第22話読まれないのに嫌われている

 「ほとんどの人はSciFiを知らない」で、そもそもSciFiは読まれないと書きました。また、「世間におけるSFの扱い」では宣伝に「SF」と入るだけで映画の動員数が減ると書きました。これは奇妙なことに見えるかもしれません。つまり、読みも視聴もしないのに、なぜ読まれも視聴されもしない、少なくとも動員数が減るのでしょうか。

 仮説は二つあります。一つは、「一度は読んだりしたけど、好まなくなった」というもの。もう一つは「最初から好まない」というものです。このように二つを考えることができるだろうとは思いますが、この二つは実のところ区別する必要はありません。というのも一つめのものも「なぜすぐ好まれなくなるのか」という疑問に至り、二つめの「最初から好まない」と大差ない疑問に至るからです。

 「好まれない」ということ以外に、たとえばラノベにはSF(それが何であれ)に含まれるあろうものがあります。これはラノベに限った話でもなく、ジュヴナイルと呼ばれていた頃も、もっと前の時代も同じことが言えます。それらは間違いなく読まれています。にもかかわらず、そこからSciFiに流れる読者数は微々たるものです。

 どちらの場合にせよ、なぜなのでしょうか。理由は極めて単純なものです。「SciFiは頭を使うのが前提」だからです。頭を使うことほど、非人間的な事柄はありません。頭を使うということを本能的に察知し、それを避けることは極めて人間的なことです。

 「愛」とかなんとかはみなさん好きでしょう。生存や種の保存に繋がる事柄や行為に「愛」のような名前を着けて尊いものであるとするというのは理に叶っています。猿としての理ですが。

 あるいは「法律」や「契約」を作り出し、それを守ること、守られることも同じく生存あたりにおいて理に叶っています。猿としての理ですが。

 対して、SciFiと何がしかの関係する科学はどうでしょう。生存にも種の保存にもこれっぽっちも影響しません。まぁ、少なくとも「愛」とか「法律」とかに比べれば、何の影響もありません。ならば、そんなものには興味を持たないというのは、自然なことです。興味を持つ理由がありません。興味を持っても何の得もありません。勉強に時間を取られるとか、理解に時間がかかるとか、損だけはいくらでもありますが。

 「あの頃の明日はどうであっただろう」で、解析機関が法律を扱うというネタに触れています。これはネタではなく、情報系で実際に研究されている事柄です。1980年代くらいからやられていますが、まだいけるかどうかよくわからない分野です。人工知能の他の分野でもそうなのですが、「人間にとってあたりまえ」というものをどうやって人工知能に与えてやるかがわからないからです。ディープラーニングとかは知覚なんかには向いているのですが、他のことはまだどうしたものだかという状況だと思ってください。同じことが法律の処理にも言えます。

 G社の機械翻訳サービスがありますが、正直まだ恐くて使えないのには、そういう理由もあります。たまにG社の翻訳を使って会話したという話を聞きますが、「勇気あるなぁ」と思います。翻訳結果を確認してからでないと、その結果を見せて会話するのは恐くて、私にはできません。昔に比べれば、そりゃものすごく良くなってます。でもその分、見てすぐわかるミス以外のものが残っているわけです。エラーの割合で言えば、わかりやすいエラーが減った分、結果としてそういうエラーの割合が増えちゃってるようなものです。この傾向はまだずっと続くでしょうし、ますます割合としては増えるはずです。つまり、「ターゲットとなる外国語を知っていないと、機械翻訳は使えない」という逆説的な傾向に既に入っているわけです。

 それはともかく、さて、法律とかをやっている人もよく論理という言葉を使います。にもかかわらず、計算機がそこに乗り出そうとすると、結構な割合で反発します。おかしいですね。情報系の論理、とくに論理型言語あたりを援用したものであれば、数学的論理に法が支持されることになります。論理を口にするなら、大歓迎以外の何の反応がありえるでしょうか。大歓迎以外の根拠のようなものは、結局「人間の営みは崇高である」というものです。

 同じことは文芸の分析についても言えます。「計量言語学」、あるいは「計算言語学」は許せても、文芸の内容に入る分析を計算機が行なうのは許せないという人がいます。なぜなら、「人間の営みは崇高である」からです。

 これらはどれも人間の営みは崇高であり、それゆえに科学や論理が入る余地はないというものです。それらの人にとっては、人間の営みは科学や論理よりも崇高であらねばならないのです。

 これは科学を排斥する際にも、SciFiを避ける際にも同じように言われます。科学に対してもSciFiに対しても、「役に立たない」、「女子供の読むもの」と言うことによって保身しているわけです。その保身がなければ、「科学を理解できる脳を持っていない」ことを認めざるをえないのですから、そのように言うしかないのです。たとえSciFiを読んだことがなかったとしても高校で物理や化学はやっているでしょう。そこで自らを守らなければならないという真理に到達しているのです。そして、自らを守る確実な方法は、触れないことです。

 さらに便利なことにドイルが手慰みに書いた推理小説とその系譜が存在します(ポーでももちろんかまいません)。そして、そのあまりにも御都合主義なやり方は無視して、それらを論理的であると称し、欺瞞に満ちた知性論を、そちらでも展開するのです。

 あるいは「愛」とか「法」とかそういうのとかが猿のルールでゲームをしているのに対し、科学は神のルールでゲームをしているのです。そして、全てではないとしてもSciFiもやはり神のルールでのゲームなのです。

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