同僚の奥さん

こまぞう

同僚の奥さん

 仮死状態に近い眠りから引きずり起こされて、慌てた私は、万年床の周りに置いたままになっているビールの空き缶や灰皿やカップラーメンの残りを盛大に蹴散らかした。

「なんだなんだなんだ」

 部屋の電気のスイッチが分からずにうろうろしたが、何のことはない、枕元に置いてあるスマホがうなり声のようなバイブレーションとともにかん高いアラームを鳴らしているのだった。

 電話の着信だった。

「あい」寝ぼけてうまく言葉が出ない私以上に、電話の先は、呂律が回っていなかった。

「こんようか、よいよ、よれはもうとうしへもはまんならんのら」

「はあ?山本か?お前、何を言ってるの?」

 酔っぱらって自分が何を言っているのかも分かってないようだった。次第に目覚めてきた私はテーブルの上のデジタル時計に目を凝らした。午前3時26分。いったいどういうつもりなんだ。

「こんよう、ほれはもうはめやお」近藤、おれはもうダメだよ、とでも言っているのだろう。これは放っておく他はないとあきらめて、スピーカーボタンを押してスマホを畳の上に置き、煙草に火をつけた。山本は、そのままわめき続けている。

 十分ほど聞いていて、ようやく何を言っているのかが分かってきた。やつは奥さんが浮気したと言ってわめいているのだ。おそらく近くの飲み屋にでも入って、迷惑な客としてもてあまされているのだろう。電話の向こうからは「もうそろそろお帰りになった方が」という声が聞こえていた。

「おい聞いてるのか、近藤」

「聞いてるよ」私は畳の上のスマホに言った。「おれは、午前3時39分に、同僚の泣き言を聞いてるよ」

「そうか、お前なら、おれの気持ちが分かってくれると思ったよ」

「いい迷惑だと言ったんだよ!」

 怒鳴ってやったが、山本は人の話は聞かずに、わめき続けていた。

 脈絡のない話だったが、整理すると、今日(昨日だが)山本が奥さんの携帯電話を覗きみて、男からの怪しげなメールを発見した。そこには、奥さんのあられもない姿を写した写メが貼付されていたという。

 私は山本の奥さんのことを思い浮かべた。結婚式と、後は社内のイベントで二度ほど見かけただけだったが、それは山本のようなハゲネズミには似つかわしくないスラリとした長身の美人だった。

 あの奥さんが浮気ねえ。

 あり得る話だ。そもそもあの美人が山本と結婚していること自体が不自然なのだ。以前からやっかんでいたこともあって、多少溜飲を下げながら、その奥さんの「あれもない姿」の写真を下卑た好奇心で想像した。

「何でお前はそうなんだ!」私の心を読んだのか、山本は突如怒り出した。が、すぐに珍妙な声を響かせた。

「おうっ、おうっ、おうっ、おうっ、おうっ、おうっ」

まるでオットセイの鳴き声を声帯模写しているかのようだ。びっくりしてあっけにとられたが、それは山本の泣いている声なのだった。

 さすがに山本が迷惑をかけている店の人たちも我慢の限界を超えたのだろう。「いい加減にしろ」という声が聞こえたかと思うと、通話が切られてしまった。


 その朝、寝不足で不機嫌のまま出社すると、既に山本は自分の席に座って書類作成に取り組んでいた。

「先ほどはご苦労なことで」

 私が皮肉たっぷりに聞こえるように声をかけて、自分の席に座ると、山本はなんだコイツとでも言いたげな顔で私を見た。

 さすがに腹を立てた私は、やつの方に乗り出して「いい加減にしろよ。いくら事情でも、夜中の3時に電話するなよな」と囁いた。

「はあ?電話?」

 山本は怪訝そうな声を出した。

「おれがお前に電話した?」

「何なんだよ、お前は」心底呆れかえってやつの顔を見たが、分厚い眼鏡の奥からはとぼけているような表情は見えない。

「どういうこと?忘れたの?」

「何でお前に電話しなきゃいけないのだ。変なやつだなあ」山本の方が、呆れた顔をして、やれやれと首を振り、自分の作業に戻っていった。

 狐につままれたという言葉は知っていたが、その形容を使いたくなる気持ちになったのは生まれて初めてだった。

 私は自分のスマホを取り出して、今朝方の着信履歴を見た。すると確かに、山本から電話が入っている。

スマホの画面と山本の横顔を何度も見返したが、澄まして書類作成している姿を見ると、何も言えなくなってしまった。


 山本とは同期入社だが、やつは大学に入る前二浪しているので歳は二つ上になる。同じ部署に配属されて、今は同じ課長職にある。しかし、やつは名ばかりの職制で、実質は私の部下の扱いだ。

 はっきり言って、仕事はできない。私の課内の誰よりもできない。きっと今も、普通の者が五分で済む書類を一時間ほどかけて作成するのだろう。それが終われば、宅配便の荷物を作って一日を終わらせるつもりだ。それぐらいしか能のないやつだから「梱包課長」などと陰で言われていた。

 課内だけでなく、部内の人間のほとんどが、山本の能力を知っていて、私に同情していた。私は課内にお荷物を抱えていて、その分をカバーしなければならない。そして、そのお荷物は、同期面をしてため口をきいて、夜中の三時過ぎに電話してくるのだ。

 以前、山本が他の部署にいた頃、仕事のミスを叱責されると途端に心が折れて、会社に出てこなくなったらしい。うつ病だと診断されて長期休養したこともあった。厄介なことだが、今は、部下の精神の健康は上司の責任にされてしまう。

 いくつかの課で持て余して、私の課に来ることになった時には、専務がじきじきに私に「よろしく頼むよ」と念押しにきたほどだった。

 それでも山本が課長職にあるので、形式上、私の課は二人課長体制にある。私とすれば理不尽極まりない話だが、それにはやんごとない理由がある。

 実は、山本の家は、誰もが知っている超一流企業の創業家であり、父親はその取締役にある。その超一流企業がへそを曲げれば、私の会社などたちまち立ちいかなくなってしまうほどの影響力を持っている。

 その大得意先からの縁故入社なのだ。

 当然、社長や専務など上層部は丁重に処遇しようとするが、我々しもじもの者からすると、憎々しい話である。ただでさえ、そういう立場にあるのに、本人は空気を読まずに、大物気取りの態度をとりたがるものだから、同期からも後輩からも女性の一般職からも、バカにされて、陰湿ないじめの対象にされていた。

 確かに、出生の地位と生来の能力に著しいミスマッチがあったというのは、仕方がないことだ。プライドが必要以上に高いのも、育ってきた環境に拠るものだろう。しかし、そうだとしても、我々は、社会に適応していかなければならない。誰もが多かれ少なかれ、そうしているはずだ。

 一人だけ社内旅行の案内がなかったり、健康診断の日を教えられなかったり、懇親会に呼ばれなかったり、三時のお茶が配られなかったり、おはようの挨拶を無視されたり、くだらないいじめを受けるのも大人なら自業自得だと思わなければならないだろう。

 だとしても、課を預かる者としては、問題児を突き放すわけにはいかないのだ。

私は、課内の者に山本にも平等な扱いをするように頼んだ。女性社員の一部からは「いやがらせしていたら、またすぐに移動しますよ」とうそぶかれたが、それは私の責任放棄になってしまう。不承不承であるが、なんとか課内を丸く収めて、三年になる。これは山本が一つの課に留まる最長記録になるはずだ。

 さすがに山本も、社内の風当たりを感じたのか、人間関係には慎重になって、後輩や女子社員にも丁寧に接するようになった。ただし、それは山本が成熟したからではなく、皆が厳しい態度を崩さないから怖がっているに過ぎないと思う。その証拠に、甘い態度をとる私には、相変わらず見下したような対応をすることが多い。

 今、課内の者から私が「お人よし」だと嗤われていることを知っている。だが、経営陣からは、マネジメント能力があると評価されているはずだ。いや、そう思わないとやってられない。


 一週間ほどして、山本を飲みに誘った。最近、やつが仕事帰りに一人で飲みにいっていることを知っていたからだ。

「なんだよ。一人で飲むのが寂しいのかよ」

 山本は、そういう相手をムカつかせることをごく自然に言ってのける。

「ばかやろう。お前が、誰にも相手にされてないから、可哀そうになったんだよ」と言いたくなるが、それは抑えた。

 先日の夜中の電話のことが気になっていることもあった。


 入社したばかりの頃、同期が集まって一番結婚が早いのは誰だろうと噂し合ったことがあった。その頃、私には付き合っている女性がいて、結婚を意識していた。皆には言わなかったが、一番早いのは自分かも知れないと思っていた。

 同期の中に、ナンパで知られる男がいて、案外、そいつかも知れないという話になった。

「ばか言うな。おれは結婚から一番遠い男だぜ」

「来月ぐらいで出来ちゃった婚するかも知れんぞ」

「おれは女というものを十分に理解して、自分が納得いくまで結婚しない。生涯しないかも知れない」

「いよ。かっこいいね」

 彼は、給与の全部を身に着けるものにつぎ込んでいるのではないかと思えるほど、ファッションには気を使っていた。その日も若いサラリーマンとは思えない高級なスーツに身を包み、ブランドものの時計をしていた。仕事もできるし、気のいいやつだったが、そういう部分は徹底していた。

「何にしろ、お前はすごいよ。目的が何であれ、執念は認める」

 私たちは笑いあった。

 ところが、その時、突然立ち上がって、自分が来ているスーツの値段や時計のブランドを自慢し始めたのが、山本だった。やつは、自分の身に着けているものの方が、高額であることをどうしても言いたいようだった。

 背が低く近眼で禿げ始めている山本が身に着けると、せっかくの高級ブランドもまるで魅力的ではなかったが、その場違いな自慢に、同期の皆は白けきってしまった。

 結局、一番結婚が早いのは山本だった。財界の著名人が集まる豪勢な結婚式で、見たこともないような美人の奥さんを見て、私たちはあっけにとられた。生まれが違うというのは、こういうことなのだと思い知らされた。

 思い起こすと、同期の間で、山本に対する態度が決定的に変わったのは、あの時が境だった。

 私は付き合っていた女性と別れ、三十歳半ばの今に至るまで独り身のままだ。まるで毒気を抜かれたような気分だった。


 酒が入ってしばらくは、意味のない自慢や納得性のない上司の批判などを気持ちよさそうに披露していた山本だったが、家庭の話になった頃から様子がおかしくなってきた。目が座り、苦渋に満ちた表情で、虚空を見つめだした。

「くそおおお!」

 突然だった。周りの客が振り返るぐらい大きな声で唸りだした。

「あの女、裏切りやがって。信じていたのに。どこのどいつとだ。殺してやる」

「何だよ、お前。どうしたんだ」

「電話しただろう」

「電話だと?」私は思わず聞き返した。「お前が電話してないって言ったんじゃないのか」

 山本は、肩で荒い息をしながら、苦しげに言った。

「忘れようと思っていたのだ。うまく忘れていたのに。思い出した」

 私をぎろりと睨んだ。「お前のせいだからな」

 私は仰天して言った。「なんでおれのせいなんだ。ふざけるなよ」

 山本は、頭を抱え込んで、うなり声を上げながらつぶやいた。

「すまん。うおおおおお。すまん。うおおおおお。おれはどうかしている。うおおおお。お前のせいじゃない。うおおおおお。くそ。誰だ。相手は誰だ。うおおおお。殺してやる。殺してやるぞ」

どうかしているのはいつものことだったが、これはいつもより異常だった。私は、自分のお人よしに後悔していた。なぜこんなやつに関わってしまったのか。

 逃げようとする気持ちの私に、山本はしがみつこうとした。私の両手首をつかんで、血走った眼で言った。

「助けてくれ。頼む。助けてくれ。このままではおれはおかしくなる。殺してしまう。誰かを殺してしまう。頼む。助けてくれ」

 私は気圧されて、逃げ場を失った。「助けてくれって、どうするんだよ」

「うちに来てくれ。あいつを見てくれ。本当にそうなのか。何かの間違いなのか」

「うちって、お前のうちか?」

「そうだ」

「あいつって奥さんのことか?」

「そうだ」

「間違いかも知れないのか?」

「そうだ。わからん。そうだ。わからん」何度も首を横に振り、縦に振り、を繰り返した。

「おれに判断できるわけないだろ」

「頼む。来てくれ。おれに教えてくれ。何がどうなのか。まるで分からないのだ」

「でも…」

 異常な様子に気づいた店の人がやってきて、大丈夫ですか、と気遣った。

 すると気を削がれた山本は、しばらく呆けたようになっていたが、突然、奇妙奇天烈なうなり声を上げ始めた。

「おうっ、おうっ、おうっ、おうっ、おうっ、おうっ」

 電話で聞いた山本特有の嗚咽だった。直に聞くと、よりオットセイの声帯模写にそっくりだった。店の人があっけにとられながら後ずさった。

 今や、店の中全体が、私たちに注目していた。その中を、山本の泣き声だけが長々と響き渡った。


 次の土曜日、山本の家を訪ねた。家を出る前に電話すると、山本は暗い声で「ああ」と言ったのみだった。早くも、気持ちが暗くなった。

 都内の見るからに高級なマンションにやつは住んでいた。私は、自分の古びたアパートのことを思って、さらに陰鬱になった。

 私の部屋全体が三つほど入るのではないかと思えるようなリビングには、若い夫婦の家には似つかわしくない重厚な応接セットが置いてあった。私は、高級そうな革のにおいがするソファに腰をおろした。

「珍しいな」山本がいけしゃあしゃあと言った。「何の用だよ」

「せっかく近藤さんが遊びにきてくださったのに、そんな言い方は駄目ですよ」

 山本の奥さんが、紅茶をテーブルに出しながら言った。もちろん、ティーカップは、海外の高級ブランドだろう。値打ちが分からなくて、気の利いたことを言えないのがもどかしかった。

 久しぶりに見る奥さんだったが、色香が増したようで、美人ぶりが上がっていた。手足が長く、均整のとれた身体つきで、それでいて顔が小さく締まっている。生活疲れなど感じられない。

「会社の方が遊びに来てくださったのは初めてです。この人ったら、あまりお仕事のお話はしてくれないものですから、うれしいですわ。これからはもっと遊びに来てくださいね」

「近藤は暇だから、そんなことを言うと、本当にしょっちゅう来るぞ」

「まあ、なんて失礼なことを。いくらお友達でも、そんなことを仰らないで。この人、会社でもこんなひどい言い方をしているのですか?皆さんに嫌われないか心配です」

「もう手遅れです。誰にも相手にされていませんよ」と言いたかったが、言えなかった。

 それにしても奇妙な感覚だった。山本の憎まれ口はいつもの通りだったが、いくぶん浮かれているような気がした。この浮かれ方は、いつか見たことがある。

 そうだ。山本が、結婚してしばらくして、会社のボーリング大会に奥さんを連れてきたことがあった。

 会社の皆に対する奥さんのお披露目であったわけだが、結婚式に出ていない者は、想像を超える美しさに、一様に圧倒されてしまった。女子社員など静かになってしまった。

 その時の得意気な山本の様子が、後々、皆の反感につながっていくのだが、その時の浮かれた様子にそっくりだった。

 もしかすると、また、あのことを忘れてしまったのかも知れないと思った。散々、泣きわめいておきながら、都合よく忘れるとは迷惑千万なやつだが、まさかそうではないだろうか。

「そういえば、あの電話のことだけどな」奥さんが席を立った時に切り出した。

「なんだよ」山本は怪訝そうに言った。

「いや、電話のことは、今はいいのか?」

「電話?」

「いや。この前の飲み屋の件だよ」

「何の話だよ?」

 私は山本の顔をじっと見たが、表情に何の変化も見られない。とぼけているわけではなかった。まさかとは思っていたが、そのまさかだった。やつは、また、肝心なことを忘れることにしたのだ。にわかにばかばかしくなってしまった。

「もういいよ」

「なんだよ、変なやつだな」


「そうそう。私、最近、占いに凝っているのですけど、近藤さんを占ってもいいかしら」奥さんが親しみのある笑顔を見せながら言った。

「よく当たるぞ。占ってもらえよ」

「占いですか…」

「何を占いましょうか」

「女のことを占ってもらえよ。いつ彼女ができるかとか」

「女性のことですね。いいですわ」

 奥さんは、私の向かいに座って、テーブルにタロットカードを裏返しで並べ、慣れた手つきで表に反していった。

「まあ。もうすぐ素敵な出会いがありますわ」

「どんな人ですか」

「すぐ近くにいるのに、気づいていない人です」奥さんは意味ありげに上目使いに見た。その表情はぞっとするほど妖艶だった。

「そんな人、思いつかないな…」

「ですから気づいていないだけですわ。人の意識なんて、ちょっとしたきっかけで、盲点を作ってしまうものよ。もし気づいていないとすれば、近藤さんが、気づきたくないって思っているからかも知れませんわ」

「そういうものか…」山本が、横からつぶやいたので、思わず顔を見たが、その表情に異常な気配は読み取れなかった。


 目的を見失った山本家訪問から帰って、インターネットで、記憶障害について調べてみた。

記憶障害には、一時的に思い出すことのできない短期記憶障害と長期にわたる長期記憶障害がある。山本の場合は、短期記憶障害だ。

 記憶障害の原因は、脳の物理的な損傷であることが多いが、この場合は、うつや強いストレスなどの心因的なものであると考えた方がいいだろう。

 記憶は、記銘、保持、想起の三段階から成り立っている。記銘とは記憶を脳に記録すること、保持はそれを保持すること、想起は思い出すことである。

 山本は、ある特定の記憶を記銘し、保持しているが、想起の段階で障害が起こっていることになる。

 ちなみに催眠術などで記憶を消すということもできるが、これは脳に保持されている記憶そのものを消すのではなく、その記憶にアクセスできないようにするというテクニックらしい。

 あるいは山本は、忘れてしまいたいという自己催眠の効果で、その記憶を封印しているのかも知れない。

ただし、催眠術による記憶障害には限界がある。記憶そのものが消されているわけではないからだ。だから、しばしば記憶は蘇って、本人を苦しめることになるのだ。

 そうだとすれば可哀そうな男だった。


 次の日、日曜日。夕方頃になって、見慣れない電話番号からの着信を受けた。

「はい。近藤です」

「…」

「もしもし?」

「あの…」

「はい?」

 驚いたことに、それは、山本の奥さんからだった。

「昨日は、あの、ありがとうございました。あの…」

 要領を得ないのが、奥さんらしくなかった。

「主人が。山本が、少し変なことは、ご存じでいらっしゃいますよね」

「ああ、はい。あのことですか…」私はそう言ってしまった。

「そのことで、ちょっとお話したいことがありまして。あの、今から、こちらに、来ていただけないでしょうか」

「え、今からですか」

「はい。あの。すみません。でも、お願いします」奥さんは口ごもりながら付け加えた。「山本は、今、実家の方へ、帰ってしまって。だから、ここには誰もいません。あの。お話できないでしょうか」

 山本の暗い顔や、夜中の電話や、オットセイのような泣き声が思い浮かんだ。美人すぎる奥さんの上目使いの妖艶な表情とともに、あられもない姿の写メが想像の中で現れてもきた。

 私は、すぐに行きます、と答えて、家を飛び出した。


 山本の家に着いた頃には夜になっていた。

 玄関のチャイムを鳴らしても、返事がない。ドアノブを回すと、ドアが開いた。

「山本さん」首を入れて、中に呼びかけたが、返事がない。

 ただならぬ気配だった。玄関に入って、もう一度、声をかけ、そして靴を脱いで、部屋に入っていった。

「奥さん」

 リビングを覗き込んで、異様な光景に出くわした。

 奥さんが、部屋の中央に置かれたダイニングチェアに座っている。いや、座らされている。

 奥さんは、椅子にぐるぐる巻きにされて、縛り付けられていた。

「いったい、どうしたんですか!」

 思わず駆け寄ろうとした、その時、後頭部にもの凄い衝撃を受けて、私は気を失ってしまった。


 水を掛けられて目を覚ました。その途端、後頭部の激痛が蘇ってきた。

 私は、ダイニングチェアに縛り付けられていた。

 山本が、私にコップの水を掛けたのだ。

「なんだ。なんのつもりだよ」

「うるさい!」山本はヒステリックに怒鳴った。「おれをこけにしやがって。思い知らせてやる」

「いったい何の話だ?」

「とぼけるな!」山本は、手に持ったゴルフのアイアンで私を打った。

「痛ってえ!ひどいことしやがって。何を間違えているんだ?」

「ふざけやがって。ばかにしやがって。おれを何だと思ってるんだ。お前ごときが。自分の立場もわきまえないで。低能め。くずめ。貧乏人め。何のとりえもないおまえごときが。糞野郎。小便たれが」

 どうやら山本から後頭部を殴られたらしい。激痛と同時にじめついた不快感があるのは、血が出ているからかも知れない。後ろ手にされたまま椅子に縛り付けられている。両手をねじってみたが、さすがに「梱包課長」の手際だけあって、解けそうな気配がなかった。

「おおおおお。くそう。おおおおお。ばかにするな。おおおおお。絶対に許さん。おおおおお。殺してやる」

 山本は、うなり声と呪詛の言葉を吐きながら、広大なリビングを行ったり来たりした。もう完全に正気を失っていることが分かった。

「おおおおお。お前みたいな屑が。おれがいないと聞いたら、嬉しそうに、のこのこ来やがって。おおおおお」

「落ち着け。どういうことだ。落ち着け」

 山本は、私を睨みつけた。「全部知っているのだ。全部聞いたのだ。お前は、同僚のふりしておれを嗤っていたのだ」

「何の話だ?おれには分からんぞ」

「うがああああ!」山本は怪物じみたうなり声を上げた。「全部、こいつが白状した!全部、こいつが白状したのだ!」

 思わず、山本の奥さんを見た。私の隣で同じように椅子に縛り付けられている。しかし、うつむいたまま黙っている。それは呆れているようにも、耐えているようにも、現実から逃避しているようにも見える。

「奥さん、どういうことですか?何を一体?」

「お前は、おれが出張した時を狙って、この家にきて、おれの妻と乳繰り合っていたのだ。お前は、おれに同情するふりをしながら、おれが悩んで、悲しんで、錯乱していることを嗤っていたのだ。こいつが全部言った。こいつが全部白状した」

「馬鹿言うな。そんなことあるものか!」私は山本に負けないように怒鳴った。「奥さん。何とか言ってください。どういうことですか?そんなことはでたらめじゃないですか」

 しかし奥さんは相変わらずうつむいたまま黙り込んで、何の反応もしなかった。

「黙っていないで、何とか言ってください。何で、何も言わないんだ?奥さん、おかしいじゃないですか!」

「往生際が悪いぞ」

「違う。本当に違う。おれじゃない。おれはそんなことしていない」

「うるさい!うるさい!うるさい!」

 山本はゴルフクラブを無茶苦茶に振り回して、棚に並ぶいかにも高級そうな食器を叩き割った。その破片が私たちの方へ降り注いだ。

「あっ」かすかだが、奥さんが声を立てた。見ると、破片が当たったのか、額のあたりが切れて、血が流れていた。

 その様子に山本は動揺したらしい。ゴルフクラブを足元に取り落として、奥さんの方を不安そうに眺めた。

「落ち着け。山本。いいか、おれの話を聞け」このタイミングを逃してはならないと思った。「ちゃんとおれの話を聞け。おれはそんなことをしていない。いいか、よく考えろ。おれはお前の奥さんに相手にされるような男じゃない。そんなことわかっているだろう。おれの顔をよく見ろ。女にもてる顔だと思うか?」

 山本は、ゆっくりと私の方を見た。表情に動揺が浮かんだままだった。

「こう言っちゃなんだが、お前の奥さんは、すごい美人だ。生まれも育ちも上品な人だ。そんな人が、貧乏人のおれを相手にすると思うか?絶対にありえない。そんなことはわかっているだろう。お前も知っているはずだ。奥さんが何を言ったかは知らない。しかし、お前は勘違いをしている。奥さんは間違っている。いや、何か意図があって言っているんだ。きっとそうだろう。奥さん、いったいどういうつもりか言ってください」

 だが、奥さんはやはり俯いたまま何も言わなかった。この期に及んで、黙り込んでいる奥さんの考えが読めなかった。

「そうか、わかったぞ。奥さんは、本当の相手を庇っているんだ。それでおれの名前を言ったに違いない。そうですね、奥さん。何も言わないと、そう考えますよ。そうだ、山本。お前は、奥さんの写メを見たと言っていたな。そうだろう?それに写っていないか?誰か写っていないか?持ってきたらどうだ?」

 山本は不安そうな顔をしたまま私を見ていたが、やがて、部屋のあちこちに首を回した。混乱しているようだったが、やがて、部屋の隅に走っていって、携帯電話を持って帰ってきた。

「そうだ。それが疑惑の原点だ。それを見てみろ」

 山本は、携帯電話の操作をして、問題の写メを探し出したようだった。私の方を不安そうに見た。

「見つけたか。よし。いいぞ。おれに見せてみろ」

 私が言うと、山本は素直にそれを見せた。私は携帯電話の小さな画面に目を凝らした。

 画面が暗いが、裸の女性が写っているのが分かった。不鮮明な画像だが、素晴らしいプロポーションであることは知れた。

「他の写メはないか?探してみろ」

 山本は、素直に、携帯電話を操作して、それを探し出した。

「いいぞ。見せてみろ」その写メには、撮影した人物の身体も写りこんでいた。交接している場面を撮影したものらしかった。男の太い手が豊かな乳房をつかんでいるところが撮影されていた。

「これはひどいな」思わず顔をしかめたが、あまりにも艶めかしい構図に自分の動揺を悟られないためだった。

「おい。これをよく見ろ。この男の手には見覚えがあるぞ。男の左手だ。時計をしている。この時計は、確か、スイス製のブランドだ」私は、山本をじっと見た。「これは、あいつの時計だ。間違いない。この手もあいつだ」

 それは私たちの同期のあのナンパな男の手だった。時計もそうだが、手の特徴がはっきりと出ていた。

 そうか、あいつだったのか。私は、自分の立場や状況も忘れて悔しくなった。いや、うらやましかった。

 山本も、それを悟ったようだった。しばらく写メと私の顔を交互に見ていたが、やがて、例の嗚咽を漏らし始めた。

「おうっ、おうっ、おうっ、おうっ、おうっ、おうっ、おうっ、おうっ」

 山本は、どこかで奥さんの裏切りを信じたくなかったのだろう。だから、最もありそうにない私へ疑惑を向けることで、代償としたかったのかも知れない。奥さんもその心理を読んで、私を犠牲に選んだのかも知れない。そうだとすれば、哀れな男だった。いつまでも続く嗚咽を聞きながら、そんなことを考えていた。


「あははははは。あははははは」長々と続く山本の嗚咽を遮ったのは、奥さんの突然の笑い声だった。それは、あの上品な物腰からは考えられないあけすけなものだった。

 山本も私も、その勢いにあっけにとられてしまった。

「そうよ。その通りよ」奥さんは、笑いすぎて、息が続かないようになって、ようやく言った。「その人と寝たわ。あなたには、もううんざりなの。わかる?浮気でもしないとやっていられない。それだけじゃない。もっと、いっぱいの人と寝たわ。この家に呼んでね」

 奥さんは、顎をそびやかし挑発するように言った。

「あなたは全然気づいていないようだけど、新婚の頃から、あなたが出張のたびにこの家にはいろんな男が来て泊まっていったのよ。写真の男だけじゃないわ。あなたの会社の人たちとはだいぶ寝たわ。夜だけじゃない。あなたが会社にいる時に昼間から来る男もいた。ベッドでも、このリビングでも、キッチンでも寝たわ」

 奥さんは、私の方へ顎を向けた。「この男ともね」

 山本が、再び私に顔を向けた。私は首をぶるんぶるん振った。

「違う。違う。違う。ばかを言うな。奥さん、あなたは、何でそんな嘘を言うんだ!」

「嘘じゃないわよ。あなたの記憶を消したのよ」

「記憶を消した?」

「ちょっとした暗示をかけたのよ。単純な催眠術よ。私と寝た記憶をなくすようにね」奥さんは私の方を見て、勝ち誇ったように笑った。「あなたは単純だから、すぐに暗示にかかったわね。なんでって?あなたみたいな男でも、あちらの方は凄いかも知れないから寝てみたのに、全然ダメだったから、二度と馴れ馴れしくしてこないように、記憶を消したのよ」

「嘘だ…」言いながらも、私は混乱していた。確かに、奥さんの艶めかしい姿を思い浮かべたことは一度や二度ではなかった。しかし、そんな簡単に記憶を消すことなどできるのだろうか。

「嘘じゃないわ」奥さんは続けて言った。「証拠を見せましょうか。あなたの携帯電話の中に私の裸の写真が残っているはずよ。撮影して、奥のフォルダにしまいこんだのを見たもの。記憶を消したから、そのまましまいこまれたままになっているはずよ」

「あなた」山本が弾かれたように背筋を伸ばした。「この男の携帯電話を取り出して」

 山本は、慌てて、リビングのあちこちに視線を向けた。

「ばかね。携帯電話は、身に着けているに決まっているじゃない」奥さんは嘲笑った。「ポケットに入っているはずよ」

 山本は、私のポケットを探ろうとした。

「違うわ。そこじゃないわ!」奥さんは乱暴な口調で言った。「後ろのポケットよ。こっちに来て、後ろのポケットを探して」

 山本は、私の後ろに回って、しゃがみこみ後ろのポケットを探ろうとした。

 その時だった。

 奥さんが素早く立ち上がり、身体を翻して、山本の顎を蹴り上げた。山本が呻いて倒れると、すぐに足元に落ちているゴルフクラブを拾って、二度、三度と打ち据えた。

 山本は完全に伸びてしまったようだった。

 そこでようやく奥さんは、縛られていた手をいたわるように揉みさすった。後で気づいたのだが、奥さんはこの時、食器の破片を後ろ手にキャッチし、密かに戒めの紐を切って、山本を倒すチャンスを待っていたのだ。

 痛む身体を何度か伸ばした後、ようやく気付いたように私を振り返った。その目は憎悪に燃えていた。

奥さんはゆっくりとキッチンに歩いていき、包丁を持って帰ってきた。私は全身の毛孔が開いていくのを感じた。奥さんはその爛々と輝く目に、恐怖に引きつる私の顔が写る位置まで近づいて、包丁を突きつけた。


 どういう葛藤があったのか。

 一瞬、動きを止めた後、包丁で私を縛っている紐を切った。

 私は「ありがとう」とつぶやいたが、奥さんは無視した。それどころか、それ以来、奥さんは私に口を聞かなかった。

 奥さんは、無駄のない動きで、救急車と警察を呼んだ。私は病院に運ばれて頭の後ろを数針縫った。警察からの事情聴取は深夜になった。

 山本は、そのまま精神科に入院し、会社を辞めた。山本の家の代理人という弁護士が私のところにやってきて、治療費とわずかな慰謝料を支払っていった。山本とはあれ以来、会っていない。

 奥さんは、一年ほどして、山本と離婚した。これも後で聞いたのだが、奥さん側の弁護士が粘りに粘って、莫大な慰謝料と財産分与を得たそうだ。

 もちろん、私は、あれ以来、奥さんと会っていない。

 あの時のことは、もう過去の出来事になりつつある。

 ただ、時折、裸の奥さんの写真を撮る夢を見るぐらいが、事件の痕跡であるに過ぎない。

 それにしても女は怖い。私は、未だに結婚していないし、彼女もいない。もしかしたら一生、独りで生きていくのかも知れない。そう思う今日この頃だ。

 夜中、ふと目覚めて、思うことがある。

 お坊ちゃん育ちの山本は、最初から計算づくに追い詰められていったのではないだろうか。

 だとしたら、私のようなお人よしは、資産家に生まれなくてよかったのだとつくづく思うのだ。

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