第4話 凍える耳先【ラブコメ】
第二十三書架室。
またの名を『霊峰の書架室』という。
二つ名の通り、そこは山岳にまつわる魔導書を収めた書架だ。
古今東西の伝承に出てくる霊峰神山。山岳信仰にあやかって書かれた魔導書は、信者達の思いを長年に渡り受け続けた結果、その信心に応えるだけの力を持った。
神を敬う人の想いは強い。
この書架室に収められている魔導書もまた強い力を持っていた。
魔導書の魔力によって、部屋の姿を変質させるのは当然。
大自然の厳しさ、理不尽さ、凶悪さ。
おおよそ人間たちが自然に感じる恐怖の念。
霊峰の書架室にそれはあった。
吹雪に揺れる嵐の世界。
視界いっぱいに吹きすさぶ白い粉雪。
肌の感覚さえ分からなくなる冷たい風。
まさしく、人間の立ち入るべき領域ではない。
たとえそれが魔導書の見せる幻影であってもだ。
そして、立ち入るうちの一人が、魔道に精通したエルフであってもだ。
神々の住まう領域を、俺達は、甘く見ていたのだ。
「どうすんだよおい」
「どうするって」
「吹雪でまったく視界が開けない。ここに来るまでの道もさっぱり分からんぞ、これ」
「程度の差こそあれ、雪が降ってるのよ。足跡なんてすぐ消えるわよ」
「そういうとんちじゃなくってだな、もっと危機感を持てよ」
洞窟の中、火を前にしてうずくまった、俺とリーリヤ。
膝を抱えてすっかりと大人しくなった正司書様。
彼女に俺は責めるような言葉を投げかけた。
というのも、ろくな装備もせずに、この書架に入ったのが、彼女の発案によるものだったからだ。
「大丈夫大丈夫。雪山でしょ。私が昔住んでたところも、雪、凄かったし」
そんな経験者の談は、この書架に入って、数秒もせずに喉の奥に引っ込んだ。
山岳の魔導書が作り出した神々の世界。
そこは、俺達人間やエルフたちが生活する世界とは、ひとつ次元が違っていたのだ。
そうして、哀れな子羊たちは、出入り口を見失い、迷い迷ってここである。
偶然にも見つかった、小さな洞窟に駆け込んで事なきを得たわけだ。
いや、事なきなど得ていない。
このまま吹雪が止まず、出口を見つけられなければ、待っているのは確実な死。
神への生贄にされるなんてそんなもの、ここに勤めるときに書いた誓約書には、一言も書かれていなかったじゃないか。
どうしてくれよう。
そんな怒りを諸悪の根源にぶつけたかったが。
ちょっと気が引けた。
当人もそこはショックなのだろう。
さっきから、茫然自失、洞窟の岩肌に体をもたれかからせて、だんまりである。
ちょっと発破をかけてみれば、反応もあるかと思ったが、それも微妙。
仕方ない。
こういうサバイバルな状況を切り抜けれるほどのタフネスさを持ち合わせているなら、俺はこいつに雇われていない。
「やはり地形レベルまでスケールがでかくなると魔術の威力も桁が違うな」
「そうね」
「まさか書架に入るや一面ホワイトアウト、吹雪の只中とは恐れいったよ」
「予想外、だったわ、ねぇ」
「あぁ本当に予想外だ。誰かさんが取り乱したせいで、入り口を見失ったのもな」
「悪かったわよ」
ぐすり、と、鼻をすする音。
それと共に、そんな言葉が俺の耳に届いた。
いかん、俺も少し意地が悪かった。
「すまん。俺も気が立ってるみたいでな、つい」
「いいわよ、実際、私のせいなんだから」
「まぁ、こうして避難する洞窟が見つかったからよかった。あのまま逃げ込むところもなく、吹雪にさらされていたら、今頃は無駄にでかい霜柱が二つできあがってた」
リーリヤは笑わない。
俺も笑わない。
笑ったところで、事態は何も好転しない。
万が一にと用意しておいた炎操作の魔導書。それで起こした焚き火を囲みながら、俺とリーリヤは何の足しにもならない無駄話に興じる。
この無駄話が終わる時が、俺達の命が尽きるときだろう。
いや、縁起でもない。
しかし、助けが来るなんて考えも現実的でもない。
王立図書館の司書は俺とリーリヤだけである。
手伝いで、オリガみたいなのを雇うことはある。
だが、基本、図書館の運営に俺達以外の人間は携わっていないのだ。
なので、異変に気づく人もいない。
待ってみたところで助けは来ない。
現状を打開するには知恵を絞るしかない。
だが、唯一の頭脳が先ほどからこれである。
――こりゃだめだ。
なんとかしないと。
「あぁ、こんなことなら昨日開けた蒸留酒、飲み干してから来るんだった」
俺はこの沈んだ空気を打破するべく、そんな関係のない言葉を吐いた。
今は、この娘に、少しでも早く立ち直ってもらわなくてはいけない。
魔導書やら、魔法やらに疎い俺ではなんともならなくても、彼女なら、何かこの状況を打破する方法を思いつくかもしれない。
「私も、最後にあの推理小説を、読みきってから来るんだった」
俺のしょうもない愚痴に、リーリヤが言葉をつまらせながらも反応を見せた。
こんなときでも小説とはね。
本当に本の虫、活字中毒、書物の奴隷という奴だな。
流石はエルフのくせに図書館の司書になるだけある。
それから、ぽつりぽつり、と、彼女は喋り始める。
「あぁ、結局犯人は誰だったのかしら。意地悪な継母、時々陰を見せる親友、それとも意味深な台詞を頻繁に吐いているのんだくれの神父」
「こんな時でも書物の話とは、司書冥利に尽きるという奴だな」
「やぁよ、死ぬなら書架の中じゃなくて、本の上で死にたいわ」
「それはちょっと罰当たりじゃないのか」
「貴方だって、マクシム、どうでもいいお酒のことなんか考えてるじゃない。残念ね、酒樽で溺れ死ぬことができなくって」
「そんな願いは持ってないんだが」
「なんにせよ、お酒なんて、人生にとってどうでもいいことだわ。そんなものを、こんな場面で思い出すなんて」
どうやら、ちょっと調子は戻ってきたらしい。
いつもの嫌味っぷりが戻ってきている。
あと一息か、と、俺は話を加速させることにした。
「おいおい聞き捨てならんな。お前、酒ってのはな、寒い寒い冬を乗り切るために、人類が生み出した知恵なんだよ」
「エルフには関係のない話だわ」
「お前らも結構寒いところに住んでるじゃないか」
「暖のとり方なんて幾らでも方法はあるもの。蜂蜜とジンジャーを溶かした飲み物のほうが、あんなものよりよっぽど体が温まるわ」
「そんなもんかね」
「だいたいおかしな話よね、わざわざ自分から馬鹿になるような飲み物をありがたがってるんだから。人間もドワーフも、ほんと、おかしいわ」
「いや、それはお前が単に酒に弱いだけだろ」
「そんなこと」
「おやおや、お忘れですかな。いつだったっけか、祝いの席で蜜酒を飲んで、前後不覚にオードブルに登って七面鳥になった奴がいたような」
諸侯の面前で白いケツを晒して場がおかしな空気になったっけ。
と、言おうとした俺の首がぐいと絞まった。
目の前には、月桂樹の杖を取り出して、こちらを睨むリーリヤ。
「あれは!! 仕方が無いじゃない、私、初めてだったんだから!!」
「ケツ出してテーブルの上で眠りこけるのがか?」
「お酒を飲むのがよ!!」
これよこれ。
いつものつっけんどんとした、この感じ。
ようやく立ち直ったか。リーリヤ完全復活である。
俺の首を魔法で締め上げて、ふんすと鼻を鳴らす。
ぎぶぎぶと俺が音を上げるまで締め上げると、リーリヤは、それを再びローブの中へと納めた。
ふるり、と、その小さい肩が、洞窟に吹く風に揺れた。
うぅ、小さく呻いて、リーリヤは魔導書で起こしている火の近くに寄る。
「あんまり寄りすぎると火達磨になるぞ」
「七面鳥にはお似合いでしょう」
「おいおい、そんなに気にしてたのか。冗談だろう、そんな、自棄になるなよ」
「こんがり美味しく焼け上がった私を食べて生き残ればいいじゃないの」
「やめい気色の悪い」
元気を取り戻したかと思ったが駄目だ、まだ本調子じゃない。
聡明なるエルフ様ことリーリヤも、余りの寒さに頭の動きが鈍ったか。
こういう時こそ俺がしっかりしなくてはならないのだが。
ただ、かくいう俺も寒いのはあまり得意ではない。
山の育ちではあるが、雪の多い地方ではなかったのだ。積もるような雪など、冒険者をしだして、初めて見たくらいである。
もはやこれは手詰まりか。
このまま氷柱ではなくとも、干からびた木乃伊になるのをまつばかりか。
あなおそろしや神々の山。
軽々しく神に挑むものではなかった。
「はぁ、せめて書架の入り口が分かればなんとかしようって気にもなるが」
「無理よ無理。もう無理なのよ」
「ネガティブすぎるぞ、リーリヤ」
「いいじゃない、もう、そんな無理にポジティブに振舞っても。ねぇ、諦めて二人でビーフジャーキーになりましょう」
「いやだよ。ていうかなんで牛になっちゃってんだよ、俺ら」
「じゃぁ、エルフジャーキーで」
「俺は人間だっての。いいから、もうその食料ネタから離れろ」
「言い出したのは貴方じゃないの」
「悪かったよ。そんな気にしなくっても」
「まぁけど実際。肉付きの悪いエルフなんて干したところで、筋張ってててたいして食べるところないわよね」
いよいよ、おかしなことを言い出したぞ、このエルフ。
「だから怖いからやめろって」
軽く聞き流したことにして、話の軌道修正を図ろうとした俺だったが。
そんな機先を制するように突然、リーリヤが叫んだ。
「誰の胸が大雪原よ!! 好きでこんな格好してる訳じゃないわよ!!」
支離滅裂である。
あ、これ、駄目な奴だ。
「言ってねえから!!」
「雪だるまと違ってね、捏ねたって大きくならないのよ!! 胸は!!」
「だから言ってねえから、ちょっと、リーリヤさん!! どうした、しっかりしろよ!!」
俺はリーリヤの顔を伺った。
こいつがこういう訳のわからんことを言い出すのは、たいてい寝ぼけている時だ。
うとりうとり。
目を細めてリーリヤは火の前で首を揺らしている。
まずい。
既に半歩、死の淵へと足を突っ込んでしまっている。
「おい、こら、リーリヤ!! 寝るな、寝たら死ぬぞ!!」
「大丈夫よ。熊やリスだって冬眠できるんだもの、エルフだって」
「できねえよ!!」
急いで俺はリーリヤの横へと移動した。
おい、起きろ、と、肩をゆすり、頬を叩く。
しかし、一度眠りへの坂道を転がりだしたエルフの眠り姫。
簡単にそれは止まらない。
「うぅん、お爺様がお花畑で手を振っていらっしゃる」
「しっかりしろ!! お前の爺さん今もピンピンしてる言ってただろうが!!」
「あっちの岸に見えるのは、あぁ、憧れの文豪の方々」
待って、待ってと、言って虚空にリーリヤが手を伸ばす。
いかん。
いかん、いかん。これはいかん。
早くなんとかしてリーリヤの眼を覚まさなくては。それか、この部屋を脱出する方法を考えなくては。
どんなに憎たらしいご主人様でも、流石に目の前で死なれては寝入りが悪い。せめて死ぬなら、俺が死んでからにしてもらいたい。
いや、死ぬ気なんてもちろん、ないけれども。
「なんとかして、起こす方法はないものか」
ビンタもだめ、肩をゆするのも利かない。
さっきから頬をつねっているが、アホみたいににやけるだけで、まったく効果は無い。というか、なんでにやけるんだ、お前は。
もっと他に敏感なところはないか。
その時、俺の目の端に、ぴくり、と、動くものが見えた。
「これは。もしかして」
吹雪の音に合わせて小刻みに震えるリーリヤの耳。
ツララのように長く尖った耳。エルフ特有のその体の一部は、いかにも敏感ですという感じがしないでもない。
ものは試しだ。
「ふぅ」
俺はそっと、彼女の耳元へと顔を近づけると、その耳先に向かって、くすぐるような塩梅で、そっと吐息を吹きかけた。
もぞりと、薄いリーリヤの胸が揺れる。
その途端だ。
囲んでいた魔術書で起こした炎が大きく燃え上がった。
かと思うと、ごうという音と共に視界が赤一色に染め上がる。
熱い。
熱い。熱い。
なんじゃ、この大爆発。
そう感じた次の瞬間。
洞窟はその姿を消した。
場面変わって、あたり一面焼け野原、いや、焼けた部屋という感じ。
消し炭になった天井の柱や書架の転がる只中に、なぜか、俺達は居た。
いや、なぜか、はないだろう。
これは間違いない、魔導書の魔力が何かしらの要因でかき消されたのだ。
何故、どうして。
答えは、先ほどの魔導書の爆発なのは間違いない。そして、この書架の散々たる状況を考えるに、おそらく、あの炎で、この書架の中にある魔導書を、消し炭に変えてしまった――というのがことの顛末。
まぁ、命が助かったのだし、細かいことは、よしとしよう。
「よかった。一時はどうなることかと思ったが。無事に、生きて帰ることができた」
「なっ、なっ、なっ」
「おうリーリヤ、眼が覚めたか。よくやった、助かったんだぞ、俺達。お手柄だ」
と、彼女に礼を言おうとした俺の頬に、意味不明のグーパン。
エルフパンチ。
大して痛くはないのだけれど、しかし、不意打ちには面食らった。
「なっ、何をするのよ、この、バカマクシム!!」
「なっ!? なんだよ、バカマクシムって!! お前、せっかく助かったってのに!!」
「貴方ね、エルフの耳先に息を吹きかけるなんて、この耳がエルフ族にとって、どれだけ重要なものかわかっているの!?」
「知るわけないだろ、俺、エルフじゃないんだから!!」
「だったら気軽になんでこんなことを!! あぁもう、ヤダ、私、もう、お嫁にいけない!!」
「いかないんじゃなかったのかよ!!」
五月蝿い、と、また、猫パンチが俺の鼻頭に炸裂した。
命が助からなければ、お嫁にだっていけない。
別に構わないだろう。
なんだろうね、エルフにとって耳ってのは、そんな恥ずかしい場所なのだろうか。
うぅん、わからん。おへそくらいのもんだろうか。
お尻、にしては、さわり心地が足りないよな。
俺の腕の中で、先ほどの炎よりも真っ赤な顔をして、涙目になるリーリヤ。
思い出したように、彼女はローブの中から杖を取り出すと、その先を、俺の首へと向けたのだった。
「おい、やめろよ。せっかく助かったってのに」
「うるさい!! バカ、バカマクシム!! 地獄におちろぉ、この破廉恥盗賊!!」
「そんな人を下着泥棒みたいに」
せっかく助かったんだ。
もう少し、現世を楽しませてくれよ。
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