3. 二〇三九年六月一日 〇九時四一分
防衛省市ヶ谷地区 内閣安全保障局本部
地下二十一階 特務作戦群居室
俺たちが所属する内閣安全保障局は、二〇一四年に創設された内閣官房国家安全保障会議の配下に設置された国家安全保証局を母体とする比較的新しい組織だ。
二〇一五年から始まった世界の混乱、それに続く日本国内の治安悪化は二〇二五年にピークを迎え、徐々に政府高官誘拐や爆破テロ事案、あるいは狙撃事案や単なる襲撃が多発するようになった。その結果、日本の治安部隊はある種のパラノイアと化したのだろう。また周辺諸国が日本よりも遥かに攻撃的だったこと、さらには世界世論の後押しを受け、かつては平和ボケと言われていた日本も徐々に、そして激しく好戦的になっていった。
確かに、表面的には平和に見えるかも知れない。だが人々が知らないところでは今も激しい戦闘が行われている。
もはや日本もまた、ある意味紛争地帯なのだ。
勢い、当初は外務省主導で設立された国家安全保障局の性質も徐々に増大する国内のテロに対応するために大きく変容した。防衛省と外務省が鬩ぎ合うなか、最終的に国家安全保証局は内閣府直轄、防衛省管理の組織に再編された。発足当初は外交を目的としたわずか六班だった組織も今では千葉県習志野駐屯地の特殊作戦群すらを指揮下に置く権限を有する、遥かに攻撃性の高い組織に変貌した。
我々、内閣安全保障局は主に国内で発生するテロ活動の対処を担務していることもあり、米国の国家安全保障局(NSA)に準われることが多い。
だが実のところ、日本の内閣安全保障局と米国の国家安全保障局は名称こそ似ているものの、全くもって異なる目的を持った組織だった。
米国の国家安全保障局がエシュロンやエクスカリバー、偵察衛星を始めとした様々な手段で世界中の情報を収集し、これを軍の対テロ部隊に提供することで国家を防衛する通信諜報活動(シギント)専門機関であるのに対し、日本の内閣安全保障局はよりシンプルかつ直截的な方法で事に当たることにしたのだった。
殺られたら殺り返せ。
殺られる前に殺れ。
これが内閣安全保障局が選択した方法だ。
テロは実行されてからでは遅い。従ってテロが実行される前に潜在する危険因子を排除する。
むろん、これは潜伏するテロ実行犯に関しても同様だ。
米国の司法省の正式名称、『正義執行機関(Department of Justice)』を捩って『報復執行機関(Department of Vengeance)』と各国のメディアに揶揄される我々は、実質政府公認の殺戮部隊だ。あらゆる手段を用いて潜在的な脅威を狩り出し、追い詰め、殲滅する。
手段が苛烈なため要員の損耗も激しかったが、今のところこの方法論は一定の効果を上げていた。賛否両論はあるものの、極めて攻撃性の高いこの組織は少なくとも俺の好みには合っていた。
+ + +
昨夜かりそめの宿として急遽手配した市ヶ谷駐屯地の隊舎に三人を送り届けた俺たちは、翌朝局の本部地下二十一階にある特務作戦群のブリーフィングルームでマレスと落ち合うことになっていた。
地上三階地下三十七階。東京都千代田区市ヶ谷の防衛省敷地内に建てられた、耐震耐火対爆対核対生化学兵器仕様の本部局舎は文字通り地下の要塞だ。
地上階には事務官しかいない上、建物自体もわざと凡庸な事務棟に偽装されているため外からは判らないが、地下に降りれば様相は一変する。
地表を覆う分厚い対爆装甲に守られたこの施設は、たとえ最新鋭のバンカーバスター(地中貫通爆弾)を撃ち込まれたとしても破壊不能だと言われている。
ハイテク技術の粋にして日本でもっとも凶暴な防衛組織の要、それがこの内閣安全保障局本部局舎だ。
昨日の襲撃事案の直接の被害者でもあるマレスをその直後に着任させることの是非に関して、俺とクレアはすでに山口と激論済みだった。
今朝俺たちはマレスたち三人をまずは保護対象として確保した上で、襲撃事件が片付くまでは着任を待つべきだと山口に進言した。誰かのターゲットになっていると思われる人物を保護することもせず、ただ迎え入れるというのは如何なものか。着任云々はその後でいい。
だが山口は俺たちの意見を一笑に付すと、『ま、これはあくまで僕の私見だけどね』と前置きした上で、それをマレスの初仕事とすればいいじゃないかと自身の意見を述べた。
山口は下手にどこかに保護するくらいならむしろ泳がせて襲撃者達をあぶり出したほうがいいと言う。
「それにだね、和彦」
山口は付け加えて言った。
「もう辞令書に黒田長官のハンコ貰っちゃったことを忘れてもらっては困る。僕は嫌だよ、黒田長官にいろいろ説明するの。どうしてもって言うんだったら自分でやってね。これは本当に申し訳ないんだけど、僕はそんな恐ろしいことには関わりたくない」
長身痩躯な黒田長官のクルーカットの白髪を思い浮かべて俺も気が重くなった。六十歳を過ぎてなお鋭い眼光を失わない黒田長官は、できれば会いたくない人物の一人だ。
「うむ」
思わず唸り声が漏れる。
「心配だったらさ和彦、別に君が姫君の警護をするのは構わないよ。どうせ組むんだし」
山口はいつものようにフフフ、と含み笑いをもらしながら俺に言った。
「でも、あの子はヘタすれば局内の誰よりも経験豊富だよ。局内でも手練れで鳴らす君が一発も撃てなかったのに、その間に四人始末しちゃうような子に保護が必要だとは僕にはとても思えないなあ」
確かにそれはそうかも知れない。だが、その態度は国家の治安維持組織としてどうなのだろう。
呆れたのか、クレアの視線が心なしか冷たくなっている。
それに気づかないのか山口は、
「むしろ目撃しちゃった僕らの方が危ないよ」
と調子に乗ったように言葉を続けた。
と、ハッと自分の言葉に気づかされたかのように凍りつく。
「そうだよ、和彦、ひょっとして僕らのほうが危ないじゃないか。いや、むしろ俺? 和彦は殺しても死なないもんな。どうしよう」
「心配だったらしばらく局に寝泊りすればいい。十九階が空いてるからあそこなら住んでいても誰の迷惑にもならんだろう。ベッドはないが、アマゾンに届けさせればいい。大した金額ではないだろ」
「そうか、そうだね。僕はそうさせてもらうよ」
まったく。それが内閣安全保障局の要員の言うことか。
バカバカしくなって俺は、
「好きにしてくれ。二十四階のシミュレータールームのシャワーも使うといいんじゃないか? 食い物は届けてやる」
とだけ告げた。
「いやあ、食事はマレスちゃんに届けてもらうほうがいいなあ。そのほうが安心だ。何しろ君が一発も撃てないうちに……」
山口がなおも注文を重ねる。
「山口、そのネタは一体いつまでひっぱるつもりだ?」
うんざりして俺は山口に言った。
「ん? 飽きるまで?」
山口がにこやかに答える。
「判った。食事は俺が届ける。陸上弁当でいいな? それとも航空ランチにするか? 金曜なら佐世保カレーもあるぞ」
そう宣言して俺は山口との会話を切り上げた。
ともあれ、そうしたわけでマレスの着任日は変更なし、俺たちは約束した特務作戦群五課の居室で入局の手続きをしている彼女を待っているというわけだ。
+ + +
いつの間に届けさせたのか、約束の時間にマレスは昨日とは違う服装で現れた。白いアクセントの入った濃紺のフレアスカートに青いストライプのブラウス。白い襟に濃紺の細いリボンタイを締め、スカートと同じ色のショートジャケットを羽織る姿は女子学生のようだ。
「終わったか?」
俺は人事教育部のある二十七階のエレベーターホールでクレアと共にマレスを出迎えた。
山口はもう引き上げたのか、来たのは彼女一人だった。
「おはようございます、沢渡一尉。手続きは無事終了です。これからよろしくお願いします」
礼儀正しく両手を揃え、マレスが深々と頭を下げる。
一方の俺はいつもと同じだ。カーキ色のカーゴパンツに着古したTシャツ、第六機甲強攻偵察中隊のエンブレムが縫い付けられた国連監察宇宙軍の黒いジャンパー。双眼鏡を構えた死神のマークが付いたこのジャンパーは、炭素繊維が織り込まれているため防弾防刃性能が高く、愛用している。
マレスは今日付けで着任しているため本部への出入りに問題はないが、残りの二人は部外者のため局の施設には立ち入れない。マレスによれば今日二人は『おやすみを頂いている』のだという。西新宿のヒルトンホテルの手配が出来たため、引っ越し作業に忙しいらしい。
「ところで沢渡一尉。IDカードできました」
マレスは作ったばかりのIDカードを目の前にかざして見せた。量子チップの埋め込まれた防衛省の正式IDカードだ。右側には澄ました顔のマレスの顔写真が入っている。
「でも、3回も写真撮るんですね。不思議です」
不正の匂いがする。失敗と称して違うところにデータが送られている可能性が高い。後で山口に言っておこう。
「顔が良く見えなかったんじゃないか?」
基幹エレベーターで二十一階へ。
「今五課には何人の方がいらっしゃるんですか?」
無機質な白い通路を歩きながら、背後のマレスが俺に尋ねる。
「今は俺たちをいれて七人だ。定員は十二なんだが、埋まった試しがない……さあ、ここだ」
俺は特務作戦群のブリーフィングルームのドアを開けながらマレスに告げた。
「ようこそ、内閣安全保障局特務作戦群第五課へ」
俺は改めてマレスに右手を差し出した。クレアと二人でマレスと握手を交わす。
そこはまるでクラブハウスのような部屋だった。生活感に溢れ、そこここに個人の所有物や趣味の小物が置かれている。二十人は入れる部屋の中央に会議卓が備えられ、奥には壁一面を占める大型のLCDモニター。
いつの間にかに壁に貼られた真新しいポスターの中で、若い女優が健康的な笑みを浮かべている。
だが、今この部屋は無人だった。
会議卓に散乱した箸とカップヌードルのカップが、辛うじて誰かがここで活動していたことを伝えている。
俺はそれを見なかったことにして無視すると、
「今日からここが君の巣だ。一人ずつの居室はないが、この部屋は自由に使っていい。ロッカーも用意してある」
と片隅のロッカーを指差した。
「名前が書いてあるロッカーは好きに使っていい。小さいけどな」
「ありがとうございます」
マレスが頭を下げる。
「自宅用にガンロッカーが必要な場合には装備管理課に言えば用意してくれる。その他必要なものがあったら相談してくれ」
「はい」
クレアが何事かブツブツと文句を言いながらポスターを剥がし、カップヌードルの残渣と箸を片付けている間に、マレスがロッカーを開けて中を覗き込む。
「あら、鏡もあるんですね」
「武器はそこに置くなよ。局内にいる間、銃器は地下三階のガンロッカーに置く決まりだ。刃物もだ」
「はい」
居室とはいえ、この部屋が高度に防衛されていることは一眼見ればわかる。壁は厚いし、ドアは小さい。
マレスは一通り周囲を見回すと、
「まるで要塞ですね」
と感想を述べた。
「そりゃね。金だけはかかってる」
「なるほど」
一応頷いたが、マレスは無表情なままだ。
まあ、富豪ならば当然か。
「ところでここはわたしたちしか使わないのですか?」
マレスは話題を変えると俺に訪ねた。
「いや、そんなことはない。ここは五課の共同ブリーフィングルームだから他の者も使う。五課のグループミーティングにも使われる。今はみんな出払っているようだが」
俺はベンディングマシンで買っておいた缶入りの紅茶をマレスに勧めると、彼女の向かいに腰を下ろした。
小型のターミナルを開きながら、クレアも俺の隣に腰掛ける。
「さて。本当なら最初に宮崎課長に紹介したいところなんだが、課長は昼過ぎまで打ち合わせで時間が取れないそうなんだ。なので、先に他のことを片付けよう」
マレスが缶を開けるのを待って、俺も缶コーヒーに口をつけた。
「はい」
マレスが心なしか緊張した面持ちを見せる。
「いろいろと訊きたいことはあるが、とりあえずは昨日の襲撃からだ。で、ありゃなんだ?」
缶コーヒーを置き、黙ってマレスの碧色の瞳を見つめる。
帝国ホテルで感じたのと同じ、吸い込まれるような感覚。
凝視してしまわないように気をつけながらマレスの答えを待つ。
マレスはしばらく逡巡した後、
「それが、判らないんです」
と目を落とすと答えて言った。
「山口さんは霧崎さんたちがJAL九二〇八便の事件の犯人を追っているって考えているの。私もそれは正しいと思う。だったら、その関連と思うのが自然じゃなくて?」
と今度は隣に座ったクレアがマレスに尋ねた。
「はい」
マレスは頷いた。瞳に力がこもっている。
「確かにわたしたちは九二〇八便の犯人を追っていました。それが、九二〇八便の犯人の殲滅がお祖父様の望んだことですから、わたしはデ・センゾ家の一員としてそれを実行する義務があるんです。それにわたし、亡くなったわたしの家族に誓ったんです」
瞳に凶暴な光が宿る。
「あの事件の犯人は必ずわたしがこの手で皆殺しにするって。絶対、人任せにはしないって。わたしにもイタリアの血が流れているんです」
だが、すぐに表情を緩めると、マレスは再び落ち着いた表情に戻った。
「でも、それはもう終わったはずなんです」
缶入りの紅茶を両手で包むように握ると、マレスは意味ありげにじっと俺を見つめた。
マレスの大きな瞳に見つめられると、どうにも落ち着かない気分になる。
妙な気分を振り払い、マレスに訊ねる。
「どういうことだ?」
「だって、九二〇八便のエンジンに細工をした犯人グループはもう一人残らず殲滅しましたもの」
マレスは両手を組むと、その上に細いあご先を乗せた。
「わたし、知っているんですよ、沢渡一尉さんたちが日本国内に潜伏していた犯人グループを追っていたこと」
上品に両手で紅茶の缶を傾ける。
「まだわたしの準備ができないうちに日本の内閣安全保障局が動き出したときはさすがに少し焦りました。でも、日本政府が韓国政府との外交に失敗して朝鮮半島でなかなか活動できなかったから」
言いながら真面目な表情で俺を見つめる。
「日本政府がもたもたしているあいだに残りの人たちをわたしたちの手で処置することができたんです。そういう意味ではわたしたちは幸運に恵まれていました」
マレスの説明によれば、彼女たちは中国各地に点在する祖父の貿易会社の支店を拠点として朝鮮半島への侵入を繰り返し、半年ほどかけて組織の関係者を殲滅したのだという。
上手い手だ。分裂したとは言え、中国中央政府の朝鮮半島に対する影響力は絶大だ。攻撃のたびに中国に逃げ込まれてしまっては半島系の組織は手出しができない。
「ですから、九二〇八便の事件を実行した組織から襲撃されているってことは有り得ないんです」
「だが、残存部隊がいる可能性も……」
「あり得ません」
マレスはきっぱりと否定した。
「日本政府は朝鮮半島からの情報入手が難しい立場にありますけど、わたしたちは北京のルートで韓国政府からも情報を得ることができたんです。中国中央政府関係者も組織は壊滅したと保証してくれました。生き残りがいる可能性は限りなくゼロです」
「ならば、霧崎さんたちは誰に狙われているんです?」
クレアが尋ねる。
「それが、よく判らないから困っているんです」
マレスは再び目を伏せた。
彼女はしばらく何か考えるようだったが、やがて顔を上げると、
「まだ判らないことも多いのですが、沢渡一尉にはわたしたちが知っていることを全部お話しします」
と口を開いた。
「さっき組織は壊滅したって言いましたけど、それは正確ではないんです。まだ一人だけ、生死が不明な人がいます」
マレスは手にしたタブレットを操作した。
「この人だけ、まだ死体が確認されていません」
そう言いながらタブレットを差し出す。
それは、女性の写真だった。痩せた長身の中年の女性だ。
タブレットに写っている写真は四枚。いずれも隠し撮りされたものらしく画像が不鮮明だ。
一見すると快活な感じに見える。だが……うまく言葉に出来ないが、どことなく表情が不自然だ。どこか、歪んでいる。
「岡田桂姫(カンジョン・ケイヒ)って人です。でも沢渡一尉たちにはきっと『レディ・グレイ』って言ったほうが判りやすいと思います」
「レディ・グレイ、ですか」
クレアが驚いた様子で口を開いた。クレアがそんな様子を見せるのは珍しい。
何をそんなに驚くのだろう。
「紅茶みたいな名前だな」
訳が分からず、思わず意味のない意見を述べた。
「あら?」
クレアが微笑んだ。
「そっちに行きます?」
「涼子が」
マレスの視線を感じて慌てて言葉を補う。
「亡くなった妹が紅茶が好きだったからな。うちの紅茶はトワイニングのレディ・グレイだ」
「あなたが紅茶を嗜むとは知りませんでしたよ」
「そんなことはどうでもいい。クレア、レディ・グレイを知っているのか?」
俺はクレアに尋ねた。
「当然です。伝説の女性テロリストですよ。むしろ知らないあなたが不勉強です、和彦。あなたの戦闘能力に関しては私も認めるに吝かではありませんが、周辺情報についてももう少し興味を持って頂かないと」
クレアがいつものように俺を嗜める。クレアには少し説教癖がある。
クレアは椅子ごとこちらを向くと、説明を始めた。
「レディ・グレイはもう半世紀以上も活動しているテロリストです。日本赤軍の末裔だという人もいますが、詳細は不明です。とにかく日本が嫌いで爆破テロや化学テロを主にした活動を行っているのですが、いずれも確たる証拠はありません。最初に確認されたのが一九七〇年代のことですから、今生きていると仮定したらもう八十歳を優に超えています。私も名前は知っていましたが、姿を見るのは初めてです」
「八十……。そりゃまたずいぶんなバアさんだな」
「和彦、口が悪いですよ。そういう時はせめて『お年寄り』、ないしは『ご老人』『ご老体』という表現を使うのが大人というものです」
俺はそれを聞き流すと再びマレスのタブレットの写真に目をやった。
「しかしなクレア、この写真の女性はとてもそんな婆さんには見えないぞ」
「そうですね。確かに不思議です」
クレアはマレスに尋ねた。
「この人が本当にレディ・グレイなんですか?」
「はい、それは確かです」
マレスがテーブル越しに身を乗り出し、俺が手にしたタブレットを操作する。
目の前のマレスの髪からはシャンプーの良い香りがした。
「これは香港で撮影されたビデオなのですが、この時他の男が彼女をレディ・グレイと呼ぶのを確認しています。しかもその時、
「これは本当に貴重です。レディ・グレイが映像で確認されたのは初めてかも知れませんよ」
クレアは感慨深げに感想を述べた。
そんなクレアの様子を横目で見ながら、マレスはタブレットの画面に組織図のようなものを呼び出して説明を続けた。
「彼女が使っていた組織は、北朝鮮人民開放戦線という小さなグループと韓国の名もない組織の二つです。二つとも壊滅したのですが、彼らがレディ・グレイと連絡を取っている通信記録が存在します。もっぱら半島内でのことなので日本には情報がないのかも知れないけど」
「でも、壊滅したんでしょう?」
「はい。完全に叩き潰しました。日本にいた細胞を除けば、全員死体を確認しています。でもその中にレディ・グレイはいなかったんです」
マレスは組織図を操作すると二人の男をハイライトした。
「彼女は自分の組織というものを持ちません。その時々で都合のいい組織に取り入って、これを手足にして活動を行うみたい。九二〇八便の時はこの二人を愛人にして組織を運用していたようです」
「八十歳のババアが愛人?」
しどけなくベッドに横たわり、際どい下着を着た老女の姿を想像しかけて思わず表情が渋くなる。
「おぞましい話だな」
「ご老人です、和彦。それにいまどきは生活年齢と肉体年齢は関係ありません」
再びクレアが俺を嗜める。
マレスはそれを受け流すとタブレットの操作を続けた。
「話を戻して。これは日本の内閣情報調査局が
マレスがタブレットに別の英文の文書を表示させる。
どうやらアメリカへの報告書を抜き書きしたものらしい。
文書には数枚の写真も添えられていた。写真は人体の組織の一部のようだ。
「記憶チップ……」
聞き覚えのない言葉だった。
記憶チップとは一体なんだ?
「記憶チップというのは外科手術によって人間の脳内に定置される半導体やバイオ素材のチップのことですよ」
戸惑う俺を見かねてクレアが説明してくれた。
「今のところ、長期記憶に障害がある人のために海馬体の機能を補完するタイプがほとんどですね。だから記憶チップと呼ばれるんですが、この名前はマスコミが作った便宜的な名前です。実際にはいろんなタイプの定置電子チップが存在します」
瞑目し、どこかのデータベースにダイブする。
「なるほど」
やがてクレアは再び口を開いた。
「オリジナルの報告書と周辺情報を今読みました。確かに記憶チップが九二〇八便のエンジンに工作を施したとされているJALの客室整備士二人から摘出されています。どうやら彼らは障害者特別雇用枠で採用されたようですね。外傷による重篤な脳障害のために長期記憶に問題がある方たちだったようです」
クレアはどうやってその人物から記憶チップを摘出したかについては特に触れなかった。
「なぜそのような人物が高度な知識を必要とするエンジンの回路改変を行うことができたのかという点が謎のひとつだったのですが、報告書を執筆した調査官はそうした知識を何者かが記憶チップを使って外挿したんだろうと推測しています」
こうした捜査の詳細は多くの場合、俺たちには知らされない。たいがいは警察内部か、内閣情報調査局で止まってしまう。
少なくとも、記憶チップの話は俺には初耳だった。
「ですが、北朝鮮の組織にはそうした高度な医療技術を利用するすべがないため、他にも関係した組織があることを示唆して報告書は終わっています」
クレアは彼女だけに見えるレポートを空中で見ながら補足を終えた。
「最初に気づいたのはクリスおじさまです。クリスおじさまはこうした事案が日本で急に増えていることを不審に思って、詳細をお友達のツテで入手したんです。そうしたら案の定」
「これらの事件の犯人の脳から記憶チップが摘出されていたという訳ですね」
自分のターミナルを忙しく叩き、同時にあちらこちらのデータベースに侵入して何事か調べ物をしながらクレアがマレスの言葉を継ぐ。
「はい」
マレスは頷いた。
マレスは俺からタブレットを受け取ると樹形図のようなものを表示させた。
「クリスおじさまが考えている背景はこうです」
図の中心に大きな? マークが描かれ、そこから放射線状に枝が伸びている。枝のそれぞれの先にはさまざまな事件の概略がまとめられていた。
「今までわたしたちは九二〇八便の事件を中心に物事を考えていました。でもクリスおじさまは九二〇八便の事件は中心じゃなくて、実は枝葉なんじゃないかって言うんです」
マレスは細い指で右隅のJAL九二〇八と書かれた枝を示した。北朝鮮の組織はそこから延びる細い枝に押しやられてしまっている。
マレスは続いて中心の? マークに指を滑らせた。
「この真ん中のクエスチョンマークが本当の標的です。クリスおじさまはこれがレディ・グレイだと勝手に決めつけているみたいですけど、実のところ今はまだ誰なのか、何が目的なのかは全くわかりません。でも、こういうふうに見てみると確かにいろいろなことがぴったり繋がるんです」
確かに記憶チップの事件の中心には何かがあるように思える。JAL九二〇八便の件も記憶チップと関連した事件なのであれば、なるほど枝葉の一つなのかも知れない。
マレスは両腕でタブレットを胸に抱くと話を続けた。
「去年の暮れには組織も壊滅して、目的も達せられたから学校に戻るようにってお祖父様に言われて、わたしはイタリアのお祖父様のおうちで家庭教師の先生たちと準備を始めていました。でも、今年に入ってからクリスおじさまが実は事件は終わっていないって言い出して、だからわたしは日本に戻ってきたんです。もしクリスおじさまの言うことが本当なら、確かに事件の中心は日本にあるように思えたし」
ふと言いよどむ。
「それにわたしも学校の勉強よりは、クリスおじさまやホークさんとそういうことを調べている方が楽しかったんです」
マレスはどこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「どちらにしてもわたしはもう学校には戻れなかったと思います。だから、これで良かったんです」
ひとたび戦場に出れば、人の中では何かが変わる。
人の命は思ったよりも遥かに軽い。
一度でもそれを知ってしまったら、もう元の世界には戻れない。目の前で消えていく命の炎を何度も見れば、どうしてもその瞳は常人とは異なる光を帯びる。最初はショックでも、すぐに慣れる。
俺から見てもマレスが同じ十八歳の少女達と街でショッピングしたり談笑する姿は想像し難かった。
「そうして今年の初めから日本に移動して、レディ・グレイの行方やら記憶チップのことやらを調べたりしていたんですけど、そうしたら何者かから襲撃を受けるようになったんです。何が後ろにあるのか判らないのですが、襲われるのはわたしたちが正しい方向を目指しているからだろうってクリスおじさまは考えています。正直わたしはまだ納得できてはいないんですけど、でも、もしそうなのだとしたら」
瞳の奥に再び凶暴な光が灯る。
「放っておくわけにはいきません」
「なるほどね」
俺は椅子の背に身体を預けると宙を見上げた。
いわゆる捜査は俺たちの本分ではない。俺たちの任務は
俺たちの任務において標的を特定する捜査はもっぱら他人任せだ。これは警察に任せることもあるし、内閣情報調査局や自衛隊の情報本部からの情報に頼ることもある。
俺たちの任務に『証拠』という概念はない。
だが、今回のケースはそうもいかない。すでにクローズになっている件を警察や内閣情報調査局相手に蒸し返すのは良策とは言えない。彼らはきっとそれを侮辱と捉えるだろう。
万が一波風立たせずに案件を
とっとと片付けるのであれば自分たちで調べるのが一番早い。
俺は腹を据えるとマレスに言った。
「わかった。これは俺たちで調べよう。とりあえず昨日の連中からだ。遺体は今どうなっている?」
俺の問いに対し、クレアが答える。
「事件後回収された遺体は今は中野の警察病院にあります」
「では、あの連中の遺体を司法解剖に送ろう。裁判所の手続きを取ってくれるか。チップの在り処を探れば何か判るかもしれない」
「そう言われると思ってさっき手続きしました。警察病院に保存されていた遺体は今から東京都監察医務院に移送されます。担当医務官は磯貝さんです。少し立て込んでいるそうなのですが、夕方までには終わらせるとおっしゃっていました」
クレアが答えて言う。いつもながら先読みして必要な手続きを取ってくれるのはありがたかった。
「よし。じゃあその磯貝医務官に、結果は書式3のレポートで送って欲しいと伝えてくれ」
「了解」
「それから記憶チップの事件について、詳細を警視庁のデータベースから盗んで欲しい。もし他にも似たような事件があるんだったらそれも知りたい。探れるか、クレア」
「問題ありません。探してみます」
俺はマレスに向き直ると今後の計画を話した。
「現時点で君の任務はまだ決まっていない。課長に相談しようと思っていたんだが、そういうことであれば山口の言うとおり、マレスの懸案事項を先に片づけてしまおう。この件はもうクローズされた事案だが、クレアがこれから局内限定で
「はい、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。
「しかし、そんなことだったらやはり昨日の四人のうち一人でも生かしておくべきだったな。生きていればもっといろいろわかったかも知れん」
「……ごめんなさい」
マレスが俯く。
「まあ、過ぎたことは仕方がない。まずは目先のことに専念しよう」
+ + +
磯貝医務官のレポートが届くまではまだしばらく時間がある。一方のクレアは警視庁のデータベースに潜りっぱなしだ。十分な内部帯域が確保できない上に新型の防壁に当たったらしく、データ検索に手間取っている。
さて、俺たちは何をしようかと考えていた時、
「そういえば」
ふと気づき俺はマレスに尋ねた。
「君は施設内のこととか俺たちの任務とかの説明は山口に受けたのか?」
「いいえ、何も」
マレスが首を横に振る。
「特務作戦群五課所属ってお話は当初から頂いていて、特務作戦群は英語直訳するとスペシャル・サービス&オペレーションズ・グループだから、英語でSSGって言ったほうがアメリカのSOGよりも格好いいんだけど、防衛省の特殊作戦群と漢字一文字違いで紛らわしいから
「チッ」
思わず舌打ちが漏れる。
会議卓に置かれたメニューパネルを操作し、画面に内線電話のパネルを表示させる。俺は会議卓に備えられた通話機のボタンを押すと山口の画像内線を呼び出した。
『やあ和彦、なに?』
二、三回の呼び出し音の後、山口の声がスピーカーから響く。ほぼ同時にパネルにとぼけた山口の顔が現れる。
「山口、霧崎君の
『あはは、あったね、そういえばそんなの』
「あははじゃねえだろう。で、導入教育はどうなってるんだ?」
スピーカーから山口の笑い声が聞こえる。電話口でクスクス笑っている。
『あのさ、特務作戦群の導入教育ってなんだよ。暗殺部隊に導入教育なんていらないんじゃない?』
「そうはいかん。霧崎君だって局内のことは知っておかないと後々困るだろうが」
俺は山口に食い下がった。
局内の案内は面倒だ。なにしろ地下だけで三十フロア以上あるのだ。これはぜひ山口に任せたい。
ところが山口は揚げ足を取るかのように大口を開けて笑いだした。
『あはは、らしくないなあ、和彦』
苦しそうに言葉を繋ぐ。
「あ?」
思わず目つきが険しくなる。
『あのさ、悪いんだけどさ和彦、君やっといてよ。そもそも、特務作戦群のことは君のほうが詳しいじゃん?』
俺の目つきに気づいたのか、山口が一瞬真面目な声に戻る。
だが、再びすぐに山口はクスクスと笑い出した。
しかし、不思議と不快ではない。むしろそれは暖かな笑い声だった。
「なんだよ?」
『あのさあ、和彦、なんか本当に『らしく』ないんじゃないか?』
なおも笑いながら山口が言う。
「どういう意味だ?」
『和彦が他人のことを気にかけるのを僕は本当にひさしぶりに見たよ』
「俺だってそういうことを気にすることはある」
さすがに心外に思って反駁した。マレスのことを気遣って何が悪い。こいつ、どこまで失礼なんだ。
『へえ? そうなんだ』
山口は笑いながら椅子の背に身体を預けると、画面の中の俺に向かって人差し指を突き立てた。
『確かに君はちゃんと人付き合いはこなしてる。それは褒めてあげよう。でも、それはあくまで必要最小限、決して人には近づかないし、近づかせもしないじゃないか。例えばさ、君はほかの局員と一緒に食事をすることなんてないだろう? いつも外で一人で食ってるじゃないか。地区内で食った方が遥かに安いのに』
痛いところを突かれた。
黙り込む俺に構わず山口が言葉を継ぐ。
『和彦、お前、同僚の下の名前だって知らないんじゃないか? だって、興味がないんだもんな。知ろうと思わなければわかる訳がない』
真顔で山口が俺に問いかける。
その目は真剣で、いつもの軽薄な笑みはいつの間にかに消えていた。
「そんな他人のことなんて死のうが生きようがまるで気にしない君が、たかが新人君のインダクションの心配をするなんて、これは一体どうしたことなんだい?』
言われてみれば確かにその通りだ。
だが、その理由は俺にも判らなかった。
しばしの沈黙の後、何が面白かったのか山口は再び相好を崩すと俺に言った。
『まあいいさ、でも僕は嬉しいよ。じゃあ、姫のことをよろしく頼むねー』
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