深川別れ雪
沖田 秀仁
第1話
深川別れ雪
沖田 秀仁
平治の仁王立ちした巨躯がゆっくりと上下している。
まだ白波こそ立っていないが、大きなうねりが寄せている。
無数に停泊している廻船の裸の帆柱がゆっくりと上下左右に揺れだした。
十数人の水夫たちは舳先の五尺に集まって、互いに陸で待ちわびる女房や子供の話に花を咲かせているようだ。一ト月振りの江戸だから解らないでもないが、水夫は船から降りるまでが仕事だ。平治は野太い声で「勝手に仕事を切り上げて四方山話に耽っているンじゃないぜ」と叱り飛ばして、帆柱の根本に縛り付けていた帆を畳むように命じた。
この時期の海は石川島陰の船溜に停泊していても油断がならない。木枯らしが空で唸りを上げだすとたちまち海面が泡立ち、全長十五間の千石船でも木の葉のように翻弄されてしまう。平治は眉根を寄せて海鳥の動きを目で追った。
朝のうちこそ晴れ渡っていたが、昼過ぎから怪しい風が出た。いつの間にか空を鉛色の雲が忙しく流れ、身を切るような風が長半纏の裾を捲っている。見廻せば白く波頭が立ち、船の周りや沖を飛んでいた海鳥がいつの間にか鉄砲洲の磯辺に下りている。
平治は大股に艫へと向かった。昨夜停船した折りに舳先の四爪碇を下ろしているが、それだけでは心もとない。いったん時化ると海は情け容赦なく牙を剥く。いかに千石船といえども小山ほどの大波に翻弄されると艀も同然だ。百隻近い千石船が停泊している船溜で荒れ狂った波に揉まれるとどうなるか。船が大破し難破するのは浅瀬や岩礁に座礁するだけではない、船と船が衝突すればたちまち漏水が始まってあっという間に沈没する。
小走りに艫へ行くと平治は船尾の碇を持ち上げて海へ打ち込んだ。白く泡立つ海面に麻縄が大蛇のようにのたうって吸い込まれて行く。海に引き込まれる縄が止まると、平治は腰を落として麻縄を引き、両足を踏ん張ってしっかりと碇を利かせた。隣の菱垣廻船も前後の碇を打ち込んで夜半の時化に備えている。いや隣の廻船だけでなく、見渡せば方々の船から碇が投げ込まれていた。
「どうやら今夜はひと荒れ来そうだな」
塩辛声に振り向くと、舵身木に手を乗せて心配顔に空を見上げる船頭の姿があった。
「そのようで。ここ一刻ばかり風が強まりズンと冷たくなったぜ。昨日も午後に江戸湾へ入ってから随分と手古摺りましたがね」
そう応えながら、平治は打った碇の利き具合を確かめるように麻縄を引いた。
船頭は萬蔵という名の五十年配の男だ。廻船問屋銭形屋の数少ない生え抜きの船頭で、牛のように肩の肉が盛り上がった頑健そうな体つきをしている。海の荒くれ男たちを束ねる船頭はこうあるべきだと絵に描いたような男だった。
萬蔵は口元に笑みを浮かべた。片時も船のことが頭から離れない平治は根っからの船乗りだ。船頭が一々指図しなくても時に応じて水夫たちを指図して使いこなし、手際よく仕事をこなしていく。人一倍責任感が強く、他の水夫たちの面倒見も良い。
船頭なら水夫たちがすべてそうであって欲しいと願うが、世間はそんなに甘くない。たとえ陸で何があったにせよ、水夫たちの身元をいちいち詮索しない。海で悶着を起こさず一人前の船乗りとして働けばそれで良いのだ。
上機嫌な笑みを浮かべて近寄って来た萬蔵に、平治は問うような眼差しを向けた。船頭が水夫の機嫌を取るのは何か嫌なことを頼むときだ。たとえそうでなくとも、いい歳をした男が取って着けたような愛想笑いを浮かべる時は用心するに限る。
「江戸に着いたばかりで何だが、この荷を降ろしたら年内にもう一航海乗っちゃもらえないか。支度が整い次第すぐ船を出すようにと、帳場からせっつかれてるンだ」
艫垣の平治へ近寄りながら、萬蔵がぶっきらぼうに言った。
予期した通りの萬蔵の言葉に、平治は返答を言い淀んで視線を足元へ落とした。
師走までにもう一航海こなすのはやぶさかではない。萬蔵は追従や愛想を欠片も持ち合わせていないが、魁偉な容貌に似ず懐の深い人柄から水夫たちの信頼は厚かった。海の上で必要なのは優しい言葉や痒いところに手が届くような心遣ではない、船頭として確かな技量と水夫たちの命を守る豊富な経験と危険を避ける決断力だ。他に余程の理由がない限り、平治が萬蔵の船に乗るのに躊躇いはない。
平治が廻船問屋銭形屋の船に乗ってから足掛け十一年になる。当初は北前船の炊夫として乗ったが、一年も経たないうちに大柄な体躯と力の強さを買われて水夫に引き上げられた。五年前、新造された恵比寿丸の船頭萬蔵に誘われて北前船から廻船へ移った。そして去年の年明けから水夫頭を命じられている。
二十五にして水夫頭とは稀なほど早い出世だが、順風満帆な人生は良いことばかりではない。古参の水夫たちの嫌がらせは例をあげれば枚挙にいとまはないが、それだけではない。時節の巡り合わせというか、平治が水夫頭になった年からご政道が一変した。
難しい御政道のことはさっぱり分からないが、天保五年に就任した御老中水野忠邦の改革により株仲間が解散させられ商慣習が一変した。廻船問屋には天保十二年に株仲間の解散と直売買の勝手が申し渡された。運賃や商慣行の秩序が崩れて廻船問屋間の競争が激化したのはもちろんのこと、新参者が気儘勝手に港の仕来りを壊した。困った事態に陥ったが、より深刻なのは海難処理に当たっていた十組問屋までも解散させられたことだった。
十組問屋とは仕置場のことだ。廻船問屋の株仲間によって運営され、海難事故を双方の中立の立場から公正に裁く海難裁判所の役目を果たしていた。その仕置場がなくなったことにより航海中に起こった事故はすべて相対で済ますことになった。当然ながら船頭の責任は重くなり、目の色を変えて腕の良い水夫頭や水夫を引き抜くのは当たり前になった。
引き抜かれる水夫たちもどの船に乗っても同じ命懸けなら、少しでも給金の良い船へ乗り替えるのが人情だ。堰を切ったように水夫たちが船を移りだして、銭形屋でも子飼いの水夫は少なくなった。萬蔵が真っ先に平治に声をかけたのも技量の高い水夫頭を引き留めるためだった。
平治は瞬時に脳裏を駆け巡った思案を隠すように「いや、なにね」と困ったように笑って言葉を濁した。しかし萬蔵に二心があるのではと疑われたままでは平治の男が立たない。
「なにも他の船へ移ろうってことじゃねえンでさ」と、平治はきっぱりと言った。
平治の言葉は本心だ。恵比寿丸の船齢はまだ五年目に入ったばかりで、建造から十年が廃船の目安とされる千石船では決して古くない。船喰虫に食われて船板に穴が開いているというのでもなく、船腹の板の継ぎ目に打ち込んである麻紐もしっかりしている。舵や波除け板は潮に洗われ色褪せているものの危惧を抱かせるものではない。しいていえば平治が抱く懸念は千石船の構造そのものに対してだ。
別名弁財船と呼ばれる一枚帆船は操船と舵に難があるのは水夫なら誰もが知っている。大きな一枚帆を張るため重心が不安定だし、帆の推力を自在に操るために大きな舵を取り付けなければならない。しかしそうすると港の浅瀬などで海底に当たって破損する。そのためいつでも引き上げられるように数本の紐で吊るす構造にせざるを得ないが、今度は舵が不安定になり波を受けると意外なほど脆く壊れることになる。
だが致命的な欠陥は帆や舵などではなく、外国船と異なりキール(竜骨)を持たないことだ。恰も竹篭を水に浮かべたような構造はねじれに弱く、三角波を受ければ簡単に歪む。たちまち板の継ぎ目から噴水のように海水が湧き出て手の付けられない事態に陥る。しかも甲板に気密性がなく荒波をかぶれば海水が滝のように胴の間に流れ込む。いかに慣れた航路でも冬場の遠州灘や熊野・紀州灘を前にして千石船では二の足を踏まざるを得ない。時化てしまえば新造の千五百石船でもあっけなく海の藻屑になってしまうのだ。
「今夜は恵比寿丸に泊まらないのか」と、萬蔵は平治の身支度に目を遣った。
平治はいつも船の当直を買って出て、港に停泊してもむさ苦しいお仕着せに身を包んだままだった。海の魔物に取り憑かれているというのではないだろうが、なぜか何処の港でも滅多に陸へ上がらなかった。ことに江戸では頑ななほど船から降りることはなかった。が、この度ばかりは違うようだ。平治は陸へ上がる身支度に身を包んでいた。
「六つ下の妹からおいらに相談がある、と報せがあったものでして。どんな用かは知りませんが、これを汐に久し振りに深川へ顔を見に帰ってやろうかと思います」
平治は萬蔵を断る言い訳に勘繰られないかと、言葉を選びながら横目に萬蔵を見た。
銭形屋の持ち船が投錨すると、直ちに番頭と手代が鉄砲洲から艀に乗ってやって来る。その際に身寄りの者が水夫たち宛の文や荷を銭形屋に託けたものを届けることになっている。昨夕に恵比寿丸が投錨すると艀に銭形屋の番頭と手代がやって来て、店で預かっている品々を各人に手渡した。その中に珍しく、平治に宛てた妹からの文があった。
怪訝な面持ちで巻紙を広げると『ご相談したき儀これあり。江戸に寄港された折りにはぜひぜひお越し下され。海辺大工町嘉兵衛店 おすみ』と女手で簡潔に書かれていた。
空を見上げて指を折るまでもなく、おすみも既に年増と呼ばれる齢になっている。佐賀町の船宿藤屋に住込みで働いているはずだが、末尾に「嘉兵衛店」とあった。するとおすみは海辺大工町の長屋に居を移したのだろうか。文を託けたおすみの身の上に何かあったのだろうか、と不吉な予感が平治の脳裏を過ぎった。
「そうか。それじゃ今夜は陸に泊まるのか。お前の会おうってのが妹さんであろうと馴染みの女であろうと、おいらには何の関わりもねえことだが」
萬蔵は仕方ないとばかりに、きっぱりとした口吻で言った。
萬蔵の言葉とは裏腹の心情が分からないでもないが、平治は「へい、ちょいと。今夜は陸に上がろうかと。おそらく碌でもない野暮用でしょうが、今夜妹と会って話を聞いてみようかと。」と、済まなさそうに盆の窪に手をやった。
「そうだな、平治も嫁をもらって餓鬼の二、三人いてもいい年だ。陸でせいぜい凍えるような江戸の夜を女の柔肌に温めてもらえ。だが今年最後の船にだけは乗ってくれろ」
萬蔵は繰り返し念押ししたが、それにも平治は曖昧に首を横に振った。
「ちょっと、返事は明日の朝まで待っちゃ貰えねえですか」
平治がそう言うと、萬蔵は「そうか」と寂しそうな眼をした。
「今夜の泊りはともかく、冬の海は半端な野郎と組んだら命取りだ。おいらが水夫頭と恃むのはお前しかいねえ。当てにして待ってるぜ」
萬蔵が未練がましくそう言うのに、平治は「へい」と腰を折って前甲板へ向かった。
帆柱の筒挟みの周りに水夫たちが集まっていた。声を掛け合って昨夜帆柱の横木に仮止めにしていた帆を甲板に降ろして畳んでいる。二日程度の停泊で雨や嵐が来なければそのまま仮留めにしていても良いのだが、雨に降られて水を含むとそれでなくても重い一枚帆がそれこそ扱いに往生することになる。しかも嵐に吹かれて仮留の帆が風を孕むと思わぬ事態になりかねない。さっそく平治も水夫たちの間にまじって九間に十間と広い帆を畳みにかかった。平治が加わると大勢の水夫たちも息を合わせて動き出し、帆の端を持ち寄り手際良くほどなく畳み終えた。
水夫たちは再び銭形屋の印長半纏を脱いで、先ほど着ていた一張羅に着替えた。いつ荷改めが済んで下船を許されても良いように仕度して甲板に集まり、手摺に縋り手を翳して鉄砲州を眺めた。
彼らは船番所の桟橋から御用船が恵比寿丸へと漕ぎ出して来るのをいまか今かと待ちわびている。それは御定法で船番所の役人の検分が済むまで、水夫たちも船に留め置かれるからだ。抜け荷の証拠が上がれば水夫たちも全員船番所へしょっ引かれる。だから荷改めを終えた船役人の許しが出なければ目と鼻の先に見える町へ繰り出すことは出来ない。ただ廻船問屋銭形屋の決まりがあって役人の検分が終わっても下船を許さず、船主と荷主の相対改めが終わるまで全員が下船を待たなければならなかった。
ただ師走に入って廻船が各地から陸続と江戸へ入ってくるため、船番所も多忙を極めているのだろう、役人を乗せた船はなかなか恵比寿丸へ舳先を向けなかった。ようやく八ツ下がりになって、鉄砲州の船番所から定紋入りの高張り提灯を舳先に立てた二挺櫓の御用船が波に揉まれながら恵比寿丸へ向かって来た。やっと順番が回ってきて積荷改めが始まるようだ。それが証拠に、御用船の後を追うように一隻の艀が追走して来る。四人の人影は銭形屋の番頭と手代と、あとの二人は新堀町酒問屋伏見屋の番頭と手代たちだろう。
役人の検分は抜荷と御禁制の品を取締るため、はすべての荷の菰を開けて改めなければならないのが建前だ。そうすると一日では終わらないはずだが、実際にはそれほど手間取らない。いつの時代でも役人の目当ては袖の下だ。恵比寿丸は船倉から甲板まで灘の下り酒を詰めた四斗樽を満載して来ている。そのうちの一樽を手土産として御用船に下ろしてやれば、船番所役人たちは御用を手早く済ませてさっさと引き揚げる。
この度も甲板の轆轤を使って用意していた四斗樽を一つほど御用船に下した。すると役人たちは「怪しき積み荷はないな」と番頭と船頭に問い質しただけでそそくさと下船した。
だが難関はこれからだ。役人の荷改めは形通りだが、荷主の荷改めはそうは問屋が卸さない。銭型屋と伏見屋双方の番頭と船頭が立ち会いの上一樽ずつ確かめる。そのためすべてを改め終わるのに一刻以上はかかる。
それというのも以前、風待ちに立ち寄った港で遊ぶ銭欲しさに何人かの水夫が積荷の酒を売り飛ばして、代りに水を詰めた樽で数を合わせたことがあったからだ。水夫たちの中には少しでも気を抜くと、そうした事をやりかねない者はざらにいる。板子一枚下は地獄の渡世を渡る荒くれ者たちばかりだ。
水夫たちは着替えなどの入った風呂敷きを手にして、一様に無邪気な笑みを浮かべている。積荷改の立ち会いが済めば一航海分の給金を受取って艀で鉄砲州の船着場へ送られ、そこで水夫としての勤めを解かれるのだ。
七ツ過ぎに伏見屋の立ち会い検分も済み、船頭の萬蔵が肩の荷を下ろした笑みを浮かべてやって来た。紙に包んだ給金を手渡しながら、
「ところで、今夜は銭型屋の定宿に泊まるのか。なんなら一杯付き合っちゃくれねえか」
と聞いて、萬像は平治の顔を覗き込んだ。
平治はわずかに双眸を曇らせて首を横に振った。萬蔵のいう宿とは銭形屋が船頭たちのために常に何部屋か取っている船松町渡場の旅籠佐野屋だ。上方から江戸へ仕事で来た商人が定宿としている旅籠でもあって、誰が泊まっても身元をくだくだと詮索されない気安さがあった。独り者の萬蔵は江戸に帰るといつも佐野屋に泊まっていた。
「いえ、深川は佐賀町の船宿藤屋に泊まるつもりで。妹がそこで世話になってるもので」
と、平治は「妹だ」とはっきりと言ったが、萬蔵は目元に妙な笑みを浮かべた。
船宿に泊まる,と言ったのが萬蔵に無用の気を回させたのかも知れない。世間では船宿のことを曖昧屋とか売笑屋といって、岡場所まがいのものも少なくなかった。藤屋はさすがに女までは置いてなかったが、男と女が逢い引きに使う曖昧屋といわれればそれまでだ。
実際に大川端の船宿はどこも人知れず出入りできるように、宿の尻を大川に向けて裏玄関を造り船着場を持っている。しかし重ねて「そうじゃねえンで、妹と会うだけでさ」と念押しするのも野暮な気がして、平治は顔を覗き込む萬蔵に曖昧に頷いた。
平治は深川の海辺大工町に生まれた。小名木川が大川へ注ぐ河口近く、小名木川南河岸の土手に貼り着いたような細長い町だ。江戸初期に浅瀬が埋め立てられて深川が造成された頃には海が近く船大工が多く暮らして町の名がついたようだが、平治が育った天保年間には江戸湾の埋め立てが進んで海は遥か彼方へ退き、船大工どころか船の建造小屋すら見掛けなかった。その代わりに大工や左官が多く暮らして、海辺大工町の名残を留めていた。
平治の父親も大工だった。腕の良い大工だったと聞かされたことがある。が、平治が七つの折りに建前の足場が崩れて死んだため、平治は父親の顔を余り憶えていない。ただ朧気に四角張った面立ちと、頬擦りをされると強い髭が痛かったのを朧げに覚えている。何かの折に寂しく思うこともあるが、それでも生まれたばかりの乳飲み子だったおすみに比べれば父親の記憶があるだけまだましだった。
だが父親を亡くした途端に暮らしは一変した。二人の幼子を抱えた母親に世間の風は冷たく、哀しみに浸っている暇はなかった。
初七日を済ますと海辺大工町の割長屋を立ち退き、母はおすみを背負い平治の手を引いて幼馴染のお重を頼って仙台堀河口へ住まいを移した。お重は母と同じ汐見町の近くに暮らす同じ年の仲良しだった。物心のついた頃から何をするのも二人一緒で、手習指南所などへも二人して通ったものだ。それが十二を過ぎた頃からお重は三味線などの稽古事に通いだし、母もその齢から裁縫の師匠の家へ上がるようになって、二人は滅多に会わなくなった。そして母は裁縫を覚えてから独り立ちし、門前仲町黒江町界隈の呉服屋から頼まれて針仕事に精出した。
十六の時、母はお使いに町内の煮売屋へ出掛けた折に近所の作事場に助っ人で来ていた五歳年上の大工に見初められて、海辺大工町の大工の許へ嫁いだ。お重は十五の齢に門前仲町の料理茶屋へ仲居奉公に上がり、二年後にそこで業者の寄り合いに来ていた船宿藤屋の主人徳右衛門に見初められて、父娘ほども年の離れた船宿の後妻に納まった。
それぞれが所帯を持ってから、母とお重は忙しさにかまけて何年も行き来はなかったようだ。ただ風の便りで同じ深川で暮らしていることは知っていた。それが父の葬儀にお重が列席し「お栄ちゃん、ウチで働かないか」と誘われて、母はお重を頼ることに決めた。
お重は子を産んだことのない張りのある市松人形の童女のような丸顔の女だった。だが物腰は顔に似合わずいかにも女将然としていて、六人の使用人をてきぱきと差配し十室ほどの客部屋のある船宿を切り盛りしていた。平治たち母子三人はお重の計らいで藤屋の裏手、大川端のいまにも川に落ちそうな石組み土手の上に建つ物置小屋に置いてもらった。それは櫓や棹の置いてある文字通りの船宿の物置小屋だった。板囲いの壁からは冬になると隙間風が容赦なく吹き込み、寂しく行灯の火が揺れた。それでも雨露を凌げて、なんとか母子三人肩を寄せ合うようにして暮らすことができた。お栄は船宿の仲居として朝から晩まで一心に働き母子三人の暮らしを支えた。
四十前で藤屋を継いだ徳右衛門は十五年連れ添った先妻を子宝に恵まれなかったとして離縁した。しかし後妻に娶った若いお重との間にも子が授からなかったため、さすがに自分に種がないと観念するしかなかったようだ。そうすると今度は箍が外れたように徳右衛門は家を空けて女遊びに呆けるようになった。お栄が子供たちと藤屋に身を寄せた頃には藤屋で滅多に顔を合わせることはなかった。
藤屋に身を寄せて五年、十一になると平治は亡父の同僚だった棟梁の許へ見習奉公に上がった。海辺大工町の作業場では兄弟子たちから怒鳴られ小突かれる毎日だったが、平治は歯を食い縛ってしごきに耐えた。気持ちがくじけそうになると、髪飾りの一つとして碌に挿したことのない母を思い浮かべ、幼い妹の面影を涙に浮かべた。一日も早く一人前になり、家族を養い母に楽をさせたいとの一念で頑張り通した。
しかし、平治がまだ見習奉公を終えない内に、母は風邪をこじらせてあっけなく亡くなった。その日の記憶は鮮明に残っている。報せがあったのは平治が十五の春まだ早い日の、寒の戻りで牡丹雪の舞う夕暮れだった。親方の許から飛んで帰ると、母は物置小屋の煎餅布団で冷たくなっていた。苦労の切れ間のなかった余りに短い三十年余の母の生涯に胸を掻き毟られた。かつて暮らした小屋を改めて見ると、驚くほど粗末で狭かった。そして母も思いのほか小柄で華奢だったことに胸が詰まり、不憫で涙が止まらなかった。背を丸めて母の亡骸を見つめる平治は身の丈五尺七寸の大柄な男になっていた。
しかし母の死を哀しんでばかりはいられない。平治は見習奉公をやめて船に乗ることにした。生前母親から「ウチは「安宅」という屋号の由緒ある船大工の末裔だよ。今でも海辺大工町には同じ屋号を持つ大工がいるが、そうした人たちも元をたどれば同じ一族だ」と、大工へ見習い奉公に出る前の晩に働く心構えと一緒に教えてくれた。だからお前の正式な名乗りは「安宅平治」で、三代将軍の御時世に伊豆から深川へ移り住んだ一族だと語って聞かせた。それは棟梁の許に住込みで大工見習修行へ行く息子に、誇りを持って修行に励むようにとのはなむけだった。
だが、平治は母親の死を境に大工修行を辞めた。他でもない、おすみを藤屋で養ってもらう金が入用だったからだ。見習奉公では懸命に働いても給金を頂戴することはできないが、水夫ならたとえ見習の飯炊き・雑用の「炊夫」でも一航海が済むと幾ばくかの給金を頂戴出来る。船乗りが板子一枚下は地獄の命懸けなら、建前などでは大工も命懸だ。それなら幾許かでも稼げる方が良い。平時には藤屋で預かってもらっている妹の口養いの代金を稼ぐ必要があった。
平治は藤屋の旦那徳右衛門の口利きで炊夫として銭形屋の廻船に乗ることになった。身元請人には徳右衛門がなってくれた。それで妹の食い扶持を平治が給金から払うことで、これまでと変わりなく藤屋に置いてもらうことを了承してもらった。
いまもおすみは藤屋で仲居として働いているはずだ。それが気にならないでもなかった。既にあれから十一年もたっている。女としては娘盛りを過ぎていつの間にか二十歳を過ぎて薹が立ってしまった。
「儂は定宿の佐野屋に泊まってるぜ。色良い返事を待っているからな」
そう言うと、萬蔵は平治の傍を離れた。
平治は給金を懐にねじ込み、酒樽を満載した艀の舷側へ身軽に飛び移った。
黒刺子半纏の白波裾模様が荒波に負けず大波のように捲れ上がる。
氷のような風が空で唸り、波の飛沫が舷側板の上に立つ平治の素足を濡らす。
四斗樽を満載した艀は喫水を深く沈めて、二丁櫓に拘らず船足遅く越前堀へと向かった。
進路のかなたに見える鉄砲州明石町の角の、浪除稲荷の無数の朱幟が空っ風に千切れるほどはためいている。凍えるような冷たい風をまともに受けながらも、平治は酒樽を艀に繋ぎ止めている縄を掴み、舷側に立って近づく江戸の家並を懐かしそうに眺めた。
艀はまっすぐに浪除稲荷を目指して磯へと近づき、すぐ脇の高橋の下をくぐるとそのまま酒問屋の並ぶ堀割へと入った。掘割を中ほどまで進み新堀町の船着場に横付けされる寸前に、平治は舷側から船着場へ飛び降りた。
河岸道に上がるまでもなく、町には新酒の匂いがほんのりと漂っていた。堀割に沿った片側町には金看板を上げた酒問屋が建ち並んでいる。酒問屋のお仕着せを着た小僧や手代たちが忙しそうに働き、轍を刻んで酒樽を積んだ大八車が行き交う。年の瀬を迎えて町は活気に満ちていた。
久し振りの地面の感触を雪駄の裏に感じつつ、平治は親指で大地を踏み締めるように大股で歩き出した。元来が大工の倅だ。肩幅の広いがっしりとした体躯に上背もある。その上浮世絵の大首絵ような大造りの容貌をしている。縞の目も分からないほど着古した藍江戸縞の袷の上に、銭形屋のお仕着せの刺子長半纏を着込み素足に雪駄を履いている。潮風にさらされた身体と刺子長半纏からは染み付いた潮の匂いがする。両手に荷物は何も持たず、五分に伸びた月代に角張った顔は髭面だ。水夫頭というよりも島帰りの咎人というにふさわしい容貌だった。平治が河岸道を大股に行けば荷下ろしをしている荒くれの沖仲仕でさえ道をあけた。
平治は新堀町の河岸道を東へ向かい、掘割に架かる豊海橋を渡った。すぐ目の前に御船蔵があり、橋を渡った左手に船番所があった。道を挟んで船番所の向かいには高尾稲荷があり、その間を通ると急に視野が開けて大川の流れと反り上がった雄大な橋が目に入った。百二十八間もの長大さを誇る永代橋だ。平治は立ち止まることもなく、人の流れに押し流されるようにして橋へと向かった。
橋袂には大笊が置かれ、橋を渡る町人はその中に一人が二文を投げ入れる決まりだ。五十年近く前に富ヶ岡八幡の祭礼の人出で老朽化していた橋が落ちて千人もの大勢の死者を出したことがあった。それ以来、町人が橋を渡る折に銭を支払い町普請としてそれを橋の補修と架け替えの費えに当てた。平治は決まりに従って二文を笊に投げ入れ、橋守の前を通って橋板に雪駄を響かせた。せり上がるような橋板の両側には大川河口の景色が広がり、まるで海を渡る一本道のようだった。
橋の半ばまで来ると平治は立ち止まった。欄干に両手を置いて江戸湾を広く見渡した。昼間なら「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と謳われたほどの景色が見渡せる。しかし夜の帳が迫った夕景色にそれほどの眺めは望めなかった。わずかに吹雪を予感させる茜色に染まった大川河口の凄まじい景色に見とれた。鉛色の雲に覆われた西の空がわずかな残照に浮かび上がり、江戸の海に茜色のきらめきを映していた。
間もなく風は強くなり波頭が砕けて海は泡立ち、狂暴な白い牙を剥くだろう。それに備えて萬蔵は銭形屋の使用人たちと恵比寿丸に留まっているのだろうか。そう思いつつ平治は石川島周辺の船を眺めたが、どれが恵比寿丸かは分からなかった。眉根を寄せて数呼吸のあいだ海を眺めてから、平治は最後に溜め息を一つだけ吐いて欄干を離れた。
永代橋を渡って歩み出す土地は平治が生まれ育った深川だ。町には堀割が縦横に走り、いつも汐と木の香が漂っている。錆色に染まった町並を見ながら橋詰の坂道を下った。家路を急ぐ人影も疎らになり、すぐ右手の深川名物の団子を売る橋詰めの佐原屋も大戸を下ろして静かな佇まいを見せている。遠く夕暮れに霞む富岡八幡宮の伽藍周辺には葉を落とした裸の欅の大木や銀杏がこんもりと茂り、門前仲通りに沿って瓦屋根が整然と並んでいる。悲しいまでに淋しい冬の夕景色が平治の心に暗く深い寂寥感をもたらした。
平治は坂道を下り大川端の大通に差し掛かると江戸湾を背にして北へ向かった。その先は米蔵屋敷の建ち並ぶ佐賀町だ。陽が落ちると人影はばったりと絶え、平治の刻む雪駄の足音だけが海鼠壁に大きく響いた。油堀下ノ橋袂で連なっていた海鼠壁が途切れると河岸に貼りつくような町家の一角があり、一膳飯屋や居酒屋の軒行灯がともっていた。誘われるように平治は「お多福」と屋号の入った掛行灯の燈る一膳飯屋の前で足を止めた。そして縄暖簾を掻き分けて腰高油障子を開けた。
店の中は混み合っていて暖かく、浅利を炊く醤油と飯と味噌汁の匂いがないまぜに溢れていた。六坪ばかりの土間には二筋の飯台が置かれ、その周りに空樽が並べられていた。十数人も入れば立錐の余地もない店土間に客の入りは八分といったほどだ。深川は木場によって成り立つ町のためか、印半纏を着た職人や人足が大きな顔をして巾を利かしている。この一膳飯屋でも男たちは丼を抱えて必死の形相で飯を掻き込みつつ荒々しい言葉をやり取りして、まるで喧嘩でもしているようだが顔を見れば誰もが満足そうな顔をしていた。
平治は後ろ手に障子を閉めると、空樽を探すように入り小口に立ったまま狭い店土間を見渡した。ちょうど書き入れ時なのだろう、三筋ある飯台は印半天を着た人足や職人たちが取り付いていた。やっと八間の下に空樽を見つけ、背中合わせに飯を掻き込んでいる職人たちの間を掻き分けた。
「おう、貧乏漁師でも入って来やがったか、やけに生臭いぜ」
不意に呂律の廻らない大声が湧きあがった。そこには川並人足の印半天を着た二十歳過ぎの若い角張った顔が侮蔑の色を浮かべて見上げていた。
平治の刺子長半纏は荒海で散々波をかぶっている。八間の明かりの下で目を凝らして見れば塩の結晶が太木綿の織目にきらきらと光っていることだろう。それが潮の香として臭うのだろうが、ここでは取り立てて騒ぐほどのことではない。上げ潮の折には深川中の掘割に海水が逆流して街中に潮の匂いが充満する。
着ている印半天から油堀筋組の川並人足と知れるが、油堀は大川河口に近く絶えず潮が入り込んで半分海水だ。平治は若い男の言葉を無視して背中合わせの空樽に腰を下ろした。
混雑した店土間を慣れた足取りで小女がやって来ると「あいよ」と目顔で聞いた。
その所作からすぐに飯にするのか、それとも飯の前に酒と肴が要るのか尋ねたようだ。
「飯だ。どっさりと大盛りで頼むぜ」
平治はぶっきらぼうにそう言って、傍らに立つ小柄な小女を見上げた。
年の頃は十四五か、四尺五寸ほどの上背に瓜実顔、整えていない毛虫のような眉と赤い頬が子供の名残を留めている。
小女はふたたび「あいよ」と言うなり屈み込み、「野暮天と騒ぎを起こさないでおくれよ」と平治の耳元で囁いた。何のことかと目顔で問うと、小女は背中合わせの男を流し目で指した。平治は曖昧な笑みを浮かべて小女に小さく頷いた。
もとより平治に悶着を起こすつもりはない。水夫頭と衿布に書かれた刺子長半纏にかけて身を慎まなければならない。しかも一膳飯屋で悶着を起こしている暇はない。これから藤屋に妹を訪ねなければならない身だ。
待つほどもなく小女が一膳飯を運んで来て、肩越しに盆ごと平治の目の前に置いた。
献立は浅利を醤油で煮立てて味をつけたものを丼飯の上に乗せ、その上から長葱を刻んだものを散らしていた盛り切り飯だ。それはいわずと知れた深川丼だ。その他に湯気の立つ赤出汁の入った椀と三切れの沢庵の載った香の小皿があった。
丼飯を抱え込んで一口頬張ると不意に前後の脈絡もなく涙ぐんだ。船宿裏の物置小屋の片隅で若い母と餓鬼の自分と幼い妹の親子三人が貧しい夕餉の膳を囲んでいる情景が目に浮かんだ。脳裏に去来した昔の記憶を払拭するように、飯を頬張り赤出汁で喉の奥に流し込んだ。しかし払いのけても払い退けても、深川で暮らした日々の記憶が次々と平治の脳裏に甦ってきた。どれもこれも物置小屋の暗く冷たい土間と足元を洗うような波音と、日暮れて泣く妹を慰めつつ母を待つ寂しくも哀しい思い出ばかりだ。
なぜだろうか、と平治は箸を休めた。母が亡くなった日に何の躊躇いもなく、なぜ船乗りになって深川の町を去ろうと決心したのだろうか。当時は已むに已まれない思いがあったはずだが、その決意が思い出せない。心の奥底に封印した記憶を平治は訝しく思った。
なぜだろうか、と沢庵を咀嚼していた動きを止めて八間の明かりを見上げた。しかし、そう問い掛ける自分をも強く拒絶する自分がいた。過ぎ去った遠い日々に拘っても仕方ないではないか、と諭す分別臭い自分がいた。所詮は船に乗るしかなかったのだ、と言い聞かす自分の声に頷いて残りの飯を掻き込んだ。平治は息もつかず一心不乱に胃の腑に流し込むと、やっと人心地ついたように一息ついた。そして板場との仕切りの暖簾の傍に立つ小女に向かって小さく右手を上げた。
「同じものをもう一膳、頼むぜ」
平治がそう言うと、小女は目を丸くした。
空の丼に入っていたのは大盛り飯だった。木場人足の集う一膳飯屋で大飯喰らいが珍しいわけではないが、大盛りを続けて二膳も頼むのは桁外れだ。
目を丸くしていた小女が俄に表情を曇らせて首を大きく横に振った。平治は背中合わせの男が体を捩じって侮蔑の眼差しを自分に向けている気配を察した。果たして、
「丼飯を二膳も食らうとは、よほど腹を空かした乞食野郎だぜ。銭を持っているか確かめてからでなきゃ女将に叱られるぜ、お夏ちゃん」と、男の甲高い声がした。
その男は店に入った折に見た限りでは二十半ばの年恰好だった。十五で元服するこの時代、二十歳過ぎれば一人前でお釣りがくる。しかし背中合わせの男はまだ大人としての分別すら持ち合わせていないようだ。呂律が廻らないほど酔って素面の男に喧嘩を売るとは籐四郎も甚だしい。無鉄砲もほどほどにしないと、深川では長生きできない。
少しでも世間並みの思慮があれば、平治の着ている刺子長半纏の衿文字から老舗廻船問屋銭形屋の水夫頭だと分かる。それが何を意味するのかが分からないようでは無知蒙昧の類だ。水夫頭には港々の盛り場で顔を売っている地回りたちでさえ喧嘩を売ってこない。
平治は男の疑念を解くべく、小女を手招きして懐に手を突っ込んだ。近寄って来た小女に平治は一朱銀を手渡した。それは一膳飯なら二十人前の代金に相当し、木場人足の日当なら三日分でお釣りが来る。
銀の小粒を小女の掌に乗せたのを見て、若い男は体を捻じ曲げた。
「おう、乞食野郎が何処でどうしたか、大金を持っていやがら。一膳飯の勘定に小粒銀を出すとは、飛んでもない世間知らずだぜ」
突然、若い男は平治の耳元で鼓膜が破れるほどの大声で叫んだ。
店に響き渡る大音声に、板場へ戻りかけた小女は慌てて振り返り、男の耳元に屈み込んで囁くように強い口吻で「お願いだから大声を出すのは止めて。お店で騒ぎを起こさないで」と嗜めた。すると男はさらに顔を朱に染め、腰を上げて何かを叫ぼうとした。が次の瞬間、浮かしかけた腰をクタクタと元の空樽へ戻して振り返った平治に倒れ掛かった。
「お若いの、どうしなすった。どうやら、急に酔いが廻ったようだぜ」
そう呟くと平治は男の体を反転させ、元の食台に突っ伏すように背中を軽く押した。
店にいた二十人ばかりの客は一瞬水を打ったように静まり返ったが、騒ぎが大きくならないと見て取ると、何事もなかったかのようにさざ波のような談笑が甦った。
平治は大盛の二膳目も瞬く間に掻き込むと、さっと一膳飯屋を後にした。四半刻もすれば男は突然の眠りから醒めるだろうが、彼と関わりあっている暇はない。
男の怒声に大仰に左回りに振り返ったのは半纏を広げて目隠しにするためで、袖から抜いた右手で男の鳩尾に神速の当身を見舞ったのに気付いた者は誰もいなかったようだ。
油堀に架かる下ノ橋を渡ると、仙台堀南河岸の船宿藤屋までは目と鼻の先だ。
残照もすっかり消えた暗い海鼠塀の大通りを平治は北へ向かった。風は一段と冷たくなり勢いを増し、空で獣のように唸りをあげて大通りを吹きぬけて刺子長半纏の裾を捲った。月明かりはなく海鼠塀と空との境がかろうじて見分けられるほどの暗さだが勝手知った道だ、確かな足取りで何処までも続く海鼠塀の大通を歩いた。
両側に連なっていた海鼠塀も仙台堀に突き当たる半町ばかり手前で途切れる。そこから掘割に到るまでの狭い一画には小料理屋や船宿が軒を寄せ合い、人が暮らす気配を感じさせる。人肌の温もりを掛け行灯の明かりに、ふと和むような笑みを浮かべた。
居酒屋の前を通って仙台堀に架かる上ノ橋まで来ると、平治は橋袂を左へ折れて大川へ突き出る河岸道に入った。藤屋の玄関は人目を避けるように大通から河岸道を三間ばかり入った川端にあった。船宿は密かに川から出入りできるようにそうした造りになっている。
ぼんやりと灯った掛行灯の明かりに『藤屋』と染め抜かれた暖簾が揺れていた。
平治は格子戸を開けて玄関に入り、低い声でおとないを入れた。ほどなく藍縞のお仕着の若い女中が奥から出てきた。が、手燭の明かりに平治を捉えて「ヒェッ」と短く悲鳴を上げた。凶状持ちと鉢合わせしたような恐怖に引き攣った顔をしていた。
怯えたように一歩二歩と後退る女中に向かって、平治は頬に笑みを浮かべた。
「いや、おいらはおすみの兄で平治という者だ」
静かにそう言うと、若い女中は後退っていた足を止めて土間に立つ平治を見詰めた。
女中の怪訝そうな視線に気付いて、平治は自分の身形を改めた。
海では荒木綿の仕事着を麻縄で縛り付けただけの身形で前を肌蹴ていても気にならないが、深川まで足を伸ばすつもりからやや改まって袷の上に刺子長半纏を着込み、幅細の黒紐できりりと締めてきた。自分では余所行きのまともな格好をしてきたつもりだが、若い女中には凶状持ちに間違われた。寄港する街々の笑女たちなら向こうから声をかけて来る身形も、江戸の町に暮らす者の目には奇怪と映ったのだろう。
若い女中はしげしげと平治を見ていたが、しばらくして険しい眼差しを消して微笑んだ。
おそらく平治の顔立ちにおすみの面影と似通ったものを見出したのだろう、何度か頷いてから「お前さんはおすみさんの、兄さんかえ」と乾いた声で念を押した。
「ああ、樽廻船に乗っているため何年も深川へは帰っていないが」
塩辛い声でそう言うと、平治は口をキッと結んで面を上げ、女中に顔面を見せた。
平治を見て得心したのか、女中は落ち着いた眼差しをして奥へ引っ込んだ。しばらくして出てくると、女中は平治を玄関からすぐ近い一階の大川に面した部屋へ案内した。
船宿は二階の角部屋を極上とした。船宿は専ら男と女が逢い引きする場所として使われるため、表通りから見えず景色の良い大川に面した二階の部屋を最上とした。平治が案内されたのは身内が訪ねて来た時などに使われる内所部屋の一つだった。いわば来客を通す客間というよりも、普段は余り使われない客間と呼ばれるものだった。おすみが藤屋でどんな扱いを受けてきたのかがなんとなく解った。
主人の徳右衛門は留守だった。案内した折に、女中が同業者の寄り合いへ行っていると教えてくれたが、それが本当かどうか疑わしい。昔から船宿の商売は女将のお重に任せっぱなしで、徳右衛門は何かと口実を作っては家を空けていた。若旦那と呼ばれていた二十歳前から女遊びをしていたようで、先代が亡くなり母親も他界すると商売に身を入れるどころか益々盛んになり、ついには二十年も連れ添った妻を石女として離縁し、二回り近くも年の離れたお重を後添えにしてからも、女癖の悪さはおさまらなかった。
平治の応対に出て来たのは女将のお重だった。
部屋に入ってくるなり「どっこいしょ」と声を出して長火鉢を前にして腰を下ろした。
亡くなった母と同じ年だから既に四十を一つか二つ出ているはずだ。しかし子を産んでいない肌には張りがあり白髪が混じっているものの丸髷にも艶があった。ただほっそりとしていた柳腰の面影はなく、年毎に肉が付くのかまるで四斗樽のような体になっていた。下膨れの童のようなお重の顔を平治は複雑な思いで見詰めた。
「平治、他のことでもないンだ。おすみのことだけどさ」
そう言って、お重は困ったように口を捻じ曲げた。
お重がいきなり妹の名を出したのに、平治は驚いて女将の眼を見た。
お重の顔は明らかに怒りに満ち、黙ったまま火箸で灰を掻き回した。怒ったときの癖なのか小刻みに首を振り、曲げた口元から大きく溜息を吐いた。
「さんざっぱら世話になっていながら、一月ばかり前に何の断りもなく藤屋を出ちまったンだよ。何でも南六間堀町は月見長屋で、男と暮らしてるってンだから驚くじゃないか」
――飛んだ恩知らずの尻軽女だよ、と平治に吊り上った眼差しを向けた。
思いも寄らないお重の言葉に、戸惑っていた平治の胸にも怒りの渦が逆巻いてきた。
「どうして、そういうことになっちまったンで」
飛んでもない不始末をしでかしたものだと、平治は眉根を寄せた。
何処の馬の骨だか知らないが、と憤怒の熱波が瞬時に体を突き抜けた。ただで措くものか、すぐにでも駆けつけて半殺しにしてやる、と腰を浮かしかけたが、おすみに限って理由もなくそんなことをするとも思えなかった。平治の知るおすみなら気心は良く知っているつもりだ。しかし考えてみれば、あれから随分と月日がたっている。子供ならまだしも、年増女になったおすみの気持ちは平治に窺い知れないものがあった。
「知らないよ、こっちが教えてもらいたいぐらいだ。その男ってのはウチにも出入りしてたケチな棒手振の魚屋だよ。名を一蔵とかいってたっけ」
吐き捨てるようにそう言って、お重は穢らわしいものでも見たような目付きをした。
平治は自分が辱められたように両耳が熱くなり、理由もなく羞恥と憤怒が頭の中で激しく煮え滾った。「畜生め」と低く呻いて、平治は熊手のような掌で長火鉢の縁をぐいと掴んだ。ついぞ見たことのない平治の形相に、お重は怖じ気づいて身を仰け反らせた。
「女将さん、すまねえ。このカタはきっちり付けさせてもらいやす」
頭を下げて絞るような声でそう言うと、平治は逃げるように部屋を後にした。
藤屋を飛び出てから怒りに任せて何処をどう歩いたか覚えていない。気がつくと南六間堀町の月見長屋の木戸口に立っていた。月見長屋と風流な名がついているが、実のところ家の中に座ったまま敗れた屋根から月見ができることからそう呼ばれているだけだ。花鳥風月とは無縁な界隈の者なら誰もが知っている貧乏長屋だった。
江戸は火事が多いため長屋でも瓦葺にするよう御達しが出ているが、月見長屋は安普請の檜皮葺だった。表店の割れ目のような三尺路地を入って、二筋の棟割長屋の共同広場の六尺路地へ出た。猫の額ほどの土地に二筋の棟割長屋が建っている。お世辞にも小奇麗な長屋と褒められた代物でなく、軒は傾き板壁も捲れて土壁が剥き出しになっていた。六尺路地の真ん中を走る溝板も腐り、酷い悪臭が鼻を突いた。
ここでおすみが魚を商う棒手振と暮らしているのか。まさか、と半信半疑な思いで右手の家々から順次油障子の文字を拾って廻った。奥まで行って鼻が曲がりそうな惣後架の前を横切って左手へ移ると、奥から二軒目に『一ぞう』と墨書された家があった。油障子を家の明かりがほんのりと橙色に染めていた。
大きく息を吸い込むと、平治は背筋を伸ばして眉根を寄せた。
「誰かいるか、邪魔するぜ」力強い声で低く呼び掛けると、中で人の動く気配がした。
「へい」と、若い男の声がしたのを機に、平治は油障子をさっと引き開けた。
三尺土間を挟んで、板座敷から土間の草履に足を下ろそうと屈んでいた男と顔が合った。
それほど大きな男ではなかった。五尺と三寸ばかりか。しかし、年端も行かないうちから力仕事をしてきたのだろう、頑丈そうな骨太の体付きをしていた。陽に灼けた容貌は荒波に削られた岩のように角張り、意志の強そうな目鼻立ちをしていた。やに下がった甘さはかけらも窺えなかった。浅黒く灼けた貌と削げた頬から歳は三十過ぎかと思ったが、間近に見れば膚の色艶から二十と五、六だ。自分とそれほど変わらない年恰好に、平治は理由のない妬みのようなものを感じた。
「お前さん」と、女が短く呼び掛けた。その切迫した様子に、男は驚いたように足を縮めて板の間の端に膝を折って畏まった。呼び掛けた声はおすみのものだった。
平治は男の顔から目を逸らして声のした右手へ目を遣った。改めて見渡すほどの家ではない。棟割長屋なら何処でも家の広さは九尺二間と決まっている。三尺土間と素通しの四畳半があるきり他には何もない。
おすみは夜具を隠した枕屏風を背に座り、戸惑いの表情を浮かべていた。へっついの焚口から洩れる火の明かりを頼りに繕いものにちくちくと針を動かしていたのか、膝の上には男物の仕事着が広げられていた。見回せば貧乏長屋の荒れ果てた外観からは思いも寄らないほど、部屋は小奇麗に片付けられていた。この師走の冷え込む季節にもかかわらず、部屋に手炙りの一つとして見当たらなかったが、懐かしいような暮らしの温もりがあった。おすみの前のへっついで羽釜がグツグツと泡を吹いて滾っていた。
「おすみ、これはどうしたことだ」
平治は目の前の男を無視して、端座しているおすみに問いかけた。
そして後ろ手に油障子を閉めると、平治は大股に一歩だけ男に歩み寄った。
ところがおすみはすぐに弁解がましく言い立てるでもなく、暗い部屋に明かりをともすためにへっついの火を付け木に移した。にわかに燃え上がった炎におすみの横顔が浮かび上がった。母に似たほっそりとした瓜実顔だった。細い眉が心なしか哀しそうにみえた。
「ひとこと返答したらどうだ。おいらはどうしたことだと訊いてるンだぜ」
堪りかねたように、平治は荒々しく声を張り上げた。
そして射るような眼差しで、平治はおすみを睨み付けた。しかし、おすみは火を入れた行灯の横で身動ぎもせず、両手を膝に重ねたまま平治に曇りのない双眸を向けていた。
「済まねえ、おいらが一緒に暮らそうと持ち掛けたンで」
一蔵がおすみを庇うように、平治との間に割って入った。
平治は視線を一蔵に移して睨み付けた。これまで傍らに座っている男に目も呉れずにいたが、目の前ににじり寄れば木偶の棒扱いはできない。二人の距離は一尺と離れていない。手を振り上げればたやすく横っ面を張れる間合いだ。喧嘩に手馴れた者なら即座に殴るか間をあけるか、瞬時に判断をしなければならない。
「なにお」と、平治は凄んだ。
新米の水夫なら縮み上がって竦む凄みかただった。それは「殴るぞ」と脅したに等しい。だが一蔵に動じた様子もなく、神妙な面持ちで座っていた。殴りたけりゃ殴られてやる、そうした男意気の伝わる潔さだった。良い根性をしてやがる、と平治は一蔵を見下ろした。
ゴツッと、やにわに平治は一蔵の横っ面に拳を見舞った。骨と骨が当たったような鈍い音がして、一蔵はたまらず横倒しになった。それなりに手加減したつもりだったが、殴った途端に後ろめたいものを感じた。
「なにすンだい」と金切り声をあげて、おすみが一蔵に駆け寄った。そして板座敷に横倒しになった一蔵を庇うように身を投げ出して覆い被さり、おすみは上目に平治を睨みつけた。ついぞ見たことのないおすみの激しい剣幕に平治は息を呑んだ。平治は二発目を見舞おうと振り上げようとしていた拳を途中で止めて静かに下ろした。
「イチさんはわっちを助けてくれたンだ」
そう言うおすみの声が涙を含んでいた。
不意に幼い頃の記憶が平治の脳裏に甦ってきた。それは六つ年下の妹と、大川の波が足元を洗うような物置小屋で、母が仕事を終えて戻って来るのを待っている情景だった。おすみはいつも泣いていた。平治も泣き出したい心細さを隠して、いたいけないおすみがしくしく泣くのをあやす心細くも切ない記憶が心に浮かんだ。記憶にある限り、いつもおすみは泣いていた。その頃の名残りか、おすみの素顔は泣き顔だった。
「お前をこの男が助けただって。そりゃあ、どういうことだ」
おすみに平治は問い掛けた。いくらか優しい声になっていた。
横座りに一蔵の顔を覗き込んで唇から流れ出た血を拭っていたおすみは平治を詰るような眼差しで見上げた。
「おじさんがわっちの寝床に入ってきて、わっちを手篭にしようとしたンだ」
吐き捨てるようにおすみは言った。平治は眉根を寄せておすみを見詰めた。
「なんだって、徳右衛門がお前を手篭めにしようとしただって」
絞るような呻き声をあげて拳を握り、平治は言葉を喪った。
――ああ、そうだったのか。
と、平治は何もかもが腑に落ちた。なぜ自分は頑是ない妹を残してまで深川を後にしたのか。なぜ滅多なことでは深川に帰ろうとしなかったのか、を。自然と足が遠のくのを怪訝に思っていたが『自然と』足が遠退いていたのではなかったのだ。光が差し込んだように、平治の心の封印が解き放たれた。すっぽりと抜け落ちていた記憶のすべてが甦った。
平治は怒りに満ちた眦を上げて、暗く煤けた屋根底の天井を見上げた。
思い出したくないばかりに深川を避けていたのだ、忌まわしくも悲しい記憶が甦った。
十五の歳に母の葬儀を終えてすぐに船に乗ったのは、あながち暮らしのためだけではなかった。平治は一刻でも早く母の悲しみが深く刻まれた深川から逃げ出したかったのだ。
その記憶は足元を洗うような大川の波が石組に打ち寄せる音と凍える寒さを伴った。
深々と冷え込む夜の出来事だった。足元で大川の波音がする物置小屋で、子供たちが眠った頃合いを見計らって闇のように薄汚い男が忍んできた。
寝ている平治のすぐ横で母は無言で抗らった。しばらくの間、闇の中で無言で争う気配がした後で、堪りかねたように「ここに置いてやってるンだ。良いだろう、なっ、なっ。いつまでいても良いンだから、なっ」と、粘りっこく囁く男の声がした。聞いたことのあるくぐもったその声は徳右衛門のものだった。荒い息遣いと異様な気配に目覚めた平治は闇の中で身を固くして、一刻も早く忌まわしい時が過ぎ去るのを願った。
しかし、徳右衛門が忍び込んできたのは一度だけではなかった。同じ脅し文句を囁きながら、夜の闇の中で徳右衛門は母を繰り返し陵辱した。そうしたことのあった翌朝、母は決まって目を赤く泣き腫らしていた。平治はまだほんの餓鬼だったが、徳右衛門が母にどんなに惨いことをしているのか朧げながら分かっていた。
「そうだったのか、」
と溜息とともに吐き出したが、平治は胸を締め付けられる苦しさに目を閉じた。
今にして思えば当時の母は二十と四、五だ。幼馴染の亭主に弄ばれながらも、幼い子供たちを育てるために耐えたのだろう。母の哀しみを平治は思った。
「妾になれば贅沢をさせてやると言い寄ったようで」
体を起こして座り直すと、一蔵がおすみに代わって応えた。
平治は目を丸くした。こんなことがあっても良いものだろうか、との衝撃が平治の体を稲妻のように走った。
「夜明け前に、寝床におじさんが入ってきたンだ。わっちは夢中でおじさんの手を振り解いて、裸足で暗い表に駆け出したンだ。おじさんも後を追って来たけど上ノ橋で深川猟師町の魚河岸へ行くイチさんに助けてもらったンだ」
おすみは涙を拭って目を伏せた。
「わっちにまで。もう、たくさん」そう言うと、おすみは小さくかぶりを振った。
平治は思わず息を呑んだ。
――ああ、おすみも知っていたのか。
母が陵辱される哀しみに、おすみも平治と同じように耐えていたのだ。
突如として平治の胸をやりきれない哀しみが満たした。そして、決して恵まれなかったおすみの半生を思った。生まれて間もなく父を亡くし、早くも九つの歳には母をも亡くした。生きるためとはいえ、平治はおすみを一人だけ藤屋に預けて船に乗った。そうしたことが一瞬のうちに脳裏を駆け巡り、平治の胸を痛いほどの悔恨が掻き毟った。
ふと我に返ると、ぐつぐついっていた羽釜が静かになり長屋までも静まり返っていた。
「おい、飯が焦げちゃいねえか」と、平治はへっついを指差した。
おすみは急いでへっついに飛びつき、蓋を取ると釜の淵を鍋掴で掴んで羽釜置きに下ろした。たちまち湯気が立ち上り、部屋中に飯の炊けた匂いが満ちた。それは一蔵とおすみの暮らしの匂いそのものだった。
二人は何年も前から夫婦として暮らしているようだった。とても一ト月前からだとは思えなかった。それで良いのだ、と平治は自分に大きく頷いた。
妹の名は父がつけたと母から聞かされている。どんな職人でも道具を大切にするが、大工にとって墨壷は格別だ。建前の図面引きから材木の刻みまで、すべては墨付けから始まる。そうした思いを込めて父は生まれた女の子に『すみ』と名づけたのだ。妹の名のいわれを誰かから聞かされたわけではないが、平治には父の気持ちが痛いほど分かっていた。それは平治にとってもかけがえのない妹であることに変りなかった。
おすみが年頃になるとともに兄としても放ってはおけず、幾度か藤屋に文を送って縁付かせるようによしなに頼んだ。妹がなかなか縁づかないのが平治はいつも気掛かりだった。器量は十人並みで飛びっきりの美人とはいえないが、おすみの辛抱強い芯の固さを窺わせる地蔵眉と切れ長の目は母親譲りだった。しかしどういうわけか、ついぞおすみに縁談話は持ち上がらなかった。なぜかと訝しく思うこともあったが、その謎がいま解けた。これまでに幾度が持ち込まれたであろうおすみの縁談を徳右衛門が握り潰していたのだ。
「お前、一蔵といったな。おすみを幸せにしてやってくれ、頼んだぜ」
そう言うと、平治は油障子を開けた。
身を切るような風が舞い込み、降りだした横殴りの雪が平治の頬を打った。
平治は背を屈めて足早に大川河岸へと急いだ。
辻を西へとって新大橋詰めまで行き、そこから大川端の大通りを下った。
風が空で唸りを上げ、粉雪が激しく舞った。大川の対岸は浜町から箱崎にかけて武家地が続いているが、雪簾に閉ざされて辻番の軒行燈の明かりすら見えなかった。
平治は小名木川に架かる萬年橋を渡り、大股に大川端を下った。襟の擦り切れた刺子長半纏が風に捲くられ、音立てて裾がひるがえった。大きく見開かれた平治の目は異様に赤く涙ぐんでいるようだった。凍えるような風が遠慮なく襟首から体を吹き抜けたが、燃え上がる炎のような怒りに胸が張り裂けそうだった。きっちりとケリをつけてやる、と平治の両の拳は爪が掌に食い込むほど固く握り締められていた。
たとえ徳右衛門を叩き殺しても飽き足らないほどの怒りに全身が燃えて震えた。
藤屋の玄関先に立つと、平治は大きく息を吸い込んだ。
藍暖簾が忙しく腰高油障子を叩き、軒下の掛け行灯の火が絶え間なく揺れていた。
「おう、邪魔するぜ。おいらは平治だ。徳右衛門はいるか」
油障子を引き開けると、平治は廊下の奥に向かって声を張り上げた。
明かり障子を震わすほどの、水夫頭の威厳に満ちた声が藤屋に響き渡った。
「なんだ、大声で叫ばなくとも。ここは船の上じゃないンだよ」
弱々しい声がして、奥の襖がゆっくりと開いた。
そして小柄な人影が出てくると、櫓でも漕ぐように腰の辺りで手を振って、調子を取るように覚束ない足運びでやって来た。声は徳右衛門のもののようたが、廊下を近付いてきた人影は記憶の中の徳右衛門とは比べものにならないほど小さかった。
年を取るということは様々なものと別れることのようだ。羽目を外したどんちゃん騒ぎとも別れ、深酒とも別れ色欲とも別れ、逞しい肉体とも別れ親しい者とも別れ、そしてトドの詰まりはこの世とも別れる。
式台の行燈の明かりに映された老人を見て平治は息を呑んだ。船に乗った当初、水夫の何人かが「かさ」で苦しんでいるのを目にして驚いたことがあった。港々の遊郭で遊び過ぎるとああなのだ、と年取った水夫が身を慎むようにと諭してくれた。やがて顔が崩れ毒が体全体に回ると手足が利かなくなり、水夫として働けなくなって海に身投げするしかなくなる恐ろしい病だった。
徳右衛門の顔にも突起のような浮腫が全体にあって鼻筋は崩れていた。それは瘡毒(梅毒)に侵された者の特徴だ。それもかなり重篤な末期の症状を呈していた。
徳右衛門は外出から帰ったばかりなのか、他所行の茶縞の袷に焦茶の羽織を着て紺足袋を穿いていた。元々五尺余りだった小柄な体は更に小さくなり、すっかり薄くなった白髪を小さな銀杏髷に結っていた。記憶の中の徳右衛門と比べて思いがけず老け込んでいるのに愕然とするものがあった。自分なりに覚悟を固めて、肩を怒らせて来たものの肩から力が抜けた。年老いて様々なものと別れてきたはずだが、目の前の徳右衛門は瘡毒に侵されて人形の躯からも別れようとしている。
よたよたと上がり框の半間ばかり前まで来ると、徳右衛門は「こんな夜分に何の用だね」と縺れる舌で横柄な口を利いた。餓鬼の平治を顎で指図していた頃の癖が抜けないのか、徳右衛門の尊大な口吻は昔日のままだった。
ふと目を上げると、徳右衛門が出てきた部屋の明かりにお重の姿が浮かんでいた。お重は何が始まるのかと、敷居の陰から襖に片手を添えたまま徳右衛門と平治のやり取りを見守っているようだった。
平治は徳右衛門に哀れみを覚えていたが、横柄な物言いに昂然と顔を上げて睨みつけた。
「徳右衛門、お前にゃ反吐が出るぜ」
平治がそう叫ぶと、徳右衛門は惚けたように口を開けたまま小さな目を泳がせた。
徳右衛門が何か一言でも横柄な言を吐こうものなら、たちどころに三和土から式台に飛び上がって殴り掛かるつもりで腰を低くして身構えた。雪駄の鼻緒が千切れるほど足の指の股に食い込んだ。
「女将さんの前だが、今夜ばかりは言わせてもらうぜ。おすみだっていつまでも餓鬼じゃねえ。お前が好きにしようたってそうはいかねえンだ。誰だって歳月が到れば大人になって手前の足で歩き出す。金輪際、おすみに近づくンじゃねえぞ。母親が幼子を連れて世話になった頃のおいらはほんの餓鬼だったが、今じゃこの通り腕っ節じゃお前にゃ負けねえ。おすみと一蔵にちょっとでも手出しした日にゃ、おいらが承知しねえからそう思え」
平治が凛とした声を響かせると、お重が廊下に足音を立てて小走りにやってきた。
「お前さん、何をしたンだね。おすみに手出しをするなと平治が言ったけど、お前さん」
お重は激しい口調で徳右衛門に向かって叫んだ。
徳右衛門は平治とお重の顔を交互に見るように忙しく首を動かした。口の端から涎が落ちて白く光る糸を曳いた。
「なんという恥知らずな男だね、お前さんは」
そう言ってお重は何度も首を横に振った。
「世話になったな、徳右衛門。これできれいさっぱり、お別れだぜ」
平治が鬼のような形相で睨むと、徳右衛門はへたへたと廊下に座り込んだ。
わずかに顔を上げて徳右衛門は小刻みに体を震わせ、お重に何かを言いたそうに口をもぞもぞとさせた。その徳右衛門を責めるようにお重が襟首を掴んで振り回した。
「おすみに何をしたンだね、お前さん。幼馴染のお栄にお前さんが夜這いをかけているのを、わっちは石女の負い目から死んだ気になって黙って耐えたけど、今度という今度はそうはいかないよ。おすみを子宝に恵まれなかったわっちらの養女にしようと町役さんたちと相談していたンだ。行く行くはおすみに婿を取ってこの船宿を継いでもらおうと考えていたというに。そうしたわっちの苦労を台無しにしちまって、このかさジジイが」
甲高く叫ぶと、お重は箍が外れたように徳右衛門を打った。
人は老いるものだ。醜く老いるか威厳を保って老いるかは個々人のことだが、人はいつまでも権勢を誇ることはできない。年とともに肉体は若さを失い無理が利かなくなる。年を取るとは一町駆けてもなんでもなかったものが、十間も足早に歩くと脚が縺れるようになることだ。醜く老いた徳右衛門を目の前にして平治は肩から力が抜けた。もはや、この男は殴るに値しない。
「邪魔したな」投げ捨てるようにそう言うと、平治は腰高油障子を開けた。
徳右衛門は廊下の片隅で子亀のように小さくなってお重にぶたれ続けている。お重の怒り狂った金切声を背に聞きながら、平治は船宿を出た。
仙台掘りに打ち寄せる波が平治の足に飛沫を浴びせる。
大川から仙台川筋へ吹き荒ぶ北風に雪が交じって、横殴りに平治の頬を打った。頻りと石川島沖の恵比寿丸が気になった。
六尺幅の河岸道を橋袂まで戻ると、大通と交わる上ノ橋の袂に番傘をさして吹雪の中を寄り添う男女の人影があった。平治にはそれが一蔵とおすみだとすぐに分かった。
「この吹雪の夜中に夫婦が二人揃って何事だい」
平治は二人の許へ大股に歩み寄って声をかけた。
すると心配そうな眼差しで、おすみが問い掛けるように見詰めた。藤屋で平治が徳右衛門に乱暴を働いたのではないかとその眼差しが訊いていた。
「心配するねえ、なにもありゃあしねえよ」
おすみの眼差しに応えるようにそう言って、平治は微笑んで見せた。
おすみは黙って大きく頷いた。
「寒いから、早いとこ家へ帰りな」
平治は優しく言って、二人に頷いて見せた。
おすみは一蔵と目を合わせて頷くと「兄さん」と言った。風に声が流されて良く聞こえなかったかのように、平治は「なんだ」と優しく聞き返した。
「年が明けたら、イチさんと海辺大工町で魚屋を始めるンだ。間口二間の小さな借家だけど、表店だし松平出羽守様の入り小口で場所もいいからはやると思うンだ。兄さん、船を下りて手伝ってくれないかい」
風に負けないように、おすみは涙を含んだ声を励ました。
一蔵もそうして欲しいと言うかのように、何度も頷いていた。
平治は夫婦雛のような二人を黙ったまま見詰めた。二人の健気な心根に打たれて、鼻の奥がツンとした。刺子長半纏を着て海の男だと粋がっているが、ここ数年の間にも大荒れの波に揉まれて念仏を唱えたことは一度や二度のことではない。陸に上がって気立ての優しい女と所帯を持ち、地に足をつけた暮らしを送るのも悪くないかと思うこともある。しかし、と平治は首を横に振って一蔵を見詰めた。先刻殴った左頬が痣になって腫れていた。
「おいらをお前たちの助っ人に勘定してくれてありがとうよ。だがな、水夫頭のおいらを当てにしてくれる船頭もいるンだ。そう簡単に船を下りるわけにゃいかねえンだ」
平治は盆の窪に手をやって、申し訳なさそうに一蔵を見た。
「兄さん陸に上がって、」と言い募ろうとしたおすみを遮るように顔の前で手を広げた。
おすみが黙り込むと、平治は思い出したように右手を懐に入れた。
「銭は大丈夫か。商売を始めるには元手が入用なンだろう」
平治の懐にはもらったばかりの給金が入っている。
それを差し出そうとすると、おすみは平治の腕を押し止めて首を横に振った。
「いいの、兄さんから頂戴していた月々のお金には手をつけずに貯めていたンだ。それを費えの足しにして、借家の造作の手配も済ませてあるンだ」
微笑んだおすみの目元に涙が滲んでいた。
「そうかい。夫婦で力を併せて頑張るンだぜ」
そう言って、平治は大きく頷いて見せた。
おすみと二人して頑張ればなんとかなるだろう。辛抱して日銭稼ぎの棒手振から身を起こした一蔵なら、店を出しても地道にやって行くに違いない。平治は安堵の色を浮かべておすみに微笑んだ。
「それじゃ、おいらは行くぜ」と、湿った声で言った。
すると一蔵に促されるようにして、おすみが刺子長半纏にすがりついた。
「兄さん、わっちはいつも心配してるンだ。船乗りは「板子一枚下は地獄」だって。瓦版に船の遭難が載る度に、廻船問屋と船の名を確かめているンだよ。だから、」
と言い募るおすみに「心配するねえ」と、平治は怒ったように遮った。仕舞まで聞いていると平治の両の目から涙が溢れそうだった。なおも言葉をかけようとするおすみに、平治は頬に微笑を浮かべて首を横に振った。
「夫婦仲良く、達者で暮らせよ」そう言うと返事も待たずに、平治は踵を返した。
わずかに積もった雪を踏み拉いて、平治は大股に歩きだした。足を向けた先に永代橋がある。藤屋に泊まれなくなったからには少しばかり遅いが、船松町渡場の旅籠佐野屋に無理を承知で頼み込むしかない。平治は吹き付ける雪飛礫を避けるように懐から六尺紺手拭を取り出して口を覆い、首の後ろで交差させて両端を衣文の中へ差し込んだ。
一段と風が唸り、地吹雪のように粉雪が舞った。おすみは体を折って風に負けないように「兄さん」と声を限りに呼んだが、平治は二度と振り返らなかった。そしてものの十間と行かないうちに、刺子長半纏の大柄な後ろ姿は横殴りの吹雪の中に掻き消えた。 終
深川別れ雪 沖田 秀仁 @okihide
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