朧茂夫は彼女のペンネームだった

@annri

ある日の午後、かつての母校


 朧茂夫は、ひとつ抜け道を思い出していた。

 なにも、正門だけがキャンパス内に入る手段ではないのだ。

 第二グラウンドの、野球場の、金網のつなぎ目。正門の反対側にあるその隙間は、近くに有る大型スーパーに行くには最適なショートカットだった。

――あの隙間は、今でも存在しているのだろうか。そしていまでも腹を好かせた学生たちは、身体を横にしてなんとかすり抜けながら、スーパーへカツ丼弁当を買いに向かっているのだろうか――

 彼は内心ほくそ笑みながら、閉ざされている正門に対して直角に横を向くと、学校の外周をなぞって歩き始めた。


 春の日差しは、歩いているだけでもじんわりと身体を汗ばませた。たまらなくなってスーツの上着を脱ぐと、ひとつ涼しい風が吹き抜けた。

 大学の外周を取り巻く堀は、ささやかな水音を発している。さらに耳を澄ませてみれば、きっとキャンパスの中から学生の楽しげな声が聞こえてくるだろう。

 学生時代はああいう騒がしい連中のことは好きじゃなかったが、と茂夫は思った。今になって思えば、きっと、自分たちのサークルもそれなりに騒がしかったのだろう……。あの頃は、すべてが楽しかった。些細なことにも声を上げて笑うことができたという意味でもあるし、実際に善なるものに囲まれていたのだろうとも思った。

 角を曲がるたびに、自然と朧の歩調は早まっていた。

 白球がバットに打ち返される音がした。思考が、耳聡くそれを聴覚から拾い上げる。今となってはほとんど聞く機会のない音。

 金網の隙間は――そこにあった。ちょっとした植木と茂みによってわかりづらくなっている一角。腰の高さほどの柵を乗り越え、堀を飛び越えさえすればすぐの入口だ。

 朧茂夫の身体の中に、身悶えるような感慨が一気にこみ上げてきた。全身がむず痒くなって、なんだか急に恥ずかしいような気持ちになってきた。

 辺りを見渡してみれば、幸い人通りはない。

彼の身体は自然と動いていた。


 大学の中は――驚く程、記憶の中と変わっていなかった。寸分の違いもない、在りし日のままだ。灰白色の建造物群に、緑の植樹、自由の空気があった。

まるでキャンパスの中だけ時間が止まっているかのようだ――いや、あるいは、時間が止まっているのはおれのほうかもしれないな、と朧茂夫は思った。


 野球場の側をゆっくりと歩きながら灰色のプレハブ小屋――文化系サークル棟へと目を向けた。部室に顔を出そう、と彼は思っていたが。――先に学生ホールで飲み物でも買ってからにしよう。サークル棟の裏にある自販機じゃあ、量ばかり多くて味の薄いスポーツドリンクしか売っていないのだから。

 時間的にまだ講義をやっているのだろうが、それでも空きコマなのか、チラホラと学生と思わしき若者たちの姿もあった。

 一瞬、朧茂夫は身構えていた。連れ立って歩く学生たちから、疎外の視線が送られてくるかもしれないと思ったからだ。しかしそれは杞憂だった。学生たちは、特になんてことのないように、彼のそばをただすれ違っていく。

 ――考えてみれば、当たり前のことだった。大学なんていうのは、いろんな人間がいた。スーツを着た男がひとり入り込んだくらいで、この世界がほんの少しも乱されることはないのだ。あってはならないのだ――

 ふと、曲がり角から人影が現れた。それをみて、朧はあっと声を上げた。

 それはサークルの後輩だった。彼女は、後輩連中の中でも特に朧と話が合うやつで、よく互いの部屋に泊りに行ったりしたものだ。学年の差を感じないような、気のおけない友人だった。

 なんだか愉快な気持ちになってきた朧は、大股で進んでいく。

 後輩が顔を上げ、目があった。

 朧は小さく笑い、そして手を挙げて、口を開く。おう久しぶり、元気にしてたいか、と声を掛けようとした――

 ――しかし、一瞬だけ目があった後輩はすぐに視線を落とすと、そのまま何事もなかったかのように朧茂夫のそばを通り抜けていった。

 そのあまりの素っ気無さに、茂夫はすっかり呆気にとられた。やがて振り返ると、歩き去っていく後輩の背中が見えた。

 なんだ、冷たいやつめ、と彼は心の中で毒づいてしまう。おれのことがわからなかったのだろうか……そういうこともあるかもしれないな。社会人になって、おれもすっかり変わってしまったのだから。

 まあいいさ、とも彼はすぐに思い直した。あいつがあっちの方向に歩いていったってことは、きっと部室に向かっているのだろう。このあと、おれも部室に向かって、今さっき無視されたことをネタにして、あいつをいじってやろう。そうすると、きっとあいつは慌てながらおもしろい反応をするに違いないのだから……。


 学生ホールの中には、いくつかの学生たちのグループがいた。机と椅子があるという理由だけでここにたむろうのだから、その種類は様々であった。

 ホールの中央あたりに陣取っているのはボランティア系のサークルだろうか、いかにもな男女のグループが談笑していた。トイレの入口近くの席には、向かい合ってパソコンを広げてレポートに取り組むふたりがいた。自動販売機の前には机一つを占領してカードゲームに勤しむ男子学生のグループが、それぞれ自らの手札を激しく弾き合わせていた。

 ――やはり、当時のままだ。朧は一種感動を覚えていた。たぶん、きっと、これは生態系のように調和したバランスなのだろう。胸がいっぱいになるような思いだった。恒常性というものがここにある気がした。

 自動販売機に寄り添ってみれば、ほぼ記憶の中通りの品揃えだった。朧は、学生時代に愛飲していたホットココアを買うと、そのまま手の中で転がした。

往来の邪魔にならないように、彼は壁に背をつけた。

 節電のためなのか、日中はホールの電灯は消されていた。薄暗い空間はどこか核シェルタのようなものを朧に思い起こさせた。

――たぶん、本当に、実質的にはシェルタのようなものなのだろう、と朧は考えた。外界、つまり社会だとか労働だとかいうモノに対する、一時的な避難所なのだ。学生の頃は、台風だとか大雪だとかで休講になったとき、いたく胸を躍らせたものだが――構造的には、この大学というモノ自体がそうなのだ。

 彼自身、なんだかこの仮説がもっともらしいものに思えてきた。

 世間というものは、災害だ。それまで学校から学校への抱擁と抱擁を渡り歩いてきた学生が、突如吹雪の中に放り込まれるようなものだ。和やかで家庭的な気分という暖かさを胸に抱えていなければすぐにでも凍りついてしまうだろうし、あるいはそれさえもやがては決定的に、不可逆的に、救いようがなく、冷め切ってしまうのだ――

朧がふと我に返ると、手の中の缶はすっかりぬるくなってしまっていた。

 

 その遭遇は突然であった。

 朧茂夫が、さて部室に顔を出すかと歩き出そうとしたその時だった。

 ふと目の前を、ひとりの女性が通り過ぎる。小柄な身体、細い肩、軽快な足取り。

「――先輩」

 彼の口は自然に動いていた。

 その女性は、かつてのサークルの先輩だった人。彼が新入生の時からサークルの中心的役割をこなしており、院に進んでもなおよく部室に顔を出してくれた人。そして、あるいはかつての憧れだったその人――のように、少なくとも朧には見えた。

 けれど彼女は、まさか自分が呼び止められているとはつゆほども思っていないように、ほんの少しも反応を示さない。視線の一つさえもよこさなかった。

 朧茂夫は、今度は彼女を逃すようなことはできなかった。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ先輩っ。おれです、茂夫です。朧茂夫です」

 その声の指向性にようやく気がついたのか、彼女はようやく振り返った。

 彼女の表情は、あからさまに怪訝そうであった。訝しむような視線が、朧に突き刺さる。

「朧……?」

「そうです。ええっと、お久しぶりです。こんなところで奇遇ですね。今日はどうしたんですか。先輩もサークルの様子を見に来たんですか」

「……」

 彼は先輩の気を止めようと言葉を続けるが、しかしそうするほどに、彼女は警戒心を抱くようだった。

 次第に、朧茂夫のなかに苛立ちが募ってきた。――さっきの後輩にしてもそうだ。いくら社会人になってすっかり変わってしまったとは言え、かつて同じサークルに所属していた仲間に対して、こんな仕打ちをするなんて――

 彼は、半ば睨み返すように先輩の顔を見た。

 それは、間違いなく、彼の記憶の中にある通りの先輩の姿だった。

「……ああ、もしかして、そういうこと。すごい偶然だけど……ちょっと、面倒だな」

 ふと、彼女はなにか独り合点したように頷いた。そして今度は物珍しいものでも見るような視線で、朧茂夫の全身を見渡し始めた。

「ふーん、なるほどね」

「なんです」

「あなた、よく大学の中に入ってこられたのね。守衛さんに止められなかったの?」

「え? ……ああ、はい、そうなんですよ」朧茂夫は、彼女の態度の変化に面食らいながらも、ようやく相手にされて安心した。「正門から入ろうとしたらなんだか呼び止められましてね。なんだかよくわからないことを言われて、入れてもらえなかったんで、裏の方から入ってきちゃいました。全く、何なんですかね、あれ。卒業生が母校を訪れて何が悪いって言うんでしょうかね」

「……それで、あなたは《朧茂夫》なのね?」

「はいっ、そうです」

 茂夫は、なんだかようやく自分のことをわかってもらえたような気になって、嬉しくなっていた。思わず声が弾んでいた。しかしその気持ちは、すぐにくじかれることになる。

「ふうん……でもごめんなさい。わたし、あなたのことを知らないわ」

 彼女はすましたような顔で言った。

「わたしの知っている《朧茂夫》は、そんな顔じゃないもの」

「それは、そうかもしれませんけれど。でも、そういうものでしょう? 学生から社会人になるっていうことは、そういうことなんですから」

「服装だってまるっきり違うわ」

「そりゃあそうでしょう。おれはもう、社会人なんですから。学生の頃みたいな格好をしていられませんよ」

「わたしの知っている《朧茂夫》はあくまでペンネームだったはずよ。本名は別にあった」

「社会人になったら、名前くらい変わるでしょう」

「それに――わたしの知っている、《朧茂夫》というペンネームを使う後輩は――可愛い女の子だったはずよ」

「――ですから!」

 朧茂夫は思わず声を荒らげていた。

「学生から、社会人になったんです。社会人になるっていうことは、そういうことでしょう! ……さっきからなんなんですか、先輩は。おれのことをからかっているんですか」

「思考が誘導されているのね……それもかなり強力な暗示で……」

 彼女の小さなつぶやきは、しかし朧茂夫の耳には届かなかった。

「……べつにあなたがどう思っていようと、それでいいんじゃないの」

 彼女はあからさまに適当な事を言うと、そのまま立ち去ろうとした。その細い肩を、茂夫は掴んだ。

「待ってください、そんなの納得できません。……おれを、朧茂夫だと認めてください」

 彼女は振り返って、茂夫を睨みつけた。その目には、隠そうともしない侮蔑の色が込められていた。声にこそ出していないが、彼女が何を思っているかが明らかであった。

 気圧された茂夫は、思わず手を離す。

「――あなたが納得したいっていうのなら、そうね。じゃあ、少しだけ話をするのも悪くないでしょうね」

 視線は茂夫を睨みつけたまま、彼女は顎で近くの席を指した。


 向かい合って座る女性は――少なくとも、朧茂夫の記憶の中の先輩そのものであった。

 さっきからわけのわからないことを言って、先輩はおれをからかっているんだ、と彼は思った。そうでなければ、彼女のトボけているような態度に説明がつかない。思えば、彼女は学生の頃からこうやって突飛なことを言い出して、後輩たちのことをからかうようなことを好んでいた。

 いいさ、だったら付き合ってやろう、とも思った。そう思えば、どうしてだか湧いてくる苛立ちもうまく抑えられる気がした。

「あなた、人工口って知ってる?」

 彼女が口にした言葉。それの象形文字のような字面が頭に思い浮かんだ時、朧は呪術的な気持ちになった。

「ええ、知ってますよ。これでもおれは一応経済学士ですからね」彼は冗談めかして応えたあと、ふと真顔になって続けた。「それに、おれの職場にもたくさんいますよ」

 彼はずっと持っていたココアの缶を開けると、少しだけ口に含んだ。化学的に変質したような、粉っぽい味がした。

「言われた通りの仕事はこなすんですが、なんだかぼんやりとした連中ですね、あいつらは。モノを考えているんだか考えていないんだか……。そのくせちょっと嫌なことがあるとすぐにいなくなってしまうんですから。そのしわ寄せが来るこっちとしちゃあたまったもんじゃないですよ。そう思いませんか?」

「……」

 朧の呼びかけに彼女は答えなかった。代わりに沈黙と視線をよこしてくる。

 先輩にじっと見つめられると、――朧は、なんだか自分がひどく差別的なことでも口にしてしまったかのような、いたたまれない心地になった。

「けれどまあ、考えようによっちゃあかわいそうな連中でもありますね。」彼は慌てて付け加える。「いきなり大人の姿で生み出されて、学生時代に遊んで過ごした思い出もなく、いきなり働けと言われているんですから。そういった意味では、じつに憐れむべき連中ですよ」

「……」

 先輩は、少しだけ間を置いてから続けた。

「本来、労働力と消費者……つまり足りなくなった人口を補うために作られた彼らは、精神的にはとても不安定な存在なの。過去を持たないその出自のせいで、いとも簡単にアイデンティティを喪失して――さっきあなたが言ったとおり、いなくなってしまうわ」

「で、それがどうしたんです? こんどは社会派の小説でも書くつもりですか」

「……それで、この国の偉い人たちは考えたわ。せっかく諸外国から反対される中押し切ってクローン技術を完成させたのに、それがつまらない理由で使えなくなるのは、あまりにももったいない。彼らがいなくならないように――自殺してしまわないようにしよう、って。それで、あるプロジェクトに予算がついたの」

「……それって実話なんです? どうにかしようって思ってどうにかできるのなら、もっと早くして欲しかったですね」

「世間には伏せられたまま、計画はすでに実行されているのよ」

「なるほど」

 なんだ、やっぱり小説の話なんだ、と朧は思った。秘密の計画、だって? じゃあどうしてこの先輩がそれを知っているというのだろうか。自己言及的な矛盾だ。それはつまり、そういうことなのだろう。

 朧の内心を知ってか知らずか、彼女は平坦な調子で続けた。

「理屈で言えば簡単な話よ。過去がないのなら過去を与えてやればいいってだけ。そうすれば、彼らは本当の意味でただの人間になれる。哲学的な虚無感にとらわれることはなくなり、自殺率は激減すると考えられた」

「なるほど、なるほど。……でも、過去を与えるって、どうやるんですか?」

「記憶を移植してやるのよ。あらかじめ用意しておいた学生時代の記憶を人工口に与えるの」

「ははっ、それは寂しい話ですね。偽りの人間に、偽りの記憶ですか。――それで、その秘密計画はうまくいったんですか?」

「……そうね、今のところは成功みたいね」

「それは結構なことです」

 彼はもう一度、ココアに口をつけた。


「それで、どうしてそんな話をしたんです?」朧茂夫はいい加減に切り出した。「それと、先輩がおれをからかっていることに何の関係が?」

「あなたが、それよ」

「もう、なにをわけのわからないことを言っているんですか」彼は苦笑した。

「……暗示っていうのは、こうも強力なのね。面と向かって言っているのにまるで言葉が届かないわ」彼女は気味が悪そうにつぶやいた。

 いつのまにか、朧茂夫はずいぶん懐かしい気分になっていた。久しぶりに、学生時代以来に、こうやって長々と先輩の与太話に付き合ったせいだろうか。

 しかし彼にとって、今日の先輩の妄言はキレが悪いものに思えてならなかった。ところどころで物事の関連がわからなくなるし、なかにはその意味さえもよく理解できないところがあるし……

 ぺこり、と朧茂夫は空になったココアの缶を軽くつぶした。

「そういえば先輩は、このあと部室に行かれるんですか? おれは顔を出そうと思っていたんですけど」

「それは……あまりおすすめしないけどね」

「どうしてです?」

「いまあそこには朧茂夫が遊びに来ているはずだから。つまり、君のその記憶のドナーだ。君の持つ記憶の、本当の保持者だ。このままだと、偽物である君は本物の彼女と遭遇してしまい、自我が崩壊することになるわ」

「……?」

「しかし、よりによってよく同じ日同じ時間に現れたもんだ……それともこれが共時性というやつなのかしら……」

「何をおっしゃっているかはわかりませんが、先輩はいかないんですね? じゃあ、おれはそろそろ失礼します。久しぶりに会えて楽しかったですよ。また、どこかでお会いできたらいいですね。こんどは、面白い冗談を聞かせて欲しいものです」

「……ああ、そうね。だけど、ひとつ忠告させてもらえるのなら」彼女はほとほと疲れたように首をすぼめながら言った。「いきなり、不躾に部室に入るのはやめたほうがいいわ」

「といいますと?」

「とりあえず、一旦部室の外で立ち止まって、外から中の様子を伺うの。そして、部室の中にいる顔をよーく見渡して。……あー、それで、知らない顔ばかりだったら、中に入るのは遠慮するべきだわ。あんまりOBが幅を利かせるというのは、双方にとって気分のいいものではないから」

「そうですか? ……まあ、そうかもしれませんね、そうですね」

 朧茂夫は、多少不満げであった。しかし、考えてみればたしかに先輩の言うとおりである気がした。いまでは新入生だってすっかり部室に馴染んでいるだろうし、そこに自分のようなものが我が物顔で入っていくのは、あまりいいものではないだろう。もしもそうだった場合は、多少寂しくはあるが、大人しく引き下がることにしよう。なに、単に外から中の様子を見るだけでも、きっといい気分転換にはなるだろうさ……

「いい? 部室に入る前に、気づかれないように、中にいる人間の顔をよおく観察するのよ。それで、知っている顔ばかりで、……なかには知りすぎている顔があるときは……まあ、その時は、その時ね」

「なるほど、忠告には従わせてもらいますよ。まずは中にいるメンツを確認してから、ですね。それでは先輩、今度こそ失礼します」

 朧茂夫――と名乗った男はひとつ頭を下げると、そのまま歩き出してしまった。途中自動販売機の横にあるゴミ箱に缶を捨てて、あとは学生ホールを出て行った。

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