汚れたカナヅチ

なつのあゆみ

第1話

 校門が開くをの待っている。蝉が控えめに鳴いている。運動部が朝の練習を始める前より、早くに来て待っている。教室の鍵を空ける。誰もいない教室で僕は勉強を始める。


 ここだけが僕の居場所だ。


 中学三年生になってから猛勉強しても遅い、中学二年生から始めろ。近所のお兄さんが言っていた。僕はお兄さんと同じ名門大学に行きたいから真似をする。

 使い古した参考書は、ぼろぼろとページが取れてくる。お小遣いを貯めたいけれど、毎月千円はすぐになくなってしまう。お昼のパン一個では足りなくて、つい買い食いしてしまう。叔母さんに知られたら大目玉だから、いつもコンビニの前で急いで口に入れる。


 移動教室と体育の時間、トイレ以外、僕はずっと机にかじりついて勉強している。

 学校が終わると図書館に直行して、閉館まで勉強している。

 叔母さんと叔父さんは、まるで害虫を見るような目で僕を見る。テスト前だけ、僕に友達ができる。貸したノートが返ってこないときがあり、とても困った。


 朝の五時半には家を出る。校門の前に座り込み、単語帳をめくる。

 門を開ける用務員のおじさんは、いつもしかめ面をしている。

 授業が始まるまで、勉強する。先生が教室に入ってきてから、頭の奥がぼんやりした。

 強烈な眠気に勝てなくて、うたた寝してしまった。


 目を覚ますと、授業は終わっていて、休み時間に入っていた。

 トイレで寝ぼけた顔を洗おうと立ち上がろうとする。足が動かない、痛い。

 机の下を見ると、僕の足は床に杭で打ちつけられていた。

 銅の杭は太い、ぬらぬらてかっている。 


 どうしてだろう。僕がうたた寝したことに、先生が怒ってしたのだろうか。こんなひどいことを?

 教師は聖人君子だ、と先生はいつも言っていたのに。聖人君子だから、僕にこんなことをしてもいい?

 外すと痛いだろうなあ。けれどこのままだと立ち上がれない。僕は杭に手を伸ばした。

 腰が重い。がちゃり、と金属が鳴り合う音がした。胸から下を見ると、夏服の白いシャツの上に、さびた鎖が巻きつけられていた。しかも鎖の先に、重りが垂れ下がっている。

 僕は動けなくなっていた。

 足の肉を貫通した杭が痛い。

 鎖は絡まって外せない。


「助けてください」

 僕は隣の席のやすうら君に声をかけた。やすうら君は背中を向けて、友達と話している。

「助けて!」

 僕は大声で叫んだ。

 誰も振り返らない。先生が来て、授業が始まった。僕は起立も着席もできない。


「先生、助けてください!」

 先生は僕を無視して、チョークで黒板に英文を書いた。メアリーはおばの葬式に行きました。不吉な英文。

 しずしずとみんなノートを書いている。左から右へ動く肘。僕もノートを開いた。下半身が重くて集中できない、汗がノートに垂れる。


「ごめん、やすうらくん。僕の分のパンを買ってきてくれないか?」

 やすうらくんに頼んだけれど、無視された。

 僕は五百円玉を握り締めた。一万円渡したら、彼は僕にパンを買ってきてくれたかな。

 一日の授業が終わり、みんな帰ってしまった。学級委員長が電気を消して鍵を締めた。

 紫色の夕陽を泣きながら見た。やがて教室は闇に呑まれた。


 じくじくと足は痛み傷が広がる、空腹に鎖が食い込む。机に突っ伏して眠ろうとする。広い教室で何かがうごめいているように感じられる。何にもいやしない。誰か来て欲しい、助けて欲しい。願いながら、僕は一人ぼっちで泣いた。


「先生、助けてください!」

 先生が教室に入ってきてすぐ、僕は叫んだ。

 のっぺりとした顔で先生は朝の挨拶をした。

「きたうらくん、助けてくれ」

 やすうらくんは助けてくれなかったので、反対側に座っているきたうらくんに助けを求めた。彼には僕の声が聞こえないみたいだ。


「助けてくれ!」


 誰も僕を見ない。

 僕はもう、教室に存在しないみたいだ。

 勉強ばかりしていたから気付かなかったけれど、クラスメイトはみんな美術室の石膏(せっこう)みたいな顔色をしている。


 目も鼻も口も、同じ場所にある。同じ服を着て、同じ振る舞いをして、見分けがつかない。

 隣は本当にきたうらくん?

 やすうらくん?

 ノートを奪っていった男子の顔は誰だったけ。僕がちょっとだけ好きだった女子は、誰だったけ。

 担任の先生の顔をじっと見てみた。教師というものは聖人君子であるから尊敬するように。私を尊敬しない者は学ぶ資格がない。

 春の新学期、先生はそう言った。

 僕は先生を尊敬していたのに、勉強できなくなった。

 先生の広い額は、うっすらと灰色だ。


 プールの時間になって、みんな更衣室へ行った。遠くから聞こえる水しぶき、歓声。僕の喉は渇いて、ひりひりだ。


 夜は腹の音を聞いて過ごす。ノートのページをちぎって口に入れた。唾液が出ないので紙がふやけず飲み込めない。

 閉めきった教室は蒸暑い。街灯の光が天国の入り口みたい。僕はそこへ飛び込みたい。

 闇に圧迫される。目に見えない黒い物体に、ぎゅうぎゅうと体を押される。孤独、苦痛、孤独、苦痛。


 ついに声が出なくなった。震える字で助けて、と書いた紙を両隣の机に置いた。紙は捨てられた。

 僕は助けてください、と書いた紙をヒコーキに折って飛ばした。何通と飛ばした。教壇の上に落ちた紙ヒコーキを払いのけ、先生は授業を続けた。

 長い長い数式を書いている。

 休憩時間になって、紙ヒコーキは踏み潰された。ぐしゃぐしゃぐしゃ。もうノートにページはない。


 皮と骨がひっついている。脇腹に触ると、血が出ていた。鎖が食い込んで皮膚を破ったのだ。泣こうがわめこうが誰も聞かないだろう。

 おばさんとおじさんは僕がいなくなれは、喜ぶだろう。世間体があるから、仕方なく引き取った、といつも言われていたから。   

 先生と結託したのかな?

 僕は被害者、それとも罰を受けた罪人?

 お母さんとお父さんが迎えに来てくれないかなぁ。飛行機事故で骨一つ帰ってこなかったお母さんとお父さん。


 僕が悪かった? 友達をあまり作らなかったから? ノートを失くされて、怒ったから?

 いつから僕は悪い子だったのかな。振り返る人生の中で、僕は少しだけど笑っていたこともあった。お父さんとお母さんが生きていて、この学校に転校してこなければ、僕はもっと生きられたかな。

 先生は、学校が好きな僕のために、死に場所にしてくれたのかな。先生は聖人君子だから、なんでも知っているんだ。聖人君子に嫌われた僕が悪いんだ。

 居眠りでこの仕打ちは当たり前だ。

 頭に栄養はない。何一つまともじゃない。

 あきらめよう。


 僕は目をつむる。しっかりつむる。じくじくじくじく、傷が膿む臭い。鼻をふさぐ、しっかり塞ぐ。さよならさよならさよならさよなら。僕は全部にさよならした。

 先生が僕の隣に来た。足の杭が刺さったまま、首をつかまれて引きずられた。血だらけの杭だけが床に残っていた。窓から放り投げられた。

 さようなら。




 教師と用務員が、焼却炉の前で話している。

 焼却炉からは煙が上がっている。大きなものを燃やしている、もうもうと煙が出ている、腐った肉が焼ける臭いがする。


「いらない子を処分するのに、手間がかかりました」

「すぐに殺せばいいのに」

「見せしめです。こうなりたくなければ、他の生徒も良い生徒であるよう心がけるでしょう。彼らに必要なのは恐怖です。戒めなのです」

「しかし、なぜ勉強熱心な子供を処分なさったのです?」

「彼は友達が少なく、義理の両親にも愛されていませんでした。愛情を受けずに人と関わらない子供は、必ず問題を起こします。社会不適合者です」


 自分を聖人君子のたまう教師は、いつも汚れたカナヅチを持っている。

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