水びたしの恋は


 一番大切なものは目に見えない。決して手が届かない。–––それならわたしは二番目でいい。いつだって、そうやって恋を重ねてきたのだから。


 昔からそうだ。わたしが好きになる男には、何故だかもれなく想い人、もしくは彼女か妻がいる。


 高校生の頃は、妻子持ちの教師を好きになった(告白するより先に相手に悟られて軽くあしらわれたのだった)。

 大学生の頃は、同じサークルの佐々木君。その佐々木君は、ある日飲み会の席で、唐突に後輩の女の子と並んで「僕たち付き合うことになりました!」と照れくさそうに宣言した(おかげでその飲み会では前後不覚になるまで酩酊し初めて人前で吐いた)。

 前の会社で付き合った男は、わたしと別れた途端に上司のお嬢さんと結婚した(社内報でわたしはそれを知ることとなった)。


 わたしは決めた。次に恋をするなら、わたしはその男の二番目でいいと。初めから高みを望まなければ、傷だって浅くて済む、と。



 それは秋の気配が見え隠れする季節で、優しい雨の降りしきる夜だった。わたしは職場の飲み会を同僚の久保とふたりで抜け出し、いつもの店で飲んでいた。

 その夜はいくら飲んでも厭きたらず、わたしと久保は閉店を告げられるまでばかみたいにグラスを重ねた。


 やがて逐われるように店を出て、わたしたちは雨の中をたゆたうように歩いた。何処に向かうでもなく、雨に打たれて濡れ鼠になりながらひたすら歩いた。

 わたしたちは狡い、そんなことはわかりきっていた。どちらからともなく、指先を絡めたまま、ぼんやりと雨中に立ち尽くした。髪に、肩に、優しく雨は降りつづく。久保の黒い髪は瑞々しく潤い、わたしのお気に入りだったパンプスも中まですっかり水びたしだ。


「風邪、引くかもな」


 ぼそりと久保が呟く。そうだ、彼は風邪を引きやすい質だから、このままでいてはきっと明日にも熱を出してしまうだろう。


「大丈夫、そしたら看病してあげる」

「ばか、お前も一緒に風邪っぴきになるに決まってんだろ。こんなにずぶ濡れになって」


 久保は狡い。だって彼は知っているはずなのだ。そんなに柔らかに微笑まれたら、わたしは、もう身動きひとつ取れなくなることを。

 雨で重たくなったわたしの髪をぽんと撫でると、久保は電話で呼んだタクシーにわたしの背中を押して一緒に乗りこんだ。


「何処、行くの?」

「……お前は何処に行きたいの? こんな深夜に開いてる店なんかある? それとも、まさか俺の家に来たいとでも?」


 からかうように畳み掛ける。わたしはゆっくりまばたきを繰り返した。睫毛から落ちる雫があたたかい。


 わたしたちに行くあてなどあるはずがない。そんなの百も承知だ。雨降りの真夜中、水びたしのふたりを迎えてくれる場所なんてありっこない。

 –––まして、雨の音にくるまれて眠りながら夫の帰りを待つ妻のいる家になんて誰が上がりこめるだろう。考えただけで背筋が粟肌立つ。


 マンションの前でタクシーが止まる。わたしは雨に打たれて冷たくなった久保の腕を掴んで呟いた。


「帰したくない、な」


 わたしの言葉に一瞬きょとんとした久保は、運転手に数枚のお札を押し付け、そのまま急くようにしてタクシーを降りた。


「お前ってホントばか」


 久保が、ふいにわたしを抱き寄せて言う。お酒の匂い。それから煙草と、雨の匂い。ああ、わたしこの人が好きだ。これからだってずっと好きでいたい。


「そういうのって、普通男が言うもんなんですけど」

「関係ない」

「……狡い男だな、俺」

「知ってる。でも、狡くてもいい。わたしも共犯だから」


 貪るようなくちづけは、寂しいような甘いような、秋の雨の味がした。



 あたたかな橙色のベッドライトのもとで縺れた糸のように絡まり、呼吸も忘れそうになるくらい繋がり果てたあとで、わたしはぼんやりと天井を見上げた。

 今朝起きた時と何も違わない、わたしの部屋の天井。違うのは、隣に久保がいるということ。わたしが、自分の望みどおり彼の二番目になれたということ。


「……泣いてる?」


 久保に言われて気が付いた。此処は雨から守られた場所であって、頬を伝うのは雨滴ではなく涙なのだ、と。


「だって、優しいから」


 誰が、と尋ねる久保を余所にわたしは手の甲で強く涙をぬぐった。確かに泣いている場合ではない。二番目でいいと望んだのは、この場所を選んだのは、他の誰でもないわたしなのだ。


「ここからがスタート、なんだから」


 わたしは言い聞かせるように独りごちて、深く息を吸い込んだ。


「何か言った?」

「何でもない。……喉、乾いちゃった」


 わたしは冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを、喉に流し込むようにして煽った。髪は雨に濡れたまま首筋に張り付いている。

 さあ、お風呂を沸かしてゆっくり湯舟に浸かろう。久保はどうするだろうか。帰る、と言うかも知れない。それは寂しくもあるけれど、さすがに一緒に入るのは気が引ける。何と言ってもわたしは二番目、なのだから。

 ふふ、と笑い声を漏らしたわたしを訝しげに見つめる久保を横目に、わたしは更に水を飲み続けた。まるで身体に雨を取り込むように。


 友達には戻れない、恋人にも昇格出来ないであろう水びたしの恋が、水に融けるように身体を支配してゆくのを、わたしはぼんやりと、しかし確実に感じていたのだった。



 -END-

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