第3話 魔人
布団に入って明かりを消してしばらくすると、下のほうから何かが動く気配がした。布団から這い出て、手探りで朱鳥のベッドに上ってくる。朱鳥は掛け布団を捲り上げて、また手を差し出して、入ってくるのを手伝う。
「朱鳥」
エルの額が肩に触れた。呼ぶ声にはいつもの元気さが戻りつつあるように思えた。吹っ切れたのか、また強がっているだけか。
「私ね、幸せだよ。朱鳥といるときが、今まで生きてきたなかで、一番、幸せ」
まるで別れを告げる枕詞のようだ。焦りを感じないのは、そういう感じには聞こえなかったからだ。――もしエルがいなくなるとしたら、自分は焦るのだろうか。
「私、ずっとこのままがいい。魔法使いの道具はいやなの。命が短くてもいい。私を守って……」
エルのお願いは変わらない。そこに切迫さの違いがあるだけだ。
エルが別れを告げるのではない。朱鳥が離れていかないように、男を持ち上げる魔的な言葉だ。弱さを見せて、価値を与えて、逃げ道を隠す。エルがそこまで計算しているのか、天然なのかは分からないが、少なくとも朱鳥は嵌っていることを自覚できる。それでもこの関係を続けるというのは、望んでいるからだ。
エルの、守って、に朱鳥は答えられない。誤魔化すように頭を撫でると、エルは自らの存在を思い知らせるように、朱鳥の存在を確かめるように、もっと身を寄せる。あとは寝息だけが静寂を侵す。服が暖かく濡れていた。
経験上、近くに人がいるとなかなか眠りにつけないものだったが、この夜は無性の心地よさに包まれて、よく眠れた。二人そろって軽く寝過ごして、仕事に遅れそうになるくらいには。慌ただしさは、シリアスでいることの優先順位を下げた。
「どこか遊びに行きたいとことかあるか?年末年始ならまとまった休みがあるから、どこでも行けるぞ。というか有給が結構余ってるんだ。いきなりじゃなけりゃ、いつでもいい」
ピザトーストにくらいついていたエルが、朱鳥をじっと見つめた。咀嚼して嚥下し、神妙な面持ちをして牛乳を口に含んでいるあいだ、朱鳥は、逆にピザトーストを齧った。
「気遣ってる?」
口にものをいれたまま何事か言おうとした朱鳥を手で制し、エルは、ありがと、とはにかんだ。
「別に私、すぐに死ぬわけじゃないからね。朱鳥は無理しないで」
「エルこそ、無理をするな」
エルは目を閉じてゆっくり、何度もうなずいた。その表情はすっきしりていて、昨夜の悲壮感はみられない。
「うん、大丈夫だよ。本当に、朱鳥が忙しくないときに、いろいろ連れてってもらっちゃうから」
子供は純粋だ嘘を吐かない、なんて嘘だ。聖人についてなら、特にそうだ。人間の年齢を比で換算するのは間違っているだろうが、いまの日本人の平均寿命を大きく見積もって90歳として、聖人の寿命は30歳。エルは9歳であるというから、普通の人間の30歳くらいに相当することになる。無論、死に向かって人は成熟していくわけではない。ただ、こんなことを考えてしまうくらいにエルは大人びているし、きっと朱鳥なんて比ではないくらいに過酷な経験をしてきた。その中で、エルは、自分が30歳で死ぬのなんて百も承知だっただろうし、どこまでも自由でいられないというのも甘んじて受け入れていたはずだ。昨日の動揺、感情の発露は、油断して『教室』と接触してしまったこともそうだが、イオのことが大きいと思える。エルとイオがどのように『教室』から逃げてきたかは知らないが、エルが先導、扇動したのだとすれば、いかに当時、仕方のない事態に陥ったとしても、イオが絶体絶命であるなら、狂ってしまってもおかしくはない。割り切れることではないだろう。自分の中で、どう折り合いをつけたかだけだ。
今見ているのは、エルの強さだ。それを尊重してあげたい。
むしろ昨夜に一番動揺したのは朱鳥だった。魔法使いの存在を知ったときなど、なんてことはなかった。足元がぐらつく心地がしたのだ。常識という地盤が揺さぶられたのだ。エルが泣いてくれなかったら、今頃どうなってしまっただろう。
「朱鳥、そろそろ出る頃じゃない」
「もうそんな時間か」
エルに急かされるまま、身支度をしながらトーストを片手に玄関へ向かう。牛乳を飲みほし、コップをエルに渡し、カバンを受け取る。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
悩んで迷って後悔しても、決意がなくても、時間はどんどん先へ進む。日常の空気に流されるまま、また非日常にぶつかる。
「お待たせしました」
「おう、じゃあ帰ろうか」
煙草を吸殻入れに落として、朱鳥は入り口に立つ湊を伴って喫煙所を出た。朝からずっと湊の荷物が多いのが気になるが、考えないようにする。
「珍しいですね、会社で吸うなんて」
「ま、こんな日もあるってだけだよ」
「なんだか憂いに満ちた表情で」
「考え事してただけさ」
仕事終わり、手洗いに行った湊を待つ時間はそうは長くない。その時間を潰すために朱鳥は喫煙所へ向かっていた。ただ一人で何もしていないと、いろいろなことを考えてしまいそうになるからだ。だからといって逃避の手段に喫煙を選ぶなんて、気付かぬうちに中毒になっているのではないか。しかし、会社の喫煙所で吸えば家で吸うことはない。一日一本は守っている。仕事中に行くこともない。こうして心の中で、煙草嫌いだった若いころの自分に言い訳を連ねる。
湊との他愛ない会話の中で、朱鳥は、自分が聞き手であることが多くなっていることに気付いた。どうしてかといえば、すぐに分かる。話のネタであるテレビやSNSに費やす時間が減っているからだ。
あっという間に朱鳥のマンション前だった。そういえば最近、寄り道をしていない。
最近、やっていないことといえば、他にもなにかあったような。
「あ、じゃあ今日もお疲れ、お休み――」
矢継ぎ早に別れを切り出した朱鳥の言葉を、「あのっ」湊が断ち切った。
「今日、泊まっていってもいいですか……?」
――やっぱりその荷物はそういうことか。なんとなく予想はできていた。動揺を包み隠して紳士的な対応を探る。
「珍しいね、湊ちゃんから言ってくれるなんて」
「最近呑んでないじゃないですか。もう一ヶ月くらい……。ご迷惑ですか?」
「いや、迷惑なんてことはないよ」
不安げに曇っていた表情に晴れ間が差したのをみて、朱鳥は対応を間違えたと痛感する。いまさら言い訳を立てて断ることなんて出来そうにない。
これまでの付き合いで、こうして湊から言ってくることはなかった。朱鳥が、女の子にそんなことを言わせてはならないと考えているからだ。週の半ばで朱鳥が誘いあわせて、週末の予定として組んでおく。そんな数年の習慣を、湊は壊してきた。そうせざるを得ない状況にしてしまった責任は、湊にはない。
エルが家にいる以上、他の誰をも家に入れるわけにはいかない。そんなことをしたら、よくて幻滅、悪くて通報されるだろう。湊を再び家に招くのは、せめてエルをどこかに預けられるようになってから。そんな場所は、今のところ『教室』が近いだろうが、まだ信用しきれない。というのもあるし、自分の都合で、エルを、仮にとはいえ『教室』に引き渡すなんて許されない。
エルを守りたい、そばにいたい、というのは自分の欲望に違いはないのだが、まだ新しいものだ。湊と深い関係でいたい、関係を発展させたいというのは、ずっと前から持っていた白い欲だ。今となっては日常を感じる縁でもある。
天秤にかけるわけにはいかないが、つまりは、どちらも守り通せばいいだけの話だ。エルが湊に見つからないようにすればいい。
玄関の戸を開け、「ごめん、急なもんでちょっと散らかってるから、少し待ってて」その場で湊を待たせ、リビングに駆け込む。ソファに座っていたエルが振り返り、おかえり、といいそうになるのを指で制し、不可視セットを着てなるべく静かにいるように伝える。賢いエルは、ことの深刻さを察し、真剣な表情でうなずくと、見えなくなった。
「ごめん、湊ちゃん。もう大丈夫」
「別に、私がやりましたよ?」
「見られたくないものってのがあるのよ、男には」
「もうっ……」
いつものように、湊に先にシャワーを促す。水の音を聞いて、やっと「出てきていいぞ」エルを呼んで「あの
「すまん、エル。明日、あの人が帰るまで、ここにいてくれ」
夕食としてカップ麺、明日の朝食としてパンを置いておく。誠に申し訳ないが、これで我慢してもらうしかない。エルの聞き分けのよさを利用するようで心を痛めた。
――完璧だ。なかなかリアルに妄想できた。
エレベータを降りて廊下を進む。そうして計画の戸口に立った。電子錠を開ける。
「おかえりなさい、朱鳥。お仕事お疲れ様」
朱鳥は計画が崩壊する音を聞いた。
「……ねぇ、その女、誰」
エルが眉をひそめた。湊を警戒しているのだろう。朱鳥は蒼ざめた顔で、背後の湊がポケットから何かを取り出したのに気付いた。端末だ。どこかにダイヤルしている。
「……通報」
「待って湊ちゃん!説明するから!」
端末を持つ手を掴んで操作する指を離す。少し顔を赤くして半眼の湊は、それでも「……聴きましょう」思いとどまってくれた。女子二人を伴って、リビングへ。湊がソファに座ると、朱鳥は自ずから正面に正座した。エルは依然として朱鳥の背に隠れている。
エルを匿う生活も安定して安心しきっていたが、これでも最初のころは見つかったときの言い訳などは考えていた。その中からもっとも無難なものを選んだ。
「ふむ……。親戚の娘さん。姪、ですか。初耳です」
湊の怪訝な目が降り止まない。
「ねぇ朱鳥」
「そう、そうなんだよ」
「まぁ、少なくとも連れ去ってきたという感じではありませんね。懐いてるみたいだし。子供が行方不明になったとかいう事件も最近は起きてなかったはずです」
エルが朱鳥の姪であるというのを信じきった訳ではないだろう。それではいったい、どういう関係なのか。湊はそう決めあぐねているに違いない。本当に姪として、なぜ朱鳥が預かることになったのか。実親の都合か、それとも何か不幸があったのか。そうだとすれば今、この場で訊くことはできない。そして、よりによって、なぜ朱鳥なのか。仕事で平日は家を空けることになるというのに。
「ごめん湊ちゃん。あまり詳しいことは話せなくて」
「そう、ですか……」
何か複雑な事情があるのだと、妄想させる効果がこの言い訳にはある。湊の良心が大前提の方法である。騙していることを心から、心だけで謝る。
ひとまずこれで通報される心配はないだろう。さっきからエルが構って欲しいようにちょっかいをかけてくる。湊のことが気になるのだろう。安全か、危険か。
「私、三島湊といいます。朱鳥さんとは同じ職場でお仕事を」
その気分を察した湊が率先して自己紹介をしてくれた。エルは軽く頷くと、「朱鳥朱鳥」耳打ちをしてくる。
「湊はいくつ、処女?」
とんでもない質問だった。だがその質問の重要性も分かる。本人に直接訊かなかった賢明さを讃え、エルも自己紹介返しをしなかったことは咎めないでおこう。朱鳥も小声で返す。
「クリスマスが誕生日で、30歳になる。でも、処女じゃないよ、残念ながら」
もちろん本人に直接聞いたことはない。こんな外も内もよくできた娘が非処女であることは当然といってもいい。
「残念?魔法使いの仲間にならないから?」
「そういうことでいいです」
エルは居なおして、湊に正面から向かう。
「湊は朱鳥の彼女さん?」
「いいえ違います。ただの同僚ですよ」
何故こんな質問が必要だったかは分からないが、エルはすっかり緊張が解けたみたいだった。安心してさえいるように見える。
「いつもご飯とかはどうしてるんですか?」
「朝は一緒に食べて、お昼は適当に置いてってくれる。帰ってきたら夜ご飯作ってくれるし、たまに外食もある」
「お風呂は夕飯のあと?」
「うん、一緒に」
「ほう……」
エルの余計な一言と、湊の冷たい視線は無視する。こういうことに慌てる方が不自然だ。
湊は思案する素振りを見せたあと、勢いよく立ち上がって言った。
「じゃあ、まず御夕飯作っちゃいますね」
朱鳥が唖然としていると、さらに言葉を続けた。
「大変でしょう、男の人が一人で、小さい女の子のお世話なんて。……小学校にも行っていないようですし。私もこれからお手伝いします。それくらい、いいですよね」
「えっと、それは……」
「やましいことがなければ大丈夫なはずです」
「もちろんです。お願いします」
エルが不満げな目で見てきたが、致し方ない。これ以上、自分の社会的立場を危うくするのは賢いとはいえない。
その日は夕食を作るのも、エルと一緒に風呂に入るのも、朱鳥に代わって湊がやった。エルは借りてきた猫のようにおとなしく、また湊の強引さには驚いた。
そしてもう週末なのだ。昨日と明日の闇に挟まれて、平穏は、掻き消えてしまいそう。一日一日は決して独立ではありえず、時間は地続きであることを思い知らされるのだ。
エルを消さずに部屋を出入りするのは緊張したが、普通に考えれば、大人の男女と子供で家族を装う方が違和感はない。大人の女性が一緒であることの心強さを実感する。とはいえこれで大手を振って外を歩けるかといえば、突然に魔法使いが現れることなどには警戒しなければならないだろう。
「なぜ部外者を連れてくるのだ貴様は」
「いろいろありましてね」
朱鳥と恵はロティーリアの男子トイレにいた。入店直後、朱鳥とエルの姿を認め、湊を見て顔をしかめて、トイレに呼び出されたのだ。
「安否確認だけなんだからいいでしょう、人が増えるぶんには」
「三島湊といったか。彼女は信頼できるのだろうな」
「そもそも、まだ29歳ですから」
「ふん、まぁいい」
他の利用者が入ってきたのと入れ替わりで、朱鳥はトイレを後にする。席に戻ると、エルが湊にポテトで餌付けされていた。
「あ、朱鳥さん」
エルへと向かっていたポテトが、朱鳥に気付いた湊が方向転換することで、朱鳥の正面にきた。湊は無意識なのか、そのままの姿勢でいる。朱鳥は迷った挙句、そのポテトを咥えると、湊の顔が赤くなった。
「ひゅー」
エルがつまらなさそうに頬杖をついて冷たい視線を投げかける。
「あっ、すいません。つい流れで」
「いやいや」
咀嚼しながら席につく。
「店長さんとお友達なんですね」
「友達というか、奇妙な知り合いというか」
残っていたポテトを平らげて、3人は店をあとにする。これは朝飯だった。空腹のまま家を出たから、エルは機嫌を悪くしていると思ったが、まだ食べたりないということだろう。
エルを真ん中にして並んで歩き、駅に向かう。その道中や、電車に揺られている間、湊はずっとエルに話しかけていた。そこには懸命さがみてとれ、また賢いエルに発言の揚げ足をとられることもあったが、それがエルの緊張を解いていった。表面上はややぶっきらぼうだが、もう心を許しかけていると朱鳥には分かる。二人の雰囲気は、朱鳥の印象、または理想とは違って、母子ではなく姉妹のようだ。
「それでは、エルちゃんの服をいろいろ見ましょう」
ドーム球場を臨む大型のショッピングセンター、カノン。週末は家族連れでごった返しているため、吹き抜けの開放感がなければ窒息してしまいそうになる。朱鳥はエルと買い物に来たことがあるし、湊とも来ることがあった。今日カノンを訪れたのは、湊の提案だった。昨晩、エルの衣服を検めた湊は、難しい顔をして言った。
「正直、なかなかしっかりとしたコーディネートとセンスなので、びっくりしてます」
褒められた気はしなかった。どん引かれていると感じた。
「しかし、あれですね。いかにも男の考える可愛さといいましょうか。流行とかもガン無視ですし。月並みですが、お人形さんみたいに可愛くて綺麗ですから、余計なことはいらないとは思いますが」
お洋服買いに行きましょう、そう言う湊の目は、それこそお人形遊びをする少女のようにきらきら輝いていたのだった。
「髪飾りとかリボンはありませんでしたよね」
「不用意に弄るのも怖くてね。シュシュとかでざっくり束ねるくらいかな」
洋服や下着はあらかた買い終えて、昼食も軽く済ました三人は、アクセサリーやファンシー雑貨を扱うショップだ。朱鳥もあまり立ち入ってこなかった領域なので、エルも興味津々だ。
「あれだけ長いと自分でやるにも大変そう……。というかぶっちゃけ羨ましい……」
言いながら、湊は前にあるエルの頭を両手で触って、髪をてきとうに束ねてみたりする。弄ばれるままのエルは気にも留めない様子だ。
「エルちゃん、なにかいいのあった?」
エルが手に取ったのは、リボンと、ヘアゴムが、それぞれ二色ずつ。エルの明るい髪色のアクセントになりそうな暗い色と、溶け込んでしまいそうな明るい色。両極端を選んだというのは、抜け目なさの表れだろうか。
他にもいくつか小物を見繕って会計を済ませると、店員が、髪飾りはつけてお帰りになられますか、と言ってきた。この場で商品を使って髪を結ってもらえるサービスがあるそうだ。エルを見ると、興味なさ気な顔をしていた。
「あ、じゃあお願いします」
いつのまにか湊が応えていた。店員に連れられて、店の奥の、化粧台が置かれたスペースへ行く。エルの髪を検めた店員の、すごい綺麗、地毛なんですか、という言葉に朱鳥は曖昧に頷く。渡されたヘアカタログから髪型を、湊が選んで、店員がエルの髪に触れようとしたとき、エルがその手を避けた。
「あ……えっと、その……」
自分でもどうしてそうしたのか分かっていないのだろうエルが、うろたえる。店員は少し驚いた表情をしながらも優しく微笑んでいるのだが、エルはそちらを見ずに、助けを求める視線を後ろへ向けた。
「湊……お姉ちゃん、が、やって」
店員が名指された湊に場所を譲る。知らない人に髪を触られるのを嫌がる子供というのはどこにでもいるようで、そんなときは保護者にレクチャーすることもできるという。
そういうわけで、結局、姉ということになった湊がエルの髪を結った。こうしてエルの髪型はツーサイドアップになった。暗い色のリボンが、二つの髪房を巻いている。ツーサイドアップと聞いて油断していたが、朱鳥は30分待った。振り向いたエルは、真っ先に朱鳥を見た。前髪も長かったが、軽く編みこんでいた。そのせいか、顔が明るく見える。
「……どう?」
不安そうに、上目遣いで、顔を赤らめて呟くようだった。
「可愛いよ、似合ってる」
「好き?」
「…………ああ、好きだぜ、おれはその髪型」
横に立っていた店員が、好かれてますね、お父さん、と言いながら朱鳥に、この髪型の結い方とリボンの使い方が載ったカードを渡す。店をあとにしてすぐ、湊が、エルには聞こえないようにそばだてて尋ねてきた。
「さっきドキッとしませんでした、好きかとか言われて」
「えっ、いや、うーむ……」
「どういう意味でとかはいいんで、ドキッとしたかだけでも」
「……そりゃあ。多少はね」
「そうですか」
溜息交じりの納得だった。
「今日はですね、まだ用事があるんです。もとからあった用事です。朱鳥さん、支倉夕希さんは覚えてますか?」
湊の先導で歩いていく。エルは朱鳥の手を握っていた。歩くたび揺れる二つの髪の束が目に新鮮だ。
「いま話題の料理研究家……。ここに来るとか」
「そうなんですよ!大人向けの料理教室で、ここでは定期的に女性向けをやってるんですが、今日は特別に料理男子推奨なんですよ」
支倉夕希の話題は何度か二人の間で挙がっていたが、湊がレシピを送ってくれたりしていたので、朱鳥は自力で調べたことはなかった。とはいえ支倉夕希のレシピには世話になっているし、直接本人から教われるというなら、この機会を逃す道はない。
「飛び込みで参加できるの?」
「実はもう事前に申し込んでしまっているんですよ」
湊が申し訳なさそうに笑う。
「でも、どうしましょう。エルちゃんは一人にできませんから――」
「一人でいいんなら、俺一人で行っていいかな。悪いけど、湊ちゃんはエルと店見てたりしてくれるかな」
「んー、そうなっちゃいますか……」
これだけの大型施設なら児童預かり所くらいあるだろう。ただ、そこでどんな手続きが必要かは分からない。朱鳥にはエルの身元を証明することはできない。そして何より、見知らぬ人間にエルを預けられない。本当になにかあったとして、湊では心もとないのが正直なところではある。
「なにかあれば、すぐ知らせてくれ、エル、いいか」
話を聞いていたエルが真剣な眼差しで頷いた。
「エルの判断で湊ちゃんに頼んで連絡してもらえ」
「あの、エルちゃんはしっかり守りますからっ」
何か底知れぬ事情を抱えるエル。自らの余計だったかもしれない行動で、彼女に何かあってはならないと、湊は責任を感じているようだ。子供の前で後ろ向きな発言をしないのは大人らしいことだが、どうにも幼い顔つきでは、可愛さが出てしまう。
「私は大丈夫だよ。朱鳥……パパは頑張って料理上手になってきてね」
「ああ、そうだな。まぁこういうときって大概、なにもないもんだ」
本当に危急が迫れば、エルは聖液を入れた小瓶と筆を携帯しているので、それを使って攻撃魔法で自衛ができると豪語していた。そもそも、こんな家族連れに溢れた空間で、30歳まで童貞をこじらせた人間は、そうそういないとは思うが。
「お、これか――――」
エスカレータの近くに、インフォメーションとして今月のイバントが掲載されている。今日は、支倉夕希の出張料理教室。恒常的に料理教室等を行うスペースがあり、そこへ特別ゲストというかたちだ。さっき湊から説明された旨がそこには書かれている。
朱鳥とエルはその看板に釘付けになった。しかし、目を奪ったのは文字ではなかった。
なぜ気付かなかったのか。
思い出すのは、エルと出遭った夜。
死を吐く穴の向こうに浮かぶ、女魔法使いの顔が、そこにあった。
「――小骨は、このままでも食べてしまえるけれど……下ごしらえで包丁を入れて、切っておく。このときついでに――」
印象か注意力という問題になってくるのだろう。湊には申し訳ないが、そもそも料理研究家というのは、プロの料理人と違っていけ好かないという感想だったし、話のネタくらいに捉えていた。だから個人の顔など気にしていなかった。エルに出会うまでの話だ。日常レベルの利用しやすさという点で、その存在を認めるようになったが、如何せん、忙殺された。本人そのものにまで意識が回らなかった。
あの日、出会ったのは3人。魔法使いの斉藤恵。聖人のエル=クローズ。そして魔法使い、支倉夕希。一度見ただけだが、忘れられるはずもない。
料理教室が開催されるのは、最上階の端、システムキッチンの展示を併設するスペースだ。料理台がいくつも並ぶさまは家庭科室を思わせる。生徒一人ひとりにまな板とコンロが充てられ、講師は見渡す位置で料理の手順を教える。
支倉夕希は40歳。夫も子供もいるという話だ。普通に考えれば魔法使いであるというのは難しい。考えられるのは、あの晩の魔法使いは、支倉夕希に化けていたというのはどうだろうか。そういう魔法はあると、エルは言っていた。しかし、そんなことする必要性は見出せないし、子供など養子で、本当に40歳で処女であるというのと、どちらがおかしいのか分からない。
「どう……手が止まっているようだけど、包丁持つのは慣れない……?」
「ああ、いえ、ここの入れ方、どっち向きがいいかなと思って」
生徒の様子を見て回っていた支倉が、朱鳥の手元を覗く。朱鳥は、即席の疑問を口にした。
「くす、初心者の方も多いと思ったけど……そうね、これは、こうかしら。……それにしても」
朱鳥の持つ包丁に、支倉が手を添える。自然、二人の距離が縮まる。支倉が囁く。
「久しいわね、炎の魔法使い」
甘い希望は容易く断たれた。
「……やっぱり――」
「今は人目もあるし、後で話しましょう。逃げても、いいけれど、逃がさないから」
支倉が離れていく。
最近、こういうことばかりだ。立て続けに起こりすぎだ。わりと今までの人生、うまく立ち回って、肝を冷やして心臓に悪い事態から逃げてきた。嫌な予感なんて、ほとんど外れてきたというのに。魔法に関わってから、狂ったのだ。
支倉の控え室になっているのは、会議室のような部屋。支倉は机に腰掛けて、朱鳥は扉の近くの壁にもたれかかっている。
「ええと……三島さん?」
それが自分のことをいっているのだと気づくのし僅かの時間を要した。料理教室の予約は、湊の名義で予約をしていたのだ。
「それは……彼女の苗字です。俺は橘朱鳥といいます」
湊を勝手に恋仲にしてしまったことに心で謝る。いずれ、という意思も込めてのことだ。湊との関係をこう説明したのは初めてではない。湊は、朱鳥がこう嘯いていることは知らない。
「あら、そう。橘さん。三島さんは来れなくなってしまったのね」
「そうですね」
「彼女も魔法使い?」
「いいえ」
言われて、たしかにパートナー同士で魔法使いだと、なにかと都合がいいかもしれないと思う。支倉の夫というのも、魔法使いかもしれない。それなら養子をとるというのも、世間へのカモフラージュ、魔法使いであるままに子供が欲しいという願いを叶えるいい手段だろう。
「それは珍しい……。本当に恋人かしら、くす。……あなた『教室』の子よね?」
「…………いいえ。『教室』は知ってますが、俺はどこかに所属してるってわけでは」
「なるほどね。そんな気はしていた」
支倉の悪戯っぽい笑みを見て、朱鳥は正直を貫いた自分を褒めた。
「私も『教室』よ。『理科室』の錬金術師、魔導師、支倉夕希。橘さんは、どの程度、『教室』と関わりを?」
「『風紀委員』の斉藤恵って人と知り合いなだけです」
「ふぅん、あの坊やか……」
坊やという評価が、あの男に似つかわしくなかった。
「魔法使い同士で名は知れているものなんですか」
「そうね、あれは有名なのよ……。最強の一人として数えられるくらいだから」
その最強に歯向かった自分に内心ぞっとしながら、その最強を軽んじる発言をするこの女性も、『教室』では上位なのだろうと辟易する。
「周囲の印象は決していいものではないのよ。その強大な魔力をみだりに用いて、強引に自分に都合のいいように物事を進める。橘さん、身に覚えは?」
魔法使いの知り合いはこれで二人目ということになるのだろうが、恵のようなものが魔法使いのスタンダードではないと分かって少し安心する。支倉の物腰は柔らかで、常識的な女性に思える。かなりの好印象だ。あの一点を除けば。
「支倉さんこそ、あの晩――聖人を撃とうとしていましたよね」
支倉の魔法は、モノを銃に変える。構造と強度さえしっかりしていれば、今どき立体印刷できてしまうようなものだ。支倉が手を置く樹脂製の机に、あの窪みができはしないかと気が気でない。
「殺すつもりなわけないでしょう。大事な聖人だもの。あれには拘束魔法の陣を描いた弾が込められていたのよ。そもそも、威嚇の意味もあったのだけど……信じられない?」
『教室』の魔法使いとして、聖人を保護しようとしたという、道理だ。
「まぁ、あなたに邪魔されてしまったけれど……。保護されたのなら、いいのよ。無駄な対立をしてしまったわね、あのときは。私もまさか、あんなところに野良の魔法使いがいるとは思わなかったから。許してね……」
「……ええ、まぁ、それは大丈夫です……」
本当だったら『教室』という組織そのものの存在から疑うべきだろうが、鵜呑みに信じきってしまったほうが楽だ。疑わしいものばかりのなかで、間違いなく信じられるのはエルだ。聖人が魔法使いにとって重要であるということさえ知れば、捕らえて利用するならまだしも、命を奪うことはありえない。
「もしかしてイオを保護したのは『理科室』……ですか」
「橘さん、結構いろいろ斉藤から聞かされているのね、本当に……。……イオは『教室』全体をみても保護したという話は聞かないわ」
「そう、ですか……」
「でも、聖人が二人も逃げたのも、その一人が未だに見つからないのも、ある魔法使いが裏で糸を引いているんじゃないかという噂はあるのよ」
「まさか……」
「そう、斉藤恵。あの日は『風紀委員』が聖人を護送していて、その指揮をとっていたのが斉藤よ。どんなヘマをしたら、子供二人に出しぬかれるのやら」
護送、つまりは聖人を別地区へ移すこと自体は、珍しくないことらしい。聖人の性質や状態に応じて、まま行われるということだが、こんな事件は滅多にないといっていい。
「斉藤さんがわざと逃がしたなんて、なんで」
「一旦逃がして、『教室』の目の届かないようにしてから、確保するつもりだったのではなくて。そもそも、あの子達、逃げて一人……二人で生きていけるわけはないでしょう。売れるものなんて、普通の人間と違って命くらいなものだし……」
現在、そのうちの一人であるエルと暮らしているわけではある。子供は大人の力に頼るしかない。それには適材適所がある。朱鳥も、最初は警察に届けようとしたが、脅迫、もとい交渉の末、今に至るわけだ。世間は朱鳥ほど甘くはないだろう。あのエルにそれが分かっていなかったとは思えない。はじめから談合があったと考えると、納得できる。
「斎藤さんは、まさか聖人を……」
「魔法使いが聖人を秘密裏に抱え込もうとするなら、そう疑うのが自然ね。まぁ魔人化したら尋常ではない魔力の反応が検出されるから。すぐ『教室』で対応するけれど……」
魔人化と簡単に言ってのけるが、そのとき聖人の命が失われるのだ。斉藤は以前に、魔人は捕らえて実験に利用できるとも言っていたが、所詮はその程度の扱いなのか。聖人が殺されたから、裁くのではない。『教室』が守るのは、魔法とは関係のない、“あちら側”の世界なのだ。
「斎藤さんとは今朝にも会いました。まだ……そんな事態にはなってないということですよね」
「そうね。でも、斉藤に限っては、それが狙いではないかも……。あれは、あんな態度なものだから、実力は認められはしても、慕われることなんてないのよ。でもイオは、なぜか懐いていた……と聞くわ。斉藤はそんなイオに同情して、あるいは特別な感情から、自由にしてあげたかった、なんて。エルは、イオと特に仲がよかったそうね」
「ロマンチックすぎやしませんか」
「でしょうね。まぁどちらの説も、推測の域は出ないのよ。ただ単にしくじって聖人を逃がしてしまったかもしれないし。ただ、こちらとしては、最悪の事態を想定して、斉藤には警戒しておきたい」
「そうですか……」
支倉は、暗に、朱鳥も同調して警戒しろ、というのだ。朱鳥はそもそも信用しきっていない。それは魔法使いすべてであり、支倉夕希も同じことだ。どう振る舞うかは、結局自分で決めなければならない。
「……一応、魔法、見せてもらえますか、支倉さんの」
「いいわよ、橘さんもね」
朱鳥は手を開いて小さく炎を出す。支倉が頷くと、炎を消す。
「<法理は死んだ>」
言ってから気付いたが、止めようとしても遅かった。支倉は、座っていた机から降りると、そこに手をかざす。瞬間、光に包まれて、机は消滅した。かわりに支倉の手に握られていた拳銃が、朱鳥に向けられた。
「ちょっ……!」
あれに込められているのは実弾ではない。だから大丈夫だ。でも、もし支倉が嘘を言っていたら。
銃を向けられた反応というのはこんなものなのか。身動き一つとれず、彩度の高いマズルフラッシュに目を眩ませた。銃口から吐き出された弾丸が、朱鳥へ奔る。それは、朱鳥に命中することはなかった。何かが飛び込んできて、それに当たった。拳銃と同じ色をした、人形だ。<法理は死んだ>で、支倉はこれも創っていたのだ。人形に当たった弾丸は、それ以上進むことなく、人形の表面でぴたりと止まる。弾丸は、糸の束がほどけるようにほつれて広がり、樹脂の糸は人形をがんじがらめに拘束した。
「どう?」
「……なるほど」
心臓に悪い見世物だ。傍から見るぶんには、いいかもしれないが、予告もなく撃たれる身としてはたまったものではない。
もがく人形を見下ろしていると、それは間もなく動きを止めて、糸もろとも砂になってしまった。砂山となって、それがもとは机だったのだと思い出させる。
「いいんですか、机戻さなくて」
「構わないわよ。元通りにする自信はないの」
支倉は、樹脂の砂山に近付くと、手をかざす。光に包まれると、砂はさらに細かくなって、ほこりのようだった。
「なにかなくなって、ずっと見つからないなんて、よくあること……。この世からなくなったとまでは、思いもよらないものよ」
ほこりの山は、軽く足蹴にするだけで、舞い上がって、空気に散っていく。部屋中にうすく拡散して、もとは机だったのに、消え失せたわけでもないのに、もうそれと認めることはできなかった。
灯りを消してすぐ、朱鳥のベッドにエルが入ってくる。闇の中、手探りで朱鳥の隣へ辿り着く。苦労して入るくらいなら、最初から入っておけばいいのにとは思うのだが。
「どうしてあんなこと言ったんだ?」
朱鳥の言葉に、エルはびくっと震えた。
今日、支倉夕希と分かれたあと、念を押して駅前まで戻って湊たちと落ち合ったときのことだ。
「ごめんね、湊ちゃん。手間取らせちゃって」
エルは湊と手をつないでいたが、朱鳥の姿を認めると、飛んで抱きついてきた。だがそれも一瞬で、すぐに離れて、むすっと不機嫌そうな顔を見せた。
「こちらこそ、なんというか……本当に……」
湊は二人の様子を微笑ましそうに眺めてはいたが、その表情は曇っていた。朱鳥に謝られても、発端はやはり自分だという思いが強いのか。綺麗な顔が呵責の念でまみれている。朱鳥とエルのただならぬ緊張を感じ取って、そこにどんな現実的なストーリーを思い描いて自分を納得させたのだろう。
「いや、でも本当に、そんな構える必要もなかったからさ」
エルにも向けて言った言葉だった。
「湊ちゃんがいてくれて助かったことの方が多いよ。如何せん、俺だけじゃ荷が勝ちすぎるというかさ」
「あの、でしたら、これからも、お邪魔してもいいでしょうか。平日も、お夕飯つくったりしますし。もう外出は控えたほうがいいかもしれませんが……」
どうしてここまで献身的にしてくれるのだろう。子供が好き、か、世話を焼くのが好き、か。朱鳥がそうしているように、エルにはそうさせるだけの魔力があるのかもしれない。
「来ないで」
「え?」
朱鳥には、エルが突然、なにを言ったのか――というより、どういう意味で言ったのか分からなかった。
「湊はもう、来ないで」
エルの拒絶を、湊は正面から受けてしまっていた。
「……そ、そうですよね、エルちゃんがそう言うなら……迷惑ですよね、仕方ないです」
「おい、エル、なんてことを」
「あのっ、私、せっかくなのでもう少しお買い物……してきますねっ」
湊はあくまで笑顔で、エルにも別れの挨拶を忘れずに、あとは一度も振り返らずに去って行った。追いかけたい衝動に駆られたが、それ以上にあの場へ戻りたくないという気持ちが強かった。
エルは朱鳥の手を握ったまま、目に辛そうな色を浮かべて、もう見えない湊の背を追っていた。
「きっかけは湊ちゃんだったとしてもさ、悪気はなかったんだ。それに、支倉夕希は、第一印象こそ最悪だったけど、悪い魔法使いって感じじゃなかった」
「べつに、湊のことを嫌って言ったんじゃないよ。むしろ好きだもん」
「そうか……」
朱鳥は、エルを抱き寄せるようにして頭を撫でる。その感触は、いつもの滑らかな髪ではなかった。今日買ったナイトキャプをかぶっているからだ。突然、エルが朱鳥の腕を離れた。慌てるのも束の間、下腹部に圧迫感を覚えた。ナイトキャップを左手で握りしめたエルにのしかかられていた。
「直接、さわってよ……!」
わずかな光を吸って、髪がきらきらと輝く。倒れ込むようにそっと身を寄せてきたエルの頭を、朱鳥はそっと撫でていた。
「湊がいると、朱鳥と一緒の時間が減っちゃう」
「減ってないだろ」
「二人きりの時間」
なんだか物音がする。小刻みに。これは心音だ。どっちのだろう。
「朱鳥…………」
エルのちいさい手が頬に触れて、さらに首に、腕に、腰に、太腿に。愛でるように、動いていく。服越しに、エルの湿っぽく熱い息がかかる。もぞもぞと全身をこすりつけるような動き。汗ばんでもすべすべとした四肢で主張してくる。
「……何をしてる……」
熱が全身をめぐって、膨れて爆ぜそうになるのを理性で抑える。これ以上いったら、我慢できなかったかもしれない。
「私、朱鳥になにもしてあげられてないから。恵が言ってたよ。過程がどうあっても、私みたいな女の子を家に連れ込む発想するってことは、その人には欲があるって……。大丈夫、心配しないで。『教室』で、どこまでしたら死んじゃうか、教わったから……」
「やめてくれ」
朱鳥が力任せに起き上って、その勢いで倒れそうになるエルの腰に手を回す。
心はすっかり冷えていた。萎えてしまった。
「朱、鳥……」
暗闇でどんな顔をしているかは分からないが、きっと泣いている。興奮と恐怖が入り混じった表情をしている気がした。
「エル、俺はそういうことは求めてない」
何もしてくれないからって、見捨てると、そう思われているのだろうか。見捨てるなら、エルが聖人であり、決して手を出してはいけない存在だと知ったあの日に、そうしている。それとも直前の話題を含めて考えると、湊に嫉妬したか。いや、嫉妬だと?そんな複雑な感情が、こんな歳から存在するのか。それに嫉妬には前提として自分に特別な感情を持つ必要がある。自惚れだが、そんなもの、あったとして幻だ。エルに望まれるよう動いてきたのだから、ある程度好かれるのは当たり前だ。
「エルがいろいろしてくれくれようとする、ってのは嬉しいけど、それは駄目だ。それとな、湊ちゃんにはいつかちゃんと謝ろう、な?」
エルがここまで思い切った行動に出るとは思いもよらなかった。ワガママとかの範疇を超えている。自らの存在、魅力を最大に利用してくるなんて。いつからだろうか考え、きっと恵に見つかったときだと気付いて戦慄する。あのとき、イオのことがあったりで、おかしくなってしまったのだ。大丈夫、心配しないでと、口ではそういっても、内では不安や恐怖が渦巻いていたのだ。
「…………すぅ」
朱鳥に支えられた姿勢のまま、エルはいつのまにか眠っていた。起こさないように、そっと隣に寝かせる。
「エルは何もしなくていい」
向かい合って、聞こえないくらいの声量で囁いた。
そばにいてくれるだけでいいと、そう言ったつもりだった。
子供が外で遊ばなくなったのが子供の責任じゃないのは間違いない。ゲームばかりするようになった。子供はゲームを作らない。遊具で怪我をする危険がある。設置も撤去も、行政の仕事だ。遊ぶ音が煩い。器量の小さい大人だ。すべて、かつて子供だった大人たちの仕業だ。朱鳥も幼いころには公園や広場で遊んだ記憶があるが、そんな期間は一瞬だった。子供じゃなくなり、子供に興味を抱くようになってからは、公園とかはむしろ老人のものになっていたから、駅前やスーパー、ショッピングモールの方が、何かと容易かった。
「『風紀委員』とはいうけれど、あれは魔法の秩序を守ることを専門にやってるってだけで、それは排他的なものではないのよ。緊急逮捕はだれでもできるように、秩序を乱すものを見つければ対応するわ。『理科室』だってね」
支倉夕希に連れられて、朱鳥とエルは街はずれの国道沿いを歩いていた。事の発端は、何度目になるであろう鉢合わせだ。エルと一緒に近所のスーパーで買い物をしていたときだった。一応は主婦であり、そういえば近くに住んでいるとかいう支倉夕希がそこにいるのは不思議なことではない。
「あら、外で聖人と魔法使いが一緒だなんて……はじめて見たわ」
「あー、支倉さん。これは何というか、特例措置といいましょうか」
「そうなの。知っているのよね、魔人のこと、とか……」
「もちろんです」
「……そう。このあと時間あるかしら。こんな日になんだけれど、見てもらいたいものがあって」
そうして一旦わかれたあと、指定場所で落ち合ったのだが、そこから更に歩かされている。夕焼けで街が赤くなるころに、公園に着いた。大通りに面し、県営図書館と隣接する緑地公園だ。遊具が置かれた砂地の公園ではなく、緑にまぶしい。
例の如く人払いの結界が張られているのだろう、途中から人の姿は見なくなった。この時間ならそもそも人は少ないのかもしれないが、街が死んだみたいで気味が悪い。一応、すれ違う人間もいるにはいたが、それはどう見ても魔法使いの風貌をしており、日常感が戻るはずもなかった。
規制線がところどころに張られ、警官やパトカーの姿まで見られるようになってきた。上司にするように支倉に敬礼をするものもいた。エルと会った夜に、交番にでも駆け込んだら、警察の中の『教室』に捕まっていたかもしれない。
ひらけた場所に出た。そこには十を超える魔法使いが集っていた。そろいも揃ってローブを着ているが、恵が着ていたようなものとは違い、全身を覆っておらず、下に着ているものから、彼らが普段は会社員や主婦であると窺える。
「『教室』支給品なのよ、あれ。大昔に『理科室』が開発したとかいう魔法に強い繊維で編まれているの。加えて防御の陣も描かれているから、魔法攻撃に対しての装甲ね。とはいえ、今回はどうなるかしら……」
そういって不適に微笑む支倉は、ローブを着ていない。
朱鳥の額に嫌な汗がにじむ。支倉は、暗にこれからここで戦いが起こると言っているのだ。あれだけの数の魔法使いが迎え撃つのだから、相手もそれだけの数になるのか、よほどの強敵か。よもやそれが自分ではないことを祈りたい。
「心配しなくても、あなたたちに危害が及ばないようにするから」
「何が始まるんですか」
「『醜姦師団』派と思われる男を一人、特定してね。『醜姦師団』はご存知?」
「一応は」
たった一人に、ここまでの対応をするという。『醜姦師団』の目的は――
――ここにいては駄目だ。奥から訴えかけてくる。だが動けない。エルが一言、帰ろう、と言ってくれれば、朱鳥は抱きかかえてでもこの場を全力で去るだろう。しかしエルは何も言わず、つないだ手からは何も伝わらず、こっちを見てもくれなかった。
「その男の自宅から、ここまで誘導するように逆結界を張ってあるの。普通のと違って、魔法使いを弾くものね。もうすぐ来ると思――」
言葉は遮られた。続ける必要もなくなった。突然、爆発のような音がしたかと思うと、向かい側の林の樹が倒れた。間を空けずに、倒れた樹のあたりから『教室』の魔法使いが何かに弾かれたように飛んできて、受け身もとらずにしばらく転がった。息はあるようだが、無事でもないだろう。
「なな、んだ、お前らあ……どうなってんだよこれはよぉお……」
男は見るからに場違いだった。ゆらりと、おずおずと、苛立たしげに、林の中から姿を現したのだ。こんな季節に、屋外だというのに、身なりは上下灰色のスウェット、素足にサンダルを履いている。肌は青白く、髪はぼさぼさで頬はこけむしている。全体的にひょろ長く細い印象だ。右手は固く握り拳をつくっていて、血が滲み木くずが付着していて、まるで、さっきの樹は男が殴ってへし折ったとでもいうようだ。
集っていた『教室』の魔法使いは、そもそも陣形をとっていたのだろうが、男の前にすぐさま立ちはだかった。前衛が剣や槍を構え、刃に炎や雷を纏わせる。後衛は銃を持つものと、素手のものがいる。
「うっぜぇえっ、老害どもが邪魔ぁぁああいいぃぉぉおお!」
男は耳障りな叫びのあと、体を震わせる。そこへ『教室』の一人が銃を三連射した。弾丸はすべて男の胴に命中したが、少し刺さっただけでそれ以上は進まなかった。支倉に以前見せてもらったように、弾は変化しなかったことから、実弾だったのだろう。それでも男の体を苛むことなく、弾丸は虚しく地面に落ちた。
「ぐっぐぐ、どどどこだぁ、どこ行ったんだぁ!」
男の体が痙攣したように跳ねると、異変が起きた。骨と皮しかなかった全身が、膨れ上がった。筋肉。不恰好で不気味な、岩山のような全身筋肉だ。異常発達した筋肉に、男の体そのものが耐え切れず、表面がひび割れて裂けて血が流れているが、意に介す様子もなく、すぐに傷も塞がり、異様な模様と化した。男は苛々を募らせて、血走った目で『教室』の魔法使いを見回した。
「…………魔人」
エルが呟いた。いつのまにか手は離れていて、その横顔は絶望したようにも諦観したようにもみえる。
「あれ、が……」
いけない。こんなところに魔人がいる理由を考えては。
「帰るぞっ、エル」
エルの肩に手を乗せる。しかしエルは動こうとしない。じっと魔人を見ている。無理矢理にでも、担いででも連れて行く、そう決意した瞬間、支倉に制された。
「いま動いたら気付かれるわ」
誰に。何が?
魔人はいま、『教室』の魔法使いと応戦している。いや、応戦なんて生ぬるいくらいには圧倒的だ。魔人の筋力は見掛け倒しでなく、腕を振り回せばそれはまるで台風のようで、攻撃は筋肉の鎧に阻まれる。『教室』は、魔人をその場で食い止めるので精一杯だ。
魔人が朱鳥たちに気付く危険性?ちがう。魔人がエルに気付く危険性だ。もっと言えば、幼女を姦通した犯罪者が、新しい獲物を見つける危険性だ。
朱鳥はエルから手を離す。今この場に居る全員への怒りを必死で抑える。
「うざいううざぁあー、老害ぃいい!」
魔人が右腕を大きく振り上げる。がら空きになった腹に弾丸や火球が叩き込まれるが、鋼の筋肉が跳ね返し、その微かな傷は蒸発するように消えていく。魔人が地面を殴ると、大地が揺れ、離れた場所にいる朱鳥たちもよろめくほどだが、震源近くの魔法使いは、その比ではなかった。しきりに動いて間合いをとっていた女魔法使いが、盛大に転んだ。魔人は、その頭めがけて、踵落としの真似事のような歪な構えで、勢いよく振り上げた足を振り下ろした。女魔法使いは咄嗟に首をひねって最悪の事態は免れたが、隕石のような足は女の右肩を潰した。
その凄惨な光景と悲鳴の暴力から守ろうと、朱鳥はエルを抱きしめて目と耳を塞いだ。
震えている。自分が。自分だけが。
肩を潰された女魔法使いは、それでも戦意の光は消えず、無事な方の手でスパークを起こして魔人の目を眩ます。怯んだ魔人の背後から、他の魔法使いたちが、魔弾、剣戟を浴びせる。
支倉は劣勢に焦りを浮かべてはいるが、敗北を認める様子はない。エルは朱鳥に全てを隠されても動じず、まるで透かして視ているようだった。戦いを見届けようとしているみたいだった。
そんな中で、俺だけが何をしている。
「想像以上だわ、魔人」
支倉が懐から小瓶を取り出す。中身は赤黒くどろりとした液体だ。
「ぐぅぃいいいおお!」
魔人が背中に取り付いた魔法使いたちを振り払う。周りにいたものも、その勢いに吹き飛ばされ、立っているものが周りにいなくなり、視界が開けてしまった。さっきから辺りをきょろきょろと見回している魔人が、気付いた。
「<法理は死んだ>!!」
支倉が地面に手をつけると、巨大な光陣が浮かぶ。三人の前にはバリケードが、その向こうにトーチカが三基生み出されていた。爆音とともに大砲が同時に発射され、土煙に魔人が包まれた瞬間、支倉はバリケードにとりつき、再び<法理は死んだ>でバリケードの一部を崩して機関銃を創り、魔人のいる方へ向けた。銃弾の雨はすぐには止まず、バリケードが少しずつ小さくなっていく。
――俺はいったいどこにいるのだろう。橘朱鳥という男の人生に、こんな景色が存在してしまっていいのだろうか。
<法理は死んだ>に用いた素材はすべて土だっただけあり、土煙がひどい。土煙が晴れたあとに広がっているであろう凄惨な光景をエルから守ることも忘れ、朱鳥はただ呆然としていた。支倉が機関銃を土に還そうとした、そのときだった。
魔人が、土煙の中から出てきた。さすがに無傷というわけではないが、蜂の巣になっているかと思われた体は、ただ表面がぼろぼろに剥がれるにとどまっていた。ゆったりとこちらへ向かう足取りで、その顔は当初、怒りにまみれていたが、下卑た笑みに変わった。魔人は
「おおう……幼女きた……いまならなんでもできぃ、ひひ」
支倉がアサルトライフルを創って魔人に全弾叩き込む。それを全くものともせず、エルだけを見、ゆっくり歩いてくる。尾を引く土煙が、蒸気が、灼熱の地獄から這い上がってきた
魔人が放たれたバリスタを腕で払ったところで、朱鳥は自分がどうすべきか気付いた。
エルを守る。魔法で戦う。具体的な方法は分からないが、さっきの戦いは参考になるはずだ。剣はないから火球を飛ばせばいいはずだ。そもそもあれと白兵戦を演じる勇気もない。そんなことをするときは、身を挺してエルを逃がすときだ。
「なんだ……詠唱、くそっ!」
自分の力と真面目に向き合ってこなかった怠惰さに嫌気がさしながらも、朱鳥は
「こ今度こそ、たっぷりぃぃい」
まだ距離はあるというのに、魔人が手を伸ばす。支倉が意を決したように小瓶を開けようとしたそのとき、魔人の動きが止まった。
「う……?う、う、な……なん、ん、な、なん……だ……、イ……?」
魔人が前のめりに倒れた。全身の過剰に膨れた筋肉が痙攣している。限界まで膨張していたかと思われた筋肉がさらに大きくなり、傷口を開いて穴の空いた風船のようにしぼんでいく。膨張と収縮を繰り返していく中で、筋肉の最大値が減っていった。しまいには、魔人の体は、もとより小さくなり、大きくなることはなくなった。それでも血管と筋が蠢いて、それに合わせるように全身から靄のようなものが吹き出ていた。
「魔力が霧散してるのね……」
魔人が戦闘不能なのは明らかだった。体は動かないが、意識と執念は消えていないようで、どうもうな視線をエルの足元に投げかけている。
「イオ…………?」
エルがあたりをきょろきょろしだした。何かを探している。
耳を澄まして、“声”の主を幻視している。
――ルゥちゃん、よかった。元気そうで。
「イオ……なの、どこ……?」
――メグは元気?
「恵?あいつなら、全然変わんないよ。むしろひどくなってる。私と朱鳥にちょっかいかけて……」
――アスカ、か。ルゥちゃん今は、その人と一緒なんだね。やっぱりルゥちゃんなら、大丈夫みたいだね。
「待って……待って!イオ!イオ、どこなの……」
――ありがと、ルゥ……あた…し、希望……あす……
「イオ、イオ……そんな……イオ……ごめんなさい……。私……ごめんなさい、イオ……一緒にいてよ……っ!」
もうすっかり日も暮れていた。分厚い雲が重く空を塞いで、寒さも相まっていつ雪が降り出してもおかしくない。
朱鳥は、さっきまで戦場だった広場を眺める。魔法の灯篭が浮かんで、全体を照らしている。あれから一時間程度しか経っていないが、荒れていた広場は元通りになりつつある。こうして魔法は幻にかえるのだ。
魔人の姿もない。厳重に拘束されたあと、どこかへ連れて行かれた。
エルは、魔人が倒れたあと、軽く半狂乱になって過呼吸を起こしたが、すっかり回復している。すぐに本職が医者であるという治癒魔法使いに診てもらって大事には至らなかった。あの戦闘が、よほどショックだったのだろう。後遺症が残らなければいいが。いまはおとなしく、暖房魔法のかかったローブを羽織って、朱鳥に背を見せ続けている。
「いつになったら帰してもらえるんですか」
すばらく姿を消していた支倉が、なにかの書類を手に戻ってきた。
「とりあえず、報告。あの場にいたあななたちには聞く権利があるもの」
権利と義務は表裏一体だ。
「魔人の名前は
まるで検察だな、と朱鳥は思った。
「そういえば、どうして“派”なんですか」
「『醜姦師団』は『教室』みたいに、上があって下がある、みたいな組織じゃないの。浅く広く、横で繋がってるだけ。組織の体裁すらとってなくて、魔法は性欲に忠実に使うべき、みたいな教義をもつ宗教みたいなもの。『教室』や『91』に比べると新興の――ネットの発達とともに拡大してきたのよ」
「そうですか」
どういう経緯で『醜姦師団』派となるのか、朱鳥には容易に想像がついた。魔法使いとなり、本人にその知識がなく、『教室』が接触してくることもない。興味本位で、その異能について、検索をかけたり呟いたりすればいい。その魔法をどう使えばいいか、導かれるだろう。こういうことを考えなかったわけではない。だが朱鳥は、迂闊な行動で何か厄介ごとに巻き込まれることを子供の頃から期待する半面、大人になっても結構本気で恐れていた。結局は斉藤恵に接触を許してしまったとはいえ。そして例えばこの異能が炎を出すことではなく、透明になったり瞬間移動したり時間を操ったりとかであればと、夢想することもあった。もちろん悪用するためだ。今の自分の中にあの邪な情念がないと信じたい。
「新堂は一人暮らしだったようだけど、もう一人住んでいた生活痕があった。小さい女の子がいたのね。主に衣服だけど、頭髪や皮膚片から、その子はやっぱり
「イオじゃないんですか」
魔人の誕生は聖人の死。それは変わらないというのに、エルの親友であるイオは生きているかもしれないと、甘い希望を抱いた。
「イオ=マローズの本名よ、風見初芽は」
――ああ、もう駄目だ。確定させてしまったようなものだ。支倉がわざわざ本名を用いたことが、荒涼とした大地に突き刺さる岩を想わせた。
「寝室には風見初芽の血痕が――」
「もう、いいです」
朱鳥は聞かされない権利を行使した。本当なら、エルのためにも、遺体とか遺品とかについて聞くべきなのだろう。だが朱鳥はもう耐えられない。今日、こんなところに来なければよかった。連れてくるべきではなかった。
「帰っても?」
「いいわよ。何かあったら、いつでも訊いてね……」
支倉が片手を挙げると、『理科室』の魔法使いたちが寄ってくる。手に手に武器を持ったままだが、どうやら練成したものではなく本物らしい。どこまで見送ってくれるかは知らないが、物騒なものだ。
「さあ行こう、エル――」
エルの手をとろうとしたが、それは叶わなかった。
「――どういうつもりですか」
剣と槍が朱鳥の動きを妨げ、銃口に縫いとめられていた。
「あら、さっそく質問……」
「ふざけてないで、いったい何なんですか」
『理科室』の動きから拘束する気分を感じない。ただ朱鳥をエルに近づけさせないという意図だけだ。振り返り、支倉に正対する動きは自由だった。
「聖人と魔法使いを一緒にしておくわけにはいかないのよ」
いつか聞いた言い分だった。
「俺は、エルにそんなことしません。絶対に」
「その点は疑ってないのよ。特例が施されたってことは、信頼されてのことだろうし。でも、ね。たった一つだろうと特例なんて許されないのよ、本当は。斉藤の独断でしょう、それ……」
「……勝手だ、あんたたちは。どっちもどっちだ」
「魔人をいざ目の当たりにして、あの力に魅せられたかもしれないし。一夜の過ちというのも、くす、あるかもしれない。普通だったら魔法使いは、その資格を失わないように、最大限に警戒するのだけど。相手が聖人なら――魔人化するというなら、過失ということにして責任から逃れようとしちゃったり」
結局、なにも分かってはくれないのだ。許されたとは言っても、疑われ続けている。エルがいくら魅惑的で、エル自身がそう望もうとも、絶対にあり得ないというのに。
言葉でいくら言っても無駄だ。例外が許せないという道理は理解できる。
「別に、今生の別れというわけではないのよ。もう浅い関係ではないのだし。面会くらいは認められるわよ。橘さんが『教室』に入る、っていうのもいいかもね。今の生活を捨てて魔法使いとして生活を再構築する必要はあるけど、生活には困らせない」
朱鳥は応えない。この場をどう切り抜けて、エルと一緒に帰ることだけを考える。あの日も絶望的だったが、なんとかなったのだ。これだけ大勢がいる中で、一人の気を変えれば済むとは思えないが。
「……あら、意外ね。橘さん、なかなか柔軟な思考をしているから、『教室』に入るのも悪くない、少し考えさせてくれ、くらいの反応があって然るべきだと思ったのだけど」
「悪いけど、一生魔法使いでいるつもりはないんです」
「あら、そう……。残念」
嫌な予感が当たってしまったことになる。さっきは柄や刀身で制するにとどまっていたが、今や切っ先を向けられている。恵と対峙したときのような火力は出せるだろうかと考える。汗が流れて体が熱いような錯覚に陥るが、その汗は冷たく、寒くてたまらない。
『教室』は朱鳥を殺すようなことはするつもりはないのだろう、すぐに襲い掛かってくることはなく、あくまで朱鳥が投降するのを待っているのだ。付け入るとすればその隙だろうが、実際のところ、朱鳥には打開策がまったく浮かんでいない。支倉を捕えて人質にするか、エルの方へ集中して突破し、駆け抜けるか。
「もういいよ、やめて」
あの声が、一触即発の緊張をとかした。
「エル」
エル=クローズが支倉夕希のもとへ歩いていく。その光景を、全員がただ静かに見送った。
「おい……え、どうした。支倉さん、あんたエルに何をした」
エルの顔にはなにもなかった。喜びも、悲しみも。記憶の中のエルが、あんな表情をするはずがない。
「心外ね、なにもしていないわよ。人の意識を弄る魔法は、禁術なの。魔法は人のありありとした欲望の表出だから。その領域に触れるのは、御法度なのよ」
支倉の口は達者だった。エルの言動が嬉しい誤算だったというのが伝わってくる。朱鳥も本当は気付いている。これはあの子の意志だ。
何を言ったらいいのだろう。疑問を解消するため問い質すか。勝手な行動を叱ればいいのか。支倉に、エルのことは頼みます、と頭を下げればいいのか。
戻ってこい、と言えばいいのか。行くな、と。
「ありがとう、朱鳥。今まで守ってくれて」
エルがはにかんだ笑顔を見せる。
「ごめんね、私、何も返せなくて」
朱鳥を囲っていたはずの魔法使いが、エルの周りにいた。エルは朱鳥に背を向けると、歩き出す。支倉がなにごとか言ったような気がしたが、まったく耳に入ってこなかった。魔法使いに囲まれて、小さくなっていく背中は、あの夜に似ていた。
違うのは、朱鳥が何をしようと無意味であること。
なのに、なぜか手が伸びていた。その無意味さにしばらく気付かず、たった一人の闇夜、朱鳥は意識して自分の手を下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます