さよなら、ワンダフル・ワールド

門司柿家

第1話 龍鯨


 南蒼州は一年中ずっと暑いけれど、それでも矢張り夏の暑さと云うものはあって、部屋で座っているだけで額にじりじりと汗をかく。窓向こうの隣の建物が近くて、日が入って来ないから、直射日光の熱さはないけれど、窓も戸も開け放しているのに、風通しが悪くて、暑い。

 暑ければ暑いなりに、なんにもする事がないから、窓辺に背を持たれてぼんやりしていると、霧雨のような水滴が窓越しに頭に降りかかって来た。窓から首だけ出して、上を見ると、家と家の隙間の狭い空に、緑がかった銀色の鱗を照り返しながら、大きな龍鯨が潮を噴いていた。それが互いに跳ね散らかって、そこいらに霧雨のように舞い散って、いくつもの細かな虹がきらきらした。

 美しいから、見ていると、不意に戸の向こうから「あのう」と声をかける者があったから吃驚した。背の低い、痩せた男がこちらを見ていた。


何樫なにがしさんのお部屋はこちらでよろしいでしょうか」と云った。

「はあ、そうですが」


 と云って私が警戒する顔をしていると、男はハンケチで額を拭いながら、部屋の畳に膝を付いた。


「いや、暑いですね、実に」

「ええまったく。ところで、どちら様でしょう」

「ああ、失礼いたしました。ワタクシ、尾ノ上おのうえと申します」


 そう云って尾ノ上さんは名刺を取り出して私に寄越した。装飾細工屋らしい事が分かった。


「ワタクシ、柳町で装飾細工屋を営んでおります」

「はあ」

「それで、実は帝都の方からちょっとムツカシイ注文を受けてしまいまして、こうやって御相談に伺った次第で」

「僕にですか」

「ええ、そうなんです」


 尾ノ上氏は懐から扇子を取り出してぱたぱた煽いでいる。あまり豊かでない髪の毛を無理矢理に撫でつけているのが、扇子の風でこれまたぱたぱた動いた。


「依頼主と云うのが、帝都のさる華族の御令嬢なのですが、この方がさる集まりに出かけた時、赤州の侯爵の御婦人が、龍鯨の鱗の首飾りを見せびらかしたと云うのです」

「はあ」

「その侯爵の御婦人は、依頼主である御令嬢とは、まあ有体に云って好敵手と云うか、何かに付けて競い合っていると云うか。それで、その場でついそんなものは自分も持っていると云ってしまったそうなのです」

「成る程」

「つまり、そう云う訳で、今月の間にも龍鯨の鱗が必要になってしまったのですが」

「あんな高い所を飛んでいる生き物の鱗が取れますか」

「普通は無理でしょう。小飛龍も近づきたがらないし、だからと云って人口の飛行物は天龍が怒りますから」

「はあ」

「それで、名高い何樫さんに御協力を仰ぎたく、こうして伺った次第なのです」


 名高いなどと云われても、私は別に何の取り柄もない人間だから、こういう相談をされても、困る。だからお断りしたいと云ったけれど、向こうも方々を歩き回って、そうして私に辿り着いたのだから、是非とか何とか云って、中々帰ろうとしない。

 こうやって食い下がられると、無理を押して断ると自分の方が嫌な気持ちになる。受けても断っても嫌な気持ちになるなら、相手が早く帰る方が面倒がなくていい。だから止むを得ないから、引き受けた。

 尾ノ上氏はたいへん喜んだ様子で「何とか、今月中にはよろしくお願いします」と云って帰って行った。今月中と云うのは水無月で、どちらにせよ水無月を過ぎると龍鯨は南大洋を超えて行ってしまうから、期限としても、実際に依頼を遂行するにしても、今月の内になんとかしなくてはいけない。


 さて、困った事になったと思う。引き受けたけれど、何の当てもない。お客が帰ったのはいいけれど、帰った後の面倒が待っていた。どうしようかと考えたけれども、どうせいい考えなぞ浮かぶ筈もない。だから考えるのはよして、散歩にでも出ようと立ち上がった。

 部屋を出て、木造りの廊下を踏み、階段を降りて、玄関から外に出た。

 私の住んでいる下宿は大抵昼も夜も玄関が開け放されて、来客は勝手に中に入って、目的の部屋を探す。泥棒も入りやすいだろうと思うけれど、返って入りやすくて途方に暮れるかも知れない。だから所々に矢印を書いて順路を作って、きっと泥棒稼業は疲れるだろうから、休憩する場所も決めてやって、万事お膳立てしてやったけれど、未だに泥棒は入っていない。泥棒は家主には構われたくないだろうから、楽である。お客は家主に構われないと用を弁じないから、面倒くさい。


 それはともかく、外に出て表通りまで抜け出ると、人が沢山いる。龍鯨を見に来たお客だろうかと思う。皆カメラを持って、空に向けて、パシャパシャとシャッターを切っている。さっきまで近かった龍鯨は、少し遠くになっていた。海の方に行くらしい。だから私も何ともなしにそちらへと足を向けた。

 この辺りは木造の和風建築が多いけれど、海辺の方に近づくと、白亜の壁の建物が増える。元々この辺に住んでいた海洋民族たちは、こういう家を作る。

 椰子の木が立って、砂埃が舞って、少し細めた視線の先に陽を照り返す凪がちかちか光った。


 少し行くと、周りよりも大きな建物が出た。壁には子供らの無邪気な落書きがのたくっている。ここは病院である。

 前に立って、ぼんやりとその威容を見上げていると、中から誰かが大声で笑いながら出て来た。袴をはいて金縁の片眼鏡をかけて、女の子の肩を抱いている。


「わっはっは、そりゃいい。そんなら今度アンチテーゼを御馳走するよ。いやなに遠慮する事はない。この時期はアンチテーゼの実にいい奴が黒州から入って来るのだよ」

「本当ですか? 西馬音内にしもない先生はすぐに人をからかうから……あら? 何樫さん」と女の子が私の方を見た。男の方もこちらを見た。

「やや、誰かと思ったら何樫君ではないか。こんな所で会うとはいや実に偶然――と云いたいところだが、貴君は元々精神病みのきらいがあるからなあ、偶然というよりは必然と云うべきか」

「失敬だな、西馬音内君。貴君こそこんな所で何をしているのだね」


 私が云うと西馬音内は愉快そうに笑った。


「それが聞いてくれ給えよ貴君、僕はつい先日に天文台の学芸員たちと一緒に会食に行ったのだが、そこでアンチテーゼのソテーを食ってね、しかしどうも質の悪いのに当たったらしい――きっと赤州の西大洋辺りの冷凍物だったんだろうね、今日になって猛烈に腹が痛くなった。そりゃもう痛くて痛くて、死ぬかと思うほどだ。それで慌てて病院に駆け込んだんだが、とても混んでいる。だから待合室で脂汗を流しながら待っていた。しかしそれでいざ診察を受ける段になった途端にピタッと治まってしまった。たとい少し前まで死ぬような気分だったとしても、治まってしまってはそれを証明する手段もない。それでバツが悪くてね、タイジュ先生と無駄話をして、今出てきた次第なのだよ、わっはっは」

「本当か知ら」

「苦しんでたのは本当みたいですよ」


 と西馬音内君の横に立っていた少女が云った。彼女は病院の院長の娘で真魚まなと云う。海人族と人間とのハーフだから、黒い髪の毛が陽の光を青く照り返した。


「でもわたしアンチテーゼなんて魚、聞いた事ないって云ったんです」

「だから今度真魚さんに御馳走してあげようと話して居たところなのだよ。そうだ何樫君、貴君も一緒にどうだ」

「貴君の出鱈目に付き合うのは癪だな」

「おいおい出鱈目じゃないぜ。アンチテーゼは高級品だからね、高い金を出せない人にはそうそう口に入らないのさ」

「猫の迷亭みたいな事を云ったって駄目だよ。貴君の話はまるでトチメンボーだぜ」

「何樫君ともあろう御仁がトチメンボーの存在を疑われるとは、そいつは君迷亭先生に失敬と云うものだ」

「そんなら別にトチメンボーはあってもいい」

「アンチテーゼもある」

「ないよ」

「よし、いいとも。そんなら是が非でも今度貴君にアンチテーゼを味合わせてやろう」

「僕は腹痛は嫌だ」

「なあに、僕に任せておけば大丈夫さ。良いレストランを知っているんだよ」

「あの、西馬音内先生、わたし、まだお手伝いがあるんですけど」


 西馬音内君に肩を抱かれたままの真魚がおずおずと云った。西馬音内君は「やや、こいつは失敬」と笑いながらパッと手を離した。


「では真魚さん、近日中にアンチテーゼを御馳走するからね」

「あはは、期待しないで待ってますよ」


 そう云って踵を返しかけた真魚を、ふと思いついて呼び止めた。


「真魚君、龍鯨の鱗について何か知らないかね」

「龍鯨の鱗、ですか?」真魚は首を傾げた。「昔市場で見た事はありますけど、どうしてそんな事を?」


 事の次第を説明すると、真魚は成る程と頷いた。


「たまに、古くなった鱗が落ちるとは聞いた事があります。でも大抵は水無月を過ぎて、南大洋の上を飛ぶ時に落ちる事が多いみたいです」


 つまり、この街の上を飛んでいるうちに鱗が落ちて来る可能性は随分低いと思われた。落ちた鱗は海上交易隊の船が拾ったり、旅の海人族が拾ったりする他は手に入らないそうである。そうして、その確率も随分低いと云う事であった。


「おい西馬音内君、これでは先が思いやられるね」

「はははは何樫君、貴君また愉快そうな頼まれ事をされたみたいじゃないか。よし、僕も手伝おうじゃないか。なに遠慮することはないよ、僕と君との仲だからね」

「しかし貴君、龍鯨の鱗については何も知らないのだろう」

「実を云えば心当たりはない事はない。しかし確実性を伴う話ではないのも確かなのだ。まあ、ひとまず一杯飲んで対策を考えようじゃないか」

「僕はお金を持っていない」

「誰が貴君から金を取るような罰当たりをするもんか。さあさあ、行こう」


 そう云って西馬音内君は私を引っ張って行く。私も呼ばれて行くのは嬉しいから、嫌ではないけれども、そういう気持ちを顔に出しては若い者に舐められるだろう。だからムッとして、努めて機嫌が悪そうな顔で付いて行った。偉い人は大抵機嫌が悪そうである。


 西の海辺の方に出ると、樽を浮かべた所に板を渡して、浮き橋になったようなのが幾つもある。それが縦横に繋がって、少し広い所や小島には露店が出ている。

 ぎいぎいと板を踏んで行くと、馴染みの飲み屋の前に出た。右目を眼帯で隠した店長が、カウンターのこちら側で退屈そうに煙草を吸っていた。軒先にぶら下げたスピーカーではフランク・ストークスが歌っている。


 店長は私共を見て「よう」と云った。


「退屈そうだな高等遊民ども」

「こらこら、遊びに来たのではないぞ店長。我々は秘密会議を開くべく市中尤も客のいなさそうな貴君の店を選んだのだ」と西馬音内が云った。

「相変わらず口の減らねえ野郎だ」

「減らずに増えるは口ばかり。我が懐は日増しに寂しき」

「嘘こけ」

「信ずる者には何とやらだよ店長。麦酒を二つ。カメノテの塩ゆでに、貝の網焼き、海老の串焼きも貰おう」


 麦酒が出て、カウンター向こうで店長がつまみを焼き出した。

 ひとまず瓶からコップにそそいで、一息で飲んでしまった。大変うまい。しかし体の水っ気が増えて、額にかく汗の量が増えるような気もする。

 周囲に壁がなくて、簾がぶら下がっているばかりだから、海風がよく抜ける。私の部屋とは大違いである。心地よいとも思うけれど、何処となく体がべたつくようでもあり、お酒が回るにつれて何だか片付かない気持ちになって来た。西馬音内君は相変わらずの駄弁を弄し、肴を作り終えた店長は片手に煙草、片手に冷やし焼酎のグラスを持ってからかい半分の応対をしている。


 やがて日が傾き出して、そこいらを照らす陽の光に締りがなくなって来たと思ったら、思い出したように西馬音内君が大きな声を出した。


「そうだそうだ、別に冗談の酒飲みでここに来たのではない。何樫君何樫君、何をぼんやりしているのだね。貴君の請け負った重大なる案件の解決策を論じなくては麦酒を何杯も飲んだ甲斐と云うものがない」


 別に麦酒を飲むのに甲斐も何もない。店長がげらげら笑い出した。


「また面倒事を抱え込んだのかよ、阿房だな、お前さんは」

「仕方がないよ、どうしてもと云うのだもの」

「それで困ってりゃ世話ないわな」

「無理をして断ると嫌な気持ちになる」

「請け負っても嫌な気持ちになるだろうが」

「そんな先の事まで承知して何かをするような気の利いた事は出来ない。その時困るのが嫌だから、請け負って、後に困るのは後の自分に任せればいい」

「まあ、それはそうかも知れんなあ」と店長は冷やし焼酎をあおった。「で、どんな面倒事だ」


 事の成り行きを説明すると、店長は「ははん」と云った。


「龍鯨の鱗なあ。あんまし見たこたねえが、確かに真魚まなの云う通り、沖の方で見つかった事はあるみたいだぜ。眉唾だけどな」

「何か良い方策はないだろうか」

「沖で見つかるんだよ何樫なにがし君、だからさ」と西馬音内にしもない君が云った。お酒が回ったのか赤い顔をしている。

「薫君の船を出してもらえばいいのだよ。あの巨木船なら龍鯨の後を追っかけて行って鱗をすくい上げるくらい訳ないだろう。何なら銀亀に云って大きな網をあつらえさしてもいい。僕が口を聞けば訳ない事さ」


 しかし西馬音内君が自信満々に云ったこの策は、薫の船が既に別の頼まれ事で西大洋に遠乗りに出ていて、水無月のうちに帰って来る見込みがない事から、実行不可能である事が分かった。

 どちらにせよ、大海に漕ぎ出して、落ちているかも分からない鱗一枚を探せと云うのは如何にも無茶なように思われた。


 考える程にお酒が進むから、段々空の瓶が増えて来た。西馬音内君もすっかりいい気持になっている様子である。面倒事を抱えていても、お酒が回れば愉快になる。しかし龍鯨の鱗は別に西馬音内君の面倒事ではないから、彼の場合は屈託なく酔っぱらえるだけの話かも知れない。

 龍鯨を打ち落とすだの、下から鉄砲で落ちそうな鱗を狙うだの、酔いに任せた適当な案が幾つも出たけれど、もちろん実現できないから時間ばかりが立つ。別に急がなくてもいいけれど、元々龍鯨の話でここに来たから、話がそこから中々離れて行かない。しかし龍鯨の話と云ってもその中で話があちこちに散らかるから始末が悪い。


「龍鯨にも逆鱗はあるのか否か」と私が云った。

「そりゃ龍の一種なんだから、あるだろ」

「違うよ、龍鯨は鯨だ。哺乳類だよ。大型化に伴って飛行の対策に鱗を生やしたのだ」


 と西馬音内君が力説すると、店長が嘲笑した。


「バカヤロウ、空を飛ぶのと鱗と、何の相互関係があるんだよ」

「あの鱗一枚一枚が細かく動き、空気を跳ね上げて浮かぶのだよ。魚類の鱗は骨格であり、主成分は水酸燐石灰だ。一方爬虫類の鱗はケラチンを主成分とした表皮だ。しかし僕が思うに、龍鯨の鱗はそのどちらにも属してはいないね。あれは半分は形而上学的けいじじょうがくてきな認識の上に成り立っている」

「また始めやがった」と店長はもう愛想を尽かしたような顔をしている。

「しかし、実際に物質として存在しているのだから、形而下学でもあるだろう」と私が云った。

「そうともそうとも、あれは半分は物質だが、半分は現象だよ。だから飛行という現象を引き起こすに当たって、あの鱗は是非必要なものだ」

「なら別に鱗じゃなくてもいいじゃねえか。髭でも鰭でも」と店長は譲らない。

「何を云うか、本来鯨が持っていないものを持ってこそ、現象を引き起こすにふさわしい代物となるのだよ。髭や鰭では海を泳ぐのと相違ないじゃないか」

「鱗だって魚だ」

「馬鹿云っちゃいけない、あの鱗は龍のだ。だから飛べるのだ」

「龍の鱗は形而上学的に飛行の性質を有していると貴君は云いたいのか」と私が口を挟んだ。

「そうさ。そうでなければ、翼もないあんな大きなものが飛んでいるのか合点がいかない」

「ならどうしてはがれた鱗は浮かないんだよ」

「そりゃ貴君、鳥の羽が浮いて行かないのと同じ話さ」

「すると、龍鯨の鱗はあれか、一枚一枚が羽根みたいにばたばた羽ばたいてんのか」

「そうそう、数千の細かな鱗が一斉に羽ばたき、浮力を発生させるのだよ」


 想像すると気持ちが悪い。いつのまにか鱗がすっかり形而下学的な存在になっている事に西馬音内君は気付いていないらしい。

 結局何の得る所もないまま日が暮れて、そこいらに明かりが灯り出して、店にも別の客が入り出したから、帰った。お酒が飲めたのは嬉しかったけれど、何となく釈然としない。


 それでしばらくは元の通りに何もせずに過ごした。

 夏至が過ぎて、水無月が終わりに近づいて来たけれど、方策が立たないのだから仕様がない。風の通らない部屋で目白が塩を舐めたような格好で膨れていると、尾ノ上おのうえ氏がやって来て首尾はどうだと云う。どうもならないと答えた。


「そりゃ困りますよ。もう夏至も過ぎて、夏越祓なごしのはらえも間近だってのに」

「そう云われても方策が立たないのだから仕様がありません」

「仕様がないって、そりゃあなた困ります。是非何とかしてもらわなきゃ」

「はあ」


 尾ノ上氏は痩せているくせに汗っかきらしい、ふうふう云いながらしきりに額や首筋の汗をぬぐい、何やら色々の事をまくし立てて帰って行った。何だかよく分からないが、催促のつもりで来たのだろう。

 考えて見ても、面白くない。考えて見なくたって面白くないのだが、元々こんな面倒を請け負った自分が悪いから止むを得ない。こうなる事が分かっていて、後の自分に押し付けたのだから、怒って見ても仕様がない。


 このまま膨れていてもくさくさするから、立ち上がって部屋を出た。

 今日もいいお天気である。日差しはやっぱり強い。龍鯨は空に浮いている。薄長い、金魚のような半透明な鰭がゆらゆらと揺れている。ああやって浮かんでいて、色んな連中に見上げられて、どう云う事を考えるのだろうと思う。

 昼下がりで、そこいらの陽射しももったりとしている。

 風の吹く方に歩いて行くと海に出た。船が行き交い、子供らが泳ぎ回り、波が寄せては引いている。風が波を立てているのか、波が風を起こしているのか、それは分からない。


 向かい風に目を細めて突っ立っていると、「あ、何樫さん」と声をかけられた。見ると真魚が立っていた。手に持った籠に野菜がたくさん入っている。


「やあ真魚君、こんにちは」

「こんにちは。どうですか、龍鯨の鱗は」

「何の方策も立たないね」

「そうですか……」


 自分の事でもないのに、なんだか申し訳なさそうな顔をした。よく出来た娘だと思う。

 二人で並んで、浮かんでいる龍鯨を見上げた。長い髪が風で暴れるので、真魚は空いた片手でしきりに顔の前を払う仕草をした。

 鱗が落ちて来るのを待つのが無理であれば、龍鯨に地上にお越し願うか、自分が飛んで行く他手はない。どちらも面倒な手法であるから、やりたくはないけれど、それで請け負った事柄の期日が過ぎるのは、いけない。先送りにしていい問題はいくらでも先に送って未来の自分に任せるけれど、こう云った頼まれ事の場合、期日を過ぎると依頼人の方が怒り出す可能性がある。怒るだけならばいいけれど、違約金を払えなどと云って来ては目も当てられない。

 別に尾ノ上氏と何の契約も交わしてはいないのだが、依頼を引き受けておいてそれを履行しなかった場合、引き受けた方が悪くて責められるのは目に見えている。まだ来ない未来を心配して騒ぐのは、気のせいかも知れないけれど、気のせいでも現に心配になって、精神的苦痛を伴うのだから、冗談ではない。


 もう他に方法が思いつかないから、飛ぼうと思う。

 しかし、人間が飛ぶのを龍は喜ばない。天龍に見つかってかじられるのは嫌である。それを心配して真魚に「飛ぼうと思うのだけれど」と相談した。真魚はきょとんとして私を見た。


「何樫さん、飛べたんですか?」

「昔天狗に術を習った事があるのだ」

「へえ、凄い……でもどうして最初から飛ばなかったんですか?」

「僕は高い所が苦手だし、あんまり天狗の術を使うと人間離れするから、使いたくなかったのだが、この際止むを得ないからね」

「でも、あんな高くまで行けますか? 魔女も鳥人も、あの高さまで飛ぶ人って滅多にいませんけど」

「雲の辺りまでは行けるだろう」

「へえー、凄いなあ」

「しかし、人間が飛ぶと龍が怒らないか知ら」

「それは大丈夫みたいですよ。飛行機とか、気球とか、乗り物を使って飛ぶのは龍も怒るみたいですけど、魔女が箒で飛んだり、鳥人が翼で飛んだりするのは怒りませんし」


 成る程、云われてみればそうかも知れない。魔女の箒が乗り物に当たるかどうかはさておき、私は箒も使わないのだから、きっと怒られないだろう。しかし、怒られないと分かった以上飛ばなくてはならなくなった。怒られるなら飛ばずに済んだろうに思うが、今更そんな事を思っても仕様がないから、よす。

 さて、しばらく龍鯨の方を見る。いざ、自分が行こうと考えると、随分高い所に居るらしい事が分かった。上空はもう少し風も強いかも知れない。

 私が教わった術は雲踏みと云う。字の如く空気を踏むのである。さて、うまく飛べるかどうか、足の具合を確認する。


 トントンと、つま先で二回地面を蹴って、それから、ヤッと飛び上がった。久方ぶりの浮遊感に、思わず体勢を崩しかけたが持ち直し、さらに空気を踏んで高く飛び上がった。たちまちち地面を遥か下に睥睨へいげいするに至り、風が強いから、思わず目を細めた。しかし龍鯨はまだ頭上にある。ぐんぐんと何度も空気を踏んで、次第に龍鯨へと近づいた。すると、不意に自分の動きがゆっくりになり、何か薄い膜のようなものを突き抜ける感触があった。

 不思議に思いながらも上昇し、そのまま龍鯨の上まで行った。これ以上は行っても仕様がない。ちょいと失礼と云いながら、龍鯨の背中の上に降り立った。私一人が乗っても、まだいくらでも人が乗れる程に龍鯨は大きい。


 足の下で小さな鱗が光っている。陽の光を薄緑がかった銀色に反射して、薄い宝石の板を何枚も重ねて並べたようである。

 鱗を求めてやっては来たが、こう整然と、美しく並べてあるものを引っぺがして持って行くのは何だか忍びない。鱗同士が擦れるのか、ちゃりちゃりと不思議な音がそこかしこから聞こえた。

 どうにも気持ちが片付かないから、急ぐこともないだろうと龍鯨の背中の上をぶらぶらと散歩した。端の方に行って、眼下に南蒼州の町を見てみたけれど、あんまり高いから眩暈がして、慌てて後ろに下がった。

 そうして頭先から尾の付け根まで歩いてみたが、行って戻るのに一時間はかかったように思う。地上から見ていてもその威容には驚いたものだが、こうやって上を歩いてみると、随分大きいものだと感心した。


 歩いていて発見したが、所々で古くなった鱗がはがれかけている。それも所々、思った以上に多い。

 はがれかけた鱗でも、もちろん綺麗で、見てみると下からは新しい鱗が生えかけていた。これならば古い鱗を持って行ってはいけない事はないだろう。だから、完全にはがれた鱗を探して歩き回ったが、これがさっぱり見つからない。

 おかしいなと思っていると、ふと目の前でちゃりんと音をさして、鱗が一枚はがれた。そして、下に落ちるのではなく、陽の光を照り返しながら更に上へと浮かんで行く。思わずぼうっとしたが、ハッとして雲を踏み、飛んで行く鱗を捕まえた。鱗は飛んで行くと云うよりも、水面に向かって浮かんで行くような手ごたえがあった。そこで、どうやら龍鯨は空を飛んでいるのではなくて、空気の中を泳いでいるのだと云う事が分かった。私が途中で突き抜けたのは、龍鯨の周りにだけある不思議な空気の層か何かだったのだろう。


 しばらく居て、何だか降りるのが勿体ないような気分になっていたけれど、このまま背中に乗って南大洋に行くのは、少し大変な気がする。それはまたそのうちの冒険として、ひとまず戻る事にした。しっかと鱗を持って、お邪魔しましたと云って、背中から飛び降りた。

 元の場所に戻って来ると、真魚が「遅いから心配しましたよ」と云った。買い物の荷物だけ家に置きに行って、それからずっと私を待っていたらしい。龍鯨の背中で散歩していたのが何だかバツが悪いけれど、それは止むを得ない。

 私の手に持った鱗を真魚はしけじけと見た。


「わあ、それが鱗なんですね。凄く久しぶりに見ました」

「そうかね」

「でも、昔見たのとはちょっと違うような……でもこれは文句なしに本物ですもんね?」

「あの龍鯨が偽物でなければ、そうだろう」

「あはは、そうですね」


 ともかく、これで頼まれた品物は手に入った。しかし今日はもう帰ろうと思う。まだ水無月は終わってはいないから、急ぐ必要もない。

 そうして家に帰って、翌日に尾ノ上氏を尋ねようかと思っていたら、向こうから訪ねて来た。また催促かと思って警戒したが、どうやらそうではないらしい。先日のカッカした様子はなく、逆に妙に縮こまっているのが変な気がした。


「あのう、首尾は如何でしょうか」

「ええ、その事ですが」

「ああ、あの、実はいいんです。もうよくなったんです」


 私が鱗を取り出す前に尾ノ上氏は遮った。


「要らないんですか」

「え、はい、そうです」


 曰く、事の発端となった例の侯爵夫人の首飾りは、龍鯨の鱗を謳った偽物だったそうである。考えて見れば、龍鯨の鱗は宙に浮いて行ってしまうから、地上には落ちて来ない。すると、沖の方で拾われる龍鯨の鱗というのは、全部偽物なのである。

 ともかく、首飾りが偽物だと分かって夫人は大恥を掻いた。令嬢の方も今更になってこれが本物の龍鯨の鱗だなどと見せびらかしても、皆疑いの目で見て、嘲笑の的になるであろうことは容易に想像できる。だからその話は双方有耶無耶にしたいと暗黙の同意があり、したがって、尾ノ上氏の元に来た依頼も取り消しになったのだそうである。


「何とも人騒がせな話ですな」

「ええ、ええ、そうなんです。それで、あのう、そういう事ですので、依頼料などは、そのう」


 と尾ノ上氏はこちらをちらちらと見た。要は金を払いたくないと云う事である。私はお金が嫌いだから、それは一向に構わない。尾ノ上氏はホッとしたような顔をして、そそくさと帰って行った。


 相変わらず風の通らない部屋に座って、ぼんやりした。

 どうにも騒がしい数日がこれで終わった。終わったと思うと、何だか疲れたような気もする。余計な事に心配りをして、疲れて、飛びたくもない空を飛びもしたが、龍鯨の背中は面白かったら、まあ、いい。

 ふと、懐に仕舞ったままの鱗を取り出して、眺めた。きらきらして、実によく磨かれた硝子のように滑らかである。

 手を離すと、ふわふわと浮き上がって、天井にぶつかって漂った。しかしこんなものがあっても私では持て余すばかりで役に立たない。

 少し考えて、真魚に上げる事にした。西馬音内や店長に上げても、私と同じで何の役にも立たないだろう。


 出かけて行って鱗を手渡すと、真魚は「ありがとうございます」と大層喜んだ。そうして鱗を掲げて、太陽に透かして見たりした。すると、龍鯨の背で聞いたあのちゃりちゃりと云う音が聞こえた。

 鱗同士が擦れ合う音だと思っていたのだけれど、どうやらその音は、鱗に当たってはじける太陽の光の音らしい事が何となく分かった。

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