タイムリープマシン

砂部岩延

 タイムリープマシンが完成した。

 週明けの朝、出社と同時にデスクで報せを受けたT氏は、午後からの一切の予定をキャンセルした。代わりに外出と直帰の手続きを取ると、早々にオフィスを後にした。

 駅までの道のりと、乗り換えの僅かな時間を惜しんで、途中でタクシーを拾った。

 待ちに待った日がついにやってきたのだ。

 逸る気持ちを抑えつつ、運転手にR大学までの道を急がせた。

 T氏はS社の研究開発部門の部長を勤めている。

 次期主力製品の開発にあたり、いくつかの大学研究室と協賛を結んでいたが、R大学にあるI教授の研究室にT氏は最も入れこんでいた。

 大学のキャンパス前でタクシーの支払いを済ませると、T氏は真っ直ぐに構内を横切って、古めかしい研究棟の3階にある研究室の戸の前で一度立ち止まる。大きく深呼吸をして、戸を開いた。

「やあ、お待ちしていましたよ」

 部屋の奥にいたI教授が顔を上げて言った。

 野暮ったい丸眼鏡の向こうで純朴な瞳が細められた。研究一筋に生きてきた人間特有の無邪気な笑顔だ。

 純粋な知的好奇心の探究を旨とするI教授と、商業を前提とした大企業の部長であるT氏、立場の違いから時には話が噛み合わず、飄々としたI氏の態度にT氏はヤキモキさせられることも多かった。しかし、今日という日に限って言えば、彼は誰よりも頼もしく感じられた。

「ちょうど準備を終えたところです。いつでも始められますよ」

 部屋の奥には人の背丈よりも大きなコンピュータがいくつも立ち並び、その間に挟まれるように、黒のリクライニングシートが置かれていた。ヘッドレストの上には半分に切ったイガグリのようなヘルメットが据え付けられており、トゲにあたる筒やらケーブルやらは、床の上を這って部屋中のコンピュータと繋がっている。幾度となく足を運んでいるT氏には、それこそがまさにタイムリープマシンであることを知っていた。

「それで、お願いしていたものは見つかったのでしょうか」

 T氏が固唾を飲んで尋ねると、I教授はにっこりと笑顔を返した。二人は連れ立ってマシンのそばにあるモニターまで歩いていく。

「条件に合致するものがいくつかありましたので、あとは実際に見て選んでもらえればと」

 モニターに映るそれらを見て、T氏は頬がだらしなく緩むのをこらえきれなかった。年甲斐もなく喜びに身体が打ち震える。

「それと、実験の前にいくつか説明しておきたいことがあります。見ながらでいいので聞いて下さい」

 I教授の説明をT氏は上の空で聞き流していた。意識はすでにモニターの上に並べられた画像――女性たちの写真に釘付けになっていた。

 T氏はこれまで仕事一筋に生きてきた。

 幼少の頃、ぼんやりと思い描いていた夢は、大学を卒業する頃に具体的な目標となった。社会の荒波に乗り出でて、挫折も数多く経験はしたが、幸いにして夢の多くは叶った。そうして気付けば、もうじき五十に手が届く歳になっていた。今では一線を退き、後進を育てる立場にある。

 ここまでの半生を後悔してはいない。

 しかし、ふとした折に、寂しさが身にしみるのも、また事実だった。

 T氏は独り身だった。

 結婚して温かな家庭を築きたい、その想いは日増しに募っていた。

 しかし、人生の全てを仕事と夢の実現に費やしてきた彼にとって、それは難題であった。身の回りにそれらしい相手など一人もおらず、今から必死になって探したところで、良い相手が見つかるとも到底思えないし、何より気恥ずかしかった。

 そこに差し伸べられた救いの手こそ、タイムリープマシンだった。

 これならば、過去に戻って別の人生を選ぶことも、起こりうる未来の可能性の中から理想のものを選ぶこともできる。

 そこでT氏はI教授にひとつの調査を依頼した。

 今日まで築き上げた人生の先に理想の家庭を築いているような、そんな未来はないだろうか。欲深いのは重々承知だったが、どちらも手にできるのならばそれに越したことはない。

 さいわいにして、タイムリープマシンの機能を使えばそれも可能だという。

「――つまり、この宇宙はエネルギー的重ねあわせ状態のひとつにすぎません。時間的空間的に、あらゆる可能性宇宙が常に並存しています。旧来、それらはいわば全にして一、不可分であると同時に完全に独立した不干渉のものであると考えられていました。しかし、今回、私たちの研究室では、可能性宇宙の観測と干渉に成功したのです。人類史に名を残す発見と発明は多々あれど、これこそが史上最高と言っても過言ではありません」

 興奮気味に語り続けるI教授に、T氏は曖昧な相づちを打っている。視線は食い入るようにモニタの写真を眺めていた。

 写真は何の変哲もない日常の一コマを切り取ったようなものだが、女性の顔と容姿がよく分かるようになっている。写真の隣には、その女性のおおまかな経歴と性格的特徴、家庭の経済状況、今から何年後の未来か、などがレポートとして添え記されている。

 I教授と研究チームはT氏の思い描く理想の未来を可能な限り定量化して、無数に分化する未来からコンピュータによる自動検索を行った。期間にして丸一ヶ月、その結果が、今、目の前のモニタに映し出されているというわけだ。

「今回の装置では可能性宇宙の観測と記憶の転送のみですが、次なる開発では肉体を伴った移動、いわゆるタイムトラベルにとりかかってみたいと考えております」

「今回の実験が成功して、製品が十分な利益を生めれば、次の研究にも十分な資金をご提供させてもらいます」

「成功しますとも。予備実験の結果も良好でした」

「それは期待が持てます」

「それで、どちらにしましょうか」

「いえ、それはもう少し」

 と、T氏の目が、写真の一枚に釘付けになった。

 長い艶やかな黒髪、静かで理知的な瞳、てらいのない笑顔には人柄の良さが存分に現れていた。今から三年後の未来、経済状況も申し分ない。まさに理想通りの未来と言えた。

「これでお願いします」

 T氏は咳払いをひとつして、努めて冷静に写真のひとつを指差した。

 I教授はモニタを覗き込むと、助手に指示してデータを入力させつつ、T氏をマシンまで案内する。

 T氏がマシンに横たわると、助手たちがセットアップを始めた。ヘッドレストの上のイガグリが降りてきて、T氏の頭を覆った。

 I教授はモニタのところまで戻って、助手の隣でマシンから送られてくるT氏の身体情報を確かめた。転送先の情報もあらためて確認して、全ての準備が整ったことが分かると、顔を上げた。

「シュミレーションと予備実験の結果から、記憶の統合に多少、時間がかかることが分かっています。今回はこの時間を計測したいので、記憶が定着したタイミングで、先ほどお伝えした合図をお願いします。コンピュータが全自動で観測していますから、場所はどこでも構いません」

 T氏が頷くと、I教授はにっこり笑って、

「では、はじめましょう。楽にしていてください、一瞬で済みますから」

 T氏は緊張した面持ちでシートに体を預けると、なるべく体の力を抜くように努めた。

 耳の奥で鼓動が鳴っている。

 ゆっくりと瞼を閉じた。


 真っ黒なトンネルに吸い込まれていく。

 生身のままブラックホールに落ちていくような感覚があり、次の瞬間には、光の中に放り出された。

 それが実際に瞼に映った光だと気付くまで、しばらく時間がかかった。

 おそるおそる瞼を開く。

 眩い光に、一度、目をキツく閉じた。次に目を開いた時、最初に視界に映ったのは白い清潔なレースのカーテンだった。体の下には柔らかいベッド、真新しいシーツ、大きなクイーンサイズのベッドで身を横たえている自分に気付いた。上体を起こすと、薄手の毛布が胸からずり落ちた。

 ここはどこだろうか。

 頭の芯が鈍く熱を持っていた。じくじくと痛むような不快感に、脳の中まで指を入れて掻き回したい衝動に駆られた。

 頭の中を支離滅裂な記憶が行き交う。

 研究室でのI氏とのやりとり、タイムリープ実験のことが思い起こされて、それと同時に、この場所が良く見知った場所であることも分かっていた。

 二年近くを過ごした夢のマイホーム、そして、夫婦の寝室。

 分からないほうがどうかしていた。

 まるで頭の中に二人分の自分がいるようだった。今度は実際に頭皮を掻きむしった。

 毛布を肌蹴て、ベッドから出た。広いベッドは床に降りるのもひと苦労だったが、立ち上がってみれば、それは慣れた毎朝の所作のようにも思えた。

 部屋を横切り、廊下に出た。

 朝餉の香りが漂ってくる。空腹感を覚えつつ、ゆっくりと廊下を突き進む。

 見知らぬ家に上がり込んだような緊張感と、この世で最も信頼できる場所にいるという矛盾した安堵感がせめぎあいながら、しかし、足どりはよどみなく、突き当たりの扉まで進んでいく。

 磨りガラスの向こうが白くまばゆい。薄っすらと動く人影が見える。

 固唾を飲んで、扉を開いた。

 広く開放的なリビングが目に飛び込んだ。ベランダの窓から清潔な朝の光が家の中をあますとろこなく染め上げていた。風に揺れるカーテンの裾が映画のワンシーンのようだ。

 ダイニングに置かれたシンプルな木目のテーブルには朝食が並んでいる。白く柔らかな手が、ガラスの器に盛られた色鮮やかなサラダをテーブルの上に載せた。

「おはよう。ちょうど起こしに行こうと思ってたの」

 振り返った女性が、ふんわりと微笑む。

 結わえられた艶やかな髪が背中で揺れて、思わず目を奪われる。女性らしい嫋やかな体のラインに、長く艶かな黒髪がかかり、大きな瞳には理知的な光が宿っている。何よりその笑顔が彼女の内面を余すことなく物語っている。

 しばしの間、言葉を失い、ぼんやりと立ち尽くしていた。

「寝惚けてる」

 彼女はおかしそうに笑って、キッチンに戻る。

「紅茶よりもコーヒーの方が良かったかな」

 という声にぼんやりと返事をしながら、イスを引いて腰かけた。テーブルの向こうに、キッチンで働く彼女の姿を眺めながら、座る場所に迷わなかったことを不思議に思ったが、これも慣れた所作のように思えた。

 湯気の立つポットとカップを二つ手にして戻ってくると、彼女は向かいの席に座った。手ずから紅茶を注いで、カップを寄こしてくれる。

 鼻歌が聞こえそうなほど上機嫌だ。

「やっぱり、買って正解だったと思うんだけど」

 抱え込むようにして持ち上げたカップを、大事に口元に運んでから、じっくり味わうように紅茶を口にする。

 どうかな、と視線で問いかけられて、思わず視線がテーブルの上を彷徨った。

「ええと、そうだね。いい香りだ、美味しいよ」

 彼女は一瞬呆けた顔をして、くすくすと笑った。

「これはいつものティーバッグよ。それとも、本当は要らなかった、って遠回しに言っているのかしら」

 わざとらしく睨めつけるような目を向けられて、慌てて首を横に振った。

「いや、良かったと思っているよ。それくらい美味しく感じたんだ」

 苦し紛れの言い訳だったが、彼女は嬉しそうに相貌を崩した。

「確かに、これだけでいつもより美味しく感じられるんだから、不思議よね」

 カップの縁を愛おしそうに撫でて、彼女はうっとりと呟いた。

 それらのカップとティーポットは先日、二人で買い求めたものだ。思えば、それはつい昨日のことだ。

 それと分かれば、思い出すことは容易い。

 しかし、今のように記憶と感覚の間に違和感があるのは問題だった。これがタイムリープによる記憶の統合とやらのせいだとしたら、一体いつ収まるのだろうか。あるいは単純に失敗したのか。だとすれば、問題はいよいよ深刻になる。

「でも確かに、せっかく良いカップとポットなんだから、いつまでもティーバッグじゃ、味気ないわね。せっかくだし、ちゃんとした茶葉も買いましょうか」

 期待の浮かんだ目を向けられて、反射的に頷く。

「それじゃあ、仕事帰りにデパートで何か買ってくるよ。職場に紅茶とか詳しい子がいたはずだから」

 そう言いながら、そもそもあの子は今もまだ同じ職場にいただろうかと記憶を探ってみる。

「それなら、さっそく午後から一緒に買いに行きましょうよ。店員さんに聞けば、何か良いものを選んでくれるはずだから」

 そこでようやく、そもそも今日が平日ではないことを思い出した。

「じゃあ、午後から出かけよう。車を出すよ」

 彼女が嬉しそうに頷いた。

 それからも、他愛ない話に花が咲いた。

 馴染んだいつもの朝であると同時に、生まれて始めて経験する、楽しい朝食だった。


 午前中は二人で家事をして、昼食をとって、午後から約束どおり二人で出かけた。

 女性と一緒に連れ立って歩くのなんて、一体、いつ以来だろうか。

 もちろん、昨日だって二人で出かけたのだったし、その記憶も確かにある。

 しかし、心の片隅では初めての経験に戸惑う自分が常にいた。

二の腕に触れる自分以外の体温に、年甲斐もなくドギマギとしてしまう。

 精一杯のさり気なさを装ったが、どこまで上手く振る舞えたかは、自信がなかった。

 記憶の混濁は始終つきまとった。話のズレからひやりとする場面もしばしばあった。

 しかし、楽しかった。

 夕方には少し早めに、二人でディナーにした。

 滅多に行かないお洒落なホテルのレストランで、見慣れない横文字のメニューを二人で覗き込んだ。

 食事のあとは同じホテルのバーに行って、お酒を飲んだ。気分も盛り上がって、今日はそのまま部屋を取ることにした。

 使うあてもなくただ増えていただけの預金口座の数字が、初めて生きた意味を持った気がした。

 ベッドの上では再び戸惑いと、新鮮な喜びを味わった。

 裸のまま二人で寄り添うように横になった。

 ふれあう肌から伝わる体温が心地よかった。

 記憶と感覚のズレはもう気にならなくなっていた。

 自分はこのままここで生きていく、そう確信を得た頃に、妻がじっと顔を見て呟くように尋ねた。

「もしかして、気付いていたの」

 突然の質問に戸惑う。まだ何か足りていない記憶があったのだろうか。

 何も言えずにいると、腕の中で彼女が顔をほころばせた。

「今日はいつもより優しかったから、もしかしたらって思ったのだけれど、その顔は分かってないみたいね。でも、新婚に戻ったみたいで嬉しかった」

 囁くようにして、頬を寄せてくる。

 布団の中で手が重なった。彼女は掴んだ手を自分のお腹の上まで導く。

 まさか、と思うと、彼女は幸せそうに微笑んだ。

「お義父さんとお義母さんに、ご報告に行かないとね」

 柔らかな肌の下で、新たな命が脈打ったような気がした。

 腕の中で眠りに落ちていく妻の顔を眺めながら、心の中は温もりで満ち足りていた。

 自分はここで生きていく。

 ぴたりと重なった自分の中の意識を感じて、勝利のVサインを浮かべた。



「やりました、実験は大成功ですよ」

 I教授はモニターを見て、歓喜の声を上げた。

 他の研究員たちも顔を見合わせて満足気だ。研究室には祝賀ムードが漂っていた。

 一方で、同じくモニターを覗き込んでいたT氏は、憤然やる方なかった。

「どういうことなんですか、これは」

 ヒステリックな声を上げて、I教授に詰め寄った。

 教授は不思議そうな顔で答える。

「実験成功です。あなたの意識は無事に時空を越えて未来に届きました」

 一体、何が実験成功なのか。自分は未だここにいるというのに。

 モニターに映る自分そっくりな男のニヤけ面も、怒りを増長する一因にしかならなかった。

「私はまだここにいるじゃないですか」

「もちろん、あなたはここにいますとも。タイムリープマシンは意識と記憶だけを飛ばす装置なのですから」

 一体何が不満なのか、という顔で教授は首を傾げた。

「私は、私自身が未来に行きたいのです。どうにかできませんか」

「あなたは間違いなく未来に行きましたよ。未来に行った記憶と意識が戻ってこないだけで」

「それはつまり、マシンにトラブルがあったということですか」

「いえ、マシンは正常です」

 今にも殴りかかりたい衝動をT氏はなんとかこらえた。彼との会話が行き違うことなど、ありふれた光景にすぎない。

 教授はT氏の言葉の意味を吟味するように、顎を撫でさする。

「最初の説明でも申し上げたつもりだったのですが、飛んでいった意識と記憶は、もはや貴方自身とは異なる物理現象です。何もせずそのまま貴方自身に返ってくることはありません。しかし、そうですね。例えば、未来に行った貴方が再びタイムリープマシンでここまで戻ってくれば、記憶と意識は一致するでしょう。もちろん、それ以外の全ては向こうに置いてくることになりますが」

 T氏のこめかみに青筋が浮かぶ。

 I教授は再び考えこんだ。

「あるいは、もう一歩研究を進めて、肉体ごと移動できるタイムマシンを作れば、貴方自身が望んだ未来まで行くことが可能です」

 おお、とT氏は期待に声を上げる。

「ただし、向こうで貴方は二人になりますが」

 T氏の顔は真っ赤に燃え上がった。

 身体をわななかせるT氏を見て、I教授は再三、考えこむ。

 それから、ぽんと手鼓を打った。

「ああ、あります、ありますよ。貴方自身が望んだ未来で生きる方法が」

 これぞ妙案とばかりに、I教授は顔をほころばせる。

「さきほど提示したリストは、今から到達し得る未来の可能性です。言い換えれば、今からの行動次第で実現可能なわけです」

 ぽかんと呆けるT氏に、

「つまり、貴方の努力次第ですね」

 晴れやかな笑顔でI教授は言った。



 翌年、T氏は結婚した。

 相手は例のリストになかった女性だったが、それをI教授に告げたところ、「未来の可能性は常に変わっていますから」と心得顔だった。

 研究室への資金提供は打ち切られた。

 タイムリープマシンが世に出ることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

タイムリープマシン 砂部岩延 @dirderoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ