第2話
悔恨街道は、N盆地からI山地を越えてO市に至る最短距離の道として、奈良時代に設置された由緒ある街道です。古くは「今昔物語」や「日本霊異記」にもその名を見ることができます。昭和45年に現在のON自動車道が開通するまでは、O市に行くための唯一の幹線として使われてきました。しかし道幅が狭い難所が多く、特に山頂付近はつづら折りの少ない急勾配の道が続くために、事故が絶えない危険地帯として知られていました。
悔恨街道という名前の由来は、娘を遊女としてOに売らなければならかったN盆地の貧しい農民たちが、Oの町を振り返って悔恨の涙を流したからだと言われています。江戸時代には、売られた店から逃げ出した若い娘が、追っ手につかまりそうになり、悔恨街道の山頂付近から谷底に身を投げたという悲しい伝説が残っています。
現在はハイキングコースとして親しまれており、春には桜、秋には紅葉を、O平野とN盆地の全域を見渡す絶景とともに楽しむことができます。
--N県観光局ホームページより
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道が凍結していたのか、あるいはスピードを出し過ぎたのか、おそらくはその両方だろう。エンジンを振り切った状態で、コントロールを失ったバイクはガードレールに突っ込み、そのまま空中に飛び出していった。
ハンドルを離さなければ!そう思ったときには、私の身体も空を飛んでいた。遥か足下にガラス細工のような町の灯りが見えていた。
どれぐらい経ったのだろうか。
私は、谷底の川に半身を沈めて横たわる自分の身体を眺めていた。
不思議な気分だった。意識はあるのに、身体の感覚がない。いや、虚空に浮かんだ位置から自分の身体を眺めている時点で、意識があるというのは間違っている。
要するに、私は死んだのか。
あっけないことだが、そう思うしかなかった。
――なんだよ、こんなところで、死ぬのかよ!
悔し紛れに叫んだ。いや、身体は動かないので、心の中で、そう叫んだ。
しかし心の中の叫びにはこだまも帰ってこない。何て虚しいのだ。
そう思ったその時だった。
――死ぬのが怖い?
突然、話しかけてくる声があった。
――なんだ?
――死ぬのが怖い?って言ったのよ。
女の声だった。
――だれだ?あんた誰だ?どこにいる?何者だ?
――これから死ぬっていうのに、うるさい人ね。誰でもないわ。そうね。敢えて言えば、あなたみたいにここで死んだ者よ。もうずいぶん昔になるけど。
――なんだ、幽霊かよ。
――なんだってことはないでしょう。私はかなり先輩なのですからね。昔の人は、私のことを山の神って敬っているわ。あなたも敬意を示しなさい。
――山の神ってか。箱根駅伝で活躍でもしたのかよ。
――頭にくるわね。祟るわよ。
――勝手にしたら。それより、おれは、死んだのか?
――…正確にいえば、死んでいくところよ。あなたは、悔恨街道からこの谷まで落ちてきて、もうすぐ凍死するのよ。
――そういえば、あの峠道は、悔恨街道っていうのだったな。縁起が悪い道だな。
――今までの無謀な運転を思い出してみなさい。これまで、死ななかったのが不思議なぐらいよ。自業自得ね。
――あんな上から落ちたにしては、綺麗なものだな。傷一つないじゃないか。
――そうね。木がクッションになったから、殆ど傷はないわね。でも冬の川に浸かって、凍死していくのだから、同じことよ。
――顔でもグチャグチャに潰れていたら諦めもつくけど、こんな寝ているみたいな顔で死ぬのは悔しいな。そう思わない?
――思わない。
――腹立つやつだな。
――知らないわよ。
――ちくしょう。それにしてもくだらない人生だったな。
――本人が言うのだから、さぞかしくだらない人生だったのでしょうね。
――いちいち癪に障る。
――本当は、死ぬのが怖いのでしょう。
――ばかいえ。死ぬのが怖くて、峠を走れるかよ。
――そうかしら。みんな粋がっているけど、死ぬ時は泣き叫ぶのよ。死にたくないようって。
――何なんだあんたは。ここで、泣きわめくやつを見て楽しんでるのかよ。性格悪いやつだな。
――本当のことをいうとね、あなたはまだ本来の寿命じゃないの。今回のことは、イレギュラーな事故なのよ。だから、助けられないこともないわ。
――その手には乗らないぞ。あんたに助けてもらう筋合いはないね。放っておいてくれ。
――生きたくないの?
私は、自分の気持ちに尋ねてみた。生きたくないのだろうか?
山の神(らしき女)の声が言うように、私はこれまで死ぬことを恐れないような無謀な運転を繰り返してきた。心のどこかで、いつ死んでもいいという気持ちを持っていた。それは裏返せば、生きることに意味を見いだせなかったからだ。その気持ちは今も変わらない。
しかし、今になって、どうにも割り切れないものがあった。こんなところで死ぬわけにはいかないと訴えかけるものがあった。死ぬ間際には、誰もがそう思うのだろうか。いや、そうではない。何か分からないが、私には、大きな心残りがある。
――分からない。だけど、何か大事なことをやり残している気がするんだ。
山の神(らしき女)は、しばらく考えていたが、やがて言った。
――いいわ。あなたみたいな人に、この場所に居座られたら、私が迷惑だから、今回は助けてあげる。ただし、条件があるわ。
――条件?
――あなたの人生をスキャンさせてもらったわ。あなたは、ある時期から過去にばかり囚われて生きてきた。そんな生き方をしていたら、またすぐに今回みたいなことになってしまうわ。だから、条件は、過去を振り返らないこと。なるべく過去のことは忘れて、これからの人生を送ること。それができるなら助けてもいいわ。
彼女が、言わんとすることは、分かりすぎるぐらい分かった。私の人生を言い当てるとは、さすが山の神を名乗るだけあった。
――なんだか面倒くさい話だな。好きにしたらだめなのかよ。
――何か言った?
――いや。わかった。分かりました。条件を守りますよ。
私は両手を顔の前で合わせて祈る格好を思い浮かべながら彼女に言った。するとどこからか風が吹くような音がして、私の意識が薄れていった。
その代わりに、凄まじい音が、耳の奥に飛び込んできた。次いで、全身を貫く痛みと信じられないほどの寒さが襲ってきた。
私は、いつしか川に半身を浸かった状態で倒れていた。耳に冬の川の轟音が響いていた。感覚が戻るにつれて、耐え難い苦痛に捉えられた。生きるとは、これほど辛いことだったとは。
――大丈夫よ。山を下りるだけの体力は与えたわ。あとは耐えなさい。
おいおい、こちらの身にもなってみろよ。そう思いながら、ゆっくりと身体を起こした。確かに、生き残るだけの体力はあるようだった。
私は、時間をかけて起き上がり、痛む身体に力を込めながら、下流に向かって足を進めた。夢遊病者のような足取りで、途方もない時間をかけて。
どれほどの時間が経ったのか分からなかった。朝なのか、夜なのかもはっきりしない混濁した意識の中を歩き続けていたところを釣りに来ていた人に発見されたらしい。
「優一、しっかりして!優一!」
私の周りを大勢の大人が取り囲んでいた。知らない顔は、医者と看護婦なのだろう。知っている顔は、姉とその旦那。親父とその配偶者。その他。
「もう大丈夫ですよ。命にかかわることはありません」
医者らしき人が冷静に言った。
「よかった」姉が泣き崩れた。「本当に心配したのよ。あんな高いところから落ちて、まさか助かるなんて」
「勝手に殺すなよ」私はかすれ声で言った。
「何言っているのよ。あなた、七日も眠っていたのよ」
「どうりで腹が減ったよ」笑おうとしたが顔が引き攣って笑えなかった。
それよりも親父がここにいることが不思議だった。親父にじっと顔を見られるのは初めてかも知れなかった。
「そんな減らず口が叩けるなら大丈夫だな」
親父はいつもの皮肉な口調で言うと、興味を失ったように背を向けた。
「おまえのバイクは回収してある。いるなら使え」
そう聞こえる頃には、親父は既に病室を出ていっていた。
「親父、相変わらずだな」
姉はため息をついたが、こう付け加えた。
「あれでも、ずいぶん心配したのよ。お父さん、本会議中なのに、毎日、ここに来ていたのだから」
不安そうに私たちを見ていた親父の配偶者が、深々と頭を下げてから親父の後を追いかけていった。
なるべく過去を忘れて、新しい人生を送ることか…
その言葉を何度も反芻していた。
つまり生き方を変えることだ。
夢なのか、幻覚なのか、定かではない女の言ったことを律儀に守るいわれはないはずだが、どういうわけか、それに従う気になっていた。私にすれば珍しいことだ。
思えば、私の人生は、親父への反抗だけに費やされてきた気がする。
親父の全てが嫌いだった。その顔も、風貌も、においも、声も、発する言葉も、政治家という職業も。
小さい頃に母が亡くなると、すぐに親父は新しい母を連れてきた。政治家には妻がいなくてはならないと言って後援会の会長が紹介した人だった。
親父の規範は全て政治家としてどうあるかにかかっているようだった。それを私に強要しようとした。
「そういう人なのよ」私より六歳上の姉は、女性らしい包容力で親父を認めているようだった。姉は親父の勧めるままにある政治家の秘書と結婚した。今どき珍しい政略結婚のようなものだった。
私は姉ほど度量が大きくなかった。事あるごとに親父に反抗してきた。どうしても従う気になれなかったのだ。
私も悪かったと思う。新しい母は、よくできた人だった。弟が生まれた後でも、私たち姉弟に分け隔てなく接してくれた。特に長男である私を尊重する姿勢を崩さなかった。そんな彼女を私は認める気にはならなかったのだ。問題を起こした私を、警察に引き取りにきてくれたのも一度や二度ではなかったのに。
退院するとすぐに部屋を片付けた。過去を忘れるには、未練たらしく部屋に飾っているトロフィーや優勝盾やグローブやボールを整理しなければならない。家政婦が目を丸くする中、それら栄光の痕跡を段ボール箱に詰めて、庭のガレージの奥にしまうことにした。
もうキャッチボールもしないつもりだった。未練があるから、いつまでも記憶を捨て去ることができない。捨てることができないから、悔しくて、忘れるために荒んだ生活に逃避してしまったのだ。自分を見つめ直すことで、ようやく、その矛盾した心のからくりに気が付いた。
段ボール箱を運び込んだガレージで、私と命運を共にしたはずのバイクを見て、しばらく呆然とした。ミラーやライトの一部が破損しており事故車だということは見て取れるが、車体のメタリックは新品のように磨かれて、事故前よりも綺麗な状態だった。
「驚いた?」
いつの間にか、義母が後ろに立っていて、私に声をかけた。
「お父さんが、磨いたのよ」
私は驚いて、義母を振り返った。
「最初は傷ついて泥だらけでスクラップみたいだったのに、お父さんが、自分の手で、毎日毎日、磨き続けたのよ。曲がったフレームを工具で元通りにするのも全部自分一人でしていた。それがお父さんなりの優一さんへの愛情なの。お互い、自分の気持ちを表すのが苦手だけど、分かってあげて」
そう言いながら涙を流す義母をしばらく見た後、段ボール箱を下におろすことも忘れて、いつまでも新品のように磨かれたバイクを見ていた。
私は中途になっていた大学を辞めて、もう一度勉強して入り直した。大学では政治学を学び、卒業すると親父に頼み込んで、秘書の末席に加えてもらった。
まるで思ってもみない世界だったが、貪欲に学び吸収していった。先輩秘書の働きぶりや姉の旦那の優秀さもさることながら、親父の働く姿には驚かされた。
親父は、報道で見るような尊大で老獪なだけの男ではなく、与えられた使命が何であるかを常に自問し、責任を果たそうとする誠実な政治家であり、人間だった。その姿を見ると、以前はあれほど毛嫌いしていた姉が、大人になって親父に従うようになったことが理解できる気がした。
そして私は、過去に囚われないで生きるということが、これほど新鮮で挑戦心に富むことだということに驚いていた。今さらながら、無意味な反抗心で意地を張っていたことが、無益で愚かなことだったと悟った。
「そろそろ結婚しろ」
親父にそう言われたのは、二十八歳の時、親父の秘書になってから四年が過ぎた頃だった。
「まだ早いよ」そう言ったが、親父はいつもの強引な調子だった。
「早くない。忘れたのか。先方はずっと待ってくれている」
「先方?」私は、先方などという話を覚えていなかった。
さすがの親父も茫然とした表情を見せた。
「そうか。お前、事故の頃の記憶をなくしているのか」
親父の説明によると、事故の直前、私に結婚することを勧めたのだという。先方とは、後援会の有力者の孫娘だということだった。しかし、どんなことにも反抗していた頃の私は、当然のように、その話を突っぱねて、飛び出していってしまったのだという。その直後に事故に合ったらしい。
先方はずっと待っているというのだから、足かけ八年になる。驚くべきことだった。
「安心しろ。先方はまだ二十四歳の綺麗な娘さんだ」
もちろん年齢や容姿を問題にしているわけではなかったが、釈然としないものが残った。もう意味もなく親父に反発していた頃の私ではないし、親父たちが抱えている問題からすると、私の結婚相手が誰であろうと些細なことに思える。しかし、心のどこかに何か、違うと叫ぶものがある。だからといって、今の私に、親父たちを説得させるだけの理由はなかったのだが。
その日、親父は地元支援者が主催する講演会の講師を務めることになっていた。その後で、「先方」の人たちと会う手筈を既に整えていた。
講演が終わり、一般参加の人々が会場を出ていくのを私たち秘書が見送った。
その時、私の目は一人の参加者に吸い寄せられた。歩いて帰る後姿だけしか見えなかったが、間違えるはずがなかった。
私は、何の躊躇もなく、走って彼女を追い掛けた。
思いのほか、足の速い彼女だったが、会場から外に出たところで追いつくことができた。
「待ってくれ」
彼女は予想していたのか静かに振り返った。
「分かった?」
「当たり前だよ」
彼女は、首をすくめて少しだけ笑ってみせた。透明に見えるほど色が白く、小柄で、見たこともないような美少女だった。
「元気なようね。様子を見に来たの」
「山をおりたんだ」
「そう。でもすぐに帰るわ」
「待って」彼女の腕をとった。山の神の手は、折れそうに華奢だったが、しっかりとした弾力と暖かさを持っていた。
「とても感謝している。すべて君のおかげだ」
「ずいぶん、いい人になったこと」
「せっかく来たんだ。このまま帰らないでくれ」
「また無茶を言う」山の神は苦笑いをしたが、それは彼女の可憐さを一層引き立たせていた。
「おい。どうしたんだ。先生が呼んでるぞ」先輩が呼び出しに来て、私たちをみて怪訝な顔をした。
「そうだ。おれと結婚してくれ。いや、結婚してください」
彼女はさすがに驚いた顔をしたが、先輩秘書はもっと驚いていた。
「それは、いい考えとはいえないわ。あなたは、過去に囚われたらだめなのよ」
「事故の時は過去じゃないだろう。それ以前には囚われないが、事故の直後ならいいはずだよ」
「屁理屈はうまいのね」
私は彼女の手を掴んだまま強引に親父の前に連れていった。親父は既に後援会の有力者たちや若い綺麗な女性と一緒に私を待っていた。
「親父。ごめん。おれは、この人と結婚する」
後援会の人たちや「先方」の方々に動揺が広がった。場の困惑が、すぐに怒りや憤慨に変わっても、親父は周りほど動揺していなかった。
「その人は?」
「おれの命の恩人だ」
親父は、彼女をじっと見た。彼女も見返したようだ。
「それで、その人の名前は?」
「名前…」私はそこで初めて気づいて困惑した。「名前、なんだっけ?」
彼女は、山野ユキと名乗った。後で親父たちが調べると、悔恨街道の先にある古い名刹の娘ということになっていた。どういうふうに手を回したのか知れないが、問題のない家柄だった。
実をいうと、親父も最初の結婚、つまり私の母との結婚は、同じく政治家だった祖父の意向に背いた恋愛結婚であるらしかった。だから、親父も後援会の人たちも、血筋だと諦めたのか、強くは反対しなかった。 八年間待ったという先方には、丁重にお詫びしなければならなかったが。
しかし、最も説得が難しかったのは、彼女自身だった。
「あなたは間違っているわ」
「そんなことないよ」
あの事故以来、私は生まれ変わった。その後の人生は、彼女にもらったようなものだったから、彼女に捧げてもいいと思っていた。私は、どうしても彼女を離したくなかったのだ。最後は、私の情熱勝ちだった。
政治家の家に嫁ぐということが、どれほど大変なことなのか、私にはよく理解できていなかったが、ユキに関しては何の問題もなかった。もとより世俗の事情に疎いし、細かな感情や人間関係の綾を気に病むような人ではなかった。少し鈍く見えるが、物怖じしない態度はむしろ好意的に迎えられた。何より、私たち夫婦の仲が良好だった。少なくとも、私はそう思っていたし、ユキも久しぶりの人間としての生活を楽しんでいるように思えた。
結婚から十年が経ち、私は三十八歳になっていた。
突然、親父が政界を引退し、地盤を私に引き継ぐことを宣言した。
政界はもちろんだが、地元の後援会は蜂の巣を地面に叩きつけたような騒ぎとなった。
「優一にはまだ早い」というのがその理由だった。
しかし、親父はいつもの通り、がんとして譲らなかった。もう六十八歳なのだから、遅いくらいだと突っぱねて、意思を通した。
後援会を説得した夜、珍しく、皆と一緒に銀座のラウンジに繰り出した。親父は上機嫌だった。
「これからは優一にすべて任す。おれはこれ(ゴルフのポーズをしながら)とこれ(小指を立てて)に集中するから邪魔するなよ」そう言って哄笑した。
親父の側に、ジーンズにポロシャツというラフな格好をした男が座っていたので、気になった。
「あれは誰だ?」先輩秘書に尋ねると「情報屋だよ」と答えた。
「情報屋?」
「ああ。この世界は表の情報だけではやっていけないからね。ああいう連中の持ってくる裏ネタも必要なんだよ。先生は、あの男をずっと使っている。優一さんにも紹介しておくよ」
男は私の前に来ても、愛想の一つも言わず、じっと値踏みするように見ていた。いい加減気づまりになったところで、おもむろに口を開いた。
「伊坂優一。19××年×月×日生まれ。血液型×型。母親は十二歳の時に亡くなった。N高校野球部のエースとして選抜甲子園出場。二回戦敗退。××大学の野球部に推薦入学するが、一年の時に肩を壊して野球を諦める。その後、しばらく荒れた生活を送るが、すぐに改心して××大学に入学、政治学を専攻。卒業後、父親の政治家秘書となり、三十八歳で地盤を引き継いで衆議院選挙に立候補予定」
あっけにとられて口が聞けない私をなおも男はじっと見ていた。
「これがあんたのストーリーだ。それなりに波乱に富んでいて面白いが、このストーリーにはスパイスがない」男はここで間を置いた。「だから、あんたにはまだ魅力を感じない」
男はそれだけ言うと、ふらりと立ち上がって、そのまま店を出ていってしまった。
毒気を抜かれたように口が聞けないでいる私に先輩秘書は可笑しそうに笑って言った。
「気にしないでいいよ。あの男はスパイスおたくでね。いつもあんなことを言ってるんだ。ああいう男にも慣れないと、一人前の政治家には慣れないよ」
しかし私には、あの男のナメクジのような不気味さが、背中のあたりに張り付くようで落ち着かなかった。
親父の読み通り、半年後に衆議院解散総選挙があった。私は予定通り、地盤を引き継ぐ形で出馬し、対立候補に大差をつけて当選した。
しかし、私の選挙事務所に親父の姿はなかった。親父は選挙公示のわずか前に息を引き取った。末期癌だった。
私の当選は、親父の弔い合戦という演出のおかげでもあった。政治家として最後まで生きた親父らしい死に様だった。
「おめでとうございます。先生」
今まで先輩だった秘書が、急に丁寧な敬語を使うようになった。祝賀会の後の二次会で、関係者と酒を飲んでいた。
「やめてくださいよ」
「いえ。けじめはつけましょう。人が見ているところだけではなく、普段から、先生と呼ばせていただきます」
彼は大真面目だった。
「父の遺志を引き継いで日本を変える…か」私は選挙運動の際に、何千回と繰り返したスローガンをつぶやいた。
「本当にそうありたい。親父は、政治家として何をしようとしたんだろう。おれはまだ掴んでいないかも知れない」
「先生。その心がけは立派ですが、政治には理念と同時に、力がなければなりません。力とは継続です。次の選挙でも圧勝するために、地盤を強化していかなければなりません。先生の強さは、固い地盤の上に立っていることでした」
「そんなことは分かっているよ」
どういうわけか、親父の後を継いで、国会議員になった途端、虚しさがこみあげてきていた。
あれほど憎み、そして尊敬した父を亡くしたからなのか。あるいは、激しい選挙戦の後なのだからか。一種の燃え尽き症候群になっているのかも知れなかった。
「初めての選挙の後だから、そうなるのも仕方ないですよ。まあ、しばらくはのんびりいきましょう」秘書は大らかに笑った。
女優のように綺麗な女性が、入れ替わり私の横に来て酌をしていった。以前は親父の姿を横目に見ていたものだが、今は自分がその位置にいる。
女性たちは立ち居振る舞いも話題も洗練されていて飽きさせなかったが、やはり私は虚しさを感じざるを得なかった。私の様子を後援会の重鎮たちがそれとなく観察していたからだった。
「女の接待を受け入れるのも政治家の度量のうちですよ」と聞かされていたが、まだ若い私には度量が足りないようだった。
ところが一人だけ、気になる女性があった。その人は、どちらかというと地味で、小柄で色が白かった。あまり話さず、目を伏せがちにしているのが、どこか儚げな印象を与えた。
太陽をいくつも見た後に、月を見せられた気分とでも言おうか。不思議に引き寄せられる気がした。
周りの人たちはその様子を敏感に感じ取ったらしい。いつの間にか、私の知らない間に、その女性とどこかへ行く手筈が整えられているようだった。
「いや。待ってください」慌てて言ったが、後援会の人々は「いいから、いいから」とでもいうように手を振って、私を制した。
――いいわよ。
突然、声がした。ユキの声だった。
――なんだって?
――私はいいわよ。男なんだから、いろいろ経験して来なさい。
――何を言ってるんだ。
私は立ち上がって、彼らに言った。
「皆さん。お気遣いありがとうございます。よく政治家で愛妻家って言う人がいますが、そんな人に限って胡散臭いなって思ってきました。だから私は自分が愛妻家だなんて言わないでおこうと思っていました。でも、今、決めました。私は、愛妻家であることをプロフィールに書こうと思います。これに関しては、裏も表もありません。ひよっこで未熟者ですが、これに関しては生涯貫いていくことを約束します。これを私の最初の公約とします。だから破りそうになった時は、どうぞ叱ってください」
後援会の人々は、しばらく口を開けてポカンとしていたが、やがて弾けるように笑い出した。「よう言った」「わかった、わかった」などと言いながら、手を叩いた。接待役の女性までも手を叩いていた。
――ばかね。本当によかったのに。
――いいんだよ。君に捧げるって言っただろ。
いつの間にか、あの情報屋が、私の側に座っていた。相変わらず、粘りつくような目で私を見ていた。
「面白い言い分だな。ああいう演説は初めて聞いたよ」
「本気ですよ」
「ああ。そうだろうね」男は不気味な笑みを浮かべた。
「ただ、あなたの女の好みが分かった。今の女性も、奥さんも同じ系統だ」私はぞっとするのを覚えた。「ここに何かあるのかも知れない。あなたなりのスパイスがね」
衆議院議員になって、最初の本会議で質問機会が与えられた。新人議員が抜擢されたのは、親父の実績に配慮したものだった。だが、私の質問内容は、内外に好意的に受け取られたようだった。
自分に与えられた役割の分野について、猛勉強し、エキスパートになろうとした。一定の分野について深く掘り下げる方法は間違っていなかった。私は若いが政策通であるという評価を得て、テレビにもしばしば呼ばれるようになった。もちろん、そうしたことで目立つことは、地元の支持にも大いにつながった。
忙しかったが、地元に帰ることは厭わなかった。地元重視が親父の頃からの方針だったこともあるが、ユキとなるべく一緒にいたいという気持ちが強かった。彼女は、東京に出ることを嫌がり、地元に止まろうとしていた。だから、私は暇さえあると地元に戻ってユキとの時間を楽しんだ。
子供ができないのは問題とされていたが、ユキに対する私の変わらぬ愛情は、周囲から好意的に見られていた。政治家に対するスキャンダルに厳しい世の中だから、その恐れがないのは、安心材料だった。
ユキは、山の神らしく、出会った頃から少しも歳をとらなかった。私は夢のようだった。
「でも、あまり歳をとらないと変よね。歳相応になろうかしら」
「急に歳とったら、逆に変だよ」
「そうよね。徐々に歳とらないと。面倒くさいわ。人間ってよく出来ているわね」
「だからそのままでいいよ。いつまでも」
「それじゃ神様になってしまうわ」
「優一、優一じゃないか!」
東京の街中にしては珍しい男に声を掛けられた。
「健三か!」
私たちは、その場で胸を合せて抱き合った。
「お前、活躍してるな。いつも見てるぞ!」
健三は、昔と変わらぬ大きな声で叫ぶように言った。
「お前は、どうしたんだよ。どうして東京にいるんだ?」
「ははは。おれも東京ぐらい来るよ。お前は知らんだろうが、これでもちょっとした会社をやっていてな。出張みたいなもんだ」
聞くと、最近、急速に拡大している飲食店チェーンのオーナーだということだった。地元でも東京でも、 その名前はよく見るようになっていた。
「本当かよ。あのチェーンのオーナーか。お前、凄いな」
「ははは。お前ほど凄くはないぞ」
そして、健三は、少し声を落として言った。
「一度ぐらい同窓会に来いよ。皆待ってるぞ」
健三は、高校野球部のキャッチャーだった男だ。つまり私の女房役だった。
身体も顔もごついが、心根の優しい男だった。
一年からレギュラーだった私は、先輩たちから理不尽に殴られることがよくあった。
私は権威を笠に着るやつが大嫌いだったから、一学年早いという理由で殴られることに我慢ならず、何度も退部しようとした。
そんな時に、私を慰め、説得したのが健三だった。彼がいなければ、一年のうちに野球を辞めていただろう。
健三は、不器用だが、よく練習をして、三年になってレギュラーになった。チームメイトからの信認が厚く、全員一致でキャプテンとなった。
だから彼と一緒に甲子園に出られたことは、私にとって、何にも替えがたい青春の記憶だった。
しかし、私は野球から目をそむけた。きっかけは、大学一年で肩を壊して、投げられなくなったことだった。もうピッチャーとしては復帰できないと聞いて心が折れた。
あの時、健三が近くにいてくれたら、何と言っただろう。内野手として復帰を目指せと言っただろうか。それとも、第二の人生に向けて進めと言っただろうか。
残念ながら、私は弱い男だった。試練に立ち向かえず、逃避することしかできなかった。
甲子園に出場したチームで同窓会があるのは知っていたが、参加する気にはなれなかった。野球を辞めて、無様に逃げている自分の姿を見せることはできないと思っていた。
そして政治家を志してからは、そんな過去のことは意識して忘れるようにしてきた。
同窓会に初めて参加することを、ユキに言わなかったのは、隠したかったからではない。彼女の能力が、私の隠し事を見逃すはずはないから、隠しても意味はない。
もう過去の栄光から逃避している自分ではないという判断があり、初めて同窓会に参加することにした。自分でそう納得しておきながら、話題にしなかったのは、どこかに後ろめたい気持ちがあったからかも知れない。
地元の繁華街にある居酒屋がその会場だった。時間ぴったりに、個室になった大広間に通されると、チームメンバーは全員揃って待っていてくれた。
部屋に入った途端、全員が拍手で迎えてくれた。
「みんな、今まで不義理していたおれを…」
「何を言ってるんだ」
「そうだ。お前は、おれたちのエースじゃないか」
「ずっと待ってたんだぞ」
茫然と立ち尽くす私の肩を抱いて健三が上座に座らせた。健三の隣だった。
チームメイトが順繰りに私の前に来て、酒を注いだ。
「よく来てくれたな」
「おれたちを忘れないでいてくれたか」
「当たり前じゃないか」私は言った。「来てよかったよ。本当に。今までなぜ来なかったんだろうって思うよ」
酒が進むと、懐かしい高校時代の話になった。その多くは、甲子園に出場した時のことではなく、毎日の練習の話だった。苦しいことばかりだと思っていたのに、思い出してみると腹がよじれるぐらい可笑しな話ばかりだった。皆、必死だったから、今になって笑えるのだ。本当に苦しい思いをしてよかったと心から思う。
「そういえば、監督はどうなさってる?」声を落として、健三に聞いた。
「おまえ、忘れたのか。監督は、十年も前に亡くなったぞ」健三は、厳しい目で私を見た。「葬式に秘書の方が来られて、お前が忙しくて参列できないって、わざわざ言ってくださったんだぞ」
「秘書が?」
私は知らされていなかった。親父の指示だったのかも知れないが、なぜ、高校の野球部の監督の葬式を私に知らせなかったのだろう。
健三は、じっと私を見ていたが、やがて怪訝な口調で言った。
「お前、昔、大事故に合っただろう?その時にいろんな記憶を亡くしたという噂を聞いたんだが、本当か?」
「いや。そんなわけじゃない。ただ、意識して忘れようとしていたが…」
健三は心の奥まで見通すような目で私を見続けていたが、ようやく口を開いた。
「サトウハルカのことはどうだ?」
「サトウハルカ?」
「本気か?」健三は信じられないという顔をした。
「本当にお前が記憶を失っているのだとしたら、お前にとっても、彼女にとっても悲劇だよ」
「どういうことだ?」
しかし健三は、それ以上口をつぐんで語ろうとはしなかった。
同窓会会場から出ると、秘書が待っていた。私は彼の運転する車の後部座席に乗り込んだ。
「お疲れ様でした。同窓会もいいものでしょう」
「ああ」
「高校や大学時代の人脈は大切にしなければなりません。特に先生のように、甲子園に出た経験は売りになります。チームメイトとの関係を良好に保っておくことは後々選挙で有利になります」
私は何も答える気にならずに、考え事をしていた。
「どうしました?顔色が冴えませんね」
「いや」
「佐藤春香のことを聞きましたね」
驚いて、ルームミラーの中の彼の顔を見たが、表情も変えず、前を見たままだった。
「佐藤春香は、先生がいた高校野球部のマネージャーでした。先生が結婚した後、前の先生の指示で、まとまったお金を渡そうとしましたが、佐藤さんは受け取らず、県外に出ていかれました。しかし最近また県内に戻ってこられて、××市の介護施設で、介護福祉士として働いておられます」
「何でそれを知ってるんだ」
「前の先生の指示です。先生が記憶を無くしておられるようなので、こちら側で解決しようとのことでした」
私は自分の記憶のミッシングリングを見つけたことに驚いていた。思い出さなければならないことがある。だが、それを思い出せば大変なことになるような気もしていた。前に進むべきか、止まるべきか…
「明日の予定はどうなってる?」
「明日ですか」秘書は頭の中の予定表を繰っていた。「明日は、地元支持者の会合、後援会との食事、午後は地方新聞の取材、後は会議です」
「キャンセルできるか」
「はい」
「佐藤春香のところに行ってくれ」
次の日も朝から晴れ渡っていた。朝一番の交通ラッシュが始まる前に車を走らせたが、それでも県境の町まで高速道路を使って一時間近くかかった。
ユキは、私の行動を十分に承知しているはずだったが何も言わなかった。私も説明しなかった。こうするしかないと今は思っていた。
秘書は慣れた道のようにいくつかの角を曲がって、あるアパートの前に車を止めた。
「ここは?」
「佐藤さんのご自宅です。この時間なら、まだ家におられるはずです」
ちょうど扉が開いて、背の高い青年が家を出るところだった。
「子供がいるのか」
「大学生一年生です。佐藤さんがお一人で育てられました」
私は、激しい胸騒ぎを覚えながら車を降りた。青年は、すぐに私を認め、やがて驚きの表情を浮かべた。
青年は、今出てきた部屋に向かって、声を掛けた。私の胸騒ぎがさらに激しくなった。
青年の横から、小柄な、まるで少女のように見える女性が表れた。
小柄で、化粧気のない地味な女性だが、色が白く、愛らしい顔をしていた。
「春香」私は思わず叫んでいた。
「優一」春香は、心拍を抑えようとでもいうように胸に手を当てながら言った。その横で、私にそっくりな 青年が、しっかりとした表情で私を見ていた。
今こそ、私は思い出していた。
春香とは、高校の時から惹かれあっていたが、付き合うようになったのは、大学生になってからだった。
私の方から何度も何度もアプローチしてようやく応じてくれたのだ。
しかし私はすぐに野球を諦めなければならなくなり、子供のように拗ねて、周囲に当たり散らした。
せっかく春香と付き合うようになったというのに、ある時は彼女を邪険に扱い、ある時は慰めてもらおうと激しく求めた。
身勝手な私に対して、彼女は底が知れないほど優しく接してくれた。それが私にはつらくて、余計に傷つけようとしてしまった。
「結婚しろ」親父が私に宣告した。
「いやだ」
「今付き合っている女がそんなに大切か?」
「別に」
「ならいいだろう。そっちの方は、うまく話をつけてやる」
「うるさいな。関係ないだろ」
私はバイクを無茶苦茶に飛ばして、やりきれない思いを忘れようとした。
走り屋が集まる峠に単独で行って、彼らの走行を邪魔して、殴られたこともあった。
逆に、五六人の集団を一人で叩きのめしたこともあった。
彼らの連れていた女を後ろに乗せて、そのままホテルに連れ込んだこともあった。
「お前、春香を何だと思ってるんだ」健三が言った。
「関係ないだろ。それとも、そんなにあいつが好きか?」私はあざ笑った。
「ふざけるな」健三は私に掴みかかろうとしたが、逆に組み伏せた。
「おれに嫌気がさしたら、別れればいいんだ。おれを待つのも、去るのも、あいつの勝手なんだ」
「ばかやろう」健三は怒りに満ちた目で私を睨んだ。「春香は黙っていてくれと言ったがな。あいつはもうすぐお前の子を産むぞ」
私は、健三から聞いた病院へ向けてバイクを飛ばした。
山を越えたところにある小さな産院だった。
あまりにも焦っていたからか。気持ちが動転していたからか。何度も走った街道なのに運転を誤った。
そして私は、峠から谷底へ転落したのだ。
洪水のように押し寄せる春香との記憶が、私を押し流していった。
二人の元へ駆け寄ろうとした私に、手を差し伸べる春香の姿が、霞のように白く消えてなくなっていくのが、夢のように見えていた。
今、私は、谷底に、半身を冬の川に浸からせながら、横たわっていた。
もはや身体に感覚はなく、その様子を虚空から眺めていた。
――いったいどうしたんだ?
――だから、過去を振り返ってはいけないって言ったでしょう。もう少しは生きられたはずなのに。
ユキの声だった。
――今、見たのは、ただの幻覚なのか。それとも現実の未来だったのか。
――どうかしら。
――おれはこのまま死んでいくのか。
――死ぬのは怖くないって言ったじゃない。
――ひどいやつだな。残酷すぎる。
――私ができるのはここまでよ。
――待て。待ってくれ。
――じゃあね。会えてよかったわ。
――待てよ。おい。待て。待て。待て。
――今度はうまくやるのよ。
――待て。待て。待て!待て!待て!
いつしか身体に耐えがたい痛みと苦しみの感覚が戻ってきていた。頬に当たる水流が、まるで洪水のような轟音を耳に響かせていた。
身体の位置を動かそうとするだけで、身体の全ての細胞が、地獄のような苦しみに悲鳴を上げた。
それでも私の気力は萎えなかった。
私は生きている。それだけで十分だった。
今度はうまくやるのよ、か。もちろんだ。
谷底から悔恨街道を見上げながら、ユキの気配を探したが、それはどこにもなかった。
私は、岩石のように思い身体を引きずりながら、希望を全身にみなぎらせていた。
これほど苦しい瞬間なのに、こみあげる笑いを抑えることができなかった。
私には未来が広がっているからだった。
悔恨街道 こまぞう @komazou
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