サン・リーフの上から

なつのあゆみ

第1話

 ブリキの道化師が、回転する。

 時は過ぎていく。

 ガラスの向こうでは、せわしなく人が行き交い、黄色くなった銀杏の葉が落ちていた。

 床を這うような低音でマイケル・デイビスが流れている店内は、動きがない。

 ブリキの道化師が止まったので、僕は指でつつき、再び動かす。

 鉄棒にぶら下がった道化師が、大車輪を披露するのを僕は見つめた。

 黄色い衣装の道化師は、愛嬌のある顔をしている。右目に星、左目には涙がペイントされているのは意味がある。道化師を買い付けてきた店主は僕に語った。

 星は希望、涙は絶望。道化師は希望と絶望を背負い、回転しているの。

 店主お得意のこじつけ、だと僕は馬鹿にしてやった。

 

 僕は店主と三ヶ月、会っていない。海外に買い付けに行くと言ったまま、音沙汰なしだ。

 フランス人形が棚で肩を寄せ合い、ティーカップは中に埃を溜めてひしめき合っているから、商品には困らない。むしろ売れないから、これ以上品物が増えても困るのだ。

 僕はくる日もくる日も、たいして客のこないアンティーク店に、一人でいる。

 

 赤い革の椅子に深々と腰掛けて、ぼんやりしていると、僕も商品の一部になったような気がする。

 フランス人形のガラスの目が語りかけてくる。あなたも売れないお人形さんなのね。

 手足が長く美形なのに、僕は売れない。いくら見栄えが良くても等身大の青年人形はかさばるから。

 

 電話が鳴った。けたたましい電子音に、僕は震えた。平成初期に事務員が使っていたような白い電話は、とうに死んだと思い込んでいたのだ。だって二週間も鳴らなかったから。

 緊張して、僕は電話に出た。

「はい、もしもし? こちら花岡アンティーク店でございます」

 相手の返答がない。僕は変な事を言ってしまったか、と不安になる。もしもし、という応答言葉はもしかして死語なのだろうか。

「……してほしい」

 か細い声が、言った。

「申し訳ございませんが、電波が悪く聞き取れませんでした。もう一度、お願い致します」

 電波が悪い、というのも、もしや死語かしらん、と僕は不安になる。電波はビュンビュン飛びまくっている時代なのかもしれない。

「音量……おおきくして」

 息苦しそうな声が、聞こえた。僕は受話器を耳から離して、細長い小さなボタンを爪の先で押して音量を最大にし、再び耳に受話器を当てた。


「困ったことになったわ」

 はっきりと聞こえた声は、店主だった。女性にして低い、けだるい声が懐かしい。

「こっちも困っています。お客さんがまったく来ない」

「そんなことは、困ったことのうちに入らない。いつもそうじゃない」

「うん、まぁね。この店、あなたの趣味だし。ところで、困ったことってなに? あなたでも困ることあるんだね」

 

 お金持ちのお嬢さん、三十を過ぎても色っぽい目で、少女のような夢を語る。それがうちの店主だ。


「わたし、体が小さくなってしまった。いま、葉っぱの上から店を見てる」

 僕は受話器のコードが許す範囲まで移動し、ショーウィンドウから銀杏の木を見上げる。

「僕は今、木を見上げている。親切だろう、あなたの冗談に付き合ってやってるんだ。そんな戯言言う前に、さっさと帰って来てよ。僕の契約期間、もうすぐ終わるよ。延長料金は高くつくよ。また外国人の素敵なダーリンを見つけて、どっぷり嵌っちゃったの? 泥沼の別れをする前に、きれいに別れてさっさと帰国しなよ」

「そんな、いっぺんに言わないでよ」


「言うさ。僕はね、一つの店に留まるのは半年までと決めている。あなたの我が儘に付き合って、半年過ぎているのに、この店にいる。僕はこのまま店員じゃなくて物言わぬお人形になってしまいそうさ。冗談言わずに今すぐ帰国しなさい。パスポートを失くしちゃったわ、なんて言い訳は、もう通用しないよ」


「あなたには、たくさん不義理をしたわ。その罰が当たったのね。日本の彼氏にイタリアで浮気したのがばれて、帰国してすぐ、彼に呪われたの。体が小さくなっちゃって、今の私にはシルバニアファミリーのお家がぴったりよ。どうにか小さい体で家に帰ろうとしたら、カラスに捕まったの。そんで暴れまくったら、落とされて木の上よ。そして幸いにも、そこが店の前だった訳」


「ちょっと待って、そしたらあなた、どうやって電話かけてるの? 銀杏の木に電話ボックスがあったの?」

「コートのポケットを探ったら、小さくなった携帯電話が入ってたの」

「携帯電話まで呪われてしまったんだね」

「彼が優しかったのよ。わたしの為に、助けを求める手段を用意してくれた」

「得意気に言うことじゃないと思うけど? 電話できるんなら、彼に電話したら?」

「したけど、出てくれないの。とりあえず助けて。今から合図の鍵を落とすから、ハンカチか何かを広げて待ってて。わたし、そこに飛び降りるから。銀杏が臭くて、もうたまんないの」

 電話が切れた。


 僕は外に出た。銀色に光るものが、石畳に落ちた。銀杏の木を見上げると、不自然に揺れる葉があった。本当なのか? 拾った鍵は、指先ほど。目をこらして見ると、ピッキング防止用の細工があり社名が入っている。店主が借りている高級マンションの鍵だ。酔っ払った彼女を送って行った時、手にしたことがある。

 黄色い葉っぱの動きを、目を細めて見た。小さな白い手が、手を振っている。

 僕は慌てて、ハンカチをその真下に広げた。

 葉が震えているが、なかなか小さくなった店主は落ちてこない。秋の陽光で、視界がぼやける。

 まさか、本当だったなんて。今の店主はブリキの道化師みたいに小さいんだろう、と僕は想像する。

 とても変な情況だ、これは。

 電話のベルが、鳴っている。僕は一旦、店に戻って電話に出た。


「どうしよう、怖いよ。無理よ、こんな高いところから落ちるなんて」

 店主は泣いていた。

「そんなこと言ったって、勇気を出して落ちて来ないと」

「あなたどうしてそんなに、落ち着いているの? もっと慌ててよ、心配してよ、助けてよ!」

「泣いても仕方ない。深呼吸して。必ず受け止めてあげるから、落ちておいで」

「待って、落ち着く。落ち着くから、もっと優しくして」

「大丈夫、あなたならできる。呼吸をゆっくり」

 電話を切って、僕は再び木の下にハンカチを広げる。小さな店主は落ちてこない。手を振っている。

 電話が鳴った。僕は店に戻る。

「やっぱりだめ、できないよ。わたし、高所恐怖症だってことを今、思い出した!」

「あのね、それはあなたが混乱しているだけ。勇気を出して、いち、に、の、さんで落ちておいで。必ず受け止めてあげる」

 電話を切る、ハンカチを広げて待つ。落ちてこない。店に戻って電話に出て、店主の泣き言を聞く。

 それを十回繰り返し、僕は息が切れた。


「あのね……」

「なんだよ」

「あのね、わたし……」

「だから、何?」

「バンジージャンプに誘われたことがある。でも怖いから、断ったの。そしたら彼がわたしを、臆病なつまらない女と罵った。そしてケンカになって別れたことがある」

 しくしく、と店主が泣いた。

「わたし、今、そのことを思い出して、とても憂鬱な気分だわ。勇気なんて出てこない」

 

 僕は電話を切った。ブリキの道化師を回す。時よ過ぎて、希望と絶望よ回れ。

 希望の番よ早く巡ってこい、この苛立ちから開放してくれ。

 

 僕は、木に登って助けてやったりなんかしない、絶対に。

        


      ―終―

 

 

 

 

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