第21話 終章「もう一度ここで手を振って」

終章「もう一度ここで手を振って」



ネネルが運転する車は、一直線の橋を朝運ぶ一閃のように進み、スノが待つ診療所の敷地で、土埃を巻き上げて豪快な停車をする。

エンジンを切るのも忘れ、助手席に固定しておいた薬の箱を腕に抱くと、転がるように医者が待つだろう診察室へ走る。

「ネネル! 本当に行ってきやがったのか! ははは、いいぞ、いいぞぉ、コイツっ。それでこそオレとナナの息子だ!」

「はは、現金だなぁ父さんは……」

「そんなこたぁいいんだ。先生はスノのとこにいる、早く病室に行け」

テイチに褒められるなど、家業の修行をはじめてからあっただろうか。そんな感慨もあとで感じようと、行き先をスノの病室にと変えて進む。朝日が差し始めた廊下は、夜の冷たさも消え、まばゆい光を灯し、足下に光るそれは、夢にかかる橋のようだった。

「スノっ、薬だよ!」

「よくやったぞ。早くこちらへ」

病室に入り、声を上げると一番に迎えたのは医者だった。医者は箱を手早くあけ、中から薬の瓶を取り出すと、注射器でそれを吸い上げ、素早くスノの腕へと一本、首筋に一本と打ち込んだ。

「これで進行は遅くなる……だが、気は抜けないぞ……この娘は集中治療棟に入ることになる。そこで治療に専念してもらう」

「集中治療? じゃあスノはそこで治してもらえるんだね!」

希望が実ったと、気を張っていた腰が折れた。手にまだ冷たい床が触る。

「ネネル……」

床を黒く塗る自分の影に、もうひとつアメレの影が重なった。

「アメレさん……僕、帰ってきたよ……」

「うん、うん! よくやったね、ネネル……仕方ない……褒めたげるわ……」

アメレはげんこつばかり降らしていた拳を今は解いて、頭に伸ばしてくる。そして、その平手のまま、髪をすくように撫でつけてくれた。優しい手つきでアメレは何度もつぶやく。

「ありがとう……ネネル」

「だから、安心はまだできんと言ってるだろう」

しばしの感動に浸る間も許さぬように、医者は後から病室に入ってきたテイチとラウドに話しを付け始める。

「……わかった。ネネル、俺たちはスノを集中治療棟にトラックで運ぶ。お前は疲れてるだろうから、休んでろ」

「そんな、僕も!」

張り上げた声に、体はついて行かなかった。そればかりか、踏み出した足がよろけ、傍にいたアメレに支えられる始末だ。

「言わんこっちゃねぇ……お前は頑張ったんだ……俺たちがとっくに諦めちまったことを、やり遂げたんだ……今はそれを誇って休んでろ」

「言うようになったなぁテイチよぉ。小僧も歳を食えば立派になるもんじゃ」

空のストレッチャーを押してきたラウドの言に、テイチはばつが悪そうに苦虫をかみつぶした。

「載せ替えたらそのまま進んでくれ」

医者の指示で、スノは運び出されていく。その後をアメレに支えられて一歩一歩と追う。そうして診療所の出入り口に立ったとき、東の山の端には半分ほどの太陽が顔をのぞけていた。そこから伸びてくる光軸にまぶしさから手をかざしてトラックまで進んだ。ストレッチャーごと、荷台に運び込まれる前、スノの顔をもう一度見ると、それは白く、生気を夜に吸い取られたような色をしている。

「う、ううん……」

差した光に朝を感じたのか、スノが薄く目を開きながら苦悶を漏らした。

「スノ!」

「あれ、私……どうしてこんなところに……病室にいたはずなのに……」

「スノ……ネネルがね、あんたのために薬を取りに行ってくれたんだよ……だから、スノはまだ生きてるんだよ」

「そうかぁ……いきなり外にいるし、空がすごく綺麗ですから……そういう場所なのかなって思いました……天国かなぁ、あの丘にいるのかなぁって」

「スノ……ゆっくりかもしれないけど、きっとよくなるよ」

そう告げると、スノは嬉しい顔を一番に見せ、少し視線を横にすると、アメレの顔を確認して、目を伏せた。見間違いでなければ、その時、一瞬だけ悲しい顔をした。

「じゃあ、私は集中治療棟へ行くんですね……」

「そうらしいよ。だから、行ってらっしゃい」

「…………はい、行ってきますね。お姉ちゃんも、行ってきます」

「ああ、行っといで……」

アメレはそこで言葉を切ってしまった。見送るという立場なら最も重要なものを忘れているだろう。

「スノ、僕もアメレさんも待ってるから。帰ってきたら、今度こそ一緒にケーキ食べよう。それでお誕生日会も、もう一回やろうね」

「……ふふ、ネネルくんは本当に優しいですね……そういうネネルくん……私……」

スノは何かを言いかけてやめ、今持てる精一杯の力で笑顔を返してくれたように思える。だから、それを信じなければいけないと感じた。

スノをトラックの荷台へと運び込む寸前に、低いエンジン音が聞こえて来た。

 その主は、巨大なタイヤを左右で六輪も有する、頑強なトラックに見えた。やがて停車したそのトラックの荷台は左右に開き、その中から、昨夜見た、あの細面の医者が現れた。

「やぁ勇者くん、あの夜以来だね、しかしすぐに後を追ったというのに、随分早い車だねぇ」

 昨夜をそんな風に語る人物に、ネネルは会ったことがない。

「さて、御姫様は……ああ、この娘か」

 医者は一瞥し、トラックに乗り込んでいた他の人員に声をかけて、スノをそちらへ運び込む」

「あなたがここの責任者かな。僕は研究所のほうから来ました」

 診療所の医者と挨拶を交わし、事情を話されたのだろう、スノは細面の医者が乗ってきた医療用の設備が整った、そちらへ任せる事になった。

「さて……勇者くん、御姫様は頂いていくよ。君の願いの通りにね」

「治療棟ってとこに行くんですよね」

「ああそうだ。彼女はそこで治療する。そして、私の実験にも付き合ってもらう」

「実験だって……あんた、スノに何するつもりだい!」

 アメレは医者の言葉に逆毛を立てる。

「ふふ、勇ましいね。彼女も勇者君のご一行かな……まぁ、僕もそのパーティの一員のつもりだけどね」

 医者はそこまでいうと、白衣の内に着ている服のポケットから、タバコを一本抜き出して、白銀のオイルライタで火をつけた。

「何がパーティよ……」

 医者はゆっくりと、細い煙を朝日にくぐらせた。

「勇者は望んだ……ケモミミ病の合併症をなくしてくれと……だから私はこたえることにしたまで……言ったはずだ。望みは君の痛みになると……誰も真面目に合併症には取り組んでいない。そこをまっさらから始めなきゃならない。それには付き合ってくれる人が必要なのさ。合併症を起こしてなお、若く、そして強い御姫様がね」

 ネネルは息を呑む。隣に立つアメレも、微動だにしない。

「そうするしか、ねぇんか……」

 離れて聞いていたラウドの杖が手から離れ、土を叩いた。

「そうですよ、ご老体……結局、時代は前に進んでるように見えて、足踏みばかりです。そして、私にできることもまた、変わらない……こうするしか、足踏みをやめる方法はない。ずっとずっと、同じです」

医者は、短くなったタバコを地面で消すと、またポケットから取り出した白銀のケースへと吸い殻を落とした。

「名残惜しいけれど、時間です。我らにも、御姫様にも、無駄な時間はそれほど優しくない。勇者くん、また会えたら会おうじゃないか……ここではないどこか、かもしれないが、君のパーティの一任になった、魔法の使えない魔法使いのことを、覚えていてくれ」

「はい……スノを、お願いします」

「そっちの君もいいかい? んーと、神話のヴァルキュリアじゃあ縁起が悪い――そうだな、女戦士ってとこかな?」

「ああ……ううん」アメレは戸惑いの中で、何かに頷いた。「……スノを……妹をよろしくお願いします」

「ん……まかされよう」

 細面の医者はタバコの残り香を連れて、トラックへと乗り込んだ。

エンジンに火が入り、トラックは緩やかに前進をはじめる。

無情に、何もかもを置き去りにして、届かぬものは届かぬと遮って。

自然と手が動き、スノには見えないとわかっていても、ネネルは手を振った。

「…………」

肩を支えるように、傍らに立っていてくれるアメレも、無言のままスノに手を振っていた。

「ネネル、ありがとう……あたしには待ってるなんて言えなかったから……集中治療棟……あそこはね、一度入ったら出てこない人がほとんどなんだ……合併症と同じよ。元々、合併症が出た人が入る場所だしね……」

「え……」

「あのお医者がスノを治すための実験材料にしても、しなくても……本当は変わらないんだ……覚悟しなきゃいけないことなんだ」

アメレの振っていた手が止まり、力なく地へ向けて垂れていった。あの一瞬で、スノが見せた表情の意味を、ネネルは今やっと理解した。今頃、やっと知り得た。

「でも、あんたが待ってるって言ってくれて、手を振ってくれたから、あたしはあの時……スノが島に来ちゃった日と同じように、あの子に手を振れたわ」

自分より高い位置にある肩が、震えているのが、支えてくれている腕から伝わる。その震えは、アメレがいつも強がりを言って、諦めと達観のようにケモノ耳のことを語っているが、決してそれにただ従っているわけではないと教えてくれる。目尻に浮かぶ真珠が朝日を灯して輝き、震えにこぼれまいと、耐えていた。

もう会えないと思っていた家族にもう一度会えた嬉しさと絶望と……アメレはその頃から、ずっと闘っているのだ。

「……僕も昔この島にいる人に、手を振ったことがあるんだ。大嵐の次の日に、友達と対岸からこの島を見てて、そこで女の子が手を振ってるのを」

「大嵐の次の日……スノがこの島に来た日だよ。あたしは橋を渡ってくるスノを載せたトラックに向かって、海岸線にある堤防の上に立って、手を振ってた」

アメレは遠く、記憶の中を見るように目を細める。

「はは……僕は僕に振ってくれてたのかと思ったけど、あれはアメレさんで、スノに振ってたんだね。そりゃそうだよね。僕が望遠鏡でやっと見てた人が、こっちに気づくはずないよね」

「ネネルはうぬぼれさんだね」

アメレは記憶の中から、わずかな宝物を拾い上げたような顔をして、ほほえみ返してくれた。

「いいんだ……僕はちょっと抜けたネネルなんだから」

そう伝えると、まだわずかに残っていたアメレの肩からの震えが、全て消えたように感じる。

「そうだね。うん、そうでいて」

「大丈夫。僕は商人の端くれなんだから、約束は守るよ……僕は僕のまま、ここで待ってる。スノが帰ってきて、三人で誕生日会して、もっと大きなケーキをスノに焼いてもらって、それで……みんなで食べよう」

「そうね、そうしよう……でも、ネネルはずっとそのままじゃいけないよ」

「どういう事?」

「あはは、少しは商人として成長してなきゃ、スノに笑われるってことよ」

「うん、そうだね……頑張るよ」

スノはどこか場所も知らない……集中治療棟で頑張るだろう。ならば、自分もそれに倣い頑張るだけだ。

守衛にもラウドにもテイチにも……アメレにも認められる立派な商人になって。

十年前の大嵐の翌日、スノを迎えたアメレのように、ここから二人、もう一度手を振って。

その時を待とう。

 勇者のパーティがそろう、またの日を。

(了)

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