目隠し鬼さん、手の鳴る方へ

竹尾 錬二

第1話

 ――たまには、秋の話をしよう。夕焼けの美しい橙色の秋ではなく、赤銅色に沈む晩秋の話を。

 ――まずは、彼女の紹介から。

 ――その少女が店を訪れるのは、決まってこんな気怠い日曜の昼下がりだった。



  




 初めて私が彼女と出会った日は、まだ蝉の鳴き声の残る、残暑厳しい九月半ばの日だったと記憶している。

 床に散らばった新刊を必死で掻き集めている最中だった筈だ。

 客がうっかり肩をぶつけて崩してしまった、新刊コミックのスパイラル積み。

 うちのような手狭な地方書店に似合わないそのオブジェは、店長の気まぐれと自己満足で行われ―――後始末だけが、新米バイトの私に回ってきたのだ。


 嘆息を一つ。

 今度はタワーだのスパイラルだのの無謀な積み方はせずに、店頭装飾を施して、POPと共に平積みにしておこう。

 そう心に決めながら、拾った漫画を抱えて、床から視線を上げた。

 ――その時だった。


 店頭の自動ドアが開き、むわっとした夏の香を残した風が吹き込んだ。

 床に膝をついたままの私と、入店してきた少女の姿。

 それはまるで、私が少女を崇めるが如き構図だった。

 白い夏物のワンピースと、ワンピースと同じ色のつば広の帽子。高原の鷺草にも似た清楚な立ち姿。

 空調の仮初の冷気が、彼女の首筋を撫で、色素の薄いロングウェーブの髪を揺らした。

 気がつけば、漫画を拾い集める手も止めて、私は呆けたように彼女を見つめていた。

 自動ドアが閉じる。

 彼女がそっと脱いだつば広の帽子を、傍らからの手が恭しく取り上げた。

 小さく彼女は会釈を返すと、ごく自然な挙措で右手をするりと、隣にいた男の肘にまわしたのだ。


 その時になって、やっと私は彼女の同伴者に気がついた。

 今考えてもおかしな話だ。二人はほぼ同時に入店していた筈なのに、私の目には少女一人の姿しか映らなかったのだから。

 角度の問題だとか、本を拾うのに集中していたせいだとか、他に筋道立てた説明は幾らでもできるのだけど、やっぱり、あの瞬間の私は間違いなく彼女に目を奪われていたのだろう。

 

 彼女の同伴者は、一目見るだに気に喰わない男だった。

 アッシュグレイに染めた髪をアシンメトリーに固め、開いたシャツの胸元からは太いシルバーのアクセサリーが下品な輝きを見せている。

 こんな田舎町には珍しい都会じみたファッションに身を固めた男。高い鼻梁と細い顎の、如何にも女にもてそうな風貌な優男だった。

 佇まいから直感した。この男は自分の相貌を良く理解し、女を扱うことに手慣れている類の男だ。

 

 そんな男に少女は心からの信頼の笑みを浮かべ、肘をぎゅっと抱き寄せるように掴んでいる。

 美男美女のお似合いカップル、と呼ぶには少々不釣り合いな光景であった。

 人並みの冴えない容貌の男である私の、取るに足らない嫉妬が混じっていたことは否定しない。

 だが、清楚で純朴そうな少女が、見るからに軽佻浮薄な顔だけの男と腕を組んで歩く姿は、高原で見つけた可憐な野花が革靴で踏まれていくのを見るような、我慢し難い不快な光景だった。 


 意図的に彼女達から目を逸らしつつ、私は黙々の己の職務に集中することにした。

 それでも、気になってしまうものは仕方がない。ちらり、ちらり、と様子を伺うと、彼女達は仲良さげに談笑しながら、文庫の新刊を物色していた。

 軽薄そうに見えたあの優男だが、遠目からも彼女を気遣い大切にしている気配が、一挙手一投足から伝わってくる。

 お幸せに、ラブラブカップルさん。胸中に諦めの区切りもついて、漫画棚も整え終えた時。


「ありがとうございました」


 涼やかな彼女の声が、私の両耳を貫いた。

 無言で商品を受け取り帰っていく客が大部分なこのご時世だが、たまに礼を返してくれる殊勝な相手もいる。

 しかし、こんな心地の良い、涼風のような声を聞くのは初めてのことだった。

 文庫本の包まれた茶色い紙袋を大事そうに胸に抱いて、去りゆく彼女を振り返る。

 ――私は、どれだけ愚鈍だったのだろう。

 その時になって初めて気付いたのだ。

 彼女が手にしていた白杖と、一度も開かれることのなかった瞳に。 



   



 次に少女が店を訪れたのは次の週の日曜のことだった。

 彼女のことは一目で分かった。見違える筈も無かった。

 彼女の姿は、この一週間、何度も私の脳裏を過ったあの日のままだった。

 異なっていたのは、彼女の隣に立つ男の姿だった。


 先週のホスト染みた優男を見て、彼女にはそぐわない男だと感じた。

 だがしかし、その日彼女の腕を引いて表れた男は、もっと彼女には不釣り合いな人間に思えたのだ。

 ボサボサの髪、せわしなく周囲を伺う視線と、俯きがちな猫背から、自信の無さが垣間見える。

 先週の優男とは対照的に、安物のジーパンとチェックのシャツ、良く見れば着ているTシャツにはアニメキャラがプリントされている。

 彼のようなステレオタイプなオタクの青年は今日々珍しくも無いが、いかにも女性と縁の無さそうな彼が、少女の手を引き書店を訪れるのは如何にも不自然である気がした。

 

 人は外見では判断できない、などという説教は小学校の道徳の時間で聞き飽きている。

 それは確かに正論であるし、真実なのだろう。

 それでも。社会に出て齢を重ねてみれば、人は外見だけでも、それなりの事が分かるというのは、誰もが知っている事実だ。

 服装のチョイス、会話の際の表情の使い方。それらの僅かな情報だけでも、注意深く観察しさえすれば、その人物の人となりは、大雑把に掴めてくる。

 自然な笑みで青年に話かける少女とは逆に、青年は肩に力が入り、歩き方すらぎこちない。初デートの中学生のような有様だ。


 青年は強張った口調で、「す、少し段差がありますよ」だの、「二階に上がってみますか」だのと、気遣いの声をかけていた。

 少女のたおやかな指は、青年の肘の辺りをしっかりと掴んでいる。


 何のことは無い。

 先週の優男も、この青年も、行っているのは『手引き』と呼ばれる視覚障害者への歩行補助だ。

 恋人同士の甘やかな本屋デートではなく、目の不自由な彼女の為の単なる介助。

 

 ――だが、そう考えるにしても、疑問は残った。

 彼女を導いていた二人は、どちらも進んでボランティアを行うような人間には見えないし、無論介護師でも無いだろう。

 勿論、彼女のような可愛らしい少女の腕を引き、導いて歩いてみたいという動機は、男として思い浮かんで当然だ。

 しかし、彼女の手を引いていた二人の挙措は、どちらもただ労りに満ち満ちていて、浮ついた感情や下卑た視線を微塵も感じさせなかった。





 次の週、彼女の手を引いてきたのは、またもや違う男だった。

 少女の父親かと思える程の年齢の、大柄な男。

 丸く刈り上げた頭に、眉間には深い縦皺。左の目から耳から大きな切創が走っている。

 周囲の客は男に気付くと、眉を顰めて一歩退いた。

 カジュアルな服装に身を包んでいても、隠しようが無い。

 その容貌と挙措には、長年他人を威圧し続けていた人間だけが醸し出せる、刃物ような雰囲気が伴っていた。

 そんな明らかな筋ものの男が、幼子の手でも引くように、そろそろと彼女を手を取って店内を歩く様子は、滑稽でさえあった。


 衝撃は、やがて困惑へと変わった。

 彼女は、一体何者なんだろう?


 バックヤードで涼を取っていた店長に訊ねてみると、


「ああ、彼女か。目立つよねえ、彼女。目が不自由らしいけど、一体どこのお嬢様なんだろうね~?

 買ってく本はいつも予約だから、名前と電話番号だけはわかるけど……

 ん? 君、もしかして惚れちゃったりした? ん~彼女は止めておいた方がいいと思うなあ。

 可愛いのは分かるけどさ、ほら。今日はあんなヤーさんと一緒だし、他にもヤバそうな奴と一緒に来ること多いし。

 絶対何かワケ有りだって。深入りしない方がいいと思うよ~」


 と、咎めるような視線を送ってきたので、私はぞんざいな首肯を返し、何時もの業務に戻ったのだった。

 

 その後も彼女は、週末が訪れる度に、店に顔を見せた。

 新米バイトの私は知らなかったが、もう随分と前からこの週末の来店は続いているらしい。

 週末の度に訪れる彼女を観察し続けるにつれ、私にもその行動の規則性が掴めてきた。


 来店の数日前には、必ず電話で予約が有り、彼女は介護者と一緒に店を訪れ、受け取りついで店内を物色していく。

 受け取る本は、決まって薄手の文庫本で、大概が新刊の大衆小説だった。

 彼女を導く介護者は、主に最初に顔を見知った三人だったが、それ以外の男を伴っていたこともあった。

 見知らぬ顔の男性に導かれて来店したこともあったし、女性の介護者に連れられて来たこともあった。

 まるで共通点が見つけられない面子だったが、誰もが誠実に彼女の補助を行っていたことは間違いない。

 ――稀に、彼女独りで店を訪れることもあるのを後に知った。


 時には、私がレジで彼女と応対することもあった。

 名前と本の確認。代金の受け渡し――それが、店員と客の間にあるべき全てであり、正しい距離感だ。

 しかし、次第に私は己の内の好奇心を抑えきれなくなっていくのを感じていた。



   



 そして千載一遇のチャンスは巡ってきた。

 あれからカレンダーが二枚程捲られたある日曜の午後、彼女が介護者を伴わずに店を訪れたのだ。

 全盲であることは疑いない彼女が、勝手知ったる様子で店内を物色する。

 白杖一本のみを頼りに悠々と。楽しげに、小さな桜色の唇を綻ばせながら。

 つられるように、私の口許も自然と緩む。

 何でも電話やネットの注文で済ましてしまえるこのご時勢、あえて不自由な想いをしながら本屋に足を運んでいるのだ。

 確信に近い直感が私を貫いた。――ああ、彼女はきっと、この本屋という場所が好きなんだ。そんな、彼女の心が少しだけ分かったような気がしたのだ。


「こちら、ご予約の新刊となっています」


 レジを訪れた彼女に、薄手の文庫本を手渡す。

 今更ながらに不安になる。

 声は震えていないか――彼女に見抜かれてはいないだろうかと。


「はい、ありがとうございます」


 鈴を転がすような透りの良い声で私に礼を述べると、彼女は折り目正しく頭を下げた。

 鞄の端に結われた、切り裂きニャンコのぬいぐるみが、彼女の頭と同じ放物線を描いて揺れる。

 私の胸を、罪悪感の針が刺した。


 全盲の彼女に手渡したのは、同じ厚みの、予約のものとは異なる文庫本だった。


 彼女が店を出て、頃合いを伺うこと、数十秒。


「ああ、しまった、先ほどの予約のお客様に、間違った本を渡してしまいました! すみません、店長、少しレジお願いします!」


 我がことながら、余りにもわざとらしい声を上げて、私は本来彼女が受け取るべきだった本を手に取った。

 店長は、あーあ、俺知らないぞ、とばかりに冷たい視線を投げながらも、顎でしゃくって出口を指してくれた。

 彼女を追いかけ、私は11月の寒空の下を駆けだした。



   




 彼女の足取りは予想していた以上に速かった。

 普段の手引きの補助など、必要無かったんじゃないかと思える程のしっかりした足取りだった。

 私は、見失わないように、追いついてしまわないようにと注意しながら、ギリギリの距離から彼女を尾行した。


 大通り沿いから脇道に入り、暫し歩くと、鄙びた商店街に出た。

 

 彼女が迷い無い足取りで入っていったその店は、活気を失って久しい通り沿いの、寂れた小さな古本屋だった。

 店には屋号の看板すらないが、規則正しく並んだ書架には大判の専門書が並び、足元には紐で括られた本の束に手書きの値札が貼ってある。

 店内から漂う、黴臭い古書の香り。

 彼女を追うこととはまた別の、胸の高鳴りを感じていた。書店チェーンでバイトをしているが、私が本当に好きなのは、こんな、昔ながらの本物の古本屋だ。

 だが、こんにちは、と一言告げて、店に立ち入ると、店内にはまるで人気が無い。

 店の奥には店主の座る椅子らしきものはあるが、埃が薄く積り、暫く誰かが尻を預けたように到底見えなかった。


 すみませーん、と呼んでも返事はなく、店の軒先に吊るされた大きな鈴のようなものを見つけたのは数分後のことだった。

 神社に願かけるような気持ちで、じゃらじゃらと鈴を鳴らして、待つこと、五分、十分、二十分。

 そろそろ三十分になろうかとする頃、


「何か用かい?」


 と嗄れた声が響いた。

 振り向くと、店の奥から、古い絵本の中の鬼婆を思わせるような和装の老婆が、炯々と光る瞳でこちらを睨みつけていた。

 気圧されながらも要件を告げると、老婆はチッ、とあからさまな舌打ちを鳴らし、


「あの子は裏口から出てったよ。帰ったら渡しといてやるから。ほら、本を置いたらとっとと帰りな」


 と、皺だらけの顔を顰めて、汚いものでも見たかのような仕草で私から目を背け、蝿でも追うかように、シッ、シッ、と手を振った。

 あからさまに邪険な扱いだったが、食い下がる理由も見つからず、無念な思いを抱えながら店を辞去しようとした時、


「ただいまぁ! 婆ぁば、近藤茶葉店から新しいお茶っ葉受け取ってきたよ! ……あれ? お客様」


 聞き違える筈もない快活な声が響き、振り返ると、彼女が小鳥のように首を傾げていた。

 老婆は私を睨むと、チッ、と聞こえよがしにもう一度舌打ちをした。



   

 




 彼女の顔を見たら、本を渡して帰るだけのつもりが、彼女に押し切られるようにして、半ば強引に店の二階の老婆の自室まで案内されてしまった。

 古びた卓袱台で老婆と差し向かいに座り、彼女がお茶を淹れてくれるのを待つ。

 対面の老婆は明らかに不機嫌そうで、どうも尻の座り心地が悪い。


「この寒い中、わざわざありがとうございました。婆ぁばが何か失礼なことを申し上げたりしませんでしたか?

 本当にごめんなさいね。この婆ぁばは、昔っから誰に対しても『こう』なんです。お気になさらないで下さいね」


 心地よい湯気を立てる湯のみが卓袱台に並んだ。

 熱いお茶を舐めるように啜りながら、このなんとも奇妙な部屋の各所に忙しなく視線を彷徨わせた。

 和室であることには間違いない。だが、あちこちに奇怪な達磨や信楽焼の狸が並び、壁にはあられもない浮世絵の春画がベタベタと貼ってある。

 飾られている骨董品や芸術品とおぼわしき品々には共通点というものがまるでなく、それでいて、下の本屋と同じ黴くさい古本の香りのするこの部屋に、どうしようもなくマッチしていた。

 それらの中で格別の存在感を放つのが、壁から吊られた一枚の般若面だ。

 持ち主の念が籠っているのだろうか。老婆と同じ炯々と輝く眼光を放つ般若面は、物言わずじっと恨めしげに壁から私を見つめていた。


 老婆と般若面、私を咎めるような二対の視線に耐え切れず、本題とばかりに彼女の文庫本を取りだした。

 

「わあ、本当にありがとうございます!」


 彼女は屈託の無い笑顔でかんばせを輝かせた。


「じゃあ婆ぁば、早速だけど、今日はこの本をお願いね」


 ふん、と老婆は鼻を鳴らし、どさりと分厚い紙の束を取り出した。

 長居をしたが、そろそろいい加減頃合いだろう。

 残った茶を飲み干し、今度こそ辞去しようとしたが、


「そこのあんた、折角だから聞いていきな」


 私を引き留めたのは、意外な事に老婆だった。

 老婆は「ほら、今日はこれだよ」と少女に一束の真白い紙束を投げてよこした。

 一体何が始まるというのか?

 店のレジを空けて出たことなど、とうに私の頭からは消え失せていた。ただ好奇心だけが、胸の奥でぐるりととぐろを巻いた。

 少女は背筋を伸ばして姿勢を正すと、真白い紙束に細い指先を這わせ、静かに口を開いた。




 ――あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。


 わが熱き炎の都、

 都なる煉瓦の沙漠、

 沙漠なる硫黄の海の広小路、そのただなかに、

 饑ゑにたるトリイトン神の立像、

 水涸れ果てし噴水の大水盤の繞には、

 白琺瑯の石の級ただ照り渇き痺れたる。


 そのかげに、紅き襯衣ぬぎ

 悲しめる道化芝居の触木うち、

 自棄に弾くギタルラ弾者と、癪持と、

 淫の舞の眩暈、

 さては火酒ブランデイかぶりつつ強ひて転がる酔漢と、

 笑ひひしめく盲らは西瓜をぞ切る。


 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし――



 ガツン、鼻っ柱を殴り飛ばされたような衝撃が私を襲った。

 それは声だった。彼女の声だった。

 冒頭ですぐに分かった。彼女が読んでいるのは北原白秋の詩集、『第二邪宗門』の『飢渇』である。

 良い詩であることは知っていた。誰もが認める大文豪の遺した、後世に伝えるべき素晴らしい詩であることなど分かり切っていた。

 なのに――彼女の朗読を聞いて、私はこの詩の何一つを理解して無かったことを思い知らされた。

 彼女が言葉が紡ぐたびに、詠われた情景が円橙のように瞼の奥に浮かび上がり、作者の込めた情念が胸中で燃え上がって、熱く苦しく丹の底を焦がした。

 老婆は心地良さそうに彼女の朗読に耳を傾けている。



 狂気者よ、人轢き殺せ。

 癪持よ、血を吐き尽せ。

 掻き鳴らせ、絃切るるまで。

 打ち鳴らせ、木の折るるまで。

 飛びめぐれ、息の根絶えよ。

 酔へよ、また娑婆にな覚めそ。

 盲らよ、その赤き腸を吸へ。

 あはれ、あはれ、

 この旱つづかむかぎり、

 汝が飢渇癒えむすべなし。


 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。




 彼女の、暴力的なまでに凄まじい朗読が止んだ。

 老婆は、フン、と鼻を鳴らすと。


「もっと心を籠めて読みな。そんなんじゃアタシの筆がのらないだろう」


 と言い捨てた。

 そう言いながら、老婆は少女から渡された文庫本を広げ、小さな桝目の並んだ奇妙な板のようなものを取り出した。

 知っている――あれは、点字版。紙に点字を打ち込むための原始的な道具だ。

 少女の次なる朗読が始まる。北原白秋の第二邪宗門、次なる詩は、『わかき喇叭』だ。

 彼女の声に重ねるように、点筆を握っていた老婆の指がゆっくりと動き出した。

 点字を打つというのは根気のいる作業だ。一文字一文字、丁寧に点筆で紙に穴を空けていかなくてはならない。

 それが、この老婆は枯れ木のような指先でもって、機械のような精度、手先が霞むほどの速度で、猛烈な勢いで点訳を行っていく。

 その速度たるや、さながら人間ミシンだ。

 空恐ろしいまでの速度で、本の頁が捲られ、点訳された白紙が積み上がっていく。


 少女の朗読の声と、老婆の点訳の音。

 ただそれだけの筈なのに、火酒に酔ったかのような恍惚が、私の頭蓋の中身をとろかしていった。



   




 彼女と親しくなるのには、そう時間は掛らなかった。

 知りたかった彼女の素性や生い立ちも、拍子抜けするほどあっさりと聞くことができた。

 彼女は幼い頃に事故で両親を失い、己もまた光を失うという凄惨な過去を背負っていた。

 老婆は少女に唯一残された、遠縁の親戚だそうだ。

 しかし、彼女は老婆に頼ることをせず、気丈に独り暮らしを営んでいるらしい。

 歩行の補助に付き添って店を訪れた男性達は、彼女が定期的に参加している本の朗読会で知り合ったそうだ。

 目の不自由な子供たちのための、本の朗読会。

 しかし、幼い頃から本が好きだったという彼女は、他の誰よりも朗読が上手く、今では殆ど彼女の独演場となっているらしい。

 点字で本を読むのは、通常の墨字で書かれた本を読むより遥かに時間がかかる筈だが、老婆が言うには好きな本のほとんどは暗記してしまっているという話だから驚きだ。





 おれはやっとのことで十階の床をふんで汗を拭った。

 そこの天井は途方もなく高かった。全體その天井や壁が灰色の陰影だけで出來てゐるのか、つめたい漆喰で固めあげられてゐるのかわからなかった。

 (さうだ。この巨きな室にダルゲが居るんだ。今度こそ會へるんだ。)とおれは考へて一寸胸のどこかが熱くなったか熔けたかのやうな氣がした。

 高さ二丈ばかりの大きな扉が半分開いてゐた。おれはするりとはいって行った。

 室の中はガランとしてつめたく、せいの低いダルゲが手を額にかざしてそこの巨きな窓から西のそらをじっと眺めてゐた。

 ダルゲは灰色で腰には硝子の蓑を厚くまとってゐた。そしてじっと動かなかった。

 窓の向ふにはくしゃくしゃに縮れた雲が痛々しく白く光ってゐた。

 ダルゲが俄かにつめたいすきとほった聲で高く歌ひ出した。

 西ぞらの

 ちぢれ羊から

 おれの崇敬は照り返され

 (天の海と窓の日覆ひ。)

 おれの崇敬は照り返され。

 おれは空の向ふにある氷河の棒をおもってゐた。

 ダルゲは又じっと額に手をかざしたまま動かなかった。

 おれは堪へかねて一足そっちへ進んで叫んだ。

 「白堊系の砂岩の斜層理について。」

 ダルゲは振り向いて冷やかにわらった。





 私が会場に足を踏み入れたとき、朗読は既に始まっていた。

 宮沢賢治の、『圖書館幻想』だ。

 童話作家として有名な賢治の作品なら、『注文の多い料理店』や『オツベルと象』のような作品の方が、子供に読み聞かせるのには向いているのかも知れない。

 だが、子供たちの誰もは、真剣な表情で彼女の朗読に聞き入っていた。

 子供たちだけではない。朗読会の会場には、あのホストのような優男も、弱気なオタクじみた青年も、極道らしき中年男性も、彼女の手を引いていた大人達が揃いも揃って、うっとりと彼女の声に聞き惚れていた。



 

 朗読が終わった後、彼らのうちの目立った幾人かから、彼女についての話を聞くことにしてみた。

 人付き合いの悪そうな面々であったが、彼女の話題を少し振ると、誰もが親馬鹿の父親が娘の自慢でもするかのような口調で、意気揚々と彼女との馴れ初めとこれまでの経緯を語ってくれた。



「――自慢じゃないけどさ、オレ、女にモテるんですよ、昔っからさ。

 大学も中退しちゃったしさ、しばらく色んな女のとこ転々としてさ、ヒモみたいなことしてたワケ。

 でもさ、やっぱり自分の食いぶちぐらいは自分で稼がなきゃ、って思うじゃん、男としてわさ。

 だけどさ、オレ馬鹿だし、真面目にチマチマした仕事するの嫌いだしでさ、結局ホストになっちゃった。

 やっぱり、女に食わせてもらってるワケよ。……あ、ここ笑う所よ。

 女を引っかけるのには慣れたけどさ、オレに引っかかるような女ってのは、やっぱりオレの顔だけを見てるワケよ。

 いや、オレも仕事だって割り切ってるしさ、それはいいんだけど、何か時々虚しくなるワケ。解る?

 オレの中身を見てくれる女なんて、だーれも居ないだろうなー、って。

 そんな時、彼女に出会ったワケよ。

 彼女、マジでいい女よ。なんつーかな。こんな中身スッカラカンなオレだけど、初めて本当のオレを見てくれた、そんな気がするワケ。

 初めて彼女の手を引いた時にさ、振りかえったらにっこり彼女が笑ってて……泣いちゃったんだよな、オレ。どうして泣いちゃったんだろう。

 あ、勿論、彼女には指一本触れてねーよ。彼女は、そんな安っぽい女とは違うから。

 ん~、解るかな? ちゃちな言い方だけどさ、彼女はオレにとっての女神なのよ。

 抱きたくなる気も起きないぐらい、大事な女なワケ」




「――だ、誰にも言わないでね。

 実はさ、初めて彼女に会った時、僕、あの子をストーキングしてたんだ。

 家も近くみたいだったし、街で会うたびこっそり後ろを追いかけてた。

 本当にキモイことしてたよね、僕。

 も、もっとぶっちゃけちゃうとさ、あの子、目が見えないでしょ?

 だから、痴漢しちゃっても気付かれないかな、なんてかなり最低なことも考えたこともあったんだ。

 でも、あの時、痴漢したりしないで、本当に良かったよ。

 もしあの子に痴漢なんてことしてたら――僕、自殺しちゃってかもしれないから。

 あの子がこの朗読会に通ってること知って、僕も通うようになったんだ。お近づきになれれば、って奴?

 僕、自分から女の子に話しかけたりしたこと無かったからさ、どもって巧く話せなかったんだけど……。

 ちょっとずつ、あの子に話しかけてみたりしてたんだ。

 そしたらある日さ、『今日この後、本屋に行きたいんですが、一緒に行って貰えませんか』っていきなりあの子に言われてさ。

 何がなんだか、分からなかったよ。

 学生時代はさ、ずっとバイ菌扱いされてたんだよ、僕。

 あの子はさ、そんな僕の腕握ってさ、お願いしますって……、僕、僕。

 あ、ごめんね。あの時のこと、思いだす度に泣けてきちゃって。

 あの子は僕の天使様なんだよ。あの子のためなら、僕、何だってするよ」




「――面ぁ見れば解るだろ。俺ぁ元々カタギの人間じゃあねえんだ。

 だけどさ俺ぁ、こんな図体してる癖によぅ、昔から気が弱くてよぅ……。

 俺ぁ、抗争で目ェやっちまって、びびって逃げ出して来ちまったんだ。

 盃預けたオヤジのことをほっぽり出して、わが身可愛さに独りでケツ捲くって逃げて来ちまったんだ。

 どの面下げて組に帰れるよ? 帰れねえだろ? あの戦争がどうなったかも分かりゃしねえ。

 もし帰れても指の一本や二本じゃ済まねえよ。

 乞食も同然の格好でこの町に流れ着いたのはいいがよ、俺ぁカタギの働き方なんて分かりやしねえ。

 日雇い仕事でも食いつないでいけなくなってよ、俺ぁこの公民館に盗みに入ったのよ。

 通すべきスジも無けりゃ、仁義もねえ。ただのコソ泥にまで落ちぶれちまってよ。

 あん時の俺ぁ、本当に切羽詰ったてた。この公民館に残った食いもの漁って腹が膨れると、自然と瞼が落ちてな。

 次の日、あの嬢ちゃんの声で目が覚めたのよ。

 あの時、嬢ちゃんが朗読してたのは、確か古い童話だった。もう顔も思い出せねえ俺のお袋が、餓鬼の頃の俺に読んで聞かせてくれた話でよ。

 俺ぁ、泣きながら隠れてた倉庫から飛び出しちまってよ……。

 あん時は嬢ちゃんにゃ迷惑かけたぜ。

 一晩警察の厄介になった後、嬢ちゃんの口ききで本屋の婆さんが仕事を斡旋してくれてな。

 なんとかこうして、お天道様が拝めるとこで飯を食っていられる。

 あの嬢ちゃんは、俺にとっちゃぁ、神様みてえなもんなんだ。

 こんなご面相な俺の腕を握って、心からの信頼を寄せてくれる――それがどんなに嬉しいことか、おめぇにはわからねえだろう、坊主」



 


 誰もがそんな調子で、皆、少女を心の底から崇めて奉っていた。

 そして、彼らから驚くべき計画を聞かされた。

 自分達の人生に光を与えてくれる彼女への、ちょっとしたサプライズプレゼント。

 ――彼らは募金を集め、彼女の目に光を取り戻すべく手術の代金を集めようとしていたのだ。

 この程度、彼女から受けた恩には比べるべくも無い小さなことだ。

 そう言って、彼らは皆、晴れやかな顔で笑っていた。

 目標金額まで、もう少しだという。十一月の寒空の下だったが、彼女の瞳が開く日を想像するだけで、胸の奥から熱がこみ上げて来た。

 どうしても堪えることが出来ずに、私は老婆に彼らの計画を漏らしてしまった。

 いつも通り、不機嫌そうに鼻を鳴らすのだろう――そう予想していたが、老婆は悲しそうな、酷く悲しそうな顔をして、瞳を伏せた。


「まったく、本当に愚かな生き物だね、男ってのは。

 そんなこと、やりたくないなら、しなけりゃいいのに

 逃げたいのなら、とっとと逃げちまえばいいのに。本当に馬鹿で愚かな連中だよ」


 私は憤懣やるかたなく、老婆に猛然と反論をした。


「どうしてですか!? 彼らは全くの善意で、心から彼女のことを想ってやっているんですよ!」


 老婆は私を見て、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

 

「アンタはあの連中とは目付きが違うようだから教えてやるよ。

 ……アンタ、本当にあの男達が、あの娘を好いていると思っているのかい?」

「と、当然です。思慕の形は色々でしょうが……皆さん、本当に彼女のことを大事に思っています」

「大事に、ねえ」


 老婆はもう一度、私を小馬鹿にするように鼻を鳴らした。


「あんた、あの連中が、あの子について蘊蓄を語るのを聞いてたんだろう。

 あの顔を見て分からなかったのかね……?

 あれは、盲信をしている人間の顔だよ」


 盲信――その文字は、めくらに信ずると書く。


「確かに、あの子は出来た子さ。だけどね、ただそれだけで、大の男が何人も傅くようになると思うかね?

 あの子は、ただ盲に信じられてるわけじゃない。

 ――盲だから、信じられるのさ。

 そんなあの子の目が開いたら、一体どうなると思うかね……?」


 私は、般若面の前で、老婆の恐るべき独白を聞き、顔面を蒼白にしながらただ立ち竦むしか無かった。

 少女の手術が始まる、10日前のことだった。



   




 少女の白い指が、般若面を撫でる。

 つるり、つるり、とその滑らかな面を撫で続ける。

 般若面は物言わず、ただ恨めしげに、少女を睨みつけていた。

 何一つ無くなってしまった部屋に、ただ一つ、ぽつりと残されていた般若面。

 少女は、般若面から指を離し、つるり、と自らの可憐な顔に指を這わせた。

 指は細い顎を伝い、整った鼻梁を超え、男達に贈られた両目の瞼をなぞった。


「わたしは、そんなに、恐ろしい顔をしているのでしょうか……。

 わたしのこの目は、この般若の瞳のように、人を睨んでいるのでしょうか?」


 振り返った少女の眼は開かれ、美しい大粒の宝石のような瞳が微かに揺れていた。

 美しかった。彼らの少女への賛美が、全く過分なものだと思えない程に、瞳を開いた彼女の貌は、精気満ちた美しさで輝いていた。


「皆さん、いなくなってしまいました」


 首を振って告げる彼女の横顔を見つめながら、私は老婆の恐るべき予言が現実のものになった事を静かに受け止めていた。

 ガラン、と風の吹き抜ける冷たい部屋の中、私は彼女と二人、向かい合って座っていた。

 この日は、パーティーだった。

 彼女の瞳に光が戻ったことを祝うための、ささやかなホームパーティー。

 みんなで祝う筈だったのだ。ホストの男も、オタクの青年も、ヤクザ上がりの強面も、みんな揃って。

 けれども、その日会場となった老婆の部屋に集まったのは私独り。

 パーティー会場で彼女を待っていたのは、残された一枚の般若面だけだった。



 あの日、老婆は、私に語ったのだ。



『あいつらはさ、みんなあの娘のことが怖かったのさ。

 元々、自分に自信がなくて、ビクビク怯えてばかりで、自分の醜さに竦み上がってるような連中ばかりだったのさ。

 あいつらがあの子を崇めてるのは、醜い自分を受け入れてくれているからじゃない――。

 自分の醜さが、ただ見えないと思っていただけなのさ!

 馬鹿な連中さ!

 そんな都合のいい話があるわけ無いだろうに!!

 あの娘は、人並み外れて聡い娘さ! 目なんぞ見えようが見えまいが関係ない。

 あの娘は、人の心の奥底までを見通すことのできる娘さ! あいつらの性根の薄汚さなんて、とっくの昔にお見通しだったに違いないさね!

 あいつらの矜持を慮って、ずっと見て見ぬふりをしてやっていたのさ!

 あれだけ長く付き合えば、あの馬鹿共もいい加減その事に気付いただろうさ。

 だから、あいつらはあの娘から逃げるつもりなのさ。


 本当に馬鹿だねえ。あの娘が見てないふりをしてやっていたのだから、見られていないふりを続けりゃあ良かったのに、それさえも出来ないなんて。

 ただ逃げるのは格好がつかないから、目ん玉なんて高い置き土産をして、これで自分の醜い姿を見られてしまうから、逃げなきゃならないと口実つけて。

 あの娘は、全部全部お見通しだって、自分だって分かっていた癖にねえ。

 ふん。逃げたい奴は逃げればいいさね。あの娘は独りだって、十分にこの世の中を渡っていける、したたかな娘さ。

 あたしらなんて、みんなみんな、最初から要らなかったのさ。


 ――人は誰もが心の中に鬼を飼ってる。

 自分の醜さという名前の鬼をね。

 心の奥底に閉じ込めてた鬼を飼いならせなくなっちゃあ、仕舞いだよ。

 そいつは、自分の中の鬼に喰い殺されちまうのさ――』




 ただ一枚、残された般若面が私を睨みつけていた。

 もう、以前のような恐ろしさは感じない。私はもっと、もっと恐ろしいものが、己の裡に棲んでいることを知ってしまった。

 彼女は、とつ、とつと私に語った。



「皆さん、ずっと私の事を怖がられていたのは知っていました。

 皆さん、すっとご自分のことを恥じていらっしゃっていて――私は皆さんのお姿を見ること、ずっと叶いませんでしたから、私に会う時には、とても安心されていたことも知っていました。

 でも、皆さん、優しかったから。とても優しかったから――」


 少女は爪先でくるりと振り向くと、泣き笑いのような奇妙な表情を浮かべた。


「皆さん、私のこの目に光を取り戻すために、とても尽力して下さっていたのですね。

 私、知ってました。皆さん、私のことを好いて下さっていましたけど――。 

 本当は、『目が見えない私』のことが、好きだったんですよね。

 

 ……おかしいですよね。目が見えない私のことが好きだったんなら、どうして皆さん、私に瞳を下さったんでしょう?」


 少女は上品に口元を押さえて、くすくすという笑い声を漏らした。

 屈託のない、いつもの彼女の笑い声に、ほんの僅かな哀しみを混ぜて。


 

「婆ぁばも、いなくなってしまいました。

 もう、本は自分で読めるだろう、って、そう言って。

 ――いなくなってしまいした。


 ねえ、教えて下さい。私は、この目を開くべきでは無かったのでしょうか……?」



 私には、答えることが出来なかった。



   





 手持無沙汰になった私達は、近所の公園でちょっとした遊びをした。

 彼女からの提案だった。

 それは、誰もが子供の頃に行う他愛もない児戯だが、彼女は幼い頃に光を失ってから一度もやったことがないという。

 ……子供たちの姿すら絶えた灰色の公園で、児戯に興じる私達を、人々はどう見ただろうか?

 いや。寂れた商店街の隣の空き地に設えられた枯れ草だらけの公園は、冷たく沈黙し、何者の視線をも拒み続けていた。

 お陰で、私達は一時ではあるが、童心に帰って他愛も無い遊戯に興じることができたのだ。

 


 ――晩秋の寒空の下、息を白く曇らせながら、私と彼女はごっこ遊びをした。

 それはとても単純な、鬼遊びの一種だった。


 彼女は布切れでいそいそと己の瞳を隠し、


「準備できましたよー」


 あの朗読会で幾人もの男性を虜にした、高らかな声で私に呼びかけた。

 まるで屈託のない、健康的で張りのある声。

 その声からは、一片の苦衷や哀切すらも感じとることはできなかった。

 

『あの娘は独りだって、十分にこの世の中を渡っていける、したたかな娘さ』


 老婆の言葉が、蘇った。

 手を振る彼女の表情には、一点の曇りすらない。

 もしかしたら。彼女は、別れを終えてしまったのかもしれない。

 般若面を撫でていた、ほんの僅かなあの時間の間に、婆ぁばも、男達も、彼女にとって過去の存在になってしまったのかもしれない。

 そんな恐ろしい想像が、私を脳裏を過った。

 介護者無しでも、悠々と書店を歩きまわる彼女の姿がリフレインする。



 ――突如、美しい彼女の笑顔に、あの般若面が被って見えた。

 瞳を覆い隠す布切れの向こうから、般若の空虚な瞳が恨めしげにこちらを見つめているという幻視をしたのたのだ。


 ――結局のところ、彼らは皆、彼女に縋っているようで、その実怯えていた。

 ――彼らにとって、本当に鬼であったのは、一体誰だったのだろう?

 ――それは、己自身か、それとも……。

 ――考えても詮無きことだ。


 私は両手を叩きながら、彼女にこう呼びかけた。


「鬼さんこちら、手のなる方へ!」



  




 ――四季の国屋書店の店員である私は、ここで筆を置いた。

 これにて、私が出会った彼女の話はお終いだ。

 老婆が告げたように、彼女はこれからも強かに生きていくのだろう。

 独りだろうと、誰かと一緒だろうと、ただ真っ直ぐに。

 だが――彼女のようには生きられない、弱くて醜い私のような人間には、彼女の在り方は眩し過ぎる。

 結局は、他の大勢の男達と同じように彼女から目を逸らすことしかできないのだろう。


 ああ、それからあともう一つ。

 言葉というのは、なんという不自由なものなのだろう。

 彼女の高らかな朗読の声を紙上に留めておけないことだけが――唯一の心残りだ。






 終




 注:作品内に、現在では差別と受け取られる言葉が幾つか使用されていますが、

   登場人物の年齢を加味しての使用であり、障碍のある方への差別の助長が目的ではないことをご理解下さい。

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目隠し鬼さん、手の鳴る方へ 竹尾 錬二 @orange-kinoko

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