おまけ或いは蛇足

※以下は刊行当時、ページ数の問題で単行本未収録のエピソードです。全話お読みいただいた後、サッと目を通していただければ幸いです。









■1■


 昼下がり。

 オフィス街の一角にある、四階建ての雑居ビル。

 まだ真新しいその建物には、一階に整骨院と喫茶店、二階は古本屋とアンティークショップ、そして三階には不動産事務所が店子として入っている。そして現在、俺が籍を置いているフリースクール、目白アカデミーはその四階にあった。

 その教室の最後尾にて……

 ノートを開いた机の上で頬杖をつき、教壇に立つ講師の抑揚のない声に俺はグッタリ耳を傾けていた。

 えー、プランクトンとは、浮遊生物のことであり、水中を漂って生活する生物を指す言葉であります。一般に光合成を行うものを植物プランクトン、摂食を行うものを動物プランクトンといいまして前者の代表がランソウ、後者がミジンコですな。ミジンコは、ほれ、メダカの餌になりまして、昔はこの辺りの川も綺麗で子供がメダカ取りに興じていたものです。いやあ、あの頃は良かったですなぁ。今みたいに便利ではなかったけれど空気や水が綺麗で、これ、そこ、よそ見をするのはやめなさい……

 頭の中が、霧でもかかっているかのようにモヤモヤしている。

 首筋が見えない手に鷲掴みされているかのように痛い。

 当然のように、久しぶりに出席した講義には集中できず、俺は蚊の鳴くような小さな溜息をついて、窓の向こう――しとしと降る雨に濡れる、通りに視線を向けていた。

 明るい教室の中とは対照的に、雨の街は昼間だというのにどんよりと暗い。

 行き交う車にはヘッドライトが灯され、通行人はまばらだ。

 ……眠い。眠たすぎる。

 ゴシゴシと目をこすりながら俺は溜息をつく。

 昨夜は、いつもより早めに寝床に着いたのだが、ほとんど眠れなかった。

 それは地下街――夢ノ宮プラザで俺を襲った奇怪な出来事だけが原因じゃない。

 小学生の頃から使っている、俺の勉強机。鍵を失くし、長年、空けることもなかった、その引き出しの中から出てきたのは一枚の似顔絵だった。

 我ながら薄情なやつだと思うのだが、それをいつ、誰に描いてもらったのか、俺は全く記憶していない。まあ、小学生の俺が描かれているのだから、仲良くしていた同級生か何かなのだろうが、昨夜まで俺は似顔絵の存在自体を忘れていた。

 そして、それが目にした途端、俺は言いようもない胸騒ぎに襲われたのだった。

 それは大切な物を、どこだか分からない場所に置き忘れてしまったかのような焦燥と後ろめたさを混ぜこぜにした様な、複雑な感情だった。

「一体、何だって言うんだよ、畜生……」

 コツン、と小さな音を立てて俺は糸の切れた操り人形のように机に突っ伏していた。

 三軒隣の家から聞こえてくる、読経のような講義はまだ続いている。

 しかし、もはや、俺の耳にはその内容が入ってこない。

通りを走る車のクラクションや講師に質問する生徒の声がぼわぁん、ぼわぁんと響いて、自分がまるで水の底にいるような非現実的な感覚が俺を捕らえている。

 非現実と言えば、昨日の出来事も、その時は死にたくないと必死だったが、今となってはまるで現実感がない。

 誰かが見ていた悪夢の中に登場人物として強制参加させられたような気分だ。

 しかし、あれは夢でも幻でもなく、間違いなく現実の出来事なのだ。

 何故なら俺は西出口付近に置いてあった自動販売機の中から長年失くしていたと思い込んでいた机の鍵を見つけて、そして――

 難解な迷路に行き詰まった時のように、同じことをグルグル繰り返し考えている自分に俺は気がついた。

 やめたやめた、もう、やめた……。

 見ず知らずの女の子からの電話など、気がかりなことは山ほどあるが、あんな人外境な出来事、俺にどうこうできるわけがない。

 これ以上、深追いしてもいいことがあるとはとても思えない。

 嫌なことは早く忘れてしまうに限る。

 そう結論付け、俺は重い瞼を微かに開き、白い壁に掛けられた時計を見た。

 ……講義が終るまで、まだ三十分以上もある。

 頭が痛くなるのを感じながら、俺はギュッと両目を堅く閉ざした。



 なぁ、今日、これからどうする? 

 カラオケにでも行くか。

 いや、俺はバイトがあるから。

 バイトって何のバイトだよ。清掃業だよ、うん。道端にさ、蛙の卵みたいな変なのが時々落ちているだろ、あれを掃除するんだよ。ふーん、それで時給はいいのかよ。いいさ、バイトはバイトでもちょっと特殊なバイトだからな、あれは。

 遠ざかってゆく他愛のない会話。

「………………」

 いつの間にか、俺は本格的に居眠りしてしまっていた。

 講義は既に終ったらしく、教室に講師の姿はなく、まばらに居残った生徒達がダラダラと駄弁っている。

 ああ、そう言えば、水曜日は生物で全講義終了だったな……。

 口をモグモグさせながら、ボンヤリとそう思った時だった。

「――六道歩君」

 フルネームで俺を呼ぶ声があった。

「へ?」

 寝ぼけた頭のまま、俺は顔をあげた。

 自分でも情けなくなるくらいアホ面をしているんだろうなと思いながら。

 しかし、次の瞬間、すっかり眠気が醒めていた。

 俺の前に立っていたのは、今から葬式にでも行くのかと思わせるような、黒一色の衣服にほっそりとした身を包んだ若い女だった。

 若いと言っても、俺より少し年上で、二十歳そこそこ。

 綺麗なクレオパトラカットの下にある小さな顔は、まるで女優かモデルのように整っている。じっと俺を見つめる大きな栗色の瞳は、息を呑むほど美しく澄んではいたが、どんな思考が巡らされているのか読み取ることはできなかった。

 彼女の名は金原多恵。挨拶以外、ほとんど口を聞いたこともないのだが、俺と同じ、ここ目白アカデミーの生徒の一人である。

 小耳に挟んだ話によると、彼女は繁華街にある占いハウスに所属するプロの占い師だそうだ。的中率が高いらしく、街の若者達――特に若い女性達からの支持が篤く、占ってもらうには予約が必要らしい。

 ちなみにフリースクールとは、俺のように何らかの事情があって普通の学校に通えなくなった、あるいは通えない人間のための民間の教育施設だ。ここ、目白アカデミーの生徒は大半が俺と同じ十代後半だが、金原のように定職を持ち、その合間に通学する人も僅かながらいた。

 しばらくの間、俺と黒尽くめの女――金原は見つめあっていた。

「……あ、あのさ、金原さん」

 何とも言えない、居心地の悪さに耐え切れず先に口を切ったのは俺のほうだった。

「何か、俺に――」

「私に何か用事があるんでしょう」

 淡々とした口調で、言おうとしていたことを先に言われ、俺は言葉を失くす。

いや、俺は「何か用事?」と尋ねようとしていたことに対し、金原は断定の物言いだ。

 思った通り、変な女だな……。

 金原の華奢な身体から放たれる、不可解な圧力に俺はたじろいでいた。男だろうと女だろうと、こういう、何を考えているのか容易には分からないタイプは、俺は苦手だ。

 しかし、金原は所謂、不思議ちゃんタイプとは違う気もする。

 さて、ここはどう対応したものか……

 困惑し、上目遣いになった俺をジッと見返しながら、

「悪いけど」

 やはり金原は淡々とした口調で続けた。

「今日は占いの予約客が八件も入っていて忙しいの。今は大雑把なアドバイスだけにしておくわね」

「へ? アドバイス……」

 首を傾げた俺の顔に金原の白い繊手がすっと伸びた。

 両耳を塞ぐようにしてそっと俺の顔を挟む。

「ちょっ、何だよ……!」

「動かないで」

 いきなり額を寄せられ、思わず赤くなった俺に瞑目した金原が端的に命じる。

 そして、柔らかな手で俺の頭をゆらゆらと揺らしながら、形の良い唇の中で何事かをブツブツ呟き始める。

 こいつは不思議ちゃんと言うよりは、電波かも知れない。

 突然、始まった奇行に俺は思わず表情が強張るのを感じた。

 傍から見れば、それは随分と奇妙な光景に映っただろう。

 しかし、それでも金原の手を払いのけなかったのは、綺麗なお姉さんに顔を間近に寄せられて満更でもない、俺のスケベ心がなかったとは言いがたい。なははは……。

 まあ、それはともかくとして――

「……よく生命が無事だったわね」

 口の中でブツブツ呟くのをやめ、ほとんど聞き取れないような小さな声で金原が言った。

 脳天に突き刺さるようなナイフのような衝撃が走った。ギョッとして目を見開く俺には構わず、相変わらず、淡々とした口調で続ける。

「だけど、この次は上手く帰れるかどうか。……君に纏わりついている厭な力、ちょっとやそっとじゃ消えそうにないもの」

「な、何で……」

 あんた、アレを知ってるんだよ?

 思わず漏れ出そうになった言葉を俺は慌てて飲み込んでいた。

 思わせぶりなことを言って相手の不安を煽る。そんなの霊感商法では常套手段じゃねえか……。

「ねぇ、六道歩君――」

 金原の睫毛が長い瞼がゆっくりと開く。

 大きな栗色の瞳には、強張った俺の顔が映っていた。

「このままだとキミ、飲み込まれて消えちゃうよ」

 哀れむでもなく、皮肉を言うでもない、何気ない金原の口調。

 しかし、俺はその物言いに死刑宣告を受けたような戦慄を覚えた。

「い、いい加減にしてくれ!」

 激しく首を振って、俺は金原の手から逃れていた。

「あんた、一体、何のつもりなんだ!? 言っとくけどな、俺は占いだのオカルトだのは大嫌いなんだよ! 信者を増やしたいのなら、他を当たってくれ!」

 身を引きながら、俺は沿う一気にまくし立てる。

 情けないことに声がすっかり裏返っていた。

「……そう」

 やれやれとでも言うように小さく溜息をつき、金原が立ち上がった。

「余計なお世話だったのなら、ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったの」

「べっ……別に怖がってなんかねぇよ!」

 痛いくらい胸中を言い当てられ、頭の悪いガキみたいに俺は唇を尖らせていた。

「ああ、それと――」

 憤慨する俺など歯牙にもかけない様子で金原が言った。

「これから、あなたが見たり聞いたりする物は、どんなに変なモノでも何か意味があるはずなの。それを忘れないで」

 そう言いながら、つっ、と机の上に金原が差し出したのはカラフルな名刺だった。

 それには『占いハウス夢見館 メイデン金原』とあった。

 どうやら、それが金原多恵の占い師としての名前らしい。

「…………」

「何かあったら、そこを訪ねて。……無理にとは言わないけど」

 名刺を手に取り、押し黙った俺に金原は言った。

 白い手をハンカチのようにひらひらと振りながら教室を出て行った。



「あー、胸糞ワリィ……」

 ジャブジャブと冷たい水で顔を洗い、不機嫌な犬のように俺は唸っていた。

 ここは目白アカデミーの教室の真向かいにある男子トイレ。もっと正確に言えば、その洗面台の前だ。

 鏡に映った自分の顔をチラッと見る。血走った目の下に黒い隈が微かに浮かんでいる。頬が少しこけ、顔色が悪いため、我が顔ながらまるで幽霊のようだ。

 畜生、あの女のせいだ。

 忌々しく思いながら俺は首を振った。

 あの女とは、勿論、金原多恵のことである。

 昨日ことを早く忘れようとしていたのに、あいつが余計なことを俺に話しかけてこなければ、今頃はもっとマシな気分でいれた筈だ。

 そもそも、あいつは何のつもりで、俺にあんな――

 いや、待てよ。

 ふと浮かんだ自分の考えに俺はサッと血の気を引かせていた。

 昨日のあの出来事……。

 まさか、あの女の仕業じゃないだろうな?

「……そんなわけねーだろ」

 ハンカチで顔を拭いながら、小さく俺は自嘲していた。

 あれだけの仕掛けを――仕掛け、だとして――金原多恵一人で整えられるはずがない。

 また、仲間がいるとしてもウジャウジャ出てきた怪物はどうなる。

 どこかの極秘研究所で作ったものを夢ノ宮プラザに放したとでも言うのか?

 蛇口の栓を閉めて水を止め、俺はタイルの壁に立て掛けておいた松葉杖に視線を向けた。

 怪物を殴り殺した、俺の松葉杖。当然、本来はそんなことに使うための物ではないが、ズッシリと重いそれを手に取ると不思議な安堵感があった。

 これさえあれば、何とかなるような……。

 そんな俺を嘲笑うかのように、窓の外から太鼓のような轟音が響いた。

 雷だ。それに風もかなり強くなっている感じだ。

 早く帰らないと、バスが運行停止になってしまうかもしれない。こんなことなら、爺ちゃんの言う通り、もう一日休んで、家でゆっくりしていればよかった……。

 舌打ちしながら俺はトイレのドアへと向かった。

 ドアを片手で押し開き、廊下に一歩足を踏み出した途端だった。

「…………?」

 微かな違和感に襲われ、俺は立ち止まっていた。

 同時にモゾモゾ蠢く虫の巣を見つけた時のような。

 何だ? 何かがおかしい?

 得体の知れない焦燥に囚われ、キョロキョロと俺は視線を周囲に巡らせていた。

 ホラー映画や怪談などの登場人物がわざわざ怪しい影を確かめに行くシーンや描写を見たり読んだりする度に、馬鹿馬鹿しいと俺は鼻で笑っていた。

 怖いならさっさっと逃げりゃいいじゃねえか、と。

 しかし、それは間違いだった。

 不安を不安のまま、放置しておくということは、どんな人間とっても多大なストレスなのだ。だからこそ、ホラー映画の登場人物たちは、自分を不安に陥れている者の正体を知り、確認し、安心を得ようとする。

 それは俺も同じだった。

 半ば血眼になって、俺が感じた違和感の原因を探す。

 そして、それを俺は天井に見つけた。

 天井を這うようにして、カーテン・レールのように敷かれていたのは、赤錆の浮き出た金属製の溝。

 俺が覚えている限り、先程まで、そんな物はなかったはずだ。

 それはボンヤリとした蛍光灯の明かりに照らされた、薄暗い廊下の端に向かって延々と伸びている。

 何だ、これ……?

 どんな用途にそれが使われるのか、まるで見当もつかない。

 ただザワザワと言う胸騒ぎだけが次第に大きくなるのを俺は感じていた。

 そして――

「…………」

 無言のまま、俺は廊下を歩き始める。

 出来るだけ、頭上を走る得体の知れないレールを意識しまいと努めながら。

 こんなわけの分からないものに関わっている場合じゃない、早く家に帰ろう。

 これが何であれ、俺には全く関係のない物のはずだ。たぶん。

 それに昨日に比べれば全然、マシだ。出入り口を埋めるコンクリの壁や目があっただけで人間を殺そうとする怪物の群れに比べれば。

 やがて、俺は目白アカデミーの受付カウンターの前に差し掛かった。

 奥には教務室、そして講師控え室もある、その一室からは明かりが漏れ、まだ人が残っているようだったが不思議なくらい静かだった。

 静謐な緊張感に、俺は乾いた唇を舐める。

 そして、そのままエレベーターに向かおうとして――

「あっ……」

 思わず、俺は小さな声を漏らしていた。

 廊下の端にある、小さなエレベーターホール。

 その前に、いつの間にか人が立っていた。

 逆光のせいでその人物の顔はよく見えないが、非常に背の高い男らしい。

 暗がりの中であるにもかかわらず、きちっと絞められたネクタイのペイズリー柄がはっきりと見えた。

「…………?」

 その佇まいにどこか不自然な物を感じながら、俺はそちらへと進んだ。

 そして、その人の傍らを通り過ぎようと、「どうも」と軽く会釈しかけ――

 悲鳴にならない悲鳴をあげ、バランスを崩した俺はその場にひっくり返っていた。尻餅をつき、強く腰を打ったが痛がっている場合ではない。

 暗いエレベーターホールに佇んでいた、俺が人だと思っていたもの。

 それはナイロン製ロープで首をきつく括られ、蓑虫のように天井から吊り下げられた背広姿の中年男だった。

 口の端からベロンと出た灰色の舌先。ドロッと白濁した半開きの瞳。信じられないくらい青ざめた肌に点々と浮かぶ、紫色の斑点。そして、宙に浮かんだ足の下に溜まった小さな水溜り。

 男が死んでいることは確かめるまでもない。

 それは見知らぬ男の首つり死体だった。

「な、何でこんなものがここに……?」

 尻餅をついたまま、俺はしゃがれた声でそう呻いた。

 自殺? それとも殺人?

 いずれにせよ、この状況を拵えたヤツは非常識極まる。

 こんなところに死体を放置するなんて……!

 混乱する頭で、そんな愚にもつかないことを考えた時だった。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎぎりぎり……

 歯軋りするような厭な音を立てて、首を吊った男の身体が円を描いて揺れた。

 硬直した爪先から、高そうな革靴がするりと抜ける。トスン、と言うどこか間の抜けた音とともに靴が床に落ちた時、俺の中で何かが弾けた。



「――警察! 警察呼んでくれ!」

 敬語も丁寧語をすっかり忘れていたが、そんなことを気にしている場合じゃない。

 ギブスの巻かれた右足を引き摺り、飛び込むようにして駆け込んだ教務室で俺は喉から血を吐くような勢いで叫んでいた。

「ろ、廊下で人が死んでいるんだ! 早く、警察を――」

 しかし、俺は言葉を最後まで続けることはできなかった。

 普段ならば七、八人の教務スタッフがいるはずだった。だけど、今、広い教務室はガランとした無人状態――夜逃げの後のようにもぬけの殻だ。

「お、おい! 冗談じゃねえぞ!」

 電気スタンドが点きっぱなし、テキストやら資料用紙やらが積み重ねられたデスクを見回し、俺は悲愴な声をあげた。

「こんな時に限って全員、外出なんてタイミング悪すぎじゃねえか……!」

 そこまで言って、俺はピタッと動きを止めていた。

 まさか――

 まさか、とは思うのだが。

 これって、昨日と同じことが起きてるんじゃないのか……?


 ――君に纏わりついている厭な力、ちょっとやそっとじゃ消えそうにないもの


 先刻、聞かされた金原多恵の言葉が脳裏に蘇ってくる。

「糞ッ! ふざけんなよ!」

 まるでチンピラのような罵り声を発しながら、俺はデスクの上の電話を手に取る。

 受話器を耳に押し当ててみるが不通だった。

 隣のデスクの電話も試してみた……不通。

 その隣の電話も一応試しておく……不通。

 微かな期待を込めその次を試す……不通。

 半ば諦めながらその隣に向かう……不通。

 ……教務室の電話は全てが不通になっていた。

 落ち着け落ち着け、落ち着けよ、俺。

 バクバク言い始めた心臓の上に手を当て、俺は自分自身に言い聞かせる。

 まだそうと決まったわけじゃない。

 あんなことが一生に二度もあるわけがない。

 そうとでも思わなければ気が狂いそうだった。

 と、その時だった。

「……ッ!?」

 背中に突き刺さるような視線を感じ、俺は振り返った。

 そこにいたのは見覚えのある、五人の男女だった。

 サスペンダーをつけた教務主任の山川さんにメガネを掛けた受付の畑中嬢。それにクラス担任の男性二人、鳩山さんに森口さん……。

 目白アカデミーのスタッフ達だ。

 先程、睡魔を召喚する儀式のような生物の授業の講師もその中に混じっていた。

 ひっ。

 俺の喉から奇妙に甲高い音が漏れた。

 自然と泣き笑いのような表情に顔が引き攣っていくのが分かる。

 それにあわせるかのように、床から1メートル近く離れた彼らの爪先がぶらぶらと揺れ

た。

 白い蛍光灯が煌々と灯る教務室の中、五体の首つり死体と俺は向かい合っていた。

 ぼうっと頭の芯が生温かくなって、意識が遠ざかりかけて――

「んっ……?」

 ふと違和感を覚え、倒れそうになった身体を俺は立て直した。

 恐る恐る、慎重な足取りで一番近くの死体――山川教務主任に近づき、舌からその顔を覗きこんでみた。

 そして、青ざめたその顔がプラスチックのような素材で作られた紛い物だと悟る。

 慌てて、俺は教務主任の太鼓腹を片手で軽く叩いてみる。

 ポン、ポンと空気を押す小気味の良い音。

 どうやら中味はがらんどうらしい。

 ……人形だ!

 愕然としながら俺は悟った。

 こいつら、首つり死体に見せかけた、マネキン人形なんだ!

「じゃあ、さっきの男も、ひょっとしたら……」

 呆然と呟く俺の目の前で、教務主任の首つり死体――いや、マネキン人形がくるくると回転し、こちらに背中を向けた。

 そこには一枚の張り紙が貼り付けられていた。

 そして、踊るような下手糞な字でこう書かれていた。


 部屋で、待ってる


「また、これかよ!」

 それを呼んだ刹那、俺は瞬間湯沸かし器のように激昂していた。

「どこまでも人を馬鹿にしやがって! こんなもの……!」

 マネキン人形の背中からそれを剥ぎ取り、ビリビリと破いてやった。それだけでは飽き足らず、俺は自由が利く左足でその紙片を踏みにじる。

 勿論、こんなことをしても何かが分かったり、解決するわけじゃない。

 しかし、怒りを何かにぶつけることも、時には必要なのだ。

 さて、どうしてくれようか――

 息を整え、吊り下げられた五体のマネキン人形に再び視線を戻した時だった。

 ガッ、ゴォンッ……!

 どこか遠くで、重たいレバーを入れるような音が響いた。

 それとほぼ同時、理科の実験で解剖した蛙の身体に電流を流した時のように、ダランと垂れ下がっていたマネキン人形達の手足がビクビク飛び跳ねるように痙攣を始める。

「な、何だよ……!?」

 その踊るような、奇怪な動きに俺は目を奪われた。

 そして、気がつく。

 首つり死体を模したマネキン人形達を吊るしたナイロン製のロープ。

 それは先程、俺が廊下で見た奇妙な物――つまり、蜘蛛の巣が貼るように天井中に敷かれたカーテン・レールのような金属製の溝の隙間から垂らされていた。

 これ、ひょっとしたら動くんじゃないのか……?

 そう思った刹那、ありがたくないことに俺の予感は的中した。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎぎりぎり……

 脳を掻き毟るような不快な軋音とともに、ロープに吊るされた死体のマネキン人形達がゆっくりと俺に近づいてくる。正確に言えば、レールに沿って、ロープごと運ばれて来るのだ。

 どこの誰だか知らないが、こんな悪趣味な装置を作ったヤツは気が触れている。

 そして、俺は恐らく――いや、間違いなくそいつの手中にいるのだ。

 動く度に死体のマネキン人形達の頭がガクガクと揺れた。そして、その生命の宿らない、作り物の眼差しで俺を睨みつける。

 こいつら……!

 ジリジリと窓際に追いやられていきながら、俺は震え上がった。

 こいつら、マネキン人形の姿をしているけど、昨日のタズグルだとかブラックリバーだとかと同じだ。

 得体の知れない悪意を俺に向けてくる、何だか分からない厭な生き物――怪物。

「……ち、近寄るんじゃねぇ!」

 松葉杖の先をマネキン人形の姿をした怪物どもに向けて叫んだ。

「俺に指一本でも触れてみろ! バラバラにして叩き殺すぞ!」

 精一杯、威嚇したつもりだったが、俺の声は震えていた。

 その成果、硬貨はなく、無表情な怪物達はますます俺との距離を詰めてくる。

 うう……。

 唇の端を噛み締めた俺の背中が窓ガラスの縁に当たった。

 その途端。

 ザァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ――

 大量の水がしぶきを上げ、流れ落ちる轟音が俺の鼓膜を揺さぶられる。

「なっ……!?」

 思わず振り返り、俺は絶句してしまう。

 窓の外の向こうに見えた景色。

 そこにあったはずの、見慣れた街並みは魔法のように消失していた。

 その代わりに百年前からそこに存在していたかのように、威風堂々と出現したのは、テレビでしか見たことがないような巨大な滝。

 アメリカのナイアガラの滝を何百倍も巨大にしたような大瀑布が窓の外にあった。

 その水が流れ込むのは、底が霞んで見えない、巨大な亀裂……。

 それを挟むようにして立つ、今、俺がいる雑居ビルもまた異様な変貌を遂げていた。

 近隣にあった様々な建物――例えば立体駐車場や一戸建ての店舗、或いは同じようなテナントビル――がねじれよじれて、雑居ビルと連結し、文字通り、悪夢のような巨大建築となっていた。


 ――このままだとキミ、飲み込まれて消えちゃうよ


 再び、金原多恵のあの忌まわしいアドバイスが脳裏に蘇ってくる。

 畜生、何だって俺ばっかりがこんな目に……!?

 あまりに理不尽な状況に俺は涙腺が緩みそうになった。

 しかし、泣いている暇など俺にはなかった。天井から吊り下げられた、怪物どもが凄まじい勢いで俺を目指し、突進をかけてきた。

「う、うわっ……!」

 俺は声を裏返して教務主任である山川さん――その首つり死体を模したマネキン人形の体当たりを間一髪かわす。

 しかし、それはフェイントだった。

 右足を動かすのが遅れ体勢を立て直し損ねた俺の顔に向かって、受付嬢の赤いハイヒールの爪先が飛ぶ。

 ガッ……!

 こめかみに走る、突き刺さるような激痛。

 苦悶の呻き声を上げながら、俺は身体を後ろに反らしていた。

 蹴りを打ち込まれ、激しく脳を揺さぶられたせいだろう。車酔いのような吐き気が込み上げ、足元がもつれる。

 天井に灯る蛍光灯の白い光が、俺の目の中でぐるぐると回った。

 意識を混濁させかけた俺の胸に、生物講師の骨ばった肩が激突した。

 背中でガラスが割れる音が聞こえ――

「……!」

 俺の身体は虚空へと投げ出されていた。つまり、窓の外へと。

 次の瞬間、吸い込まれるような落下が始まる。

 滑るようにして流れてゆく、ビルの壁面を間近に見ながら俺は思った。

 できれば地面に激突する前に気を失いたいな、と。


 ■2■


「うっ、く…………」

 しとしと降る雨音に俺は目を覚ました。

 まず目に入ったのは、赤紫色に染まったウネウネと蠢くような空。

そして、天にそびえるような巨大建築物と化したビルの長い壁面だった。

 俺は自分が緑色のシートに覆われた、柔らかいクッションのような物の上で大の字になっていることに気がついた。

 生きてる……!

 その事実に喜びよりも驚きを感じ、俺は身を起こした。

 ギィイイッ、と鉄が軋む、剣呑な音がした。

 一体、どんな力が作用してそうなったのだろうか。

 俺が倒れていたのは、軽トラックと思しき車両の荷台の上だった。

 そして、そのトラックは、まるでビルから生えた枝のように、前部――運転席部分をビルの壁面に深々とめり込ませていた。

「……信じられねぇ」

 トラックの上で四つん這いになり、下を覗き込みながら俺は呻いた。

 やはり、そこにはどこまでも延々と落ちてゆく、この世の果てのような断崖があった。

 そして、目の前には白濁した水を吐き流し続ける巨大な滝。

 傍らに落ちていた松葉杖を手繰り寄せ、俺は小さく身震いした。

 それは武者震いだった、と言いたいところだが違う。

 この世の物とはとても思えない、周囲の光景に俺はすっかりと怯えきっていた。

 しかし、巨大な深淵の真上でグズグズしているような余裕は俺にはなかった。

 矢のようにビルの壁にめり込んだ軽トラックの車体がギシギシと言う音とともに揺れ始めたのである。どうやら俺の身体を受け止めたショックでバランスが崩れたらしい。

 胃を掴み潰されるような焦燥に駆られ、冷や汗をかく俺の目にボンヤリとした明かりが飛び込んできた。

 俺の頭よりも少し高いところに薄汚れた窓ガラスがあった。

 そこからビルの中に戻れるかも知れない。

 しかし、またあの首つり死体のマネキン人形達に出くわさないとも限らない。いや、ひょっとしたらもっと別の怪物がいるかもしれない。

 迷っている俺の足元で、軽トラックの車体がまたギシッと軋んだ。

 ああ、分かったよ……!

 顔から血の気が引くのを感じながら、唇を噛み締める。

 ビルの中で待ち受けているのが何であれ、俺には選択肢などなかった。



 松葉杖で窓を叩き壊し、転がり込むようにして俺がその部屋に侵入した。

 それとほぼ同時、凄まじい音がして、足場になってくれていたトラックが壁から剥がれ落ち、きりもみしながら滝の底へと落ちていった。

 壁に背をもたれさせ、その場にしゃがみ込みながら俺はゼェゼェ荒い息をつく。

 俺が転がり込んだ、その狭い部屋は、何かの資料室らしい。

 その部屋は長い間、人手が入らず、掃除もされていなかったらしい。

 床には白い綿埃がちり積もり、壁紙はあちこちが剥がれ落ちている。

 山の様に積み重ねられた段ボール箱は、グッショリ湿って形を歪めている。

 黒いコードで吊り下げられた裸電球はひび割れており、その亀裂から赤味がかったフィラメントが揺れるのが見えた。

 そして、それが一番肝心だったが――

 俺は注意深く、天井の隅から隅まで、見回していた。

 あの胸糞の悪い、首つり死体を模したマネキン人形どもを運ぶためのレールが敷かれてはいないかと思って。

 幸いにも、この部屋の天井にそれらしい物はなかった。

「…………はぁ」

 溜息をついて、俺は全身に張り巡らせていた緊張を解く。

 その途端、ドッと重い疲労感が両肩に圧し掛かってくる。

 しかし、意外なことにそれは心地良いとすら言える感覚だった。

 それは生きた人間だけが感じられる感覚。つまり、俺はまだ生きている。今は自分がどこにいるのかすら、分からないけれど、それだけは確かだ……と、思う。

 裸電球の頼りない明かりを見上げながら、「あーあ」と俺は伸びをしていた。

「……これから、どうなるんだろうな、俺」

 我ながら嫌になるくらい、覇気のない呟き。

 こんなことだから幾つになっても爺ちゃんに心配されるんだろうな、と卑屈で惨めな気分になってくる。

 ――あなたが見たり聞いたりする物は、どんなに変なモノでも何か意味があるはずなの。それを忘れないで

 金原多恵の言葉が俺の頭の中で、また不意に蘇ってきた。

 何か意味があるはず、か……。

 カラカラに乾いた唇を舐め、ダラダラと俺はこれまでに出くわした変なことを思い返してみる。

 出口が塞がれた地下街。

一つ目のヤモリのような怪物、タズグルに床から染み出てきた、死骸漁りのブラックリ

バー。

 街頭テレビのスクリーンに描かれた、卵の様な落書き。変な女の子からの電話。変な装置で動く、首つり死体を模したマネキン人形の怪物。そして、悪夢そのもの空間に投げ出された、いつの間にか巨大な違法建築物となっていた雑居ビル。

 これらが意味するのは、えーっと…………

「分かるか!」

 罵声とともに俺は思考を投げ捨てていた。

 とにかく、だ。とにかく、休憩して、気力と体力を回復させよう。

 それから、何とかして、ここから逃げ出す方法を探そう。昨日もできたんだ、今日もきっとできるさ……。

 根拠の希薄な期待を胸に俺が瞳を閉じかけた時だった。

 ガサッと音を立てて、目の前に積まれてあった段ボール箱が動いた。

「…………!」

 途端に眠気が雲散霧消し、全身に針金を通されたかのように俺の四肢が強張る。

 ごくり、と喉が鳴った。急激に蘇った緊張感に胃がシクシク痛み始める。

 ついっと俺の手が、ガムテープで塞がれた箱の蓋に伸び、それを剥がし始めていた。

「おいおい、何をやってるんだよ……?」

 自分でも自分の行為が信じられず、俺は呻いた。

 段ボール箱の中身は、どうせ、ろくなもんじゃない。凶暴な怪物がそこで獲物――つまり、俺だ――がやって来るのを、ジッと待って身を潜めている可能性だってある。

 しかし、頭ではその危険性を理解していても、テープを剥がす俺の手は止まらなかった。

 魔に魅入られる、というのはこういうことをさすのかも知れない。

 そして――

「あっ……」

 段ボール箱の底に横たわっていたものを見て、思わず俺は声をあげた。

 そこで背中を少し丸め、スヤスヤと穏やかな寝息を立てていたのは、一人の小柄な女の子だった。

 年のころは小学校の高学年から中学の一年生くらいといった感じ。

 赤いスタジアムジャケットのような上着を羽織り、白い腿が露わになったデニムのショートパンツ、そしてスポーツシューズという軽快そうな出で立ち。

 こじんまりとした作りの顔は歳相応に可愛らしく、頭の後ろで束ねられたポニーテールは明るいプラチナ・ブロンドだった。

「が、外人……?」

 その女の子に視線を釘付けにされながら、俺は声を掠らせていた。

 得体の知れない怪物だの何だのと、気持ちの悪いものを嫌と言うほど見てきたせいか、目の前の少女の愛らしく、可憐な姿に激しいギャップを覚えていた。

 それと同時に、いつの間にか、異臭が臭い立つような異常な事態を事実としてそれなりに受け入れ始めている自分の心理に驚愕する。

 つまり、俺の頭は確実におかしくなっているということだ……。

「――お、おい。なあ、お前」

 陰鬱な想いを追い払い、寝息を立て続ける少女の頬を指先で俺は軽く突付いた。

「起きてくれよ。て言うか、何でこんな所で寝てるんだよ?」

 しかし、女の子は俺の問いかけにも、口の中でムニャムニャ言うばかりでなかなか目覚めてくれない。何だか俺は、焦りのような物を感じ始めていた。

 何が何でも、この子は起こさなきゃいけない。なぜか、そんな気がした、

「起きろってばッ!」

 少々、乱暴かとは思ったが――

 女の子のか細い肩を掴み、ガクガクと揺さぶってみる。

 すると、

「んあ?」

 ……んあ?

 眠れる森の美女のように、眠っていた少女から発せられた、奇妙な声に俺は眉をひそめた。

 なんだ、その「んあ?」と言うのは。

 俺の目の前で、少女は起き上がり――

 片手で目をゴシゴシとこすり、もう片方の手を大きく頭上に掲げて伸びをしていた。

「あーあ、よく寝た……」

 呑気と言うよりは、場違いな台詞だった。あまりにも。

 口元を拭いながら、少女は長い睫毛を瞬かせ、ひょいと俺のほうを見た。

 パッチリとした大きな瞳は、透き通るようなスカイブルー。

 それが俺の顔を捕らえたと思った、次の瞬間――

「あっ、歩! 良かった!」

「へっ……?」

 整った少女の顔にパッと明るい笑みが広がった。

 そして、豆鉄砲を食らった鳩のように、キョトンとしている俺の胸に飛び込んでくる。

 少し、足元がよろめいたものの、少女の身体は鳥の羽のように柔らかく軽く、難なく受け止めることができた。

 えーっと、一体、この状況は何なんだろう?

 女の子を抱きかかえたまま、俺は怪訝な表情を浮かべていた。

 何が何なんだか、さっぱりわからない。

 そう思うのは、昨日から一体、何十回目だろう?

「ごめんね、歩。本当はこっちが先に見つけてあげればよかったのに」

 困惑する俺の腕の中で、顔を見上げながら少女が言った。

「なかなか歩のいる層にジャンプできなくて……。でも、デュカリケスの印形が刻まれた場所は大体目星がついているから安心して?」

「ちょっと、ちょっと待ってくれよ――」

 真剣な口調で話す少女を押し止め、俺は言った。

「そんなこと言われたって、何のことだかわかんねぇよ。まず、お前――いや、君は誰だ? なんで、俺のことを知ってるんだよ?」

「ひどいなぁ、もー」

 小さく溜息をつき、少女が微かに頬を膨らませる。

「昨日、少しだけど電話でお喋りしたでしょ? 忘れちゃった?」

「あっ」

 思い出した……! 

 正確に言うならば、気がついた、か。

 確かに少女の声は、昨日、公衆電話にかけてきた人物と同じ物だった。

「じゃあ、君が――」

 そこで俺は言葉に詰まる。

 確か、名前を聞いたはずなのだが。

「そっ。アマリリス、だよ」

 呆れたように言って、少女が俺の身体から離れた。

「一応、命の恩人なんだから名前ぐらい覚えておいて欲しかったな」

 そう言って、少し恨めしそうな瞳で俺を軽く睨む。

 もっともな話だったので、「すまん」と俺は頭を下げていた。

「まっ、いいわ。許したげる」

 クスッと笑い、少女――アマリリスは長いポニーテールの先を揺らし、部屋のドアに向かって歩いてゆく。

「そんなことより、ここもいつまでも安全じゃないわ。行きましょ」

「……い、行くってどこに?」

 慌てて松葉杖を脇に挟み、俺は彼女の後を追った。

「どうやったらここを脱出できるのか、知ってるのかよ?」

「もっちろん♪」

 ドアノブに手をかけながら、得意げにアマリリスが言った。

「言ったでしょ、デュカリケスの印形がある場所は大体、目星がついてるって。あたし、ここの地図だってもっているのよ」

 ほらね、と言って俺に小さな紙切れを手渡してくる。

 そっと俺はそれを開いてみた。

 そこに書かれていたのは、恐ろしく簡略化された建物の落書き。

 その屋上と思しき部分に赤いペンで×印が入っている。そして、その横には読みにくい丸文字でこう走り書きがされていた。


  ここが怪しい!

  たどり着くのは大変そう☆

  でも、頑張るぞー! (おー)


「なぁ、これって、もしかして……」

「うん、あたしが書いたの」

 自然と表情が硬くなる俺の手から、地図を取り戻し、アマリリスは続けた。

「だからね、歩は心配しないで。今回も、絶対、元の場所に還してあげるから」



 出来るだけ物音を立てないよう、注意を払いながら俺とアマリリスは資料室と思しき部屋を後にした。

 薄ら寒くなるような、ほの暗い廊下……。

 チック症の瞬きのように、天井の蛍光灯がチカチカ神経質に点滅している。

 廊下の両端には、それぞれ重そうな防火扉がボンヤリと照らし出されており、今、俺達がいる場所から血の気が引くほど遠い場所にあるような気がした。

 いや、気がした、ではない。実際に遠いのだ。

 その証拠に、さして幅があるわけでもない通路を挟む、左右の白い壁には、重々しい鉄製のドアが等間隔に何百と並んでいた。

「ええっと、それじゃあ……」

 自分で書いたらしい、落書きのような地図を見ながら、アマリリスは近くのドアに向かっていった。

「まずは、あいつらを動かしている装置を止めてしまいましょう。でないと、屋上のデュカリケスの印形にたどり着けないし」

「あいつら?」

 ハッとして俺はアマリリスの背中に近づいていった。

「あいつらって、首つり死体みたいなマネキン人形のことか?」

「うん、そう。……あたしはチーク・ホロウって呼んでいるけどね」

 答えるアマリリスの可愛らしい鼻の頭に微かに皺が寄った。

「あいつらって気持ち悪いし、陰険だし、凶暴だし……大ッ嫌いなの」

 なるほど、と俺は頷いていた。

 まあ、確かにあいつらを目にして「好きだ」と言う人間は少ないだろうな。

 襲ってくるのだからなおさらだ。

 やはり思った通り、あいつらは何らかの装置で動かされているのだ。そう言えば、教務室でやつらに襲われる直前、それらしい機械音を聞いたように思う。

 そんなことを俺が考えている間に――

 キィ、と軋んだ音を立ててアマリリスがドアを開いた。

 ドアの隙間から、ブツブツとざらついた音質の音楽が低く流れてくる。

 それは喫茶店なんかでよくかけられている、ジャズだった。

「……?」

 興味をそそられ、俺はアマリリスの頭越しにその部屋を覗き込む。

 そこは、先程の資料室よりも狭い、畳張りの部屋だった。

 その真ん中にポツンと置かれた一台の卓袱台。そして卓袱台の上には、今時、珍しいレコードプレイヤーが置かれていた。誰もいないのにターンテーブルが回りっぱなしになっている。

「なぁ、ここって、」

 誰かの部屋なのか、と話しかけようとして――俺は口を閉ざした。

 傍らに立つアマリリスの様子がおかしい。

 音楽に聞き入っているのか、身動ぎもせず、部屋を凝視している。

 思い出したくないもの、認めたくないものを突きつけられた人間のように彼女の青い瞳は苦しげに揺れていた。

「おい、ちょっと……」

 不安になり、俺はアマリリスのか細い肩に手を触れていた。

「大丈夫か? この部屋がどうかしたのかよ?」

「えっ、……あ、ううん」

 驚いたように振り返り、再び可愛らしい笑顔を浮かべて頷くアマリリス。

「何でもないの。ここは違ったみたい」

 てへっ、と小さく舌を出し、アマリリスはドアを閉める。

 そして、その隣のドアへと向かいながら俺に言った。

「悪いけど、歩はそっち側のドアを調べてくれる? 非常階段があるはずなの」

「お、おう」

 ぎこちなく頷き、俺はアマリリスの反対側――通路の右側へと移動した。

 そして、たちの悪い冗談のようにズラッと横に並ぶ、重々しい鉄の扉の一群を溜息混じりに眺める。

 これ、全部、調べるとしたら何時間、いや、何日かかるだろうか……?

 そんなことを考えながら――

「なぁ、少し、聞いていいか?」躊躇いがちに俺は声をかけていた。

「んー? なぁに?」

 立ち並ぶドアを文字通り、片っ端から開け閉めしながら、背中越しに気のないアマリリスの返事を聞く。

「アマリリスってさ、どこか外国の人だよな? ……日本語、すげぇ流暢だけど」

「えー、あたしは生粋の日本人だよぅ? なんで、そう思うの?」

 質問を質問で返され、俺は口ごもった。しかし、このままでは会話が終了してしまうと思い、「それじゃあ――」と俺は質問を強引に変えた。

「アマリリスってここで起きることにずいぶん、詳しいよな? どれくらい、ここに居るんだ? やっぱり、俺みたいに引きずり込まれて……」

「ずーっと、だよ」

「えっ」

 何気なく返された言葉に驚いて俺は振り返った。

「あれ? 言わなかったっけ?」

 ドアノブに手をかけたまま、振り返ったアマリリスは悪戯っ子のような微笑を浮かべていた。

「あたし、いつか歩がここに来るって感じていたんだもん。……でも、ここに住んでいるやつらの餌食になんかさせないから安心して? 歩はね、絶対、あたしが元の世界に帰してあげるの」

「…………」

 一点の曇りも迷いもない、向日葵のような屈託のない微笑み。

 そして、すぐさまドアに向かい、それを開いては「あー、ここも違う。どこだったかなぁ?」と首を傾げているアマリリスの姿に薄ら寒い物を感じていた。

 先程から、いや、実は最初から考えていたことなのだが、アマリリスは――この子は正気じゃないのかもしれない。

 言動が突拍子もなく、ハイテンションというだけじゃない。

 こうしている現在も、先程、資料室で出会った時も、いい歳をした男である俺が油断すれば失禁しちまいそうなほどブルっているというのに、アマリリスは怯えている様子も怖がっている様子もまるで見せなかった。

 こんなわけの分からない、気色の悪い怪物だらけの閉鎖空間に、年端の行かない女の子がたった一人で閉じ込められていたにもかかわらず、だ。

 いや、ちょっと待てよ……。

 ドアの前で立ち尽くしたまま、俺は想像を巡らせていた。

 ひょっとしたらアマリリスは一人ではなかったのかも知れない。

 この異常な世界に引きずり込まれた時、彼女には誰か連れ合いがいたのかも知れない。

 それは、恐らく男――それも、多分、俺と同じ名前の持ち主だ。

 恐らく、そいつは怪物に襲われアマリリスの目の前で生命を落としたのだろう。或いは滝の底に落ちて、行方不明になってしまったか。

 一人残されたアマリリスは、可哀そうに、感情のバランスを崩してしまった。

 そして、自分達より後にこの世界に引きずり込まれた俺を、自分の知り合いである『歩』と勘違いしてしまった。

 あくまでも、俺の勝手な想像だが、全くありえないとも言えまい。

 何しろ、俺達がいるのは気が触れた神様が適当に拵えたような、気の触れた世界だ。底に迷い込んだ人間の気が触れていても何もおかしくはない。

「ちょっと歩ったら。何、思い出し笑いしているの?」

 少し、咎めるようなアマリリスの声が聞こえた。

 それで俺は自分が締りのない、ニヤニヤ笑いを浮かべていることに気がつき、ピシャッと頬を叩く。認めたくないが、俺自身、頭が大分、生温かくなっているようだ……。

「もう、真面目にやってよね」

 もう、いくつの部屋を調べたのか。細い腰に手を当て、軽く俺を睨みつけてくるアマリリスはずいぶん、離れたところにいた。

「協力してくれなきゃ。後で大慌てになったって知らないんだから」

「わっ、悪い……!」

 四つは年下であろう女の子に叱られ、慌てて俺はドアノブを掴み直していた。

 まぁ、なんにしても、これから俺が為さねばならないことは決まっている。

 それは、この見ているだけでウンザリしてくるような憂鬱な世界からの脱出。勿論、アマリリスも一緒に、だ。昨日のように上手くいくかどうかは分からないが、やるしかない。

 自らの決意に頷きながら、俺はドアノブを回した。

「うげ……っ!」

 開いたドアの隙間から漏れ出てきた光に目を射抜かれ、俺は顔をしかめた。

 ここでは猟奇殺人でも行われたのか――

 窓一つない、そのこ部屋の壁をドロッとした血膿が覆っている。

 それはまるで生命があるかのようにグネグネと脈打ち、呼吸をしているようだった。

 地底で蠢くマグマのような、その赤黒い塊を止め処なく吐き出しているのは、床の上に横倒しになった、一台のテレビだった。

 割れたブラウン管の中から、ゲボゲボ音を立てて溢れ出てくる大量の血膿。

 何だか人がゲロを吐いているところを連想してしまい、俺は気分が悪くなった。

「本当に最悪だな、ここ……」

 吐き気を堪えながら小さく悪態をつき、俺はドアを閉めようとした。

 しかし――

「会社経営者……幸一さん……が、本日、縊死死体で……ました……」

 胸が悪くなるような嘔吐音に混じって、淡々と語られる男の声が聞こえた。

 これは……ニュース?

 ギョッとして、俺は血塗れの部屋に一歩、踏み込んでいた。

 そして、吐き出される血膿に触れないよう気をつけながら、テレビに近づき、そっと耳をすましてみる。

「……さんは、多額の負債を……経営難に陥り……暴力団との……第一発見者は、オフィスに遊びに来ていた実の娘………ちゃんで……」

 第一発見者は、オフィスに遊びに来ていた実の娘。

 その部分だけが、妙に鮮明に聞こえた。それを最後にブッツリ糸が切れたかのように、男性アナウンサーの声が聞こえなくなる。

 額に滲む冷や汗を片手で拭い払おうとした時だった。

「歩!」

 部屋の外から、アマリリスの呼ぶ声が聞こえた。

「見つけたよ、非常階段! 早くこっちに来て!」

「わ、分かった! 今、行くって……」

 慌てて返事を返しながら、俺は血塗れの部屋を後にした。

 背後では、まだゲボゲボとテレビが血膿を吐き出していたが、どうしようもない。と言うより、これ以上見たくもないと言うのが本音だった。

 廊下に出ると、百メートルほど離れたドアの隙間から、こちらに向かってアマリリスが手を振っていた。

 目的の物が見つかって、嬉しいのだろう。

 女の子らしい、可愛らしい顔に弾けるような明るい笑顔を浮かべている。

 血塗れの部屋ですっかり憂鬱な気分に陥って締まった俺にとって、それは一服の清涼剤とも言うべき、ありがたい物だった。

「早くおいでよ、歩」

「分かってるって……」

 急かすアマリリスに苦笑を返し、俺は松葉杖をつきながら歩き始めようとした。

 その時だった。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎぎりぎり……

 思い出したくもない、歯を軋ませるような嫌な音。

 それは俺の背後から響いてきた。

 反射的に俺は振り返った。そして、すぐに逃げ出さなかったことを後悔する。

 一体、どこから現れたのか。

 薄暗い廊下の端から、靴の脱げかかったつま先をぶらぶらと揺らし、首つり死体のマネキン人形ども――アマリリス曰く、チーク・ホロウだったか――が群れをなして、こちらに移動してくる。

 三列縦隊になったやつらは様々な人間をモデルにしていた。

 サラリーマンやОLはもちろんのこと、掃除のおばさん、自転車郵便の兄ちゃん、調理服姿のコックのオッサンまでいる。

 その先頭にいるのが、ペイズリー柄のネクタイを締めた背広姿の男だった。

 エレベーターホールの前で一番最初に俺を驚かせたヤツだ。仲間を引き連れて、追いかけてきたらしい。

 シュウウウウッ……

 灰色の舌が突き出た口から蛇のような威嚇の息が漏れ出た。

 憎悪と狂気に白濁した、男の視線が廊下で立ち尽くす俺に突き刺さる。

「危ない、歩!」アマリリスの声が高くなった。

「早く! こっちに逃げ込んで!」

 言われるまでもない。

 俺は松葉杖を掴みなおし、転倒する危険性も顧みず、片足でケンケンしながらアマリリスが顔を出している部屋に向かって急いだ。俺がその部屋に飛び込むと同時、バターンッと大きな音を立てて、アマリリスがドアを閉める。

 ドンッ、ドンッ、ドンドンドンドンッ……!

 外側から凄まじい勢いで叩かれるドアを押さえ、小さな顔を真っ赤にしながらアマリリスが叫ぶように言った。

「早く、そこに飛び込んで!」

「え? 飛び込む?」

 一瞬、彼女が何を言っているのか、俺には分からなかった。

 飛び込めって、何のことだ……?

「あたしも後を追うから! 歩は先に行って!」

 立ち上がりながら、俺はアマリリスの視線の先を追った。

 そして、思わず仰け反りそうになる。

 その部屋は使われなくなって、百年は経過していそうな、荒れ果てたバスルームだった。

 壁のタイルは風化し、ほとんどが床に落ちている。排水溝には髪の毛だか毛玉だか分からない物が大量にこびり付き、鼻が曲がるような猛烈な悪臭を立てている。

 そして、触るだけで病気になりそうなドロドロに腐食したバスタブ。

 問題はその中だ。バスタブには水がなく、風呂底が抜け落ち――死人の眼窩のように黒々とした竪穴が底に顔をのぞかせていた。

 まさか、とは思うが……

「一応、聞いておくけど」強張った顔で俺は振り返った。

「ここに飛び込めって言ったんじゃないよな?」

「そうよ! そこに飛び込むの!」

 背中でドアを押さえつけながら、アマリリスが答える。

「でも、これ、穴じゃねえか!」

「そうよ。穴だよ」

「上に行けねえよ。これじゃ、下に落ちちまうよ?」

「そうよ、下に落ちるの」

 まだ、ここにいるのか、とアマリリスの表情が苛立つ。

 クラッと頭が揺れ、倒れてしまいそうになるのを俺はどうにか踏み堪えた。

「非常階段を探してたんだろ? それに屋上を目指すのになんで……」

「あー、もう、ゴチャゴチャうるさいなぁ!」

 声を荒らげた俺に臆する様子もなく、怒鳴り返すアマリリス。

「男の子でしょ!? 潔く、飛び込んでよ!」

「む、無茶を言うなよ……!」

 掠れた声で俺が反論した時だった。

 ドンッ!

 一際大きい衝撃がアマリリスの押さえていたドアに加えられた。

「きゃあ!」

 甲高い悲鳴を残して、前に吹き飛ばされるアマリリス。

 慌てて俺は手を伸ばし、彼女を抱きとめようとしたが、間に合わなかった。吸い込まれるようにしてバスタブの中に投げ込まれたアマリリスの小柄な身体は、黒々とした竪穴に滑り落ちていった。

「嘘だろ……!」

 バスタブの縁を手で掴み、底の見えぬ竪穴を見下ろし、俺は呻いた。

 しかし、悲しみを感じている暇はなかった。

 アマリリスを跳ね飛ばして開かれたドアの隙間に、ペイズリー柄のネクタイを締めた、死んだ男の狂笑に歪んだ顔が見えた。

 俺は決断し、バスタブの中に頭から身体を滑り込ませる。

 クソ忌々しい怪物どもに嬲り殺しにされるくらいなら、アマリリスの後を追って、転落死したほうがまだましだ。

 あっという間に湿り気のある闇が俺を包む。

 そして――

 闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇、闇…………。

 息も詰まるような闇のトンネル。

 一飲みにされた俺は凄まじい速さと勢いでそこを滑り落ちてゆく。

 どこかで引っかかったまま動けなくなる、なんてことがありませんように、と切に祈りながら。


 ■3■


「起きて、歩。ねぇ、起きてよ。起きてったら――」

 誰かが俺の名前を呼びながら、ユサユサと身体を揺さぶってくる。

 うるせぇなぁ。放っておいてくれよ……!

 不機嫌に顔をしかめながら、俺は寝返りをうった。

 起きたって、俺を待っているのはどうせろくなことじゃない。

 この世は訳の分からない、理不尽なことばかりだ。

 俺が高校に通っている時もそうだった。

 髪に赤味がかかっているのは生まれつきだと説明したら、「黒く染めて来い」と強要して

くる教師。口下手で、一人でいるのが好きなだけなのに、まるで俺が危険人物であるかのように噂し、敬遠する同級生達。降りかかかる火の粉を払っていたら、いつの間にか俺を共通の敵として認識していた、近隣の不良ども。それに事情を聞こうともせず、ただ、トラブルを起こすな、と叱り付けるだけの俺の両親……。

 お前らは皆、糞ッ垂れだ。

 瞼の裏に浮かんだ連中の顔に向かって、俺はそう毒づいていた。

 偏見や狭量さ、負け犬同士の糞くだらない連帯感、自分が理解できない物は遠ざけるし

かない臆病さ、独善性。

 そういった、自分の中の醜く卑しいものを露出させ、プンプン厭な臭いがしているとい

うのに、あいつらはそれを恥ずかしいとも思わない。いや、気がついてもいないのだ。

 だけど……

 と、沸騰しかけた俺の思考回路に水から俺は冷水をかける。

 向き合うこともせず、こうやってグツグツ自分を煮やしている俺自身、連中とそう変わ

らないのかもしれない。

 鳩尾の辺りに黒い水のような嫌悪感が湧き、俺は不快さにまた舌打ちする。

 と、その時、右の耳たぶをほっそりした指がそっとつまんだ。

 そして――

「こらっ、六道歩ッ! いい加減に起きなさい!」

「わあっ!」

 甲高く大きな声に鼓膜を破られそうになり、悲鳴をあげて俺は飛び起きていた。

 そして――

「もー、いくら揺すっても起きないんだから……」

「あ、あれ? ……アマリリス?」

 目の前で腕組みし呆れたように見つめてくる、金髪の少女の名を俺は口にしていた。

 そして、自分が青いビニール・シートを被せられた、長いソファーの上に寝かされていたことに気がつく。

「お前……アマリリス、無事だったのか?」

 慌てて立ち上がりながら俺はアマリリスに尋ねていた。

「どこか、怪我とかしていないのかよ?」

「当たり前じゃん♪」

 俺の心配を打ち消してくれるかのように、アマリリスはニコッと微笑む。

 そして、右手でVサインを作りながら言った。

「あたしの書いた地図は完璧だもん。怪我なんかするわけない」

 得意げに胸を張る彼女に、ああ、そうか、そりゃ、そうだよな、と適当に相槌を打ちな

がら俺は周囲の様子に目を配った。

 ここは、異形と化した建物の最下層なのだろうか?

 赤い絨毯が敷き詰められ、天井から吊るされた豪奢なシャンデリアの淡い光に照らされ

たその広い空間はホテルのロビーのようだった。

 しかし、利用客が憩うためのソファーやテーブルは青いビニール・シートに覆われ、壁際には様々な調度品――高給そうなピアノ、後ろ足で立ち上がった熊の剥製、飾り用の鎧兜、酒類を保管していると思しきキャビネットなどがズラッと並べられていた。

 開業前のホテルってこんな感じなのだろうか?

 それとも逆に、廃棄したホテルなのかも……。

「ねぇ、もう行こうよ」

 ボンヤリとそれらを眺めていた俺の腕をアマリリスが取った。

「ここまで来たんだから、目的の場所はすぐそこだよ? だから頑張ろう、ね?」

 まるで小さな子供に言い聞かせるような優しい物言い。

 これじゃあ、立場があべこべだな。

「分かった。急ごう」

 苦笑しながら頷き、俺は尋ねた。

「それで、次はどう行けばいいんだ?」

「あれ……」

 少し険しくなった表情でアマリリスが指差したのは、フロントの横にあるエレベーターの入り口だった。

「今度はね、あそこから上にあがるの」

 なんと、まあ。俺は溜息を禁じえなかった。

 死ぬような想いでどうにか最下層まで来たと思ったら、今度は上にあがらなきゃいけな

いのか……。

「だって、そうしないと――」

 よほど、俺はウンザリした顔をしていたらしい。

 長い睫毛を悲しげに伏せて、アマリリスが続けた。

「チーク・ホロウ達を動かしている装置のある場所までいけないんだもん。……でも、安

心して? デュカリケスの印形がある屋上はそこからすぐだから」

「それ、本当なのかよ?」

「多分……」

 そこは即答して欲しいところだったが……

 自分が先程から文句ばかりつけていることに気がつき、「じゃあ、行こうか」と俺はアマリリスに先んじて歩き始めた。

 あ、うん、と頷いてアマリリスが後に続いた。

 実感は薄かったが、俺は昨日からずっと彼女に助けられているのだ。

 また何か、怪物が襲ってきたら、今度は俺が彼女を守ってやらなければ……!

 逆に言えば、この異常な世界において俺ができそうなことはそれぐらいしかない。

 身を寄せ合ったまま、俺とアマリリスはフロントをすり抜け、エレベーターの前まで辿り着いた。

 躊躇うことなく、アマリリスが呼び出しのボタンを押す。

 階数を示す電光掲示板は壊れてしまっているらしく、そこには呪文のような奇怪な図形が点滅しているだけだった。

 エレベーターが到着するのを所作無げに待ちながら、チラッと俺はアマリリスの横顔を見る。

 それに気がついたアマリリスが不思議そうな視線を返す。

 無邪気な仔犬を思わせる彼女の青い瞳はどこまでも澄んでいた。

 何となく気恥ずかしくなって、俺が視線を反らした時だった。

「……ッ?」

 はっと息を飲み、アマリリスが背後を振り返る。

 突然のことに戸惑いながら俺も彼女の視線を追った。

 しかし、特に何か変わったことが起きた様子はない。

 薄明かりに照らし出された、がらんとしたホテルのロビーが広がっているだけだ。

「おい、どうしたんだよ?」

「この感じ。――あいつだ」

 俺の問いには答えず、呻くような低い声でアマリリスが呟く。

「最近、姿を見せないと思っていたらこんなタイミングで現れるなんて」

「は? あいつって……」

 最後まで俺は言葉を続けられなかった。

 先程見た、壁際にゴチャゴチャと並べられていた数多くの調度品。

 そのうちの一つ――アンティークショップに並んでいそうな、赤茶けた振り子時計がスクッと立ち上がったのだ。人間がそうするように、片膝を立ててスクッと。

 こんな状況でなければ、俺は笑い出していたかもしれない。

 振り子時計を頭にスッポリ被るなんて、まるでお笑い番組の罰ゲームじゃないか。

 しかし、笑いなど少しも込み上げてはかなかった。

 当たり前だ。

 そいつは怪物なのだ。

 振り子時計の形をした頭を持ち、厳しく重々しい、血膿にまみれた板金鎧を着込んだ、見上げるような巨漢の怪物。

 ガシャン、と鋼が軋む音を立てて、振り子時計の頭を持つ男――男だろう、多分――が俺達に向かって歩き始める。

 その途中、男は床に落ちていた調度品の中から、黒く腐食した鳥籠を拾い上げた。それと同時に、そいつの顔に当たる部分、文字盤の針が忙しなく動き始める。

 チクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタク……

 秒針の切り刻むような音を立てて、男が迫ってくる。

 心臓を鷲掴みにされたような圧迫感が俺を捉え、喉の奥から掠れたうめき声が漏れた。

 こいつは他の怪物どもとは格が違う……!

 直感的に俺はそう悟っていた。

 姿は滑稽でアンバランスながらも、一歩一歩、重々しい足音を立てながら進む様はある種の威厳を感じさせる。

 こいつはこの歪な世界の王様なのかも知れない。

 そう、怪物どもの王様だ。

「マッドクロック……!」

 微塵も臆することなく、アマリリスが迫り来る怪物の名を呟く。

「汚いヤツ! しばらく姿を見せないと思ったら、私の跡を追けていたのね!」

 彼女の青い瞳には恐怖ではなく、怒りが宿っていた。

 よく分からないが、アマリリスは激昂していた。

 彼女はあの怪物と遭遇するのは初めてではないらしい。

 と、その時だった。

 チンッ、と音を立ててエレベーターが到着する。

「よ、よし。来たッ!」

 ゆっくりと左右に開かれる扉を見て、俺は叫んだ。

 正に天の救いだ。

 しかし――

「早く逃げよう、アマリリス!」

「いやっ!」

 腕を取ろうとした俺の手を険しい顔のアマリリスが払いのける。

「悪いけど、歩、先に行ってて!」

「エッ?」

 いきなり何を言い出すのか。

 拒絶の理由が分からず俺は面食らう。

「アマリリス? お前、何、言ってんの……?」

 早くしないと捕まってしまうじゃねえか!

 しかし、仁王立ちになり、両の拳を強く握り締めているアマリリスには俺の声が届いていない様子だった。

 と――

「こら、マッドクロック!」

 口元に両手を添え、その小柄な身体からは想像もできないほど大きな声でアマリリスが叫んだ。

「さっさとこっちに来なさい! あんたなんか、ボッコボコにしてやるんだから!」

「や、やめろ、馬鹿!」

 蒼白になって俺はアマリリスの口を塞ごうとした。

「何考えてんだ、お前!」

 アマリリスの挑発に腹を立てたのか、怪物の足取りが速くなった。

 ガシャンガシャン、チクタクチクタクと気の狂ったような騒音を立てながら、俺たちとの距離をますます縮めてくる。

「――――っ!!」

 サーっト音を立てて、血の気が引くのを感じた。

 グズグズしている場合ではない。アマリリスのか細い腰に腕を回し、ヒョイと抱きかかえた。

「ちょっ、歩!? 何するの!? 離してよ!」

 抗議の声をあげるアマリリスを無視して、俺はエレベーターの中に転がり込んだ。

 鳥籠を片手に下げた、振り子時計の頭の怪物――マッドクロックが呪いをかけるかのように、俺達に向かってもう片方の手を伸ばし、人差し指を突きつける。

 それは死の宣告か、他の何かを警告しているのか……。

 ともかく、エレベーターの扉が閉ざされたのは、それとほぼ同時だった。大きく箱が揺れ、ウィンチが巻き上げられる音が聞こえて、上昇が始まる。

「くそったれ!」

 床に倒れたまま俺はゼェゼェと息を整え、悪態をついていた。

「……次から次へと出てきやがって。ふざけるのも大概にしろ!」

 ヒュン、ヒュンと風を切る音を立てて、エレベーターの上昇速度が上がって行く。

 ぐぐぐっ、と重圧がかかり、俺とアマリリスの身体が押さえつけられる。

 アマリリスの口が悲鳴の形に歪むのが見えた。

 彼女の頭を抱き締め、歯を食いしばって俺は苦痛に耐える。

 まさか、このまま俺達ペシャンコにされるんじゃないだろうな……!

 そんな不安が俺の胸中に頭を持ち上げてきた時、不意にガクンと大きく揺れてエレベーターが止まった。呻き声をあげ、顔をしかめながら俺は身を起こした。

「……着いたのか?」

 俺の呟きを肯定するかのように、プシュッ、という音を立てて扉が開いた。それと同時にジメジメと湿った空気が箱の中に入り込み、頬を撫で回した。



「なぁ、アマリリス――」

 エレベーターを降りながら、苦い声で俺は言った。

「さっきのアレ。……一体、どういうつもりだったんだよ?」

「アレ? アレって何?」

 不思議そうな顔で振り返り、小首を傾げるアマリリス。

 悪びれる様子もない、その態度に俺の片頬が微かにひきつる。

 こつは、とんだオトボケ娘だな。

「あのマッドクロックとかいう化け物をわざと怒らせただろうが」

 クドクドした口調で俺は言った。まるで頭の悪い生徒を叱る教師になったような気分だ。

 こんなのは柄じゃないと自分でも思うが、この場合、仕方あるまい。

「ボッコボコにしてやるとか言ってたけど、まさか、本気だったんじゃねえよな?」

「えーっと……」

 ぎこちなく俺から顔をそむけ、アマリリスが視線を泳がせる。

「そ、そんなことお転婆さんなこと、あたし言ったっけ……?」

 全然、覚えてないなぁ、と微かに冷や汗を額に滲ませている。

 オイオイ、本気だったのかよ……!

 俺は怪我人で、アマリリスは非力な女の子だ。

 ムカつく話だが、こんな二人でマッドクロックやら怪物の群れやらとやりあえるわけがない。冷静になればアマリリスも十分分かっているだろうが、逃げるだけで精一杯だ。

 そして、勝てない喧嘩は極力避けるに限る。でないと馬鹿を見ることになる。他人の揉め事に首を突っ込み、結果、高校を退学することになった俺みたいに……。

「――過ぎたことなんだから、もう、いいじゃん」

 俺の説教クドクド攻撃に耐えかねたのか、アマリリスが低く不貞腐れた声で言った。

「こうやって頭を下げて謝ってるんだから」

「いつ、謝ったんだよ……」

 プリプリしながら先を歩いてゆくアマリリスの背中を見送り、俺は溜息をついた。

 やはり、人の気配など欠片もない廃墟と思しき、荒れ果てた高層マンション――コの字に折れ曲がった長い廊下の端に俺とアマリリスはいた。

 マンションの外側に備えられたその廊下には、膿んだような赤紫色の雲に覆われた空からバラバラと降りそそぐ雨に晒され、ビショビショに濡れていた。

 赤錆にまみれた手すりの向こうは灰色がかった濃い霧に覆われており、あるはずの中庭が全く見えず、俺は自分達が何階にいるのか、よく分からなかった。先程、エレベーターに乗っていた感触だと、ゆうに百階は超えていると思ったのだが。

 各部屋のドアには腐りかけた木の板が乱雑に打ち付けられ、窓には内側から段ボールが当てられていた。

 それらの前を何度か通り抜けた時だった。

「あっ」

 片手を口元に当てて、アマリリスが立ち止まった。

 その視線の先にあったドアには木の板ではなく、張り紙がベッタリと張られていた。

 それは俺が昨日の地下街や数時間前、教務主任の首つり死体の姿をした怪物の背中に貼り付けられていた物とは違う。俺が見つけた張り紙が読む者を幻惑させるような短い一文であるにたいして、こちらは平凡ではあるが、煮えたぎるような悪意が宿っていた。


  マンションのみなさん、この家の人間は借りた金も返さないクズ人間たちです。

  ここの家の人間は、最低限のルールも守れない、最低の蛆虫たちです。

  ここの家の人間は、人から金を掠め取る、泥棒たちです。

  ここの家の人間は、人の良さそうな顔で嘘をつく、ペテン師たちです。

  ここの家の人間は、耳の穴から腐った脳みその嫌な匂いをプンプン漂わせています。

  ここの家の人間は――――


 その張り紙には、部屋の持ち主だったであろう、家族の見るに耐えない罵詈雑言が延々と書かれていた。

 闇金をテーマにしたドラマなんかで、性質の悪いヤクザ達が借金で首が回らなくなった焦げ付きの人を追い込んでゆくシーンは良くあるが、目の前のこれはその第一段階だ。

 世間一般に言う、『執拗な嫌がらせ』ってヤツだ。

 見ているだけで胸糞が悪くなるのを感じ、俺はアマリリスを振り返った。

「……ここ、なのか?」

「うん、ここ。――1008号室」

 自分で書いた地図とその部屋の番号を確認し、アマリリスが頷く。

「この部屋にあいつら――チーク・ホロウを動かしている装置があるはずよ」

「それを停止させたら、俺達は晴れて屋上に行けるってわけだ」

 頷きながら、俺はドアノブに手を触れた。がさついた赤錆の感触。その不快さを無視して俺はドアノブを回す。

 予想に反して、ドアは簡単に開いた。雨戸がおろされているのか、明かり一つない部屋の奥から饐えたような悪臭がぷんっと臭ってきた。

 鉄に糞尿を混ぜたような臭い。

 それは腐り果てた血の臭いだった。

 ぐっと俺は奥歯を噛み締める。

 そうしていなければ吐いてしまいそうだった。

「気をつけてね、歩……」

 悪臭に耐えながら、俺の横に立ったアマリリスが低い声で言う。

 無言で頷き、真っ暗な玄関に俺は靴を履いたまま上がった。


■4■


 何が出てきたって、今さら、驚いたりしない。

 その部屋――1008号室に足を踏み入れながら、俺はそう思っていた。

 しかし、すぐにそれは間違いであると気がついた。

 玄関から行き当たりにあるトイレの前まで、たった数メートルしかないはずの廊下が悪臭をはらんだ闇の中では無性に長く感じる。凶暴で忌まわしい、巨大な虫――例えば、そう、人間サイズのゴキブリとか――の巣穴に潜り込んだ様な気分。

 背中にはドッと冷や汗が溢れ、唇がカサカサに乾いてゆく。

 どんどんきつくなってゆく悪臭に鼻が腐るのではないかという妄想じみた不安を覚える。

「歩……」

 一番、手近にあったドアの前でアマリリスが振り返った。

 無言のまま、俺は頷く。万が一の時に備え、松葉杖を構えながら。

 キィ……と軋んだ音を立てて、ドアが開かれた。

 幸い、おかしな物も気色の悪い物も飛び出してはこず、俺達はすんなり中には入ることができた。

 その広い部屋はリビング・ルームだった。

 隣にはL字型のシステム・キッチンが置かれた台所が見える。

 フローリングの床は砕け散った食器や横倒しになった家具、黄ばんでボロボロになった書類、それに何だか分からないゴミのようなガラクタが散らばり、足の踏み場もない。

 そして――

 天井から吊り下げられた物を見上げ、俺は凍り付いていた。

 それは先を輪の形に結んだ、一本のロープだった。その真下には、黒ずんだ水溜りの跡のような大きな染み。まさか、これって……。

「…………」

 暫くの間、俺もアマリリスも無言でそれを見上げていた。

 そんな俺達をからかい、嘲笑うようにロープの丸い輪がゆらゆらと揺れていた。

 と――

「歩ッ!」

 突然、アマリリスが小さく叫び、俺の腕を引く。

「隠れて!」

 どうしたんだよ、と質問する暇もない。

 引き倒されるようにして、アマリリスとともに俺はソファーの影に身を伏せていた。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎぎりぎり……

 忘れもしない、歯を軋むようなあの嫌な音。

 それが聞こえてくるのはブラインドが下ろされた大きな窓の向こう、この部屋のベランダからだ。

「…………!」

 ソファーの陰から血走った視線をそちらに向ける。

 ブラインドの隙間に、素足とサンダル履きの爪先の二組が宙を滑るのが見えた。首つり死体を模したマネキン人形のような怪物――チーク・ホロウだ。

 あいつら、こんなところまで追いかけてきたのかよ……!

「大丈夫だよ、歩」

 顔面蒼白になった俺の肩にそっと触れ、小さな声でアマリリスが言った。

「落ち着いて行動すればきっとやりすごせるから。……ね?」

「あ、ああ」

 ニコッと微笑んでみせるアマリリスに俺はぎこちなく頷く。

 そうだ。ここまで何とか無事に過ごせたんだ。彼女の言う通り、冷静に動けば何も怖じ気づくことはない。

 アマリリスに促され、やつらに感づかれる前に這いずるようにして俺は廊下に戻った。

 そして、部屋の一つ一つを覘いて回った。

 この家の主人の物と思しき書斎、夫婦の寝室、浴室やクローゼットまで……。

 台風でも吹き荒れたかのように手ひどく荒れ果てたそれらの部屋には、尋常ならざる厭な気配が漂っていたが、俺達が探していた物――チーク・ホロウを動かしている装置と思しき物は見当たらなかった。

「ここで、最後か――」

 大きく息を吐き、俺は残った部屋のドアを開ける。

 小ぢんまりとしたその部屋はこの家の子供のものらしい。

 それも、ベッドの枕元や本棚、衣装ダンスの上には、人形やヌイグルミといった、所謂、可愛らしい物が溢れた、女の子の部屋だ。

 窓に面しておかれている学習机の上では電気スタンドが点けっ放しになっており、開かれたままのノートを照らしていた。

 突然、その部屋に足を踏み入れることに俺は躊躇いを覚えていた。

 それは警戒心や恐怖心からではない。むしろ、その対極にあるもの――先程のリビング・ルームや他の部屋と違い、その子供部屋には生活の残り香のようなものが漂っていた。

 他人のプライバシーにドカドカ土足で踏み込んでいる。

 そんな罪悪感が急に俺の中に芽生えたのかもしれない。

「多分、この部屋だと思うの」

 と、俺の横をすり抜け、アマリリスが部屋に入る。

 そして、すぐさま本棚に向かい、物色を始める。

「あいつらを動かしている装置がどこかに……」

 やはり気は引けたが、他にどうすることもできず、俺も部屋の中に足を踏み入れた。

 そして、何気なく学習机に近づき、広げられたノートに目を落す。

 それはこの部屋の主がつけたと思しき日記だった。


〇月×日 曇り

 今日はお父さんの誕生日。

 お母さんと一緒にデパートで買ったペイズリー柄のネクタイをあげたらすごく喜んで

くれました。

  とっても嬉しかったです。


「ペイズリー柄……?」

 文面は短いが、実に微笑ましい内容だった。

 しかし、それを目で読み返しながら、俺は胸の中に黒い汚水のようなものが溜まるのを感じていた。

 一番、最初に俺が出会った背広姿のチーク・ホロウ……。

 目白アカデミーのスタッフの姿をしたチーク・ホロウがいたように、あいつも誰かの姿を真似ているのかもしれない。

 そして、それは……吸い込まれるようにして、俺は日記の続きを読む。


 〇月×日 雨

  お父さんが家に帰ってこなくなって、もう一ヶ月ぐらい。

  お母さんはホテルで生活しているから大丈夫だって言うけれど、一人で寂しくないのかな?

  私なら絶対、我慢できなくて泣いてしまうと思う。



 〇月×日 雨

  今日、お父さんが家に帰ってきました。

  私はすごく嬉しかったんだけど、お父さんが社長をしていた会社が潰れてしまって、すごく疲れて泣いていたから、お母さんも泣いて、私もすごく悲しくなりました。


「…………」

 いつの間にか、俺はジットリとした汗をかいていた。

 知りたくない触れたくない、忌まわしいことがすぐ側まで忍び寄ってきたような、厭な

感覚に胸が悪くなる。

 もう、十分だろう、六道歩。他人の日記を覗き読みなんて、男のすることじゃない。そ

れより、早くアマリリスと一緒にここから逃げ出す算段を整えなきゃ……。

 そんな想いとは裏腹に、俺の手は日記のページを捲っていた。


 〇月×日 大雨

  今朝、お父さんがリビング・ルームで首を吊って死んでいました。


 日記は唐突にそこで終っていた。

「ねぇ、歩。そっちはどう? 何か見つけた?」

「…………」

 背後からアマリリスが声をかけてくるが、俺は答えることが出来なかった。

 震える手で俺はノートを閉じ――その表紙に書かれた名前に目を吸い寄せられる。

「井原、千夏――」

 その名を口にした途端、電光のような閃きが俺の中を走った。

 そして、脳裏に浮かび上がったのは、小柄で大人しそうな、一人の女の子の姿――。

そうだ、この子だ……!

小学生の時、同じクラスだった井原千夏だ。

俺とはたまたま家が同じ方角にあって、一緒に電車やバスを乗り降りするようになって、

絵を描くのが好きで、いっつもスケッチブックに何かを描いていて、それを俺が誉めたらすごく喜んで、似顔絵を描いてプレゼントしてくれたのは。同級生からは「能面」なんて嫌な渾名をつけられていたけれど、時々、見せる笑顔がすごく可愛くて。

 ああ、何だろう、まだ何か肝心なことが思い出せていない……!

「くそ、何なんだ、これは」

 奔流のように突然湧き上がってきた記憶と感情に俺は足元をふらつかせた。

 と、その時――

「きゃああっ!」

 絹を切り裂くようなアマリリスの悲鳴に俺は飛び跳ねるようにして振り返った。

 いつの間に、部屋には入って来たのだろうか?

 一体のチーク・ホロウ――件のペイズリー柄のネクタイを締めた中年男がアマリリスの背後から、彼女のか細い首を両足で挟み、捻って吊り上げようとしている……!

「てめぇ!」

 その光景を目にした途端、湯沸かし器のように俺の中の攻撃性が沸点に達した。

 人間の形をしていようが、そんなことはもはや関係ない。

 手にした松葉杖を大きく振りかざし、宙でプラプラ浮いている敵の腹を狙う。

 しかし――

「何だと……!?」

 渾身の力を込めて振るった松葉杖は、男の腹を引き裂いて飛び出してきた、はらわたのような肉色の触手にしっかりと受け止められてしまう。シュルシュル音を立てて蠢くそれは赤黒い血にまみれ、耐え難い異臭を放っていた。

 こいつか?

 全身の肌が粟立つのを感じながらも俺は肉塊を睨みつけていた。

 こいつが本体なのか!?

 俺の獲物を受け止めたまま、男のデスマスクがニヤッと俺に笑いかける。

 そして、

「うわっ!」

 信じられないような怪力で振り払われてしまう。

 松葉杖も遠くに投げ捨てられ、俺は机の縁に腰を打ち付けられた。

 その鈍痛に息が詰まり、無様に顔をゆがめる。

 そうしている間にも、ますますアマリリスのか細い首は締め上げられている。

 早く助けてやらなきゃ……!

 このままじゃアマリリスが絞め殺されてしまう。

「来ちゃ、ダメ……」

 捨て鉢になり、敵に飛び掛ろうと身を屈めた俺をアマリリスの苦しげな声が制止した。

「それより、早く装置を探して、停止させて」

 それが分かれば苦労しない。せめて何か武器になるもの、鋏やカッターナイフでも置いていないかと微かな期待を込めて俺は机の上を振り返った。

 そして――

「あっ」

 目にとまったのは電気スタンドだった。

 先程は日記ノートに気を取られて、全く気がついていなかったのだが、そのスタンドの電源スイッチはボタンではなく、刺繍針のようなレバーだった。

 まさか、これが……?

 躊躇っている時間はない。俺は手を伸ばし、指先でそのレバーを上げた。

 ガッゴン……。

 その小ささからは想像もできないような重々しい音が子供部屋に響いた。

 それと同時に、アマリリスの首を爪先で締め上げていたチーク・ホロウの身体が電撃に打たれたかのように跳ね動いた。

 ゲホゲホとせき込みながら、解放されたアマリリスが床に膝をペタンと落す。

 ペイズリー柄のネクタイを締めたチーク・ホロウは、暫くの間、ビクビクと世にも醜悪な痙攣ダンスを踊り続けていたが、やがて、腹に詰まっていた肉色の触手のような物をドサッと音を立てて、床に零れ落とした。

 あー、もう、勘弁してくれよ……。

 込み上げる吐き気を堪えながら、床の上で腐汁を撒き散らし、ブルブル痙攣する肉塊を俺はゲシゲシッと何度も踏みつけ、息の根を止めてやった。

 そして、肩で大きく息を着きながら振り返り、床に座り込んだままのアマリリスに手を差し伸べる。

「ありがと……」

 涙目になりながらも、ニッコリ微笑んで俺の手を掴むアマリリス。

「お陰で助かったわ」

「そりゃ、俺の台詞だって」

 苦笑し、本心からそう言いながら俺はアマリリスを立ち上がらせてやった。



 俺達は再びリビング・ルームに戻り、ブラインドが降ろされた大きな窓を開けて、ベランダへと移動した。

 もう、チーク・ホロウは気にしなくても大丈夫、というアマリリスの言葉通り、宙に吊り下げられたまま、やつらは皆、動きを止めていた。

 俺が思うに、レールから流れてくるエネルギーのような物の供給が断たれ、マネキン人形のがらんどうの中に入り込んだ気持ち悪い肉塊みたいなヤツが活動を停止したからのようだ。

 と言うことは、もう一度、レバーを上げればやつらは動き出すのだろうか?

 まあ、そんなことはどうでもいい。

 一刻も早く、このけった糞悪い場所からおさらばしたかった。

 カン、カン、カン、カン……

 と足音を響かせて、俺とアマリリスはベランダの端に取り付けられていた、鉄製の階段を登った。

 金網のフェンスに囲まれた屋上にたどり着くまで、数分とかからない。

 破れた金網の隙間から身体を滑り込ませながら、

「なぁ、アマリリス」

 疲れきった声で俺は呼びかけていた。

「元の世界に戻ったら……まず、何をする?」

「え? どういうこと?」

 先に屋上に入ったアマリリスが不思議そうに小首を傾げる。

「いや、だからね……」

 そんな彼女に俺は肩を竦めていた。

「アマリリスは長い間、この世界に閉じ込められていたんだろ? 友達や親に会うとか、いろいろやりたい事があるんじゃねぇの?」

「やりたい事……?」

 何かを考え込むかのように眉間に皺を寄せ、片手を口元に当てる。

「…………」

「…………」

 二人の間に何とも言えない、気まずい沈黙がながれる。

 ……何か、俺は悪いことを言ってしまったのだろうか?

「ま、まあ、それは帰った後でゆっくり考えればいいわな」

 ぎこちなく微笑みながら俺は言った。

「早いところ、あの変な卵の落書きを見つけてぶっ壊しちまおうぜ」

 変な卵の落書き――アマリリス曰く、デュカリケスの印形は、すぐに見つけることができた。

 小さな家ほどもある、マンションの給水タンク。

 赤錆だらけのその壁面に、人間の瞳を持つ卵は鮮やかな赤でデカデカと描かれていた。

 そもそも、こいつは何なんだろうな……?

 松葉杖を構えながら、ふと俺は思った。

 子供の落書きのようなそれが、俺とアマリリスをこの異常な世界に引きずり込み、閉じ込めている力の源のようだ。問題は、それが誰の手によって描かれているのかということだ。

 それが誰であれ、俺達に対して尋常ならざる恨みを持っていると考えて間違いあるまい。

「…………」

「どうしたの、歩?」

 嫌な気分になって、むっつり黙りこんだ俺に、しきりに後ろのほうを気にしながらアマリリスが言った。

「急ごうよ。また、何かが出てきたら――」

「あ、ああ。分かってる。悪い」

 ぎこちなく頷き、俺は松葉杖をバットのように振るった。

 ガーン!

 金属を殴りつける、重々しい音が屋上に響く。

 ガーン!

 ビリビリと手が痺れ、顔をしかめながらもう一撃を加える。

 ガーン!

 貯水タンクの腐食が進んでいたことが幸いした。もし、設置されたばかりのものだったら、斧でもなければ破壊は不可能だったろう。

 ガーン!

 四度目の打撃で、紋章が描かれた部分が大きく凹んだ。

 あと少しだ。

 あと少しで、こいつを壊せる。

 ガーン!

 壁面にできたかすかな裂け目から、赤味がかった汚水がチョロチョロ流れ出てくる。

 そこで息が切れ、俺は作業を中断した。たったこれだけのことで豆ができてしまう自分の手とミシミシ軋んで痛む肩が憎い。

「大丈夫、歩?」

 祈るように見守っていたアマリリスが心配そうに話しかけてくる。

「あたしが変わったほうがいい?」

「まさか」

 と俺は首を振っていた。

 彼女にはもう、十分すぎるほど世話になっている。こんな力仕事ぐらい、俺がやらなきゃどうする。

「いいから、休んでろよ」

 汗を拭い、俺はどうにか笑顔を浮かべていた。

「すぐに終らせちまうから。そしたら――」

 一緒に元の世界に帰ろうな、と俺が言葉を続けようとした時だった。

 ぶつっ――

 肉を裂く生々しい音が聞こえた。

「あっ……?」

 青い瞳を大きく見開いたアマリリスの唇から空気が漏れるような、小さな喘ぎ声が聞こえた。

 ジワッと染み入るように、少女の胸元に赤い花が咲く。そして、そこから顔を見せるのは、先端をドロドロに腐食させ、槍のように尖らせた鉄パイプだった。

 アマリリスの身体を背中から貫くそれは黒い鎖に繋がれており――

 少女の血を顔に浴びたまま、それを拭うことも忘れ、俺は呆然と黒い腐りが伸びる先に虚ろな視線を向けた。

 チクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタク……

 何かを切り刻むような、神経質な音。

 マッドクロック……!

 まるでピーターパンに登場する、チクタク鰐みたいなやつだ。

 ホテルのロビーのような空間で置き去りにしたはずの、振り子時計の頭を持つ怪物がそこに立っていた。片方の手にアマリリスを貫く鉄パイプとつなげた鎖を巻きつけて。

「あっ、あっ、あ、ゆ、む……」

 コポッ、と小さな口から大量の血泡を吐き、掠れた声でアマリリスが言った。

「お、お、お願い、は、は、はやぐ逃げでっ!」

 その言葉が終らないうちに――

 まるで釣り餌に引っかかった魚のように、アマリリスの小柄で華奢なが身体は後ろへと、つまりマッドクロックのほうへとクンッと引き寄せられていた。

 少女の身体を難なく、片手でキャッチする怪物。

「やめろ!」

 血を吐くような勢いで俺は叫んでいた。

「頼むから! その子を傷つけるな!」

 命令でも、恫喝でもない。それは懇願だった。

 しかし、当然のように俺の訴えは拒絶される。

 振り子時計の頭を持つ怪物は、自らの獲物を確認するかのように、しばらくの間、信じられないほど蒼白になったアマリリスの顔を覗きこんでいた。しかし、やがて飽きたのか、屋上の外へと放り投げた。

 年端も行かない、傷ついた女の子をまるでゴミのように。

 俺は叫んだ。

 何と叫んだのか、あまりに大声だったため、自分でもよく分からない。

 しかし、叫ばずにはいられなかった。

 そんな俺を哀れむ様子もなく、ガシャガシャ鎧を軋ませて怪物が距離を縮めてくる。

「クソッたれ……!」

 ありったけの憎しみを込めて俺はそう叫び、松葉杖を握り直した。

 そして――

 ガーン!

 渾身の力を込めて、貯水タンクを殴りつける。

 赤錆びた壁面に深々とめり込んだ松葉杖を力を込めて引き抜いた途端だった。

 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ……!

 耳を劈くような轟音とともに赤味のがかった大量の汚水が、奔流のような勢いで溢れ出てくる。汚水はあっという間に屋上を満たし、サイレンのような異音を発しながら俺とマッドクロックに襲い掛かってくる。

 ざまあみろ……!

 汚水の波に押し流されながら、先に消えた怪物に俺は嘲りの笑いを向けていた。



「うわっ……!」

 悲鳴をあげながら、俺は開かれたドアから廊下へと押し出されていた。

 そのまま転倒しそうになるが――何とか、踏ん張って、姿勢を保つ。

「あれ? 六道君?」

 ノンビリとした声に呼びかけられ、俺は振り返った。

 教務室から出てきたのは、受付の畑中さんだった。それも天井から首など吊られていない、本物の畑中さん……。

 それでも、まだ油断できず、俺は天井を見上げる。

 ……ない。

 建物中に張り巡らされていたカーテン・レールのような溝がなくなっている。

 と言うことは、俺は元の世界に戻ってこれたのか?

「まだ残ってたの? ……って、どうしたの? 顔色が真っ青よ? 大丈夫?」

 驚いた様子で近寄ってきた畑中さんが俺の肩を掴み、グラグラと揺らす。

 それをまるで遠い世界の出来事のように感じながら、俺は顔を――アマリリスの血を浴びた感触がまだ生々しく残る顔に手を当てる。

 しかし、先程の奔流に洗い流されてしまったのか、指先には何もつかない。

 そして、唐突に襲い掛かってくる脱力感。

「ねえ、六道君。本当に大丈夫? お家の人に来てもらう?」

 必死に話しかける畑中さんの顔を見返しながら、俺はヘナヘナとそこに座り込んでいた。

 窓の外では、雨がますます激しくなる音が聞こえていた。



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迷界のアマリリス 和田 賢一 @wadaken

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