エトワールのお祭り

トム・キャラメル

エトワールのお祭り

 僕はエリィと手をつないで、黒い森の中にいる。

 まるでゆめの入り口にいるようなたゆたう気持ちになっている。

 きっとエリィも、同じような気持ちの中にいるのだろう。月あかりに照らされている彼女のやわらかな横顔を見ながら、僕は思った。

 静かな暗い森を歩く。どこか落ち着く土と穏やかな緑の匂い。それでも胸が躍るのは、僕たちがお祭りに向かっているからだろう。

 うっそうと茂る木々のすき間から見える藍色の空には、夜の星々。はくちょうとわしが戯れるように羽ばたいている。ほほを撫でる風が、遠くから吹く。たて琴の音が聞こえてくる。音をたどるように歩き続ける。

 やがて古い樹のとりわけ巨大なのがパレードみたいに綺麗に整列して、姿勢よく並んでいる小路に出る。森の深く奥よりちらつくだいだいの明かりに向かって歩いていく。漂うおいしそうな料理やお菓子の匂い、流れ出す楽しそうな金管とドラムの音。その先に月の光で架けられた虹のアーチを見つけ、そこをエリィと僕は一緒にくぐる。


 僕とエリィは、エトワールのお祭りに来た。

 虹のアーチを入ってすぐの、エトワールのエントランスの広場には、右手にプリエトワール駅がある。鉄骨の屋根の下には朱色の制服を着た駅長のおやじがいた。いましがた汽車が到着したようだ。プラットホームで、国旗の刺繍の入った帽子を被ったクマの分団長がしきりに指示を出して、劇団の一味の若いクマたちが、せっせと旅客車両より荷物を運び出していた。左手にはロシアのサーカスのトリコロールのテントが張られていた。いまは公演の準備なのか、バイオレットの衣装に身を包んだピエロが、芸の練習に勤しんでいた。

 花火が上がる。どこかで楽しそうな歓声が上がる。

 エリィは、さっきよりちょっと強く、僕の手をにぎる。

 それからエリィは、微笑む。彼女の海の宝石のような美しい目は、いっそう輝いている。

 僕は、気付かれないように、小さくドキドキした。

 僕とエリィは、エトワールのお祭りに来たのだ。

 

 最初に僕とエリィは、ロリーポップのお店に来た。

 ロンドンの一角に建てられたような縦に細長いシティ風のお店には、もうすでに僕らと同じくらいの年の子供たちがいっぱい居て、おのおの好きなお菓子を眺めたり袋に詰めたり、店員たちの隙をみてちょっと舐めてみたりしていて、賑わいをみせていた。

 僕とエリィも、お店のガラスのケースに目を奪われる。シャボン玉を吹けるガム、エメラルド湖の色をしたグミ、勇ましいたてがみを持つライオンの飴玉、氷ったホルンを閉じ込めたようなアイスバー。お店で一番高価なお菓子は銀貨一枚で、尾を引いて空を駆けていくような、彗星のキャンディ。お店には、数千種類のお菓子が、ところせましと並んでいて、僕とエリィはそのどれもに魅了される。

 見上げると、小さなクリスタルのシャンデリアがいくつか宙に浮いている。上に向かうにつれて細くなっていくヘリックスの構造。天井には、まるでカラッと晴れたシチリアの青空のような絵画が描かれていて、この建物の本当の高さがわからなくなって、天蓋のない塔の中にいるような奇妙な感覚になる。僕のはるか手の届かない高いところにも、図書館の書架をビビットカラーで塗ったような棚があり、宝石や星のように輝く飴やグミがたくさん並んでいた。それらはオーダーすれば、チロチロと羽を動かし妖精たちが届けてくれていた。

 僕が天井に目を奪われているうちに、エリィはというと、小さな嬉しい悲鳴をあちこちで上げていて、店中にあるいろんなキャンディたちに踊らされるように見て回っていた。

「エリィは欲しいもの、あった?」

「このお店のお菓子、全部欲しいわ!」

「僕もそう思っていたところだ!」僕がそう言うと、エリィはえくぼを見せて微笑んだ。

 僕とエリィはワンフロアをぐるりとまわって、それぞれ好きなお菓子を買うことにした。

 二人ともたくさん買っていたのだけれど、エリィの方が少し多かったのでからかうと、エリィはむすーっとした顔で僕にお菓子の袋を押し付けた。

 最後にレジ打ちの妖精に、大きなビーズのようなキャンディをおまけしてもらった。


 僕とエリィはキャンディをなめて、エトワールの祭りの中を歩いていく。

 エトワールのお祭りは、ちょっぴり不思議なお祭り。

 僕らのような人間の子供たちの他にも、いろんなところからいろんないきものたちがやって来る。森や山からはクマやウサギ、キツネ、ヒツジ、オオカミもやってくる。海や川からはカメやサケ、マーメイド、クジラやクラゲやイワシの群れたち。空からはスズメ、フクロウ、ペガサス、ちょうちょやタカ。他にも、フィンランドの湖の森からは妖精が来るし、ドイツやスコットランドなどからは魔女や魔法使いが来る。ルーマニアからは吸血鬼も来るし、ウクライナからはドラゴンが来たりもする。

 エトワールのお祭りは、三年に一度、たった一夜だけ開かれる。

 僕とエリィが前に来たときは三年前ではなくて、もっとずっと前で、まだ二人ともとても小さかったので、他の子供たちと同じようにしてお祭りを駆け回ったりすることはしなかった。

 実際のところ、その時のことはあんまり覚えてはいなくて、僕がよく覚えているのは、エリィと同じ金色の髪を持つエリィのお母さんが、僕とエリィの手を握って、とても優しく微笑んでいたこと。それと、エリィの綺麗な金の髪がまだ肩にちょっとかかるくらいだったということだけだった。

 

 次に僕らは、ロリーポップのお店からすぐ近くのコーヒーの実のお店に来た。

 ここは、大人たちの愉しみであるコーヒーを世界中から集めて、エスプレッソした不思議な実を噛んで味わうお店。北イタリアの田舎に、昔からある堅苦しいお店らしく、普段は子供相手に商売してくれないのだけれど、エトワールのお祭りの時だけ僕らにもコーヒーの実を売ってくれる。そしてこのお店は、僕たち子供たちが少し背伸びして大人の味をちょっぴり齧れるとして、ひそかに人気を博しているのだ。

 石畳の坂道を登り、高台の上にある偉そうな館の一軒が、そのお店だ。古い洋館を切り取ってきたような店内に入る。

 お店の中は、まるで美術館の中に迷い込んだかのように静かで、そして厳かで、エリィもめずらしく口を結んでおとなしくしている。外観よりずっと館の中は広く感じられる。井戸の底、もしくは閲覧の禁じられた書室のように薄暗い、スカーレットのカーペットの回廊はまるで時間においていかれたようで、僕とエリィの他に動くものは大きな古時計のふりこくらいだ。飾られる絵画がないのに配置された綺麗な装飾の額縁が壁に並んでいる。照らしてくれるのは、金の皿に載せられた蝋燭だけ。

 回廊をしばらく進むと、格調高いホテルのフロントのような場所に出る。冷たい白と黒の石がチェス盤のように敷き詰められた一室。そこに、タキシードに蝶ネクタイを締めたひょろりとした背の高い男が立っていた。

「いらっしゃいませ」小さな来客に嫌な顔ひとつせず、まるで紳士淑女を相手にするように彼は細長い体を折り曲げる。

「メニューは、こちらになります」僕らに革張りの冊子を丁寧に差し出す。

 真摯な対応で、ますます僕とエリィはかしこまってしまう。そして残念なことに、メニューをいくら眺めても、僕らにはどれが一番美味しいのか全く分からなかった。

「おススメは、なにかしら?」そこでエリィが臆せず大男の彼に訊く。

「象のような力強い風味を楽しめる、インドネシア産ケクゥアタン。でしょうか」

「じゃあ、それを」「ふたつ。ふたつ、お願いします」

「かしこまりました」

 大男はスクエアの眼鏡をひとさし指でくいと上げると、のっそりと動き、黒くがっしりとしたカウンターの後ろに飾られたキャビネットから、ガラスの瓶をひとつ取り出した。大男はそれを持って僕らの前に再びのっそりとやってくる。彼が手を広げる仕草をする。僕とエリィは、彼の真似をするように手を広げて前に差し出す。すると彼はガラス瓶を軽くひと振りし、僕とエリィの掌の上にちょうどビー玉くらいの大きさの黒い粒を転がした。粒はまさに漆黒で艶やか、表面に僕の伸びた顔が映った。

「ありがとう、おいくらかしら?」

「もうすでに、いただいております」大男はポマードで固めた黒髪を振る。

「驚いたわ」エリィは目を満月のようにして声を上げる。

「お帰りは、あちらです」大男は僕とエリィの後ろを指さす。

 すると僕らが歩いてきた額縁とカンバスの回廊は、どういうわけか跡形もなくなっていて、代わりに黒い扉を描いた大きな絵が飾られていた。

「魔法みたいね」エリィが言うと、「ご主人様の趣味でございます」とだけ彼は言った。

 僕とエリィは「ちゃお」とイタリア語であいさつをして、大男が小さくにっこりしたのを確認すると、その絵の扉をくぐって、館の外に出た。

 外へ出て振り返ると、ふたたび奇妙なことに、古い小さな洋館の建物はなく、僕らの背には煉瓦造りの別の建物があって、お祭りの一角の路地裏に出ていた。僕とエリィは顔を見合わせて、さっきの完璧な奇術について不思議だと言い合った。

 そしてもったいぶってしまうのもなんなので、早速いっせのーせで、カラスの眼のようなコーヒーの実を口に頬って、噛んでみた。コーヒーの実は僕が噛むと硬そうな漆黒とは裏腹に気持ちよくくだけた。その瞬間、口の中でインドネシアのコーヒーがはじける。父さんのパイプを咥えてしまった時みたいに、口の中いっぱいに苦味が広がる。最初こそ唇の端を噛んでお互い我慢していたものの、次第にたまらなくなって、二人とも思いっきり口を開けて、ひどい顔のままむせ返る。不思議なことにむせた咳から可笑しさがどんどん込み上げてきて、二人でどっちの顔の方がひどかったとかで笑いあった。それから思い出して、二人で妖精からもらったキャンディを慌てて口の中に押し込んだ。その様子も可笑しくて、僕とエリィはまた笑いあった。


 お祭りのメインストリートから、外れた緑地のあたりを散策する。

 僕らのお目当てのひとつがこの近くにあると、さっきのロリーポップのお店で、噂を聞いたのだ。穏やかな小川の周りで、幼い子供たちが草を編んで作った小舟を泳がせて遊んでいた。それを横目にしつつ、淡い月の影を浮かべる川に沿ってしばらく歩く。

 その先に、このお祭りで僕らが楽しみにしていたもののひとつである、エレクトリックのメリーゴーラウンドがあった。人気のアトラクションで子供たちの列ができていた。

 このメリーゴーラウンドは、エレクトリックとはいえ真新しく綺羅びやかというわけではなく、どちらかといえ伝統的で美しいという感じだった。どうやら僕のこの見立てにはさほど狂いはなかったようで、このメリーゴーラウンドのオーナーの身形の良いシベリアン・ハスキーの紳士が誇らしげにこの逸品について語っていた。紳士が言うには、童話をモチーフにしたメリーゴーラウンドらしい。アンティーク調の中に、効果的にエレクトリックの技術が盛り込まれていて、美術と技術が見事に融合している代物だとか。ドイツの職人が丹精込めて作った物語の主人公であるお姫様や小人、悪い魔女の装飾が、精巧にメリーゴーラウンドに刻まれていた。

 しばらく僕とエリィは、シベリアン紳士の語りの真似をしたり、あの子が持っているのはどこで買ったものかなかとか、どのポニーに乗りたいかとか話して、列に並んでいた。

 ようやく僕らの番がきた。夜の草原を模したテーブルの上に昇り、小柄なポニーにまたがる。ポニーの上はほんのりと温かい。僕はオレンジ色をしたやつに乗りたかったのだけれど、紫色のしかめっ面したやつに乗せられた。けれど僕の前でピンク色のポニーに乗れたエリィがとても嬉しそうだったので、そんなことはもう気にしなかった。カランカランと薄く高いベルの音が鳴ると、チェンバロのような音色でメロディが流れだす。ポニーたちが一勢にピカピカと光り、ゆるやかに走り出した。鏡とお城の絵が交互に描かれた正十二角の支柱を、中心にしてゆっくり回り出す。すごく楽しそうにエリィが、僕に振り向く。僕もたまらず楽しくなってきた。僕はこのメリーゴーラウンドに乗って、物語のお姫様を助けにいくわけではなく、楽しそうなエリィを追いかけていく。僕のまたがるしかめっ面した紫色のポニーも、こころなしか少し楽しそうにぴかぴか光っていた。


 僕とエリィはフードコートを抜けて、中央通り付近のバザールへ来た。

 エリィがヤシの木のたもとに構える露店で、みなみの島の貝がらで作られたペンダントを眺める。店員のマーメイドのお姉さんは、エリィにいろんな装飾品をすすめている。

 その様子を見ているだけの僕はだんだん退屈になり、エリィに声をかけてから、バザールの辺りをはずれ、ひとりで中心地を歩いてみることにした。

 僕はエトワールのお祭りの一番のメインストリートを歩いていく。お祭りの中心には、威厳のある教会と美しい時計台のあるドゥーモの広場。珍しいムーア様式のエキゾチックなカトリックの教会からはにわかに壮厳なオルガンの音色と子供たちと祭司様たちのアヴェ・マリア。めでたし聖寵充満てるマリア、だ。時計台は、ベルン市から贈られた精密な機械仕掛けの大時計、ツィートグロッケ・トゥルム。そのドゥーモの広場の隣にあるアグライア広場には、ギリシャの彫刻で創られた神々の白い泉がある。またその近くには他にも、競技場にもなっているセントルイス広場がある。

 僕が歩いているメインストリートは、バロックの石畳で敷き詰められた大通りで、一流の有名店やとりわけ人気のお店が、凱の門こそないがシャンゼリゼのように一直線に並んでいる。

 僕は暇を潰そうと通りのカフェに入ろうとしたのだけれど、店内は、子犬を連れた貴婦人たちのお茶会が開かれていたり、花のように着飾ったフロイラインたちが愛を語っていたりして、僕のような男児一人ではとても入りづらく、何ともいえない気持ちで踵を返す。

 そこから歩いてきた道を戻り、通りから裏へ一本入ってみた。

 すぐにまた大きなバザールがあり、いまエリィが巡っているだろう安いファッション店がおおく立ち並ぶ。食事にも困ることはなく、オランダのチュロスやメキシコのタコス、ドイツのソーセージやらのファーストフードの屋台などが多く並んでいて、むしろなにを食べようか悩んで困ってしまうほどだ。年老いた猫の画伯は鄙びた風景画を売っているし、怪しいキツネの宝石商はぼんやりと虚を眺めている。いろんな国の言葉を話せるフクロウは子供たちに童話を読み聞かせているし、ポルトガルの出張古本屋のテントでは若い夫婦がのんびりカウチに寝そべって本を読みながら店番をしている。他にも、極東の星屑の砂糖菓子、オスマンからの奇妙な肉料理、清の祈祷師による占いなどの初めて見るような、不思議な露店が軒を連ねていた。

 そこからまた少し離れれば、緑の多い公園になる。ここでは、音楽学校の学生たちがおのおのの楽器で好きなように演奏をしていたり、画家の卵たちがそれぞれのアイデアと技法を凝らしてエトワールのお祭りをカンバスに描いている。芸人たちは競って風船やら手品やらのそれぞれの大道芸を披露していて、賑わいをみせていた。このバザールと不思議溢れるエリアが、エトワールの中心を包み囲むように広がっている。

 郊外の方には大きな施設がエトワールの中心を眺めるように建っている。シベリアのサーカスや、イタリアのオペラの劇場のロッシ座。魔法省認可のマギカ地区や、エジプトの遺跡のミュージアム、熱狂の渦を起こすコロッセオや闘牛。湖畔ではマーメイドたちの水中バレエと、白鳥たちの真夜中の円舞曲。それと僕らが最初に入ってきたお祭りの玄関口である、プリエトワール駅。これらの大きな催しや建物が、お祭りの大外縁を作るように、立ち並び展開している。

 僕は、四番通りにあるドッピエッタというフットボール専門店に立ち寄る。店先で、僕の地元のチェスターのサポーターたちとその宿敵のレイスシティのサポーターたちがぬるいビールジョッキを交わして、赤ら顔と大きな声でフットボール談義に熱を上げていた。僕は店内のチェスターの赤のユニフォームを見て回わるも、思っていた通り古いものしか置いてなくて、ちょっとがっかりしてすぐにあとにする。

 それから小腹が空いてきたのでエリィを探すがてら、僕はドイツの屋台でマスタードとチョリソ抜きのソーセージ盛り合わせをオーダーする。それを熱いうちにほおばり、またバザールを歩く。

 武器屋か鉄屋の赤レンガの倉庫の裏で、見覚えのある姿を見つける。楽しそうなお祭りのちょっと外、とあるギャングくずれのグループだ。ちょうどその輪の中心に、ボスニアの戦争へ行ったきり帰ってこなかった、僕の兄ちゃんの姿を見つけた。

 兄ちゃんは渋い緑色の軍服を着た仲間たちといた。不格好なタバコを、兄ちゃんは映画俳優の真似しながら気取ってふかして、ニヤリと笑う。どうやらイカサマかなにかのわるだくみをしているようだった。僕はどうせ兄ちゃんに声をかけても、煙たがられるか手元のソーセージを奪われるだけだと思ったので、そっとそのままそばを通り過ぎた。

 鮮やかなヴェネチア・カルネヴァーレの格好をした仮面の大人たちが、魚の群れのように横切る。

 その先にちょっと難しい顔してさっきと同じ露店の店先で、相も変わらずブレスレットを見つめるエリィの姿を見つけた。

「ずっとここにいたの?」

「そうよ」エリィが文句あるかしらと言わんばかりに眉をひそめて答える。

「あきれた」

「なによ」

「なんでも」

「あら、いい匂い」

 エリィは、僕が楽しみに残しておいたバジルのソーセージをひょいとつまむ。

「買い物に夢中になってたから、ちょうどおなかが、すいてたのよ。ありがとう」

「あきれた」

「もうすこし見ていきたいわ」エリィは、まだここを離れそうにない。

「夢中になっているところ悪いんだけど、そろそろ2000ギニーが始まるよ」

「あら、いけない。そうね」エリィは、目を大きく開いてから、ブレスレットを戻す。

 エリィは相手をしてくれたマーメイドの店員さんに、軽く挨拶をする。

 僕とエリィはそこを後にして、すこし足早に2000ギニーが行われるセントルイス広場へ向かう。


 この祭りのひとつ名物である2000ギニーは、ペガサスのレースだ。

 イングランド中の至るところから選ばれた三歳のペガサスたちの三冠レースの初戦で、大きなレースの一つだ。今後のペガサス界の花形を担うであろう若いペガサスたちの初の晴れ舞台で、他のレースよりも派手に大きく盛り上がる。

 セントルイス広場に入ってすぐの売店で、ハンチング帽のインコの青年からレース新聞を買う。新聞には、出走するペガサスの写真や成績、調子や評判が載っていて、僕とエリィは紙面とにらめっこしていた。エリィは算数のテストの時より真面目な顔つきになっている。

「エリィはどれに賭ける?」

「そうね、マリア・クローバーかしら」

「なんでさ」

「二か月前のレースで勝ってるわ、しかもぶっちぎりの圧勝よ」

「それ、女の子ペガサスだけのレースじゃん」

「でもぶっちぎりよ」

「どうかな」

「それと見て。マリア、私と同じ誕生日よ」

「じゃあ、強いな」

「なによそれ」

「なんでもない」

「あなたは、なにに賭けるのよ」

「スティーブン・ジェネシス」

「そう、じゃあマリアの次に応援しておいてあげる」

「それはけっこう」

 僕とエリィはそれぞれ選んだペガサスのチケットを買って、フリーの観覧席のエリアへ入る。

 観覧席の前の方はレース直前ともあって、もういっぱいいっぱいになっていた。僕らはフリーエリアの最上階の三階の中でも、さらに後ろの方の空いている席へ座る。ちょうどウェールズで行なわれていた別のレースの速報が、反響のひどい声でアナウンスされる。

 エリィが「見晴らしは抜群に良いのだけれど、肝心のレースはよく見えないわね」と文句を言う。

 すると隣でのんびり見ていた、老ウサギのじいさんがオペラグラスを貸してくれた。老うさぎのじいさんのオペラグラスはプラチナの装飾がされていて、とても高価そうなものだった。僕は悪い気がして遠慮しようとした。しかしウサギのじいさんはどのみちよく見えんし、それよりワシには君たちに負けないくらい立派な耳があるからの。とロップイヤーをつまんで、言ってくれた。

 白い花火が、エトワールの夜空に上がる。

 出走するペガサスたちの返しが終わり、彼らがゆっくりとゲートへ向かう。僕とエリィはかわりばんこにオペラグラスを覗き、その様子を望んだ。僕の賭けたスティーブンは雄々しい立ち振る舞いで、レースを今かと待っているような様子。白銀の一際上品な毛並を持ってエレガントにおとなしく佇んでいるのは、エリィの賭けたマリア。

 セントルイスの真ん中から、トランペットのファンファーレが高らかに鳴り響き、場内は大きな手拍子に包まれる。エリィも嬉しそうに手をたたく。

そしてその手拍子がひとつになった時、カウスリップの花を模した大玉の黄金花火がドーンと空に咲く。

 それを合図にゲートが開き、ペガサスたちが一勢に天を駆ける。

 十六頭すべて、見事に好スタートを切った。すぐに第一コーナーを回る。先頭の集団にスティーブンが揚々と駆けている。マリアは、後方にいてここでも優雅に展開を読んでいる様だった。オペラグラスでペガサスたちを追いかける僕の肩を、エリィが貸して貸してとゆすってくる。僕は待って待ってと言ってあしらう。しかしエリィは淑女らしからぬ文句と小さな拳を、どんどん僕に浴びせてくる。そこで僕はしぶしぶエリィに、オペラグラスを渡す。

 レースは中盤へと移る。僕らの席から反対側のセントルイスの長い直線を高速で駆け抜けながら、ペガサスたちは互いの出方を探ったり、駆け引きをする。

 やがて四コーナーを回って、最後の直線へ入ってくる。レースは終盤を迎える。

 僕は目を細めてレースを窺う。一方のエリィは、オペラグラスを片手に彼女の故郷の訛りの強い発音でマリアへの応援を叫んでいる。もう僕にオペラグラスを貸すつもりはないらしい。

 いよいよ最終の直線、ペガサスたちの猛りがセントルイスに轟く。絶好の差し位置にスティーブン、先頭には黒毛の勇ましいコロンビアペガサス。スティーブンの騎手が大きく鞭を入れて、スティーブンは大きく加速し黒毛を差そうと迫る。しかし後方より、大きく外をまくって群を飛び出してくる一頭がいた。白銀のマリアだった。マリア・クローバーは優雅なリヨン種のペガサスだったが、いまは他のどのペガサスよりも勇猛果敢にエトワールの空を駆けている。場内のみんなが立ち上がり、もうすでに券の一部が広場を舞っている。大きく声を上げてそれぞれ叫んでいる。エリィも券を握りしめた右手をブンブン振り上げて、叫んでいる。

 そして最後も最後、スティーブンとコロンビアの差すか差されるかの一騎打ち。それよりも強く美しく、マリアが白銀の光矢のごとく駆け抜ける。そしてそのまま一閃、綺麗にまるごと二頭を差し切ったマリアが、見事に勝利した。

「マリア! あなたは最高のペガサスよ! 最強のプリンセスよ!」

 エリィが興奮して、プラチナのオペラグラスをそのまま放り投げてしまいそうな勢いでバンザイする。僕はつまらなくなってエリィの訛りをマネすると、エリィにそのままの勢いで思いっきり頬をぶたれた。エリィ自身もうっかり殴ってしまったらしく、僕より驚いていてすぐに謝ってきたので、許してあげた。その様子を見て、ウサギのじいさんはとても楽しそうにファファと笑っていた。

 僕とエリィはウサギのじいさんに改めてお礼を言ってから、エリィが見事に当てたレースの賞金銀貨二十枚を手にして、興奮醒めやまぬセントルイスを後にした。


 僕とエリィは、エトワールの中心の通りに戻ってきた。ちょうど僕らを、出迎えるように、教会から七色の音色が響き、時計台の仕掛けが動き出した。僕たちはその時、もうじきエトワールのお祭りが終わってしまうことを、知った。

 さっきまでお酒を交えて大声でサッカー談義をしていた、チェスターとその宿敵のレイスシティのサポーターたちは、今度は赤ら顔のまま仲良く肩を組んで、お互いを讃える歌を、歌っていた。

 メインストリートのお店は、まだ賑わいをみせていたけれど、バザールの方は、もう片付けを始めている露店も多く、セールと言って大きな声で、最後の呼び込みをしたりしているお店が、多くみられた。

 エリィは、寄りたいところがあると言って、僕を連れて、バザールの中を進んでいく。

 僕は、このお祭りがもうすぐ終わってしまう空気を、じわじわと感じていて、ちょっとばかりセンチメンタルな気持ちになっていた。

 エリィも、もちろんお祭りが、もうすぐ終わってしまうことは知っているし、もしかしたら僕以上に、感傷的になっているのかもしれない。けれども、僕の手を引っぱってお祭りの真ん中を進むエリィの姿は、どこか晴れやかで、むじゃきで、優雅ですらあった。

 お祭りが終われば、エトワールは、まるで泡沫のように、全てが消え去って仕舞う。

 妖精たちは、フィンランドの湖の森へ帰り、ペガサスたちは、天の塔へと舞い戻る。シベリアンの紳士は、きっと深い山奥のお屋敷に籠るだろうし、うさぎのじいさんも、どこかの草原の片隅でひっそりと余生を送るだろう。イタリアの古い珈琲屋は、また子供を相手にしなくなるし、十七ヵ国話せるフクロウも、ただの賢いフクロウに戻ってしまう。魔法省は、また現世との繋がりを限定するし、死者は、再び冥府へと還る。

 2000ギニーの馬券は、ただの紙クズとなり、不思議な飴玉も、ただの砂糖のかたまりになってしまう。

 全ての奇跡は、教会の鐘が五回鳴り響いた、その時に、解けて仕舞うのだ。


「これぐらいのお土産のものなら、お祭りが終わっても、きっとなくなりはしないわ」

 エリィは、空色の真珠と虹色の貝がらのブレスレットを手にする。

 ここは、さっきのマーメイドの装飾品のお店だ。

「これ、彼女の手作りなのよ」ミルクティーのような髪をしたマーメイドが微笑む。

「この一番綺麗なブレスレットを買うわ。ふたつね」

 エリィは嬉しそうに、真珠と虹色の貝がらのブレスレットを買った。

 それからエリィは「あなたは、きっと素晴らしいマーメイドになるわ、海の国に帰っても元気でね」と、マーメイドの手を握って言う。マーメイドもエリィの幸せを、祈った。

「もう二度と会えないかもしれないけれど、私たちいつまでも友達よ」

 エリィは、マーメイドと手を握りながら挨拶をすると、両頬にキスを交わす。

 それから、手を大きく振って、彼女と別れる。


「まだ銀貨が二枚だけあるけれど、欲しいものはないかしら?」エリィが、訊いてきた。

「大丈夫だよ」僕は欲しいものが思い浮かばなかったので、そう答える。

「なにかあるでしょ」エリィは納得がいかない様子だった。

「そうだな、なら、最初に寄ったロリーポップのお店に行きたい」

「あなた、甘いものがつくづく好きね」と、エリィに笑われた。

 閉店間際の、ロリーポップのお店に入る。

 僕らが来た時より、店内は空いていて、ここでもお祭りの終わりの雰囲気を感じた。キャンディをおまけしてくれた妖精の姿はなく、改めてお礼を言えず、残念だった。

 僕は、エリィの残りの銀貨で、彗星のキャンディを二つ買った。

「これなら、二人でちょうど銀貨二枚分、それぞれ食べられるね」

 僕はエリィに、彗星のキャンディを渡す。するとエリィは、ありがとうと小さく呟く。


 それから、僕とエリィは、そこからちょっと離れた緑地のベンチに腰かける。

 荷物を小舟に運び出す商人、お客のいないヴァポレット、泳いでいるマーメイドたち。お祭りが終わっていく運河の様子を、僕らは、ぼんやりと見ていた。

 ふと、懐かしい声が、僕を呼ぶ。

 お祭りのはしっこで見かけた、軍服姿の、僕の兄ちゃんだった。

 兄ちゃんは嬉しそうに、僕とエリィの名前を呼んで、僕らの座るベンチの前に立つ。

「どうだ、お祭りは楽しかったか?」兄ちゃんは、ベンチに座る僕とエリィの頭を、上から乱暴に撫で回す。どうやらいまの兄ちゃんは、やたらと機嫌が良い様子だ。

「ポーカーで、勝ったの?」僕が訊くと、兄ちゃんは、前のようにうまくいかずに、イカサマがバレて散々な目に遭ったとか、一部始終を笑いながら、話してくれた。

 それから兄ちゃんは、すこし照れくさそうに、軍服の内ポケットから汚れたシルクの白いハンカチーフで包んだモノを、取り出して、僕に手渡す。

 僕がハンカチーフを開くと、黄色の花が描かれた髪留めだった。

「母さんに、渡してくれないか」兄ちゃんが言う。

 僕がびっくりして、兄ちゃんの顔を見ると「安心しろよ、ちゃんと自分の金で買ったものだ」と、釘をさされた。

 僕が、まだ驚いていると「そういえばおまえ、レースは勝ったのか」と、今度はすこし意地悪な顔になって兄ちゃんに言われた。

「いいや、負けたよ。でも、エリィが」「勝ったよ! あたしのマリア!」

 そうか。そいつは良かったと、兄ちゃんはニコリとする。

 エリィの得意げな顔を見てから、兄ちゃんは、エトワールの夜空を仰ぎ、それから、真剣さと照れくささが、混ざったような顔つきを、僕へ向ける。

 そして「これが最後になるかもしれないな、伝えてほしいことがある」と言った。

 僕が、黙って首を縦に振ると、兄ちゃんが口を開く。

「母さんに、苦労させた上に、世界中の誰よりも、深く悲しませてしまって、すまなかった。いつか、いつか、帰るから、と。それと、親父にも、まぁ、それなりに、もうしわけなかった。それと、おまえは、これから、母さんと、親父に、迷惑をかけてもいいが、苦労は、させるなよ。なにより、これ以上、もう、二人を、悲しませるな」

 兄ちゃんは、いつになく眼差しを強く僕に向けて話した。

 僕の胸は、ちょっと苦しくなったけれど、しっかりと兄ちゃんの言葉を刻んだ。

「いいか?」兄ちゃんが、もう一度強く訊ねたので、一度だけ深く頷いた。

 すると、兄ちゃんは安心したように顔を和らげ、にこっと笑うと、それっきりもう二度と、僕を叱ったり、諭す時にするような、厳しい顔はしなかった。

 兄ちゃんは、指先で鼻の頭をこする。これは、兄ちゃんの癖だ。

 それから「じゃあ、もうお別れだな」ゆっくりと兄ちゃんは、大きな手のひらを広げる。

「あ、それと」思い出したように、兄ちゃんは言葉を続ける。今日の兄ちゃんは、とりわけ機嫌が良いみたいだ。まったく、兄ちゃんらしくない。

「エリィを、大事にしろよ」僕を冷かして、兄ちゃんは、最後にもう一度だけ、笑う。なんとも、兄ちゃんらしかった。

 僕は、僕がエリィに大事にされたいよ、と返そうとしたのだけれど、もう兄ちゃんは僕の前から、いなくなっていた。

 僕のほほをひとすじの涙が、自然と流れていた。

 兄ちゃんの汚れたシルクの白いハンカチーフで、僕は、その涙をふいた。


 それから、僕とエリィは、何を話すわけでもなく、彼岸のお祭りのにぎわいを、チラチラと弾き返している運河の水面を、ただ見ていた。

 わざと首がちょっと痛くなるくらいまで、大きく夜空を仰ぐと、夏の星座は巡っていて、月は深く西へと沈みかけていた。

 ふいに、黙って足をバタバタさせていたエリィが、飴玉を噛んで、それから、

「そろそろ、帰ろうか」と言った。

 まだ本当は帰りたくないはずなのに、エリィはベンチから立ちあがる。

 ゆっくり家路の方向へと歩み出す。まるでこれから夢の出口へ向かうようだった。

 エリィが、ゆっくり僕の前を行く。僕は、ゆっくりエリィのあとに続く。

 エリィが大事そうにいま握っている、マーメイドの美しい真珠と虹色の貝がらのブレスレットを、プレゼントする相手を、僕はとてもよく知っていた。

 僕は、歩みを早めて、エリィの隣に追いつく。

 それからエリィに話をする。一番おいしかったもの、驚いたこと、うれしかったこと。

 エリィも話をする。一番綺麗だったもの、感動したこと、たのしかったこと。

 僕らは、それぞれ今夜のエトワールのお祭りについて、話した。


 暁の空が瑠璃色に輝き、夜の星々は薄らいでいく。

 なにもかも全てが一夜の幻のように、やがて消えてなくなって仕舞う儚い魔法のように、エトワールのお祭りは、終わりを迎えようとしていた。

 遠くなった聖なる鐘の音が、五回鳴り響き、奇跡の終わりを告げる。

 森はまたいつものような穏やかな朝を迎える。僕の口の中にあったキャンディは、もうすでに溶けてなくなっていて、爽やかな香りだけが、まるで彗星のように尾を引いていた。

 僕は、さっきよりちょっと強く、エリィの手をにぎる。

 それからエリィは、微笑む。彼女の空の宝石のような美しい目は、いっそう輝いている。

 僕は、気付かれないように、小さくドキドキした。


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エトワールのお祭り トム・キャラメル @tom_caramel

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