クリソベリルのプライベート

1

 上空から月がこちらを見おろしていた。

 ああ、腹へったな――

 マユリの部屋からでたおれは、アパートの階段をおり建物のまえで、どこにいこうか悩んでいた。八月の夜は、バカみたいに蒸し暑い。粘り気のある街の明かりが身体じゅうにへばりついている。

 強がってはみたものの、この近くには泊めてくれる女はいない。いくつか先の駅までいけばあてはあるが、そこまで歩いていく気になれない。面倒くさい。

 金がないので移動手段はかぎられている。おれの場合、電車にものれない。だからといって、ぼろ雑巾の親戚みたいな格好ではタクシーにだって乗車拒否されちまう。

 ためしに目のまえの道路をのろのろ流す空車のクラウンにむかって手をあげてみた。無理やりにでも停めてやろうと二歩ぶんおおきく車道にはみだした。右側からのろのろ近づくタクシーは停まる気配もまったく見せず、センターラインにおおきく膨らみ、おれをよけて走り去る。テールランプの赤い軌跡が夜の空気に長く残った。

「ちっ」

 しかたない。おれは歩道に戻り歩き始めた。とりあえず駅のほうにいってみよう。すこしは気分も晴れるだろう。


 アパートから離れてすぐのところで若い男とすれ違った。

 背はおれよりもずっと高い。細身のダークネイビーのスラックスにボタンダウンのホワイトシャツをタックインしている。髪はさっぱりと短く整えられていて、四角くかたちのいいひたいを露出させていた。顔の感じからして二十三のマユリよりも、ひとつ、ふたつうえだろうと思った。

 典型的な会社員といった感じ。ようするにリーマンというやつ。ぼろ雑巾のおれとは似ても似つかない。

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