第2話 魔法使い

 玄関の戸が閉まりきるよりはやく、朱鳥は靴を脱がないまま倒れるように座り込んだ。まさに疲労困憊、ここまで走ったのはいつ以来かと、思い出すつもりもないことを考えるだけ考える。薄ら寒さを覚えるのは、流れる汗で体が冷えてしまったからだ

 いや、それだけではない。あの初老の女魔法使い――30歳以上が魔法使いであるなら若い方ではあるのだろうが――の魔法、コンクリートを拳銃の形に変えたように見えた。恵の雷にも驚きはしたし、それこそ自分のときだって。そういうのとは違った。直接的に命の危険を感じた。雷や炎も扱い次第では人を殺すこともできようが、あの手に収まる道具は、命を奪うための形として印象づいている。そんなものを、ああも簡単に、それこそ“魔法のように”作って消せてしまうというのに……よくも果敢に立ち向かえたものだ。

「ねぇ、ってば」

 少女が袖を引っ張っていた。マンションに着くころには、この子も息を荒げていたが、もう疲れを見せていない。少女は、何度も呼んでいたようで、構ってくれなかったことに少し不機嫌そうな顔を見せてくれた。

 それにしてもやばいことをしてしまった。見知らぬ女の子を家に連れ込んでしまう、などとは。好きだからこそ手を出すな、という信条だったのだ。完全なる不可抗力、あるいは成り行き上仕方なく、緊急避難であるはずだが、社会が信じてくれるだろうか。新聞の内容が住宅街での発砲事件から幼女誘拐に変わるだけでは。目撃されてさえいなければ、心配ない。このマンションの監視カメラは網羅的だった記憶はあるものの。

「なんで逃げたの」

 子供らしい舌足らずだが、しっかりとした言葉遣いだった。泣き叫ばれようものなら自暴自棄になる選択肢もあるにはあったが。

「なんでって、どうすればよかったんだ」

「やっつけてよ」

「んな無茶な」

 少女は落ち着いていた。怯えは一切ない。魔法使いに狙われていたことといい、その異常な身なりといい、幼くともやはり、関係者なのだろうか。間近で観察してみると衣の危なっかしさが一層目につき、左胸のあたりの、特に大きく破けているのなんかは、心配になるほどだ。

 少なくとも攫われたと誤解されていことは安心だ。朱鳥は靴を脱いで、リビングに入る。後ろから少女も裸足をぺたぺたさせてついてくる。まず家内システムから浴室へアクセスして自動給湯させ、それから家庭電話の外線をつなげる。

「えっと、名前は……」

「エルって呼ばれてた」

「エルちゃんね」

「呼び捨てでいいよ」

 名乗り方に少し引っかかったが、それにしてもエルか。日本人には見えるものの、瞳の色や髪の色が、たしかに黒髪黒目日本人基準からは外れている。ハーフとまではいかなくても、少しくらい混ざっているかもしれない。整った顔立ちはそのためか。

「おじさんも教えて、名前」

「おじさんか……」

 事実だ。その辺りの抵抗は20代前半でもうやめている。

「俺は橘朱鳥だ」

「朱鳥ね」

 呼び捨てであることは叱った方がいいのだろうと頭をよぎったが、ならばどう正すのが正しいのか。赤の他人で年上の男だが、さん付けというのは子供らしくない。間違っているのは間違っているからだという論法は好まない。

「本題に戻ると、エルはご両親――パパとママの連絡先とか分かる?ていうかそうだ、家ってこの辺だったりするか?」

「そんなこと聞いてどうするつもり?身代金でもとるの?」

「ちょ、なんてこと言うんだ。連絡とって、引きとってもらうだけだ」

「せっかく家に連れ込んだのに」

「仕方なく、ここくらいしか浮かばなかっただけだ。逃げてきただろ、あの――女の人から」

「あの魔法使いから、ね」

「……知っているのか、魔法使いを」

「そりゃあ知ってるよ、魔法」

「アニメとか絵本とかそういうものに出てくるやつ……」

「どうてい」

「えっ」

「童貞、なんでしょう、朱鳥。魔法使いなんでしょ、朱鳥?」

 疑いようはなかった。幼い子に強く出られたことによる感情の混乱も収まらぬまま、しかし、やはりという腑に落ちる気分でもある。

「魔法を知ってるのって30歳以上に限るわけじゃないんだな」

 親が関係者――ということがあるだろうか。産みの親が魔法使いであることはないはずだ。子を成す過程でその資格を失うだろうから。

「珍しくはあると思うけどね」

「魔法使いが魔法で容姿を変えているということは」

 たとえばあの主婦と実はグルで、真の狙いは俺である場合、など。魔法使いを殺すなり、それこそ身代金をとる目的で、など。そんな価値があるとは思えないが。

「うーん、なるほど。そうだね、こんなに身長の低い大人はいないんじゃないかな。視覚を欺いているんだと思うなら、触る、全身?」

「いいのか」

「そういえばここまで手を引っ張ってきてくれたし、重くなかったでしょ、わたし」

 そう言ってエルは唇に指をあてて微笑んだ。あのとき、かなり密着していた。幼子と現実にそういった経験はないが、違和感はなかった。今はもう、あの熱さはない。

「……親が駄目なら警察だ。引き渡せば身元とか調べてもらえるだろう」

「ねぇ、警察に説明できる?」

「なに……」

「魔法のこととか、私のこととか。できる……怪しまれずに?」

 不可能だ。実際に魔法使いである朱鳥でさえ、信じきるのは容易ではなかった。たとえばエルが一切警察に何も言わないとして、どういう状況で家まで連れてきたかになる。もちろん銃を持った不審者に襲われそうになっているのを見かけて、だが。その銃はどうだ、消すことができる代物だ。

「頭のおかしいヤツだと思われるのが関の山、か」

「魔法のこと隠して言っても、穴のある発言は怪しまれるよ。異常者か犯罪者か、ってところ?」

「エルはずいぶんと、お利口さんなんだな」

「頭使うくらいしか、やることなかったもん」

「ちなみに警察がたまたま魔法使いだったり、そんなに疑り深くない可能性だって大いにあるわけだが」

「この人が犯人ですーって騒げば、無視できないと思うよ」

「……エルは家出少女か何かだと俺は思い始めているのだが、その場合、結局保護されるぞ」

「家出か、だいたい合ってるかな……。でも、朱鳥のダメージのほうが大きいんじゃない」

「つまり俺に口封じを頼もうとしているわけだろうけど、あいにくなことに、このマンションは監視カメラがついててな。誰にも見つからずに出入りをすることはできない」

「……そっか、出れないのか」

 エルはそこで黙ってしまった。また新しく打開策を考えているのだろうが、朱鳥もそれを考えなくてはいけない。警察は危ないとしても、この捻くれた美少女から親の所在を聞きだすのは諦めるべきだろう。なら子供が属する一つ大きなコミュニティである小学校はどうだろうか。この近所にはないことは把握しているので、こちらも骨が折れそうだ。

 そうだ、小学校で連想できる言葉が一つあるじゃないか。

「『教室』って分かるか?」

 エルの表情は強張り、「それって、あの『教室』……」それだけで答えは得られたようなものだ。

「魔法使いといい、教室といい、一般用語すぎて、そうだと確認するのにワンクッション置かないといけないのは厄介だな」

 エルの目には恐怖が滲んで、今にも逃げてしまいかねない。

「俺は『教室』の人間じゃない。魔法使いになったのは一年くらい前だが、その言葉の意味は今日はじめて知ったくらいだ」

「そうだったんだ」

「エルは――」

「『教室』から逃げてきたの」

「さっきの主婦も『教室』ってことか?」

「見たことない人だったけど、多分そうじゃないかな。『醜姦師団コミック』って感じじゃなかったから。『91』……は分かんない」

 『コミック』や『91』は『教室』とは異なる組織だろうが、なるほど、これも耳に入る程度では違和感もない。誰しも魔法使いになることができる世で、こうして日常に溶けているのだ。心からぞっとする。

 本人の協力も得られず、親も、警察も、そして『教室』は一番駄目だ。こんな幼い子が明らかな敵愾心を見せた。紳士的な態度で接してきてはいたが、子供を軟禁ないし監禁していたのかもしれない。となれば小学校は頼れないし、或いは既に親も――。

 朱鳥は頭を抱える思いだった。こんな事態は、一社会人が抱える範疇を超えている。明日も普通に仕事だ、何とかしないといけないが、頼れるもので、思いつくものはない。

「ねぇ」

 甘い音が、すがる切迫さを纏って朱鳥を捉えた。

「私をここに、置いてよ」

「無理だ、そんなのは……」

 朱鳥は思いついていた最後の案を否定した。だが、その望みは接近してきて、生々しさを嗅ぐわせた。

「……出れなくなるぞ、ここから」

「いいよ、それでも。だからお願い。そうするのが一番いいよ」

「なにが一番だっていうんだ」

「やらしいことされたって、騒いじゃうよ」

「おい……!」

「困るなら縛っておくとか……」

 もう駄目だ、何がって、いろいろ駄目だ。駄目になってしまう。駄目な決断をしてしまう。駄目なことだった、のだろうか。

「……………わかった」

「いいの?」

 エルの目が輝いた。朱鳥は頷くと、「やったぁ」ふわりと柔らかい感触が腹のあたりに抱きついた。体は熱くなるが、エルは服越しにも冷えているのが分かった。

「風呂入らないとな」

「うん、入ろう、朱鳥」


 エルは薄い布一枚で寒いとも言わなかったのに、朱鳥はすっかり芯から冷えている。年齢のせいだ。だからとて幼い子に風邪をひかせるわけにもいかず、また朱鳥も自分の体を労わらねばならない。どちらを先にするとか決める必要はないはずだ。二人で同時に入ればいいのだから。

「これはどうする?」

「捨てちゃっていいよ」

 洗濯籠に入れられたエルの服は、脱いだらただのボロ布だ。洗う必要もないということで、その一枚だけ取り上げて洗濯機の上に置く。

「おっふろー」

 浴室のかたい戸を開けて、エルの声は弾んでいる。朱鳥も空っぽになった籠に脱いだものを入れる。まっさらで小さな背中が風呂場に入っていくのに目がとられる。

 風呂場はマンションの外観通りの広さで、大人一人と子供一人が一緒で狭いとは言わせない。小まめに掃除がされ、隅々まで黒いところはなく、男の一人暮らしとしては上等だ。

浴槽には湯がなみなみと張られ、温かく湿った空気が視界を悪くした。

「おとなしくしてろよー。滑ったら危ないぞ。湯船に入る前にシャワー浴びなさい」

 朱鳥はシャワーを手にとって、湯を出して温度を確かめる。一応エルにも触らせる。

「丁度いいよ」

 湯の出るノズルを手から腕、肩へと動かし、エルを濡らしていく。自然、長い髪が張り付いてしまう。

「エルは先に入って暖まってな」

 うん、と言ってバスタブの縁に足をかけるエルに手を貸す。深さにおっかなびっくりといった感じだったが、足をつけ、腰を落ち着けると「はふぅ……」夢心地といった感じでまぶたを閉じた。長髪が流れて広がって、無色の浴槽を幻想的に彩った。

 朱鳥はそこまで見届けて、シャワーをざっと浴びると頭を洗い出す。無闇に力が入って、こするというより掻き毟る。混沌を晴らすように、がしがしと。

 いまは、互いに互いを見ていない。見ていないが、間違いなく、手を伸ばせば届く距離に、それはいる。手を伸ばさずとも、その姿は浮かぶ。

 せめて、それだけで留めろ。現実の、手が届く少女に、本当に手を出してはいけない。こんな密閉空間で、うまくやればバレないだろうと考えてもいけない。14歳未満とは、同意があっても認められない。学生時代に勉強したことで印象深い知識だ。

 だからとて、意識しすぎて不自然になるのも変に警戒を招くし、目を離すのも危険だ。平凡な30歳なら、娘ほど歳が離れた子に、あんな感情はないからだ。ほどよく、というのがある。

 などと自分に言い訳をして、隙あらば凝視したりする自分に、朱鳥はちょっと泣いた。

 頭も体も洗い終えて、エルに次を促す。

 見ることもそうだが、見られすぎるのも、危ないことではある。

「髪あらって」

「ああ」

 できるとは思えなかったが、引き受けた。未経験の領域。前に座ったエルの後頭部を前にして、朱鳥は、女の命であるという髪を扱うことに、普通に緊張していた。どうすればいいか、という弱音を吐くこともできず、知識を参照しながらなるべくゆっくり動き、シャンプーを気持ち多めに手にとった。

 作業に入る前に、少し、だけ。ほんの出来心で、あちらがこちらを見ていないことをいいことに、エルの頭に鼻を近づける。

 汗臭い、ただそれだけなのに、鼻腔をくすぐった情報はたったのそれだけだというのに、永くこうしていたい、いい香りな気がした。それでも、こんなに臭いのは、髪を、あるいは全身さえ洗えていないのではないかと、そんな環境に身を置いていたのではないかという暗い考えが尾を引いて、嗅ぐのもそこそこに、エルの頭を洗い出した。

「目、閉じた方がいいぞ。しみるからな」

 エルは頭をこくこくと動かして応えた。口まで閉じろとは言っていないが、口を開けていられないほどに泡が流れているのだろう。シャンプーハットでもあれば朱鳥の腕を誤魔化せるのだろうが。ともあれ出来る限り、優しく、頭皮を洗って髪を磨き、泡を流し終えると、そこには繊維状の宝石とでも形容すべき美があった。

「なかなかだったよ」

「そうかい」

 初めてにしては上出来だった、というよりは、彼女のポテンシャルがそうさせたのだ。少し、それこそ水で流すくらいで、視線を釘付けに出来る。内面もまた、それに見合っただけの生意気さだ。

「体も洗ってやろうかい」

「うん、お願い」

「は……?なんだって?」

「どうしたの?体も洗ってくれるんじゃないの」

「え、いや、いいのか」

「いいも悪いも、自分で言ったんでしょ。私をからかったの?」

「いやいやまさか。大人が子供にそんなこと」

 そうと決まれば、気が変わってしまわないうちにやってしまうしかない。子供用の柔らかいボディタオルがあるはずもなく、ならば手洗いという無謀もせず、一旦脱衣場に出てミニタオルを持ってくる。ボディーソープで泡立てたタオルを背中に当てていく。こすっていくたび、エルの体がぐらぐら揺れる。

「痛くないか?」

「それは大丈夫だけど、片手でも添えた方がいいんじゃない」

「そう……だよな」

 本人がそう言うのなら、しない手はない。エルの細い腰、脇腹へ視線をやり、結局、肩に手を添えて体を支える。作り物のような精緻な肌触り。片掌に全神経が集中したような意識の中、エルの背中、うなじから腰の下の溝にかけて洗っていく。

 白泡が流れて出てきた白を前に、一瞬朱鳥の動きが止まる。

 エルは前に集めていた髪を後ろへ流し、朱鳥に正対する。遮るものは頼りない湯気のみで、その至近にあるものは、己とは世代も性別も違う存在。今までは遠くはなれ、脳内でその存在を補完するしかなかったものが、今は目の前で、無垢を曝け出す。

 近くで見れば分かる。柔らかいというより、細さが目に付く。偽物ではない、本物だからこそ、骨格から幼いとでもいうのか。起伏に乏しく、鎖骨から撫でていけば引っかかるものは一対のみで、弱弱しい腹にいい形のへそ、腰の下から股下まで、健康的で滑らかだ。

「どうしたの、かたまっちゃって?」

「いや、かたくなってなどいない」

 朱鳥は足を閉じ前かがみになり、エルの正面を洗っていく。全体のフォルムをなるべく目に入れないように、そういうオブジェを磨く気分で無心に。

「きゃはは、くすぐったいっ」

 脚を広げさせて、内股や足の裏にさしかかったときだ。エルが身をよじるせいで少し苦戦するが、あともう一箇所だ。

「エル?さすがに、おま……お股くらいは自分でやりなさい」

 エルが股間と尻を拭いたタオルは朱鳥を再びフリーズさせた。さきほどからいくらか目のやり場に困る。そしてそんなとき、変な表情をしていまいかと不安になる。

 シャワーを出して泡を流してやると、エルは立ち上がって、軽く伸びをした。

「気持ちよかった!久しぶりだったからなあ」

「……そうか。それはよかった」

 朱鳥も立ち上がると、「俺は先に出るから、エルはゆっくり浸かってな。何か困ったことがあればそこのパネルでリビングに呼び出しかけれるから。タオルはてきとうに使っていい」少し冷えた体で扉に向かおうとした。

「朱鳥、お風呂入ってていいよ?」

「……ん、そうか?」

 朱鳥は少し身じろいだ。エルが女の子であることも配慮してのことだったが、なるほど、子供は早風呂であることが多いか。

「じゃあ、体冷やさないように気をつけてな」

 朱鳥は湯船に入り、体を再加熱する。長めに息を吐いて、疲労した筋肉を労わっていると、世界が揺れた。

「なんだ!?」

 目を開けると、そこにエルがいた。どうということはない。エルが勢いよく入ってきたせいで、波が立っただけだ。

「……上がるんじゃなかったのか」

「なんで?」

「最初からこのつもりだったのか……」

 浴槽は二人でも余裕があるとはいえ、エルは朱鳥の伸ばした脚の間にちょこんと納まる形でいた。この構図は、互いに見えすぎる。エルは横を向いているので、朱鳥も居なおす。肩が湯の外に出るが、そんなことは気にならなった。

「ねぇ、朱鳥はさ……いろいろ、訊かないの?」

「うん?……さっき色々聞いたじゃないか。教室から逃げてきた、とか」

「そうじゃなくて、もっと……。あと、魔法のこととか、素人なんでしょ。魔法に詳しい私がいるんだから、ちょうどいい機会じゃない?」

 目を伏せて、ちらちらと視線をよこす。エルの動揺が水の震えとなって微妙に伝わる。そんな様子に、朱鳥は自分の中の熱が萎えるのを感じた。

「エルのことでいっぱいいっぱいだからな」

 自分が魔法使いであるとか、教室との接触とか、子供を襲う主婦(まほうつかい)とか。切迫する出来事だった。だがそれらはもう醒めた夢のようで、今は少女(エル)だけがいる。あまりにも実感を伴うものだから、思考が痺れるのだ。

「ごめんね、朱鳥」

 エルをここにおくという判断は、最善だろうか。双方にとってもっと幸せな選択は他にあったはずだ。もっと安全で、無難な。

「こういうときは、謝るんじゃなくてな」

 いまさら悔いても無駄だ。イフを思考するより、現状に言い聞かせた方がまだ建設的だ。成り行きだったかもしれないが、考えている暇はなかったかもしれないが、動き出したのは間違いなく、自分(おれ)だ。本能もまた血肉だ。欲望は否定できない。

「うん。ありがとう、朱鳥」

 その笑顔に、呼吸を忘れる。肌がびりつく。

 現実逃避と言ってしまえばそれまだし、見えない闇まで背負いきれないだろう。それでも、こうして明るいエルを見ていたかった。


 眼前に投影させた通販サイトのページをスクロールしていく。今見ているのは子供服のページ。慣れた手つきで指を動かし、エルに似合いそうなものをカートに入れていく。

「服届くのは明後日くらいだな」

「べつにいいのに」

「そんな格好でいるわけにもいかんだろ」

 この家にエルが着るものがあるはずもなく、纏っていた布きれを着ることも拒んだため、朱鳥のシャツ一枚だけを身につけている。幼い女の子には大きく、鎖骨も隠せず袖は余りに余っているが、長い丈は太股を半分くらい隠した。ワンピースを着たようなものだと考えればいいのだが、ソファにうつぶせに寝転がって足をこちらに向けていては、やはり目のやり場に困るというもの。とは思いつつあちらがこちらを見ていないという状況にあっては、見ないはずもないのだが。

「こういうのは嫌い?」

「嫌いじゃないが……じゃなくて、俺のことはいい。とにかくもう注文するから」

 エルと意見をぶつけても勝てはしない気がしたので、無理矢理切り上げることにした。とりあえず洋服とパジャマを二着ずつ注文したが、それが男の一人暮らしの家に届けられるというのはどうだろうか。詮索されることはないだろうが、まだやばい趣味だと思われるだけならいい。

 だが、隠し通せるだろうか、得体の知れない、この女の子を。そんなことをいつまで続ければいいのだろう。まったく先は見えない。これは人生の転機だ。これまで転機だと思ったものは学校の入学・卒業、今の会社への就職。大小問わず集団に属せば、生活は変わる。縛られるといってしまってもいい。学校も企業も、所属期間は決まっている。それらは公的に認められたものだ。エルとの二人だけの関係というのは、無理がある。

 いつ終わるんだ。エルの気が済むまでか?終わらないようなものだ。それもいい。いずれ正式に養子にするなりすればいいし、縦の関係が難しいなら、横の関係でもいい。

「……眠いか?もう寝るか?」

「うぅ……ん………」

 ソファの肘掛に突っ伏しているエルは、すっかり船をこいでいる。もうすぐ10時だ。

「ん~寝ぅ~…」

 朱鳥はエルに寄って、肩を揺する。エルは体を起こすが、ほぼ寝ているといっていい目をしている。

「こら、目をこすらない」

「……眠ぅ」

「寝室行くか」

 エルは頷くと、歩き出した朱鳥の後ろをとことことついてくる。寝室の扉を開けるや否や、ベッドへ駆け飛び込んだ。うずめた顔を上げると、「くさい……加齢臭か……」朱鳥を軽く傷つけた。ベッドから降りたエルは、眠たげな眼で部屋の隅のそれを見つけた。

「これがいいよ」

「それは……」

 エルが飛び込んだのは、畳まれた布団一式。湊が泊まるときに使うものだ。

「いいにおい。これで寝るー」

「まぁ、いい……よな?」

 これら以外に寝具はない。布団がいいというなら、そうするのがいい。まだ会ってもいない湊に好感をもってくれたことにも何となく嬉しさを覚える。

「子供は寝る時間だしな」

 朱鳥が布団をしくと、すぐに潜り込む。毛布を追加してあるので、ふわふわさと温さは増していることだろう。

「……幸せ」

 本当に言葉通りの表情だ。こんなことでいいなら、簡単に与えられる。幸福は伝播しているようだ。

 とにかく、夜は大人の時間でもある。ずっと気を張っていたので、少しはリラックスできるだろうと、動き出そうとしたところで、エルが呟いた。

「電気―消してー」

 すぐに灯りを消すとする。それはいい。いまからしばらくして再びここに寝に戻ったとき、真っ暗な中、エルを踏まないようにベッドへ向かうのは難しそうで、灯りを付け直してしまうのも、エルに悪い。

「俺も寝るか」

「朱鳥も子供―……」

 その気になれば、ソファで寝るなりすればいいが、そこまでして起きていようという気分ではない。

「ま、そうかもな結局」

 家の明かりが全て消え、間もなく二人分の寝息が静寂を埋めた。

 朱鳥は夢さえ見ず、一瞬で朝になった気分だった。目蓋の向こうに陽光を感じるより先に、下腹部の重みと、ゆさぶられるのを感じた。

「もう朝だよ」

 両脚は案の定筋肉痛で、久しぶりの感覚に懐かしかった。

「あ、起きた?」

「…………これ、なん、て……」

 仰向けの朱鳥の腹の上に、エルがまたがっていた。布団をめくられたときに起きれなかったのかとぼうっと考えながら、上に乗るエルを観察した。

 長い髪はすっかりクセがついてしまっている。俺が目覚めただけでそんなに嬉しいのかという表情をしている。一仕事やり遂げた達成感か。服はなかなかに乱れてしまっている。腹の上、自分の寝巻き越しにエルの体があるのだと意識すると、一気に頭が冴えた。

「起きたから、どいてくれ」

 二人揃って寝室を出てすぐ、エルが「トイレ行ってくるね」わざわざ言ってきたので、軽く「一人でだいじょうぶか?」からかってやる。

「もうっ、いくつだと思ってんのー」

 シャツを翻しながら、廊下を駆けていくのを見送って、朱鳥はリビングに入る。

「そういえば聞いていなかったが……7,8くらいかな、経験上」

 時計を確認し、まだいつもなら30分は寝ていたと思いながら、特に不満はない。ただ現実感は喪失している。朱鳥は壁に触れて家内システムを起こすと、アラームを切って寝室から廊下の暖房も切って、カーテンを開けていると、“お知らせ”に一件メッセージが入っていることに気付いた。

 監視システムについて、というタイトルに肌が粟立った。よくもここまで楽観視できたものだと、自分を呪う。このマンションは、エントランスやエレベーターなど、公的な場所に、町内監視システムと連動した防犯カメラがある。24時間稼動しており、昨日、朱鳥がエルを連れ込んだシーンがばっちり収められているに違いなかった。

「……親戚の娘を預かることになって……、不審者に襲われているところを……、自主制作映画の撮影で……」

 やがて訪れるであろう管理人か警察への言い訳を考えるも、昨夜エルが指摘した通り、どれも不整合だ。

「終わった。詰んだ。……すまない」

 どうエルに伝えればいいだろうか。軽く受け入れてくれそうな気もするが。それ以上に、あの子はどこへ連れていかれるだろう。

「ん?防犯カメラの故障?」

 メッセージの本分に書かれていたのは、死刑判決ではなかった。どうやら昨日の夕方くらいからシステム全体が不調らしく、復旧するのは今日の正午とのことだ。カメラが何かを捉えたとか、不穏な情報はない。ここのシステムは太陽嵐にも耐えうる強固さを謳っていたから、住民からは苦情の幾つかは入るだろうが、朱鳥には、ただただ安堵の思いだった。

「もしかしてエルが何か細工したってことはないか?魔法で」

「そんなの出来ないよ。魔法使いは、30歳以上の童貞だけ」

「でも女性の魔法使いはいるんだろ。昨日、襲ってきたみたいな」

「そりゃ、いるよ。アイアンメイデンって呼び方もするみたいだけど、なんで区別するのか分かんない」

 朝のニュースバラエティを流し、目新しい事件がないことに安心しながら、朱鳥はトーストを食べ終えた。今朝はトーストと目玉焼き、ウィンナーと簡単なサラダ、牛乳だ。

「俺はこのあと普通に仕事行かないとならんのだが」

 エルはトーストを咥えたまま、頷く。

「分かってると思うが、この家にいてくれ。ここなら安全だ。互いに、いろんな意味で」

「大丈夫だよ、私からここにいたいって言ったんだから」

「そうか。……夕飯までには帰るが、昼飯はサンドイッチを作っておいたので、それを食べておいてくれ」

 サラダに使った野菜とツナなどを挟んだものが、皿に乗せてラップをかけて、この食卓の端に置いてある。

「飲み物は紙パックのオレンジかアップルが冷蔵庫に入ってる」

 エルでも届くところに移してあり、逆にそれ以外の、子供が手にしてはいけないものは、届かない高さに移した。

「3時のおやつが欲しかったら、そこの棚にてきとうに入ってるけど、ほどほどに。暑かったり寒かったりしたら、エアコンに向かってそう言えばいいから」

 テーブルには携帯ゲーム機とその充電器もあり、ソファ横には少年・少女マンガが積まれている。

「誰か来ても無視して。あと、余程心配はいらないとは思うんだが、……もし何か、変な人とか、それこそ魔法使いが襲ってきたら、家内システムに、俺の職場に電話を繋いでもらうよう言え。繋がったら、何も言わなくていい。それだけで分かる」

 伝えたいことは伝え、朱鳥は一息つく。少し量が多かったか、エルは賢いから心配はいらないはずだ。乾燥した口腔内を冷たい牛乳で満たし、喉を冷やす。

「ホットの方がよかったかな」

「ねぇ、できる、魔法で?」

 エルが半分くらい入ったグラスを差し出し、指を入れる真似をする。

「直接火つけたら焦げるか分離するかすると思うぞ」

「そういうものなの?」

「そういうものです」

 朱鳥は食べ終えた食器を持って台所へ向かう。エルはこのペースだと仕事に行くまでに食べ終わらないだろう。帰宅後にまとめて洗えばいいと思い、流しに突っ込むだけにした。

 何となく、手の中に火を出してみる。この火も体も、熱くない。実に魔的だ。

 はっとして顔を上げると、エルへ向かって声をあげる。

「台所のものとか危ないのが多いから、冷蔵庫以外に触らないように――」

「もうっ、心配しすぎー」


 まだ日の高い、土曜日の住宅街を、朱鳥と湊は並んで歩いていた。

「端末壊れちゃったのって、会社で停電があった日でしたっけ。朱鳥さんが早退した日」

「早退……あー、そうだったな」

 魔法使いのことで、心の整理がつかなかったのだ。なんとなく大昔のような気がするが、まだ今週のことだ。

「あれれ、もしかして、ずる休みでした?珍しいですねぇー。……なーんて」

 湊がからかうように笑ったが、すぐに赤面してしまった。

「なんとなく面倒くさくなっちゃうことって、ありますよね。でも、ちょっと心配したんですから。元気なかったし」

「はは、それは、ありがとう」

 今日は朱鳥の壊された端末を新調するため街に出ていたのだ。端末が壊れたことは、すぐに湊に気付かれて、なら買うときについていっていいですか、となった。週末に一緒に過ごすときは大抵、泊まるパターンからの流れが多いが、朱鳥から誘わなければいいだけの話だ。

「あの日の停電って、不思議ですよね。原因分からないし、他のところでも点在して起こってたみたいですよ」

 不思議なのは、それが魔法によるものだからだろう、と朱鳥は思った。停電自体だけでなく、ブレーカーを見に行こうと動けたのが朱鳥だけであるのも、雷の魔法使いである斉藤恵の仕業だと見当がついていた。端末が壊され、恵が去ったあと、胸ポケットに紙幣が五枚ねじ込まれていたことに気付いたが、使えるはずもなかった。

「今日は付き合ってくれてありがとうね」

 朱鳥のマンション前だった。昼過ぎだから、まだ暖かい方だ。こんな時間にここにいることは、滅多にない。

「……ええ、こちらこそ、楽しかったです」

 湊は頭を少し傾けて、笑顔で言った。

「あ、そうだ。支倉さんの件ですけど」

 いつかテレビで見た料理研究家、支倉夕希のことだ。まともに料理をする必要が出てきたので、朱鳥が詳しく話を訊いていたのだ。

「適当なレシピ見繕って、データ送りますね」

「悪いね。本当に助かるよ」

「いいんです。いつか埋め合わせしてもらいますから」

 また月曜日に、と手を振って、朱鳥はエントランスへ入る。それを見送って湊も帰路へついた。朱鳥は郵便ポストに投函されていた荷物を小脇に抱え、エレベーターに乗る。この時間に外出する人間はいても、帰宅する人間はおらず、乗り合わせることはなかった。とはいえエレベーターを降りて自分の部屋まで向かう間、警戒の目を光らせる。不審なものがいないかというより、不審に見られないか、という点からだ。

 生体認証の錠を解き、扉を開いてすばやく身をすべりこませる。扉が勝手に閉まるに任せず、自分で閉じる。廊下を抜け、リビングの戸を開ける。

「ただいまー」

「おかえり」

 ソファに座ったエルが顔だけ向けて応える。朱鳥は見せびらかすように小包を掲げると、エルが立ち上がって正対する。

 視界に入ったエルの姿に、一瞬、頭の奥が熱くなる。

 エルは今、体操服姿だった。真っ白な半袖に、袖と襟に赤いライン。ネームプレートには何も書かれていない。下はハーフパンツで、全体的に、小柄なエルには少しオーバーサイズだ。

 いつまでも朱鳥のTシャツを着ているわけにはいかないと、不本意ではあったが、やむなく、本当に仕方なく、着せたのだ。なぜ男の一人暮らしの家にこんなものがあるのか、という疑問はエルの口から発せられることはなかった。

「届いたぞ、服」

「おおー」

 包装を破って中身を渡すと、目を輝かせて、せっせと体操服とハーフパンツを脱いで全裸になる。

「……慣れないと高血圧で死ぬかもしれん。っておい、それパンツ、穿かないと」

 よもや本当に下着をつける習慣がないのではないか。エルという少女は、賢くても常識が欠如しているようだ。

 下着の問題はあったが、着替え自体はすぐに終わった。セーターとキュロット。サイズはぴったりだった。

「ちょっと暑いかも」

 薄着のエルのために室温は高めだった。朱鳥も汗がにじんでいたところだった。家内システムがエルの声に反応して暖房を弱めた。

「ありがとう、朱鳥。すごくいいよ」

「そうか」

 朱鳥は、エルに近付き、髪に触れる。

「どうしたの?」

「いや、巻き込まれてる」

 さらさらな長い髪が、襟の中に入ってしまっている。その上に静電気でボリュームが増していた。軽く指で梳いてやる。

「髪まとめる何かが必要かもな。風呂はいるときとか寝るときに傷むだろ」

 こんなにきれいなのだから、大事にしなければ。

「朱鳥ってさ……」

「うん?」

「……いや、なんでもない」

 しおらしく、少しはにかむようだった。顔は紅潮していた。そこに、朱鳥は深い意味は見出さなかった。


 朱鳥が端末を片手に立ち上がる。夜でリビングにいてもやることがないから、自室で煙草を吸うなり、雑事に勤しもうというところだった。2人しかいない家で朱鳥が一人になるということは、エルも一人になるということだが、もう過剰に心配する必要がないことは分かっている。だからこそ、何気なしに立ち上がった朱鳥を、エルが「ちょっと……あの」遠慮がちに袖を引っ張って、制止したのは、無視できないことだ。

「どうした、トイレか」

「違うよ!」

 むくれるエルの横に座りなおす。なんとなくそわそわしているような気はしていた。

「なんかあるなら言ってみ」

「うん……。えっと……、外、出たいな、って……」

「……遊びに行きたいってことか?」

「べつに、遊びに行くとかじゃなくても、ここじゃないところ、見たいと思って。無理言ってるの分かってるよ……」

 声は消え入るようで、姿はいつもより小さく見える。

「子供が、そんな表情しちゃいかん」

 エルと暮らすようになり、一週間以上たった。朱鳥にとっては激動であり、あっという間に過ぎ去った。エルは、朱鳥が家に居ない間もずっと、ここにいる。『教室』から逃げてきたという少女が、ここで軟禁状態なんて、あんまりではないか。エルはいま、薄墨色のパジャマを身に纏っている。エルのための日用品も充実してきた。その中に、エルが望んだものは一つもない。私をここに置いて欲しい、という甘い声が、最初で最大の願いだった。

 大人びすぎている。『教室』から何を教わったか知らないが、どれほどの倫理観を、その小さい躯に収めているのか。

「でも実際問題大変でしょ」

「う、うーん、そう、なんだが。是非遊びに行かせてやりたい、そんな姿を見たい、が。ここに連れ込めたのは奇跡なほど、ここの防犯システムは厳重だ。もちろん俺は犯罪をしたつもりはないが」

 エントランスのオートロックに玄関の電子錠。侵入を拒み、脱出すらできない。朱鳥と少女が一緒にいるところさえ見つからねばいいという簡単な話でもない。少女が一人で朱鳥の部屋を出入りする状況すら危うい。

「ねぇ、一応、いい方法があるかもなんだけど」

「なんだって」

 もしかして、それありきで提案してきたのか。それはまた末恐ろしい幼女だ。

「ようは、私が見つからなければいいんでしょ。監視カメラに、映らなきゃ、いい。姿を消すの」

「そんな魔法みたいなことできるわけ……。……そういう魔法があるのか」

「うん、そうなの。だからそんな詰め寄らないで」

「おお、すまない」

 出会いが劇的だったとはいえ、あの日以来は平穏そのものだった。朱鳥は、エルがいるということで魔法を使わないように、つまり煙草を吸わないようにしていた。エルは、煙草は嫌いではないとは言ったが、だからといって積極的に吸う理由にもならず、家で煙草を吸うのを解禁したのは、つい二日前だ。そもそも煙草に火をつけることは日常化して、魔法である意識はほとんどなかったのであり、魔法と、魔法使いについて、意識は薄れていた。

「どうすればそんなことができるんだ」

 エルが『教室』にいて、魔法に詳しいとはいえ、まだ年端もいかぬ少女だ。魔法を使うのは朱鳥ということになる。火しか出せない自分に、人を透明にする魔法が使えるなんて思えないが、エルのために、やれることはやってやりたかった。

「えっとね、まずは聖液を――」

「せーえき、ですって!?」

「え、ど、どうしたの。魔力の溶けた水、聖なる液体のことなんだけど、なんか引っ掛かった……?」

 とつぜん声を荒げた朱鳥に、エルが少し怯えている。

「……あ、なーるほど。そうだよな。魔法使いって女もいるんだもんな」

「女で聖液だと、なんなの?」

「そういうことは知らんのか。……まだ知らなくていい。いずれ教わるだろ」

「朱鳥に?」

「いやいや――」

 否定しようとして、はっとする。子供がいろいろなことを教わる場というのがあるはずだ。エルの発想にはない。“教室”ではないのだ。

「――そう、だな。いつか必要なときが来たら、な。今はとりあえず、聖なる液体を作るか」

「うん?……うん、まず、用意するものがあって。といっても蒸留水だけだよ。それを入れるバケツもいるかな」

「蒸留しゅいか」

 蒸留水というか、ようは純水に近いものを、とのことだ。バケツはないので、風呂桶で代用する。一度に生成できる量が減るだけで、問題はないらしい。ただ、風呂桶を満たすだけの蒸留水を用意するのが大変だった。蒸留といえば理科の教科書で見たような装置が浮かぶが、あれは用意できない。調べれば作り方はすぐに出てきたが、いかんせん、時間がかかった。ただ、実験を手伝うように、楽しそうにしているエルを見ているとあっという間だった。

「『教室』じゃやらなかったか、こんなこと」

「陣を描くのは頻繁に実習があったけど、もう完成した聖液が配られてたから」

 風呂桶をいっぱいにするころには、普段床につく時間を大きく超えていた。

 リビングのフローリングの上にタオルを敷いて、その上に風呂桶を置く。風呂場でやろうとしたら、それなりに時間がかかる作業なので、リビングでテレビでも見ながらやったほうがいいとのことだった。

「手を入れて」

「こうか」

「両手を」

「おっけー……」

 自然、這いつくばるような姿勢になる。しかも腕同士の間も狭く、安定感にかける。これは辛い。歳とかでなく、普段やらない姿勢だからだ。エルに少し待つよう言い、試行錯誤の結果、結局、朱鳥はソファに座り、足置きに風呂桶を置いて、前かがみで両手を浸すと、いい塩梅と感じた。

「じゃあ、魔力を放出して」

 エルも隣に座る。風呂桶を覗き込むかたちなので、かなり密着してきた。

「魔力ね……。え、どうやって?」

「できないの!?」

 普通はできるものなのだろうか。エルは心底驚き、また戸惑いと焦りが滲んでいた。

「えぇーっとね。魔力を放出するには、そうだな……朱鳥の場合なら……火を出さないように、魔法を使うイメージで」

「どういうこっちゃ」

「も、もうっ、とにかくやってみてよ。朱鳥ならできる!」

 それもそうだ。やってみなければ分からない。いや、できなければ、エルが外に出られるかどうかが懸かっている。

「絶対やってやるから、応援しててな」

「うんっ。がんばれ」

 火を出さないように魔法を、とは。朱鳥には相変わらず、火を出すことが魔法であるという意識はないから、エルの言葉は、火を出さないように火を出せ、と同義だ。まったく腑に落ちない。エルにもよく分かっていないようだが、それは当然だ。とにかく水につっこんでいる手に神経を集中させる。

「がんばれ、がんばれ」

 祈るように応援を続けるエルが、気持ちが出てしまっているのか、横から抱きついてきた。不意打ちだった。その存在感が強く意識され、皮膚の奥が痺れて熱くなる。

「あ、ちょっと出来てるよ」

 エルの視線を追って桶に意識を戻すが、見たところ水に変化はない。

「これで魔力出てるのか?」

「うん。訓練すれば視えるようになるよ」

 熱は消えていた。収まったというよりは、水に溶けてしまったみたいだ。もどかしさと、不快感が後をひく。

「エル、さっきみたいに」

 首をかしげた顔に疑問符が浮かぶ。

「抱きついててくれ」

 返事は行動で表れた。さっきよりも強く、強弱の問題ではないというのに、そうすることで手助けになるという必死な思いが、朱鳥をより昂ぶらせた。その熱が、掌に集まって、流れ出ていく。

「これでどれくらいだ?」

「10%いかないくらい」

 現時刻を確かめると、ここまででおよそ15分かかっていた。となると完成するころにはすっかり深夜だ。もう週末なので仕事の心配はいらないにしても、明日、できれば明後日もエルを外に連れてやりたい。2人共に疲労を持ち越したくはない。エルの目がとろけていた。この子は直前まで元気でも、急に眠気に襲われるようだった。

「エル、もう寝るか?」

「うぅー……ん」

「どっちだ」

「聖液できても私いないと陣、描けないでしょー……」

「そうれもそうか。……じゃあ、もうちょっと手伝って――ちがうちがうちがう」

 腕のしめつけが強くなった。とはいえ痛くはない。

「ちょっと一旦離れて」

 すっかり高揚が薄れてしまっている。魔力放出に精神をすり減らしてしまったか、刺激に慣れてしまったか。

「ねぇ、私、どうすればいい?なんでもするよ」

「なん……でも……?」

 朱鳥が考えていたのは、たとえばエルに正面に立ってもらって、全身を眺めるなど。そのときパジャマのボタンを少しずつ外してもらうにはどう言えばいいだろうか、ちょっと悩んでいたところに、エルの言葉だ。

 しめっぽい純真な瞳の奥で、言葉は無意識に出たように思う。その言葉は危険だ。そんなことを俺のような男に言っては。

 エルは指示を待っている。なんでもする。なにをしてもいい。

 そんな巡る巡る妄想だけで、充分だった。

「朱鳥、だいぶ溜まってる」

「え、いや、待て、だめだそんなことは」

「……どうしたの。聖液、いい感じになってきたよ」

「あ、……聖なる、の液ね」

「それ以外になにかあるの?」

 いろいろあるのだと言ってやりたかったが、そういうことを教えるのはまだ先だと、さっき話したばかりだ。

「よし、もういいよ朱鳥!」

 手を引き抜く。かなりふやけてしまい、冷えて気持ち悪い。完成した聖液は、朱鳥の体温でぬるくなったくらいで見た目にはただの水だった。

「やったね!」

 エルが腕に抱きつく。うれしそうに笑っている。

「台所からタオル持ってきてくれる?」

「うんっ」

 跳ねるように行って、すぐ帰ってくる。

「ありがとう」

「途中からはやかったね」

 聖液が完成したいま、あのときの熱はすっかり消えうせた。猫のようにすりよるエルに対しても、ただ静かな庇護欲が湧くのみだ。この喪失感のような、微妙な感覚に覚えがあった。

「賢者とかっていたりするか、魔法使いに?」

「純粋な魔力の扱いに長けた魔法使いのことを、賢者(スペルマスター)っていうことがあるかな。聖液の精製も得意なんだよ」

「へぇ、そうなんだ……」

「朱鳥、賢者になれるかもね」

「そう……そうか……。俺はいいかな……」

 うまく時間は節約できたが、もう日をまたいでしまった。しかし、エルは興奮で眠気は吹っ飛んだようだ。

「これをどう使うんだ。陣を描くって言ったか」

 聖液はあくまで、魔法を使う大前提にすぎない。

「ローブとかある?」

「魔法使いじゃあるまいし……魔法使いだけど……」

 自覚もなければローブもない。

「フード付きジャンバーとかでなんとかならないか?大人用のでかいやつだし、エルが着るんなら雰囲気ローブになると思う」

「どんなの?」

「待ってな」

 聖液の入った桶は床に置いて、朱鳥は寝室のクローゼットから灰色のジャンバーを持ってくる。若い時分に、丈の長いものをカッコいいと思って買ったものだ。

「よさそう?」

「よさそう」

 エルがばんざいをした。誘われるまま、朱鳥がジャンバーを着せてやる。

「うん、いいね」

 フードをかぶると、顔が完全に隠れる。両袖を余らせ、前を閉じ、長い丈を引き摺っていると、子供のお化けの仮装のようでもある。

「これに聖液で陣を描きたいんだけど、いい?」

「いいぜ。もうそんな若者っぽいのは着るつもりないからな」

「じゃあ、不可視魔法の詠唱陣を描くね」

「詠唱……」

 ときどき魔法使いっぽい言葉である陣という言葉が出ていたが、詠唱という言葉につなげるには違和感がある。その疑問が表情に出たか、エルが説明をしてくれる。

「朱鳥が炎魔法を得意とするのは、完全に“慣れ”と言い切れる。魔法使いになりたてのときに、炎ばっかり出してたんじゃないかな。だからもう、多分、炎魔法しか使えないと思うよ。でも、魔法って、広く浅く使えても弱いから。その不便さを軽減させるのが聖液っていう手段ではあるんだけど……。

 自分に使えるのはこういう魔法だ、っていうのを、無意識に、不文的に、使うのは、弱い魔法。強く複雑な魔法を使うなら、呪文の詠唱が必要。と、いうよりは、この呪文を唱えたとき、こういう魔法が発動されるように、自分に言い聞かせるだけなんだけど」

「呪文詠唱が一種の精神統一みたいなことか。もしくはルーティーンってとこか」

「そうそう。だから朱鳥も、ただ火を出すだけじゃなくて、強ーい魔法と、かっこいい呪文考えたら?」

 そういえばエルを狙っていた魔法使いも、何事か呟いていた気がする。

「聖液を使った陣は、それとは発動系統が違うんだけど、そこは普通の魔法と揃えて、詠唱って呼び方するんだって」

「なるほどな。確かにちょっと違和感あるくらいがカッコいいよな……」

 朱鳥が、話の内容を頭で復習していると、エルがおずおずと控えめな口調で言う。

「朱鳥って、さ。私の話、真面目に聞いてくれるよね、大人なのに」

「ん、ああ、俺が子供っぽいってこと。たしかに話を素直に信じすぎな自覚はあるんだが」

 恵まれた幼少期を過ごしてきたのだろうと、いまになって思う。裕福だったとかでなく、人間関係は本当に健全だった。女性関係は避けてきたというのもある。疑うべきは、ネットと怪しい本の情報くらいだろう。

「ううん、そうじゃなくて、優しいな、って」

「話聞いただけじゃないか。もともと俺の知識不足を助けてくれただけだし。エルの話は分かりやすい」

 エルは大人びている。過剰なくらいには賢い。人の気持ちを勝手に察して、自分の気持ちを隠してしまうくらいには。

「それでも、だよ」

 大人というのは、子供の話をしっかり聞いてやるべきだと聞く。朱鳥もそうすべきだと思う。この子の周りの大人は、そうではなかったということか。

 エルは脱いだジャンバーを抱きしめて、顔をうずめて少し潤んだ瞳を見せるだけで黙ってしまったので、朱鳥が切り出した。

「陣を描くってことは、道具がいるよな」

「あ、うん。筆とかペンとか」

 また自室へ向かう。鍵つきの自室は、朱鳥のプライベート空間。趣味の品などであふれている。面相筆と平筆を持ってリビングへ戻る。エルはジャンバーを床に広げて、品定めをするようにしていた。

「ローブと構造が違うから、陣の繋ぎ方を工夫しないといけないの。フードをかぶる、かぶらない、で、不可視魔法のオンオフができるんだよ」

 思い出すのは、初めて遭った魔法使い。彼が着ていたローブがそうだったのだ。

「下書きするか?」

「ボールペン?でも見栄え悪くなっちゃうなぁ」

「視えなくなるんだろ」

 受け取ってから、少し渋ったが、諦めたようにキャップをとった。そこからは早かった。迷いなく、線を描いていく。全体のバランスをみながら、勢いよくペンをすべらせ、あっという間に下書きを終えた。陣は幾何学的で、回路図のようでもあった。エルは下書いたジャンバーをさっきのように着込む。

「ねぇ、朱鳥。つながってる?正面から見て、線が等間隔で、平行になってるといいんだけど」

「少し、ずれてるかな」

「このまま直して?」

 襟の辺り、向かって右が歪だ。これをきれいに線対称にしてやるだけのようだ。

「こうすればやりやすいかな?」

 エルがフローリングに仰向けになる。誘われるまま、朱鳥は、這うようにエルの体に顔を近づける。薄い体を下敷きに、手にしたボールペンで線を修正していく。すると、小刻みに震えた。

「く、くすぐったいっ」

「我慢しなさい」

「無、無理ぃ……」

 仕方なく、朱鳥は自分の左腕をジャンバーの腹のところから突っ込んで、自らの掌を下敷きにした。たしかにくすぐったいが、それよりも、この状況自体に神経がいって、ほとんど気にならなかった。

 修正も終わり、エルはジャンバーを脱ぐ。また床に置いて、今度は聖液をひたした筆で、下書きをなぞっていく。ゆっくり慎重に、はみ出さないように。全てなぞりきり、乾くのを待ってから、念入りに確認を終えて、エルは長い息を吐いた。朱鳥が差し出したホットミルクを受け取る。

「聖なる液体、かなり余ったな。こんなに要らなかったんじゃないか」

「消耗品だもの。魔法をオンにしてたら、魔力は減っていっちゃうの。たまに書き足さないといけない」

「頻繁にか」

「このクオリティなら、一時間くらいかな。聖液は、他にも使い道があるから、何かに入れて保存しておこうね」

 エルがジャンバーを着る。フードを目深にかぶると、姿がゆっくりと薄くなり、ついには、見えなくなった。

「おお……。うまくいったな」

「うん、よかった。これで外、出れるね」

 安堵と喜びの声が、朱鳥の周りを回る。

「それ、中から見えてるのか?」

 今のエルはまさに透明人間だが、透明人間は光を透過してしまうため、自らも光を知覚できないという。

「ううん、見えないよ。隙間から覗いてるだけ。ほら」

 見えない手に引っ張られるにしたがってしゃがんで、見上げると、宙にエルの目の辺りが切り取られて浮いている。

「そんな狭い視界じゃ、危ないぞ」

「足元だけは見えるし、ここを出入りするときだけでしょ」

 しゃがんだまま前の方をかいてみると、ジャンバーの感触があった。つかんでたくしあげると、エルの足が出てきた。

「本当だったらね、不可視の陣だけじゃなくて、裾をひきずる音とか、気配を消したり、中から周囲を視るための陣も併記すると、完璧なんだけど。また時間かかるし、これだけでも、よほど下から覗かれでもしないかぎり、大丈夫」

 再び姿を見せたエルは、眠たげだった。エルの欠伸が朱鳥にうつる。

「じゃぁもう、寝よっか」


 エルは少し我がままになった。もちろん外出できるようになってからであり、朱鳥のせいである。ぬいぐるみを見ても欲しそうなのを隠そうとするエルを甘やかせるくらいに財布に余裕はある。単純に、女の子らしいものに囲まれたエルを見ていたいというのもある。出会った当初の危ない恰好が見られなくなるのは残念だが、『教室』から逃げてきたというみすぼらしい姿を思い返せば、間違いなくこうするのがいい。

 外に出るのは危ないからと、閉じこもるのは、望むところではないはずだ。だから、油断していたとか、そういうことでは決してない。悪意は、2人の外側に潜んでいたにすぎないのだから。

「ねぇ、ハンバーガーっていうのが食べたい」

 ネコのぬいぐるみを抱いたエルが、そんなことを言ってきた。朱鳥は仕事から帰ってきて自室で一服を終えたばかりだった。

 エルは最近、CMやチラシをよく見るようになった。外出できるようになるまでは、あえて目に入れないようにしていたというのだから、なんというかエルらしい。

「ハンバーグは出してもハンバーガーってのはなかったか。それにしても、急だな」

 たまに外食することはあったが、ファストフードは避けていた。エルだけじゃなく、自らの健康も気遣ってのことだ。

「無理ならいいんだけど」

「いや、行こう。ハンバーガー食いにいこう」

「ホントに?いいの?」

「駅前まで行けばいろいろあるが、こっから近いのだとロティーリアがあるな。そこでいいか?」

「うん、どこでもいい、ありがとうっ!」

 飛びついてくるエルを受け止める。出会って一か月、互いにかなり慣れたはずだ。それでも、外面は真っ当な大人であっても、内心は穏やかでない。だから意識して動くことも、反射的に動くことも、欲望を散らすには大事なことだ。

 朱鳥が着替える間、エルは不可視のコートを着て玄関で先に待っている。

 不可視のジャンバーは結局二回しか使わなかった。そもそもあれは急ごしらえのものとして、計画的にコートを作った。これであれば、エルが着ない間は朱鳥が着ることができる。フードはないが、ようは陣をつないで頭を隠せればいいので、ニット帽とネックウォーマーですっぽり覆う。こうすると隙間から覗くこともできないので、透視魔法の陣を加えた。外で陣が擦れて消える事態に備え、小さいペットボトルに聖液を入れて持ち歩くことも忘れない。

「……ねぇ、パパ。なんか嫌な感じがする」

 ロティーリア店内に入り、注文のために並んでいるときだった。エルの握った手が強張り、声も潜めるようだ。

「どうした。具合でも悪いか」

「魔法使いがいるかもしれない」

「なんだって……」

 周囲を見渡したくなるのをこらえる。少なくとも、店には行ったとき、怪しい目立つものはいなかった。いや、エルを狙った主婦の例がある。自分もそうだ。

「敵なのか?俺たちに気付いてる?」

 朱鳥は後悔する。エルを心配させないように、また嫌な思いをさせないようにと、魔法関連のことは極力訊かないようにしていた。なぜエルは狙われたのか。魔法使いすべてがエルを狙うものなのか。

「分かんない、そこまで。気のせいかもしれない。でも……私……に気付いてたら……」

「こんな人気のあるところでか?」

「どうとでもなるよ、魔法なら」

 朱鳥たちの番がまわってきた。後ろにはまだ人がいる。押されるように前にでた。注文を受け付けたのは、若いアルバイトの女の子だった。

「絶景マウンテンバーガーと、絶対スカーレットバーガー。あとポテトM2つと、希望イノセントシェーキ。テイクアウトで」

 朱鳥が手早く注文をしている間も、エルは落ち着かない様子だった。それでも外見上は平静を装って、なるべく自然に店内を眺めて客を見定めている。落ち着きのない子供を演じている。内心おびえているのが朱鳥には分かる。

 客は学生風の男女が多い。それでも30歳を超えているだろう人間がいないわけではない。どちらにしても、誰も彼も、社会的に溶け合っていて、魔法使いらしい存在はいない。充実した人生経験を経てきた人たちに見える。もちろん、朱鳥もそうだ。見かけは取り繕って、マトモを装っているにすぎない。中身がどんなであろうと、そうしさえすれば、生きていける。

 ふと、不安そうに揺れるエルの瞳が目に入った。朱鳥はエルを背中から抱き寄せて、頭を強めに撫でる。

「大丈夫だ」

 エルは、喉を鳴らすように掠れる返事だけをして、朱鳥の腕にそっと触れる。

「お待たせしました」

 店員の声でようやく意識が社会に戻る。店員の声が男のものだったことに気付かなかった。はやくこの場を離れたいという一心だった。しかし、カウンターの上に置かれている注文の品は、トレイの上で、持ち帰りの紙袋に入れられていなかった。

「あの、テイクアウトで、って――」

 カウンターの上から店員へと視線を移す。その顔に、朱鳥は慄然とする。異変に気付いたエルも、すぐにカウンター越しに男を見た。

「恵……!」

 雷の魔法使い、斉藤恵。朱鳥が初めて遭遇した魔法使いで、エルを捕らえていた『教室』の魔法使い。あの日、ハロウィンの仮想かと見紛う魔法使いらしい格好をしていた男が、店長を示すネームプレートを胸に、ロティーリアの制服に身を包んでいた。

「ごゆっくりお召し上がりください。……店を閉めるまでここにいろ」

 気付けば朱鳥は、エルの手を掴んでいた。カウンター前は人が多いとはいえ、出口は近い。逃げようと思えばすぐに逃げれる。そんな不審な挙動に、周りの客の視線が集まりかけた、そのときだった。恵が何かを呟いていた。朱鳥たちへかけた言葉ではない。恵が朱鳥たちの背後を見た。それにつられ、朱鳥とエルは振り返る。そこは店の隅の、まったく客がいない一画。三人以外は誰も、見てすらいない。

 スパークした光が、人の形をとって、そこに輝いた。それは手に持った剣を振り上げ、天井、蛍光灯を貫く。蛍光灯は割れ、辺りがふっと暗くなり、破片がばらばらと落ち、店内が一瞬ざわっとする。人型の稲妻は、ただそれだけが幻だったと主張するように、いなくなっていた。

「手、空いてる子、箒と塵取り持って片付けて。素手で触らないように、お客様近づけないようにね」

 恵の声だった。ひどく社会的で、自然な声音だった。若い男の店員が、店長の指示を受けて片づけをはじめた。

「お騒がせして申し訳ありません。どうか、ごゆっくり、お召し上がりください」

 朱鳥はトレイを受け取って、なるべくカウンターから離れた席をとった。エルは席までは無言だったが、ポテトをほおばりはじめてからは楽しそうに、リラックスして見えた。

「見つかったのはしょうがないし。こんなに美味しいんだからさ。……連れてきてくれてありがとうね、朱鳥」

 ファストフードだけあって食べ終わるのに時間はかからなかった。閉店まで数時間を潰さなければならない。端末しか持ってきていなかったので、二人用のアプリを使って過ごした。その間、店内の誰もが二人に注目することはなく、近づこうとすることもなかった。閉店時間になってしばらくして客がいなくなり、閉店後の店の雰囲気を興味深く眺めていると、恵がカウンターに姿を見せた。

「何か飲むか?サービスだ」

 透明のプラスチック製のカップを片手にそんなことを言ってきた。

「そんなことしていいんですか」

「店長だからな」

「じゃあ、さっきのシェーキでお願いします。エルもそれでいいか?」

 エルが頷くと、恵はシェーキを三つ作り、律儀に蓋をしてストローをさして、トレイにのせて持ってきた。

「いろいろ聞きたいことがあるんですけどね」

「こちらもいろいろ言いたいことがある」

 エルを隣に座らせ、恵が正面に座る。置かれたトレイからシェーキを二つ取って、一つをエルの前に置く。恵がシェーキを少しすすり、口を開いた。

「見つけたら報せろと言っただろう。それとも、例の少女だとは思わなかったか。単に攫っただけか?」

「いやいや、エルが斎藤さんが言っていた女の子だとは何となく分かっていましたよ。報せろとはいいましても、どこにですか。現金よりも連絡先置いてってくれないと」

 恵は少し思案する仕草をして、「それもそうだな」あっけからんと応えた。

「ともかく、エル=クローズの保護には感謝する」

「クローズ?苗字?」

聖人サンタとしての通り名だ。どちらもな」

 つまり『エル』も本名ではないということか。疑問の一つが解消されたが、それ以上に分からないことも増える。

「保護したのはいつだ」

「斎藤さんに初めて会った日です。帰り道に、拳銃をつくる魔法使いに襲われているのを見かけて」

「錬金術師だな。特徴は?」

「特徴といわれても……主婦っぽかったです」

「少なくとも『醜姦師団』ではなさそうだな。『教室』だとすれば、それは、あの日の状況を鑑みても面倒なことになりそうだが」

「あの主婦も『教室』……」

「派閥や部署の違いがあるのだ。私は『風紀委員』。把握できていない魔法使いを減らし、秩序を守ることを主な目的としている。以前に話したことと重なるがな」

「それが、エルを監禁することと、どう繋がるんですか」

 恵は纏う空気が少し硬くなる。一貫して無表情ではあるものの。

「橘朱鳥、貴様、typeL0-C-4C9エル=クローズからどのように我々のことを聞いているか知らんが……。そうか、だから先ほど逃げようとしたのだな」

「『教室』から逃げてきた、って言いました。あんなみすぼらしい恰好させて、自由を奪っていたんでしょう」

「『教室』を悪だと印象どったのか?」

「正義だとは思えませんが」

「思想の話をするつもりはない。こちらの要望は一つだ。エル=クローズを引き渡してもらいたい。勘違いをしてもらってはこまる。我々は聖人を人道的に扱っている。学校を想像しろ。生徒側は苦痛なことを強いられるだろうが、それは社会的に必要なものだろう」

「学校……。俺は孤児院みたいなイメージを持っていましたが」

「それも間違っていない。どちらの役目もあるというだけだ。ただ、保護するのは聖人に限る。聖人はその性質上、決して一般社会に出すことはできないのだ。無論、その上で抱えることになるストレスは充分に考慮しているが」

「その性質って、いったい……。エルは、聖人って何なんですか」

 訊いてしまってから、はっとした。俺はとうとう、訊いてしまった。一瞬で体の奥に、冷えた嫌なものが流れた。

 大人と話をしていたからか。エルはこんなにも近くにいるというのに。

「問いには答えよう。だがその前に、……エル=クローズ。……イオは、一緒ではなかったのか」

 何かに耐えるようにうつむいていたエルが、愕然とした表情で顔をあげた。

「違う……、『教室』に捕まっちゃったと思って……て……。違うの!?」

「……こちらでは、確認できていない」

「そんな……」

「……イオ、というのは?」

「私と同じ、聖人なの。あの日、一緒に逃げたんだけど、途中ではぐれちゃって」

「逃亡した聖人を捜索し保護するために、あの日は広域に人払いの結界魔法を張っていた。その中へは、かなり自意識の強いものや魔法抵抗力を持ったものでなければ、魔法使いか聖人しか立ち入ることはできない」

「だから人がいなかったのか」

「イオは、魔法使いに捕まっちゃったんだよね?『教室』の対立派閥に、だよね?だったら――」

「ああ、存分にあり得るだろう。私としても、無事であってほしい――。……話を戻そう。本人も言っていたが、エル=クローズは聖人という、特別な人間だ。聖人とは、簡単に言ってしまえば、多くの魔力を秘めている存在だ。……橘朱鳥、魔法使いが魔法を使える理由は聞いたか?」

「いいえ」

「ほう……。ならばこれも簡単に説明しよう。童貞や処女は、30歳を迎えると、誰でも魔法使いになれる……では何故、性交渉で魔法が使えなくなるか。それは魔聖域サンクトゥマというものが壊れるからだ」

「魔聖域……サンクチュアリてきな」

「語源はそうだろうな。魔聖域は、人の体を覆う薄い膜のようなものだ。性交渉で穴が空き、そこから魔力が漏出し、魔法を成り立たせるだけの魔力が確保できなくなる。魔聖域自体が、魔法を使う上で不可欠な器官でもある」

「性行為で穴が空くのは、なぜ」

「そうなるからそうなる、というトートロジーに陥るしかない。一応、人体における神秘性があり、かつ急所であるからだな。魔法使いの資格を失うのは性交渉だとはいったが、男女の性器どうしの直接の接触だけでなく、オーラルセックスやアナルセックス、また同性同士のそれら行為においても、魔聖域を損なうという事例が確認されている」

 エルの様子を窺う。大人の会話に、あっけにとられる様子はない。ただ、表情の影が濃かった。

「納得いかないか?自らが魔法使いであることは、もう受け入れてしまったようだが」

「多少は引っ掛かってますが……。まぁでも、そうですよね」

 どうやったら魔聖域が壊れるかなど、魔法使いに分かるはずがないのだ。

「魔力の量、魔法の腕には個人差がある。30歳で魔法が使えるようになる、というのは、魔聖域が成熟するからだが、これに個人差はない。あっても一日に満たない」

「魔聖域が、聖人と、どう関係が」

 そもそもが、聖人とは、という話だった。

 恵がエルを見やった。隣に居るエルは、顔を伏せてしまって、店内の証明の薄暗さと相まって、感情を窺い知ることはできなくなっていた。

「聖人は、生まれながらにして魔導師クラスの魔法使い並みの魔力を秘めている」

「それでも魔聖域が成熟していないから、魔法は使えない、ということですね」

「話の意図をつかむのが早くて助かる」

 なんとなく、話の流れが見えてきた。推測を確かなものとするため、朱鳥は言葉を続けた。

「聖人が魔法を使えないとはいえ、狙われるのは、魔力は利用できるから」

「貴様はもう知っているはずだな。その不可視の陣を描いたということは。ただ聖人から純粋魔力を抽出するには普通の方法ではいかないが」

 聖人を燃料扱いしていると聞こえるその言い方に、怒りを覚える。

「語感だけで感情を荒立てるな。『風紀委員』は、人道的に動いてきた。定期的に魔力を採り、扱い方を指導してきたのだ」

 それでもエルとイオは逃げた。エルには息苦しい生活を強いてしまったが、それでもマシではあったのだろう、幸せにみえた。とはいっても、今日で終わりだろうが。

「イオって子は見つかってないって、さっき言ったみたいに、『教室』に捕まったんですよね。あの夜は結界が張ってあったというし」

 運命のいたずらなどがあれば、あのとき掴んだ手は別の少女のものだったかもしれない。そう思うだけで、他人事である気がしない。一ヶ月も見つかっていない、また魔法使いに対する物騒なイメージから、暗い想像しかできなかった。恵のいうとおり、『風紀委員』が人道的な扱いをしていたというなら、他の派閥はそうではないのかもしれないから、安心しきることはできないが。

「例外もあるとはいったが、その可能性はあまりに微々だから勘定にいれる必要もない。しかし魔法使いは『教室』だけではない」

「利用価値の高い聖人を、……その、殺してしまう、なんてことはないでしょう?」

 恵の目がすっと細くなり、苦痛を堪えるような、どうしてかそこに初めて人間味が見出せた。空気が止まった。目の前に落とし穴があると分かりながら、歩き続けてしまったのだ。

「聖人について、重要な前提がある。魔法使いは30歳以上であるが、聖人は、30歳未満なのだ」

「え、魔法使いになるから、聖人じゃなくなる、ってこ、と、か……?」

 違う。恵は、疑問に答えるために話したに過ぎない。俺は何を訊いた。

「死ぬのだ、聖人は、30歳になると。そして魔法使いの資格を失う一連の行為でも」

 あまりにも直接的な、簡潔な言葉に、解釈に頭の諸領域を使う必要がなく、真っ白になった頭で理解できた。恵が、あまりにも悲痛そうに言うので、わざとらしく見えて、演技しているのではないかと疑ってしまった。

「本当なのか」

 だから、こともあろうに、エルに真偽を確かめてしまった。

「うん」

 私は、朱鳥の年齢になるまで、生きられない。

「そんなことが……いや、待て……そうだとしても、そうだとしたら、聖人を犯そうなんてことはしないはずでしょう……」

「犯したら死ぬ。聖人を聖人たらしめる神聖性も、そこにある。聖人を犯すことは殺すことと同義であり、それは聖人の有用性からしても、絶対に許される行為ではない。だが、聖人との性交渉において、魔法使いには得られることがある。まず、聖人との性交渉では、魔法使いはその資格を失わない。一度でも聖人と交わったものは、魔人サタンと呼ばれる。魔人の存在はタブー視されている。魔人は、通常の魔法使いとは一線を隠した存在となっている。魔人は、生涯、魔法使いの資格を失わない。何をしても」

 実感は欠如しつづけている。いつまでも、なにがなんでも魔法使いでいられる。一生、軽く炎を操れても嬉しくはない。それどころか、たったそれだけなのに、これだけ厄介なことに巻き込まれている。だが、想像もできないような有用な魔法が使えれば、面倒ごとなど天秤にかけるまでもないのだろう。ずっと魔法使いでいたいなら、性行為をしなければいいだけの話じゃないのか。

「魔人になるために聖人を狙うのが、『醜姦師団』だ。奴等は性欲を満たすために魔法を使い、魔法を使い続けるために、聖人を犯す」

「まさか、イオは……」

「『醜姦師団』に、というのもあるだろう。しかし、どうだ……?貴様も、つい先月までは無自覚の魔法使いだったのではないか?イオは、聖人である以前に、小さい女の子だ。今も昔も、そういうものに欲情する輩はいるものだ」

 つまり、暗にイオの生存は絶望的だと云っているのだ。

「私が、ここまで話した理由、意味は分かるか」

 恵の空気が変わった。戻ったというべきか。荷電した刃物。

「エル=クローズ。『教室』へ帰れ」

「そんな言い方――」

 恵の視線に射抜かれて、言葉は切られた。貴様には訊いていない、と。散々と俺と話しておいて、大事なところはエルに訊くのか。

「イヤだ」

「分からないのか、血のつながりもない子供を一人かくまうことの苦労が。それどころか、お前は聖人だ。橘朱鳥にかかる負担は計り知れんぞ」

「そうだけど……」

「一般社会は危険だ。『教室』にいれば、身の安全は保障できる。それどころか、我々が、聖人を延命させる研究を行っていることは知っているだろう。仮に橘朱鳥と暮らしを続けたとして、およそ20年だ。それで終わる」

「研究なんて……。……typeS10-C-BAC949――サンタ=クロースみたいに、奇跡的に死の宿命を逃れることだって、あるかもしれない」

「彼は、特に特殊な事例だ。真の奇跡だ。……エル=クローズ、これ以上、何を望むのだ。お前の身勝手が、イオを殺し、これからこの男の人生を壊すことになる」

「…………わ、たし……わたしはっ、ただ、自由に、…………ぃ………っ」

 静かに。ただ静かに、エルは泣いた。涙が溢れて零れ落ちてしまう前に、それを見せないために、朱鳥の腕に顔をうずめた。声も涙も、無理矢理押しとどめる。だが、いくら感情を堰で止めようとしても、その堰は、ありのままに、それ以上に、感じ取れる。

「穏便にいきたかったが、まぁ、いい……」

 恵が席を立ち、朱鳥に背を向けてゆっくり歩き出す。依然として空気は変わらず、諦めて去ってくれるというわけではない。少し落ち着いたエルの頭に手を置く。

「そもそも、魔人の話をした時点で、このまま帰すつもりはない。私は最初、驚いた。エル=クローズが生きていることもそうだが、よりによって魔法使いと一緒であることにだ。経緯がなんにせよ、男が少女を家に連れ込んで、裏がないはずがない。よく無事だった。だが、これからも無事でいられる保障はない。魔人が生まれるのを見過ごすわけにはいかない」

「俺はそんなこと――」

「『最強を従える権能を一瞬で示すフルミロ・ジェネラーロ』」

 振り向いた恵が朱鳥を鋭い眼光で射抜く。詠唱に続き、恵の左右に、まばゆく円陣が浮かぶ。それぞれから、片手剣と長銃を構えた、甲冑を着た騎士が現れる。騎士の体も鎧も武器も、雷で構成されている。直視することさえ苦痛だ。人に1%の生存しか許さない、身近で制御不能なエネルギーの暴力。二体の雷兵が、切っ先と銃口を向けた。

「朱鳥……」

 エルが腕から顔を離した。泣きはらしてぐしゃぐしゃになった顔を一瞬見せて、朱鳥が頭に乗せていた手をとって、手首に、唇をつけた。まるで脈を圧迫しているようで、血の巡りが強く意識できた。

「守って、私を守ってよ……!」

 胸にとびこんできたエルを、今度は強く抱きしめた。

 肌がびりびりする。恵の魔法のプレッシャーが、頭の奥を抜いて、体の芯が痺れる。それは、腕の中の、密着する実感によって、恐怖を熱し、怒りに変わった。感情は荒々しく、溢れ出て、炎になっていた。恵の驚く顔を陽炎に溶かして、雷光を照らす。炎は大波となって、もろともに飲み込んだ。

「その魔法ちからは……」

 波打ち際に描いた絵のように雷兵は消えた。炎と雷、二つの光を失い、穏やかな薄闇が包む。爆発的に膨れた炎は天井まで届いたはずだが、焼けた跡はなかった。

「聖人のため、秩序のため、立派な大人だよ。正しいと思う。だけど俺は、泣いてるエルを見過ごせない。エルだけじゃない、誰であってもだ」

「……ガキだな」

「よく言われるし、自覚もある」

 恵が離れたまま、手近な席に座る。頬杖をついて、長く目を閉じた。

「いいだろう。現時点でエル=クローズを保護することはしない。これまでどおり、2人で暮らすといい」

「……え、いきなりどうしたんですか」

 目を丸くする朱鳥の膝の上で、エルが恵に正対するよう座りなおした。

「どういう意図?」

 落ち着けたか、泣き疲れただけか、溌剌さは欠きながらも鋭く言葉を刺した。恵はこちらを見ずに、虚空を眺めて答える。

「ようは、聖人を悪用されなければいい。『教室』の研究のために戻ってもらうのが最善だが、その様子では、な。ならば、そこまでは望まない。この一ヶ月、何事もなかったということは、それなりの対応をしてくれたのだろう」

 褒められた気がして、顔を緩めていると、「今日、私に見つかってしまったがな」痛いところをつかれた。

「週に一度でいい。店に揃って顔を出せ。聖人の無事を確認する」

「あくまで、俺がエルを……と、疑っているんですね」

「無論だ。貴様の人となりなど知らんからな。そういった性癖がないともいえん。抜き打ちでこちらから訪ねることもあるだろう。エル=クローズの無事を確認できなければ、貴様が魔人化したと判断し、対応する」

「消される、ってやつですか」

「生きた魔人サンプルとして、研究の為に利用される生涯を送らせてもいい。端末を出せ」

 互いに端末を出して、赤外線の発振部を向け合う、が、遠い。朱鳥はエルを膝に乗せて身動きがとれず、恵も動こうとしない。すると、二つの端末の間を青白い一閃が結んだ。あわてて端末を引き戻すと、画面にロティーリアの特別クーポンが表示されている。

「これといい、この前の現金といい、正当なものなんでしょうね」

「もしや使わなかったのか」

「どうにも怪しくて」

「通貨紙幣偽造は重罪だぞ。知らないのか。学はありそうだと思ったが」

「分かりました、大丈夫です、使います」

 この店で使う分には心配要らないだろう。

「さて、手間取らせて悪かったな」

 恵はそれだけを告げると、店のバックヤードへと姿を消した。

「帰ろう、エル」

 頷き、膝から降りる。朱鳥が立ち上がるよりはやく、エルが手を掴む。コートは脇で抱えて、二人は並んで店を出る。寒空は白く濁り、月を隠している。街の陰である一帯は、人工の灯りがいつもより頼もしく照らす。朱鳥はしゃがんで、エルに背中を向ける。エルは意外にも、すぐに乗ってきた。抱きつかれたり、乗られたりはあったが、こうして自分の責任で支えるのは初めてだ。エルの軽さと、重さを感じて、朱鳥は歩き出した。

「エルって何歳なんだ?」

「9歳」

 朱鳥の個人的な統計的に、歳の割には幼く見える。

「……パパとママは?」

「ママは知ってる」

 パパは知らない。物心つく前に父がいなくなったとか、そういう次元ではない。母さえも、父よりは印象に残っている、という程度なのだ。恵に質せば、事実は明らかになるかもしれないが、両親の所在がどうのを、他人が確かにしていいはずがない。

 教室に保護され(とらえられ)て、30年の寿命に、僅かな希望を賭ける。この、気にも留めず浴びてきた透明な30年と、この子の9年。

 きっと背負いきれない、という弱音は絶対に漏らさない。エルの頼れる朱鳥であろうと、自ら意識して、自分を動かしていることに、猛烈な吐き気を催しながら。せめて。自分が関わったことで、少しでも事態がいい方に動いてくれればいいと、願う。

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