Paper doll

六桧 史枝

Paper doll

 いつの間にか、虚空から酷く下降して暗い空間の中に立っている。見上げれば、空に光はなく、空間の広がりを感じさせるのはただ直線的に並ぶ細い電灯の集い。


 私はその中、少し電柱から離れた、完全には暗くない場所にて、名も知らぬ女と口を合わせ、お互いの軀に力を加えて、其の儘の形で均衡を保とうとしていた。

「ねえ、いつまで、こんなことをしている気なの」

女は心底迷惑そうな顔で私を見つめながら小さく呟いた、がそれはいつものことだ。

「俺がいつか、馬鹿馬鹿しいと悟るまでだ」

私はそういいながら、無限に続く電灯の彼岸を半目した。



 朝、起きると猫がいなくなっていた。どうした事だろう。

「なあ、くうにゃん、見かけなかった」

そう聞くとくうにゃんは去勢手術を受けにいくとのことだった。

私は全く聞いてなかったから少し驚いた。ただそれだけでいつも通り

物を書いたり、少し外に出掛けたりして、それでも合間、合間ではくうにゃんの

事が自然と思い浮かんだ。1年前、子猫で捨てられていたのを拾ってきてから

すくすくと育ち、幾分元気が有り余ってか下手に腕に抱くと酷く傷つけられることがある。

「あれも少しは大人しくなるだろう」

昔飼っていた手にかからない猫を思い出して、懐かしみを覚えた。だがそれでは終わらず

次にはある一抹の興味がふと浮かんできた。【去勢】自分自身に当てはめてみるとぞっとする話であるのに、猫にしろそれに導いた罪悪感があったのかもしれない。悪趣味ながらも人間に置き換えられて、頭の中で形作られた。

 それは酷く筋肉質な男だ。その下腹部は暗い。

「どうしたことだろう」いつの間にか手に握られた睾丸。

そんな私を彼は恨めしそうに睨みながら、悲壮な憎しみとともに架空の陽根を募らせる。



 また立っている。それから幾つも電灯が断続している。私は女に力を加えて、再びあの均衡を

取り戻そうとした。だがその力はいつものように跳ね返らず、加えられたままだ。悶え、動く軀の硬直が感じられない、ただ力が押し込まれていく。

「何かが起きている」

暗がりに抱え込まれた女の顔を覗き込む。さらに顔に影が掛かる、滑稽にも、影が女を覆うのを忘れていたのだ。

「ねえ」

濃い影で塗られた女のシルエットが呟く。

「なんだ」

「いつまでそうしているの」女が言った。いつものことだ。



 朱い、窓から夕日が射している。外の木々の隠れた樹面をそっと照らしながら、地平線の下へ下へ。以後下りていた温かな熱は寂寞を感じさせるおよそ35.8度からも離れて、ただ肌寒いものへと変化していく。日常の美しい経過の一部だ。私の喉は乾いていた、酷く汗を掻いたらしい。水を飲みに二階から降りると猫が帰ってきていた。疲れているのか、開かれている保護ケースから出る事もなく寝込んでいる。私は、それを無遠慮に抱く。温かみがある軀、だがそれは昨日とは全く違うものである事に気づく。私の腕の中で重みに満ちた軀の騒めきはもはや感じられない。

肉体の伸びる動き、伴う振動、それは力強さを失い、抵抗もない。

「これでは傷つけられることもないだろう」



 もう何度目とも分からない。女に力を加える。相変わらず、押し込められていく。

「今日、うちの猫が去勢手術を受けたんだがね。それが今の君みたいだよ」


「前とは大違い、大人しく鳴きもしなくなった」


「つまらないもんさ」


「ねえ」


「なんだよ」


「いつまでこうしているの」女は言った。いつものことだ、だが、私はもう耐えることができなかった。こみ上げてきた不明瞭なものは言葉として湧き上がってくる。


「お前はどうしたいんだ、なぜお前から言わない。俺のことを嫌っているくせに。だのにお前は無関心を装っている。お前が一言こう言えばいい『もううんざりしてるの』 それで終わりだ。俺はきっぱり諦める、そういう男だ」


「私は何も求めてないわ」


「俺もそうだ」


「だからでしょ、いつからかあなたはこれが異質な状態だと思っていた

    ————これはね、もうずっと、遠い昔から定められた、自然なこと」

 



 猫が大人しくなった後も私は前々から行っていた時のように、猫を強く抱いてはその反応を確かめるようにしている。特に欲する事もない、哀しみも喜びも、そういった行為の繰り返しがいまここにある。私は虚ろな思考の中で、女の言っていたことがわかった気がした。

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