03.主人公、基本的な知識を得て、はじめて迷宮に入ること。
「ええ。
これが、救急キットの中身になるわけですね」
別の講師はいった。
「これからこれらの使い方を、詳細に説明いたします。
緊急時、皆さま自身の生死を分けることもあるわけですから、しっかりと聞いておぼえてください。
まずは、これですね。
この細長い棒はなにかというと、即効性のかなり強力な麻酔注射です。
こっちの端の安全ピンを抜いてから、反対側の端を患者の皮膚に押し当てるとミクロン単位の針が何百本か飛び出して皮下に刺さり、麻酔薬を体内に注入します。
この注射針はかなり長いので、服の上から注射しても、まあだいたいは貫通して機能します。
ただし、分厚いプロテクター越しですと、うまく使用できるかどうかの保証はできませんのご注意ください。
これを使用するとどうなるかというと、最初は注射した箇所の周辺部分がすぐに麻痺して感覚がなくなります。
もちろん、動かすこともできなくなります。
そのあと、個人差はありますが、五分から十五分くらいをかけて麻酔薬が全身に作用していきます。
完全に麻酔薬が回ると、丸一日以上、意識を失います。
この注射を使うときに注意すべきことは、間違っても戦闘中には絶対に使用をしないということですね。
戦闘中にひとりの人間がまるっきり動きが取れなくなることは、いうまでもなく大変に危険です。
周囲にいる人たちの負担が増えますし、それ以上に敵にとってのいい標的になります。
また、そうした緊急事態中には、えして人は焦りがちです。
その注射を必要としている人以外に間違って使用しる事故なども実際に起こっています。
笑い事ではないですよ。
その注射を使用しようとして自分自身や戦闘行為をしている別の人の身動きを封じてしまった事例なども、過去には報告されています。
この注射に限らず治療行為全般は、どうか慌ただしい戦闘中ではなく落ち着いた場所で行うようにしてください」
不可知領域管理公社が新人探求者むけに行う研修は、基本的に探求者の生存率をあげるためのものだとされている。
迷宮周辺に関する基本的な知識はもちろんのこと、救護活動に関する講習や危機管理についての意識を向上させるための内容も含まれていた。
「迷宮での未帰還者数は、現在、一日あたり百名前後だといわれている」
危機管理について詳しい講師は語った。
「これは、管理公社が長年の蓄積した情報を継続してフィードバックした結果、ここまで減らすことができたといってもいい。
特に初期の、まだ管理公社が創設されていなかった頃の迷宮は、四人入って三人が生きて帰ってこない場所だとされていた。
現在では年々各種装備も改良され、迷宮に対する知識も蓄積され、広く公開されるようになったため、ここまで未帰還者数を減らすことが可能となったのだ。
この先人の努力は誇ってもいいし、そのあとに続くわれわれもより一層、安全に関する意識を高めて行かな義務がある。
ところで、こうした未帰還者が発生する一番の原因はなんだと思うかね?」
「やっぱ、エネミーっしょ」
大学生グループの若い、チャラそうな男が手も挙げずにいった。
「違うな」
「ええと、負傷したとき、処理が手遅れになったせいでとか」
同じグループの女子大生が発言した。
「それも、違う。
正解は、事故だ」
そういって、その講師は周囲を見渡した。
「より正確にいうのなら、ヒューマン・ファクターが原因となった事故だ。
エネミーについていえば、無理に深層を目指さず、実力に見合った階層のみを探索することでかなり防ぐことができる。
負傷時の処理についても、パーティメンバーの中にフクロ持ちが入っていれば死に至るまでいくことはまずない。
諸君はすでに緊急時の医療行為についても講習を受けているはずだな、そのときに習った即効性の麻酔注射をし、意識がなくなったところで負傷者を丸ごとインベントリの中に入れてしまえば、その負傷者の時間は停止する。
あとは、迷宮から出て救急車が着いてからインベントリの中からその負傷者を取り出せば、まず手遅れになるってことはない。
だが、人間が原因となる場合は、そこまで簡単ではない。
なぜならは、相手がどういう動きをしてくるのかまるで予測がつかないからだ」
講師はそこで言葉を切り、しばらく沈黙した。
「さて、諸君も仮登録をするときに、迷宮内での起こったことはすべて自分の責任であるという念書に署名捺印をしているはずであるが、そのことからもわかるとおり、迷宮内は一種の治外法権となっている。
日本国の、いや、他のいかなる国家も、迷宮内で起こった出来事を法的に裁くことは不可能なのだ。
いかなる国家も、迷宮内で実効的な秩序をもたらすことにいまだに成功していない。
この事実は、諸君も強く念頭に置いておいて頂きたい。
ある特定の人物を狙い、わざわざ迷宮内部で追跡した上で危害を加えた例も現実に存在する。
また、エネミーとの戦闘中、たまたま仲間に攻撃を当ててしまったため、突発的に同じパーティ内で殺し合いが起こった例もある。
それに、純粋な事故として、仲間の攻撃が当たってしまい、死傷した例もある。
少なくとも公社に報告があがってきた情報によれば、統計上、迷宮内での未帰還者は、そうした人間に起因するトラブルが一番の原因になっているという動かせない事実。
このことは、くれぐれも肝に銘じて頂きたい」
そうした講習の内容を成行は売店で購入したボイスレコーダーに録音し、寮に帰ってから聞き返し、内容を丁寧にノートにまとめた。
そうした手間は、正直なところ、かなり煩雑にも感じたのだが、なにしろ自分の命がかかっている。
毎日のジム通いと同等、好きとか嫌いとかいうレベルではなく、理屈抜きで手を抜くつもりはなかった。
毎日朝から夕方まで講習を受け、そのあとジムに行ってトレーナーの指示に従って淡々とメニューをこなし、寮に帰ってきてからは講習の内容をまとめて寝る。
以上が、この頃の成行の日課となっていた。
講習がはじまってから五日目、座学の最終日にあたるその日、室内に入ってきた講師の姿をみて、成行は顔を強ばらせた。
「はい、皆さん。
わたしは、エルフ田マサシいいます。
こんななりをしてますが、帰化して日本国籍も持っている、歴とした日本人です」
エルフだ。
両耳の尖ったエルフが、そこに居た。
「この姿を見ればわかる通り、わたしはもともとこちらの住人ではありませんでした。
皆さまが不可知領域とか迷宮とか呼んでいるあの空間を経由して、こちらに漂着した異世界人です。
惜しいことに最初は逃しましたが、この世界の皆さまが二番目に接触した知的生命体となります。
以後よろうしゅうに」
流暢な、しかしどことなくアクセントに違和感をおぼえる日本語をだった。
仕立てのよいスーツを着こなし、頭髪をオールバックにきれいに整え、先の尖った両耳を持つエルフ田と名乗った講師。
そんな物体がすぐそこに居て普通にしゃべっているという非日常感に、成行は軽く目眩を感じる。
「さて、この講習も退屈な座学は今日が最後になりました。
来週からはいよいよ迷宮に入っての実習になりますね。皆さん、楽しみでしょう。
そこで今日は皆さんお待ちかね、迷宮内で数多くエネミーを倒すことによって得られる特権、スキルについてお教えしていこうかと思います。
このスキル、よく混同されるのでが、いわゆる魔法という現象とは、厳密にいうと違います。
魔法のオーソリティであるこのエルフ田が断言するのだから、間違いはありません。
基本的にこの世界の人々は、本当の意味での魔法をまだ知りません。
エルフ田が属する種族よりかは、どうもほんの少しだけ、この世界の人々は魔法をおぼえるのが不得意なようです。
エルフ田は、この世界に来てから本当の意味の魔法を使える人には、まだたった一人しか合ったことがありません。
これが誰かというと、ご存じの人はご存じの、例の所沢のエースなんすけどね。
はい、これは余談ですからすぐに本題に戻りますね。
魔法ではないスキルとは、それではいったいなになのか、ということです」
スキルとは、迷宮に入り、戦闘経験を積むことで修得する超常的な能力全般を指す言葉だった。
ポピュラーなものでは、フクロと通称されるインベントリ能力がある。
これは、任意の物体を必要に応じてどこかに収納したり、取り出したりするスキルであった。
実際にどこに収納しているのかは、スキルの所持者にもはっきりとはわかっていないらしい。
ただしこのスキルも容量的な制限はあって、戦闘経験が多い者、いいかえるとより多くのエネミーをその手にかけた者ほど、より大きな物体を出し入れできるようになる。
また、このスキルは意識を失ったものであれば生体も収納できる性質があり、危機管理の講義のときにも指摘されていたように、負傷者に全身麻酔をかけてそのまま収容するなどの手荒な使い方をされることもあった。
このフクロは、探索者が十人いれば八人くらいは早い時期に修得する、かなりポピュラーなスキルである。
他にも、火を飛ばしたり風を操ったりするスキル、それに、欠損した人体すら迅速に再生するスキルの持ち主さえ、確認されている。
ただし、誰がどんなスキルを発現しやすいのかということに関しての統計データは存在していない。
公社もそれなりにデータを集めてはいるのだが、探索者の側が自分に発現したスキルのすべてを正直に申告するわけではないからだ。
この手のスキルは、いざというときの切り札にもなり得る。
強力なスキルであればあるほど、その存在を他者には秘匿する傾向があり、また公社の方も探索者側に無理強いしてまで正確なスキルの情報を収集することはできなかった。
「では、なぜスキルが魔法ではないかというと……」
エルフ田講師は続ける。
「……迷宮から離れた場所では、使用不可能になるからですね。
目安として、迷宮から五百メートル以上離れると、一切のスキルが使用不可能となるようです。
このことから、皆さんが迷宮内で修得するスキルとは、迷宮の存在するエネルギーみたいなものを皆さんが流用することによって発現する現象なのではないかと、このエルフ田は思っています。
まあ、この場では、スキルとは魔法ではない、ということのみ、記憶しておいてください。
次に、スキルの種類についてですが……」
エルフ田講師は次々と存在が確認されているスキルについて説明していく。
フクロ。
それに、フラグとかセーブポイントと通称されるスキル。
これは、フクロに次いで多く発現する傾向にある、迷宮内の任意の場所を記憶して、そこにテレポートするスキルだった。
その他に、攻撃用のスキルや補助のスキル、それに、発現数は少ないものの、負傷した箇所を回復させるスキルなども存在する。
「とまあ、多種多様なスキルが確認されているわけですが、これから皆さんがどのようなスキルを修得するのか、はっきりいってこれは誰にも予想できません。
ただ、どのようなスキルを所持しようとも、それを十分に活用できるか否かは、皆さんの機転にかかっています。
同じスキルでも、人によっては使い方がまるで違います。
とことん活用する人がいる一方で、潜在的な価値に気づかないまま、もったいない使い方をしている人もいます。
どうか皆さんは、なにかのスキルを修得した際は、精一杯工夫をしてそのスキルを使いこなしてみてください」
「そのスキルをおぼえたかどうかは、すぐにわかるもんなんすか?」
大学生グループのチャラ男が質問した。
「なんらかの告知は、あるそうです。
頭の中で音として聞こえたり、目の前に風景に重なるようして文字が浮かぶあがったり、あるいはもっと漠然と、使えるな、という気持ちになったり、と。
現れ方は様々ですが、本人にはそうと自覚できるようになる。
と、そう聞きました。
というのはですねえ、このエルフ田は、皆さん人類とは違って、紛い物ではない本当の魔法を最初から使えます。
そのスキルというものも、自分でおぼえた経験はないんですねえ」
こうして、二週間の研修期間の前半戦が終了した。
土日を挟んで来週一週間は、現役の探索者たちに伴われて、研修生全員で迷宮に入る実習期間となる。
「ちょっといいっすか?」
ジャージのポケットに入れておいたボイスレコーダーのスイッチを手探りで操作し、席を立とうとした成行に、声をかけてくる者がいた。
「おれたち今から飲みにいくんすけど、よかったらいっしょにどうっすか?」
例の大学生グループの、チャラ男だった。
こうして直接声をかけられたのは、これがはじめてではなかったか。
「あ。ああ」
うめいて、成行は露骨に狼狽した。
長年、家族以外と会話してこなかった成行である。
売店やジムの人々と必要があって会話することはあったが、そうしたときは用件が決まっているからはなす内容もだいたい固定されている。
こうして不意に声をかけられ、しかもそれがその場で返答する内容を決してする必要がある場合など、今でも成行は思考を停止してしまう。
まだまだ成行の対人スキルは未熟であり、アドリブには極端に弱かった。
「いや、その。
忙しいし、それに、そう。
み、み、み、未成年だから」
かろうじて、そんなことを小声で呟いて、成行は足早にその場から離れた。
「あ、ちょっと」
「なに、あれー」
「み、み、み、未成年だから」
「似てる」
「うけるー」
そんな声が背後から聞こえてきたような気もするのだが、成行は気にとめないことにする。
連日の筋肉痛にもめげず、ジム通いは毎日続けていた。
成行にしてみれば文字通り死活問題であり、多少の筋肉痛に怯んでいられるだけの余裕すらない。
少なくとも本人は、そう思いこんでいる。
淡々といわれたことを実行していく成行に対すして、ジムの人々の心証はよいようだ。
最初のうち、腕立てや腹筋でさえまともに回数をこなせなかった成行も、丁寧にトレーナーたちの指導を受けてジムに付属するバーベルやマシンなども使用するようになっている。
ジムに通いはじめてからまだ日が浅かったが、手で探ると脂肪の中に、日々太くなっていく確かな筋肉の感触があった。
先ほどチャラ男に用があるといったのは別に嘘ではなく、こうしたトレーニングや講義内容をノートにまとめたりといった毎日の日課は、それなりに時間を食う。
「そろそろ、走り込んでもいい頃合いかな」
指示されたことを一通りやり終えると、トレーナーがそう声をかけてくる。
「いきなり走り出すと、膝の間接に負担がかかりすぎる。
もう足腰も十分にほぐれた頃合いだから、これからはできるだけ走りこみをする時間をとるように。
このジムでのトレーニングとは別枠でだ」
「わかりました」
タオルで汗を拭いながら、成行は短く答えた。
「有酸素運動と無酸素運動、それにストレッチは別枠だ。
それぞれ、適切に行わないと怪我や故障の原因になる。
走っているときも、なにか異常を感じたらすぐに中止して医者にいくように」
「そうします」
成行は頷く。
自分よりは深い知識を持つ人物がいうことに従うのは、成行の中では当然のことだという認識がある。
「それから、な。
自習は来週からだろうけど、今日の土日は自分で迷宮に入っておけ」
「いいんですか?」
「仮登録は済んでいるんだろう?
だったら、迷宮内に入ること自体はなにも問題はない。
うまく同行してくれる人を捕まえられればそれが一番いいんだが、ガイドがいない状態だったら、一階かせいぜい二階あたりをぐるぐる歩き回っておけ。
それくらいの浅い階層なら、よほど運が悪くなければまずいことにはならないはずだ。
できるだけ長い時間迷宮の中に入って、今のうちから慣れておけ。
くれぐれも、ひとりだけで深い階層に行こうとは思うなよ」
はじめて迷宮内に入るその日、講義で教えられた内容を何度も確認した上、成行は服装や持ち物などを何度も点検した。
そして、真新しいプロテクターとヘルメットを着込んで、迷宮へとむかう。
週末の朝ということもあって、迷宮の前はいつも以上の賑わいを見せていた。
別の本業を持って週末や休日だけ迷宮に入る探索者は以外に多い。
迷宮に入る列の最後尾に並び、成行はしばらく順番を待たなければならなかった。
列の戦闘から順番に、数名ずつ、なんとも形状のしようがないあやふやな空間へと姿を消していく。
あれが、迷宮。
通称、不可知領域という、いまだに正体不明の空間だった。
成行たち探索者の役割は、あの中に飛び込んでエネミーたちを倒し、ドロップしたマテリアルや利用可能ば部位を採取してくることである。
思ったよりも早く、成行の順番が回ってきた。
成行は公社の職員に誘導されるままに、ゲートに取りつけてあるリーダーに手首のIDカードを接触させる。
「研修中の方ですか」
「今日がはじめてになります。
行くのは一階か二階だけにとどめる予定です」
職員から声をかけられたので、そう答えておく。
「お一人ですか?」
「そうです」
誘いあって迷宮に入るような友人知人が、成行にはいなかった。
「お入りください。
幸運を祈ります」
幸運を祈る。
それが迷宮関係者の中で挨拶代わりに交わされる決まり文句であることを、成行はあとで知ることになる。
そして、成行ははじめて迷宮の中に入った。
一瞬、知覚が、五感のすべてがオフになった気がした。
いや、それは錯覚なのかも知れなかったが。
なにも見えず、感じず。
視覚や聴覚だけではなく、皮膚の感覚や温度などの情報がすべて消失した。
……かのような感覚のあと、徐々に、新しい情報が頭の中に入ってくる。
なにかが、切り替わった。
ということを、成行は実感した。
なにがどうということを端的に説明はできないのだが、そこを通過する前に居た場所とこことでは、根本的に異なる。
と、そんなことを本能的に悟った。
これが、迷宮か。
とも、思う。
事前に想像していたのとは、まるで違うな。
徐々に、空気の匂いや音、それに周囲の光景が、より鮮明に実感されていく。
まるで……この特異な空間に、成行の五感のチューニングが終わったかのように。
なるほど。
これは、異空間だ。
と、成行は得心する。
理屈ではなく体感で、そう納得できた。
ここは、今までおれが知っているどの場所とも違う、と。
空気に異様な匂いが混ざっている気がした。
なにがどう、とは、これまた表現し難いのだが、とにかく、これまで成行が嗅いだことのない匂いを、かすかに感じる。
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