手中に
S.24-9 始まり
火が、弾けた。少女は、意識の奥深くまで入ってきたその音を、確かに拾った。
瞼を開く。どうやら、知らない間に眠っていたらしい。
目を優しくこすりながら、少女は柔らかいベッドから静かに降りて、部屋のてっぺんに向かい、思い切り伸びをした。
窓から、強い光が差し込んでくる。少女がそちらへ目をやると、外ではチラチラと、純白の結晶が揺蕩っていた。まどろみに沈む前にはおびただしい雪が落下していたので、眠っている間に弱まったのだろうと、彼女は思いなす。
少女は、赤いレンガの壁伝いに、再び部屋の中に視線を戻した。赤レンガ造りの小さな家を温める暖炉の前では、白くて大きな狼が、一番良い所を陣取っている。
見た目通りに重くて、退かすのにも一苦労だから、少女は諦めて、大狼の柔らかいお腹に寄り掛かり、暖炉の恩恵を横取りした。狼はと言えば、欠けた耳をピクリと動かしただけだった。少女よりもずっと大きいから、体重を一身に受けても大丈夫なのだろう。
足を暖炉に向けたら、室内用の履物を透過して、熱が伝わってくる。汗が閉じ込められて、足の裏がジトっとしたものだから、少女は不快に思って、履物を脱ぎ、放り投げた。ゴロリと、履物の転がる音が部屋に響いたが、大狼は、全く反応しない。いつもこの調子である。
暖炉と大狼の温もりに挟まれた少女へ、まどろみが急速に迫ってきた。容赦なく襲い掛かってくるそれに身を任せていたら、背中が大狼からずり落ちて、頭だけが乗っかるという、大変窮屈な体勢になってしまう。でも、体に力を込める事さえ億劫になってしまったので、どうにかして、このままの状態で、背中を大狼の上へと戻そうと、少女はジタバタもがいた。すると、暖炉の上に掛かっている、頭の尖がった、古めかしい木製の時計が目に入る。時計は少女に、もうじきお昼になる事を、無言で伝えてきた。
時間だ。
少女は、週に二度程度通う習慣のある近所の聖堂へと、出かける準備を始める。神に祈りを捧げる訳ではない。遊びに行くのだ。
赤いレンガのでっぱりにひかっけた、お気に入りの真っ黒いコートを手早く翻し、羽織る。少し重たいコートだけれど、形がシンプルで、格好良い。他のコートと比べても、随一だ。続いて、黒いタイツの上から、手近にあった、底が厚くて、膝の下まである茶色いブーツを、少女が履く。外は雪が積もっているから、底があるこのブーツは、特に信用できる。
最後に、灰色の長いマフラーを首に巻き付けた少女は、鏡の前に立って、自分の様子を確認した。
褐色の肌に、真っ黒いコートがよく似合っている。それに、灰色のマフラーと砂色の髪の毛のコントラストが、際立って素敵だ。
鏡の向こう側で、上手におしゃれをした自分の鏡像が、嬉しそうにはしゃぐ。上機嫌になった少女は、相変わらず暖炉の前で転がっている大狼の背中をポン! と、強めに叩いてから、足早にドアの前へと立った。面倒くさそうな視線を向けてきた大狼は、見るも渋々、少女へと歩んできて、座る。ちょっぴり腹立たしいけれど、大狼は少女にとって、悪い事ばかりではない。
常に気怠そうな大狼は、それ故か、手綱を必要としない。従って、少女の両腕はいつでも自由に使えるのだ。加えてここ最近では、鳴く事は愚か、あらゆる動作がのんびりとしている。野生からかけ離れた具合だから、雪が空からハラリと舞い降りるみたいに、常に大人しい。何よりも、大狼は渋々であるが、少女のいう事をちゃんと聞く。彼女はそれだけで、大狼の従順さに、堂々と判を押せる。
「いくよ」
少女は見ずに呼びかけて、木製の薄っぺらいドアを勢い良く開け放ち、外に飛び出す。たっぷり積もった雪を踏みつけたら、白い結晶の海が、両足を中心として、波紋を広げずに起伏だった。白一色の上を踊るようにして、少女が軽快に振り返ると、大狼は、やはり億劫そうに、少女の歩いた痕跡を、のんびりと辿ってきた。体が大きい癖に、雪の日は必ず、前を歩く少女の足跡を追いかけるだけなのだ。
たまには大きい体を活かし、先陣切って雪を払ってほしいと、儚い望みを大狼へ向け、胸いっぱいに溜め込んだ冷たい空気を溜息として吐き出したら、白い煙が少女の口から飛び出して、みるみる膨れ上がった。静かに立ち昇るそれを目で追い、灰色の空を見上げたら、少女の顔にポツリと、比較的大きな雪の結晶が乗っかってきて、すぐさまどろりと溶けだし、冷たさと湿った感覚を、彼女に伝える。これが故郷であったなら、砂嵐の尖った粒で、ちくちくとした無数の痛みと、喉がつかえる息苦しさに、苛まれるだろう。冷たいどころでは、済まない。
少女は改めて、悉くが恐ろしい自然に身震いした。
結構重たい白銀を、半ば割るようにして進んでいたら、少女の進行方向に真っ黒い鉄格子がはばかった。それは、門だ。大人を縦に二人並べたくらいの高さがある黒い門は、格子の一本一本が、少女の片手で掴める程度の、細い金属で出来ている。柵の隙間は、少女の頭が丁度引っかかる位のものだ。
少女は、格子状の門まで、雪の重さに耐えながら一生懸命に進んで、可動部分がそこそこに埋まってしまった黒い門の前から、白い結晶の塊を、蹴って散らかす。こうでもしないと、こちら側に開く門は、雪の重さで絶対に動かないだろう。
柵の隙間から、少しくすんだ白い聖堂が、雪に浮いて見えた。
鉄門の隙間がもう少し広ければよかったのにと、心中で文句を垂れ流しつつ、一心不乱に、少女は雪を蹴る。ふと振り向けば、大狼が、頭に雪を乗っけたままに、大あくびをする所であった。
立派な四肢を持っていながら、全く手伝ってくれない大狼の、退屈そうな態度を背中から受けつつ、やっとの思いで、人一人分程度開くまで、少女は重くて冷たい塊を退かした。黒い鉄の門を引っ張って入り口をこじ開け、微妙な隙間へ体躯をねじ込む。幸い、お気に入りのコートが引っかかる事はなかった。
「おいで」
自分の肩に乗っかった雪をはたき落としつつ、門の隙間を維持したままに固定して、大狼を呼びつける。すると、雪の白と半分位まで同化した大狼は、ブルリと身を震わせて、纏った雪を四散させ、鼻先を門の隙間に食い込ませた。
大狼の乱暴な力に抵抗する雪が、黒い門越しに、ギチギチと音を立てて虚しく押しのけられ、とうとう、大きな体が、門のこちら側に来る。力持ちなのだから、初めから手伝って欲しいと、少女は心底呆れて、首を振った。
無機質な門は、少女の通う、小さな聖堂を囲むように立っている。鐘楼が丸っこい形をした横長の聖堂は、雪をかぶって真っ白くなった木々にも囲まれているから、まるで、何かから隠されているみたいだ。
少女は、白い石造りの聖堂の前に立って、所々が古びたさまを、何となしに見る。時代を感じさせるが、二階建てで規模の小さい聖堂からは、荘厳さまでは失われていない。寧ろ、古びた感じが、威厳を引き立たせているようにすら思える。建物の中央からぴょこんと頭を出した一等高い鐘楼だって、心なしか、誇らしげであった。
少女は、この小さな聖堂を、気に入っている。
誰かが歩いたのだろう、敷地外の深雪よりも幾らか底が浅くなっているそれをかき分けて、聖堂の正面にある扉を、がっちりと掴む。鐘楼と同じ金の着色が施された、高さ四メートル程の扉はとても重いから、少女は体を目いっぱい後ろに移動させる事で、扉を引っ張るのだ。
とても分厚くて重い扉は、少女の渾身を受けて、ギシっと、苦しそうに軋む。でも、いつもの事だから、大丈夫だ。壊れる事はないと、ここに来る人ならば、皆知っている筈である。
中から漏れ出してきた生暖かい空気を受けて身震いした少女が、素早い動きで扉の下にブーツの踵を引っ掛けて、重い扉を開放したままで固定する。半身を聖堂に突っ込んだ状態で大狼とまなざしを交差させたら、大狼が、勢いよく少女のわきをすり抜けて、奥へと溶け込んでいった。しっかり見ていたのだろうか、こういう時の大狼は、気が利く。
今度は、頷いて感心していた少女へ猛烈な寒気が吹き荒んで、服の隙間に忍び込んできた。殊更に体を震わせた彼女は、慌てて引っ掛けた踵から力を抜いて、大扉を閉める方向へ、無理やり引っ張った。すると、再び苦しそうに唸った扉が、バタン! と、勢いよく閉まる。重厚さを証言するかのように、空気の塊が、少女を正面から押した。
体が冷える。
防寒具の上から、氷みたいに冷たくなった指先を手でこねくり回しながら、少女は狼の横に急いで駆けて行って、行儀よく整列していた黒い横長の椅子に、飛び乗るように腰かけた。
綺麗に整列した横長の椅子も、扉と同じく木製だから、年季が入っている事もあり、ギシリと泣く。とにかく、聖堂の中は、軋み音ばっかりだ。
だから、誰かが来た事が、すぐにわかる。
少女の背後から、ギシリと軋んだ音がした。機敏に振り向いたら、彼女よりもだいぶ小さい少女が、白いこの場所に似合わない真っ黒な服を着て、座っている。彼女は目を瞑って、お祈りをしているらしい。
お祈りとは、律儀な事だと思った少女は、黒いフワフワの衣服を着た少女にそっと近づく。至近距離まで来ても、少しも動かないのだから、きっと祈りに夢中になっているのだろう。
少女のいたずら心が、刺激される。黒い少女に触る位まで近づいた彼女は、ぴょんと跳びはねるように、素早くお尻を落とした。勢い良く座ったからか、再び椅子が悲鳴を上げる。
「――っわわ!」
小さな肩を上に持ち上げた拍子に、黒い少女が叫んだ。驚かそうとしていたから、作戦は大成功である。
近くで良く見ると、少女と言うよりも、女の子、と言った感じに近い。黒い女の子は、金色の目をまん丸にして、口をぽかんと開け放ち、少女の顔を見つめてきた。
満足感でいっぱいになった少女は、小さな黒い女の子に話しかける。
「お祈りなんて、偉いね」
すると黒い女の子は、
「だってここ、聖堂だし」
と、模範的な回答で応じたものだから、少女は、”絶対に年下”の女の子に対して、頭が上がらなくなってしまい、口を噤んだ。
とは言え、この場所で祈るのは、敬虔な神の従者だけであろう。
――ノヴォデヴィチ聖堂。
この場所は、いつか誰かがそう名付けた。名前に聖堂を冠してはいるが、残っているだけであり、規模としては、教会と表現するのが正しい。尤も、”形や名前に意味はない”から、この聖堂の大小とか、司教の有無は、少女にとっては些末な話であるが。
建造当初は司教もおり、祈りを捧げる場として活躍していたのだろう。しかし今では、別の目的の為にも使用されている。
一年を通して冷たいこの国では、孤児が多い。五~六十年程前に発生した世界規模の戦争の爪痕が、形を変えて残っているのかも知れない。受け継がれるのは、良いものだけではないのだ。雪のように冷淡な話であるが、現実問題、極寒で子供が生きてゆく事は、難しい。だから、冷淡でない誰かが、古くなったこの聖堂を利用して、孤児を匿う施設としても利用しよう、と言い出したのだろう。結果として、現在のノヴォデヴィチ聖堂は、孤児院としての役割をも包含している。
尤も少女は、詳しくを知らない。なぜなら彼女は、せいぜい一〇〇年程昔に、この国に来たばかりだから。付け加えると、レンガ造りの家に住みだして、この聖堂に通い始めたのだって、去年からだ。
少女は、直近の歴史に詳しくないけれど、誰に聞かずとも、純然たる、たった一つだけを知っている。人々は、争いをやめられないのだと――。
兎角、黒い女の子は、孤児なのだろう。祈るというよそよそしい態度が、大方、最近聖堂へやって来たばかりなのだと、少女に教えてくるようだ。
そんな事を考えながら黒い女の子にまなざしを送っていたら、彼女はもじもじとし出した。だから少女は、パチン! と、なるだけ女の子を驚かさないように、白い大狼へ、合図を送る。
「ゼィエヴ」
大狼のゼィエヴが白い巨体を揺らし、律儀に通路を歩いてきて、少女の横に座った。ゼィエヴは芸こそできないが、黒い女の子を楽しませる事位は、出来るだろう。
「ケーヴィ?」
舌足らずに、黒い女の子が、恐らくはゼィエヴの名前を口にして、カクンと首を傾げた。あどけなさと、無垢な金色の瞳が、なぜだか、少女の笑いの感性を刺激してきたから、思わず彼女は、噴き出してしまった。
「ゼィエヴ、だよ。キッヒヒヒ――!」
お腹が痛い。少女は腹を抱え込んで、前のめりになる。
その拍子に、ゴツン! と、前にあった椅子の背もたれにおでこをぶつけてしまい、少女の笑いが一瞬で吹き飛んだ。
間抜けな具合を見せつけてしまったと、少し恥ずかしくなって、おでこをさすりつつ黒い女の子を見たら、彼女は、金色の瞳をまん丸くした後に、クスリと、小さく笑った。
「お姉ちゃん、面白いね。どこから来たの?」
金の瞳が、少女を見た。
おでこの熱が、だんだんと鈍い痛みに変化してきたから、患部をさする手の動きを遅緩させて、少女も言う。
「遠い所。砂があって、でも真っ黒で、何もない所。あなたは?」
黒い女の子が、とても細い指を胸の前で器用に組み付けつつ、小さな鼻の穴を膨らませる。
「わからない!」
自慢げに言った黒い女の子が、フン! と、鼻から空気を飛び出させつつ、胸を張る。威勢の良い鼻息が、少女の膝までフワリと降りてきて、くすぐる。
小さい女の子なのだから、無理もないと思って、
「お名前は?」
と、少女が別の事を聞くと、黒い女の子は、相変わらず誇らしげな恰好で「わからない!」と、同じ言葉を、同じ勢いで叫ぶ。
孤児の境遇は、大抵、良いものではない。仮に悪くなくとも、決して、良いとは言えないのだ。だから少女は、金の瞳をキラリと光らせる黒い女の子の背に潜むであろう冷たい真実を察して、これ以上は問わぬ事にした。黒い女の子は、このままで良い。悪い過去を直視しても、良い未来など、訪れないのだから。
少女は、静かに立ち上がって、黒い女の子から離れる。長い椅子が並ぶことで作り上げられた中央の通路をゆっくりと進んでから、部屋の奥にある、くすんだステンドグラスの前で手を広げた。
「こっちおいで、ケーヴィちゃん。遊ぼ」
少女は振り向き、ありったけの慈愛を込めた笑みを、黒い女の子に投げつける。すると、大狼ゼィエヴが白い巨体を揺らして駆け寄ってきて、少女の横に寝転がる。黒い女の子は、おっかなびっくりといった児戯な歩みで少女の下まで来たら、金色の瞳の中に、ステンドグラスのカラフルな光を煌めかせた。彼女が結んだのだろうか、黒い女の子の頭のわきから生えている、柔らかそうなポニーテールが、楽しそうに揺れている。
感化された少女は、変わってしまった世界の愛おしさを胸に刻まれて、深厚な笑みをこぼした。
白い女王のイリオスと、黒い少女のアンロック おかし @okashi
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