第10話作者は天才であらねばならない
「作者は天才であらねばならない」とは、先の「SciFiを書くなら博士号を取れ」とは別の意味の言葉として受け取ってください。そのところを少し書きます。博士号も自らもぎとるものではありますが、「天才であらねばならない」とは、自身のありかたの問題です。
西尾維新の「悲惨伝」にはこういう言葉があるそうです。
『天才の苦悩』ほど、どうでもいいものはない。我々が望むのは悩まな
い天才だ。
作中の言葉としてだけでなく、おそらくは多くのフィクションにおいても言える言葉だろうと思います。
たとえば、ある研究所においてバイオハザードが発生したとします(いや、そういうネタの映画を今、観てるだけという理由での例です)。内部に閉じ込められた人の行動を考えてみましょう。
* 研究所から逃れずに死亡や作戦の実行を待つ
* 何とか逃げようとする
作を読んでいたとして、どちらの選択肢がわかりやすい、理解しやすい、あるいは納得しやすいでしょうか。逃げようとするなら、それは猿の、おっと失礼、人間の行動としてはわかりやすいかもしれません。ですが、それはわかりやすいに過ぎず、人間の行動ではありません。
苦悩しない天才が、作中において果たす役割にはどういうものがあるでしょうか。問題をサクサクと解決するか、何か起こったことについて「こうであればありうる」と説明するか、そうでなければ問題を引き起こした役か、そのどれかでしょう。どれにせよ、では、その天才は作中において人物なのでしょうか。状況を解決する、状況を説明する、あるいは状況を引き起こしたガジェットでしょう。それは「科学と技術とSciFiと」に書いた一つめのガジェット、つまり「ただのガジェット」です。二つめの「舞台を作るガジェット」ですらない、一つめのガジェットです。作において人扱いしていないということです。なら、その天才が人物として登場する理由が何かあるでしょうか。
天才が人物として登場するなら、それが人工知能だろうとなんだろうと、ならばこそ、天才は苦悩しなければならず、その苦悩こそを書かなければならず、そのためには作者自身が天才にならなければなりません。ただ説明するためだけのガジェットとしての天才ではなく、人物としての天才に作者自身がならなければなりません。作者自身が天才にならないのであれば、作中の天才の扱いも相応のものに成り下がってしまうでしょう。そしてもし、天才をガジェットとして扱うなら、それがあなたの限界であり、その作はSF(それが何であれ)にはなるかもしれませんが、SciFiからは遠いものとなります。
あるいは逆に言いましょう。猿の、おっと失礼、人間の自家発電を読みたいですか? 私はごめんですね。
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