第26話SciFiを書いてみよう!

 これは「SciFiを書いてみよう!」(http://ncode.syosetu.com/n8482cw/) に基いています。そっちの方は消すかもしれません。


● はじめに

 最初に一言。軽いSFはどうでもいいです。

 私のものもちゃんとしているかはともかく、ちゃんとしたSciFiにしたいとは思って書いてます。そういうちゃんとしたSciFiを書こうという人の助けになればと思います。

 それと、SF(それが何だろうと)でもSciFiでも、とくにSciFiだが、書き始める前に、「今のSciFiとはどういうものであるのか」を知って欲しい。なろうの中心的読者は中高生だという(それが本当かどうかはしらない)。中高生は、SciFiにせよ他のジャンルにせよ、そのジャンルがどういうものなのかを知る感受性に溢れている時期である。その時期にライトなもので済ませているのは、一生の損だ。しかも、中高生や大学生は、そこそこのものから細かいものまで教科書を持っている。それを活用しないというのも損だ。

 もちろん、そこまでの損をしてかまわないというのなら、私からは何も伝えることはない。娯楽である読書に対して、わざわざ考えなければならないものを読むという苦労をしたり、教科書を開いて勉強するという労力を払いたくないという意見もあるだろう。それを擁護する意見もあるだろう。よろしい。猿であることを認め、受け入れるなら何も私からは言えない。あるいは、それこそが人間なのだと言うのなら、やはり何も私からは言えない。あなたと私は、あるいはあなたとSciFi読みは、人種が違うのだ。あなたがたは猿であり、SciFi読みは人間なのだ。こう言われてもかまわないのであれば、あなたは筋金入りの猿だ。私から言えることは何もない。

 だが、たしかに損だと思われるのなら、ぜひ損を取り返すつもりで、ちゃんとしたSciFiを読み、教科書を開いて欲しい。そこがSciFiへの手軽な入口だ。そして、入口でしかない。


 では、本論に入る前に、ひとまず「SFってなんなんだろう?」(http://ncode.syosetu.com/n0399co/)を読んでいただくとしましょう。あるいは、少し時間があるなぁという方は、「SFってなんなんだろう」のシリーズ(http://ncode.syosetu.com/s3421c/)を読んでいただくとしましょう。


 読みました?

 OK。では本編に行きましょう。


● 絶望とは何なのか


 SciFiにおいて、他のジャンルにおけるテーマに相当するものは絶望です。何が絶望なのか、なぜ絶望なのかを考えます。

 そこで、何でもいいですから、絶望っぽいものを思い浮かべてください。今、連載していたり、書いている最中の人はその作品の絶望でかまいません。あるいは既に書いたものの絶望でもかまいません。そういうものがない人は、ちょっと頑張って何か考えてください。


 何か思いつきましたか? では続けましょう。

 「こういうガジェットがもたらす絶望」というようなものを思いついた方。はい、さようなら。なおガジェットというのは小物、小道具だけでなく、社会システムも含みます。

 ですが、ちょっと手助けを。見る順番を変えてみましょう。「ある絶望がある。それはあるガジェットによってより明確になる」という見方が可能な場合もあります。ただし、のような見方の変更によって、いつでもそれがSciFiになるわけではありません。あるガジェットに基づいた冒険などを書くとしましょう。それは本質的にSciFiではなく、冒険や青春ものや恋愛ものです。そこをなんとか胡麻化せたとしても、そのガジェットがあることで描けるかもしれないいくつもの話が、いくつもの話ではなくたった一つになるかもしれません。500話書けるものを捨てて、25話でかまいませんか? かまわないなら、私は応援しましょう。相談とかも個人的に乗れるなら乗ります。


 あるいは「〜について」とか「〜という状況において」という感じのものを思いついた方。やっぱり、はい、さようなら。何が絶望なのでしょうか。あるいは先と同じく少し条件を緩めて、そういう状況においてより明確になる絶望とは何なのでしょうか。そこを見通してからお会いしましょう。もし見付けられたのなら、私は応援します。宇宙戦争、惑星間戦争、宇宙鉱山(小惑星とか)でどうこうとか、それは舞台や状況です。それらを出せばSciFiになると思っているなら、ちゃんとしたSciFiを最低でも十編程度は読んでください。それから、もう一度お会いしましょう。


 次に、「〜は〜である」という感じのものを思いついた方。たとえば「愛は大切である」とかなんとか。まぁ何でもいいですけど、ともかく「〜は〜である」という感じの方。SciFi以外であれば、それがいいのかもしれません。ですが、SciFiは違います。というのも、SciFiでは「SFってなんなんだろう? ――感動とSF――」(http://ncode.syosetu.com/n4170co/)に書いたように、SciFiとSciFi以外とは訴える所や考える所が違います。

 これは、この三つの中で、ある意味最悪の着想です。というのも、たとえば「愛は大切である」と思い付いたとして、それを別のものにする簡単な方法はあります。つまり「愛は大切であるだろうか?」とする方法です。さて、そこで問題。疑問にするのは簡単です。ですが、その疑問をあなたは受け入れられますか? まず受け入れられないでしょう。なぜなら、あなたはそういう価値観で生きているからです。


 では、SciFiにふさわしい絶望とはどういうものでしょうか。これは単純で「〜は〜なのだろうか?」というものです。とくに作中において「〜は〜である」となされることに対して「〜は〜なのだろうか?」と主人公や周辺が考えることです。あ、「〜は〜なのだろうか?」と言っても、「犯人はAさんなのだろうか?」とかいうのはなしです。もっと根源的な何か。普通だったら「〜は〜である」と言ってしまいそうな何か。そういうものです。

 上で、「〜は〜である」を疑問にするという方法を否定しています。ですが、それには条件がついていたことを思い出してください。「その疑問を受け入れられますか?」と書いておきました。受け入れられるなら、この方法を使わない手はありません。ただ一つ言うなら、繰り返しになりますが、逆に言えば「〜は〜である」と思っていること、あるいは思ってしまいそうなことがあったら、「〜は〜である」という価値観で生きている場合、それを疑問にすることは困難です。軽く言えば、それはただの習慣です。ですが、それは染み付いた習慣なのです。さらには社会においても、おそらくはそれを前提としたものになっています。それらに対しての疑問を持てるでしょうか。持てないなら、さようなら。SF(それが何であれ)でお気楽に、「SF(それが何であれ)だよん」と言っていればいいかと思います。


 書く順番がちょっと変則的になりますが、ついでに言えば、絶望自体は作品に決っしてそうであるとして**現われない**のが理想です。状況なんかの説明で描くことはあるでしょう。ですがそれを絶望であると書いたり、登場人物の言葉として絶望であると言わせてしまうのはいただけません。そういうことがあったら下の下です。本来なら、描写としてすら描かれないのが最良です。

 カズオ・イシグロがテーマについて言っていましたが、読み終ってから「あぁ、そうか」と気づくのがベストです。こちらの場合は絶望という言葉を使っていますが、それは同じです。


 また、SciFiにおいては絶望は葛藤ではありません。解決することはありません。作の結末は必要でしょう。ですが、それはただの結末であって、結論ではないことに注意しましょう。SciFiの絶望の一つは「〜は〜なのだろうか?」です。結論を出したら、実は絶望は「〜は〜である」、あるいは「〜は〜ではない」にすり替わってしまいます。絶望は、読者にとっては結論が出ないからこそ絶望であるとも言えます。結論が出たら、それがどういうものであれ評価や評論の対象になり、こじんまりと「この作はこれこれを述べたいものだ」という矮小化されてしまいます。

 結論が出ないからこそ頭に引っかかり続ける。SciFiにもSF(それが何であれ)にも、そういうことが必要なのです。

 もちろん、実際にはこれは一つの手法です。ですが、他の手法で引っかかりを残すのよりもやりやすい方法ではあるでしょう。



● 対立する要素を設定しょう


 SciFiで言うならキーとなる科学技術が一つだけでは多すぎるのです。科学技術を扱うのであれば、それに対抗する別の軸となる科学技術が最低でももう一つ必要です。あるいは科学技術ではない何かが、社会とかいろいろ、最低でももう一つ。

 そして、それは絶望についても言えます。むしろ絶望についての方がこの条件は厳しいでしょう。というのは、絶望に対するものが存在しなければ、何が絶望なのかすらわからなかったり、悲惨ではあっても絶望ではなくなったりするからです。

 絶望への対抗軸はいくつかありえます。幸せな方向、別の絶望の方向、同じ絶望の方向だけど程度が違う方向などなどです。ただ、ここで注意が必要なのは、「それだったら主人公の絶望はまだまし」と思わせてはいけないことです。幸せな方向の場合も、「それなら主人公の絶望よりはまだまし」と思わせてはいけません。幸せな方向であっても、それはそれでほんの少し見方を変えると絶望であらねばなりません。


 「一つ」で「多すぎる」のに、なぜ「二つ以上」必要なのでしょうか。「一つ」より「二つ以上」の方が普通は「多い」はずです。まぁこれについての説明については検索してもらえればわかると思います。でも感覚としてわかってもらえるかどうかについては自信がありません。実感しないと難しいかもなぁというところです。

 なぜ「一つ」ではいけないのでしょうか。その理由は簡単です。一つでは書けないからです。

 例えば、一つの社会では何かが当たり前だったとしたら、それは当たり前であるにすぎません。現実の現在と比べてどれほど異質であっても、それは物語内世界においては当たり前のこととしてしか書けません。当たり前のことが当たり前に進行するだけです。思い切って言ってしまうと、読み手が持っている世界とは隔絶したものであって、橋が渡っていません。橋がわたっていないと、理解できません。

 「橋を渡す」と言っても、現実の現在と直接橋を渡す必要はありません。むしろ、それをやったら野暮というものです。

 その「橋を渡す」ために、対立する軸が必要になります。対立するものに橋がわたっているからこそ、読み手の理解に対しても物語内世界から橋が渡ってくるのです。読み手の理解に対して渡って来る橋は不可視の、そして書かれていない橋です。

 また、対立する要素は当然主な絶望に関連するものですが、対立が絶望やテーマになってはだめです。そんなの野暮。あと、敵と味方とかもだめです。単純すぎます。ですが、対立や敵、味方という構図はわかりやすいものです。わかりやすいために、意識せずにそこに落ちてしまいます。意識的にそこを避けるか抜け出さないといけません。

 ですから、対立はわかりやすいだけでなく、わかりやすいために対立そのものがメインになってしまうこともあります。ですが、それは頂けません。対立は状況が動くために必要な要素です。ただそれだけの要素です。対立が絶望を取り囲んでいるようなものが望ましいです。未来の戦争とか、対立は簡単に思いつきます。ですが、それはSF(それが何であれ)だとしてもSciFiではありません。

 対立も、はっきりわかるのは頂けません。読み終わってから、「あぁ、その対立はそういうことだったのか」と気付くとか、「こういうことなのか、それともこういうことなのか」と考えるようになるのがベストです。


 また、対立を体現する登場人物についても注意が必要です。簡単に言えば、科学にもSciFiにも、善も悪も存在しません。マッドサイエンティストに、善の科学者が対抗するなんていうのは誰ももう使わないだろう対立です。というのも、これは成立しないからです。科学者は全員マッドサイエンティストだからです。マッドサイエンティストでない科学者がいたら、それはただの無能な猿です。

 科学者に対立する存在としては何があるかと言えば、「人間の敵は何か」に書いた猿人間です。普通のそのあたりの生活をよしとしている猿、「科学は何も生み出せない」に書いた、「生み出していると思っている側」の猿。それらが人間に対しての対立を受け持つ存在です。

 もし、ここで、「あなたが人間と言っているであろう天才など、書くに値しない。普通の人間の営みこそが重要なのだ」と思われたとしましょう。それは「作者は天才であらねばならない」に書いておいたことを読んでください。あるいは、なら「凡人の機械的反応」には描く価値があるのでしょうか。「凡人のグダグダなどうでもいい話」なんて書く価値があるでしょうか。どちらに書く価値があるのかと聞けば、「天才の苦悩」以外を選ぶ人なんていないでしょう。猿の機械的行動はその辺でいくらでも見れますから。たとえば鏡とか。

 なお、映画やTVドラマ、小説などなどで「凡人のグダグダこそ価値がある」と一生懸命洗脳しようとしています。洗脳されているみなさん、はやく洗脳から逃れましょう。あるいは「推理もの最高」という、えせ論理派のみなさん、みなさんは1nmも論理的ではありません。本物の猿の論理にも劣ります。その誤解と洗脳から早く逃れましょう。

 みなさんに必要なのは、SciFiとはどういうものかを知る以前の事柄です。まず人間に進化してください。話はすべてそれからです。



● モティーフを決めよう


 モティーフというのは何かというのの説明は面倒なので、それ自体は簡単に。

 モティーフというのは、作品を通じて繰り返し現われる状況、場面、表現、文言です。

 このモティーフも当然絶望や対立に関連したものになります。ですが、それらそのものと言えるようなものはできるだけ避けましょう。野暮というものです。ただし、対立とかと違って、いい文言があれば、それが絶望とかに直結しているかどうかよりも、その文言のよさを優先しましょう。もっとも、その「よさ」の判定が難しいことは言うまでもありません。基本としては絶望や対立そのものをモティーフにするのは下の下だと思ってください。ただし例外的に、いい文言であれば、むしろ使った方がいい場合があるということです。


 ここでちょっと注意が必要なことがあります。というのはモティーフとシンボルは違うということです。

 手近な例で書くと、「愚かしくも愛おしき」(http://ncode.syosetu.com/n1759cw/)の「5−4: 老夫婦」で現われる "T" はシンボルです。文字列の長さという話ではなく、シンボルはそれ自身の象徴です。この "T" は、まさに "T" 自身として、"T" であるにすぎません。老夫婦は一応説明していますが、それではあっても、この "T" は、まさに "T" 自身として、"T" であるにすぎません。まぁ、おそらくは伝播の過程でそうなっているでしょう。これがシンボルです。

 対してモティーフは、そこから連想させるものがあってもかまいません。というかあって欲しいです。その上で、作中に繰り返し現われるものです。


 さて、モティーフの効果ですが、直接的ではなく、イメージの喚起の期待ができるという点です。ある程度はシンボルでも可能ですが、モティーフの方がたぶん効果があります。

 というのも、作中でガンガン状況が変わっていきます。にもかかわらず、ある絶望や対立について書いている、あるいは一貫していることを示すのにはモティーフを用いるのが便利です。

 また、絶望や対立、あるいはテーマは表に出ないというか、そのものを書いてしまわないことがベストであるのに対し、モティーフは表に出しましょう。書きましょう。出ないとモティーフの意味がないというか、そもそもモティーフになりません。ただし、そのモティーフが何を意味しているのかを説明しないのがよろしい。それは読者が読み取るものだからです。読み手が書き手の意図を正確に読み取れるようにモティーフを用いるか、あるいは書き手はそこにあまり干渉しないかという選択肢もあります。


● 作者自身に科学とトンデモの知識を詰め込もう


 SciFiを書くには科学的な知識も必要ですが、トンデモの知識もあると便利です。

 たとえば、あるトンデモな知識をうまいこと科学的な知識で丸め込む、あるいはトンデモなものが成り立ち得る科学的な状況や設定を考える。そういう時にトンデモは便利です。

 ですが、いずれにしても知識の量が問題になります。多ければ多いにこしたことはありません。というか、多くないと話になりません。

 あるいは、こういう場合もあります:


  A−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   B−−−−−−−X

    C−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

         B’−−−−−−−−−


 これは、こう読んでください。まず「仮説A」があります。その後、その対象について仮説Bが出てきたとします。さらには仮説Cも。ところがある時点で仮説Bは否定され、その後その流れを汲んだか近い仮説B’が現れている。現状では、仮説A、 C、 B’のどれがより妥当なのかは決着がついていない状態と思ってください。

 あるいは仮説Bはトンデモだったが、装いを変えてB’として現われたというように読んでもかまいません。

 ともかく科学は一つの分野を見ても、理論が多層的だったりします。理由は、ある分野の中においても対象とする範囲の大きさだったりということもあれば、「まだどれが妥当なのかわからない」というような場合もあります。

 科学というものは「正しい理論が存在する」と思われているかもしれません。実際には、正しい理論は一つも存在しません。妥当であるのに一番近いだろう理論は存在しますが。

 あるいは、超弦理論ですが、なんで「超」とついているかというと、弦理論があって、その発展形だからです。おまけに弦理論は見捨てられてた理論でした。だから、科学を理解するには、「今、一番妥当とされている理論」なんてものを追っているだけでは不充分なのです。

 「SciFiは冒険ではない」に書きましたが、それだけの知識を一つの脳に收められるのかという疑問があるかもしれません。ですが、それは誤った疑問です。收まるかどうかではなく、收めなけれはならないだけの話なのです。


● 作品に知識や設定を大量にぶち込もう


 SciFiの醍醐味の一つは、膨大な背景にあります。直接は書かずとも「〜理論」と名前を出しただけで、読者はその理論の全て、あるいはほぼ全てを思い浮かべられるというようなものも含めて。しかも、その「〜理論」は古いものかもしれないし、別のSciFi作品に現われたものかもしれないし、新しいものかもしれないのです。

 読者を圧倒する知識、知識、知識! 読者が、「もう着いていけない」となるほどが理想です。それを超えるのが、SciFi読みに課せられた義務です。

 まぁ、それは9/10くらいの話として聞いておいてくれればいいですが。


 実際には、知識や設定を大量にぶち込むのは、ともかく状況を設定し、また状況を動かすためです。SciFiでは、状況を動かすことが重要です。チマチマした変化なら、むしろない方がいい。

 映画のカメラの視点に言えることらしいですが、30°以下の視点の移動なら、むしろない方がいいとのことです。

 SciFiでも同じようなことが言えます。チマチマした変化なら、むしろない方がいい。状況を動かし続ける。それも大胆に動かし続ける。それが重要です。

 言うなら、シノプシスと、各所で援用する知識のリスト、それだけで燃える/萌えるのがSciFi読みです。それだけで、完成された長編を思い描けるのがSciFi読みです。


● 理解を積極的に拒絶せよ


 「理解から逃げよ。疾く逃げよ」に書いたことではありますが。SciFiは定義できず、常にサブジャンルを開拓するものです。現われ続けるものを一々理解することも難しいですが、それだけでなく、逆に理解が困難なものが現われたら、それは新しい何かの芽生えかもしれません。SciFiでは、それゆえに理解できないものを重要視します。

 まぁ、それが正のフィードバックになって、「これが賞を取るとは、どういうことだろう」と思える作品が現われることもあります。今、思い出せるものとしては「逆転世界」とかそれに近いかもしれません。面白いけど、「なんだ、これ?」とも思います。



● SciFiは大局である


 神は細部に宿るとも言いますが、それは神を描けるようになってから言ってください。

 「作品に知識や設定を大量にぶち込もう」に書いたように、SciFiでは状況が大胆に動くことが重要です。

 状況が大胆に動いても、一つの作としてまとまっているとか、一貫しているとかというところは、あくまで大局を見て、大局を書いて、大局を読むからです。そしてその手助けとしてモティーフを使いましょう。絶望と対立はあからさまに書かない方がいいので、見えるように書くのに使えるのはモティーフになります。うまく使いましょう。

 大局を書きましょう大局を。個人がどうこうとか、そんなことはどうでもかまいません。

 惚れたはれただの、そんなのは類人猿を筆頭にほかの動物にまかせておけばよろしい。

 宇宙人とのものであったとしても、戦争や戦闘も同じ。類人猿を筆頭に群の間や群の中での闘争に任せておけばよろしい。

 生き残るために云々。OK、あなたは生きるために生きている。あるいはそれを重要と考えている。だが、それは他の動物に任せられる。あなたは不要だ。

 根源的な「〜は〜であるのか?」というテーマと絶望の元、ガンガン状況を動かし、その間をモティーフで繋ぐ。それでかまいません。


● 後出しは厳禁


 何の影響なんでしょうね。単純に考えれば推理ものの影響なのでしょうけど。そう単純な話かなぁという疑問もあります。実際、SF(それが何であれ)の一部には、「こんなこともあろうかと」とか普通にありましたし。それの源流も推理ものなのかと言われると、いや、どうなんだろうと思わないでもありません。まぁ、パルプ・フィクションで共存してたので、影響があったとしても不思議ではないのですが。

 ただ、思うには、「後出しは作家の性」と言ってしまう方がいいのかもしれません。

 ですが、SciFiにおいては、作品に知識や設定を大量にぶち込もうとは言っても、「後出しはなし」です。可能なら、冒頭で全てを書いてしまうのが望ましいです。引っかかり程度のものでもいいのでともかく、可能なら冒頭で全てを書いてしまう。そして後出しは厳禁。それがSciFiです。

 後出しはSciFiをただの塵芥にします。後出しや叙述トリックとかが好きなジャンルってありますよね。あれを思い描いて、「すげートリック」とか思うようだったら、根本的にSciFiには向いていません。SciFiに向いていないというよりも、そこには読者を馬鹿にする姿勢があるので、ものを書くのに向いていません。そういうのが喜ばれるジャンルもありますが、まったく御都合主義なものを指して論理的と言う、実に歪なジャンルです。そのようなジャンルについての知識は捨てましょう。いや、捨てるより他山の石とするために、ある程度の知識は必要です。ただし、そっちの価値観に飲み込まれないように。そっちは非論理性を論理性と呼ぶ、歪んだジャンルなのですから。


● 小説作法はむしろ邪魔


 小説作法がよく言われますが、それは無視しましょう。SciFiは全てへの挑戦です。可能なら、いわゆる文法にすら挑戦しましょう。

 たとえば、「〜である」とか書いたとして、その部分に打ち消し線や「×」を重ねたい。そういう表現でなければ、書きたいことが書けない。

 そういうところまでできば到達したいものです。


● 完結させよう


 これは大前提です。どういう形でもかまいません。ともかく完結させましょう。

 完結させないと、上に書いたような事柄を訓練することも、確認することもできません。

 構成にもよりますが、50話までを目途にしてみたらどうでしょう。それを超えるようなら、状況に変化なし、結末の想定なし、テーマなし、のんべんだらりんと書いている、あるいは書いている部分があると考えてみましょう。


● あとは他にまかせる


 上の「小説作法はむしろ邪魔」と矛盾するようですが、おそらくここで書いたこと以外のところは、いわゆる小説作法を参照するといいと思います。

 とは言っても、プロットや粗筋の作り方とかですね。そっちはそういう話を参考にしてみてください。


● まとめ


 では、まとめを試みてみます。


 SciFiは根源的な問いであり、それは絶望である。

 SciFiは圧倒的知識に基づく大風呂敷である。

 SciFiは怒涛の状況の変化である。


 ひとまず、こんなところで。

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