■第四幕 ―― 金曜日 ~Bottom of the World~

■1■


 睡魔を誘うような黄昏の光の中――

 周囲をぐるりとビルに囲まれた小さな公園に俺はいた。

 小学校からの帰り道、いつも寄り道していたあの谷底のような公園だ。

「井原って、ホント、絵が好きだよなぁ」

 ブランコに腰を降ろした姿勢のまま、俺は溜息をついた。

「それ、いつも持ち歩いているだろ? 重くて肩こったりしねーの?」

「え? 何?」

 ベンチに座っていた相手――井原が少し戸惑ったような笑顔を上げる。

 俺が話しかけているのを聞いていなかったらしい。

 手には分厚く大きなスケッチブック。井原は一心不乱にそこに鉛筆を走らせていた。恥ずかしながら、そのモデルを務めているのはこの俺と言うわけ。

「後、ちょっとだから……」

 そう言って再び、キラキラした目でスケッチに戻る井原。

 苦笑しながらも、俺は内心、彼女が羨ましかった。

 俺には井原のように時間を忘れて打ち込めるようなものは持っていない。

 そりゃ、ゲームをしたり、漫画を読んだりするのは好きだけど、そういうことと井原が絵を描くことは何かが、上手くいえないけど、何かが大きく違っている気がする。

 と、一陣のビル風が冷たく背中をさすった。

 小さく身を震わせ、俺はくしゃみを噛み殺す。

 そして、言った。

「なあ、井原――」

「えっ?」

「書いてもらっている最中に悪いんだけど、ちょっと休憩入れね?」

「どうして?」

「ええっと……」

 俺はちょっと言いよどんだ。

 そして、公園のはずれ、公衆トイレを顎で示す。

「ちょっと、自然の声が俺を呼んでいるんだ」

 一瞬、キョトンとし、

「あ、うん。いいよ。行って来て」

 くすっと井原は微笑んだ。

 それから少し寂しそうな表情になって、こう付け加える。

「……でも、すぐに戻ってきてね」

 分かった、と答えて俺はブランコを降り、もう一度、井原のほうを見て、思わず息を飲んでいた。

 小さな笑みを浮かべて俺を見返す井原のすぐ背後。そこに音もなく迫るのは、手足の長い猿のような怪物だった。

 顔はツルンとした茶色い卵。その身体はドロドロに腐乱し、汚泥の塊のような頭部には、ウジャウジャ蛆虫が湧いている。

 俺が声をあげる暇もなかった。背後から井原を抱きすくめると、腐った猿のような怪物は跳躍した。いつの間にか、空襲を受けたかのように豪華燃え盛る街に向かって。

「まっ、待てよっ……!」

 やっと俺は絶叫した。

「井原を帰せ!」

 きゃはははははははははははははははははははははははははははっ……!

 狂ったような、人外どもの嘲笑が俺を取り囲んだ。



 そこで、俺は目を覚ました。

 夢だったらしい。

 自分が発した呻き声に驚かされたらしい。

「あ……?」

 一瞬、俺はパニックを起こしかけ……

 ブラインドに覆われた窓から差し込む、柔らかな朝の光に目を細めた。

 俺が寝ているのは、見覚えのある大きなベッド。しかし、真っ白いパーテーションに囲まれた、その狭い空間は俺の部屋ではなかった。

 様々な薬品や職毒液の臭い、そして微かに漂う甘ったるい糞尿の臭い……。

 間違いない。ここは病院だ。それも、ほんの数日前まで、俺が入院していた夢ノ宮医院だ。

「そうか。俺、小学校で気を失って……」

 救急車を呼ばれ、そのまま間ここに運び込まれたというわけだ。

 ……なんてこった。一週間もしないうちにまた戻って来るなんて。

「――歩? 気がついたのか?」

 俺が溜息をついたとき、懐かしい声が聞こえてパーテーションが開いた。

 その隙間から、顔を覗かせたのは爺ちゃんだった。ずいぶん、久しぶりに会えた気がして、一瞬、俺は涙腺が緩みかけた。

「爺ちゃん……」

「病院から電話をもらった時は、寿命が縮んだよ」

 そう言って、爺ちゃんはベッドの足元にあったパイプ椅子に腰を降ろした。

 苦笑した、その横顔には深い疲労の色が浮かんでいた。

「お前、なかなか目を覚ましてくれんから。その上、全身、傷だらけになっとるなんて、一体、何をしとったんだ?」

「そ、それは――」

 珍しく詰問口調になる爺ちゃんに俺は言い澱んだ。気まずい沈黙がパーテーションの中に満ちる。あれこれと俺がいいわけを考えた時だった。

「……父さん」

 外から、聞き覚えのある声が聞こえた。

「まかせっきりで悪かったな。後は、いいから少し休んでくれ」

 そう言って中に入ってきたのは、背広姿に身を固めた大柄な男だった。その後で、不安そうな表情を浮かべた中年女性もいる。

 二人は爺ちゃんの息子夫婦、六道清と光子――つまり、俺の両親だ。

 今度は怪物じゃなく、本人のようだ。ある意味、怪物よりも面倒臭い。

 くそ、こんな時に限って……!

 普段は放任しているくせに、と俺は口元が歪むのを禁じえなかった。

 爺ちゃんは悲しげに首を振りながら、病室を出て行った。

 その後ろ姿を見送り、

「全く、お前はどうしようもないやつだな」

 振り返った親父が自分と母さんの椅子を引き寄せながら、溜息混じりに言う。

 それは、耳に蛸ができるほど聞かされたお決まりの文句だった。

 これからウンザリするほど長い説教が始まりますよ、という合図だ。そう思っただけで、ガキの頃のトラウマが蘇ったのか、早くも俺は気分が悪くなった。

「おじいちゃんに面倒見てもらうようになって、少しは真面目に生活していると思っていたら、これだ。……何が面白くてお前は、トラブルばかり起こすんだ?」

「知るかよ」

 親父の決め付けた物言いにムカッと来て、俺は吐き捨てた。

 勿論、視線は合わせない。

「俺じゃない。トラブルが俺に近づいて来るんだ」

「屁理屈をこねるんじゃない! この馬鹿者!」

 本当のことを素直に言っただけなのに、一喝されてしまう。しかも、理不尽なことに、親父のやつ、俺の頭に拳骨を落としやがった。

 ……このオッサン、息子が怪我人だってこと理解してないんじゃねえの?

「お前、自覚しているんだろうな? 今回、自分がどれだけ周りに――、爺さんや小学校の先生に心配かけたか」

「うっ……」

 俺は返事に詰まった。確かに親父の言う通りだ。

 爺ちゃんも河合先生も、何で俺が倒れたのか分からず、死ぬほど驚いたはずだ。その点に関しては、言い訳のしようもない。

 しかし、俺には俺の事情ってもんがある。糞ほど厄介な事情が。

「一体、お前、何をしていたんだ? 何で、怪我なんかした?」

「…………」

「聞いているんだぞ。また、お前は親に言えないようなことをやらかしたのか?」

「ちょっと、お父さん――」

 険しい声の親父の袖を引っ張ったのは、母さんだった。

「そのことも大事だけれど、他にも歩に話さないといけないことがあるでしょ?」

「あ、ああ。そうだったな……」

 はっとした表情で頷く親父。訝しく思って眉をひそめる俺に向き直り、ゴホンッとわざとらしい咳払いをしてから、こう切り出してきた。

「昨日――、お前の高校の同級生だというお嬢さんから電話があってな」

「……電話?」

 訝しく思い、俺は眉をひそめた。

 高校の同級生で、今更、俺に連絡を取ってくるやつ。

 それも女と言えば――

「……誰だよ?」

「心当たりがあるはずだぞ」

 白々しく尋ねた俺を親父はジロッと睨みつける。

「結局、名前は教えてもらえなかったが……。お前、例の喧嘩は、その子を助けるためにやったんだってな」

「あ……」

 自然と、俺は顔をしかめていた。

 例の強姦未遂事件の被害者か。まさか、一年近くたった今頃、当の本人からばらされるとは思ってもみなかった。まあ、相手は俺に対する善意と言うか、誠意のつもりなのだろう。

 それは分かる。

 分かるし、感謝の念さえ覚えるが……。

「その娘さんは、お前が高校を退学したのは自分のせいだと謝っていた」

「そりゃ、違うな」

 舌打ちしたいような気分で俺は言った。

「連中をぶちのめしたのは、単に俺の癪に障ったからだよ」

 墓場までもって行くつもりだった話をあっさり暴かれたのは、やはり、不愉快だった。

「退学は、俺が自分でまいた種だ。別にその女が気にすることじゃない」

「だけど、歩」

 じれったそうに言ったのは母さんだった。

「勿論、暴力は良くないけれど――喧嘩の原因は相手でしょう? どうして、そのことを黙っていたの? 一方的に歩だけが罰されるなんて、そんな……」

「話が大きくなって、そのお嬢さんに累が及ぶのを嫌ったんだろ」

 腕組みし、呆れ返ったように親父が首を振った。

「お前の考えることと言えば、そんなところだろう。違うか?」

「…………」

 しかし、俺は不機嫌に黙り込んだままだった。

 正味、親父の言う通りなのだが――、何だか負けたような気がして、素直に頷くことができなかった。

 刹那の沈黙の後。

「だが、まあ――、安心した」

 ふう、と溜息をついた親父の口調が微かだが柔らかくなった。

「心配していたより、お前はずっとまともだ」

「えっ……」

 思いがけないその言葉に俺は驚き、相手を見返す。

 親父は苦笑していた。その横に立つ、母さんも。二人が笑っているのを見るのは久しぶりな気がした。

 それと同時に、一気に後悔の念が押し寄せてきた。今回、俺が心配させてしまったのは、爺ちゃんと河合先生だけじゃない。

 この二人も、だ。そんな当たり前のことに、今更、俺は気がついていた。

「悪かったよ、いろいろ……」

 肩を落とし、俺は言った。

「その、なんて言うか、考えなしで」

「ああ、それはその通りだな」

 水を得た魚のように親父が力強く頷く。

「大体、お前は頭を使わなさすぎる。それに要領も悪い。小学生でももう少し賢く立ち回るぞ? そんなことじゃ、これから将来が不安だよ。大体、お前はだな――」

 スイッチを切り替えたかのように、説教に入る親父に俺は戦慄を覚えた。

 説教モードに入った親父の話は長い上に、同じところをぐるぐる、ぐるぐる何度でも回るので死ぬ程苛々させられる。しかも、為にならないのは、物心つく前からずっと説教され通しだった自分の人間性を省みれば一目瞭然だ。

 今度は母さんも止めてくれそうにない。

 ゲッソリとして、俺が息をつきかけた時だった。

「あの、すいません――」

 病室の入り口のほうから、若い女の声が聞こえた。

 説教を止め、親父は立ち上がると怪訝そうな顔でパーテーションの向こう側に歩いて行った。

「……はい?」

「六道歩君の病室だと受付で聞いたんですけれど」

「ええ、まあ。……失礼ですが、どちら様?」

「六道君のフリースクールの同期生で、占い師です」

 淡々と女の声が答えた。

「今回は色々とアフターケアが必要だと思いましたので。六道君、まだ正気ですか?」

「……は?」

 怪訝そうな、と言うより少しムッとしている親父の声。

「今、何と仰いました?」

 慌てて、俺はベッドから身体を起こしていた。



 それからしばらくして――

 突然現れたヘンな女、金城多恵に戸惑いながら親父と母さんは病院から去って行った。

 二人とも、今日の仕事は午後から入ることにしていたらしい。自他共に認める仕事の虫である、この夫婦が午前中だけとは言え、仕事を休むのは珍しいことだった。

 まあ、それはさて置き、

「なんで、ここに入院したって分かったんだ?」

 溜息交じりに俺は金城に尋ねた。「ひょっとして、占い?」

 いいえ、と金城は首を振った。

「あの後、すぐに小学校に電話をかけなおしたの。六道君の従姉妹だと名乗ったら、あなたが倒れたって教えてくれたわ」

 一階、受付のあるロビー・ホール。

 俺と金城はそこにある、待合のソファーに向き合うようにして腰を降ろしていた。

「それで、今回は何か収穫があったんでしょ?」

 今回は、か。

 思わず、俺はその言葉を頭の中で反芻させていた。

 金城が尋ねているのは、昨日、俺が取り込まれた迷いの世界での出来事だろう。

 毎日のように怪異に巻き込まれているうちに、すっかり、それが中心の生活になってしまった……。

 少し、躊躇い――

「これ、あっち側から持ち帰って来たみたいだ」

 そう言って、俺が手渡したのは一枚のテレフォンカードだった。

 数年前、井原にプレゼントしたはずのアニメ・グッズ。

「……信じられねえよ、まったく」

 カードをジッと見つめる金城に俺は低い声で言った。

「あの子が、アマリリスが虚構だったなんて。怪物どもと同じで、あっち側の存在だったなんてよ。そりゃ、確かに今思えばおかしいところは一杯あったけど……」

 虚構――。

 自分自身の言葉がちくりと俺の胸を刺す。

 迷界のアマリリス、か。確かにそのタイトルに覚えはあった。

 俺が小学生の時、結構、流行っていたスーパーヒロイン系のアニメだ。魔法の力を備えた少女が、毎週、異なる異次元世界に飛び込んで平和を取り戻すと言う冒険アクションだったと思う。

「虚構、ではないと思うわ」

「えっ……」

 力なく顔を上げた俺に金城が静かに言った。

「この間は話しそびれたけれど、人間が心に抱えるのは強迫観念やマイナスな感情だけじゃない。喜びや優しさ、それに憧れの感情も同時に持っているでしょう。当たり前の話だけれど。

 私が思うに、六道君にテレフォンカードをプレゼントされた時点で彼女――、井原千夏さんにとっては、迷界のアマリリスというアニメ作品は特別なものとなった。そして、そのヒロインに井原さん自身、相当、感情移入をしたのでしょう。もしかしたら、このヒロインみたいに井原さんは活発な女の子になりたかったのかもしれない……」

 そこで言葉を切り、ふっと息をついてから金城は続けた。

「六道君の前に現れたアマリリスと名乗る女の子は、アニメのイメージを借りた、井原千夏さんの人格の一部。つまり、分身みたいなものね」

「ちょっ、ちょっと待ってくれ――」

 またしても突拍子もない方向に話が進んでゆく。俺は頭が痛くなるのを感じながら、口を挟んだ。

「でも、それっておかしいじゃんか」

「……どうして?」

「だ、だってよ――、迷いの世界に俺を引きずりこんで酷い目にあわせているのも井原なんだろ? その一方で、俺を助けようとするなんて、そんなの」

「矛盾している? でもね、六道君。人間っておかしなものでね、一つのことを心に描く時、それと真反対のことを意識しているものなの。例え、本人に自覚はなくてもね。……いやよいやよも好きのうち、可愛さあまって憎さ百倍って言うでしょう? 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いっていうじゃない?」

 いや、最後のは違うんじゃないかな?

 と、突っ込みをいれる余裕は俺にはなかった。

「それじゃあ、井原は……」

 声を掠れさせる俺に金城が頷く。

「六道君を迷いの世界、つまり、自分の心の闇に閉じ込めておきたいのも彼女の本心。……だけど、それを防ぎたい、自分自身から君を守りたいと言うのも彼女の偽らざる本心なのよ」

 語り終え、金城は口を閉ざした。

 凄まじく面倒な、そして切ない話だった。現実とはとても思えない。

 だが、恐らく――、いや、間違いなく金城の言葉は全て正しいのだろう。

 だとしたら、この数年間、井原の身に何が起きたと言うのか。あんな、地獄のような景色を心の中に抱えて、人間は生きて生けるものなのか。

「これから、俺はどうすりゃいいんだ……?」

 片手で両目を覆い、俺は低く呻いていた。

 と、その時だった。

 背中に強い視線が注がれているのを感じ、俺は振り返った。

 そして――

「お、お前!」

 驚きのあまり、俺はソファーから立ち上がり、声を上擦らせていた。

 大きく見開かれた俺の瞳が捉えた人物。それは、艶やかな黒髪を背中の辺りまで伸ばした小柄な少女だった。

「い、井原……!?」

 声を詰まらせながらも、何とか俺は相手の名を呼んでいた。

「井原千夏……だよな?」

 しかし、相手――少女の答えはない。

 何の感情もない、凍てついたような眼差しでジッと俺を見つめているだけ。

 戸惑う俺の隣で金城がすっと立ち上がった。

「落ち着いて、六道君」

 静かな声とは裏腹に、震える俺の手を握り締める力は強かった。

「彼女から目を離さないで。今の彼女の状態は――」

 金城の言葉が終らないうちに、くるり、と伊原と思しき少女が踵を返す。

 そして、そのまま、ロビーから歩き去ってゆく。

「お、おい!」

 思わず、俺は声を大きくしていた。

「ちょっと、ちょっと待てよ! なあ!」

 お静かに、と受付の看護士が顔をしかめる。

 だが、そんなことに構っている場合じゃない。

「――ついていったほうが良さそうね」

 俺の腕をしっかりと取りながら、目を細めた金城が低く言った。

「彼女、何かを教えたがっている。消えてしまわないうちに追いかけましょう」



 金城に身体を支えられるようにして、俺は少女の後を追った。

 少女――、つまり井原千夏はこちらを振り返ることもなく、モルタルの廊下を滑るように進んでゆく。

 と、病室のドアが開き、看護士と患者が談笑しながら出てきた。

「あ、ぶつかる……」

 思わず声をあげそうになったが、次の瞬間、俺は絶句していた。

 世間話をしながら、井原の身体をすり抜ける看護士と患者。まるで、そこに誰も存在しないかのように。

「あら、こんにちは」

 笑顔で会釈し、二人は俺の横を通り過ぎて行く。

「……あれは生霊ね」

 ぎこちなく頭を下げた俺に金城が囁く。

「私達以外の人間には見えていないし、触れることもできない。本人の意思とは無関係に病院の中を歩き回っていたみたいね」

 無言で俺は頷くしかない。しかし、その一方で激しい胸騒ぎを覚えていた。

 このまま、井原を追いかけていった、後戻りできなくなる。そんな予感がした。

 やがて……、金城曰く、井原の生霊はとある病室の前で立ち止まった。

 はっと息を飲み、俺達は歩調を速める。が、声をかける前にその姿は掻き消えていた。

「それじゃあ、六道君」

 ドアノブに手をかけながら、金城が振り返った。

「開けるけど、いいわね?」

 一瞬、逡巡し、「ああ、」と俺は頷いていた。「頼むよ」

 キィ、と音を立てて、ドアは静かに押し開かれた。

 そして――

「……?」

 拍子抜けし、俺は首を傾げた。

 想像していたような、おぞましい光景はそこにはなかった。キョロキョロと辺りを見回してみるが、迷いの世界に取り込まれたような感じもない。

 そこは爽やかな朝日が差し込む、清潔な病室だった。さして、広くなく、ベッドも一基しか置かれていないから、個室のようだ。低く流れるクラシック音楽が妙に心地が良かった。

「――ちょっ、ちょっと? どなたですか?」

 ベッドの傍らにいた、中年の女性が怯えたようにこっちを振り返った。

「ノックもなしにいきなり女の子の病室に入ってくるなんて……!」

「すいません」

 間髪を入れず、金城が頭を下げる。

「弟のお友達がこちらの病室にいらっしゃるとお聞きしましたから」

「……チーちゃんのお友達? ひょっとして小学校の?」

「はい。弟はいつもお世話になっていましたから……」

 さすがは演技力を必要とされる占い師だ。

 少々、無理があるがまことしやかな嘘をスラスラと金城が話している。

 まあ、全部嘘ってわけじゃないが……。

 しかし、俺には二人の会話など聞いている余裕はなかった。

 俺の視線は、ベッドの上で、よく洗濯されたシーツにくるめられた、小柄な人物に釘付けになっていた。

 大きく可愛らしい、しかし、表情の失せた瞳が天井を見上げている。

 身体の所々を包帯とガーゼに覆われてはいたが、それは確かに、この数日間、俺を迷いの世界に引きずり込んだ張本人。

 ――井原千夏だった。


■2■


 病室にいた女の人は、井原の母親の姉――、つまり叔母さんだった。

 叔母さんは突然現れた俺達を訝しみながらも、井原のことを話してくれた。

 河合先生が教えてくれた通り、やはり、井原は母親と一緒に新興宗教団体、夢神教会に入信していたらしい。

 それが、一部の信者が教祖に対して起こした暴動に巻き込まれ、火を放たれた教会本部の地下礼拝堂で意識不明の重体で救出されたらしい。

 井原は身体のあちこちに酷い火傷を負っていただけではなく、血液中から多くの薬物が検出され、発見があと数時間遅れたら生命が危なかった。

 母親は教祖とともに失踪。本部の焼け跡から発見された無数の焼死死体の中からも発見されず、今もなお、本人から連絡はないと言う。

「可哀想な子なんです」

 そう言って叔母さんは涙ぐんだ。

「本当なら、こんな目に遭うような子じゃないのに……」

 俺と金城は無言で顔を見合わせあうしかなかった。



 それから数十分後――。

 金城に促されるまま俺は病院をこっそり抜け出し、夢ノ宮銀座にある占いハウス、夢見館に再びやって来ていた。

 勿論、外出許可は得ていない。

 後で両親や爺ちゃん、それに病院の人達から大目玉を食らうだろうが、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。

「……夢神教会。やっぱりあそこが絡んでいたせいね。井原千夏さんが迷いの世界を生み出す力を得たのは、そこで何らかのイニシエーションを受けたからよ」

 テーブルに着くなり、金城はそう断定した。

 そして、ほとんど自分にしか聞こえないような声でブツブツと呟く。

「考え無しにも程があるわね。全く、傍迷惑な話……」

「俺には分かんねぇんだ」

 大きく溜息をつき、俺は首を振った。どうしようもない自己憐憫の念が風船のように胸の中で膨らんでいた。

「結局、何で井原は俺を、迷いの世界に閉じ込めようとするんだ? そりゃ、その……無意識の内なのかもしれないけれど、他の誰でもなく俺がって言うのはどうにも納得いかなくて」

「……本当に分からない?」

 微かだが、金城の顔に呆れたような表情が浮かんだ。

「それはね、井原さんは六道君のことが好きだからよ。三年たった今でもね」

「えっ……」

 刹那、俺の頭の中は真っ白になっていた。

 金城の言葉の意味を理解するのに数秒かかり――思わず、俺は赤くなっていた。生きるか死ぬかの時に照れている場合じゃないけれど。

「勿論、六道君を傷つけるのは井原さんだって本望じゃない」

 ふと宙を見上げながら金原が続ける。

「だけど無意識の力が生み出す迷いの世界を支配し、制御できる人間なんて、そうはいない。……睡眠中に見る夢を思いのまま操れないようにね。

「井原千夏さんの自我は、恐らく、迷いの世界の最奥に漂っているはず。呪術によって拘束されているのかも知れない。そして、孤独に耐え切れず、過去、自分が好意を寄せていた六道君との楽しい記憶に救いを求めた」

「…………」

「でも、それだけでは元々普通の女の子である、井原さんの迷いの世界が、こんな形で発現することはなかったかもしれない。――六道君、最初に取り込まれそうになったのは何時?」

「火曜日だ」

 忘れもしない。俺にとって、その日が今も覚めない悪夢の始まりの日だった。

「地下街だ。金城さんに会ってすぐだよ。その日は俺の退院日で……」

 そこまで言って、俺はゾクッと鳥肌立つのを覚えた。

 なぜ、今の今まで気がつかなかった?

 三年間も、井原はあの病院にいた。

 先に俺が彼女を見つけたんじゃない。井原が俺を見つけたんだ。

「なんてこった……!」

 俺は自分が顔面蒼白になるのを感じた。

「火元はすぐ足元にあったのに、全然、気がついていなかったのか」

「迷いの世界ってそう言うものだもの。仕方がないわ」

 少しも慰めているようには聞こえない口調でそう言ってから金城が口を閉ざす。

「…………」

「…………」

 しばらくの間、俺も金城も口をきかなかった。

 壁に取り付けられた時計の時を刻む音だけが、押し黙った二人の間を流れていた。

 やがて、

「それで――、これからどうするの?」

 静かに口を開いたのは金城だった。

「どうする、って言われても……」

「これは私の勝手な推測だけれど」

 困惑する俺に金城が続ける。

「六道君が入院している間は、迷いの世界に襲われることはないと思う。井原さんも六道君が近くにいることは感じているだろうから。でも、それじゃあ」

「何の解決にもならない、よな」

 頷くと俺はしゃがれた声で呻く。

 それにこのまま、井原を放っておく気にもなれない。確かに俺は彼女の迷いの世界に取り込まれたせいで、何度も死ぬ思いをした。

 しかし、その度にアマリリスを送り出し、救ってくれたのも他ならない彼女なのだ。例え、井原がそうと意識していなくとも、それは間違いのない事実だった。

 しばらく、逡巡した後、

「……つまり、こういうことだろ?」

 顔を上げ、俺は言った。

「迷いの世界から、井原自身を解放してやらなきゃ俺は助からない」

 一拍の間を置き――、「ええ」と金城がうなずく。

 無意味な気休めを口にするつもりはないらしい。

「井原さん自身が悪夢から覚めない限りは、いつか……」

「だったら、」勢い込み、思わず俺は机から身を乗り出していた。

「いっそのこと、こっちから乗り込むなんてことはできねぇかな?」

「え?」

 怪訝そうに眉をひそめる金原に俺は辛抱強く説明を続けた。

「金城さん、言っただろ? あいつの自我は、迷いの世界の一番奥にいるって。そこを突いてやれば目を覚ますんじゃねえの?」

「それは可能性としては、あり得るけれど……」

 何かを考えるように、再び天井を見上げる金原。

「こちらから迷いの世界に飛び込むとなると、かなりの危険を覚悟しないと」

「危険なのは、こうしている今だって同じだろ?」

 そう答え、俺は苦笑していた。

 もう、笑うしかない。そんな心境だった。

「それはそうと、金城さん。一つ、聞いていいか?」

「……何?」

「なんで、ここまで俺に付き合ってくれるんだ?」

 ずっと疑問に思っていたことを俺は尋ねていた。

「占い師の仕事、忙しいんだろ? 俺達、確かに同じフリースクールの同期だけど、お互い、そんなに話とかしていたわけじゃないし」

「……だって、目覚めが悪いでしょ」

 少し間を置いて、溜息交じりに金城が答える。

「目の前で死ぬかも知れない人間がいるのに、六道君だったら見過ごせる?」

「それは、いや、どうかな……」

 相変わらず、金城の口調に熱はこもっていなかった。

 しかし、曖昧なことを言いながら、俺は自然と顔が綻ぶのを感じていた。

 ちょっとばかり変わったところもあるが、悪い人間ではなさそうだ。人気の占い師だと言うのも何となく分かる気がした。

「とは言え、当事者の六道君に迷いの世界に抗う意思を持ち続ける強さがなければ私も手の出しようがなかったけどね。それに――」

 どこか遠くを見るような表情になりながら、金城は小さく言った。

「あいつらとは子供の時からの腐れ縁なの」

 あいつら?

 迷いの世界に巣食う怪物どものことか?

 それとも……

「今は私のことよりも、目の前の現実に集中したほうがいいわ」

 考え込みかけた俺を金城のやはり淡々とした声が現実に引き戻した。

「井原さんの迷いの世界に飛び込むためには、何か、媒体になる物が必要ね。……彼女が強い執着や思い入れを寄せていた物、何か持っていない?」

 咄嗟に俺は胸ポケットを探った。そして、会心の笑みを浮かべ、取り出したそれをテーブルの上に置く。

 それはアニメ絵のアマリリスが描かれた、例のテレフォンカードだった。



「それじゃあ、六道君。――心の準備はいい?」

「ん? あ、ああ……」

 ぎこちなく頷き、昨日と同じく、重たいリュックを背負った俺はテレフォンカードを片手に握り締める。俺と金城は、夢見館の真正面にあるたばこ屋の前に立っていた。正確に言えば、その傍らにある公衆電話の前だ。

「もう、分かっているとは思うけど、迷いの世界では六道君の助けにはなれない。何が現れても、決して、見た目に惑わされないで。それと、できるだけ冷静でいること」

「わ、分かった……」

 緊張のあまり、俺は声を震わせていた。

 掌にはジットリと冷や汗が滲み、早鐘のように心臓がドクドクと打ち鳴り始める。

 何しろ、自分から迷いの世界に乗り込むのは初めてだ。

 平然としていられるわけがない。

 店番の婆さんが胡乱な眼差しで俺達を眺めていたが、事情を説明する余裕はない。

 乾ききった唇を舐め――、覚悟を決めると俺はテレフォンカードを電話の差し込み口に運んだ。

 そして、指先に力を込めて挿入する。

 カチッと音を立てて、電話機がカードを飲み込む。

 そう思った、次の瞬間だった。

 ヒュオオオオオオオオオオオッ……!

 目も開けていられないような、砂粒混じりの強風が商店街に吹き荒れる。

 それは虚空を舞う死霊の叫びのように物悲しく、そしてけたたましかった。

 パラパラと小さな砂粒が無数に舞い上がり、俺の顔に当たってくる。思わず、両腕を交差して、顔を庇う。

「……………………」

 暫くの間、俺はそのままの姿勢で固まっていた。

 しかし、周囲から物音が消えたことにふと気がつき、恐々と腕を下ろす。

 案の定――、そこは既に商店街ではなくなっていた。

 天蓋にポッカリ開いた作り物のような空。

 そこに浮かぶ、殺人に使われた凶器のように赤く滲む三日月。

 そして、俺を取り囲む、死人の群れのような、白く枯れ果てた木々。

 俺はただ一人――、見知らぬ夜の山中に立ち尽くしていた。成功だ。取り込まれるのではなくて、こっちから意図的に迷いの世界に入り込めた……!

 しかし、大喜びする気にはとてもなれなかった。

 異形の月明かりの下、幾重にも蔦に絡みつかれ、その重心を大きく傾かせた廃墟然とした建物の前とあっては。

 レンガ造りのその大きな建物は印象としては夢ノ宮市の街角にあるキリスト教の教会に似ている。しかし、屋根の上に掲げられているのは十字架ではない。ここ数日間、嫌と言うほど目にしてきた、あの奇怪な卵のような紋章だ。

「ここは……」

 胸騒ぎを覚え、俺はその建物に向かって歩き始めた。

 有刺鉄線が張り巡らされた塀をぐるりと一回りし、立派な鉄扉がある、建物の正門にたどり着く頃には俺は確信していた。

 間違いない。ここは夢神教会の本部だ。

 井原が母親と一緒に暮らしていたと言う、新興宗教の施設。

 そして、井原が迷いの世界を顕現させる、何らかの力を授かった場所でもある。

 だとすれば、ここで一体、何が行われたと言うのだろうか?

 俺には皆目、検討も付かなかったが、その答えはきっとこの中に隠されている。

 そして、井原千夏、本人も。

 そんな想いに背中を押されるようにして、俺は鉄扉を押し開いた。


■3■


 天井から等間隔に吊るされた裸電球のお陰で、建物の中は意外にも明るい。

 通路を進み、礼拝堂のような広く厳粛な雰囲気の部屋に入る。

 正面の祭壇に飾られた、奇怪な一つ目の卵――デュカリ・デュケスの印形を立体化したような、奇怪なオブジェが俺の目を引く。

 当然のように人の気配はない。

 そのかわり、赤い文字で謎めいた言葉が壁一杯に書き綴られていた。


 夢こそ真、真こそ夢

 賢者の石を飲み込みし者たち

 夢幻のゆりかごにその身を捧げ

 内なる楽園を今、産み出さん

 汚辱にまみれし現世を塗りつぶさん


 朝会の時にでも読み上げたのだろうか?

 どうやらここの教義を書き出したものらしい。

 何故か、俺はそれに強い反発を感じた。

 正直、意味は全く分からない。ただ、この言葉を発したヤツが、とんでもなく独善的な性格の持ち主であることは容易に想像ができる。そして、狂ったヤツだということも。

 母親についていくしかなかった井原がとても不憫だった。

 よりによって、こんなところに、だ。

 小さく首を振りながら俺は祭壇の横にあった、木製のドアに向かった。

 ドアを開くと、もはやお馴染みになった、妖気に満ちた暗闇が俺を待ち構えていた。

 溜息をつき、俺はペンライトの明かりをつける。そして、地下へと続く、底無し沼に沈んでゆくような鉄骨の階段に一歩、足を乗せる。

 その途端、激しい眩暈のような感覚が俺を襲った。



 いつの間にか、俺は遮る物一つない、広大な闇の空間をトボトボ歩き続けていた。

 足の下からモーターの唸る耳障りな音が鳴り響き、熱く生臭い風が吹き上げてくる。

 お陰でベットリと汗をかいてしまい、髪の毛や下着が肌にベットリ着いて、不快なことこの上ない。しかし、敢えて俺は足元を見ないようにしていた。

 変わった設計思想なのか、それとも単に工事の費用が不足していたのか。

 時折、懐中電灯の光に照らし出されるそこは通路の体をなしていない。建物の骨格を無残に剥き出しにした、鉄骨と赤錆びた金網の床が敷き詰められているだけだ。

 しかも、歩く度に金網はギシギシと嫌な音を立てて軋む。

 何時、踏み抜いてしまうか、と思うと気が気でない。そして、その真下には懐中電灯の光など全く届かない、暗い穴が大口を空けているのだった。

 もし、あそこに落ちたら……?

 いわゆる、地獄とやらが待ち構えていて、そこで永遠の責め苦を味わうことになるのだろうか?

 頭を振って、俺は気の滅入る嫌な想像を追い払おうとした。

 と、その時だった。

 行く手を包む闇に、木の立て札のような物がボンヤリと浮かび上がった。

 それには矢印が描かれ、こう書き殴られていた。


 ZOO この先、少し


 ZOO――

 英語は苦手な俺でも、これぐらいの単語は分かる。

 動物園、と言う意味だ。

 しかし、こんな場所で動物園となると――

 嫌な想像しか働かなかったが、他に行く当てもない。

 覚悟を決め、俺は矢印が示す方向に向かって再び歩き始めた。

 その動物園には、すぐに辿り着くことができた。

 動物園と言っても、現実のものとはまるで違った。

 ぎらぎらした有刺鉄線のフェンスが取り囲むのは、さして広くもないスペースに鉄製の鳥籠が隙間なく並べられているだけだ。

 そして、俺はそこに閉じ込められているやつらに見覚えがあった。

 ガラスボールのような一つ目のヤモリ。ブルブルと蠢く、黒いゼリーのような物体。子供の顔を持つ、猿と鼠を足して二で割ったような生き物。それに何だかよく分からない、グチャグチャと蠢く血塗れの肉塊。

 怪物ども……。

 ここ数日間、迷いの世界で遭遇した、異形の者どもがそこに集められていた。

 思わず、警棒を手に俺は身構えてしまう。籠を破り、やつらが一斉に襲い掛かってきたりしたら、ひとたまりもない。

 しかし、幸いにもそれは杞憂だった。

 やつらは食事に夢中だった。

 各鳥籠の天蓋には長いプラスチックのようなチューブが垂らされ、どこから汲み上げられてくるのか赤黒いドロドロした液体を、鳥籠の端に置かれた皿にポタポタ流しこんでいる。怪物どもがペチャペチャ舌を鳴らして舐めているそれは、まるで人間の血液のように思えた。

 恐ろしく厭な物を見てしまった気がして、俺は早々にその場を立ち去ろうとした。

 しかし、端っこにあった鳥籠の一つに目が止まり――

「あっ……!」

 思わず俺は声をあげてしまう。その声に驚いたように顔を上げたのは、赤いスタジャンを羽織った、金髪、ポニーテールの少女だった。

「歩? どうしてここに?」

「アマリリス!」

 少女の名を叫び、思わず俺は鳥籠の前に駆け寄っていた。

「お前、生き返ったのか!? 心配したんだぞ、急に居なくなるから……」

 ハッとしたような顔になり、ぷいとアマリリスが顔を背ける。

 俺のほうも歯切れ悪くなり、声が次第に小さくなる。

 おぞましい息遣いが響く闇の中、なんとも言いようのない気まずさを俺は感じていた。

「――もう、知っているんでしょ?」

 鳥籠の中で小さな膝を抱え、拗ねたようにあっちを向いたまま、アマリリスが言った。

「えっ?」

「私が人間じゃないって」

 その言葉に、一瞬、俺は息が止まるような気がした。

 しかし、

「あ、ああ……。昨日、気がついた」

 ぎこちなく俺は頷いていた。

 この子に嘘やごまかしは通じない。そんな確信があった。

「怖くないの?」

 ゆっくり振り返り、格子越しに俺を見据えるアマリリスの青い瞳。

「ひょっとしたら、私が怪物と同じじゃないかって」

「もし、そうなら――」

 苦笑しながらも俺は即答する。

「俺はもう、とっくに死んでいる。そうだろ?」

 俺はふと、鳥籠の扉を見た。扉を閉ざしているのは錆び付いた、いかにも安物といった感じの錠前一つだった。これなら、何度か殴りつけるだけで壊せそうだ。

「ちょっと待ってな」

 そう言って、俺はリュックサックから取り出した警棒を握り締め直した。

「とにかく一緒に行こう。今、そこから出してやる」

「どうして、自分から来ちゃうのかなぁ……」

 錠前をガンガン殴り始めた俺にアマリリスが呆れたような溜息をつく。

「この世界にだけは絶対に来て欲しくなかったのに」

「……そりゃ、悪かったな」

 殴りつけた手が痺れるのに俺は顔を歪める。

「でも、仕方がないだろ? 俺達二人が助かるには、こうでもしなきゃ……」

「二人って、千夏のことも?」

 心底、驚いたように青い瞳を丸くするアマリリス。

「ねえ、歩。千夏のことも助けるつもりでいるの?」

「俺じゃ、役不足か?」

「それはどうか分からないけれど、」

 アマリリスは少し微笑み、急に悲しげな顔になって長い睫毛を伏せる。

 そして、今にも泣き出しそうな、小さな声でボソッと言った。

「酷い目にあったのは千夏のせいだって、歩、知っているんでしょう?」

「あ、ああ……」

 これも否定できない。渋々、俺は頷くしかない。

「だったら――、歩は千夏のことを嫌いになったんじゃないの?」

 静かに顔を上げ、アマリリスがまた俺に問いかける。

 その青い瞳には、痛々しいまでに悲痛な感情が揺れていた。

 金城の言う通り、やはり、この子は虚構なんかじゃない例え、姿形は借り物だったとしても、その存在は本物なのだ。

「正直、自分でもよく分からないんだよなぁ。そこんところ……」

 悩ましい溜息をつきながら、俺は答えていた。

「何よ、それ。はっきりしないなぁ」

 不服そうに唇を尖らせるアマリリス。「そんなの、歩らしくない」

「いや、迷惑だって思っている気持ちが大きいのも確かだ。この一週間、あいつの迷いの世界とやらに振り回されっぱなしだしな。それに――」

 そこで言葉を切り、背後に並ぶ、他の鳥籠を俺は振り返る。

 相変わらず、その中ではおぞましい姿の怪物どもがギチギチと蠢いていた。

「あんな連中が心の中に巣食っているなんて、やっぱ尋常じゃねえよって思う。けど――、だから嫌いになったかって聞かれても、そうだとは言えないんだよな」

「……どうして?」

「うーん」

 少し考え、俺は答えた。

「多分――、アマリリスがいたからだろうな」

「えっ?」

 金髪の少女の青い瞳が丸くなる。

「それ、どういうこと?」

「確かに、この迷いの世界はひどいところだけれど、怪物どもだけじゃなくアマリリスみたいな子が存在できるってことは――井原もまだ生きることに絶望しきってないってことだよな?」

「それは……」

「例えば――、こんな考え方もできる」

 顔を曇らせるアマリリスの言葉を遮るように、言いながら俺は警棒を振り上げ、ガンッと錠前を殴りつける。

「三年間、あいつは一人でずっと戦ってきたんだ。自分自身の迷いの世界と。……だとしたらすげえよ。俺なんか、一週間でアップアップだ」

 もう一撃、錠前を殴りつけると派手な音を立てて弾け飛んだ。

 金網の隙間から奈落の底に転がり落ちてしまったが、あんな物、惜しくもない。

「まあ、好きだの嫌いだのは別にしても、――もう一回ぐらい、会って話をしたって罰は当たらないだろ?」

 ペラペラ喋りながら俺は鳥籠の扉を開いた。

 そして、ヨロヨロと立ち上がるアマリリスに片手を差し伸べる。

「お互い、積もる話だらけだからな」

「しょうがないなぁ、もう」

 どこか呆れたような微笑を浮かべるアマリリス。

 差し出した俺の手にそっと触れながら言う。

「分かった。二人のことは最後まで面倒見てあげる。……その代わり、お互いにきちんと話をつけてよね」

 ……子供のクセによく言うぜ。

 この、マセガキめ、と苦笑いしながら俺はアマリリスを檻の中からエスコートしてやる。

 その途端だった。

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……

 重々しい地鳴りのような音が闇に木霊した。

 次の瞬間、悲鳴のような轟音がして、床全体が左右に激しく揺さぶられる。その衝撃で床板の金網が数枚、弾き飛ばされ、宙に舞った。

 地震か?

 咄嗟に俺はアマリリスを抱き寄せていた。怪物どもを閉じ込めていた、いくつもの鳥籠が横倒しになる。怒りとも恐怖ともつかない絶叫を張り上げ、おぞましいやつらがそこから這い出てくる。

「シャッフルだよ、歩……」

 緊張に表情を強張らせる俺の腕の中でアマリリスが言った。

「あいつら、しばらくここで育てられた後、それぞれに相応しい世界に送り込まれるの」

「何だって?」

 ますます轟音が激しくなってゆく。俺は大きな声で尋ねていた。

「それって、やっぱり井原の仕業なのか!?」

「あのね……」

 しかし、アマリリスの答えを聞くことはできなかった。

 一瞬、吐き気を催すような浮遊感がして俺達は足元の金網ごと、漆黒に塗りたくられた虚空に投げ出されていた。



「熱ッ……!」

 小さく叫んで、俺は手首を押さえた。

 そして、自分が建物の中のどこか――、あの闇の空間から一瞬にして、別の場所に移動していることに気がつく。

 最早、懐中電灯など無用だった。

 そこは炎に焙られ、嘗め尽くされ、凄まじい熱気を孕んだ長い廊下だった。

 火事だ。

 それも火の手が回ってから随分と時間が経過していそうな……。

 あちこちから健在が燃え弾ける音やガラス窓の割れる音、逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえてくる。空耳とは思えない生々しさがそこにあった。

「アマリリス!」

 チロチロと赤い舌を出して威嚇する、不定形の獣のような炎からジリジリと後退りしながら俺は大声を出していた。

「どこだ!? 返事をしてくれ!」

 しかし、俺に答えるものはいなかった。

 ここに飛ばされる途中、はぐれてしまったのか?

 絶望のあまり、パニックを起こしそうになる自分におれは必死で言い聞かせた。

 大丈夫、あの子なら絶対に大丈夫だ――

 あの子は、アマリリスは外見よりはるかにタフだ。

 それは俺の希望的観測じゃない。単なる事実だ。

 実際、あの子は負けていなかったじゃないか。怪物どもにも、迷いの世界にも。

「とにかく、ここから逃げ出さないと……」

 口元を押さえながら、俺は少しでも火の勢いが弱い場所を探した。

 このままグズグズしていたら、丸焼けになってしまう。それとも酸欠で倒れるのが先だろうか?

 そんなことを考えながら、赤く眩い光に目を細めた時だった。

 ガシャッ……

 聞き覚えのある、金属が擦れ合うような音が灼熱地獄に響いた。

 そして、逆巻く炎の向こうにゆらりと立つ巨大な人影。

「スローター……だっけ?」

 厳しい鎧を身に纏った死神を見上げながら、下顎にたまった汗を俺は拭った。

「やっぱり、お前もいたんだな」

 俺の言葉を肯定するかのように、鋼の重い音を軋ませ、死神が前に進み出てくる。

 結局、こいつは何者なんだろう、と早鐘のように心臓が高鳴るのを感じながら俺は考える。

 怪物どもの眷族であることは間違いない。

 しかし、こいつは怪物を殺す怪物だ。

 その刺々しく、攻撃的なデザインはひょっとしたら井原の怒りや憎しみのイメージなのかもしれない。

 今なお自らを苛み続ける、過去の記憶に対する反発心の擬人化なのかも知れない。

 だとしたら……

「うわっ!」

 緩慢な、しかし、どこか威厳のある動きでヤツが俺に片手を伸ばしてくる。

 巨体を包む血まみれの鎧は所々が焼け焦げブスブスと白い煙をあげていたが、やつは痛みを感じないのか、歯牙にもかけていない様子だった。

「ちょっと待て! 俺の話を聞け!」

 後退りながら俺は叫んだ。

 それに反応するかのように、死神の動きが止まる。

「お前の目的は分かっている! 井原がいるところに俺を連れて行きたいんだろ!?」

 こんな怪物に言葉が通じるかどうか、正直、俺は自信がなかった。

 しかし、半ば、ヤケクソになって俺は続ける。

「だったら望むところだ! 今すぐ、連れてけ! そのかわり、あの子も、アマリリスも一緒だ。今すぐ、アマリリスを……」

 ここに呼べ、と言い終わらないうちに怪物の手が俺の襟首をむんずと掴んだ。

 そして、まるで飼育小屋のウサギでも扱うかのように、俺の身体を宙に吊り上げ、ずしずしとどこかに歩いてゆこうとする。

「こら! 人の話、聞いてねーのか!」

 死に物狂いで俺は暴れた。警棒を振り回し、やつの髑髏そのままの顔、鎧に覆われた太い腕を滅多打ちにする。

「アマリリスも一緒だ、って言ってンだろうが!」

 しかし、やつには俺の攻撃など蚊に刺されたほどにも感じないらしい。

 鬱陶しそうに呻き、近くにあった部屋のドアを乱暴にもぎ取る。

「お、おい! やめろって! 無茶すんな!」

 抗議の声をあげて、やつの手から逃れようともがく。

 しかし、それも空しい抵抗だった。

 まるでゴミでも扱うかのように、俺はその部屋の中に放り投げられてしまう。真っ逆様になった俺を待っていたのは、滾るような闇を湛えた大穴。

「くそったれ! このガランドウの化け物!」

 世界が逆さまになるのを感じながら、穴の縁に悠然と立つ、怪物に向かって俺は悪態をつき中指を立てていた。

「覚えてろよ、てめえ! いつか絶対、この仕返しはしてやるからな――」

 捨て台詞も言い終わらないうちに、俺の身体は下へと吸い込まれる。



 下へ下へ下へ――

 世界の底へと俺は落ちて行く。

 スローモーション映像のようにゆっくりと。

 押し潰され、飲み込まれるような恐怖が込み上げ、俺は悲鳴にならない悲鳴をあげた。

 しかし、それに応える者は、いない。

 次第に闇が色濃くなってゆく中、どこからともなく蛍のように煌めく、いくつもの小さな光の玉がフラフラと纏わり着いてきた。

 くそ、新手の怪物か……!?

 恐慌状態に陥った俺が警棒を振り回すよりも早く、そのうちの一つが顔の前に肉薄してきた。思わず、俺は目を瞑ってしまう。焼き焦がされるような痛みを想像して。

 だが、そいつは俺に危害を加えたりはしなかった。

 幻のように俺の顔を通り抜けていくだけだった。

 しかし――

「…………!」

 俺は息を飲む。

 まるで俺自身の記憶であるかのように、心になだれ込んできた鮮明な映像に。

「――君に良き夢のご加護がありますように」

 そう言って優しく微笑んだのは、恐ろしく整った顔立ちの若い男だった。

 その周りで、何とも陰鬱な、呪文めいた歌を合唱しているのは黒いフードを頭からスッポリ被った薄気味の悪い連中……。

 薄気味悪いと言っても、そいつらは怪物じゃなかった。

 歴とした人間、ここの信者達だ。

 連中が取り囲んでいるのは、一台のストレッチャー。

 そして、その上に寝かされているのは、一人の小柄な女の子。

 まだ小学校を卒業するくらいの年頃の、井原千夏だ。薬物でも投与されているのか、ストレッチャーの上で彼女は朦朧としている様子だった。

 こいつら、一体、何をやってる……?

 やがて、不気味な合唱が終了した。

 一団のリーダーと思しき人物が周囲を見回し、朗らかに言った。

「それでは次の段階に移行しましょう」

 そう言って、そいつが取り出したのは――、オレンジ色の宝石かゼリーのような物体。それは見覚えのある、卵の形をしていた。

「あの、導師様……」

 小さく男に声をかけたのは、他の信者同様、頭からフードを被った中年の女だった。

 その顔に俺は見覚えがあった。

「娘で、本当にお役に立てるのですか? この子、昔から体が弱くて……」

「心配は無用です」

 導師様と呼ばれた男が即答する。

 その声を聞いて、俺はその男がまだ若い、俺とさほど歳が変わらない青年だと言うことに気がつく。

 その口調は穏やかだったが、有無を言わせぬ迫力があった。

 聞く者を暗示にかけてしまうような、ある種の危険な魅力を感じさせる声。

「肉体の強弱は関係ありません」

 フードの奥に顔を隠したまま、若い男が続ける。

「私に及ばないまでも、娘さんの向こう側と感応する力はとても強い。だからこそ、楽園を創造する使徒の一人に指名したのです。もっと、信じてあげてください」

「は、はい……」

 恐縮したように、女――井原の母親は、男に頭を下げていた。

 まるで相手が神であるかのような低姿勢だった。

「さて――」

 改まって男はストレッチャーの上の井原に向き直る。そして、手にした卵を井原の小さな唇にそっと押し付ける。

「デュカリ・デュケスの印形の力を以って、築き上げなさい。あなただけの楽園を」

「んっ……」

 やめろ!

 俺は全身が鳥肌立つのを感じ、そう叫んだ。

 そいつが、その卵モドキがもたらすのは楽園どころか、最低最悪の地獄じゃねえか!

 しかし、これは過去に起きたことだ。

 連中に俺の声など、聞こえるはずもない。

 こくんっ、と小さな音を立てて井原が卵を飲み込む。

 次の瞬間――、まどろんでいた彼女の瞳がカッと見開かれた。

 そこに宿るのは、激しい苦痛と絶望、それに恐怖。

 大きく開かれた口から、女の子のものとは思えない、惨たらしい悲鳴が迸る。

「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

「千夏……!」

 顔色を変えて、母親が近寄ろうとするがそれを男が遮る。

 フードに隠された口元にゾッとするほど醜い、悪鬼の笑みを浮かべて。

「導師様、娘が!」

「現世における苦しみは祝福と同じこと。心配は要りません」

 その時だった。厳重に閉ざされていたドアが乱暴に蹴り破られた。数人の男が棒や包丁、それに手製の火炎瓶などを手にズカズカと入り込んでくる。

「氷室京士郎! 貴様と言うやつは!」

 男達を率いていたのは、髭面の熊のような大男だった。

 先端に炎が揺らめく棒を若い男に突きつけて、大音声に叫ぶ。

「そんな子供まで……! ペテン師どころか悪魔に人を売り捌く異常者だ、貴様は!」

「おやおや、鷲尾さん。ずいぶんと酷い言われようですね」

 苦笑しながら若い男――氷室が肩を竦める。

「芸能人のスキャンダルばかり扱ってきたゴシップ専門の記者さんが潜り込んだカルト教団で正義の魂にでも目覚めたのですか? 神をたばかるような邪悪な行いを目の前にして? ……懲罰房に閉じ込めておいた連中を抱きかかるとは、ハリウッド映画も真っ青な痛快逆転劇ですね」

 その声には完全に格下の者を見下した時のような、暗い愉悦が感じられた。

「だ、黙れ!」

 激昂する髭面の男。

「馬鹿げた儀式はすぐに中止しろ! さもないと、ここに火をつけるぞ!」

「どうぞ、ご自由に。どうせ、近々、引き払う予定でしたからね」

 事も無げに男は言った。

 その言葉にギョッとしたのは、闖入者達だけではなかった。

 自分達の師を守るように、その前に立ち塞がっていた信者達も驚愕に顔を歪め振り返っている。

「ここでの仕事はあらかた、片付きましたから。何なら、あなた達に差し上げますよ。この教会も土地も一切合財ね」

 そう言うが早いか――、男は井原の眠るストレッチャーを思いっきり蹴り飛ばした。

 勢いよく横滑りしたそれを避け損ね、うおっ、と野太い声をあげて髭面の男は手にした松明を取り落とす。

 あらかじめ、床には発火剤でも振りまかれていたらしい。

 パッと火の手が上がり――、あっと声をあげる間もなく、それは礼拝堂全体に広がってゆく。

「氷室!」

「導師様!」

 沸騰する憎悪と縋りつくような哀れっぽい声が交差する。

 しかし、氷室はどちらにも答えなかった。口元にあの醜い笑みを湛えながら、素早く身を翻し、近くにあったドアから逃げ去ってゆく。

「お、追いかけろ!」

 松明を拾い上げ、髭面の男が叫んだ。

 その声にはまじりっけなしの恐怖があった。

「あいつだけは生かしておけん! ここでケリをつけるんだ!」

 怒号のような叫び声を張り上げながら、先を争うようにして、人々は氷室の後を追いかけて行った。

 そして――、燃え盛る礼拝堂には井原が取り残された。

 彼女の母親ですら、そこには残っていなかった。庇護する者一人いない、孤独を無意識に感じ取ったのか、井原はその胸を掻き毟った。

「怖い、怖いよ……」

 華奢な身体を小刻みに震わせながら、呻く井原。固く閉ざされた瞳から頬を伝って流れ落ちる涙は、炎に赤く照らされ、血のように見えた。

 と――

 炎に嘗め尽くされたシャンデリアが大きく揺らいだ。

「危ないっ! 起きろ! 起きろ、井原!」

 思わず、俺は声をあげていた。

 しかし、それも空しく、甲高い悲鳴のような音を立てて、シャンデリアが落ちる。井原の上に……!


 痛い!

 お母さん!

 お父さん!

 誰か――お願いだから、誰か助けて!


 血も凍るような、絶叫に答える者はいない。

 巨大な物に押し乗られ、炎に身を焙られる彼女の恐怖が、まるで弾丸を撃ち込むかのように、刺々しく俺の心に突き刺さる。

「やめろ! やめてくれぇ!」

 為す術もなく、俺は泣き叫び、のた打ち回った。

 これこそが正に地獄、苦痛だった。今まで、俺が引きずり込まれた迷いの世界など、この苦痛に比べれば楽しい遊園地にしか思えなかった。

 いつしか、遠くから聞こえてくる井原のすすり泣く声にあわせるようにして、俺もすすり泣いていた。

 泣きじゃくりながらも、自分の身体が地面についていることに気がつく。

 全身を苛んでいた、あの激痛はもう消えていた。

 大きく息を吸い込んで俺は自らを落ち着かせ――、それからゆっくりと立ち上がった。

 渾身の力を込め、歯を食いしばって。

「なるほど、ここが世界のどん底か……」

 低く呻きながら、俺はゆっくりと周囲を見回していた。

 ありとあらゆる色を混ぜ合わせて、乱雑に塗りたくったような低く重い空。

 輝く太陽のかわりにぽっかり穿たれた大穴。何やら、薄気味悪いうめき声が木霊してくるそこから俺はこの世界に投げ落とされたらしい。

 また、チェス盤のように白と黒のタイルで敷き詰められた地面は円形に切り取られており、その縁から向こう側には何も存在していなかった。

 光は勿論、闇すらも見えない。

 ただ、無色透明の「無」だけがそこに押し寄せているだけだった。

 なるほど、ここが迷いの世界の最底辺。

 悪夢の震源地と言うわけか。

 そして――

「こいつは……」

 それを見上げながら感嘆の声をあげる。

 壮麗な銀細工が施された、巨大な台座にまるでこの世界の支配者であるかのように飾られていたのは家ほどの大きさもある卵だった。

 その茶色い殻にはベットリとした血糊がこびり付き、まるで血液パックのように何百万本というチューブがその底部に突き刺さっている。そのチューブは地面に潜り込み、その先が見えなかった。

 しかし、俺には思い当たることがあった。

 さっきアマリリスを助け出した、動物園ならぬ怪物園。

 鳥籠の中で、やつらが夢中になって啜り上げていた餌は、確か――

「おいっ、井原っ! 井原千夏ッ!」

 不安に胸の奥がザワザワしてくる。

 それを追い払うように、口元に両手を当て俺は叫び続けた。

「俺だよ、俺! 六道歩! お前、いるんだろ!? 聞こえてるんだろ!? 見えてるんだろ!? こっちからわざわざ来たんだ! 何か、返事してくれ!」

 張り上げた俺の声は、しばらくの間、この孤立した小さな世界にわんわんと木霊していた。

 だが、それもほんの数秒のこと。

 やがてそれは外側に広がる、虚無に吸い込まれ、次第に小さく消失してしまう。

「…………」

 辛抱強く、俺は待つことにした。

 異変の発生――つまり、この世界の主から何らかの合図が送られてくるのを。

 俺は確信していた。井原は、俺の侵入に気がついている。先程からずっと続いている、誰かにジッと見られているような感覚……。

 しかし――

「…………」

 十数分、経過しても何も起きなかった。

 ダンマリかよ……!

 焦りを覚えるのと同時に俺は苛立っていた。

 わざわざこっちから出向いてやったというのに。

 ひょっとして照れているのか?

 仕方なく、俺は辺りを調べ始めた。何か、少しでも、井原の意思を感じ取れるものがあるのではないか、と思って。

 と言っても、ここは半径百メートルもあるかないかの狭い世界だ。

 さして時間もかからないうちに、全てを見回すことができた。

 となると――

 やはり、気になるのは中央に据えられた、巨大な卵だった。

「それにしても、こいつは一体、何なんだ……?」

 恐る恐る、卵を見上げながら俺は呟く。今までのことから、迷いの世界や怪物どもと深い関わりがあるのは間違いない。夢神教会のシンボルでもあったようだ。

 そして、井原が飲み込んだあの物質。あれもこれと何らかの関係があるに違いない。

 この場にアマリリスがいないことが歯がゆかった。彼女なら何か知っていたのかも知れないのに……。

 その時、俺はふと思い出していた。

 リュックに放り込んだままにしておいた手鏡……。

 金城に借り受けた魔除けの鏡だ。


 ――映せばいいの。六道君や他のいろいろなものを。


 脳裏に金城の言葉が蘇る。

 背中を叩かれたような気がして、俺は慌ててそれを取り出していた。

「…………」

 息を殺しながら、俺は手鏡を卵に向ける。

 そして、そっと鏡面を覗き込んで、

「あっ!?」

 思わず、俺は声をあげていた。危うく、手鏡を取り落としそうになる。

 鏡面に映し出されたのは、X線を照射したような卵の断面図だった。現実のものと違い、そこにつまっていたのは卵白や卵黄ではなかった。蛆がわくような、腐肉と腐汁のドロッとしたごった煮。

 その赤黒いスープの中で彼女――井原千夏は浮かんでいた。

 まるで胎児のように、身を屈め、膝を抱きかかえるようにして。

「ま、待ってろ、井原……」

 再び警棒を手に握り締めながら俺は言った。

 今から俺のなすべきことは、やるべきことは――、たった一つ。

「今すぐ、そんなところから出してやるからな」

 卵を殴りつけてやろうと、俺は銀の台座をよじ登ろうとした。

 しかし、その時だった。

 ゴォーン……!

 地鳴りのような轟音が響き渡り、ぐらぐらと足元が揺らいだ。

 振り返り、

「……嘘だろ?」

 かすれる声で俺は呻いていた。

 虚空から振り降り、この世界に覆いかぶさってきたもの。それは巨大な鉄骨を編んで拵えられた格子だった。その形状に俺は見覚えがあった。

「鳥籠だ……!?」

 愕然としながらも、俺は悟った。この世界は、巨大な鳥籠なのだ。考えるまでもないことだが、鳥籠とは、主に鳥類を飼育するためのものだ。

 と、言うことは……!

 けぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ……!

 怒りに満ちた異形の絶叫が、俺の耳朶を震わす。

 俺は振り返り、そして、見た。

 台座の上に置かれた巨大な卵が孵化をはじめ、その中からおぞましい者が生まれ出ようとしているのを。

 卵の右側面の殻を押し破り、ジュルリジュルリと粘液を撒き散らしながら出てきたのは蛸のような軟体動物を思わせる巨大な触手だった。そして、正面の殻が僅かに剥がれ――そこから覗いたのは、日の光など一度も浴びた事のないような青白い女の顔。

 それはどことなく、井原の面影を感じさせて……。

 この世ならざる者が、井原の姿を真似ようとしているということに直感的に気がつき、俺は強烈な吐き気を覚える。

 正しく、そいつは穢れの塊だった。

「こいつか……!」

 三年間もの間、井原を悪夢に縛り付けていたのはこいつだったのだ。いや、それだけじゃない。井原の孤独に付け込んで、俺を引きずり込み殺そうとしたのもこいつだ。

 目を反らしたい嫌悪感に耐え、俺は歯軋りしていた。そして、込み上げる恐怖心を怒りで塗りつぶそうと試みる。アマリリスに習って、こいつに名前を付けてやる。

 ナナシ、だ。

 こいつだけは絶対に怖がってはやらない……!

「おい、こら! ナナシの怪物!」

 恨めしそうな、どんよりと澱んだ眼差しを払いのけようと俺は声を荒らげていた。

「井原をどこに隠した!」


 デュカリ・デュケス――

 人の子の邪夢を喰らいこの世を喰らう、獣を孕み育む者なり。


 俺の耳元で、男とも女ともつかない、芝居じみた声がそう囁いた。

 それが幻聴かどうか、確かめている暇はない。

 孵化しかけたグロテスクな怪物の触手がウネウネとくねりながら目の前に迫っていた。

「キモイんだよッ!」

 怖気を振るい落とすように激昂し、俺はそれを警棒で殴りつける。

 バチィッ!

 青白い火花が散った。表面を微かに焦がして、触手が怯む。その隙を逃さず、俺はやつに捕まらない位置まで、死に物狂いで逃げる。

「畜生、厄介だな……」

 鉄格子に背中を押し付け、俺は呻いた。

 一方、本体と言っていいのか分からないが、殻に覆われた大きな女の顔は平然とした様子で俺を睨みつけていた。

 触手とは痛覚が分散しているのか?

 しかし、そこであることに気がつく。

 怪物――ナナシのやつ、台座の上から動こうとしない。せっかく、卵から孵れたのに、身体の大部分を殻で覆ったままと言うのも奇妙だ。怪物の気持ちは分からないが、俺だったらあんな中途半端な姿、我慢できないだろう。

 ……中途半端?

「そうか」

 俺は悟った。

 やつは台座の上を動かないんじゃない、動けないのだ。

 俺という外敵の侵入を察知し、迎え撃とうと羽化を急いだはいいが、成長が不完全だったと言うわけだ。そして、やつの直接のエネルギー源になっているのは、間違いなく井原千夏。

 やつの中から井原を引きずり出してやれば、或いは……!

 俺は覚悟を決めた。

 何が何でも、この怪物をぶっ殺し、井原を目覚めさせて現実に戻る。

 俺は手鏡を目の前に翳し――、雄叫びをあげてナナシに突進を開始した。

 鏡の力に恐れをなしたのか、ぎゃあ、と化鳥のような耳障りな悲鳴が女の口から迸る。

 それに命じられたかのように触手が俺に向かって飛んだ。

 予想していた動きだ。身体を前転させ、俺は触手を避けた。

 そして、そのまま勢いよく側転。計算通りだった。凄まじい、般若のような形相で威嚇する、大きな女の顔が起き上がった俺の目と鼻の先にあった。

「くだばれっ!」

 叫びながら、俺は警棒を女の顔に突き出す。渾身の力を込めて。

 棒の先端が、狂った魚のように見開かれた瞳の真ん中に突き刺さった。

 やった! 一発、食らわせてやった!

 生温かい返り血を浴びながら、思わず俺は顔を綻ばせていた。

 しかし、喜ぶのはまだ早かった。

「がっ……!?」

 顔の真ん中をしたたかに殴られ、俺は身体をのけぞらせた。

 回避したはずの触手にやられたのかと思ったが、違った。女の耳元まで裂けた口から、ベロッと飛び出した黒い大蛇のような太く長い舌。あれにぶん殴られてしまったらしい。

 くそ、油断した……!

 ダラダラと溢れ出した鼻血を片手で押さえながら、俺は鏡を手に取ろうとした。

 だが――、自分の失敗に気がつき、俺は絶望に青ざめる。殴り飛ばされた衝撃で、手鏡は砕け散り、その破片が地面に散らばっていた。

「おい、これ……! 借り物なんだぞ!?」

 すっかり俺は気が動転していた。相手が怪物だと言うことも忘れ、こぶしを振り回して抗議の悲鳴をあげる。

 ナナシは、そんな俺を、耳障りな声でギャハハと嘲笑いやがった。

 そして、触手を使い、片目に突き立った警棒を引き抜き――、それを鉄格子の向こうに投げ捨ててしまう。

 おいおい、一気に絶体絶命だな……。

 絶望的な想いとは裏腹に俺は薄笑いを浮かべていた。

 そうでもしなければ、泣き出してしまいそうだった。俺は手探りし、地面に落ちた鏡の破片を一つ拾い上げる。相手が何であれ、抵抗もせずに殺されるなんて真っ平だ。

 俺はコンバット・ナイフのように鏡の破片を構えた。

 と、その時だった。

「――待たせてゴメンね、歩」

 快活な少女の声がすぐ近くから聞こえてきた。

 アマリリス……?

 驚き、俺は周囲を見回す。

「ここ、ここだってば!」

 声が聞こえたのは、俺の持つ破片からだった。

「アマ、リリス…………!?」

「もう、こんな凄い道具を持っているなら早く教えてよね」

 そう言って、軽く腕を組んだのは間違いなく、アマリリスだった。

 彼女は俺の手の中――割れたガラスの破片の中にいた。

「お、お前……! 何で、そんなところにいるんだよ!」

「うん、歩のところに行こうとしたら、ちょっとフライングしちゃった。きゃは♪」

 驚き目を向く俺にアマリリスは照れたようにペロッと舌を出して見せた。

 ちょっとフライングって何だよ……?

 そう俺が食い下がろうとした時だった。ペキペキ、と殻が割れる音が聞こえた。見るとナナシの左側から、もう一本、触手が伸び出てくるところだった。

「聞いて、歩」

 真剣な顔になって、鏡の中のアマリリスが言った。

「あいつは私が何とかするから。歩はその間に千夏を起こしてあげて」

「何とかって、どうするんだよ?」

 羽化を進める怪物をチラチラ気にしながら俺は尋ねていた。

「お前、そんなところにいて……」

「投げつけて」

「あ?」

「この手鏡をわたしごとあいつに投げつけるの。わたしならこの鏡の力を引き出せる」

「で、でも、そんなことしたらお前は」

 どうなるんだよ、と言いかけた時――

 二本になった触手がビチビチ跳ねながら俺に襲い掛かってきた。

「くっ……」

 下唇をかんで、俺は後退する。武器を失った今、悔しいが逃げ惑うしかない。

 そのことはヤツも理解しているらしい。結局、俺は取るに足らない敵だと判断したのだろう。さっさと絞め殺せばいいものを、逃げる俺の足を打ち据えたり、背中を突き飛ばしたりと、まるで鼠を弄ぶ猫だ。

「ほら、歩。このままじゃ、殺されちゃうよ!」

 鏡の中でアマリリスが懇願するように言った。

「わたしは大丈夫だから。あの子が――千夏が生きている限り、ずっと一緒にいるんだから」

「アマリリス、お前……」

 俺はアマリリスを見つめた。

 鏡の破片の中でアマリリスも俺を見つめていた。

 二人の間に短い沈黙があった。

 そして、俺は言った。

「――悪い。任せる」

 そして、振り向きざまに破片を投げつける。

 台座の上に居座り続ける、醜悪な怪物目掛けて。

 しかし、それがヤツに突き刺さる直前――、またしても女の口からどす黒い舌が繰り出され、無残に砕かれていた。

「アマリリス!」

 耐え切れず、俺が叫び声をあげた時だった。

 不可解な現象がそこに発生した。打ち砕かれ、小石のようになった破片の一粒一粒……。それらは宙に浮かんだまま、ビデオの停止ボタンを押したかのように、そのまま止まっていた。かすかに青白い光を放ちながら。

 次の瞬間――、一際強い光線が一粒の破片からほとばしった。

 それは台座の上の怪物の身体を射抜き、その背後に浮かんでいた破片を照らしつける。それに反射され、更に強くなった光は別の破片へと飛ぶ。

「…………!」

 固唾を呑んで、俺はそれを見守るしかなかった。

 いつしか、俺の目の前で怪物は光線の織り成す籠の中にその身を押し込まれてゆく。

 女の顔が苦しげに歪み、その口が驚くほど大きく開かれた。そこには、最早、馴れっこになった闇がどこまでも広がっていて……。

「歩、今だよ……!」

 俺を勇気付けるようなアマリリスの声が聞こえた。

「飛び込んで!」

「こ、この中にかよ!」

 顔を引き攣らせながらも、俺は台座によじ登っていた。

 そして、全く気乗りはしなかったが――、

「南無参!」

 絶叫しながら、俺は怪物の口の中に両手を突っ込みまさぐる。

 そして、その中で眠りこけているはずの友達を探す。

「井原ぁ……! もう、いい加減、悪夢にも飽きただろ?」

 懇願するようにそう言いながら、凄まじい悪臭に俺は気が遠くなってゆく。



「――どうして、六道君はそんなに頑張れるの?」

「へっ?」

 張り詰めた声に名前を呼ばれ、俺は顔を上げた。

 そこは小学校――6年2組の教室だった。

 夕暮れ時らしい。

 カーテンが開け放たれた窓の向こうに見えるのは、空にとろける大きな夕陽。

 それ以外には何もない。

「ゴメンね、迷惑かけちゃって」

 窓際の席に座り、キュッキュッと音を立てて、机の上を一心不乱に拭いているのは一人の少女だった。逆光で、その華奢な輪郭ははっきりと見えるものの、その顔は影になってうっすらとしか見えない。

「井原、なのか……?」

 ゆっくりと俺は彼女に近づいていった。

 そして、彼女が拭き続けている机の上を覗き込んだ。

 そこにはどす黒い染みが広がっていた。そして、その中でアップアップともがいているのは、形すらもままならない、蠢く粘土のような小さな怪物達だった。

「この子達ね、いくら拭いてもいなくならないの」

 言葉を失う俺に、少女は寂しげに言った。疲れ果てたような口調だった。

「……でもね、最初は違ったんだよ? 生まれてきてよかったって思えることばっかりで。毎日毎日が楽しくて。神様は本当にいて、私を守ってくれている――そんなふうに思っていたの」

「…………」

「だけど、本当は違った――」

 そう言って、少女は机を拭く手を止めた。

 次の瞬間――ザザッと音を立てて、机の上の黒い染みが、まるでそれ自体に生命があるかのように黒板に移動した。そして、ジリジリと腐食するような音を立てて、広がってゆく。

「……ね? 最悪でしょ?」

 自嘲するように少女は笑い、席から立ち上がった。ゆっくりと黒板の前に移動し、再び染み拭きを始める。

 しばらくの間――

 キュッキュッと言う、彼女が黒板を拭う音だけが教室に響いていた。

「……なあ、井原」

 近くの椅子に腰を降ろし、俺は少女に語りかけていた。

「お前さ、いつまでそうしてるワケ? まさか、死ぬまでとか言うつもりじゃないよな?」

「そうよ。私はここで死ぬの」

 振り返りもせず、少女が答える。その声は微かに震えていた。

「この子達のこと、放っておけないもの」

「……この子達なんて言うな」

 俺も思わず、声が苦くなる。

「そいつらの存在について、お前が罪悪感を持ったり、変な親近感を持っているなら――お門違いも甚だしいぜ? お前は、そいつらを自分で生み出したつもりなのかもしれないけれど、そいつらは違う。外から入り込んできただけだ」

 正直、自分でも何を言っているのかよく分からない。だが、絶対に間違っていないという自信があった。

「じゃあ――」

 少女が黒板を拭く手を止めた。

「六道君はわたしにどうしろって言うの?」

 やれやれ、やっと本題に入ったよ……。

「もう、放っておけよ」

 溜息をつき、出来るだけ軽い口調で俺は言った。

「確かに世の中って、嫌なことだらけだし、思い通りになる事のほうがすくねえし、ムカつくやつらはなかなかくたばらないわで、ストレス溜まりっぱなしだけどさ。過ぎちまったことをいつまでもリフレインして、自分を苛めたって仕方ないだろ?」

「…………」

 少女は黙っていた。しかし、聞き流している感じでもない。

 思い切って俺は続けた。

「だからさ、もっと気楽に生きるよう努力しようぜ? な?」

「……そんなこと、私には無理だよ」

 水に落ちたように、少女の声が沈んだ。

「六道君にはできるって言うの?」

 おっと、そう来たか……。

 思わぬ返しに、俺は少し考え、そして答えた。

「無理だね」

「何、それ」

 少女の声が鋭くなる。

「私のことを馬鹿にしているのなら――」

「そ、そうじゃねえよ」

 険悪な雰囲気になる前に俺は慌てて言った。

「誰でも生きてりゃ迷いの世界の一つや二つ、抱えるようになるって。それでも、みんながみんな、自殺したりしないのは――それなりに戦う方法があるってことだろ?」

「…………」

「俺はそいつを探したい。見つかるのは、いつになるか分からないけどな」

 そこまで言って俺は言葉を止め、少女の背中を真っ直ぐに見た。

「なあ、井原。こんなふうに再会したのも、何かの縁だろ? お前さえ良けりゃ、一緒に俺と――」

「やめてよ!」

 俺の言葉を遮り、少女が叫んだ。

「私はもう、怖いの! 現実なんて、もう沢山なの! あんな怖いところに帰るなら、ここで怪物達に食べられたほうがまだマシだわ……!」

 その悲痛な声は俺の胸に突き刺さり、キリキリと痛んだ。

 それは偽らざる井原の本音だったのだろう。

 一瞬、俺は自分が、とんでもなく傲慢なことをやらかそうとしているのではないか、と不安になる。このまま、孤独で憂鬱だが、何もない世界にいることが彼女の幸せなのだとしたら……。

 ふと、その時、脳裏に蘇ってきたのはアマリリスだった。

 何度も俺を生命の危機と絶望の淵から救い出してくれた少女……。

 くそ、ふざけんなよ、俺。自分で自分の顔面を殴ってやりたい気分だった。今こそ、あの子に恩を返す時じゃねえか。

「私のことはもう放っておいて」

「ああ、そうかよ……」

 あえて不機嫌に言うと、俺は立ち上がった。そして、足取り荒く、窓のほうへと歩いてゆく。

「六道君……?」

 訝しげに声をかけてくる少女。

「何、してるの?」

 しかし、俺はそれを無視し、大きく窓を開け放った。

 そして――

「おぉおおいっ!」

 声を威枯らせて、叫ぶ。

「俺はここにいるぞ! お前らの大切なご主人様と一緒だ! 来れるもんなら来てみやがれ!」

「六道君! やめて!」

 黒板の前に立ちつくした少女が殆ど悲鳴のような声で俺を制止しようとする。

「一体、何を考えているの!? そんなことをしたら怪物達が……」

「いいんだ。俺はこれから自殺するんだから」

 シレッとして俺は言い放った。

「誘いを振られた傷心のせいでな」

「なっ……!?」

 少女が絶句した時、気持ちのいい夕陽に満ちていた教室が暗くなってゆく。

 そして、何処からか聞こえてくる、何かが押し寄せてくる地鳴りのような轟音も。

 しっかりしろよ、六道歩。死ぬか生きるか。ここからが正念場だ。

 自分にそう言い聞かせ、俺は拳を握り締めた。

 掌にはジンワリ、冷や汗が滲んでいた。

「早く! 早く帰ってよ、六道君!」

 そう叫んだ少女の声は悲鳴に近かった。

「もうすぐ、あいつらがここに来るわ! だから、早く、現実の世界に!」

「無理だね」

 岩のような頑なさで俺は拒否した。

「俺だって、怖いんだ。世の中、思い通りにならないことだらけだしな。……考えてみりゃ、井原の言う通り、死んだほうが楽だわ」

「死ぬなんて、私、そんなこと――」

「同じことだろ」

 冷酷に言って、俺は首を振った。

「一生、こんなところに閉じこもるなんてよ」

 その頃には、完全なる闇が俺達の元を訪れ、窓の向こう側も教室も真っ黒に塗りつぶしていた。そして、聞こえてくる異形の咆哮。そいつが何を言っているのか、分からなかったが、俺を探しているのは明らかだった。

「来たな……」

 懐中電灯の明かりをつけ、俺は教室のドアに視線を向ける。

「俺も後、数秒の命か」

「いい加減にしてよ!」

 バン、と荒々しく少女が机の上を立てた。

「六道君、一体、何がしたいの?」

「だから、ずっと言ってるだろ」

 拗ねたように俺は答えた。

「俺はお前と一緒に現実に帰りたい。だけど、お前に拒絶されたから、ここで面当てに死んでやるんだ」

 そう言ってから、俺は照れたように付け加えた。

「でもな、できたら助けてくれると嬉しい」

「…………!」

 闇の中で少女の肩が震えたのは怒りのせいだろうか。

 ひょっとしたら笑っていたのかもしれない。

 そんな愚にもつかないことを考えた時だった。

 バンッと音を立てて、ドアが弾け飛んだ。ゼェゼェと息を切らして、四つん這いの、犬に似た怪物が入り込んでくる。ただし、その顔はその辺にいそうな、冴えない中年男の顔だ。綺麗にセットされたバーコード頭が実に哀しい。

「やあ、お、おめでとう」

 怪物に向かって俺は精一杯おどけて見せた。声が震えたのはご愛嬌だ。

 こんなやつら、もう、怖くもなんともない……!

「お前が一等賞だ」

 一体、何の因果でこんなことを、と思わなくはない。

 しかし、これは自分で決めたことだ。結果はどうであれ、受け止めるしかない。

 とは言え――クアッ、とオッサンの薄い唇が捲りあがり、気分が悪くなるような牙が見えるとやはり腰が引けた。

 ゆっくりと怪物は俺に歩み寄ってくる。

 俺は目閉じて運命の時を待つ。

 そして――

「やめてええええっ!」

 少女の、井原千夏の血を吐くような絶叫が響いた。

 そして、視界の隅で爆発する眩い光。



 バラバラと雨のように、黄緑色の血が巻き散らかされる。

 誰かに身体を抱き上げられる感じがして、俺はゆっくりと瞳を開く。

「…………!?」

 思わず、俺は絶叫しそうになった。

 俺を抱きかかえ、鉄格子に覆われた上空を飛び上がったのは、あの忌まわしい鎧の死神スローターだった。その手には、ベットリと血に汚れた槍が握られている。

「うわ、何でお前が……?」

 上擦った声で質問し――、俺は下を見る。

 丁度、縦に両断されたナナシが、左右に分かれながらズルズルと台座から滑り落ちてゆくところだった。

「って、ことは……?」

 もう一度、俺はスローターを振り返った。いつの間にか、その顔を覆っていた髑髏の仮面は消え失せていた。

「井原……?」

 呟き、思わず首を傾げた時だった。

 鳥籠の世界の天蓋が弾け飛び、優しく清々しい光が差し込む。それは麻薬のように俺を酷く幸せな気分に浸した。

「きゃは、歩。大成功だったね♪」

 意識が遠のく寸前、どこかでアマリリスの弾んだ声を聞いたような気がした。

 ……どうやら俺は賭けに勝った様だった。


■4■


「――あ、それと一つ、言い忘れていたわ」

 ゆっくりと目を開けた俺に金城が言った。

「この間、貸した手鏡。歴史的にも価値のある物だから、壊したりしないでね。どんなに安く見積もっても、4000万円は下らない品だから」

「……あの」

「あら?」

 少し金城が首を傾げた。

 驚いたことに、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。

 何だ、この女、笑うのか……?

 想像以上に綺麗なその笑顔に俺は思わずドキッとしてしまう。

 そんな俺の内心を知って知らずか、金城は言った。

「ひょっとして、もう帰ってきたの? 早かったのね……。と言っても、こっちと向こう側じゃ時間の流れが違うけれど」

 再び、俺は商店街のタバコ屋の前に立っていた。

 店番の婆さんが胡散臭そうな目つきで俺達を見ているところまで元のまんまだ。

 何とか、生還できた……らしい。

 ヘナヘナと俺はその場に座り込んでいた。

「怪我は?」と金城。

「怪我はしていないの?」

「あ、それは大丈夫」

 彼女を見上げながら俺は軽く手を振った。まだズキズキと痛むが鼻血は既に止まっていた。後でコンビニでも行って氷を貰って冷やしておこう。

 そんなことよりも……

「金城さん、俺、ちょっと話が」

「あんたら、さっきから何をしとるんかね?」

 言いかけた俺をさえぎるようにして、話しかけてきたのは店番の婆さんだった。

「この辺でおかしなこと、せんといてよ?」

「大丈夫です。もう、全部終りましたから」と金城。

「ええ、そうです」俺も適当に相槌を打つ。

 首を振りながら婆さんは店の奥に引っ込んでいった。

「金城さん」

 俺は言った。

「言われた通りにしてきたけれど……これで、俺達、助かるのかな?」

「ええ、今日のところはね」

 頷き、金城が言う。

「今回の事件自体がトラウマになっているから、多少の後遺症は残るかも知れないけれど、大した影響力はないはずだわ」

 本当かよ……?

 早くも俺は不安になってきた。しかし、その前に俺は一つ、彼女に言っておかねばならないことがあった。

「それと、金城さん……」

「何?」

「さっきも話に出たんだけど。この間、貸してくれた手鏡」

「ああ、あれ。あれがどうしたの?」

「その、なんて言うか、今、いろいろあって――」

 俺はおずおずと上着のポケットに入っていた、鏡の破片を取り出して言った。

「割っちゃったんだよね……」

 てへっ、と俺は可愛く舌を出してみた。

 舞台にカーテンが引かれていくように、金城の顔からあらゆる表情が消滅していった。

 一瞬、地球上の全てから音と言う音が消える錯覚を覚える。


 ――そして、俺の新たなる恐怖が始まったのだった。


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