やさしい夜に捕まった
週末の予定が皆無なのを頭から追い払うように、金曜の夜、わたしは上司から引き受けた仕事を黙々とこなしていた。
この時間が好きかと問われるとキッパリとは頷けないが、嫌いかと問われてもやはり頷けない。自分のした事が誰かの役に立つ–––それは、確固たる目標や夢もなくぼんやり生きているわたしにとっては、ちょっとした奇跡みたいにも思えるからだ。
「あ、やっぱり浅野さん残ってた」
ふいに響いた声にドキッとして、わたしは声のした方を振り返った。薄暗がりに目を凝らすと、同僚の久保がこちらへ歩いてくるのが見えた。作業をする手元しか照らしていないせいでフロアは暗く、久保がどんな表情をしているかまでは分からない。
久保は、何度か2人で飲みに行った事がある、という程度の同僚だが、どうにも掴み所のない人物だ。いろんなグループにちょいちょい顔を覗かせては飲み歩いているらしいが、この狭い社内でも悪い噂を聞いた事はない。仕事に関しても同様だ。わたしと違って要領のいいタイプなんだろう。
「久保さん、忘れ物ですか?」
「ううん。どーせ浅野さんまだいるだろうなと思って。……ってソレ浅野さんの仕事じゃなくない? また誰かの尻拭い? そんなのやめて飲み行こうよ、約束してたじゃん金曜日飲もうって」
「し、してませんよ、約束なんか!」
「往生際が悪いなぁ浅野さんは。……とりあえず目閉じてもらってい?」
「は?」
「いいから」
久保の強引な言い草に負けて、何が何やら把握出来ないままわたしは目を瞑った。
次の瞬間、久保の指先がストッキングに包まれたわたしの足首に触れた。声を上げる間もなく履いていた靴がするりと脱がされて、わたしは思わず目を開けそうになる。
「まだ開けちゃダメ」
「ちょ、久保さん、一体何を」
瞼を下ろして視界を遮断しているせいか、触れられるたびにくすぐったいようなもどかしいような感覚がそろそろと背中を駆けめぐる。
「はい、開けて良し」
おずおずと薄目で見てみると、わたしの足にはシャンパンゴールドのパンプスが履かされていた。
「靴……?」
サテン生地が波打つようなデザインで、甲の部分はビジューの付いたリボンで飾られている。普段わたしが履いている真っ黒でのっぺりとした通勤用パンプスとは全く違う、華奢で女らしさ満載の靴だ。
「久保さん、あの、これは一体」
「痛いトコない? ……ん、やっぱり俺の見立てバッチリ。ほれ、ボーッとしてないで行くよ」
「や、あの、ヒールが高すぎて歩くの怖いんですけど」
「あー、7.5cmだからねぇ。慣れるまでは歩きづらいかもね」
椅子から立ち上がったものの、身動きが取れずに竦んでしまう。そんなわたしの頭をポンポンと撫でながら、久保が笑った。
「脚全体使って歩くんだよ。裾を捌くってか蹴るみたいに? うん。で、爪先とヒールは同時に着地。そうそう、いい感じ」
言われた通りに脚を運んでみる。確かに思ったよりは歩ける、かもしれない。何より、柔らかな中敷きが足裏を包んでくれているようで心地好い靴だ。そこらへんの安物じゃないという事だけはわたしでも分かる。
それを選んできたコイツは何者なんだ、と久保を訝る気持ちもありつつ、それでもやっぱり、呼吸が苦しくなるほどの高揚を押し止める事が出来ない。
「あの、でも、こんな綺麗な靴わたしには」
「大丈夫、ちゃんと似合ってる」
ごく自然に手を取られ、わたしはさっきより近くなった久保の顔を思わず凝視した。すると、どうして、と–––どうして、何故、あなたはそんなに優しい表情をするの? と–––問いただしたくなるような穏やかな眼差しがわたしに注がれていた。
「そういう問題じゃなくて! ……貰えませんよこんな高価そうなもの」
「何で? だって今日浅野さん誕生日でしょ。プレゼントあげて何が悪いの」
–––何で、って。唖然とするわたしに向かって、薄い唇の端っこを持ち上げて久保が笑う。
「それとも誰かと祝う予定入ってた? 入ってないでしょ、見るからに」
「……失礼ですね毎度毎度」
ぶすっとして言い捨てると、久保は愉しそうにわたしの手を引いて、拾ったタクシーに乗り込んだ。
窓の外を流れる景色を、黙ったまま眺める。ぼんやりしているうちに、週末の混雑した街並みが遠ざかってゆく。ああ、何処に連れていかれるんだろう。
「せっかくの誕生日なのにいつもの居酒屋はアレかなと思って。ちょっと遠いけど、その方が浅野さん的にも安心でしょ」
わたしの心の声を読んだかのように(というか心の奥底を見透かしたかのように)、隣に並んだ久保が言う。人目がない方が安心出来るのは、むしろ久保だろうに。まったく狡い男だ。
「そんな警戒しなくていいよ、ご飯食べたらちゃんと帰すから」
「帰す帰されるじゃなく自分で帰ります。靴もお返しします」
「え? 浅野さん裸足で帰るの? 履いてた靴、会社に置いてきたじゃん」
「……あ」
「もう観念しなよ。誕生日なんだしさ」
そうして、気が付けばわたしは、『ムール貝の白ワイン蒸し』だの『ブロッコリーとナポリサラミのピッツァ』だのを食べながら、久保と2人で他愛もない話に興じていた。乾杯で飲んだシャンパンが美味しくて、思わずグラスを重ねすぎてしまったのだ。
職場のささやかなあるあるネタから脱線して、休日の過ごし方や密かな趣味、更には過去の恋愛遍歴まで喋ったような気もする。
–––正直言うと楽しかった。
聞き上手な久保にあれこれ話すのが。そして職場では仕事以外の会話をほとんどする事のない久保から話を聞くのが、すごく、ものすごく。
「……終電」
『野菜たっぷりバーニャカウダ』と銘打たれた皿の端に残ったパプリカの赤を–––それから久保の左手薬指に光る銀色を–––目にしながら、わたしはポツリと呟いた。
「まだ10時じゃん、全然余裕でしょ。誕生日はあと2時間残ってるってば。電車の時間が気になるなら駅の近くまで戻ろうか? それか浅野さんちの近くか」
「いえ、今日はここで」
「誕生日なのに?」
「しつこいですよ久保さん」
一度冷静になってしまうと、さっきまでの鼓動の速さや耳や頬の火照りなんて、千年くらい遠い昔の出来事のように思えてくるから不思議だ。わたしは久保(の指輪)ではなく、バーニャカウダの油に落ちた野菜やパンの屑をぼんやりと見つめた。
「ま、それもそうだね。じゃあ今夜はここまで。次行こうと思ってた店、次回の楽しみに取っとくから。気が向いたら連絡ちょうだい」
軽やかに笑って言うと、久保はグラスに残ったワインを飲み干した。
「向きませんよ、そんな気」
わたしは息を落とすように笑って答えながら、言葉とは真逆の事を考えていた。半ば確信めいた気持ちで。–––次に久保と2人で会う時、わたしはまたこの靴を履いて出てきてしまうのだろう、と。
タクシー呼ぶから待ってて、と言う久保を振り返らず、わたしは夜の中へ歩き出した。
湿気を孕んだ初夏の夜が、温んだシャンパンのように髪や首筋にまとわりついてくる。それでもわたしは歩くのをやめなかった。
慣れないヒールに爪先が痛くなっても行き場のない想いに胸が詰まって苦しくても、それでも、今夜はこの靴を履いて歩きたいと思ったからだった。
-END-
▼title/夜途
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