第16話SciFiとSFをわかつもの

 前回、「スチームパンクは古き良きSF(それが何であれ)に回帰している」という話を書きました。これ、どう思うでしょうか。

 その古き良きSF(それが何であれ)とはどういうものかを見ると、手垢もついているものの、もう擦り切れて元型が剥き出しにすらなっているようなものもあります。

 ル=グインが言う「亜神話」というものがあります。ですが、古き良きSF(それが何であれ)は、亜神話にすら到達していないものもあります。ありますというか、割合で言えばそっちの方が格段に多いはずですけどね。

 にもかかわらず、なぜ古き良きSF(それが何であれ)に回帰するのでしょうか。装いを変えるにしても。

 正直に言うと、そこが人間にとってのわりやすさの限界なのだろうと思います。


   何万年、同じ話を作り続けているんだ!


っていうくらいの話。元型が透けて見えるから、なおさら、


   何万年、同じ話を作り続けているんだ!


って思いますよね。


 SciFiとSF(それが何であれ)をわかつものは、おそらくこのあたりなんだろうなと思います。


   何万年、同じ話を作り続けているんだ!


っていうのは冗談でもなんでもありません。「元型が透けて見える」というのはそういう話です。


   脳に生得的にある回路だけで満足しているんだろ!


と言えるようなものです。

 それで満足しているなら、意識的な勉強が必要なものは求めないし、そういうものを理解するために勉強しようとも思わないでしょう。だから、それじゃぁ猿だって書いているんです。

 ヴェルヌは、元型が透けて見えるような物語の舞台に科学を持ち込んだだけかもしれません。あるいは科学もその舞台になると示しただけかもしれません。そう読むなら、それだけかもしれません。ならば、「今やヴェルヌの作はスチームパンクとなった」と言ってもいいでしょう。

 ですが、そうだとするなら、SciFiというジャンルに属する作品は、「いずれファンタジーになるか、過去にそのような作があった」という認識に属するということでしょう。SciFi読みもSciFi書きもそれでいいならですが。

 SciFiを「作品群が常に流れ去るジャンル」ととらえるなら、それでもいいでしょう。ですが、そうとらえるなら、科学をも「常に更新されうる、役に立たないもの」ととらえるのと同じ過ちでしょう。

 皆さんは勉強とか嫌いだから、「更新されうるなんていう不確実なものなんて不要」と思うかもしれません。ですから、何万年も同じ話が語られ、書かれ続けているのでしょう。「更新されない確実なもの」としては、まぁ何万年かくらいではという条件がつきますが、プロップのファンクションもその一つです。そういうもので安心していたいのなら、「生のプロップのファンクションを読んで満足する」くらいの想像力は欲しいものです。ですが持っていません。持っていないからこそ、何万年も同じ話が語られ、書かれ続けているのです。


 ならば、SciFiとSF(それが何であれ)とをわかつものは何でしょうか。こう言ってみましょう。


   本能からの開放である


と。

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