第2話 神隠しの夜

 私の部屋は二階にあって、その窓向かいには、別の下宿屋がある。丁度窓と窓が向かい合わせになるような形になっている。建物と建物の距離が一間もないのに、その間には頑丈な屋根が張ってあって、その屋根を伝って西馬音内にしもないなどが部屋に入って来たりする。

 窓向かいの部屋はずっと人が居なくて、窓も閉めたままだったのが、今朝、がたがた音がするから、珍しく起き出して見てみると、何だか引っ越しの業者みたいなのが向かいの部屋でごそごそと何かやっていた。誰か引っ越して来るのかも知れない。


 水無月が終わって、龍鯨は南の方に行ってしまった。そうしたら梅雨が降り出した。ここ数日は青空を拝んだ記憶がない。そこいらがじめじめして、寝転がる布団も肌に貼り付くような心持がする。

 ただでさえ風通しの悪い部屋なのだが、雨が降っているのに風がないのもあって、部屋の中に空気がじっとりと溜まっているような気がして、何だか気持ちが片付かない。しかし出かけるのも億劫だから、結局何もしないで座っている。

 雨のベールの向こうで、引っ越しの荷物を動かしている連中をぼんやりと眺めていたら、開け放した扉から下宿の管理人の主悦ちからがひょっこりと顔を出した。相変わらずの黒いぼさぼさ髪が、梅雨のせいで余計に散らかっている。


「あ、いた」

「主悦君か。どうかしたか」

「何樫さん、水無月食べない?」

「作ったのかね」

「そう。雨ばっかで嫌んなってさ」


 私は普段なんにも食べないけれど、折角だからいただく事にしようと思う。

 主悦と一階に降り、談話室のテーブルに座った。お茶を淹れるのを任されて、淹れていると、台所から力が出て来て、三角形に切った水無月の乗った小皿を、私の前に置いた。白の外郎生地に小豆の乗ったこの和菓子は、見た目にも涼しげである。

 濃い目のお茶をすすりながら、水無月を食った。大変うまい。主悦は男で、まだ高等学校の学生でもあるけれど、料理やお菓子作りは無暗に上手い。下宿人たちの賄い飯も一手に引き受けている。私はご飯を食べないから、あまりご相伴に預かる事はないけれど、若いのに偉いものだと感心する。


「水無月って何で三角形なのか知ってる?」と主悦が云った。

「氷の欠片をかたどったからだろう」

「ああ、なんだやっぱり知ってんのか……」

「旧暦6月1日の氷の節句に夏越祓なごしのはらえがある。そこで暑気、厄を払うのに貴族が氷を食うのだが、庶民は夏の氷なぞ手に入らないから、暑気払いの氷を三角形でかたどった。上の小豆には厄払いの意味合いもあるね」

「お、おう……」


 知識をひけらかそうとしたが、却ってやり込められたので、主悦は何となく片付かない顔をしている。知らない振りをしてやれば良かったかと思う。

 そうして水無月を食っていると、玄関が勢いよく開いて朱里あかりが帰って来た。


「ああ、もう、毎日毎日雨ばっかで、もう! ただいま!」


 と云ってやって来て、水無月を食っている私共を見て「あっ」と云った。そうして主悦の頭を小突いた。


「コラ主悦、なに先に食べてんのよ」

「なんだよ、作ったのは俺だぞ、文句あんのか」


 そう云って二人でもちゃもちゃと問答している。うるさいから口を出した。


「朱里君、貴君も食いたいならお茶を淹れてあげるから、痴話喧嘩はおよしなさい」

「だっ、痴話喧嘩じゃない!」


 朱里は顔を真っ赤にしながらも、大人しくなって、座った。

 朱里はこの下宿の住人で、主悦と同学年の学生である。英吉利人と日本人のダブルで、輪郭がすっきりして鼻筋が通って、実に綺麗な顔立ちをしている。しかし、いつもしゃんしゃんしていて、何だか忙しない。顔色がくるくる変わるのは見ていて面白いけれども。

 朱里は学校の生徒会だか何だかに所属しているらしく、今日も休みなのだが、そのせいで雨の中出掛けて行って、そうして帰って来た。ご苦労な事だと思う。うまそうに水無月を頬張りながら、しかし時折困ったように顔をしかめて髪の毛を指先でいじった。


「髪の毛がどうしたの」

「んん、いや、湿気で広がるのよ」


 成る程、そう云えば心なしか細かな髪の毛が四方八方に好き放題に散らばっているような気がする。朱里の金髪は長くて、さらさらしていて、あまりそういう影響を受けなさそうだと思っていたけれど、そうでもないらしい。長い分、却って髪の毛が暴れると手入れも大変なのかも知れない。


「生徒会は忙しいの」と私が尋ねた。

「うん、もうすぐ夏季休暇だし、夏季休暇が明ければ学園祭間近だから、お祭り好きの連中はもうその気で騒いでるの。企画書とか、実行委員会とか、それ関係の雑務が増えちゃって」

「いいじゃねえか、楽しそうで」

「主悦はだらだらしてるから分かんないのよ」

「してねえし! お前管理人業務舐めんじゃねえぞ! こう見えても日夜を問わず頑張ってるんですからね!」

「ハッ、一向に入居者も増えない癖によく云うわ」

「それを云ったら戦争だろうが……ッ! 雨中の決斗じゃ、表に出ろ!」

「望むところよ」

「スミマセン冗談です、許してください」


 大体この2人の関係性はこういう具合である。何処となくのらくらしている主悦に対して、朱里はしゃんしゃんして、動きも機敏で、重いものも顔色一つ変えずに持ち上げる。喧嘩をしても、口でも腕っぷしでも朱里の方が強いように思う。

 水無月を食い、お茶をすすって、ふと思ったから口を開いた。


「そういえば主悦君、隣には誰か入るのか知ら」


 私が云うと、主悦は機嫌悪げに眉をひそめ、頬杖を突いた。


「そうなんだよ、何か東京から大学生が入るんだと。隣とうちとじゃそう条件も変わんないのに、不公平だよなあ」

「営業努力の違いでしょ。しゃんとしなさいよ、管理人」

「わ、分かってらい」


 それで部屋に引き上げた。雨は相変わらず降っている。向かいの部屋は、荷物は粗方運び込んだらしく、少し静かになっている。

 何か食うと、後で腹が減る。腹が減るのは、腹の中から食ったものがなくなるからである。元来お金が嫌いな性質で、だから食べるのも面倒で、しばらく何も食べない時期があったけれど、平気であった。

 元から何もなければ、何も減らない。私の腹が減らないのはそのおかげだろうと思う。尤も、友人の学者にそう云ったら栄養だのエネルギーだのの観点がないと云われたが、私は現に平気なので、おそらく栄養学や医学の方が間違っているのだろうと思う。

 しかし、何か食えばその分が腹からなくなる。すると腹が減る。腹が減るのは空虚な感に打たれる。それを我慢するのが面倒だけれど、うまいものを食う因果だから止むを得ない。


 じめじめした布団に寝転がって、そうしてぼんやりした。天井の木目が色々の形に見える。雨漏りの後の水の染みが、何だか動き出すような気がしたら、どうやら眠っていたらしい、私を呼ぶ声で目が覚めた。

 雨は収まっているが、窓の外は既に薄暗い。窓向かいの部屋には誰も居ない。入居者はまだ来ていないのかと思う。

 起き上ると、部屋の入り口に主悦が突っ立っていた。


「どうかしたの」

「お客さんだよ。アキラさん。商工会の」


 おやおやと思った。

 起き上って一階に降りると、玄関にアキラが立っていた。薄手のワイシャツの下にランニングが透けているのが見えた。


「よう、何樫さん」

「やあアキラ君。何か御用かね」

「そうなんだよ、ちょいと困った事になってね」


 またこう云う相談を持って来る。なにゆえ私に云いに来るのか合点がいかないが、昔そう云う案件を幾つか請け負って解決したのがまだ尾を引いているような気がする。


「どういう困り事」と私が云った。

「それが神隠しでな」

「神隠し? こんな時期に?」と主悦が口を出した。

「ああ、だから驚いてなァ」


 確かに、神隠しは大抵春先に起こる。季節の変わり目には、世界の切れ端に踏み込む者が毎年出て来る。大抵は子供であるが、ぼんやりしている大人も時折神隠しに会う。隠された者を探すのは、南蒼州のこの町の春先の一大行事である。

 それがこんな時期に起こった。だから皆困惑して、ひとまず同じように探す事になったが、人手が足りないので手伝って欲しい云々。


「春先なら皆気持ち的にも待ち構えてるから直ぐ動けるんだが、今回は突然だから動ける連中があんまし居なくてな」

「だろうね」

「何樫さんは何度も隠された奴らを見つけてるから、是非と思ってさ」

「そうか」


 嫌だけれども、仕方がない。


「俺も行った方がいいかな?」と主悦が云った。

「おお、時間があれば来てくれや。人手はあって悪い事ァねえからな」


 主悦はちょっとホッとしたような顔をしている。来なくていいと云われたら寂しかったのだろう。

 ともかく、それでアキラと連れ立って外に出た。主悦は夕飯の仕込みだけして、後から来ると云う。


 外はすっかり雨が上がり、雨上がりの紫色の夕空に、明滅する星々がうっすらと浮かび出した。

 街燈が灯り、行き交う人々の影ばかりがくっきりして、しかし表情がよく見えない。何だかの世界に迷い込んだように思う。

 商工会の建物の前まで行くと、それなりの人数が集まっていた。西馬音内にしもないもいるし、センセイもいるし、化け狐の豆腐屋もいる。

 商工会の会長が、何だかよく分からない事を色々と述べ立てて、集まった連中は皆うんざりした顔をしていた。この長話も恒例である。誰も歓迎しないのに、止めさせようとする者が居ないのも不思議だと思う。


 しばらく待って、そうして銘々に散らばって捜索が始まった。

 捜索と云っても、好き勝手に歩き回るばかりである。神隠しに会った者はこの世に居るわけではない。しかし、こちらから色々の事を喚きながら探し回っていると、ひょんな事からこちらの世界の方に足を踏み外して戻って来る。こちらが無視していると、中々戻って来ないらしい。探すという行為が大事なようである。

 ぶらぶらと歩いていると、また分厚い雲がかぶさって来たらしい、空から星明かりがなくなり、吹く風が生ぬるく、雨の匂いがする。また一雨来るかも知れない。雨具の類は何も持っていないけれど、止むを得なければ止むを得ないので、放っておく事にした。


 あちこちから、おーいおーいと、神隠し探しの連中の呼び声が聞こえる。

 歩いていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、西馬音内君とセンセイが立っていた。西馬音内は珍しく洋服を着て山高帽をかぶり、上にインヴァネスを羽織っている。センセイはいつもの紺色の着流しにパナマ帽である。


「よう、何樫君、貴君も神隠しの捜索かい。いやはや、ご苦労な事だね。いやしかし、ここ数年の神隠し捜索では、発見数は貴君が一番だからな。何樫君が出て来たとなると、これは我々の出番はないかも知れませんね、センセイ」

「お前は相変わらずよく喋るね」センセイは面倒くさそうに、手に持った団扇をぱたぱたと動かした。「それで、首尾はどうだ何樫君。春先と違って人数が少ないから、中々境界が現れんだろう」

「そうですね。しかしまあ、僕は退屈ですから、いいです」

「散歩名人の何樫君ならば、歩き回るのはまるで苦にはならないと云う訳だね。いやはや、実によく出来たものじゃないですかセンセイ。こいつは歩くのが嫌いな人間には到底勤まる仕事じゃありませんね。昔の陸軍の兵隊はあんまり歩くから足が扁平に広がって靴が合わなくなったと聞きますが、僕は歩くのが足らないのか、中々そうならない」

「どうなったって知った事かい。おれに喚き立てる暇があったら、隠された奴を呼んでやった方が余程役に立つと云うものだ」

「しかしセンセイ、隠された者の名前が分からんのですからね。どうします、権兵衛とでも呼びますか。それともジョン・ドゥにしますか。張三李四でもいいかも知れんですな。いや、女性だそうだから、ジェーン・ドゥが一番適切でしょうかね」

「ちょっと待ちたまえ、誰が隠されたんだか分からないのか」と私が云った。

「ああ、女であるらしい。しかし子供ではないらしいよ。町に残っていた観光客か何かだろうと皆当たりを付けているが、詳細は定かでない」

「それでよく神隠しがあったと分かりましたね」

「そりゃ、商工会に影法師が来て、こちら側に迷い込んでるのがいると云いに来たんだから、間違いない」


 どうやらそうらしい。しかし何だかよく分からない。

 海側の方は水没横丁の漁師連が動いていると云うし、山側の方は風宮かざみや家の結界師たちが探していると云うから、自然足は柳町やなぎまちの方に向かった。

 柳町は日本からの移民が最初に住み着いた辺りで、今は無人家や廃屋が多い。街燈も少なく、夜ともなれば真っ暗である。神隠しもこの辺りは起こりやすく、また見つかりやすい。おそらく向こう側との境界線に近い所にある町なのだろうと思う。

 他の捜索隊も、柳町に集まっているらしい、そこかしこから呼び声が聞こえる。しかし名前が分からないから、おうい、おういと云うばかりである。


 そこいら中無暗に家が立っていて、道も縦横に入り組んでいる。さながら迷路のようでもある。

 ぼんやりしながら歩いていたら、センセイと西馬音内とはぐれた。気付くと一人になっていた。前髪に雨粒が当たって、飛沫になって目に入った。それを指先で拭っているうちに、さらさらと雨が降り出した。

 手近な家の軒下に入ったが、埒が明かない。さあさあと雨の音ばかりする。そんなに強い雨ではないから、もうよして帰ろうかと思う。だから軒下から出て、帰ろうとしたが、道が分からない。柳町は何度来てもややこしい。


 雨音の合間を縫うように、捜索隊の呼び声が聞こえた。時間が経ったから、だんだん参加者も増えて来たのかも知れない。だからもう私は帰ってもいい。

 とは云え、帰り路が分からないのだから、当てもなくぶらぶら歩いた。

 少し行くと街燈があって、裸電球が朱色を帯びた光を放っていた。そこだけが明るくて、降っている雨が見える。雨の中なのに、蛾が何匹か光にまとわりつくように飛んでいた。

 ふと、雨音の合間に何か聞こえた。手風琴の音であった。

 はて、何だろうと思いながら横丁を曲がると、不意にそこらが明るくなったから目がくらんで、思わず目をつむって、しばらくしてから明けると、雨の降っていた筈の風景がすっかり乾いて、その上かんかんとした夕日がそこいら中を真っ赤に染め上げていた。

 さっきの手風琴の音に合わせて、鐘や太鼓も鳴っている。クラリネットやトランペットも鳴っている。曲は美しき天然である。近くにチンドン屋でもいるのだろうか。


 明るいから、柳町の道もよく分かる。突然夜が夕方になるのはおかしいと思いながら、しかし家に帰ろうと思って歩き出した。

 そこいらが変に白けていて、誰もいる気配がない。

 家の障子の向こうに人影が見えるけれど、それがちっとも動かないので、影だけが障子の染みになって残っているような気がした。

 木製の電信柱が幾つも並んで立っていて、ゴムの電線がそれらをつないでいる。見上げると、その線一本一本がやけにはっきりと見えた。


 どこまで歩いてもチンドン屋の音楽が追っかけて来る。

 柳町を出て、町の本通りに出て来た。

 辺りが大変ざわざわしている。肉屋の軒先でコロッケがじゅうじゅう揚がって、良い匂いがする。しかし人影は一つもない。おやおやと思う。

 通りに沿ってずっと行ったけれども、八百屋や魚屋の軒先に商品が沢山並んでいるのに、売る者も買う者もなくて、気配ばかりがずっとかぶさって来て、いないのはあちらか、それとも私なのか、それも判然としない。

 不意に横丁から黒い影が飛び出して、私の前を横切って行った。犬らしいが、毛が真黒で、目も口もあるんだかないんだか、よく分からない。


 変な気になりながら下宿の前に戻ると、私の下宿の隣の下宿の前に大きな招き猫があって、それが入り口を邪魔しているらしい、前で誰かが中に入ろうと頑張っていた。

 黒い癖っ毛を肩の辺りで無造作に遊ばしている女である。しかし背が小さくて、子供だか大人だか分からない。何だか陰気な雰囲気がある。それでいて、一人でぶつぶつと何か呟いている。


「むう……行けども行けども招き猫……。これは、わたしは招き猫ワールドに迷い込んだ……? おかしいな、です。異世界とは云え、こんな異世界を目指した筈ではないのに。落ち付け夜宵やよい、冷静になれ、です。……て云うか、異世界のくせして妙に大正浪漫的な雰囲気あるのなんなん……」


 何を云っているのか、よく分からない。しかし異世界云々と云う事だから、もしかしたらこの人が窓向かいに引っ越して来る人なのかも知れない。それでいて、東京くんだりから来たりしたものだから気持ちが浮ついて、それで境界を踏み外してこちら側に来てしまったのではないかという所まで考えが行った。

 それで「もしもし」と声をかけると「どぉう!」と変な声をして、跳ねるようにしてこちらを見た。


「うをっふ、びびび、びっくりしたじゃねーか、こんちくしょー。どっ、どちらさみゃっ――どちりゃっ――、どりあっ、ど、都都逸! です!」

「落ち着き給え、ひと息ついて。焦る意味なぞ、ありやせん」

「むう、ホントに都都逸で返すとは……お主やりおるな、です」


 よく分からない女だと思った。


「こんな所で何をしているの」

「いや……なんかもう、わたしにも分からない、です」

「なにが」

「何もかもが……」

「そうか」


 そうらしい。

 改めて見てみると、子供にしか見えない。しかし主悦ちからから聞いた話では、隣に入るのは大学生だから、このなりで大学生なのだろう。飛び級で大学に入った優等生と云う可能性もあるが、「失礼ながらお幾つかね」と尋ねたら、「二十一、です」と云った。世の中にはそう云う事もあるのだと思った。


 さて、探し人を見つけた以上、是非帰らなくてはならない。

 ここは向こう側だから、この下宿で息を殺しても何の意味もない事になる。境界線が一番揺らぐのは柳町だから、二人連れ立って歩き出した。

 歩きながら色々の話をした。


「僕は何樫と云う」

霧坂きりさか夜宵やよいと申す。です」

「それで、南蒼州に来られた感想はどう」

「なんか、ドラゴンが鉄道を引いてるーと思ったら、駅舎が石畳で、壁が白くて、地図を頼りに歩いて行くと、町は何だか異国情緒あり、大正浪漫あり、ついつい気を散らしたかと思ったら、いつの間にか周りに誰もいなかった、です」

「そうか」

「そしたら、横丁の出口に招き猫。角を曲がれば招き猫。果ては下宿の入り口に招き猫。これはどう云う事かと小一時間。です」

「神隠しに会ったのさ。それで皆で探していたのだ」

「か、神隠し……です? いや、神隠しと云うのは人攫いの隠語……? つまりわたしは見知らぬ世界で早速誘拐された可能性が微レ存……?」

「何を云っているのだ」

「異世界と云えば剣と魔法とファンタジーかと思ってた、です」

「別に剣も魔法もないではない。しかしトールキンみたな世界を想像するのは、貴君、そいつは無茶だぜ。異世界とは云え、ここだって昔から日本の領土だったんだから」

「でも招き猫と神隠しとチンドン屋ってのは想像できなかった、です」


 成る程、通りの向こうからチンドン屋の一隊が歩いて来た。相変わらず美しき天然を、手風琴にトランペット、クラリネット、チンドン太鼓に三味線で物悲しく奏でている。

 通りに他に人はいない。しかし、ずっと誰もいなかったのにチンドン屋が来るのは妙だなと思った。すれ違う時にその一隊をまじまじと見た。皆顔がなかった。


 怖くなったのか、夜宵が腕にすがり付いて来たので、大変歩きにくい。しかし歩きにくいなりに歩いて、次第に柳町が近くなった。

 すると、ずっとぎらぎらと照っていた太陽が、段々と地平に沈んでいくらしい、空が暗くなって、建物のシルエットばかりが嫌にくっきりとかぶさって来るような気がした。

 ふと見ると、誰もいないように見えていた通りに、薄ぼんやりとした影法師が行き交っているのが分かった。夜宵が私の腕をぎゅうぎゅうと握りしめるから、痛い。


「幽霊、です?」

「違うよ」


 柳町に入る頃にはすっかり日が暮れた。暗くて、そうなると道が分からない。分からないけれども、突っ立っていても仕様がないから、歩く。相変わらずチンドン屋の演奏が追っかけて来ているが、その合間に、おーい、おーい、と呼び声が聞こえる。夜宵も目をぱちぱちさせて、周囲を見回した。


「誰かが呼んでる、です?」

「貴君を探している連中の声だな」

「へえ……でも声ばっかり、です」


 声は妙に近いのだが、横丁を曲がったり、廃屋の中を覗き込んだりしても、人影はない。やっぱり世界がずれている。

 さて、どうしようかと思う。別に元の場所に戻る方法を知っているわけではない。柳町まで来たはいいけれど、そこからの方針は何も立たない。夜宵が不安そうに私の腕を引っ張った。


「暗いよう、何樫さん……」

「そうだな」

「どうする、です? これから」

「そうだな」


 しかし私にだって分からない。チンドン屋の演奏と呼び声とが周囲で虚しく響き渡っている。

 不意に、チンドン屋の演奏が竹に雀に変わったと思うや、どしんどしんと何か地鳴りがした。

 驚いて音の方を見ると、巨大な招き猫が横丁から現れた。二つの大きな目と、千客万来と書かれた小判が怒ったようにぎらぎら光って、暗かった道をてきめんに明るく照らした。


「また招き猫!」


 と夜宵が叫んだ。

 招き猫はどしどしと大仰な音をさせながら、私共の方に迫って来た。黙って突っ立っていては潰されそうだから、慌てて逃げたが、招き猫が追っかけて来る。たけすの演奏がやかましい。一緒に走る夜宵の「どえええ」と云う訳の分からない悲鳴もやかましい。

 幾つも横丁を曲がり、随分駆け回ったが、招き猫はしつこい。少し引き離した所で、疲れたから立ち止まって休憩した。夜宵はすっかり息を切らして、呼吸の音も痛々しい程である。あれだけ喚きながら走っていては当然だと思う。


「大丈夫かね、夜宵君」

「かひゅー、かひゅー、へ、平気……です」

「そうか」


 駄目そうである。

 さて、どうしようかと思う。夜宵を抱えて雲を踏もうかとも考えたけれど、向こう側の世界で人外の秘術を使うのは、怖い。帰れなくなる可能性がある。

 ひとまず夜宵の背中をさすってやった。夜宵はしばらく苦しげにうずくまっていたけれど、少しは落ち着いたらしかった。


「うぐぐぅ、おのれ招き猫……鬼ごっこにも程があるぜ……です。……げほっ」

「招き猫と鬼ごっこと云うのも変な話だな」


 招き猫に取って食われるとは思わないけれど、地鳴りがするほどの招き猫に飛び乗られては、どうなるか分かったものではない。ついに私共を追い詰めた招き猫が、満腔の怒りを込めて私と夜宵の上に飛び乗って、それでどうこうなるのを私は好まない。

 地鳴りは次第に近くなるし、チンドンはうるさいし、また少し逃げようかと思っていると、ずっと聞こえている呼び声に混じって、手を叩く音が聞こえた。ハッとして、顔を上げた。


「誰かが手を叩いているな」

「ふえぇ……? あー、確かに、聞こえる、です」


 鬼さんこちら、手の鳴る方へ。鬼ではないが、鬼ごっこで追われる方が拍手の方に行くのも面白い。丁度招き猫が見えたので、再び逃げ出した。


「あっちかな」

「ぜえ、ぜえ、こ……こっち、です」


 夜宵の方が耳が良いらしい、実に正確に手拍子の方へ向かう。しかし夜宵がまた息切れして、進むのが大変遅い。背後に招き猫の気配をひしひし感じながら、手拍子の聞こえる横丁を曲がった。

 途端にぞあっ、と地面を雨粒が叩いて、目の前に驚いた顔をしたセンセイと西馬音内にしもない、それに店長が立っていた。


「おお、戻って来たか何樫君。いやはや、まさか自分も神隠しされる事で探し人を見つけるとは、流石だね。とても俗人には真似できない離れ業だ」と西馬音内が云った。

「まあ、傘に入り給え。濡れるよ」


 と、センセイの差し出した傘の下に入った。夜宵は状況が呑み込めていないらしく、目を白黒させて、私の腕にぎゅうと抱き付いた。


「なんだ、子供じゃないと聞いてたが、子供じゃねえか」と店長が云った。

「いや、こんななりで二十一歳だそうだ。見てくれで判断しちゃいけない」

「ほう、世の中には不思議な事もあるもんだな」とセンセイが云った。

「さあさあ、戻ろうじゃないか。見つかったと報告せにゃ、他の連中が風邪をお召しになるからね。僕も歩き回ってくたびれた。商工会の連中が肉を煮てるそうだよ。酒も用意しているそうだから、存分に労ってもらおう」


 西馬音内君が歩き出したので、皆それに続いて商工会に戻った。

 戻って、振る舞われた酒を飲みながら聞いた話では、私共が招き猫に追い回されている最中、柳町のそこかしこで、夜宵の悲鳴が聞こえていたらしい。誰かが追っかけられてるぞと捜索隊にも熱が入ったが、矢張り騒ぐばかりしか手がない。

 先生と西馬音内君も歩き回っていたそうだが、疲れるし、雨は降るし、困っていたところで店長がやって来た。そうして、鬼ごっこをしているなら、手を叩いて呼べと云った。

 それでその通りにしてみたところ、見事に私と夜宵とが横丁から飛び出して来たと云う事であった。店長がどうしてそんな事を知っていたのか、それは分からない。


 そう云うわけで、季節外れの神隠し騒動は終わった。私は大変くたびれたので、部屋に帰って、寝て、翌日は午後まで起きないつもりだったが、誰かに揺さぶられて、起きた。夜宵やよいが脇にちょこんと座っていた。


「おはようございます。です」

「お早う。何か御用かね」

「窓から見たら、何樫さんがいたから、見に来た、です」


 そうらしい。しかし何だかよく分からない。

 寝直すにも、夜宵が脇に座ってじっと見ているから、寝にくい。しかし別に何をするでもないから、黙って座っていると、主悦ちからがやって来た。


「おー、寝てるかと思った。あ、夜宵さん、おはよう」

「おはよう、です」


 昨晩は、主悦も後になってから捜索隊に加わったので、商工会で行われた慰労の打ち上げで、既に夜宵とも見知りである。

 お茶を淹れると云うから、一階の談話室に降りた。蒸し暑いけれど、熱いお茶がうまい。


「何樫さん、これで神隠し発見三連覇だね」

「別に嬉しくもない」

「今回は俺も頑張ったんだけどなあ」

「神隠し、そんなにある、です?」

「大体季節の変わり目にあるんだな。大抵春先だけど。だから今回は虚を突かれた感じだぁね」

「むう……それはとんだご迷惑を」

「あー、いやいや、別に夜宵さんのせいじゃないって」

「おお……なんと心の広い……もしかしてイケメン……?」

「そうだぜ、主悦さんは良い管理人! だから夜宵さん、隣止めてうちに入らん?」

「むう……一年契約で入っちゃってるから……難しいかな、です」

「あー……」


 主悦は無念そうに眉をひそめた。夜宵はうまそうにお茶をちょこちょこすすり、ふと思い出したように口を開いた。


「でも、なんで神隠しって季節の変わり目? です?」

「ああ、それはね……それは……何だっけ?」


 と云って主悦は私の方を見た。


「境目だからだ。この世界の境界は、あちらの世界との境界でもある。辻道や、橋や、門や、峠なんかもそうだな。そして季節にも境目がある。そういう時は境界が揺らぎやすい。だから季節の変わり目には神隠しが起こりやすいのだよ」

「はあー……でも春先なのは、なんで?」

「冬というのは体が寒さで締まっている。暖かくなり出すと体中が緩む。体が緩めば心も浮つく。そういう緩んだ心は境界を踏み越えやすいからな。だから貴君のように他所から来た者も、神隠しには会いやすい」

「と、云うわけだよ、夜宵さん!」

「主悦ちゃん……頼りねえ。です」

「おうふ」


 お茶はご馳走になったし、外は雨が降っているし、寝直すにも気が削がれたから、散歩に出も行こうと思う。傘を差して歩き回るのも風情があって嫌いではない。雨粒が海をばらばらと叩くのを眺めるのは、たまらなく愉快である。

 それで行こうと立ち上がったら、夜宵も付いて来た。貴君、引っ越したばかりで荷物の整理はいいのかと尋ねると、やる気が出ないと云った。それよりも昨日は見損ねたあちらこちらを見たいと云った。

 仕様がないので、雨の降る中を二人連れ立って町に出た。

 雨でも人通りはあまり減っていなかった。普段はあまり地上に出て来ない海人族たちも、雨の中は居心地がいいらしい、傘も差さずに髪の毛の先から滴を垂らして歩いている。


 下の方からむっとした湿気が昇って来る。服が肌に貼り付くような心持がする。

 通りの向こうから蒸気貨物車が来た。ぶっぶっと音をさして、無暗に蒸気をまき散らして通り過ぎた。

 雨粒の間を縫うようにして、半透明の湯気がゆらゆらとそこいらに漂った。

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