5.5 おやすみ

 イリオス。

 多くの人々を空の楽園へと導き、多くの人々を地上に取り残した、雄大にして、最悪の文明。欲望の赴くままに、狂った女王を頂点にたて、人々に不幸を振りまいた、罪深い文明。

 そして、人類最後となるべき文明。

 ハラルトは、イリオスを壊す。そう思いなした。だから、歪んだ文明の根城たる、天空の庭園を落とした。狂った女王だって、身に宿った虚空の力をぶつけて、無に還す。

 その筈であったのに。


 夜天の光すらも弾く孤高の白い女王が、最短距離で、ハラルトへ向かって詰めてきた。今までとは比較にならない程輝く女王は、しかし、空っぽに見えた筈の瞳の奥底に、一目でわかる怨嗟を燃やしている。

 ウトゥピアの携えた刃は、確かに強力だった。一閃の光のように振るわれた力も、ハラルトの虚空を用いて、何とか凌げる、という規模だった。だが、今の女王は、段階が違う。

 力も、速度も。精神だって、とっくに空っぽではない。ハラルトを化け物と罵った彼女は、口先だけでなく、明らかに本気だ。

 けれども、死ぬことは、許されない。愛する者の死に、ハラルトは憎悪したのだから。自分が死亡しても、悲しむ人間などもういないのだと、彼女にはわかっている。それでも、自分が死んでしまえば、まさに、愛する者へ、顔が立たない。

 死は、ハラルトにとって厭わしい。哀れで、悲しくて、心が燃えて、そして、真っ黒に染まる。そんな死を、ハラルトは否定した。

 だから、ヌルりとした汗の不快感よりも、白い女王の滾る怨嗟よりも、自信の心が生み出した恐れよりも、焦る気持ちよりも、比重が重い。


 死への、抵抗。


 全身から、虚空を弾きだす。噴出した暴力の化身が、空間を真っ黒に染めて、視界を埋め尽くす。それでも、瞳にべっとりと張り付いた白は、色を失わなかった。故に自ら、ハラルトは、女王へと突っ込む。

 二度と、そして、誰も、歪んだ光が見られないように。

 風も、音も、何もかも、離散してゆく。白い歪みと黒い虚空が、全力で直進した事で、相対的に生み出される迅さ。

 白い女王の瞳を、間近で見た。

 ハラルトは、渾身の虚空を宿した右腕を、腕がもぎ取れる位の勢いで、女王の体躯に叩き付ける。同時に、女王の左腕からも、歪な白さを蓄えた閃光が、ハラルトへ放たれた。


 ハラルトの眉間に、閃光が迫る。命中すれば、頭部と言わず、体のほとんどが吹き飛ぶ予感が、怖気としてハラルトに走った。

 行動せよと、体が言う。

 従って、虚空を纏った右腕と脚に、更なる力を流し込む。腕は、相手を消し去る為に。そして足は、”停止する為”に。

 ハラルトは、閃光が命中する寸前、本当に際どい所で、両足を地面へ強引に突き立てて、ピタリと、動く事を止めた。女王の顔を見据えたと同時に、右腕の先から、黒い虚空の塊を、解き放つ。

 止まったハラルトの髪の毛が、女王へと流れる。先端に、白い閃光が触れたから、目と鼻の先で、チリチリと、嫌な音がした。

 だが、それ以上の破壊は、ハラルトには訪れなかった。


 虚空が、ハラルトの心を蝕んだ全ての憎悪を乗せて、女王の腹部に滑り込んだ。


 あれほどの速度で突っ込んできたと言うのに、女王は、ハラルトの眼前――目と鼻の先で、微動だにしなくなった。女王の瞳に宿っていた怨嗟の炎など、とっくにない。生の輝きすら、彼女からは感じられない。

 ただ、女王は、止まった。風や音、それから、極限の緊張感も、ウトゥピアに追従して、停止した。

 初めて出会った時と同じような、空っぽの顔。白くて綺麗な肌だけは、星の光を受けて、虚しく光り続けていた。

 相対者の腹部を穿った虚空の塊が、煙のように揺蕩って、消滅する。伴って、女王の腹部に空いた大穴が、姿を現す。

 虚空が食い込んだ場所から、崩れてゆく。ハラルトの愛する者と、心を奪ったウトゥピアが、砂のように。

 やがて女王は、膝を折り、仰向けに崩れた。




 ハラルトの額から、忘れていたかのように、大量の汗が噴き出して、次々に顔をなぞり、地面に滴る。迫った死の感覚と、勝利した実感が、彼女の気持ちを緩めたのだ。すぐに、足が震えだす。人らしい生理的な現象に見舞われて、ハラルトも、大地に倒れ込んだ女王と同じように、お尻から地面に落下した。

 両腕で上体を支えて、空を見る。魂のこもった殺し合いなど、初めから見ていなかったかのように、何も変わらない光が、瞬いていた。そんな星々と自分は、全く同じ空虚だと、ハラルトは思う。歪を宿した、しかし空っぽな白い女王も、だ。人の心を持ち合わせていなかった女王は、それ故に、人類を守る手段を、間違えたのだろうか。

 永久に失われてしまった答えを見つけようとして、ハラルトは、ため息を吐き捨ててから、女王を見た。でも、倒れたままピクリとも動かない女王の白い衣が、主と同じように、哀れに光っているだけだった。

 壊したい世界。そんな思いが、ハラルトから抜けて出て行く。つい先ほどまで、彼女を突き動かしていた強烈な憎悪も、終わってみれば、何もなくなってしまった。壊したいと思うだけの価値すらをも、見失ってしまったのだ。

 空に行く前には、あんなに輝いていたハラルトの世界は、今や、何の色も含まれていない。

 女王は、この光景を、見ていたのだろうか。仮に女王が、文字通り、空っぽの世界を直視し続けて生きていたとすれば、彼女の選んだ人類を守る手段は、間違ってなどいなかったのかも知れないと、思えてくる。白い女王の瞳に、無我が映り続けていた事にも、今のハラルトには納得できた。

 勝利した果てに見た、余りにも不毛な結末。

 目的すらをも見失ったハラルトは立ち上がって、今更するまでもないとは思いつつ、お尻についた埃をはたき落とす。女王に背を向けた彼女は、上下左右のどこでもない方向へ、力なく、歩き出した。

 相変わらず、風も音も、無味無臭。そんな、雑然とした世界から、いくらも離れない所で。

「私だって、利己主義者の集う愚かな庭など、守りたくなかった」

 透き通るような声。それに、ハラルトが呼び止められる。

 振り向いたハラルトが見たものは、憑き物が落ちたように、無垢な笑みを湛えた女王の、壮絶な煌めき。冗談でなく、彼女の腹に穿たれた穴が、強烈な白で、目を潰してくる。

 顔を覆ったハラルトが言葉を継ぐ事は、できなかった。


「言ったでしょう。人は、化け物に、敗れないと」


 甲高い音がした。鼓膜に横一線の条痕が刻まれる。徐々に音量を上げたそれは、ついにハラルトの聴覚を、完全に奪う。そして、直後に発生した巨大な地響きが、体制を崩そうと、ハラルトを襲ってきた。

 ひたすらに、揺れる。

 顔を覆った腕をずらして、塗りつぶされた視界の隙間に、女王を見る。次の瞬間、強烈な光が女王を包み込んで、地面をめくり上げつつ、ハラルトに到達した。




 ハラルトは、酷熱を体の芯で感じ、無数の小さな槍で刺されたような痛みを、全身で味わった。しかし、それらの感覚は、少ししたら通り過ぎたので、今は問題ない。ただ、精神以外のあらゆる感覚が希薄で、前後不覚とまではいかないものの、強く戸惑う。だから、現状を把握する為に目を開いたのだが、そこは、ハラルトが放つ虚空のように、暗黒一色だった。

 手足を動かす。叫ぶ。そして、暴れまわる。それでも、相変わらず、この場所がどこであるのかが、見えてこない。

 合点がいかないが、どうしようもなくて、ハラルトは、膝を丸めて拗ねてみた。が、確かに丸まった筈であるのに、四肢の感覚がほとんど感じられないものだから、本当に動けたのかどうかも、怪しい。

 動く事は、無駄らしい。

 いい加減でそう判断したハラルトは、記憶を手繰り寄せる事にした。

 白い女王の閃光に呑み込まれた所までは、確かに見た。だから、世界が白く染まってしまうならば、まだ納得がゆく。でも、痛みと熱さを感じた瞬間に、世界が一瞬で黒くなってしまった。結果として、ハラルトはここにいるのだ。

 覚えている事など、それ位であって、これ以上の事はわからない。だからジタバタとしていたのだけれど、結局、何もわからないから、ハラルトは観念した。

 と言っても、何をするわけでもない。考えても、動いても、真っ黒い世界の正体を掴めなかったのだから、何もしないのだ。

 ハラルトは、ただ、黒い世界で揺蕩った。


 何となくではあるが、極めて長い時間、不動であった気がする。体というのは、長い事動かないと辛くなってくるものであるが、幸いハラルトの体躯は、何もしていない内に、全ての感覚を放棄していた。従って、居心地は、良くも悪くもなかった。

 奇妙な感覚に捕らわれたままに、更に時間が経過する。やがて彼女の精神は、とうとう、融解し始めた。思考や自我など、心が心たる要素が、どこかへ流れ出てゆく事だけが、ハラルトにはわかった。

 そんな中、溶け出る意識を食い止める声が、する。

『どこに行く』

 呆けていた頭が、たっぷりの時間をかけて、目を覚ます。尤も、時間の概念が曖昧であるから、たっぷりであったかどうかは、わからない。単に、たっぷりに感じた、と言うだけの事である。

「ぁ……」

 声が、出た。体の感覚は戻らないままであるが、発声する事は可能らしい。

 ハラルトは、上手に扱えなくなった体の中から、喋るという行為につながる部位だけを、慎重に選び出す。

「お前は……?」

『今や、形や名前になど、意味はない。意味を”なさなくなった”』

 何かが、聞き覚えのある言葉を、明瞭に言った。ハラルトのそれとは大違いだ。ずっと、この真っ暗な場所で、精神を保っていたのだろうか。だとすれば、心の強さに感服してしまうと、ハラルトは思う。

「ここはどこ?」

 恐らくは、何かの持っている豊富であろう情報を引き出そうと、ハラルトは問う。

『世界の外側だ。お前の形が無くなった時、溢れだした虚空が世界を呑み込んだ』

 全く姿の見えない何かが、到底納得できない事を、淡白に言った。

 ハラルトは、徐々に明瞭になりつつある思考で、理解し難い言葉を、何度も咀嚼する。そうして、何かに向かって、再び問う。

「死んだって、事? だったら、まだいるのは、おかしい」

 混じりけのない、単簡な質疑を、何かにぶつけた。考えても見れば、体が失われたという事は、死んだ、という事に他ならない。故に今、ハラルトが謎の場所で何かを考えて、何かを口にするなど、非凡な出来事なのだ。

 死んだ者は、二度と元には戻らないのだから。

 思考が、ピリピリと痛んだ。何か曰く、体が失われた筈なのに。

『お前は、女王と共に、死んだ。女王は世界に還り、お前は虚空へ還った。つまり、世界は残った。だから私がここにあり、お前もここにある』

 最後に何かは、淡白さを捨てて、言った。

『裏があるから、表もある。逆も然りだ。教えた筈だが』

 何かは、呆れたようだった。

 兎角、ハラルトが居る場所は世界の外側で、女王も自分も死んだのだ、という事だけは、理解できた。

「ウトゥピアも、世界の内側に、いるの?」

 ハラルトが虚空で揺蕩っているのだから、同じように、ウトゥピアの心は、歪みの中にいるのだろうか。

 しかし何かは、

『女王の精神は失われた。世界の内と外では、法則が異なる』

 とだけ述べた。

 納得できない事は山ほどあったけれど、ハラルトはこの辺りで、質問を止めた。ウトゥピアが死んだところで、今のハラルトには、全く関係のない事だ。それに、死ぬ直前で、世界の魅力は呆気なく霧散したのだ。今更どうこうしようとも、思わない。

 ハラルトの中に残っていたあらゆる概念から、興味が薄れてゆく。

 そうする事が出来るかはわからないけれど、ハラルトは眠りたいと思った。形は違うかも知れないが、何もせず、何も考えなければ、再び”自分”は、溶けて消えるだろう。


『お前は』

 だが、

『再び形を取り戻したら、お前は、どうする。世界を壊すのか。それとも――』

 何かが、突飛な事を聞いてきて、周辺の黒と同化する事を、阻んできた。続きが少しだけ気になったけれど、何を言っているのか理解が及ばなかった。だから、聞いても仕方がないと思いなして、ハラルトは何も答えない。すると、何かは喋らなくなった。だからハラルトも、溶けてゆく意識に身を委ねる。長い静寂が訪れる予感だけは、しっかりと感じた。

 ようやく、眠れる。安堵にも似た感覚と共に、痕跡を残しておきたいという不思議な気持ちが芽生えたから、ハラルトは、人らしい気持ちに従って、告げる。


「おやすみ」


 それからというもの、何かも、ハラルトも、黙った。音という音の一切を殺す、極めて重厚な静寂だけが、真っ黒い空間の中に、延々と間延びし続けた。

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