2. 二〇三九年五月三十一日 一五時五五分

帝国ホテル 本館十六階


 山口は俺たち二人とエレベーターで本館の十六階に上ると、

「こっちだよ」

 と俺たちを手招きした。

「すごいだろう? 帝国の十六階って言ったら普通は国賓クラスのお客様しか入れない特別フロアさ。彼女はここに住んでいるんだ」

 大げさなしぐさで周囲の調度品を披露する。

 山口が言うとおり、ここは特別なフロアのようだった。

 間接照明の柔らかな光に満たされた長い廊下に人影はなく、あたりはシン……と静まっていた。巧妙に配置された絵画やさりげなく飾られた生花が暖かく、そして静謐な雰囲気を作り出している。

 だが、人の気配がないわけではない。おそらくサービスルームには人が常駐しているのだろう。ひょっとしたら武装した警備員もいるかもしれない。

「私たち、すっごく見られてますね」

 クレアが目だけで天井の隅のカメラを示した。巧妙に隠されてはいるが、そこここに監視用のカメラが見てとれる。

「なんだかとっても追尾されてます」

「ま、当然だろうね。これでもマシなほうさ。ちゃんとアポ取れてるから追尾されるだけで済んでるんだよ」

 歩きながら山口は壁面のくぼみを指さした。

「そもそもアクセスルートが制限されているし、万が一ここまで来られても、あの穴からアリみたいに這い出てくる近衛兵みたいな恰好した武装警備員に拘束されちゃう。無理に上がろうとしても途中でエレベーターが止まっちゃうしね。防護はかなり万全だ」

「ここには今ほかに誰が泊まっているんだ?」

 純粋な好奇心から俺は山口に尋ねた。

「誰も。このブロックには彼女しかいない」

 山口は答えた。

「あ、例の教育係の二人も一緒にいるか」

 多少不愉快そうに言葉を継ぐ。

「ほら、ここ一度吹っ飛ばされちゃったじゃん? あのときの教訓とかで今この階は六つの小ブロックに分割されてて、それぞれのブロックが政府支給のクラスⅢのチョバムプレートで対爆加工されてるんだ。それぞれのブロックには専用エレベーターじゃないと入れない。そのブロックの一つを彼女のお祖父様が借り上げちゃったんだ、期間無制限で。だからこのブロックには彼女たちしかいない」

「そりゃあまた豪勢な話だな」

「まったくだよ。帝国ホテルのインペリアルフロアの、しかもスーパースイートを期間無制限ってどれだけ金持ちなのよって話さ。しかし九二〇八便事件の犯人たちも気の毒なことだよ。とんでもない一族を敵に廻しちゃったよね。金があるぶん、政府機関よりもよっぽどヤバい」

 不謹慎なことを言いながら、山口は大きな客室ドアの前で立ち止まった。

「さ、ここだ。会ってみようか、我らが破壊と殺戮のお姫様、『ブラッディ・ローズ』に」


+ + +


 山口がドアの前に立ち、胸を張って襟を整えてから客室のインターフォンのボタンを押す。

「ところでな、山口」

 待たされている間に俺は山口に尋ねた。

「『ブラッディ・ローズ』って、なんだ?」

「ああ」

 山口が我が意を得たりとばかりに、にんまりと笑う。

「うちの子が彼女の写真を見て言ったのさ。『彼女はブラッディ・ローズですね。死体の山に咲き誇る、血に塗れた大輪の白い薔薇です』、ってね。言い得て妙だからそれが彼女のコードネームになったんだ」


 しばらく待たされたのちにドアを開けたのは白い歯を見せてにこやかに微笑む、感じのよい白人の男性だった。

 強い巻き毛を刈り上げているためか、トウモロコシ色の髪の毛が逆立って鳥の巣のようになっている。若く見えるがおそらく歳の頃は四十代前半だろう。

 男はドアを内側に開けると、

「どうぞ」

 と流暢な日本語で俺たちを招き入れた。白いリネンのシャツとサマージャケットをカーキ色のパンツの上に羽織る姿はリゾート客のようだ。

「こんにちは、山口さん。またお会いできてうれしいわ」

 ドアの向こう、広い部屋のソファから立ち上がった女性がたおやかに頭を下げ、こちらに歩み寄る。

 栗色の長い髪、一目で高級品とわかる上品な仕立ての水色のワンピース。細く、長い手足にバレリーナのような身のこなし。細い鼻梁と緊張感のある口元が彼女の高い知性を感じさせる。

 長い睫毛に大きな瞳のその少女は、まるで物語の中から歩み出てきたかのように美しかった。

「霧崎さん、こちらこそまたお会いできて光栄です」

 山口が作り笑いを浮かべながら差し出された右手を両手で握る。

「こちらは内閣安全保障局特務作戦群五課の沢渡和彦と片桐クレアです」

 『片桐』というのはもちろん山口の口からでまかせだ。人工知性体であるクレアに苗字はない。

「こんにちは、沢渡さん、片桐さん」

 マレスは俺の手を深く握ると、力強く手を振った。

 だがこれは男の握手だ。

 それまでにこやかにしていた鳥の巣頭が、マレスの握手を見てふと眉を顰める。

 そんな変化に気づき、

「あ」

 とマレスは言葉を漏らすと、俺の手を握り直した。

「よろしくお願いします、沢渡さん」

 今度は浅く上品な、女性的な握手だ。

 だが、細く長いその手は、決して柔らかくも暖かくもなかった。

 彼女の薄い手のひらはまるで男の手のように冷たく、硬い。

 よく見れば彼女の顎には縦に長く、薄い傷跡もある。ほとんど見えないが激しい近接格闘戦CQCを潜り抜けてできた傷だ。

 それにしても美しい。それに可愛らしくもある。顎の傷跡すらがチャームポイントに見える。

 瞳の影はいつの間にかに姿を消していた。俺の前に立っている少女はとても美しい、愛らしい女性だ。

 こんなことはかつてなかった。

 図らずも、目がマレスの容姿に釘付けになる。

 そんな俺の視線に気付いたのか、マレスが首を傾げながら俺に向かって再びにこりと微笑む。

 どうにも気まずい。

「よろしく」

 俺は辛うじてそれだけの言葉を絞り出す。

 続けてマレスは

「こんにちは、片桐さん」

 とクレアの手を握った。

 だが、すぐに「あれ?」と表情を曇らせた。

 無言のまま、深い碧色の瞳でクレアを見つめる。

 流れるような銀髪のクレアもまた、マレスに負けず劣らず美しい。先進技術開発課の富田が精魂込めて作り上げた彼女の表情はあくまでも自然で、少しも人工的なところを感じさせない。ナノマテリアルで構成される滑らかな肌に覆われた彼女の手の甲には青く、血管のようなものすら透けて見えるのだ。

 しかし、彼女は一般的な意味での人類とはかなり言い難い。

 彼女はいわば知性を持った歩く電子戦兵器だった。

 高性能の戦闘用義体に非ノイマン型メインフレームとノイマン型のサブフレーム、それにクラウドからの電子支援で構成されるウルトラハイブリッド人工知能を備えた彼女は、あらゆるネットワークに自在にアクセスすることのできる電子浸透手段と高度な都市電子戦能力、それに極めて優れた知能と電子戦対抗能力を併せ持つ人工知性体だ。

 そしてπ13―タイプ3といういささか無愛想な型式名称を持つクレアは、自分には心があると自ら主張する恐らくは世界で初めての人工物でもあった。

 自我、あるいは心とは極めて主観的なものだ。

 もし、自我を持つと自ら認め主張する被観測物に対し観測者がその自我を認めるのであれば、それは被観測物が自我を持つということを認めるために必要かつ十分な条件を論理学的に満たす。

 そう富田には説明されたが、俺自身はまだクレアが心を持った新種の知性体なのか、あるいは心を持つとプログラム的に主張する機械なのかを判断できないでいる。

 それにしてもマレスは何を気づいたのだろう。クレアに会って彼女の正体を看破したものは未だに一人としていない。

 それほどまでにクレアの外見、そして立ち居振る舞いは完璧だった。

 だが、そんな俺の考えを知ってか知らずかマレスはそれ以上クレアに注意を払うことはなく、ただ、

「お掛けになってください」

 と右手で大きなソファセットを示すだけだった。

 コの字型に配置された白い革のソファセットの中心にスカートを整えながらマレスが静かに腰を下ろし、濃紺のベルトパンプスを履いた両足を上品に斜めに揃える。高級そうなレースのカーテンに覆われた背後の大きな窓が、まるで額縁のように彼女を際立たせる。

 身についたしぐさ、付け焼刃では決して得られることのない気品。血と硝煙に塗れた俺たちからはもっとも縁遠い類のものだ。

 俺とクレアは彼女の右側、山口が向かいの左側に座る。

 ドアを開けてくれた白人の男性は、まるでそこが定位置であるかのようにマレスの左側後ろに無言で寄り添うと、彼女の掛ける巨大なソファの背に右手を添えた。

「さて」

 山口は黒いブリーフケースを開くと薄い書類を取り出した。

「これが辞令書です。黒田長官の承認も得ています。条件は前回お話したとおり、階級は准尉、着任日も明日で変更はありません」

 山口はにっこりと笑うとサインを促すかのように書類を目の前の少女の方に押し出した。

「霧崎さんには沢渡と同じ特務作戦群五課に所属していただくことになります」

 ただ、と人差し指を立てながら山口は言葉を続けた。

「いくら経験豊富でも、さすがに新人さんをいきなり単独で実戦投入するわけにはいかないのですよ。ですのでしばらくは沢渡と行動を共にしていただきたい。ちなみにこちらの二人は一尉です。ま、言わば霧崎さんの上官になるわけですが、階級についてはあまり気にしなくても結構です。特務作戦群は色々特殊でしてね」

 沈黙。

 頭上を通過していくヘリコプターの音が防音ガラスを通して微かに聞こえる。

「……なるほど、わかりました。わたしを見極めたいんですね」

 しばらく沈黙したのち、マレスはにっこりとほほ笑んだ。

「い、いや、そんなことはないんですよ」

 珍しく慌てた様子で山口が言い繕う。

「いいんですよ、山口さん。確かにわたしたちは危険分子ですもの。いっぱい殺してるし」

 マレスは真顔になると言葉を継いだ。

「そんなわたしを招き入れてくれて、黒田長官にも、山口さんにもとても感謝しています。ありがとうございます」

 深々と頭を下げる。

「いえいえそんな、恐縮です」

 慇懃無礼、厚顔無恥で売る山口がこんなに慌てる姿は初めて見た。

 何をそんなに焦るのか。

 とは言え、確かにマレスの物腰には不思議な威圧感があった。物腰はとても柔らかいのになぜか逆らえない。抗いがたい圧力のようなものを感じさせるのだ。

 彼女は山口が差し出した書類を手に取ると、「おじさま、ペンをちょうだい?」と振り向きながら後ろに佇む男に声をかけた。

 だが、男は「オホン」と喉を鳴らすだけだ。

 彼女の素が出てしまったことが不服なようだ。

「あ」

 彼女はすぐに気づくと、今度は「ペンを」とだけ短く伝えると、肩越しに右手を際だした。

 仕方なく、鳥の巣頭が年代物の万年筆を差し出す。

 再びヘリコプターが接近する音。どうやらこの辺りを周回しているようだ。

 ふと気づくと黒人の大男が俺たちの向かい、ベッドルームへと続くドアに腕組みをして寄りかかっていた。

 俺よりも十センチ以上身長が高い。百九十センチを優に超えているだろう。細身ながら黒いシルクのシャツの上からも筋肉が逞しく盛り上がっているのがわかる。スキンヘッドにしている分よけいに威圧感がある。

 だがこちらも若くはない。先の男と同年代か、あるいは年上か。

 男は組んでいた腕を解くと、左手を振って右手を隠すようなしぐさをした。

 続けて太い人差し指で上を示し、指を四本立ててみせる。最後に右の人差し指と中指で左手首を二回叩き、男は無表情のまま何事もなかったかのように再び両腕を組んだ。

 マレスの表情が一瞬険しくなる。だが、すぐににこやかな表情に戻ると微かにうなずいた。

「ここにサインすればよろしいのですか?」

「はい。ここにサインを頂ければ。失礼ながら三か月の予備期間を設定しました。その間は沢渡と行動を共にしてください」

 万年筆の走る微かな音。

 音がしないように気をつけながら、俺はホルスターのスナップを左手ではずした。

 〈敵〉〈上〉〈四人〉〈時間はない〉

 先に大男が見せた奇妙な仕草はマレス達に向けた軍式のハンドシグナルだった。

 ならば、次に起こることは自ずと知れた。

 この状況でおそらくマレスたちは武装していないだろう。人事計画課の山口は護身用以外の銃を持ち歩いていない。山口のおもちゃのようなステンレス製の銃はあきらかに戦力外だ。

 俺とクレアで初動を取らなければならない。

 クレアも判っているようで、いつでも動けるようにソファに浅く座りなおしている。

 マレスは二部の書類にサインすると一部を山口に差し出した。

「こちらの一部はわたしが頂いても?」

「はい。そちらは控えですので」

 ヘリコプターの音が大きくなった。

 とても近い。

 思わず音のする方を見る。

 見ればマレスの背後の大窓めがけ、白いヘリコプターが接近してくるところだった。

 これは意図的な突撃だ。

「クレ……」

 腰を浮かし、クレアに声をかける。

 だがマレスの反応のほうがはるかに速かった。

 コーヒーテーブルを蹴り飛ばし、スカートをはためかせながら広い部屋の中央へと駆けて行く。

 背後に控えていた鳥の巣頭もほとんど同時に反応すると入口脇のクロゼットに飛び込んだ。

「おじさまっ」

「あいよ」

 鳥の巣頭がクロゼットから黒いボディアーマーを放り投げる。

 マレスは前転しながらボディアーマーを受け取るとすばやく頭からかぶり、脇のベルトをきつく締めた。

 そのあいだにも窓の外のヘリコプターがみるみる大きくなっていく。

 次の瞬間、ヘリコプターはローターが壁面を叩く猛烈な騒音をまき散らしながら窓ガラスに激突した。

 スキッドが防弾ガラスの窓を突き破り、さっきまでマレスが座っていたソファを跳ね飛ばす。窓ガラスがクモの巣状に白く曇る。

 ほとんど同時に小さな爆発音をたてて天井が崩落した。

 粉塵の中、開いた大穴から完全武装の兵士が四人飛び込んでくる。黒いヘルメットにゴーグル、ボディアーマー、取り回しの良い小型サブマシンガン。

 サブマシンガンを構えながら四人が素早く左右に展開する。

「伏せてっ」

 走りながら、ボディアーマーから外したスタングレネードをマレスが敵の足元に転がす。

 視界の隅にマレスを捉えながら、俺は呆然と固まる山口をソファの裏に押し込んだ。山口の頭に手をかけ、ソファからはみ出さないように姿勢を下げさせる。

「山口を頼む」

 俺は隣に滑り込んできたクレアに声をかけると、銃を抜いた。

 ベレッタM758A2。大口径のハンドキャノンのような銃だが、ストッピングパワーが群を抜いているため長年愛用している。

 装弾は七〇口径のスマートブレット。だが、フランジブルタイプの対人弾頭は貫徹力に欠ける。

 ボディアーマーを着込んだマレスは立ち上がると、すかさず部屋の隅に置かれた花台を足場にしてふわりと宙高く舞い上がった。

 背面飛びをするかのように身体を捻りながら両手で耳を強くふさぎ、目を固くつぶる。

 サブマシンガンの斉射を四方向から受け、マレスの眼下で花台に置かれた大きな花瓶が粉々に砕け散る。

 ほぼ同時にスタングレネードが爆発。

 閃光と轟音に四人の動きが一瞬止まる。

 機を逃さず手前の男の首に素早く左足を絡ませ、マレスが両手をついて着地しながら身体をひねって男の頭を激しく床に叩きつける。

 そのまま両足で男の頭を締め上げつつさらに転がり、伸びた喉元にボディアーマーから逆手に抜いた小振りのコンバットダガーを突き立てる。

「グヒュッ」

 気管を破壊され悶絶する男からサブマシンガンを奪うと、マレスはその男を盾にして第二射をきわどく凌いだ。

 着弾するたび、盾にした男のボディアーマーから火花が散る。着弾した顔面に次々と小さな穴が開く。

 ぐったりした男を引きずりながらじりじりと後退し、その脇の下からサブマシンガンを短く斉射。正確に右側の男の顔面に着弾する。

 顎を粉砕され、血泡と骨片を吐きながら男が崩れ落ちる。

「questo modo(こっちだ)」

 いつのまに移動したのか、黒人の男が窓際のドアから顔を覗かせるなり山口とクレアの襟首を両手で掴むと、二人をベッドルームに投げ込んだ。

「うわっ」

「きゃっ」

 二人が間抜けな悲鳴をあげながら奥の大きなベッドの上でバウンドする。

 残りの敵は素早く目配せし、左右に大きく展開した。左右からの十字斉射。

 盾にしていた男の身体を捨て、まるでダンスでも踊るかのような軽やかなステップでそれを避けると、マレスは左手で足元のサブマシンガンを拾い上げた。

 大きな瞳がにわかに半目に据わる。

 マレスは正面からの銃撃を左右に避けながら、右側の敵に突進した。ジグザグに飛び込みつつ、左手のサブマシンガンを横なぎにフルオートで放つ。

「ひッ」

 左側の男が怯んだ隙に、一気に右側の男との距離を詰める。

 マレスはあっというまに男の懐に飛び込むと、左手のサブマシンガンで男のサブマシンガンをかち上げた。

 同時に右手のサブマシンガンを相手のボディアーマーの隙間に下から無理やり押し込む。

「うわわッ」

 ゴーグルの内側で男の両目が大きく見開かれる。

 マレスは一瞬の躊躇もなくトリガーを絞り、残弾をすべて男の腹部に叩き込んだ。


 パラララララララッ……


 乾いた発射音と無数の九ミリ弾頭が暴れまわる濡れた騒音。

「ガフッ」

 胸腔を粉砕され、ボディアーマーの首元から血煙が噴出する。

 マレスがサブマシンガンから手を放すと、力の抜けた男の身体は壊れた人形のようにクタクタと膝から床に崩れ落ちた。

 足元にゆっくりと赤黒い血だまりが広がる。

 マレスは滑るような動作で死んだ男の背後に回って新たな掩蔽物を確保しつつ、男のボディアーマーから長い指で予備マガジンを抜き取った。

「ダメだ、殺すな!」

 俺が叫んだのと、左側の男に向かって低い姿勢でマレスがダッシュしたのはほとんど同時だった。

 走りながら空になったマガジンを捨て、新しいマガジンを装填。

 男がサブマシンガンを構え直すよりも速く、マレスは低い姿勢から伸び上がるようにジャンプした。

 空中で身体をひねり男の肩に馬乗りになると同時に両足をロックし、振りほどこうともがく男の上で身体を固定する。

「クソッ」

 男がサブマシンガンを頭上に向ける。

 だが、銃口が自分に向くよりも先に灼熱するバレルを右手で掴むと、マレスは力任せに射線を逸らした。

 サブマシンガンから放たれた九ミリ弾が虚しく天井に円弧を描く。

 男は射撃が叶わないと判ると、今度は壁面にマレスの身体を叩きつけ始めた。

 背中から壁面に体当たりし、無理やりマレスを振りほどこうとする。

「おらぁッ」

 二回、三回。

 マレスの後頭部が壁面に激突し、鈍い音を立てる。


 つと、俺はその姿に強い違和感を覚えた。

(……笑っている?)

 冷たい、酷薄な笑み。

 そう。マレスは確かに笑っていた。


 男が激しく暴れるにも関わらずマレスは両足のロックを外さない。

 振り回されるタイミングに合わせ、マレスは左手のサブマシンガンを男のボディアーマーの襟首に無理やり押し込んだ。

 銃口を脊髄に向け、笑みを浮かべたまま左手のトリガーを引き絞る。

 サブマシンガンの咳き込むような発射音と骨が砕かれる破壊音。

 男は背骨を上から粉砕されて即死した。


………………

…………


 警察の長く執拗な事情聴取ののち、俺たちが釈放されたときにはすでに日付が変わっていた。局からの介入がなかったら宿泊コースになるところだ。

 俺たちは警視庁の広い地下駐車場をとぼとぼと歩いていた。

 いろいろと訊きたいことはあるが今日はもういい。イベント盛りだくさんでご馳走様という感じだった。

 ランプに明るく照らされた静かな駐車場の中、後ろから『クリスおじさま』と黒人の大男が山口と話している声が反響している。黒人のほうはどうやら日本語も英語も解さないらしく、しかたなくクレアとクリスが交互に通訳している。

「なんであなたたちは戦闘に参加しなかったんです? クリスさんなんてクロゼットのドアに隠れてただけじゃあないですか。ホークさん? はちょっと助けてくれたけど」

 山口がずけずけと尋ねる。

「あの程度の戦力だったらあの子だけで十分ですよ」

 クリスが答えて言う。

「Potremmo non essere in grado di aiutare……」

「一緒に戦ってもかえって邪魔になっちゃうってことらしいですね」

「そうそう。僕たちお邪魔です」

「なるほどねえ。確かに和彦が一発も撃てないうちに四人全員を倒しちゃったものねえ。いやあ、なんか凄くいいものを見た気がしてきたな」

「君は、いつもあんな戦い方をするのかね?」

 俺は隣を歩くマレスに尋ねた。

 映画でなら見たことがあるが、現実にあのようなアクロバティックな格闘戦を見たのは初めてだった。理には適っているがあまりに危険すぎる。

 安全マージンが全くない。失敗したら即死亡だ。

「そうですね」

 マレスは無表情に答えた。

 マレスの身長は百七十センチくらいだろう。俺よりも頭半分くらい低い。

「みたところ、システマとも零距離戦闘術ゼロとも全く違う。あれは、なんだ?」

 俺はなおも尋ねてみた。

 単純な興味だった。あんな戦闘、みたことがない。

「あれは、クリスおじさまとわたしで作ったスタイルです。オリジナルです」

 マレスは澄まして言った。

「わたし、体操選手だったんです」

 マレスは簡潔に答えた。

「そういう資質を活かした近接格闘戦を練習しているうちに、あんな感じになりました」

「なるほど」

 俺はそれ以上は追求せず、マレスにうなずいた。

 しかし、どうにも解せない。

 肉を切らせて骨を断つ。

 近代の戦闘技術においてこれは絶対の禁忌だ。

 いくら敵を倒したところで、死んでしまってはなんにもならない。たとえその時一人殺したところで、その後のことを考えれば経済的にはマイナスだ。長い訓練を経て得られた兵士の価値は万金に勝る。戦闘員の生存を第一に考える、それが近代の戦闘技術の考え方だ。

 しかし、マレスの戦い方はむしろその対極にある。

 犠牲や被害は度外視してでも、とにかく目の前の敵を殲滅する。マレスの戦い方はただそれだけを指向している気がしてならない。

 彼女の戦い方にはまるで自己破壊衝動の発露のような危うさがあった。

 まったく常軌を逸している。

 違和感に対する結論を出せないまま、俺は話題を変えた。

「ところで、後ろの二人は?」

「クリスおじさまとホークさんですか?」

 マレスは後ろを振り向いた。

「クリスおじさまはわたしの母方の叔父です。昔はGIS《イタリア特殊介入部隊》に所属していたんですけど、今はエクストラ・オーディナリーズの教官です。ホークさんはクリスおじさまの昔からのお友達なんですけど、あんまり良く知りません。カラビニエリ《イタリア国家治安警察隊》にいたそうなんですけど、『覚えていない』って言ってなにも話してくれないんです」

 マレスはしばらくのあいだ長い睫毛を伏せていたが、再び口を開いた。

「JAL九二〇八便の事件があった後、お葬式が終わって誰もいない夕方のおうちで泣いていたわたしのところに来てくれたのがクリスおじさまだったんです。走ってきたみたいで息を切らせてた。わたしはその時十六歳だったんですけど、『僕と一緒においで、僕がマレスを守ってあげる』ってわたしを抱きしめてくれたの。わたし、本当に嬉しかった」

 マレスは両手を後ろ手に組むと,何かを堪えるように上を見上げた。

 それは、マレスが初めて俺に心を開いた瞬間だったのかも知れない。

 夕方のオレンジ色の光の中、一人で泣いている喪服の少女。

 それは、とても悲しい光景だったろう。とても孤独で、とても悲しい。

 涼子の葬儀は山口が取り仕切ってくれたおかげで滞りなく進行した。軍で一緒だった仲間も、そして涼子の友達もたくさん来てくれた。頼みもしないのに山口はその後も俺の家に居座り続け、俺が立ち直るのを助けてくれた。

 だが、マレスの場合はどうだったのだろう。

 だれかが参列してくれたのだろうか? 誰かが彼女を手伝ってくれたのだろうか?

 マレスはしばらく黙って上を見上げていたが、やがて再び歩き出すと口を開いた。

「ほかの親戚はみんな腫れ物に触るような感じですごくよそよそしかった。霧崎のおうちの人はお葬式には来てくれたけどそのあとはナシのつぶて。きっとわたしが邪魔だったんだろうと思います」

 何かを思い出したのか、きつく口を噤む。

 理由も判らず親族に疎まれたマレスは、どんなに孤独だっただろう。

「お祖父様は日本には日本の事情があるからって遠慮していたみたいなんですけど、クリスおじさまが話してくれて、それでわたし、イタリアに行ったんです。でもそのあとが大変でした」

「へえ?」

「クリスおじさまがね、言うんです。わたしはどんな状況でも生きられるようにならないといけないって。『僕はマレスよりも絶対に先に死ぬんだから、マレスが一人で生きられるすべての方法を教える』って」

 彼女の瞳には何も映ってはいなかった。ただ、何を思い出したのかふと薄く笑う。

「最初にしたのが芋虫堀り。お祖父様の庭園の木の根元を掘ると白くてまるまっちいカブトムシの幼虫が沢山取れるんです。これをフライパンで炒めてさあ食べてって、十六歳の女の子にすることじゃあないですね。まあ、おいしかったけど」

 だが、俺にはクリスの気持ちが痛いほどよく判った。

 戦場に行って思い知ったことが一つある。

 人は死ぬ。しかも、いとも簡単に。

 しかし、彼はマレスを置いていくことがどうしてもできなかったのだ。自分の知識を総動員して、たとえ自分が死んでもマレスだけは生き残れる方法を伝えたかったのだろう。

「あの、ところで一つお願いがあるんですけど」

 ひとしきり話したのち、マレスは少し遠慮がちに俺に尋ねた。

「沢渡一尉、もしよろしければ携帯をお借りできませんか? イタリアに電話したいんです」


『Chao Nonno?……Questo e Mares……』

「クレア?」

 俺は小声でクレアに尋ねた。

「なにを話している?」

『Si, si……Mi dispiace, il nonno……』

「駄目です、それはマナー違反だと思います」

「俺は気にしない。だいたい、俺の携帯だ」

「仕方がない人ですね」

 少し考えるそぶりを見せる。

『Hilton potrebbe andare bene……』

「お祖父様とお話してるみたいです。『ごめんなさい、お祖父様、またお部屋吹き飛ばしちゃった。新しいお部屋の手配をお願いします。今度は壊されてもいいようにアメリカのヒルトンホテルがいいかも』、ですって」

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