第17話われら、すばらしい、1984, 1985, 3174

 表題の5作品について。


 「1985年」については有名ではないかもしれないので補足しておきます。アントニイ・バージェスによるもので、「1984年」に対しての補足資料でもあります。


 この5作品のうち、前の4作品は(比較的)最近のディストピアものとくくられるかもしれません。ですが、そうくくるなら、くくりかたを間違えています。

 くくる方法はこうです:

* 「われら」と「すばらしい新世界」

* 「1984年」(と「1985年」)と「黙示録3174年」


 なぜこうくくるのでしょうか。簡単な話です。「いつ書かれたのか」を見ればいいだけの話です。

 「いつ書かれたのか」によってくくることで、それぞれの作品に見えていた世界がどういうものだったのかが、実際に見えてきます。

 二つとも、そこに書いてある世界は、ただ目の前にあった世界に過ぎません。思想も思考もなにもなく、ただ目の前にあった世界を書いているに過ぎません。ですから、これらすべて、オリジナリティも文学的価値もありません。わかりやすいラノベでしかありません。

 さて、「黙示録3174年」が受けるかどうかは知りませんが、「われら」、「すばらしい新世界」、「1984年」が、なぜ現在の評価に至っているのでしょうか。当時のラノベだったことを差っぴいてもです。

 それは、「私たちは、もう、そのころのことを忘れているから」です。そのころのことを忘れているから、そこに描かれていることがただ目の前にあっただけだということすら忘れているにすぎません。


 「時代によって解釈が云々」という話もあるかもしれません。それは否定しません。ですが、「時代によって解釈が云々」と言うなら、「包括的にやれ」と思います。「今、どう読まれているか」だけではなく、「いつごろにはどのように読まれていたか」を包括的にやれと思います。そして、包括的にやるなら、ある年代以前にどう読まれていたのかが、そのある年代にどう読まれていたのかにどのように影響しているのか、あるいは影響していないのかというように多層的にやれと思います。

 SF(それが何であれ)のお安さは、「それらがラノベだった」ことすら忘れたというお安さからも来ているのです。細かくは「3174年」以外は「風刺小説」と分類することもあります。なぜそれらが「風刺小説」と呼ばれるのでしょうか。それは「風刺」であったからです。なぜ風刺であったのかと言えば、それが目の前にあったからです。その時においてどういう意味を持っていたのかすら忘れられてしまった安っぽさ、それを忘れてしまう人間の安っぽさを是認するのであれば、安っぽいSF(それが何であれ)をやっていたらいいかなと思います。

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