第4話
……天秤座の月第三十七日、閲兵式から約一ヶ月後、その日学校は休みだったが、僕が家で本を読んでいると、仕事に出かけているはずの父が帰宅した。
「仕事、もう終わったんですか?」母が父に聞いた。しかし、父は慌てふためいた様子で叫んだ。
「それどころじゃない! いいか、今すぐ支度をするんだ、服と貴重品を持て、二十分で出るぞ」
一体何が起こったのか、僕も分からなかったし、母も状況を理解できていないようだった。「あなた、何ですか」
「あとで説明するから、今はとにかく準備を」父は箪笥をひっくり返し、自分の衣類をスーツケースに詰めながら僕らをせかした。一体何のことか分からぬまま、僕も荷物をつくった。
「もう出るぞ!」
玄関で父が叫ぶ。僕は慌てて鞄を閉じた。部屋を出ようとしたとき、机の上に置いてあった、河原でもらった石が目にとまった。僕はそれをポケットに入れた。
父の運転する車は、道を郊外の方へと向かった。それは谷の方だった。工事現場の入り口のゲートで父は何か許可証を見せた。車は谷に入り、そしてあの洞窟前で僕らは降りた。
僕は絶句してしまった。洞窟の入り口はコンクリートでダムのように固められ、要塞化されていた。父は僕らに少し待っているように言うと、その要塞の入り口の方へ走っていった。
口を開けて見上げていると、空から大きな音が聞こえてきた。ヘリコプターだった。政府のマークが付いている。それは洞窟前の開けた河原に着陸した。降りてきたのは、ニュースでも見たことのある人たちだった。その中に執政官を見つけたとき、明らかに異常な事態が進行していると、確信した。
その時、ヘリコプターの騒音の中でも聞き取れるほどの大音量――警報音が、町の方から響いてきた。それは大砂嵐警報の音だ、と学校で教えられたものだった。それは秋の嵐なんかよりもずっと強力な嵐を意味する。この音が鳴ると、住民は市役所の地下シェルターに避難しなくてはいけない。
僕は反射的に町の方を見た。そしてその時、北の空に流星を見た。たくさんの、数え切れないほどの流星だった。
そして、次の瞬間……
空が、割れていた。
北の空に浮かんでいる鏡、火星の赤道地帯を温和な気候に保つために軌道上に設置された巨大な鏡群、それに何カ所もヒビが入り、ばらばらになっていく。周囲で悲鳴が聞こえた。
僕は車に立ち戻ると、すぐラジオをつけた。音声は極めて不鮮明だった。「繰り返します……火星は現在、攻撃を受けつつあります。通信は著しく損害を……おり、被害は分かりませ……が、地球が……を受けたという未確認情……も入っております。状況がわ…………お伝えします。住民の……は、身の安ぜ……保してくださ……」
そこで放送は途切れた。すると、今度はもっと明瞭な音声が流れ込んできた。それは極めて古風な共用語(ソーラー)だった。
「……我々エリダヌス座イプシロン星政府ハ、暴戻ナル太陽系政府ニ対シ、戦ヲ宣スモノナリ……是釁端(きんたん)ヲ開クニ至ルハ太陽系政府ノ非望ノ為ニシテ…………我々ハ、平和ノ裡ニ事態ヲ回復セシメントシテ、隠忍久シキニ弥リタルモ、彼ハ毫(ごう)モ交譲ノ精神ナク、徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメ……」
内容の殆どは理解できなかったが、しかし、『戦』という語だけは聞き取れた。そのとき僕の腕を誰かが掴んだ。振り返るとそれは父親だった。父は僕を引っ張った。
「準備がやっとできた、さあ、早くシェルターに……」
「ちょっと待って、父さん」僕はその洞窟の要塞――父がシェルターと呼んだものを指さして言った「戦争って、それに、こんなもの造ってたということは……」
戦争は予期されていた。僕は説明が欲しかった。だが、父は僕の言葉に何も応えずただ手を引いて引っ張っていく。僕はその手を振り払った。
「町の人たちはどうなる、空の鏡が落ちてきたりしたら……」
それ以上は言えなかった。父は僕の頬を打った。未だ、僕を殆どしかったことのない父が、初めて僕を打った。父の目には、涙が浮かんでいた。
……周りを見れば分かる。ここは、政府要人のためのシェルターなのだろう。行政機能一式を丸ごと移転した、核爆発にも耐えられる、そういう巨大なシェルターなのだ。一役人でしかない父と、その家族が入ることができる、それは殆ど奇跡のようなもので、そして、それが精一杯なのだ。
空が突然光った。見ると、北の方に直立している軌道塔――直立しているはずの軌道エレベーターが、ぐにゃりと歪んでいた。フォボスも心なしか大きく見える気がした。またフォボスが閃光を発した。
――フォボスの軌道が下がっている、それを核爆発で修正しようとしていた。フォボスは落下するかも知れない、ともすればしないかも知れない。しかし、軌道塔は確実に崩壊するだろう。
歴史を思い出した。最終戦争で地球の軌道塔が一つ倒壊し、大量の塵が巻き上げられ、そのせいで数十年にわたり地球には核の冬が訪れた。火星も、そうなるのだ。
父と母は僕を連れて、シェルターに入っていった。僕は服の上からポケットの水晶を触り、マリのことを想った。彼女は今ここにはいなかった。そして、彼女が愛していた、楽しみにしていた緑の丘のことを思った。
嗚呼、マリ、と僕は涙を流しそうになるが、そばで俯いている父を見ては泣いてもいられなかった。いっそ狂ってしまえば楽かと思ったが、意外と心は冷静なのだ。
春は既に遠かった。ただ僕は、それでも祈らずにはいられなかった。そんなに信仰深いわけではないけれど、これでも聖句の一つや二つは覚えているものだ。僕は涙をこらえながら呟いた。
……ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。
花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。
いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。
岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ、姿を見せ、声を聞かせておくれ。お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。
(了)
緑の丘に花咲く頃 淡嶺雲 @Tanreiun
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