第5話 本影【ほのぼの/ゲスト:オリガ】
水面に揺れる木の筏。
広さはちょっとした家くらいある。
丸太を縄で繋ぎ止めて造られたその上で、俺は胡坐をかいて手に竿を握っていた。
白い波が微かに跳ねる。
天と水面の境界は見えない。
どこまでもどこまでも続く青い世界だ。
見ている者の意識さえも溶かしこんでしまいそうな深い青色をした水底。
そんなものを眺めながら俺は空いている手に煙草をくゆらせた。
浮きが静かに風に踊っている。
「マクシム。どう、そろそろかかった?」
「まだだよ。そんな急いでどうすんだ。釣りってのはな、のんびり楽しむもんだろう」
「なに言ってるのよ、これもお仕事なんだから、ちゃんとやってちょうだい」
「ったく、わかんないかな。こののんびりとした時間をすごす贅沢さが、なぁ、オリガ?」
「まぁ、食べる魚が釣れるならともかく――という感じでありますな、自分は」
情緒より食い気か。
流石は獣人。
聞く相手を間違えたよ。
どうして女どもというのは、こういう趣という奴を楽しめんかね。
大海にぽつり浮かぶ筏の上。
俺とリーリヤ、そしてオリガの三人は、そこで目当ての本がやって来るのを待っていた。
竿をたらして本を待つとはこれいかに。
つまり、ここが現実の世界ではないということだ。
「いやしかし驚いたでありますな。王立図書館は下手なダンジョンより不思議なものがあるとは聞いていたでありますが」
「まさか中に海まであるとはってか、オリガ。なんでもあるぜ、この図書館はよ。そりゃもう煩わしいくらいに」
「正確には魔導書が作り挙げた幻想風景だけどね。似たような本を集めると、どうしても魔力的に干渉して、ここまで大げさな魔法現象になっちゃうのよ」
「不思議なものですな。触れれば冷たく湿って感じるこの海が、実は幻影だなんて」
「まっ、凍えて死にかけるよりはここはまだマシだよな」
「ちょっとマクシム」
それは言わない約束でしょう。
じとりとリーリヤが俺を睨んでくる。
さっきの言葉だけでは、俺とリーリヤが霊峰の書架室で死に掛けたことなど、オリガの奴には伝わらないと思うのだが。
やれやれ気にしいな奴だ。
というか、何をそんな恥ずかしがっているのだ。
こうして無事に生きて帰れたのだからいいじゃないか。
むしろ、武勇伝として語ってもいいくらいだろう。
そんなに耳に息を吹きかけられたのが恥ずかしいのかね。
よく分からんよエルフの羞恥心という奴は。
「しかし、魚の代わりに、本を栞で釣り上げるというのは、なかなかにシュールな光景でありますな」
「エルフと獣人が筏の上で釣り針垂らしてるのもなかなかにシュールだと思うぞ」
「失礼ね。エルフだって釣りくらいするわよ。渓流釣りだけど」
「自分も休日にはよくいくであります。こんな沖まで出るのはめったにないでありますが。うむ。腕がなるでありますな!!」
そう、何も俺達は仕事の骨休みに、こんな場所に来ているのではない。
今日俺たちはここ、第三十九書架室こと『大海の書架室』に本を釣りに来ていた。
大海の魔導書。
言ってしまえば、海にまつわる書物が力を持ったもの。
あるいは、海流やその中に住まう生物に関しての秘法を記した魔導書である。
そんなものたちが一箇所に集められた結果が、この擬似的な書架室の大海だ。
幻想の海の中で、かの魔導書たちは、自由に泳ぎまわっているのだ。
さて、そんな本どもをどうやって手に入れるのか。
簡単。
この釣竿とその先に挟まれた栞である。
泳ぐ本を釣るとはよく考えたもの。
本に挟むのは、栞。
挟まれるのも栞。
どこまで行っても本は本。
魔導書もまたそこからは逃げられない。
その因果に引っ張られて、海の中を泳ぐ本が栞に食いつくのだ。
本が相手では魚拓も何もとれたものではない。
だが、まぁ、どこぞの雪山を行くよりは、随分と気楽なミッションである。
「おっ、来たキタ」
などと呆けていると俺の竿がしなる。
現在進行形で趣味としているオリガほどではない。だが、俺も盗賊をしていたころには、よく食料補給のために釣りをしていた。
腕にはこれで自信があるのだ。
このしなり。
きっと大物だ。
食いつきにあわせて竿を引く。
ひょいと水面から飛び出してきたのは、ぷくりと丸い腹をした小さな魚。
これは、現実の海でも見たことがある。
「ハコフグでありますな。雑魚であります」
「やだマクシム。そんな小さいの釣ったくらいでハシャがないでくれる」
「あれ、なんでだ。絶対大物が来たと思ったのに」
「本と魚じゃ勝手が違うから、そんなものなんじゃないの。ぷぷっ」
「そういうお前は一冊も釣り上げてねえじゃねえか」
「私くらいになると、本のほうが選んで釣られに来るのよ。まぁ、見てなさいな」
また、負け惜しみを。
竿を両手でがっちり持って。
それじゃ微妙な竿のしなりなど分からないだろうに。
というか、さっきから見てるけど、二・三回あたり来てたぞ、お前の竿。
言ってやりたかったが、むざむざ敵に塩を送る気もない。
俺は竿の先のハコフグを取り外すと、すかさず口の中に満ちていた煙を吐きかけた。
紙の魚はびくりと体を震わせる。
たちまちそれは鱗から身まで複数枚の紙になったかと思えば、そこに本としてその姿を再構築する。
出てきたのは、『食べてはいけない、危険な海の生物』なる本であった。
うん、これは、普通に魔導書じゃないぞ。
「一般書籍が混ざってるぞ、リーリヤ。お前、ちゃんと管理しろよ」
「いっぱい泳いでたほうが、魔導書も元気になるかなと思って」
「思ってじゃねえよ。そんなことしてなんになんだよ」
「誰かさんが手伝ってくれればねぇ。あぁあぁ、ちゃんと文字の読める、頼りがいのある司書補が居ればなぁ」
何がいればな、だ。
お前のような我がまま娘の相手をしなくちゃならんと知れば、まともな人材は素知らぬ顔して逃げていくよ。
いわんや、彼女は女エルフだ。
まだ魅力があれば話は別だろうが――。
ちらり行くのはやはりその胸。
うむ。
「それもゼロだしな」
「どしたのよマクシム。またそんな苦虫噛み潰したような顔して」
「いや別に」
美人で巨乳で優しくて、ちょっぴりエッチなエルフさんが司書ならな。
多少嫌味でも耐えられるだろうな。
そう思っただけだ。
「しかし、まぁ、ハズレか。残念、もう一度だな」
「幾ら釣りがお上手でも、違うの釣ってちゃ意味ないのよ、マクシム」
「分かってるよ」
「しかし、普通の書籍でハコフグでありますか。目的の魔導書だと、いったいどれくらいのサイズになるでありますね?」
「前になんだったっけ、海洋気象の魔術書を釣ったよな。あの時はたしか、えらいでっかいイカだったっけ」
「クラーケンね。ほんと、よく釣れたわよね、アレ」
「巨大イカ、で、ありますか!?」
オリガがブルリと尻尾を震わせる。
流石に猫の獣人だけあってイカは苦手か。
イカを食わすと腰を抜かすなんて猫は言うもんな。
獣人の場合は、食うといったいどうなるんだろうかね。
「自分はどうせ釣るならマグロやカツオがいいでありますな」
「アタシは白身魚かしら。ヒラメとか、ウナギとか」
「釣れても紙だぞ、食えねえだろうが」
「夢のないことを言わないでほしいでありますな、マクシム殿」
「そうよマクシム。風情ってものがあるじゃないの」
「そんな風情の前に、まずは釣りの風情をだな」
やめよう。
釣りよりも食い気のほうが勝っている奴に何を言っても無駄だ。
不毛な論議を繰り返したところで虚しくなるだけ。
所詮女子供。
そしてインドア引き籠り司書。
エルフには釣りの楽しみなどわからないのだ。
竿の先の栞を新しいものに替える。
すぐさま、俺はそれを海の中へと放り込んだ。
しかしなんだな。
白詰草の押し花で本を釣るなんて。
まぁ、これはこれで、風情――と言っていいのかな。
「駄目ねぇ。やっぱり普通の栞じゃ釣れるものも釣れないってことかしらね。オキアミとかゴカイとか、そういう奴の栞にしようかしら」
「そうでありますな。白つめ草で釣ろうなんて、魚を舐めてるでありますな」
「いやいやお前ら、釣るのは本だろうよ。本舐めてるだろう」
というか、そういうリーリヤも、クローバーの栞を垂らしているじゃないか。
食えるものを釣るわけでもないのに、オキアミやゴカイなんて触ってられるか。
俺たちの頭上で海猫が鳴いた。
風と共にやってきた彼らは、先ほどから俺達の面前の水面に向かって、何度も何度も潜っている。
来た、魚群だ。
いや本群というのが正しいか。
「ようやくお待ちかねのが来たみたいだな」
「あらやだ。ようやく来たのね」
大海の書架の中に泳ぐ本は、魚と同じく群れを成して移動を行う。
魔術書の新古や厚さを問わずにだ。
長時間竿を波間にたなびかせた所で本が居なければ意味が無い。ここ、大海の書架での本の回収は、この本群の動きを読むのがコツだ。
「うぉおぉ!? 引いてる、引いてるであります、マクシム殿!!」
その本群の到来まもなく、すぐに、オリガの竿に当たりがきた。
ぐいと、弓なりに、彼女の手元の竿がしなる。
「どどど、どうすればいいでありますか!?」
その先端を今にも海面にしずめんとばかりに弓形になった竿。
それを握りしめ必死に筏から落ちまいと踏ん張っているオリガ。
なんというか。
趣味といった割には酷いへっぴり腰だ。
「オリガお前、釣りが趣味じゃないのかよ」
「趣味ではありますが、こんな大物、竿にかかったの初めてで!!」
「釣りなら任せろって言ってたじゃないの」
「それは自分これでも猫でありますから!!」
猫の矜持がまた要らぬ見栄を張らせたのか。
やれやれ、しょうもない奴。
まぁ、大物を当てたのだから、そのあたりは言わないでおいてやるか。
今にも、海に落ちそうになったオリガの胴を手で引く。
すぐに俺はその竿を奪った。
この海底まで引きずり込もうというくらいの強い引き。間違いない。
これは相当な魔術書だ。
「大物だぞ。リーリヤ、タモだ、タモを持て」
「分かってるわ。ちょっと待ってて」
「じ、自分は、いったい何をしたら」
「いいから、あとは俺とリーリヤに任せて、そこで大人しく見てろ」
握る竿に力を込める。
えいや。
一息に引っ張り上げると、紅色の背表紙をした書籍の陰が、青々とした水面の中にふっと現れた。
リーリヤがすかさずタモを入れる。
「入ったわ」
「よし、でかした、リーリヤ。せえので行くぞ」
せえの、と、掛け声。
俺が竿を、リーリヤがタモを引く。
大量の海水と共に幻想の海の中から引き上げられる魔導書。
それは、まるで真紅の鯛のように、筏の上で日の光に輝いていた。
こりゃ見事。
よく脂の乗った、上等な魔導書だ。
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