朝焼けの淵に沈んだままの鍵のこと


 とん、と、隣で眠っていた久保の肩に頭が触れて目が醒めた。まだぼんやりとした頭で、こうしてこの人と朝まで過ごすのは何度目だっけ、と数えようとするが定かでない。黙ったまま再び瞼を落とすと、わたしが起きているのに気付いていないらしい久保は静かに起き上がってベッドから離れた。


 朝なんか来なければいいのに。


 そう思うのは、一体いつ以来だろう。大好きだった人に遠ざけられて泣きに泣いた夜明け頃、カーテンの隙間から零れる朝の光を見つめながら思ったのか。結婚まで考えた相手と別れて自暴自棄に飲みまくった夜、視界も思考回路もぐちゃぐちゃになったまま寝入りながらそう思ったのか。記憶は曖昧だが、夜を越えれば必ず朝が来るという不変の法則を呪わしく思った日があったのは確かだ。


 –––そして、今まさに、そう思っている自分がいる。


 わたしを起こさないようにと気遣っているのであろう慎ましやかな動きで、久保がシャツに袖を通す音がする。敢えて目を閉じたまま、わたしは耳だけをそばだてて気配を感じ取るのに集中した。チノパンを穿いてベルトを締める音、テーブルの上の腕時計を取る音、水の入ったペットボトルの蓋を開ける音。

 このまま、わたしには何も言わずに去っていくのだろうか。空がゆっくりと白みだした早朝の街を歩いて、それから始発の電車に乗って。そう考えると急に心がぶるりと震えて、わたしは更に固く目を瞑った。


「–––芽久実めぐみ


 頭を撫でられると同時に穏やかな声が降ってきて、わたしは狸寝入りしていたのも忘れてガバリと起き上がった。


「おはよ。もしかして起きてた?」


 人好きのする、朗らかな笑顔が視界に飛び込んでくる。ぎこちなく受け止めて微笑み返してみる。


「お、おはよう……」

「もしかして俺がこのまま帰ると思った?」


 そう言って、久保は悪戯っぽく笑う。わたしは素直に頷いた。


「……思った」

「ま、普通はそう思うよね」


 。その言葉に、わたしは心臓が軋むように痛むのを覚えた。そうだ、久保が此処に居るなんて、だ。それなのにわたしは、目の前にいるこの男を手放したくなくてを飛び越えてしまったのだ。

 わたしのへしゃげてしまいそうな心を知ってか知らずか、厚手のニットカーディガンを羽織った久保は、テーブルに放り投げられていたキーケースを手にして見せた。


「腹減ったからさ、そこのコンビニで朝飯買ってくる。鍵貸りてくね」

「ああ、うん」


 軽やかな足取りで出ていく久保の後ろ姿をぼんやりと見送る。……また、戻ってくるんだ。そう思ったら自分でも情けないくらい嬉しくて、でもそんな自分に吐き気がして、わたしはゆっくりと立ち上がった。

 いつだってわたしは、一番好きな人の一番にはなれない。それならばもう、ずっと二番目でいよう。そう誓ったはずなのに。


「二番目、で、いなくちゃ」


 思考が、ほろりと唇から滑り落ちた。綻びを繕うように、慌ててペットボトルの水を飲み下す。職場で、行きつけのバーで、或いはこの部屋で。いつ盗み見たって、久保の左薬指に嵌った指輪は外れない。それは揺るぎない事実なのだ。


 わたしは顔を洗って化粧水をはたき、ベランダに出て秋の終わりの空気に身を委ねた。久保が置いたままにしていた煙草を一本だけ拝借して火を点けると、まだ明けきらぬ早朝の街の隅っこで、すうっと紫煙が立ち昇った。ああ久保さんの匂いがする、と自覚した瞬間、だからってどうしたらいいのか(自分でも何がしたかったのか)分からなくなって煙草を携帯灰皿に押し付けた。

 まだ紺色の残る東の空が、刷毛で引いたように朱鷺色に染まっている。–––世界は、朝は、こんなに美しいのに。わたしは何をやっているのだろう。

 肌に当たる空気は思った以上に凛と澄んでいて、わたしは急速に冷えてしまった肩を抱いて部屋に戻った。


 ふと視界に入ったベッドの乱れが心に引っかかり、小さな棘のように疼きだす。そそくさとシーツを剥いで洗濯機に放り込み、お湯を沸かしておこうとヤカンをコンロにかけたところでガチャリと鍵の開く音が響いた。


「ただいまー。一応いろいろ買ってきた。サンドイッチとかで良かった?」

「ありがとう。コーヒー淹れるね」

「ん」


 キーケースを受け渡すついでのように、久保がわたしにキスをした。触れるだけのそれだったのに、わたしの体の奥はドクンと脈を打つ。昨夜の熱が甦るように、体の芯が熱くなる。久保はそんなわたしの劣情には気付かず–––気付かないフリをしてくれたのかもしれないが–––カーディガンを脱いで座ると、コンビニの袋から中身を取り出して並べた。


「あの、久保さん」

倖真ゆきまさでいいよって言ってるのに」

「そうじゃなくて」

「なあ芽久実、今日の朝焼け見た?」


 ふわりと笑って、久保がサラダの容器を開ける。わたしはきょとんとして久保を見つめ返した。


「え?」

「だから、朝焼け。見た? すんげぇ綺麗だったよ。雲が薄い赤紫に染まってて」

「……うん、見たよ。ベランダから」

「それ見ながらさ、あー帰りたくないなーって思った。あ、この部屋にって意味じゃなくて、現実にって意味で」


 パキッと音を立てて割り箸を割りながら、あくまでも何でもない風に軽い口調で久保が言う。わたしだって、朝から深刻ぶるのはイヤだ。だから「無理だけどね」と呟くしかなかった。やっぱり狡い男。–––でも、分かっていてこうなったのはわたしで。


「久保さん、あのね」


 わたしは、テレビボードの抽斗から取り出したものを手の中で遊ばせた。わたしがこの男の二番目であり続けるために、どうしても久保に受け取って欲しいと思ったのだ。


「え、何?」

「要らなくても、使わなくても、ただ持ってて欲しくて。単なるわたしの我儘、です」


 小さく早口で言って押し付けるように差し出したのは、キーホルダーもストラップも付けていないこの部屋の鍵だった。久保はじっと鍵を見つめて、そしてそのまま俯いてしまった。秒針の音だけが無慈悲に響く。

 とうとう居た堪れなくなって立ち上がると、わたしは勢いよくカーテンを開いた。さっきより広い範囲で朝焼けの雲がたなびいている。紺色の夜の帳は、もう空の彼方へ消え去ったようだった。–––ふと気付くと、久保が隣に並んで立っていた。


「ごめん。こんな事、言うのも思うのも間違ってるって分かってるんだけど。……ごめん。こんな……合鍵もらえるとか、俺めっちゃ嬉しくて」


 そんなてらいもなくはしゃがれると、こちらとしては落ち着かずにはいられなくなる。


「それはどーも」

「俺、使っちゃうよ?」

「使わなくてもいいって言ってるのに」

「何でよ! 俺が休みで芽久実が仕事の日とかさ、帰ってきたら俺が飯作って待ってたりとかしたら嬉しいっしょ?」

「……やっぱり返してもらっていいですか」

「無理」


 久保は不意に真面目な顔になって、さっとポケットに鍵を沈ませた。この男が今何を考えていてこれからどう動くつもりなのか、わたしにはおおよそ読み取れない。それでも。


 –––戻れない。戻らない。いつかすべてを終わらせる、その日が来るまで。


 窓の向こうで白々と明けてゆく空を見つめながら、合鍵を渡した事でこの恋の退路を自ら絶ってしまったのだと今更ながら自覚して、わたしは深くため息をついたのだった。




-END-



title/星食

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人魚の恋に似ている 遊月 @utakata330

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