④
化粧品カウンターのお姉さんに、雅はあるお願いをした。
「大人っぽく見えるメイクの仕方を知りたいんです」
今日のための準備。少しでも背伸びをしたかったから。
「デートか何か、ですか?」
お姉さんは、雅の前髪を留めながら、そう尋ねた。
「いえ、昔お世話になった先生に会いに行くんです。――しかも女性」
「あ、そうなんですね。――楽しみですね、それは」
「はい。何年ぶりだろう……」
雅は桜先生との日々を思い出してゆっくりと目を閉じた。下地クリームを、丁寧に顔の上に広げられる、心地よい感触がする。
「……私、今まで人のためにメイクしたことって無かったんですよ」
「と言いますと?」
「例えば、デートの時に女の子って可愛くあろうとしてメイクするじゃないですか、彼氏さんのために。――そういう経験が、無い」
別に恋に恋しているわけではないけれど、雅は自分の行動のモチベーションとして「他人」が関与したことがほぼ無い、ということに気づいていた。それにもかかわらず、恩師に会おうという時になって「大人っぽく見せたい」と思うのが、自分でも不思議なのだ。
「その先生はお客様にとって本当に大切な方なのですね」
桜先生は、先生としてはクズだったけど、確かに雅の人生を変えてくれた。――大切な方。そうかもしれない。
「……お姉さんは、一番最初に誰かのためにメイクをしたのって、いつでしたか?やっぱり、デートとかですよね」
我ながら、意味不明な質問だ、と思った。だけど化粧品カウンターのお姉さんは少し考えてから意外な答えを出した。
「……女友達のために、ですかね」
「え?」
ああ、そうか、そうなのか。このお姉さんはもしかすると恋愛対象が女の人で……と考えたところで、また彼女が口を開いた。
「正確には、『女友達のために』ではなく『女友達に負けたくなくて』ですね」
「負けたくない女友達がいらしたんですか」
「――あの頃は自分に余裕がなくて、自分の周りにいる子の誰よりも幸せで居たかったのです」
穏やかな笑顔で、ちょっと怖いことを言った。でも、わからないではない。雅だって、流行とかは人並みに気になる。――それは必ずしも自分の趣味ではなく、意外と女友達の目を気にしての事であったりするのだ。それと似ているんじゃないかな?と思うのだ。
「でも」
お姉さんは、言葉を続けた。
「今はもう、ほとんどそういうことを考えることは無くなってきました」
「何かきっかけが有ったんでしょうか」
「お恥ずかしい話、それが、『恋』なのです。……大きな声では言えない話なのですが」
ずっと自分に自信を持てずに、他人と比較ばかりしていたそのお姉さんは、大学時代は友達の彼氏を奪う事ばかりしていたらしい。詳しくは話さなかったが、それで一度、取り返しのつかない、大きな騒動を起こしてしまったという。しかし社会人になってから初めて、本気の恋をした。出会いは、この化粧品カウンター。仕事の山を終え、一息ついたところに歩み寄ってきた、一人の男性。
「君は、女性をどんどんきれいにしていくこの仕事、本当に好きかい?」
――それが、初めての言葉。勿論、どきりとしたという。昔からおしゃれな方で化粧品に詳しかったから、なんとなくこの仕事を選んだ。それは別に、世の中の女性を綺麗にしていきたいからではなかったのだという。
そんな最悪と言ってもいい出会いをした男性――のちに、この男性は化粧品会社の本部の方だとわかったらしいのだが――この人は頻繁にカウンターを訪れるようになり、次第に共に夕食を食べたり、遠方にお出かけする仲になったのだとか。そして、告白される。
「あなたは、僕が今まで出会った中で一番素敵な女性だ」
くっさい台詞だが、お姉さんは純粋に嬉しかったという。――世の中に、たった一人でも、自分の事を「一番だ」と言ってくれる人が出来た。その事実が、お姉さんを救った。簡単な話だった。
たった一人の男性がそう言ってくれてからというもの、お姉さんは穏やかな気持ちになれるようになったという。――そして、「他人を綺麗にする」この仕事を、心から楽しいと思えるようになった。
「結婚しても、できる限りこの仕事は続けていきたいなあ、と思っているんですよ」
そう言って微笑む彼女の指には、確かに婚約指環が光っていた。
綺麗にしてもらった後、雅は一本、口紅を買った。「マイ・スイートラブ」――それが、この口紅の色の名前。恋に恋する気はない。ただ、そういう気分だったのだ。
「毎度ありがとうございました」
カウンターのお姉さんが雅に向かって頭を下げる。――ちょっと、長く話しすぎたみたい。
「山口さん、早くカウンター戻って」
「はい、すみません」
お姉さん、怒られちゃった。
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