いつか、ちゃんと死ねるまで。

緑茶狐

第1話

 「一思いに、殺めてください」

目の前の少女が私に言う。

私は彼女の首に手をかける。

彼女が私の手を、そっと優しく握った。

その手に力を込める前に私は訊く。

鏡子きょうこ、本当にお主は死ぬというのか?」

これが私のせめてもの抵抗だった。

「ええ、いいのです。もう。それに貴方の手で死ねるのであれば私は幸せです」

諦めたような表情で言う彼女に、私は自分の無力さを呪った。

私が彼女にしてやれることはこれくらいしかないのだろう。

いつのまにか、私の視界は歪んでいた。

どうにもならない不甲斐なさが、感情が、私の目から溢れていく。

その雫を彼女は優しく手で拭った。

そのまま私の頬を撫でている。

視界が再びはっきりした頃、私は言った。

「ゆくぞ」

彼女と目が合う。

彼女が頷いた。

私も頷く。

私は手に力を込めた。




 昔の夢を見ていた。

夢だというのに首を締める時の生々しい感触が手に残っている様で、私は手を何度も開いたり、閉じたりしていた。

また、あの夢。

忘れたいと思っても、忘れられるはずがなかった。

何度も夢のなかで繰り返されるあの情景と後悔。

気分を切り替えようと息をひとつ、ゆっくりと吐く。

そこで私は、自分が駅のホームにおり、そこの椅子で寝ていたのだということを、思い出した。

比較的大きな駅のためか、サラリーマンや学生などがごった返す。

その何百という足音と共に電車の駆動音が忙しなく響き、あまりいい目覚めでは無いなと思う。

少し肌寒く感じ、もう秋なのだなと感じた。

この寒さは今の心には少し悪い。

あの温もりを思い出してしまう。

秋の高い空まで見上げてしまうと不安になりそうで、駅構内を行き交う人々に目線を移した。

忙しなく動く人々は今日も他人のことを考える余裕はないようだった。

だから、他人が追い込まれていても気づかないのであろう。

その癖に自分がその立場になると、喚き立てる。

だから、私は人間が少し嫌いだった。

そんなことを考えていると

「ボク、学校は?」

電車を待っているのであろう、隣に座ったおばさんに突然話しかけられる。

今は独りでいたかった。

早く退散してほしかった私は、そのまま用意していた答えを返すことにする。

「えっと、今日は行事の振替で休み、です」

「あらー、そうなの」

電車が駅に到着するというアナウンスがあり、おばさんは席を立った。

助かった。

あの年代の人間は話し始めると長い。

「じゃぁ、またね」

「はい」

控えめに手を振る。

私は心底安堵した。

見た目相応の演技をするのも、もう慣れた。

しかし、子供らしさというのも時代によって少しずつことなるもので、適応するのもなかなか大変だ。

ふぅ、と溜息をつく。

昔からずっと人間の世界に行く際、私は人間の―――10と数年しか生きていない様に見える―――少年に化ける。

そうしないと目立ってしまう。

私は、人ではなく百年と数十年という時を生きている狐だからだ。

しかし、平日の昼間からここにいるとやはり目立ってしまうな、と思い腰を上げる。

ふと、ホームの端に立っている女性―――会社勤めだろうか―――が気になった。

思いつめた、苦しそうな表情が昔の記憶と重なる。

私はその女性から目が離せなくなった。

先ほどあんな夢を見たせいだろうか。

電車がホームに滑り込んでくるであろう、という時女性の身体が傾き出す。

回りの人間は気づいていないようだった。

―――なにせ、自分の事しか考えていないのだから。

私は、駆け出していた。

「一思いに殺めてください」

彼女の声と表情が頭で反響する。

それに気づいていながらも。


私は、ホームから落ちようとする女性の手を掴んでしまった。




 死にたいと思いながら生きる。その辛さを見てきている。

なのに何故、私は死のうとする人間を助けてしまったのだろう。

今、私の目の前には手を掴んだ人間が座っている。

先ほど私が寝ていた駅の椅子に、彼女は腰掛けていた。

死にたかったのに助けられてしまった。その憤りをぶつけるには、私の外見は幼すぎて、どうすればいいかわからないというのが表情から伝わってくる。

「あの」

取り敢えず声を掛けてみた。

しかし、謝ればよいのか、はたまた励ませばいいのか。

私の発したそんな曖昧な言葉は虚しく宙に消えた。

暫く沈黙が続いたあと、相手の方が口を開く。

「どうして助けたの?」

それは、私にとって一番訊かれたくないことであった。

私にもわからないのだ。

「それは……」

どう答えていいものか考える。

頭の片隅で子供らしく悩むにはどうしたらいいのだろうかと、場違いなことを思う。

私が答えずにいるせいか、相手は言葉を続けた。

「まだ、キミは子供だからわからないかもしれないけれど、生きていてもどうしようもない人間だっているんだから―――」

そこで言葉を区切った。

彼女の言葉ひとつひとつが、私の心に突き刺さる。

私に吐き出されている言葉は心を確実に抉っていく。

彼女は口調を変えた。

「なんてね。こんな話しても仕方ないよね」

彼女から目を逸らしてしまう。

―――そんなことはない。

簡単にそう言えるほど私が無責任であったならまだ楽だったのだろう。

そんなことを考えた。

その時彼女はふっ、と笑った。

「キミ、子供らしくない表情するんだね」

そこで私は子供の振りを忘れていたことに気づく。

きっと、子供らしくない難しい顔をしていたのだろう。

私は話を逸らしたくなって言う。

「少し元気が出たみたいですね」

だが、この言葉には少し嘘がある。

表面的には元気が出ている様に見えるが、見ず知らずの私に対して無理をしているをしているのだろう。

少なくとも、私にはそう映った。

彼女は私の顔をじろじろ見て言った。

「変な子供を見たらすこし元気がでたかも」

確かに私は変だろう。

私ほど年月を重ねている人間の子供、それどころか、人間はいないであろう。

「そういえば、キミ学校は休みなの?」

先ほどと同じ返答をした。

何気なく使う言葉遣いから、人懐っこさが出ているように感じ、元々明るい人なのだろうと思う。

「そうなんだ」

「お姉さんは会社、行くのですか」

彼女ははっとしていた。

会社のことを今思い出したみたいだ。

死のうとしていたのだから、そんな事考えてすらいなかったのだろう。

私は思い出させてしまったことを少しだけ後悔した。

「休んじゃおうかな」

彼女はぽつりと呟く。

彼女が死のうとした原因はおそらく会社のことであろう。

行けと言うのは酷だと思った。

「嫌なら行かなくてもいいと思いますよ」

だから私はそう答える。

彼女は考え込んでしまい、沈黙が続いた。

そんな少し気まずい間の後、彼女が口を開く。

「休も」

そう言うと、彼女は電話をかけはじめた。

多分会社へだろう。

昔のあの人も仕事で思いつめていた。

私に殺してくれとお願いする程に。

「これでよし」

彼女の声が聞こえてきて、私は傷をなぞるのをやめる。

彼女はスマートフォンを鞄にしまうと私にこう言った。

「キミ、せっかくだから散歩に付き合ってよ」

見てくれが子供の私を捕まえて散歩というのもおかしな話だ。

私は首を傾げる。

「はぁ……」

突拍子も無いことを言われたので私は面を喰らった。

「キミみたいな子供を夜まで連れ回すわけないから、安心して」

見ず知らずの私と何処かへ行って、楽しいのだろうか。

しかし、彼女が心配でないと言うのも嘘であり、更に言うと、嫌なら休めと言ったのは私だ。

私は「そういうことなら」と言うしかない。

先ほどから「キミ」としか呼ばれていないことに気づき

「それと、僕は蒼葵あおきといいます」

そう自己紹介をすると彼女はあおき、あおき……。と数回唱える彼女が子供の様に見えて、少し可笑しかった。

「じゃ、蒼葵くん。行こう?」

そういって彼女は改札の方に歩き出した。

そういえば、久々に人をまともな会話をしたな、と後ろ姿を見て気づいた。




 私たちは駅近くの喫茶店へ入り、窓際の席に座っていた。

「蒼葵くんって面白いよねぇ」

「そんなこと無いですよ。杏子さんこそ、面白いこと言いますね。そんなこと言われたの初めてです」

彼女の名は杏子きょうこというらしい。

ここへ足を運ぶ途中に自己紹介をされた。

これは、どういう悪戯なのだろうか。

その名前は私の口に悲しいほど馴染んだ。

喫茶店に入ってから、彼女は楽しそうに私に私自身の事を訊く。

それが私には痛々しく映ってしまい、「無理しなくていい」と何度も言いかけたことか。

しかし、それを言って何になるのだろう。

私にはその先の、その手を掴み、引き上げる自信などない。

今の私は崖から落ちようとしている人間に「大丈夫か」と叫んでいるだけに過ぎないのだ。

「蒼葵くんさ。何でそんなに辛そうなの」

暗い思考に支配されていた私に、彼女はそう言った。

暗い感情と「子供振りをしなければ」という思いがぐちゃぐちゃに混ざり、私は自嘲気味に言ってしまう。

「辛そうに見えますか?こんな子供が」

子供はこんな言い方しないだろうと気付いたのは言い放った直後だ。

「とても」

彼女がじっと私の事を見つめた。

心配そうな顔をしている。

自分の方が辛いだろうに。

「『こんな子供が』とか言われると、本当に大人が子供のフリしているみたいだね」

彼女は寂しそうに、悲しそうに言い、笑う。

その表情がちくりと胸を刺し、私は得意ではない冗談を言う。

「僕が本当に杏子さんより生きていると言ったら信じます?」

冗談に聞こえる様に言った。

いや、冗談にしか聞こえないだろう。

「ちょっと信じちゃうかも」

私と同じように茶化す彼女。

「でも、なんで僕が辛そうに見えたんですか」

何気なく、口から出た言葉だった。

本当に自分が何故辛そうに見えたのか、気になったわけではない。

単に、沈黙が怖かったのだ。

「なんかね、人間が、世の中が嫌いで、とても生き辛そうに見えたんだ」

彼女も自嘲気味に付け加える。

「似たもの同士かもしれないなって。私達」

その彼女の言葉は、なぜだか痛々しく感じなかった。

それだけではなく、穏やかな印象さえある。

空元気から出た言葉ではないからだろうか。

ここで、私は「似た者同士だなんて」と笑い飛ばすことも出来た。

しかし、そうはしなかった。

「そうかもしれないですね。似た者同士なら、杏子さんも辛そうにしていた方が、僕も落ち着きます」

代わりに、そう伝えた。

上手いことを言おうと思ったわけではない。相手を気遣う言葉ですらなく、これは私の本心から出た言葉だ。

杏子と似た者どうしなのは実際、あの人なのだろう。

しかし、彼女の暗さに、確かに私と同じものを認めていた。

それは、息苦しさであり、自己嫌悪であり、虚無感であり。

理由は違えど、その翳りは「似た者同士」と言えるのかもしれない―――私はそう感じた。

彼女は暫く目を丸くしていたが、だんだんとその目が歪んでいき、顔を手で覆う。

彼女のかすかな嗚咽が、忙しない店内に溶けて消えた。

彼女の嗚咽が止んだあと、彼女は目を拭い恥ずかしそうに呟く。

「小学生に励まされてたら、私もまだまだだね」

私はこの時初めて彼女の弱さに触れた気がして、少し嬉しかった。

そして、自分を子供としか見られていないその距離感に、すこし不満を覚える。

だから、真面目な顔をして先ほどと同じ質問をした。

「もし、僕があなたより生きているって言ったら、信じますか」




 彼女は目を丸くして驚いていた。

しかし、私が私の見た目から推測できる年齢からは知り得ない出来事を見てきたように―――実際に見ているのだが―――言い当てると彼女は認めざるを得ないようだ。

「まさか、本当に私より長生きしていたとは……。それどころか、人間じゃないなんて……」

そう言って天井を仰いだ、彼女はその後ぽつりと

「でも、口調はおじいちゃんみたいな感じじゃないんだね」

なんて言ったので、私はからかいたくなって、鋭く睨みつけながら言ってみる。

「ほう、口調も戻したほうがいいのかえ?」

少しは威厳が出ていたのだろうか。

私の雰囲気ががらりと変わったのか、彼女はびくりとする。

「ま、前の方が良いです……」

何故か敬語で言われた。

少しやり過ぎたかと反省する。

恥ずかしくなって頬を掻いてしまった。

「まぁ、なので子供らしくないと言っていった杏子さんは、間違っていなかったということですね」

これ以上怖がらせないように私はできるだけ柔らかく言った。

彼女は遠くを見るように、目を細めて私の事を見る。

「じゃぁ、私の悩みなんて、蒼葵くんにとっては大したことないのかもしれないね」

「そんなことはないですよ。年月を重ねたって―――」

他人ひとの悲しみなど、辛さなど理解できない。

そして私はその形の無いものを理解しようと、ずっと考えている。

私は、どうすればよかったのだろう。

本当に殺めるしか。

「蒼葵くん?」

彼女が私の顔を覗き込む。

中途半端に言葉を区切ったせいだ。

彼女をじっと見つめる。

杏子と記憶の中のあの人が、一瞬重なった。

「杏子さん」

私は訊かなければならない。

「何?」

私はどうすればよかったのかを。

「杏子さんは、あのまま死んだほうがよかったですか。僕に助けられて迷惑でしたか」

彼女は少し、考えた。

沈黙が私達の間に横たわり、聞こえるのは店内でかかっている音楽と、他の客が作業をしている音のみが響いている。

私はそれすらもうるさく感じ、彼女の言葉を聞き漏らさない様にと、意識を耳に集中させた。

そして

「わからないや」

かすかな声であったが、確かにそう聞こえた。

「わからない、ですか」

私は意外に思う。

「迷惑だ」と言われると思っていたのだ。

少なくとも朝、私と出逢った時の彼女はそう思っていたはずである。

そんな思考が表情に出ていたのだろう。

彼女は静かに、そして優しく言う。

「私は自分に失望して、『あぁ、自分なんて生きていてもしょうがないんだな』って思うから、いなくなりたいって願ったんだ。誰も消してくれないなら、自分で消すしかないから」

そう。だから、私は鏡子に頼まれた。

「もう、この世界に自分は必要ないから、せめて貴方の手で逝きたい」と。

ならば、私は最期の願いを叶えた。

光栄なことではないか!

それなのに何故、私はこんなに落ち込む必要があるのだろう。

「でも、蒼葵くんさ」

今度ははっきりと聞こえた。

「最初から死にたい人間なんていないんだよ。誰でも最初は、生きたいって思ってる。だけど生きていく自信も無くなっていって、誰でもできるようなことも出来なくなっていって、本当に自分は死んだ方がいいと思ったんだよ?だけど、君に助けられた時ね」

彼女はふっと笑う。

「生きてるってわかった時、すこし安心したんだ」

「仕事もうまく行かなくて、上司に怒られて、『お前はだめなやつだ』って言われて、自分でも自分がそうとしか思えなくなって。でも、そんな私でも手を伸ばしてくれる人がいるってわかった時、悔しくなるくらいに安心した」

その時、私は自分の願いを理解した。

私は、ただ生きていて欲しかった。

私の傍で笑って欲しかった。

泣いて欲しかった。

怒って欲しかった。

こんな絶望に溢れた世界であっても、生きていてもどうしようもないと思う世界であっても!

そんな単純なことにすら、今まで気づかないなど。

しかし、だからこそ。

生きろと言うのは酷な話なのだ。

鏡子を傍で見てきた見てきた私でさえも、どれだけの絶望を抱えていたのかわからない。

私は、更にどうすればよかったのかわからなくなってしまう。

迷子の子供の様な、不安で心許ない気持ちになる。

私は目の前の彼女に縋るような心持ちで質問をした。

「もし、『殺してくれ』と真剣に頼めるような、お互い一番信頼していて、好きな人がいたら、頼みますか?」

きっと、この時の私は見た目相応の、子供の様な顔になっていたことだろう。

彼女は「そうだなぁ」と、一瞬考える仕草をし、答えた。

「頼んじゃうかもしれない。もちろん、本当にしてくれるとは思わないけれど」

「では、実際にその人が実際に手をかけてくれたら嬉しいですか?」

彼女はすこし躊躇った。

普通の質問ではないと判断したのだろう。

しかし、そう見えたのもほんの少しの間だった。

「嬉しいよ。だって、殺したという罪と、自分のどうしようも無い願いを天秤にかけて、私の方を優先してくれたわけでしょ。本当に好きで、苦しみまで理解してないとできないよ」

彼女を手にかけたときの生々しい感触が再び蘇る。

私は無意識に自分の手のひらを見てしまった。

「蒼葵くん?ちょっと変だよ」

彼女が私に声をかける。

変であるのは、自分でもわかっていた。

しかし、私には落ち着ける程の余裕はない。

きっと、吐き出してしまわないと、狂ってしまう。

「杏子さん、すこし僕の昔話を聞いてもらっていいですか?」

彼女はこくりと頷く。

私はそれを合図とし、私と鏡子のことを少しだけ語り始めた。




 鏡子と出会ったのは、彼女が私達の住む世界に来てしまったからである。

最初に彼女を見つけた時、妖怪も、神もいない物静かな所で、彼女はぼーっと空を見上げていた。

「なにをしているのじゃ。すぐに帰れ。願えば帰れるぞ」

私はそう彼女に声をかけた。

自ら願う、私達が帰るときに巻き込まれるなどして、たまたま「こちら」に迷い込んでしまう人間は少なくなかった。

大抵は驚いてすぐに帰る。

帰りたいと願えば帰れることができるのだから。

そして、私もひとりでいたかったのである。様々な者がごった返すところは好きではない。

だから、時々こういう場所に来ては静かな時間を楽しむ。

だから、彼女にどこかへ行って欲しかった。

「獣の尾に尻尾……?」

私の言葉を無視し、彼女は呟く。

なるほど、まだこの世界ここの住人には会っていなかったか。

私はここに人はいないことを説明し、彼女のいる場所では無いから帰れと、もう一度言う。

だが、彼女は

「いいえ、私は人の住む場所には帰りたくないのです」

と拒んだ。

この時の私は人間というのもを、杏子と出逢った時とは別の意味で苦手だった。

「人間」という種族で括るにはあまりにも個体にバラつきがありすぎるから、掴みどころがない。

だから、どう接していいわからないのだ。

「あの」

人間が私に声を掛けてきた。

「なんじゃ」

あたかも面倒だという声音で言ってみたのだが、彼女には伝わらなかったらしい。

「その尾、触らせてくれませんか」

自分の要求を伝えてきた。

「……は?」

聞き間違いかと思った。

しかし、私が何かを言う前に彼女は私の尾を触り始めた。

私は半刻ほど尾を触られ続ける羽目となった。

私を拷問から開放した彼女は満足した表情で、こう言う。

「あぁ、これだけ楽しい時を過ごしたのはいつ振りでしょうか」

悪気の無い彼女の言葉に私は怒る気も失せてしまった。

「満足したか。儂の尻尾は見世物ではないぞ。さっさと帰るがよい」

何度目かの注意を私がすると、彼女はとたんに暗い表情になる。

「……いいえ」

頑なに彼女は言う。

何故、そこまで頑なに拒むのであろうか

「何故じゃ」

「私達の世界は、私には生き辛いのです」

「ほう?それはどういう意味じゃ?」

私は、理由を聞き、適当に励ましてやれば彼女は帰るだろうと考えた。

だから、深く考えずにその訳を訊いてしまった。

しかし、結果として更に彼女を帰し難くなってしまったのである。

「それは」

彼女は言う。

自分は人とは違うのだと。

出来て当たり前のこともできない。

生きていくだけで、息苦しくなる自分は、人間としての生を歩むのにも疲れてしまう自分は人間なのだろうかと。

百年ほど自分と付き合っていれば、自分の限界というのも受け入れられる。

できることとできないことがしっかりと解り、自分と他人を比べ、傷つくことは少なくなる。

もし生きることすらできることと言えないのならば―――

私は言葉を失った。

ここで帰れと言えるほど、人間を憎んではいない。

ただ、苦手なだけである。

私は

「ならば、儂の家に泊まるか?」

そう提案していた。

この時ほど自分がお人好しだと思ったこともない。

彼女はにこりと笑って頷く。

「儂は蒼葵と言う。そなた、名は?」

「鏡子といいます」


これが私達の出会いである。


それから私達はしばらく共に過ごした。

街の妖怪を見る度、神を見る度、彼女ははしゃいだり、驚いたり、とにかく私を飽きさせなかったのをよく覚えている。

だんだんと、互いに惹かれ合っていった。

しかし、そうしている内に私は不安になる。

人間の世界で彼女がいなくなって、何も起こらないだろうと考える程、楽観的ではなかったからだ。

彼女の傷もだいぶ癒えた頃、私は「再び人間の世界で暮らしてみないか」と提案した。

もちろん、彼女と離れるのは寂しかったが、私もすぐに人間の世界そちらへ行ける。

必ず、暇を見ては会いに行くというと、彼女は「今の私はあなたがいますものね」と了承した。

この選択を私は後に後悔することになる。

再び、それぞれの世界で暮らし始めた。

暫く人間の世界から離れていたため、戻ってきた当初は大変そうだったが、直に彼女は元の生活を取り戻していった。

いつ頃からだっただろうか。彼女の元気が無くなっていったのは。

私といても、彼女は寂しそうに笑うようになった。

私が何かをしようとすると、申し訳無さそうに断るようになった。

今ならわかる。

自分に対して自信を、生きる自信を、失くしていたのだ。

その時の私は彼女に何かがあったことくらいしか察することしかできず、「どうした」と訊くことしかできなかった。

暫くは「いいえ、なんでも」と言っていた彼女だが、ある日、彼女は呟くように、ぽつりと言った。

「私、勘違いをしていました。あなたがいるから強くなった気がしてたんです。でも弱い私は弱いままだった。何も出来ない私のままだったんです」

彼女は、自分の世界に押しつぶされていた。

仕事も、人間関係も上手くいかない。

私は、彼女への手の伸ばし方も知らず、また、その絶望の淵から引き上げる力もなかった。

「ねぇ、私を殺してくれませんか」

時々、彼女が冗談を言うみたいに、そう言うようになった。

あなたの手で死ねるなら、これ以上に幸せなことはない、と。

私はその言葉を、笑って流していた。

彼女には私がいる。

その慢心が彼女を更に追い詰める。

そして、彼女は真剣な表情で終わりを告げた。

「私を、殺してください」

この時初めて、私は手遅れであることを知る。

そして、私も自分に自信が無くなっていた。

一番近しい、愛しているはずの彼女に何も出来ない自分。

いままで彼女になにもしてやれなかった自分に今更何ができる?

今更足掻いてももう、遅いのだと私は悟る。

本当に良いのか。

しかし、もう。

彼女を救う方法は―――


そして、私は彼女を殺めた。


人の世は彼女がいなくても、上手く回っているようだった。

それが、私には赦せなかった。

誰が彼女をそこまで追い込んだのか。

誰か気にかけるような人間はいなかったのか。

しかし、何より赦せないのは―――

他でもない、私自身だ。


私に残ったのは、後悔と、喪失感と、虚無感と。

そして、様々な風景に散らばる彼女の面影のみだった。




 私は話している間、杏子は黙って聞いていた。

私の話を終えると

「そっか……」

彼女はぽつりと言う。

「ごめんなさい。こんな話されても困りますよね」

話し終わった途端、そんな疑問が頭に浮かび、私は咄嗟に謝ってしまった。

「ううん……。そんなことないよ。聞かせてくれて嬉しかった」

私はなんと言っていいかわからず、ただ黙っていた。

自分の暗い部分を話してしまったという気恥ずかしさが、私の居心地を悪くさせる。

「でも、羨ましいな」

「え?」

彼女の口から場違いな言葉が聞こえたので、私は思わず聞き返してしまう。

「自分のわがまままで聞いてもらったのに、その後もずっと悩んでくれてて、言い方はおかしいと思うけれど、蒼葵くんが彼女さんが本当に好きだったんだろうなって、ちょっと羨ましくなっちゃった」

そう、なのだろうか。

私が彼女の立場であれば、そういう感情を抱くかどうか、私は想像ができない。

しかし、当事者の私にとってはなかなか理解が難しいものなのは確かだ。

いや、私がそう思えたのであれば、ここまで苦しんでいないのかもしれない。

「ごめんね。不謹慎だったよね」

「いえ、そんなことは思ってませんよ」

彼女なりに、感想を言葉にしてくれことに感謝こそすれど、不謹慎とは思わなかった。

私はもう一度「望ましい」という言葉を噛みしめる。

望ましいと思われるようなものだったのだろうか。

「彼女は幸せだったのでしょうか。救われたのでしょうか」

こんなこと、杏子に訊いても仕方がない。

杏子は鏡子ではないのだから。

しかし、私は訊かずにはいられなかった。

そして、彼女はすこし悩む仕草をする。

何を言い出すつもりだろうかと考え、少しだけ自らの鼓動が耳につく。

一瞬だっただろうか、それとも結構時間が経っていたのだろうか。

「私が言うのも痴がましい話だけれど」

彼女はそう切り出した。

「鏡子さん、幸せだったと思うよ。蒼葵くんがいるおかげで随分救われたんだと思う」

その言葉を聞いた瞬間、私はふっと身が軽くなったように感じた。

「ありが、とう―――」

「ありがとうございます」と言おうとして私は言葉に詰まってしまう。

あぁ、自分は泣いているんだな。

そう自覚した時、私は嗚咽をこらえきれなくなった。

彼女は優しく、私を撫でた。




 「私さ、もうちょっと頑張ってみるよ」

落ちようとしている夕日を背に杏子は言う。

あの後、私と彼女は繁華街で店を見て回りながら、他愛もない話をして過ごした。

そうして、今は広々とした公園にいた。

「……そうか」

私は、ぶっきらぼうにそれだけ言った。

そう言う彼女を見て、私は手放しには喜べずにいたからだ。

もう一度死のうとするのではないか。

きっと、その時は―――

そんな不安が顔に出ていたのか、彼女は笑って「大丈夫」と言う。

「一度死に損なっちゃったら、あの時の怖さを思い出して、もう怖気づいちゃったよ」

「それならよい」と、そうは言えない。

彼女の世界は相変わらず残酷なままなのだから。

「何、まだ不安なの?」

私は頷いた。

空が彼女を赤く照らし、それがとても儚げに見え、今にも消えてしまいそうな気がして胸が苦しくなる。

そんな私に彼女は悪戯をしようとする子供の様に笑う。

「じゃぁさ、約束しようよ」

「え?」

彼女の突拍子もない提案を私は何回も聞いてきたはずだが、不意打ちはやはり驚くらしい。

この時も私は間抜けな声で聞き返してしまう。

「ちゃんと生きるって、約束しよう」

「それは」

それは、彼女にとって、とても難しいことである。

「それは、杏子さんにとって重くはないですか」

「だから、約束するんだよ」

約束をしていいものか。

私は迷ってしまう。

「私から見るとさ、蒼葵くんもひょっこり死んじゃいそうだよ?」

そうか、似たもの同士か。

私はそう思って吹き出してしまう。

今の会話には不釣り合いな、楽しげな笑い声が2つ、人の少ない公園に響いた。

「それに、今日一日一緒に過ごしただけだけど、私もだいぶ蒼葵くんに救われたんだ。いつの間にか、私が気づかない内に死んじゃっていたらやだな」

その言葉に胸を打たれた。

私は、もう一度生きてみてもいいのだろうか。

彼女が小指を私に向ける。

「いつかちゃんと死ねるまで、生きる。約束ね」

この、どうしようもない後悔と、虚無感。

そして、彼女の面影。

それを抱えてもう一度歩き出すのも、悪くはないのかもしれない。

自ら生き苦しい世界を生きると言った彼女を見て、私はそう思った。

彼女の小指に、自分の小指を絡める。

「指きった!」

彼女が嬉しそうに言う。

「さて、そろそろ帰ったほうがいいのではないですか?」

結ばれた小指が離れた時、寂しさを感じたことに、私は気づかないふりをした。

「そうだねぇ。もう暗いもんね」

帰らなくてはならないが、もう少し話していたい。

なんとか別れの時間を伸ばしたい。

しかし、それもできない。

そんなもどかしい沈黙が流れた。

「ねぇ、また会えるかな」

今度は彼女が不安な顔をした。

私は先ほどのお返しとばかりに言う。

「何、不安なんですか?」

にやりと笑ってしまう。

「ま、まぁ、少しは?」

彼女は照れを隠すように言う。

それが、とても面白く、私は笑いを隠せなかった。

それをみて彼女が睨みつける。

私は極力笑わない様気をつける。

「大丈夫です。いつでも会えますよ。携帯電話は持っていないですが、あの駅にちゃんといるようにします」

彼女はそっかぁと、呟く。

「じゃぁ、安心だね」

「そうですよ」

再び沈黙。

今まで、沈黙を破っていたのは彼女だったので、最後くらいは私から言おうと、私は口を開く。

「では、また今度、ですかね?」

彼女も言う。」

「うん。また今度」

じゃぁ、と言う声が重なり、それが消えると彼女は背中を向ける。

私は段々と小さくなっていく、その背を見えなくなるまで見ていた。

そうしてやっと、私も自分の所に帰らなければと思い出し、歩き出す。。

見上げると、夕日がとても綺麗で私は生きているのだな、と感じる。

そして、私は、このまま私を抱えて生きていくのであろう。


そう、いつかちゃんと死ねるまで。


ふっと笑った刹那、日が落ち冷え込んだ空気に白い息が溶けて、明るくなった夜の街に消えていった。

                  <了>

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