人魚の恋に似ている

遊月

甘い嘘に融ける


 木曜日の午後。昼休みの解放感と物憂さとが混じり合う空気の中、わたしは午前中で済ませるはずだった仕事にまだ掛かりきりだった。


「浅野さん大丈夫? まだお昼も食べてないんじゃないの?」


 斜め向かいのデスクから、じ、っと見つめられているのに気が付いて、わたしはそちらに向き直った。同僚の久保だ。久保から差し出された、煮詰まったコーヒーの入った紙コップを受け取ってわたしはペコリと頭を下げた。


「大丈夫です。あと3分以内にデータ仕上がります。午前中にお渡しする予定だったのに、遅くなってスミマセン」

「ああ平気平気、今日中に向こうに届ければいいから。しかし珍しいね、浅野さんの仕事が遅れるの」

「申し訳ないです」

 

 数少ない他のスタッフはランチに出払っている。だからこの部屋には、わたしと久保のふたりきりだ。その事実を意識した途端、ふいに頬が熱くなっていく。

 ……違う、大丈夫。久保は単なる同僚だ。この男に惹かれちゃいけない。わたしはきっと、いや、絶対に傷つく事になる。なのに、それなのに。


「ねえねえ浅野さん」


 軽やかな口調で言いながら、久保はこちら側へ身を乗り出してきた。わたしは努めて平静を装って口を開いた。


「何ですか。資料ならもう揃いますからおとなしく待ってて下さい」

「浅野さんって身長何cm?」

「はっ?」

「いや、ちっちゃい女の子ってなんか可愛くて安心するから」


 呆気に取られるわたしをよそに、久保がすっと立ち上がった。ポンポン。わたしの傍らに移動してきた久保が、わたしの頭を軽く叩く。こういう仕草がナチュラルに出てくるあたり、やっぱり生粋のモテ男なんだろうな久保は、と、わたしは心に鎧を装備させる。


「153、ですけど」

「ひゃくごじゅうさん!? じゃあ俺と25cmも違うんだ。ちっさ! 足は? 足は22.5ぐらい?」

「ええ、よく分かりましたね。甲高なので22だと窮屈なんです」

「やった、正解だ」


 職場には(狭いフロアとは言え)似つかわしくないくらい愉快そうに、久保は笑った。忙しい最中には決して見る事の出来ない、くつろいだ表情。久保がこんな顔もするんだって、きっと、他のスタッフ達は知らないはず。


 –––チクリと芽生える優越感、そして罪悪感。


 わたしはそっと溜息を落として、それからプイッと顔を背けて答えた。


「聞かれたから言っただけなのに。笑うなんて酷いですね」

「言ったじゃん、ちっさいと可愛くていいなって」

「褒めても何も出ませんよ。この身長だとスーツとかヒールとか似合わないし、不便ばっかりです。それに『背が低いと可愛い』なんて、完璧に久保さんの個人的嗜好の問題じゃないですか 」

「だから好みの話をしてるんだってば。でも浅野さん性格も顔立ちもキリッとしてるから似合うと思うよ、ヒール履いて恰好良い服着たら」


 ……久保は、嘘が上手だ。綺麗な顔で、涼しい声で、上手に上手に嘘をつく。その嘘に溺れるように絡め取られて、時々わたしは窒息しそうになる。


「ところで、その敬語やめてってば。前から言ってるだろ、同い年なんだからって」

「あー……うん。はい」

「ホラまた。次から敬語使ったら罰金ね。んで、その金で飲みに行こう」

「わたしが罰金払うの前提じゃないですか!」

「はい千円」

「千円!? 高っ」

「よし、千円あればビールくらいは飲めるな。今日終わったら行こっか、ちょっと歩くけど近くに串揚げの美味しい店があるんだよ」

「ヤです。……お待たせしました」


 わたしは久保に資料諸々の入った封筒を手渡すと、手持ち無沙汰に散らばった書類をトントンと揃えたりコーヒーを口に運んだりした。久保の視線は揺るがない。わたしはそれを感じつつ、椅子に深く座り直してパソコンの画面に視線を泳がせた。


「今日が無理なら土曜日ね。それだったら会社の人間の目も気にならないでしょ」

「え、いや、それは」

「決まり。またメールする」


 ひらひらと手を–––薬指に銀色が光っている左の手を–––振って自分の席に戻ると、久保は何事もなかったかのように仕事を再開した。ふたりきりのフロアに響く、キーボードを叩く音、紙を捲る音、FAXが流れてくる音。やがて、ランチを終えたスタッフがポツポツと戻りだした。


 わたしはコーヒーを飲み干すと、昼休みがあと5分残っているのを確認して席を離れた。


「『モテる男は既婚者か同性愛者だ』って言ってたの、誰だっけなあ……」


 あーあまさしくその通りだよ、と捨て鉢に呟いて、わたしは外の空気を吸いに屋上へと向かったのだった。



 -END-

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