ばらの声

なつのあゆみ

第1話

 小さなピンク色のばらが、隣家の塀から顔を覗かせている。

 朝日に目を細めつつ、ばらを見上げる。

 一輪だけ、このばらはどうしてこんなにも、にょきにょきと伸びたのだろうと僕は不思議に思う。

 きぃ、と音がした。続いて細やかな足音。隣家の少女が登校していく音を聞いて、僕はぎくりとする。

 僕の足が動き足す。僕も学校に行く時間だから、と言い訳をして軽く足早に、僕は門を出た。


 少女は黒髪を背中で揺らして、歩いていく。

 白い靴下に、長い紺色のスカート。すらりとした、品の良い少女だ。

 どこにも特異な点は見当たらない。

 本当に、彼女があのピアノを弾いているのだろうか。僕は訝しい。

 母さんの情報によると、お隣の少女はお金持ちの女の子が行く私立の女子中学校に通っているらしい。

 僕は彼女がバス亭へ向かうのを少し見届けてから、正反対の通学路へ向かう。

 だから、僕は彼女の顔を見たことがない。けれど、ピアノ音色は、いつも聴いている。

 日曜の昼下がりになると、いつも聞こえてくる、ピアノ。

 超絶だった。

 音が弾け、踊り、一音一音に魂が込められているようだった。

 ピアノのコンサートに何度か行ったことがあるか、これほど凄まじい演奏を聴いたことはなかった。

 耳を奪われると、後は放心したようになってしまう。


 隣は長い間、誰も住んでいなかった。冬に改装工事が行われ、青い屋根が白く塗り替えられた。

 庭は手入れされ、ばらが顔を覗かせた。

 まだ肌寒い春先に、少女の一家は引っ越してきた。

 上品な一家が引っ越してきてよかった、前の住人はよく夫婦ケンカをしていたから、と母は満足そうに言っていた。

 僕は、何か、とても引っかかる。小さなばら、ピアノの音色、彼女が引っ越してきてから、心から聴いたことのない音がする。あのピアノが、僕の皮膚の下に流れる血までを、騒がせてしまう。

 必ず、日曜の昼下がりにしか、彼女はピアノを弾かない。

 その演奏を僕はひたすらに待ち続けた。

 

 テストの結果は散々だった。

 クラリネットの練習にかまけて、と僕は両親に嘘をついて部屋にこもり、クラリネットを吹いた。

 手入れをさぼっていたせいか、クラリネットは不機嫌な音を出す。

 土曜日の午後、窓を開けて春風を部屋に入れていた。

 頬に気持ちの良い風を感じて、僕は久しぶりにクラリネットを夢中で吹いた。ヴェルナーの、野ばら。

 ピアノの音色が、風に流れてきた。

 控えめな、繊細な音。僕の演奏に、テンポはずれているけれど、必死についてくる。

 僕はわざと、早く吹いた。ピアノも追っかけてくる。

 楽譜の音符をすべて演奏してしまってから、僕は窓辺に立った。

 隣家の、向かい合った窓の白いカーテンが開いた。

 黒髪を風に躍らせて、少女が微笑んでいた。大きな黒い瞳を光らせ、いたずらが成功した子どものように、無邪気に笑っている。僕が想像していた貌ではなかった。ずっと幼くて、口が大きくて。

「ねぇ、下に降りてきてよ!」

 少女が大声で言う。

「え?」

「わたし、あなたとお話がしたいわ」

 少女の笑顔に、僕は逆らうことができなかった。


「あなた、上手ね」

 僕は彼女の家の庭に、招き入れられた。カーブした石畳の道が、板チョコレートみたいなドアに続いている。樫の木の周りに、色も形も違う様々なばらが、無造作に咲いていた。

 ふと目を落とした先に、必ずばらの花がある。

「クラリネット、いつから?」

 少女の言葉は端的で、少し分かりづらい。

「五才から」

「早いね」

「……父の趣味なんだ。クラリネット」

 僕は落ち着かない。少女はばらの前にしゃがんで、花びらをいじっている。

 ふーん、と少女は自分から質問しておきながら、僕の答えに興味がないみたいだ。

 彼女はばらの花びらをめくったり、棘に触ることに夢中になって、僕はほったらかしにされた。

 制服姿の後ろ姿はとても大人っぽく見えたのに、ブラウスと赤いカーディガン姿の彼女は、小学校を卒業したばかりの垢抜けない感じがした。

「君って、年はいつくなの?」

「14歳」

 少女はそっけなく答えた。僕よりも一才年上だ。

「ねぇ、ばらの声を聴いたことがある?」

 少女が僕に問いかけて、ばらの花びらを一枚、むしり取った。

 僕は顔をしかめる。少女は赤いばらの花びらを、口に入れて、ゆっくりと咀嚼した。

「ばらの声は、とても痛いの」

 少女は目を伏せて、つらそうな顔で言った。

「棘が刺さるみたい。とても、せつない。でも、きれい。ばらの声を、私はもうすぐ聴けなくなる」

 もう一枚ばらの花びらをむしり、少女は僕の掌に、それを落とした。

 湿ったばらの花びらは赤く、熱があるように思われた。

「あなたも、ばらの声を聴くといい。そしたらもっと、クラリネットが上手くなる」

 少女が微笑んで、ばらの花びらを口に含むように言った。

 僕が口に入れる前に、花びらは風に流されていった。

 少女はとても、悔しそうに、風にさらわれた花びらを見ていた。


 その一ヶ月後、少女は引っ越していった。

 詳しいことは教えてくれなかったらしいが、次は海外に行くのだという。

 間もなく、少女の祖父母だという穏やかな老夫婦が引っ越してきた。


 僕の生活は静かになった。

 庭に招き入れられたのは一回だけで、それ以降は言葉を交わさなかった。試験が終わって吹奏楽部の朝練が始まったので、少女の登校を見送ることもなかった。


 あなたもばらの声を、聴くがいい。

 

 渡された花びらを口に含んだ方がよかったのか、悪かったのかは、知らない。


 塀から顔を覗かせていた小さなピンクのばらは、いつの間にかなくなっていた。



                      

                おしまい


 

 

 

 

 

 

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