見てはいけないもの(2)

 僕たちはありったけの力を振り絞って坑道を走り続けていた。だが、やがて少し開けた場所までやって来ると、ミス・キルスティンが足を止めてその場に倒れ込み、苦しげに息の調子を整えた。マジュリカさんは彼女のそばに立ち止まり、背後を振り返って安全を確認する。

「ここまで来ればとりあえずしばらくは大丈夫だろう。迷路のような廃坑をぐちゃぐちゃに走ってきたからどこにいるのかさっぱりわからないが、やつらも同様にわからないに違いない」

 掲げられたカンテラが辺りを照らし、僕はここが自分のよく知っている場所だということに気がついた。そうだ。ここはかつて僕が教授と暮らしていた場所だった。そして、教授が命を落とした場所でもある。あの暗がりの先で、教授は大佐と呼ばれていたマジュリカさんの父親に――自身の娘婿に撃たれて死んだのだ。

 脳裏に蘇る無残な光景を振り切ろうとその場から目をそらすと、マジュリカさんと視線が合った。彼もまた、自分たちが今どこにいるのかに気がついたようだった。

 辺りを探っていたコティさんが、「どうやらここには誰かが住んでいたみたいですね」とトロッコ脇に置き去りにされていた埃だらけの紙袋を持ってきた。そこには教授が死んだあの日、僕が町で買った品物たちが時が止まったように同じ姿で収まっていた。

「スモークハム、豆の缶詰、チーズ、ボトルに入った水が数本、ハーブ入りの噛み煙草――。チーズはカビてなさそうだし、缶詰の日付から察するにそう古くはないみたいだ。一攫千金を求めてやって来た採掘者の忘れ物かな? なんにしろ水と食料はありがたい」

 コティさんの話が終わらないうちに、ミス・キルスティンはがばりと身を起こし、無我夢中でチーズにかぶりついた。ひとしきり食べ終わると、彼女は再び意識を失ったみたいにバタリとその場に倒れ込んだ。

「大丈夫ですか、ミス・キルスティン」

 心配して声をかけると、大きないびきが返事をした。どうやら押し寄せた疲れから眠りに誘われたようだった。コティさんが笑いながら護身用のナイフで器用に水のボトルや缶詰を開け、僕らはそれを分け合った。

 マジュリカさんが懐中時計の蓋を開いて時刻を確認したとき、僕はそれを横目で見ながら、

「もうすぐ夜明けですね。ポートグロフさんはまだ救急所で僕たちを待っているのかな」

 と呟いた。コティさんが笑顔で頷く。

「あの人のことだから、きっとお腹がすいただの、鉱山に美女がいないだの、ひとしきり騒いで疲れ果ててまだ眠ってるよ」

 その言葉を聞いて、マジュリカさんはひどく感心したようだった。「あいつのことをよく理解しているな、コティ」

「そりゃあ、四六時中一緒で、つきっきりでお世話してますからね。朝昼晩の食事の用意をして、洗濯して、掃除して――ってなんだかこれじゃハンフリーさんに嫁いだみたいだな」

 僕はふいに疑問に思う。「コティさんはポートグロフさんと一緒に住んでるんですか?」

「うん、そうだよ。僕は戦争孤児でハンフリーさんに拾ってもらったんだ。きっと、ちょうどその頃亡くなられた妹さんの代わりに家族として迎えてくれたんだと――」

 言いながら、コティさんははっとしたように口を閉ざした。たぶん、スカーレットさんの話はマジュリカさんの前でタブーだと思ったのだろう。そのことに気がついたのか、星図家は苦い笑いを滲ませた。

「そうだったな。あの頃――ハンフリーは最愛の妹に先立たれ、おまけに航空戦の禁止を嘆願しても叶うことなく、精神的にひどく追い詰められていた時期だった。おかげでライバルのベルクト・ランガーにあっという間に追い抜かされて、ポートグロフ社は軍からお払い箱になってしまった」

「ハンフリーさんは優しい人だから……善人だから、世の中の悪に負けてしまったんだ。でも、あの人は自分の姿勢をつらぬく立派な人だよ。僕なんかには到底真似出来やしない……本当に、とても立派な人なんだ」

 そう言って、コティさんは少しだけ悲しげに微笑んだ。

 血の繋がっていない赤の他人を家族として受け入れたポートグロフさん。そして、そんな彼を慕うコティさんの姿は、僕に言い知れようのない眩しさをもたらした。同時に、自分の大切な家族がもう二度と戻って来ないという現実に改めて気がつかされた。

 僕はここに来てようやく、教授が死んでから初めて涙を流したのだった。


 しばらくすると、占星魔術師を追うようにして飛行家の助手も眠気に舟を漕ぎ始めた。

 僕は音をたてずに立ち上がり、採掘場のテントから毛布を運んできて折り重なるように眠る二人の体にかけてやった。

 ミス・キルスティンのいびきが時折響く坑道で、僕とマジュリカさんは話をするでもなく互いに黙ったままその場に座っていた。マジュリカさんが噛み煙草の缶に手を伸ばし、かつて教授が好んだ短い草のようなものを噛んだ。

「リピンコット大佐は――あなたのお父さんは、教授を殺したいほど憎んでいたんですか?」

 僕からの問いかけは突然だったが、星図家はずっとそれを待っていたようだった。こうして聞かれることをあらかじめわかっていながらも、それでも気持ちが動じているのか、彼はわずかな沈黙をおいてから声を抑えて言葉を返した。

「憎むもなにも、二人はあの日が初対面だったのだよ」

「初対面? じゃあ、初めて会った身内を撃ち殺したって言うんですか?」

「世の中にはそういう人間もいるのさ」

 採掘しかけのアモルファルファの鉱床が、カンテラの光を受けてほんの一瞬だけ儚い輝きを見せた。

「そろそろ、おまえにすべてを話す頃合かな」

 マジュリカさんはそう言うと、噛んでいた煙草を吐き捨てて一呼吸置いた。それから、彼はまるで糸に縒りをかけるみたいに、ぽつりぽつりと言葉を選んで話し始めた。

「私の祖父は地質学者でね、この鉱山を拠点に暮らしていたんだ。星図家であった祖母は東の大陸とルピヤードを往復する生活を送っていた。二人がどのようにして出会ったのかは知る由もないが、少し変わった関係であったことは間違いない。彼らは愛し合っていたけれど、数年ごとにしか顔を合わせることもなかった。それぞれ自分たちの生きたいように生き、おばあ様曰く、それなりに幸せだったそうだよ。

 彼らの間に生まれたひとり娘は――この人は私の母にあたるわけだが――彼女は生まれつき病弱で、年頃になっても外出すらしたことがないような深窓の令嬢だった。大戦が勃発する前の革命の最中、リピンコットの館は負傷兵のために開放され、母はこのときひとりの軍人と出会った。それが私の父だった。

 野心家の父は財産と権力目当てで資産家であるリピンコット家の婿養子となった。父は母に対して愛情など一欠けらも持ち合わせていなかった。恋のひとつも経験したことのなかった母にとってはまた違っていたようだがね。身分の低い一兵士でしかなかった父は、リピンコットの名を使って瞬く間に出世を繰り返した。まもなくして私が生まれ、妻を病気で失うと、おばあ様とそりが合わなかった父はあっさりと館を去ったそうだ。

 やがて年月が流れ、成長した私が幼馴染のスカーレットを追うようにしてシザーリアスと空軍に入隊した頃、おばあ様も亡くなった。おばあ様は死に際に、『おまえのおじい様との約束を果たさなければならない。トレキアの秘密を護らなければならない』とうわ言のように言い続けていた。そのことを私は父に打ち明けた。彼という人間をよく知らずにいた私は、これを機に親子の関係を築けるかもしれないと淡い期待を抱いたのだ。

 大戦後、父は軍の力を利用してトレキアに関する調査を秘密裏に始めた。名目上は東の大陸の植民地に駐在する一師団として。――あとはおまえも知ってのとおりさ。私の期待は粉々に打ち砕かれた。私は大佐である父と彼の部下であるシザーリアスと共に、キラキラ鉱山に住む祖父の元へトレキアの秘密について尋ねに行った。だが、祖父はそのことについて何ひとつとして語ろうとはしなかった。それで――撃ち殺されたのだ」

 マジュリカさんはそこで話を止めると、一時の沈黙を置いてから苦しげな声で続けた。

「おまえの『教授』が死んだのは、私のせいだ。私が父にトレキアに関することを口にしたばっかりに、こんなことになってしまったのだ」

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マジュリカ・リピンコットの世界を紡ぐ星 Lis Sucre @Lis

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