごく苦しんでて。可哀想だから、だからそうしてあげただけだもの。

 でも、それでもね、いつか逃げるなら。あいつが生きてる限りどこに行ってもあいつが来るんじゃないかって怯えることを考えたら。やらなきゃいけないってことは分かる。

 でも私、一人だけなら殺してもいいよね、で済ませられる自信がない。」

 二人で家の物かげにかたまって、向き合って座っている。お互いがお互いの足元をただ、じっと見ている。

 「じゃあ、おれが殺すよ。リコは手伝ってくれるだけで良い。」

 雨の音を押しのける声でリクは言った。

 私の体に、びりっという刺激が通る。

 顔を上げると、リクはまっすぐこっちを見ていた。

 リクの真に迫ったその様子に、ふたたび全身の血に電気が通ったかのようなしびれを感じた。その電気の正体はきっと、期待。本当にそれが現実になるのだとしたら。この世界が終わるのだとすれば。私たちの世界の全てが、色を変える。

 リクは慈愛に満ちた、とても優しい顔で私を見つめてきてくれている。

 片割れに手を汚させて、だというのに自分は甘い蜜を吸う卑怯な位置にとどまるつもりなのか。そう思うと反吐が出た。なのに同時に、リクがそう申し出てくれてとても安堵した。

 私はリクに甘えて。こくりと首を下げ、その言葉を受け入れさせてもらった。






 殺すといったら、まず計画を練らなくてはならない。

 その後に待ち構える未来と、無限に広がる実行手段を練ることにわくわくして、夢中になって夜の市場で話し合い続けた。

 一番最初に出たのが、あいつの寝込みを襲うこと。そろそろと忍び寄って、ナイフで心臓をひと刺しにしてしまう。

 しかし万が一のことも考えて、起きてしまった場合の対策も練った方がいい。そう夜の市場の人に言われた。ちなみにその人は、私たちとは何の関係もない人。通りすがりに私たちの話を聞いて、面白がってアドバイスしてきた、そんな感じ。子ども扱いというか、素人扱いの態度にまあむかついたけど、子どもで、慣れないことをするわけだし。そこで苛つくのもお門違いな気がして、どうも、と言うだけにした。とっとと話を終わらせたかったし。

 そうなると、大の大人にかなう力が必要になる。そんなことを話していたら、また今度は、獣のお面をかぶった別の人から話しかけられた。そんな面倒なことをしなくたって、ここで人を殺せる道具でも買ったらいいじゃないか。

 たしかに、そうだった。でもその後探してみて、そのような道具はかなり高価だったり代償が大きいものがほとんどだったりで、あまり手頃で良さそうなものはなかった。

 なかなか良いのが無いね、なんて言いながら。魂のような灯火が揺らぐ、水辺の市場をゆっくりと歩いていた。水の上には、たくさんの商品を積んだ船がゆったり、ゆったり浮かんでいる。

 そのうちのひとつの船から、見たことの無い輝きをしたたくさんの美しい蝶々が、夜の空へと舞い上がっていった。うすい羽が夜空に透き通り、朝焼け、夕焼け、月の色に輝く蝶の羽が星を透かす。

 しかしその下に浮かぶ当の店の人は、かなり取り乱している。恐らくあれはパフォーマンスではなく、ただの不注意だろう。あーあ、なんて思って見ていると、その人が慌てた様子で船の上で立ち上がった。その瞬間船が大きく揺れて、船は大きな音と水しぶきをたててひっくり返った。たくさんの商品が、恐らくだけど水の底へと沈んでいっている。私は小さな船でいきなり立ち上がるとああなるんだな、と心に留めて、また前を見て歩き出した。

 注意しているからというのもあるだろうけれど、この市場を歩いていると、あることをよく耳にすることが分かってきた。

 それは、道行く人の殺しの会話。

 何やらものすごく気負っている人、暗い顔で話している人、嬉しそうに高揚している人、誇らしげにいくつもの殺しを語る人、何でもないことのように話している人。

 それを見て、さっきの通りすがりの人たちを思い出した。

 「誰かに教えてもらおう」

 私たちは同時にそう言っていた。

 





 「簡単だ、人外の力を手に入れりゃアいい。」

 じんがい?

 「おれもそのクチだ。こんなんでも、元は人間だったンだぜ。」

 そのひとは、琥珀の煙管きせるから手を離して、もう片方の鱗に覆われた腕をぽんぽん、と叩いた。

 「そうかもしれねえけど、そんな姿になりたくねぇな」

 リクが吐き捨てるように呟いた。

 彼は片側の口角だけを不器用に吊り上げて見せて、その喉の奥からクッと笑い声を漏らした。

 「本当に失礼なガキだな。これはいくつか使った、体を強くする薬のうちのひとつがおれの体に定着しなくて、死にかけたからこうなったモンだ。それをどうにかするために異形のモンの心臓を食ってなァ。異形のヤツらは生命力が強いから、その恩恵に預かろうとしたっつーか。したら命は取り留めたものの、体がどんどん化け物に変わってな。侵食されたってこった。それがおれの体の種明かしだよ。だがこれはこれで便利だし、悪くねェぞ。」

 そう言って、そのひとは口をすぼめさせ、細い火を吐いた。

 そのひとの口は馬のように突き出ていて、身体中が薄い鱗で覆われている。

 恐らくその人外の力とは、竜。

 その、人とも言えない、竜とも言えない境界線で彼の生きた人生とはどんな日々だったのだろうか。

 「結局あなたの言う人外の力ってその竜になった体の話? それとも、その前に使ったっていう薬の話?」

 私の質問を受けた竜が、煙管を吸う手を止めてこっちを見た。爬虫類のように縦に裂けた瞳孔。なのに白目だけはそのまま残ってて、人間でもなく竜でもない、境目の体って変なの。

 「お嬢ちゃん、賢い子なんだなァ。そうそう。竜になった後も確かにそうだけど、おれが最初に言ってた人外の力ってェのはその薬の方だ。わりぃわりぃ。」

 今のどこが賢かったのかって聞きたかったけど、まあそれは今いいか。

 「心臓とか血とか、そのままのモンを体に入れっと、定着さえすりゃア効果もすごい。まあしなきゃこうなったり、逆に体が不自由になったり、最悪死ぬな。だがそれに調合やらまじないやらで手をかけて、それに比べて格段に安全にしたのが薬ってヤツだ。まァ、店は選ばねェとだけどな。」

 「……じゃあそれを使えばいいだけじゃねぇか。」

 そのひとの縦に裂けた瞳孔が、きゅるきゅると動く。細くなったり太くなったりを繰り返して、まるで新月と満月になれないお月さまみたい。

 「あァ。でも坊主、よーく覚えとけ。力を手に入れちまったら、もうカタギには戻れねぇ。」

 「……どういうことだよ。」

 カタギ。って、確かあの糞親父が、自分たち以外のことを指して言ってる人たちのことだよね。

 「力がありゃ、欲も出る。力がありゃ、世界が変わる。」

 竜はまるで酔っ払ったかのように、抑揚のついた口調で話し出した。口から煙管の煙を吐き出し、目を細めている竜の姿は、まるで太古の話すらしだしそうだ。

 「おれは昔な、国一番の戦士になりたかったんだ。ガキみてェな夢だけどな、でも本気だった。だからだろうなァ……夜の市場に、手を出したのは。力が欲しかったおれは、人外の力に頼ったんだ。圧倒的な腕力に動体視力。おれはみるみるうちに評価されて、そのまんま、まんまと国一番の戦士になったんだよ。

 だけどなーんでだろうなぁ……。訓練とかのさ。辛かったけど、実力がつくことを実感できる嬉しさとか、そういうのみんな持ってかれちまったんだよ。考えないようにしてンのに、心のどこかで思うんだよ。『おれの努力と成長なんてもん、薬の効果の前じゃ無いも同然なんだ』……ってな。

 ああいうの、何もかも虚しくなっちまったって言うんだろな。

 おれは剣や弓や体術……本当に好きだったんだ。だからこそ強くなりてェし、認められもしたかった。だから日の目を見ちゃいけねェ売り物に手を出した。

 何もかも持ってかれちまったんだ。周りから見りゃバカみてェに映るかもしんないおれの夢が。強くなりたいってのはおれの人生の全てだった。おれにとっちゃこの世の何よりも、大切なモンだ。でも、その『強くなりたい』ってのはな、強さもそうだがそれだけじゃなかったんだ。そのための訓練とか負けた悔しさや勝てた嬉しさとか、それがあってこその、好きだったんだよ。

 ……バカだよな。戻れなくなっちまってやっと気付くんだよ、おれたちは。何度でも言うさ、強くなりたいってのは、おれの人生の全てだった。

 全部が、もう戻っちゃこねェんだ。

 いくら代償が無いっつったって、そこには見えない代償が絶対あるんだ。それは人の心かもしんねェし、生きる意味かもしんねぇ。

 今じゃ使い古されてなーんの重みも無い言葉だけどな。大きなものを手に入れるには、それ相応の代償が払わされるんだよ。おれたちの意思とは、関係なくな……。」

 竜は人間だった頃の話を終え、また煙管を吸いはじめた。眼差しのせいか何なのか、話している間だけは、何故だかこの異形の生き物が人間に見えた。

 「そんなん、お前の話じゃねぇか。おれは強くなりたいとかも思ってねえ。必要だから要るだけだ。そんなの関係ねえ。」

 どうでも良さそうに、いらいらした様子でリクは吐き捨てた。

 そのひとはリクの様子をものともせず、間髪入れずにこう聞いた。

 「じゃあ、それが原因で妹を殺してもか?」

 予想していなかった言葉に不意を突かれて、私たちは固まった。

 「人の心なんて分からん。もしかしたらお前は強さに酔っちまって、逆らうやつ気に入らねェやつを次から次へと殺していくかもしれねェ。それが例え、今は大事な相手だとしてもな。

 そこから先は違う世界が見れる。だがな、もう元の世界に、元の自分に戻れなくなるのも事実だ。」

 リクは口をつぐんだまま、悔しそうにそのひとを睨め上げていた。私もだ。何も言い返せず、俯向くしかできない。

 だって私たちはその先のことを知らないから。知っているひとの前で無理に虚勢をはっても、まるで説得力がないだろうと思ったから。

 反抗的に睨み上げるリク。なのにそんなリクを見ているそのひとは、どこかそれが微笑ましそうだった。それがさらにリクの神経を逆撫でしたらしく、リクは大きく舌打ちしてそっぽを向いてしまった。

 そのひとは細く長い息を吐いて、吸い終わってしまったらしい煙管を指でトントン、と二回突ついた。

 「そんなわけだからやめとけ、なんて野暮なことおれァ言わねぇよ。ただ絶対に、お前はこっち側に来たことを後悔する。それだけは、間違いねェからな。」

 リクは向こうを向いたまま、唸るような声でそのひとに言った。

 「……とにかく、店、教えろ。」

 「はいはいっと。ったく、ものの頼み方ってモンを知らねェのか……。」

 そのひとは、よっこらしょと座っていた木の根から立ち上がった。川の水を撫でた後のぬるい風が吹き、根を椅子代わりにさせてもらった、柳の木がざわざわと風に揺らぐ。萎びた細い葉が、撫でるように腕にかかってくる。吸い終わってもいつまでも漂っていた、煙管の煙くさい空気が晴れて、水の匂いを不意に感じた。

 そうして私たちはそのひとに連れられて、ひとつの小さなテントへと吸い込まれていった。

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