■終章 ―― 後日 ~HAPPY END?~

 こうして、私、井原千夏の長い悪夢は終止符が打たれた。

 三年間も眠ったままだったなんて、それこそ悪い夢のような話だけれど。

 病院で目覚め、まだボンヤリしている私を痛いくらい強く抱きしめて、咽び泣きながら出迎えてくれたのは、叔父さんと叔母さんだった。

 辛かったね、ちーちゃん。

 これからは幸せになるんだよ、頑張ろうね、と。

 まだ、私にも頭を撫でてくれる人がいたのは嬉しかった。

 けれど、私は二人に何も答えることができなかった。

 自信がなかったからだ。お母さんからも炎の中に置き去りにされ、ケロイドだらけの身体しか残っていない私にどんな幸せが残されていると言うのか。

 だけど――

 病院の屋上に立ち、夕闇に沈んでゆく夢ノ宮市の街並みをボンヤリと見つめながら、私は思った。

 六道歩君……。

 私が悪夢の世界に引きずり込んでしまった、小学校の時の同級生。

 あんな酷い目に遭わせてしまったのに、最期は私を命がけで目覚めさせてくれた。

 彼は一緒に戦う方法を探そうとも言ってくれた。

 だから、負けたくない。負けるわけにはいかないとも思う。

 現実の世界に戻ってきたことに早くも怖気づきそうな弱い自分の心に。

 少なくとも、もう一度、六道君に会って今回のことをちゃんと謝るまでは――。

 小さく、私が溜息をついた時だった。

 バサバサと鳥が羽ばたくような音を立てて、竿に干された洗濯物が揺れた。

 と同時、鼻腔を突き刺すような腐敗した風が屋上に、いや、夢ノ宮市全体に吹き荒れた。

 むせ返るようなそれは、悪夢の中、嫌と言うほど嗅がされた、血と膿、それに糞尿が交じり合った臭いだ。

「あ、ああ……」

 小さく呻きながらわたしは振り返った。

 そして見なければ良かったと後悔する。

 そこにあったのは、物干し竿に干された洗濯物。ただし、血と何だか分からない汚物に塗れてドロドロになっていた。

 猛烈な吐き気に襲われ、口元を押さえながら私は後退りする。

 いつの間にか、静かな紺碧だった夕空は、腐肉のような暗い紫色に変わっていた。泥土のように蠢く空を、蝙蝠のような翼を持った怪物達が無数に飛び交っている。

 恐怖と絶望に打ちのめされ、私はその場にしゃがみ込んでしまっていた。

 ごめんなさい。ごめんなさい、六道君。

 床に手をつき、全身を震わせながら私は詫びていた。

 やっぱり、私には無理なんだ。自分ひとりじゃ何もできない、弱虫の私が自分の心の闇を乗り越えるなんて……。

 身体を縮込ませ、私は固く目を瞑ろうとした。

 が――

「大丈夫だよ、千夏」

 明るい女の子の声が聞こえた。それも、すぐ側から。

 はっとして目を見開いた私の手元――、そこにあったのは小さな水溜り。その向こう側から元気よく手を振るのは、青い目をした、綺麗な金髪の女の子だった。

「ア、アマリリス?」

 その女の子の名前を私はうわ言のように呟く。

「どんな怖いことがあったって千夏は大丈夫だよ」

 ニコッと可愛らしい微笑を女の子は浮かべた。

「千夏にはいつも私がついているんだもん。それに――」

「……それに?」

 意味ありげな微笑を浮かべた女の子の言葉を私が鸚鵡返しに繰り返した時。

 ダンッ、と大きな音を立てて、屋上を固く閉ざしていた、鉄のドアが向こう側から勢いよく蹴り開けられた。

「おい、井原! 無事か!?」

 私は自分の目が信じられなかった。だけど見間違いようもない。

 手に警棒のような物を持ち、息を切らしてそこに立つ男の子は六道君だった。

「ど、どうして?」

 混乱しながら、私は駆け寄ってきた六道君に尋ねた。

「どうしてここにいるの?」

「どうしてって……。見舞いだよ、見舞い」

 そう言いながら、六道君は私の腕を取り、ゆっくりと立たせてくれる。

「金城って女占い師から注意するよう、言われたからな。井原もそろそろ後遺症が始まる頃だって」

 後遺症……?

 六道君が何を言っているのか、わたしにはよく分からなかった。

「でも、心配すんな。こんなの、これまでのことに比べりゃ……」

 六道君の言葉を遮るようにして――、私たちの頭上から、耳を劈くような轟音が落ちてきた。

 私と六道君は、殆ど同時に顔を上げる。丁度、腐肉のような赤紫色に変色した空を引き裂いて、皮膚をドロドロに焼け爛れさせた巨大な赤ん坊の顔が覗くところだった。

「…………ッ!」

 思わず悲鳴をあげそうになった時、六道君が私の手を強く握り締めた。

「目をそらすなよ、井原」

 少し緊張を孕んだ、だけど、しっかりした声で六道君が言う。

「こいつら、どいつもこいつも見掛け倒しなんだ。経験者の言うことを信じろ」

 くあっ、と焼け爛れた赤ん坊が口を大きく開いた。

 耳元まで裂け、生ゴミのような臭いを漂わせるそこからサイレンのような咆哮が迸る。

「こんなやつら、さっさと片付けちまおう」

「う、うん」

 六道君の手を握り返しながら、私は頷く。

 そして、言われた通り、怪物――自分自身の悪夢の残滓を真っ直ぐに見すえる。バチッと音を立て、六道君の握りしめた警棒の先に青い火花が散った。


 ……ほんの少しだけど、怖くなくなった。


                                      (了)


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