もう帰れない

沖田 秀仁

第1話

もう帰れない

沖田 秀仁

絶え間なく牡丹雪は舞い、か細く川面に消えている。

夕日はとうの昔に落ちて、空を錆色に染めていた残照も消えた。

つい先ほどまで凍える風が恐ろしい唸りをあげていたが、いまは嘘のように静かだ。

深いしじまに包まれて小さな社の裏の波が洗う石組の上に蹲っていると、たった一人で江戸の町の片隅に取り残されたような気がして、なぜか気持ちが落ち着いた。そう、わっちは独りぼっちなんだと忘れていた哀しみが俄かに甦り、思わず涙がこぼれた。

一刻あまりもあかぎれた手を擦り合わすこともせず、おさきは仔猫のように体を丸め両膝を抱きかかえてじっと波の揺らめく大川を見入っていた。このまま、どうなったって構いやしない。心の中で何度か繰り返し呟いたその言葉をそっと口にして、闇の底に沈んだ対岸の御城下へ目を遣った。向こう岸は浜町から柏崎にかけて武家屋敷が並び建つが、この刻限には狐火ほどの明かりも見えなかった。

暗くて寂しい、とおさきは思う。

物心ついてから二親と一緒に出掛けた記憶はない。長屋の子供たちは近所の酉市や初午などに、父親に手を引かれ飛び跳ねるようにして行き、その後を母親も連れ立って出掛ける姿を、おさきはいつも木戸口で羨ましく見送っていた。おさきの父親は陽のある内は家に姿がなく、たまに夜更けて戻って来ると決まって泥のように酔っていた。

記憶にある限り、母親はいつも暗い家で忙しく針を動かしていた。おさきと二人して出掛けたのも数えるほどだ。ある日、反物を縫いながらおさきの名は「咲」と書き、花の咲き乱れる春の先触れのさきだと教えてくれた。暖かくなったら草摘みに行こうとも言ってくれたが、そんなのはすべて嘘っぱちだった。俯いて針を動かし続ける母親の背後を通り過ぎるように、季節はいつしか移り変わっていった。柔らかな陽射しに咲き乱れる春の温もりなんか、おさきには無縁のことだった。

楽しかったことの何もない中で、たった一つだけ想い起こせるのは、三年前に母親と二人して出掛けた向島は長命寺の花見だ。江戸中の人が集まったような人出だった。広い境内には桜餅を売る屋台の出店があって、親子連れや揃いの法被を着た仕事仲間が幟の下に群がって買い求めていた。おさきが黙って店先を見詰めていると母親が一つだけ買ってくれた。惜しみつつ口にした桜餅はとろけるように美味しかった。

だがその晩、眠っている間に母親は長屋を出て行ってしまった。酒浸りの父親とおさきを残して。長命寺の桜餅は美味しかったけど、それは母親のいなくなった日の辛い想い出。

「おっかさん、どうしてわっちを置いてちまったんだ」

と、そっと呟いてみる。

どうして? ともう一度言って唇を噛んだ。そのわけは痛いほど分かっていた。母親が家を出てどこへ行ったかも、おさきにはわかっていた。

あれはおさきが十一になった春先、母親がいなくなる一月ばかり前のことだった。

堀割一筋隔てた堀川町の手習指南所から小走りに額に汗を浮かべて戻ったらお客さんが来ていた。それはかつて母親が菊次と名乗ってお座敷に出ていた頃、相仕を組んでいた三味線弾きの駒吉さんだった。母親は小粋な節回しで木場の旦那衆を蕩かしたものだと上目遣いに語って聞かせた。

母親を散々持ち上げた後で「なんだろうね辰巳の菊次といわれた芸者がこんな貧乏長屋に燻っちまって」と、眉根を寄せて哀しそうに呟いた。

「祭礼の宵に門前仲通で見かけた白締込みに半纏姿で御輿を担いでる勘助に一目惚れしちまって。わっちはよせと言っただろう。こうなるってことは最初から分かってたのさ」

そう言った駒吉姐さんはうっすらと両の目に涙を浮かべていた。

おさきは知らなかったけど、父親と所帯を持つ前の母親は評判の辰巳芸者だった。きりっとした目鼻立ちと竹を割ったような性格から御贔屓にしてくれるお客が多かったものだよと、相仕だった駒吉姐さんが言ってた。門前仲町の黒板塀を巡らした料理茶屋の豪勢なお座敷から声がかかり一晩に二ヶ所も三ヶ所も廻ったものだと、駒吉姐さんは小鼻を膨らませたりした。言ったこっちゃないじゃないか、男伊達でいなせな木場人足というのは表の顔、本性は呑む打つ買うの三拍子揃った碌でもない男だと。悔しそうにそう言って駒吉姐さんが口を閉じると、深く哀しいしじまが三人を襲った。誰もが溜め息とともに眉尻を下げて肩を落とした。

いつかは目覚めて真っ当な木場人足に戻ってくれると思ってるだろうが、金輪際そんなことはないと請け合うよ。菊次が首っ丈で惚れ込んでた時はいなせな猫を被っていたが、所帯を持つと途端に勘助の地金が現れただけなのさ、と駒吉姐さんは父親の悪行をなぞってやり込めた。済んでしまったことを口にしたところで、何もはじまらないのに。

駒吉姐さんに言われるまでもないことだ。父親が札付きのワルでこの界隈に名が通っているのはおさきでも知っている。しかしそれでも父親の悪口は聞きたくなかった。おさきは駒吉姐さんが好きにはなれなかった。

派手な着物と白粉の匂いを振りまいて、けたたましく野鳥が囀るようにしゃべるだけしゃべると「また来るからね」と言い残して帰って行った。母親は寂しそうに顔を俯けて一言も何も言わなかった。

記憶にある限り、母親は仲町の呉服屋から頼まれた針仕事に精を出し、朝から晩まで部屋の中でひたすら針を動かしていた。背を丸め縞目も分からないほどくたびれた着物を着た母親がその昔、権兵衛名を菊次といってお座敷に出ていたとは思いも寄らなかった。


母親がいなくなったのはその一月後だった。家を出て何処へ行ったのか、おさきには見当がついていた。お馴染みだった旦那衆は菊次のことを忘れていないよ、と駒吉姐さんはしつこいほど言い募った。おそらく母親は駒吉姐さんの誘いに乗って門前仲町の子供屋の橘家へ戻ったのだ。

すぐにも後を追って仲町へ行こうかと思ったが、そうすると材木町の裏店は父親だけになってしまう。父親を独りぼっちにすることは、おさきにはどうしてもできなかった。何日かに一度、思い出したように家へ帰る他は空けてばかりだったけど、それでも誰もいない家に帰るとさぞかし寂しいだろうと思った。

どんなにお祭り騒ぎの好きな男でも好いた女と所帯を持って子もできりゃ、ちったあ料簡して落ち着くものだが、と大家さんも母親がいなくなったのを憐れむように洩らしたことがあった。富ヶ岡八幡宮の祭礼は年に一度だが、お前の父親は毎日がお祭りだから困っちまうね、と寂しそうに笑った。大家さんが顔を出したのはここしばらく店賃が滞っているからだと分かっていた。察しはついていたが、おさきは黙って俯くしかなかった。

長屋の人たちも父親のことを良く思っていないのは分かっている。が、それでも勘助はおさきにとってかけがえのない父親だ。他人なら愛想を尽かして関わりを絶てば良いかも知れないが、おさきにはかけがえのない父親だ。父親のことを思えば哀しくなり溜め息が出るけど、子が父親を選ぶことはできない。

おさきが小耳に挟んだ話では、とうの昔に木場人足をしくじったという。呑んだくれの父親は人足頭から見放され、法被を取り上げられていた。二年近くも前から日雇取りの人夫仕事に出たり出なかったりしているようだ。そして今では新地の賭場へ出入りしているようだと、長屋の人たちが眉を顰めて噂話しているのを聞いたことがあった。

長屋の家で父親の帰りを待ち、日々の暮らしにも事欠くおさきを見かねたように、すぐ近所の煮売り屋の老夫婦が店番に使ってくれた。駄賃として頂く売れ残りの惣菜で、おさきは飢えを凌ぐことができた。長屋に暮らす人達も何かにつけて声を掛けてくれたりして、そうした思いやりに包まれた暮らしが三年ばかり続いた。いつのまにか十一歳だったおさきも十四になり、界隈では深川小町といわれる娘になっていた。

母親がいなくなって、父親はますます家には寄り付かなくなった。

それに伴なって父親のお祭り騒ぎは益々ひどくなり、帰ってきたとしても大抵四つ過ぎ、見るからにまともとは思えない仲間に担がれるようにして。それも、寝静まった長屋の人達を叩き起こすような乱痴気騒をひとしきり演じるおまけつきだった。

おさきは恥ずかしくて仕方がなかった。いない方がましだ、と罰当たりなことまで心ひそかに思ったこともあった。だがついに、思うだけでは済まされなくなってしまった。

それは昨夜のことだ。

思い出すだけでも身震いがして情けなくなる。あんなことならいっそのこと帰ってこなかった方がいっちましだった、と思わず歯を食い縛り涙が溢れた。

富ヶ岡八幡宮の鐘が四つを知らせ、閉じられた木戸の番人と大声で怒鳴りあう醜態をひとしきり繰り広げて裏長屋へ帰ってきた。父親は上機嫌に酔っ払い、鋭い目付きの頬の削げた男の肩を借りて上り框に転がり込んだ。博奕うちの破落戸相手に意見しての後難を怖れているのか、長屋の人は誰も意見しにこなかった。おさきは上り小口でだらしなく伸びた父親を夜具まで引っ張った。そして両膝をついて四畳半の板の間で寝入ってしまった父親を夜具に寝かせていると、

「貸銭の利子代りに頂戴するぜ」                         

と、頬の削げた男は父親に向かって言い訳のように吐き捨てた。

振り返る間もなく、男はいきなり横からおさきの上に被さってきた。

男が何をしようとしているのか分からなかった。獣のような強さでおさきを組敷くと口を尖らせて顔を寄せて来た。おさきは必死に手足をばたばたさせ逃れようと抗らった。

熟柿のような酒臭い息が顔にかかり、荒々しく綿入れの衣紋を掻き分けられた。おさきは両手を伸ばして懸命に男の顔を押し上げようとした。が、難なく右手で両腕を押さえつけられ、男の左手はおさきの蕾のような乳房を鷲掴みにした。声を上げようとした唇は男の唇で塞がれ、唇の間から男の舌が入ってきた。抗らっているうちに裾がはだけ、乳房を揉んでいた男の手が両膝の間に差し込まれた。おさきは両足首を重ね合わせて拒んだが、男は股から手を引き抜くとおさきの頬を手酷く打った。

「聞き分けのねえあまっちょだぜ」

そう言いながら、男は何度も何度も頬を打った。

恐怖と痛みに言葉を失い、おさきは男のなすがままに身を任すしかなかった。

男はおさきの着物の裾を捲り上げて下半身を剥き出しにすると、脚を割って身をのり入れた。「やめて」と心の中で叫んだが、恐怖で押し潰されたように喉から声が出なかった。しかし、押し潰されたのは声だけではなかった。

悪夢のような四半刻はおさきのこれまでの生涯に匹敵するほど途方もなく長く感じられた。鋭い痛みが体を貫き、おさきは呻き声を洩らした。激しく腰を揺する男の動きがとまると、低い喘ぎ声とともに体の奥で熱いものが迸った。穢された、とおさきは深く暗い淵へと落下する絶望に打ちのめされた。目尻から新たな涙が頬を伝って床板に落ちた。

「ヘッヘッ、まさか新鉢を割るとは、思わぬ拾いものだったぜ。これからもちょくちょく可愛がってやるからな」

男は股から下がった物を見せ付けるようにおさきの目の上でぶらぶらさせると、満足そうな笑みを浮かべて下帯の中へ仕舞った。

鼻歌交じりに腰高油障子を閉じて男の足音が長屋の路地を遠くへ消えてゆくと、おさきは力なく体を起こした。衣紋を掻き寄せ着物の裾を合わせたが、お七髷の根は崩れ頬が赤く腫れていた。

腰高油障子を開けて裸足で井戸端へ行き釣瓶を引き上げた。長屋は寝静まったように家々の明かりは消え、鎌のような月が十万坪の彼方に昇っていた。

水音を立てないように絞ると、おさきは乳房を拭い内股とその奥を冷たい手拭いで丁寧に拭った。繰り返し繰り返し血が滲むほど手を動かしながら、記憶までも拭えればどんなに良いかと思った。とめどなく、後から後から涙が溢れてこぼれた。

今朝のこと、目覚めた父親は目を泣き腫らしたおさきに、

「ぐずぐず文句を言うんなら、岡場所へ売ったっていいんだぜ」

と怒鳴り散らし、夜具を払い除けると顔も洗わないで出掛けた。

恨みがましいことの半畳半句たりとも、おさきは口にしていないのに。

煮売り屋の老夫婦は「悪い夢を見たんだ」と慰めてくれた。

悪い夢だった、とおさきも思いたかった。そう思って済ませることができるのなら。

だが、男は顔を寄せると嘲るような卑しい笑みを口元に浮かべて「これからもちょくちょく可愛がってやるぜ」と言った。

男の言葉を思い出しただけで、死ぬほど嫌なことがこれからも身に降りかかって来るのかと、奈落の底に突き落とされるような恐怖に震えた。しかも、父親が楯となって庇ってくれないことははっきりしている。これから先どうすればいいのか、おさきは目の前が真っ暗になった。

花芽の膨らむ季節だというのに寒の戻りか、朝から凍てつく風に雪が混じって横殴りに吹きつけた。いつもと違って夕刻になっても客足がつかなかった。おじさんが早くあがって良いよと声を掛けてくれたが、おさきは首を横に振り日暮れまで煮売り屋で過ごした。

火ともし頃になって、おさきは追い立てられるように店を出た。できればいつまでも店先にいたかったけど、娘でもないのに老夫婦に甘えるわけにもいかない。

煮売屋を出ても行く当てはない。お先の足は裏店へとは向かわなかった。明かりの入った町境の木戸小屋の掛行灯の前を、おさきは小走りに通り過ぎた。

ただただ、おさきは歩き続けた。頬を打つ雪に背を丸めて、家路を急ぐ人の流れに逆らうように軒下を拾って、とぼとぼと大川端に沿った泥濘の大通を上流へと向かった。

何処へ行こうとしたわけでもない。ただこの道のずっと先、両国橋袂の東広小路を横切ってそのまだ先に長命寺があった。麻裏より疲れやすい下駄を素足に履いて、向島まで行こうとしたわけではなかったが。

両国広小路にすら辿りつかないうちに、すっかり夜の帳が下りてきた。小名木川に架かる萬年橋を渡った所で、おさきは河口の空き地へと足を向けた。その空き地は本所深川の景勝の地といえなくもなかった。長命寺の境内とは比較にならないほど狭く、桜の木も花見の名所とは比べ物にはならないほど少ないが、小さな稲荷の社の周囲に数本の桜が植わり花見頃には見物人も訪れた。天気が良ければ葛飾北斎の富嶽三十六景・深川萬年橋下図さながらに、対岸に建ち並ぶ武家屋敷の落ち着いたたたずまいと遥か彼方に富士の峰が望めた。

江戸には伊勢屋稲荷に犬の糞、といわれるほど江戸には稲荷が多かった。おさきは疲れた足取りで背丈ほどもない小さな朱塗りの鳥居を潜った。そして風を避けるように社の裏へ回り込んで体を小さくしてうずくまった。足元の石垣を大川の波が洗い、頭や肩に雪が白く積もって解れ髪や着古した綿入れを濡らした。もう一歩たりとも歩けなかった。

どうしてわっちを置いて行っちまった、とおさきは闇に浮かぶ母親の面影に問い掛けた。いらないんだったら、どうしてわっちを産んじまったんだ。

大好きだった母親に恨みがましい気持ちが湧いて、おさきは目を瞑った。すると瞼の裏側にも牡丹雪が降り、凍えるような冷たさが襲ってきた。心の芯まで冷えたような気がして「おっかさん」と声に出し母親のことを想い浮かべた。暖かい涙が双眸を濡らしておさきの気持ちが少し和むと同時に母親を恨む気持ちが大波のように押し寄せた。なぜわっちを置いて行ったんだ、なぜわっちを産んだんだと心の中で叫んだ。

しかし、生まれてきたことを怨むとは。十四の年まで生きて良かったことなぞ何一つとしてなかったと、そう考えておさきは首を横に振った。世の中にはこの世の明かりすら目にすることのない不幸な水子や、生まれたにしても呆気なく夭折する子も多い。

長屋の人たちや煮売り屋の老夫婦には随分と助けてもらった。これで不足を言ったらきりがないよ、とおさきは自分を厳しく叱った。罰当たりなことを思った自分を詫びるように手を合わせた。すべてを得や損だけで判じてはいけないのだと。

どうしたというのだろう、とおさきは思い直してみる。昨日の自分と今日の自分とで、何が変わったというのだろうか。たった一つ、体の芯を貫いた痛みのほかに。

 だけど、もう帰れない。身を持ち崩し女房にまで愛想をつかされた男でも、おさきにはかけがえのない父親だった。少なくとも昨日の晩までは。しかし、もう父親とは呼べない。

 足下の石垣を大川のうねりが洗っている。唇は紫色になり、冷たくなった手足や顔は色をなくしている。おさきはうずくまったまま新たな涙を静かに流した。

水気を含んだ牡丹雪が降っている、水面に吸い込まれるように。雪華が壊れるようなカサコソとかすかな音をたてながら。

まるで長命寺で見た風に舞う花吹雪のように。後から後から、水の中へと吸い込まれては消えてゆく。お前もおいでよ、と呼んでいるような気がする。

                                    終

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