■第三幕 木曜日 ~noisy goblins of schoolhouse~

■1■


「ええ、ええ。……そうなんですよ」

 受話器を片耳に押し当てながら、出来るだけ明るい声で俺は言った。

「今度、俺、映像関係の専門学校に進もうと考えていまして――、入学審査のための作品作りをしなきゃいけないんだけど、自分史みたいな感じでセルフポートレートをやってみたいなって思ってるんですよね」

 切羽詰まると人間、意外な行動を起こしたり、自分でも気がつかなかった能力を発揮すると言う。どうやら、それは真実らしい。

 例えば、今の俺がそれだ。自分でも驚くほど冷静に、電話の相手――小学校六年生の時の担任教師に向かってペラペラと嘘八百を並べ立てている。普段、口下手な俺とは思えぬ饒舌さだった。

「それで、申し訳ないんですけれど、各教室を取材する許可を頂けたら、って思いまして。ええ、それはもちろん。やだなぁ、そんなことないッスよ」

 じゃあ、後ほど――

 そう言って、受話器をフックに戻した。

 短い沈黙の後、

「ふう……」

 俯き、瞑目しながら俺は深い溜息をつく。

 これで井原千夏について、いろいろと探る糸口はできた。

 我ながら、随分と回りくどいやり方だな、とは思う。

 だが、小学校を卒業して三年以上にもなる。いくら元同級生とは言え、学校側がプライペートな情報を電話口で教えてくれるとは思えない。適当に会話し、昔を思い出して、互いに打ち解けてきた頃合を見て、それとなく探りを入れてみるしかない。

 実際のところ――、井原千夏に関する俺の記憶は穴だらけだ。

 しかし、当時の井原は大人しく、表情に陰があったものの、絵を描くのが好きな普通の女の子だったはずだ。少なくとも、迷いの世界などと言う、怪現象を引き起こすパワーなど持っていたわけがない。

 それに……あんな酷い目に合わされるほど、自分が井原に恨まれているとは、どうしても思えなかった。

「じゃあ、そろそろ行くか」

 俺は足元に置いてあった、岩のように重いリュックサックを背負い、そのまま玄関に向かおうとした。

「……歩? また、どこかに出かけるのか?」

 背後から、爺ちゃんの声に呼び止められる。

 それを無視するわけにもいかず、気まずさに口元を歪めながら俺は振り返った。

「そろそろ、フリースクールのほうに出かけんでもええのか?」

「ん? ま、まあね……」

 心配そうに問いかける爺ちゃんに俺は曖昧に頷く。

 嘘だった。

 本当は午前中に二単元、夕方に一単元、受けなくてはいけない講義がある。だが、今はノンビリと勉強などしている場合ではない。

 とは言え、爺ちゃんを騙すのは、やはり、心苦しかった。

「なぁ、歩。怒らずに聞いて欲しいんだが――」少し躊躇う様子を見せながら、爺ちゃんが言った。

「最近、お前、何か悩み事を抱えとるんじゃないのか?」

 ドキッ、と鼓動が跳ね上がるのを感じた。

 まさか、爺ちゃんは俺の身に異変が起きていることを薄々気がついているのか?

 そんな俺の顔をジッと見つめながら爺ちゃんが続ける。

「昔から、お前は辛いことがあってもグッと自分の中で抱え込む子だったからなぁ」

「…………」

「爺ちゃんは歩が弱いとはちっとも思っとらんよ。それでもな、しんどいことはあまり溜め込むモンじゃない。身体に毒だ。爺ちゃんみたいに長生きできんぞ?」

 寂しげに微笑む爺ちゃんから思わず俺は目を逸らしていた。

 ……どうしよう?

 優しい視線を爺ちゃんに投げかけられながら、俺は迷っていた。

 いっそのこと、爺ちゃんには話してしまおうか。そうしておけば、万が一、迷いの世界の中で俺が死んでも、必要以上に周囲を混乱させずにすむかもしれない。

 いや、ダメだ。俺は小さく首を振っていた。

 何、弱気なことを考えているんだ、俺は。

 死んでも、だなんて戦う前から負けた時のことを考えてどうする?

 爺ちゃんのためにも、俺が取るべき道はただ一つ。誰にも気が付かれないうちにこの問題を解決し、何事もなかったかのような顔で日常生活に帰還するのだ。

「今日は小学校で同窓会があってさ」

 かすかに裏返った声で俺は言った。

「久しぶりに会える友達もいるから、顔出しぐらいしとうこうと思って」

 またしてもデタラメ。即席でよく出てくるもんだ、と自分自身に呆れる。

 事実かどうか、裏をとられたらアウトだが、息子を信じていない両親と違って、爺ちゃんはそんなことはしない。

「そうか。古い友達との縁は大切にせなあかんな」

「う、うん……」

「そう言うことなら、ゆっくりしといで。でも、はしゃぎ過ぎて、無茶とかしたらダメだぞ」

 そう言って、静かに爺ちゃんが微笑む。

 少し寂しげなものが浮かんだその表情に俺の胸がちくりと痛んだ。



 駅前のファーストフードの店で適当な食事を取った後、夢ノ宮市の隣町――蛹山市にバスで向かった。そこは俺の実家がある街でもあった。

 数多くの商店街やアーケードがあり、いつも大勢の人間が出入りしている夢ノ宮市とは違う。都心からおよそ三十分、城砦のように周囲を山で囲まれた蛹山市は閑静なベッドタウンだ。一昔前までは、観光用のロープウェイが街と山頂にある駅の間を、日に何度か往復していたのだが、現在は操業がストップしている。

 俺の母校、蛹山第二小学校はそんな街の中心地にあった。

 放課後になる頃合を見計らって、校門の横に設置されたインターフォンを押すと、確認するから職員室まで入って来てくれと言われた。

 二つ返事で、俺は校門を潜り抜け、目の前の校舎へと足を運ぶ。

 廊下でランドセルを背負った児童の一団とすれ違った後、俺は職員室のドアの前に辿り着いた。

 トントン、と軽くノックし――、

「すいません。朝、お電話させてもらった六道ですけど……」

 そう言いながら俺はドアを開ける。

 テストの採点、児童が提出した学習ノートのチェックなどをしていた教師達が、開いたドアの隙間から顔を覗かせた俺に気がつき、ギョッとした表情を浮かべた。

 当然のように不審の眼差しが俺に集まる。

 場の空気が不穏なものに変わる寸前、

「あ、六道君? こっこっち――」

 俺を手招いてくれたのは、動きやすそうなジャージ姿の女性教師だった。

 彼女の名は、河合栄子。

 先程の電話の相手であり、かつての俺のクラス担任だ。

 確か、二十代の後半のはずだが、化粧っ気がない上、童顔のせいか、大学生ぐらいに見える。明るく気さくな性格のため、児童からは適度に好かれ親しまれ、そして適度に馬鹿にされていたように思う。

 つまり、結構、いい先生と言うわけ。

「どうも、ご無沙汰してます……」

「うわぁ、大きくなったねぇ。卒業式のときはあたしの肩ぐらいしかなかったのに」

 神妙な面持ちで頭を下げた俺の肩をポンポンと叩く河合先生。

 明るく屈託の無いその表情に思わず、俺も苦笑していた。

「じゃあ、早速、行きましょうか」

 小さく溜息をつく俺に河合先生が言った。

「セルフポートレートを作るんだよね? とりあえず校内を一周してみる?」

 その手にはたくさんの鍵がついたリングが握られていた。

「安全上の問題なのよ――」

 申し訳なさそうに河合先生は言った。

「ほら、最近、いろいろ、怖い事件が起きているじゃない。あ、六道君がそんなことするって思っているわけじゃないのよ? それがマニュアルだから気を悪くしたりしないでね?」

 無論、俺は気を悪くなどしない。いつ、迷いの世界に取り込まれる分からない俺にとって、同伴者の存在はむしろ、心強い。

 もっとも、ほんの気休め程度だが。



 河合先生に伴われ、まず俺が向かったのは補修工事中の体育館だった。

 その裏口から、今は水の入っていないプールを一周した後、再び校舎に戻り、保健室、図書室、それに用務員室などを順番に覗いて回った。

 懐かしい景色に思い出が蘇り、胸が震えた……なんてことは特になかった。

 正直、学校って場所は好きじゃない。

 同じ年齢と言うだけで生活環境も考え方も違う、大勢の人間を狭い教室に一日中押し込めて、平等と言うよりは十把一絡げに縛り付ける。何かにつけ、互いと比べ合わせ競争を強いるくせに、それと同じ口で互いに認め合い、仲良くしろと無茶を言う。

 こんな異常な空間、ストレスの生産工場のような場所が他にあるか? 

 そんな益体もない想いが俺の胸の中でムクムクと膨らんできた時だった。

「それにしても、意外ねえ……」

 俺と一緒に廊下を歩きながら、河合先生がしみじみと言った。

「エッ? 何がですか?」

「だって、六道君がクリエイター志願なんだもの」

 問い返した俺に河合先生は明るい笑顔を向ける。

「どっちかと言えば、運動選手とか格闘技とか。もっと筋肉っぽい人になると思ってた」

「何スか? 筋肉っぽい人って……」

 俺は苦笑したが、河合先生の言うことは当たらずも遠からずだ。

 何しろ、この二日間、俺は本物の怪物どもと命がけの格闘を繰り広げているのだから。

 一階の各教室をあらかた見て回った後――、俺達は二階へと向かった。

「あ、ここ……」

 とある教室の前で河合先生が立ち止まった。

 6年2組。

 忘れもしない――、そこは俺が最後の小学校生活を送った教室だった。

「自分史を作るなら、ここも入ったほうがいいんじゃない?」

 笑顔のまま、河合先生がそのドアを開く。

 その途端、貫くような悪寒が背筋を走り、俺は身震いをする。

 寒かったわけじゃない。

 そこにあるのは、誰もいない、だが、なんら変哲もない教室だ。

 しかし、俺はそんな風景に底知れない恐怖を覚えた。

 視界が狭まるような圧迫感のあまり、呼吸することすら忘れていた。

 明日の日直の名前が書かれた黒板が、整然と並べられた机の行列が、壁にかけられたまま放置されている掃除用具が、そして、運動場が見下ろせるカーテンの開け放たれた窓が――

 その一つ一つが、俺にしか感知できない、俺のみに向けられた冷たい悪意をその内側に染み込ませ、哀れな獲物の登場を無言の嘲りを持って歓迎していた。

「……六道君? どうしたの?」

 先に教室に入った河合先生が不思議そうに声をかけてくる。

「ここは見なくてもいいの?」

「あ、いや。……入ります」

 わけの分からない恐怖心を振り払い、俺は教室と足を踏み入れた。

 そして、

「そ、そう言えば先生――」

 ぎこちなく本題に入る。

「ん?」

「あの、同級生だった子について聞きたいんですけど。……いいですか?」

「えっ? なになに? 誰のこと?」

 覗きこむようにして、尋ねる河合先生。

 一呼吸置いて、俺は言った。

「伊原千夏さん、のことなんですけど。先生、覚えてます?」

 一瞬――、

 水を打ったような沈黙が俺と河合先生の間を流れた。

「……井原さん? もちろん、覚えているわよ」

 頷きながらも河合先生の視線はかすかに泳いでいた。

 その横顔には辛そうな表情が浮かんで見える。

「だって、私の初の教え子の一人だもの。井原さんがどうかしたの?」

 そう尋ね返す、河合先生の笑顔には少し無理があった。井原千夏の話は、河合先生にとってあまり愉快なことではないのかも知れない。

 申し訳ない気もしたが、生命がかかっている俺としては、ここで引き下がるわけには行かない。

「実はですね――」

 俺は切り出していた。

「この間、家を掃除していたら彼女から、ずっと借りっ放しになっていたCDが出てきて……このままじゃ悪いから、返してあげようと思って」

「…………」

「できたら久しぶりに会ってみるのもいいかなー、なんて……」

 河合先生は黙り込んでいた。

 ちょっと不安になったが、気分を害したり俺の話を無視している感じじゃない。

 何かの思いに浸るかのように河合先生は教室の隅をジッと見つめていた。

 少し間を置いて、

「――ごめんなさいね」

 ゆっくりと息を吐きながら、河合先生が言った。

「できれば教えてあげたいんだけれど、先生も井原さんの今の住所は知らないの」

「そ、そうなんですか……」

 頷きながら、失望に顔が歪むのを俺は禁じえなかった。

 ここに来たのは無駄足だったか……。俺と井原千夏の接点は、今や、ここ以外に見当たらないと言うのに。

 ガックリと俺が肩を落としていると、

「今だから、言うけれど――」

 苦しげに、小さな微笑を浮かべながら河合先生が言った。

「先生ね、井原さんのことに関しては本当に六道君に感謝しているのよ」

「感謝……?」

 怪訝に思い、俺は顔を上げた。

「俺に、ですか?」

「だって、六道君。いつも、井原さんと仲良くしてあげてくれていたじゃない」

 どこか寂しげな笑みを浮かべる河合先生。

「あの子、お父さんのことでお家が大変だったから……。暗いヤツだって意地悪する子もいて、本当に可哀そうだったのよ」

 意地悪……?

 その言葉に、俺は胸に棘が刺さるような痛みを感じた。

 つまり、それは母子家庭だった井原を苛めるやつがいたと言うことか。確かに考えられない話じゃない。だが――

「先生ね、ちょっとでも井原さんの力になりたかったから、何度も家庭訪問して井原さんのお母さんともお話したりしていたんだけど」

 そこで言葉を切り、河合先生は己の罪を告白するかのように悲痛な面持ちで続けた。

「……結局、二人は夢神教会みたいな変なところに入ってしまって。今はもう、連絡も取れないわ」

「夢神教会……!?」

 思わず、俺は目を丸くしていた。

 河合先生が口にしたのは、一時期、全国を騒がせた、とある新興宗教団体の名前だった。

 若干十九歳の美貌の青年教祖。人間の深層意識をコントロールすることを主とした一風変わった教義。麻薬を巡る、暴力団との黒い繋がり……。

 新興宗教にスキャンダルな噂は付物だが、この団体はちょっと度を越えていた。

 聞いた話によると、教祖に造反した一部の信者が暴動事件を起こしたらしい。

 その結果、教会本部は焼失。後にその焼け跡から何体もの、身元の判別不明な焼死体が発見された。教祖は数名の信者とともに今も行方不明。残された信者たちは、それこそ悪夢から醒めたように、不可解な洗脳から解放され、今は社会復帰に励んでいると言う。

 当時、マスコミが先を争うようにその事件を書き立てていたが、俺にとっては、よくあるカルト宗教騒ぎ、文字通り対岸の火事でしかなく、ろくにニュースも見ていなかった。

 まさか、そんなところと井原が関わりを持っていたなんて。

「あの、先生。その宗教団体って」

 胸の中に黒い物が湧き上がるのを感じながら俺は尋ねていた。

「確か、もう、解散しちゃっていますよね?」

「新聞やテレビではそう言っていたわね」

 沈痛な表情のまま、河合先生が頷く。そして、ポツリと付け加える。

「井原さん、どこかで無事に暮らしていてくれたらいいけど……」

「…………」

 俺と河合先生、どちらからともなく重苦しい溜息が漏れた。

 と、その時――

 きぃいいんこぉおおんかぁああんこぉおおん……

 奇妙なまでに間延びした、チャイムが学校中に鳴り響く。まだ校内に残っている児童に下校を促すチャイムらしい。

「あっ、いけない。もう、こんな時間……」

 腕時計を見遣り、慌てた様子で河合先生が言った。

「校門を閉じて来なきゃ。六道君は、ここでちょっと待っていてくれる? 先生、一っ走りいってくるから」

「あ……」

 俺が声をかける間もなく、河合先生は教室を出て行く。

 所作無げに俺が頭を掻いた時、ポケットの中の携帯電話が鳴った。それを慌てて取り出し、着信相手を確認する。

「もしもし――、金城さん?」

 あたふたと俺は携帯を片耳に押し当てていた。

「俺、今、小学校にいるんだけど――」

「何か分かった?」

 挨拶もなく、淡々とした金城の声が聞いてくる。

「今、接客中なの。チャキチャキ説明して」

「…………」

 それでも、こうして電話をかけてきてくれたということは、俺を心配してくれているのだろう、一応。

 少し、俺は躊躇い、たった今、河合先生から聞いた話を伝えた。

「夢神、教会……?」

 電話の向こうで、金原の声が微かに揺れたような気がした。

「それは確かな話なのね?」

「ああ、多分」

 一方、答える俺の声は苦い。

 ますます怪しくなってきた雲行きに心底、ウンザリしていた。

「とにかく手掛かりは貰えたんだ。今から、そっちに行っていい?」

「そうね……」

 不意に、金城の声が途切れた。

 急に電波の受信状況が悪くなったのか? 

 クソ、こんな時に!

 忌々しく思いながら、俺は携帯電話を切った。そして、ディスプレイに表示された受信アンテナを睨みながら教室の出口に向かって歩いてゆく。

 しかし、一歩、廊下に足を踏み出した途端だった。

「……っ!」

 声をあげる暇もなかった。

 何の前触れもなく、白紙にインクを垂らしたような闇の空間が俺を包み込んだ。

 視界を黒一色に塗りつぶされ、思わず俺はたたらを踏む。

 そして――

 聞こえてきたのはチョロチョロと水が流れる音。周囲の温度が急激に変化し、細かい針のような冷気が衣服の上から俺の肌を突き刺す。そして、むせ返るような生臭い悪臭が方々から漂ってくる。

 全身の水分が冷や汗となって流れ出るのを感じながら、俺は悟った。

 また、始まりやがった。

 クソ忌々しい、迷いの世界の三度目の襲来だった。


■2■


 暗黒――。

 文字通り、鼻を摘まれても分からぬような闇の俺は閉じ込められた。

「畜生、どこまでも人をコケにしやがって……!」

 恐怖を紛らわせるかのように悪態をつきながら、俺は背中のリュックサックを手繰り寄せ、その中を必死で弄っていた。

 何時までも丸腰じゃ凌ぎきれまいと考え、いろいろと準備してきたのだ。

 金城が貸してくれた手鏡は勿論、爺ちゃんの仕事場から失敬して来たレンチ、自転車のチェーン、スプレー缶の殺虫剤、数年前、通販で買った特殊警棒、それに手製の懐中電灯。

 使えそうな物は、みんな、手当たり次第に詰め込んできた。これだけあれば、俺の生存率も少しは高くなるはずだ。根拠はないが、そう信じたかった。

 小刻みに震える手で俺は懐中電灯のスイッチを入れる。

 青みを帯びた光が真っ直ぐに伸び、視界を塗りつぶしていた闇を円形に切り抜く。

「うあぁ……」

 思わず、俺は呻いてしまう。

 グロテスクなものに対する、ある程度の覚悟はしているつもりだった。

 が、照らし出されたその陰惨な光景は、それを軽く陵駕していた。

 つい先程、河合先生と一緒に歩いたはずのそこは、もはや学校の廊下などではない。

 ジクジクと血膿が滴り、赤紫色に腐った肉に覆われた異形のトンネルと化していた。

 腐肉の合間に埋もれた窓と言う窓には、触れれば破傷風になりそうな、腐食しささくれ立った金網が被せられ、乾いた血糊がこびり付いている。

 チョロチョロと音を立てて、足元を流れる水は――水だったとして――、優に百年は掃除していない公衆トイレのような猛烈な悪臭を放っていた。

 呼吸をするだけで肺から全身が腐っていくような、そんな妄想に駆られる。

 とにかく不潔で不快な空間だった。

 そこに立っているだけで、ますます気分が重く憂鬱になってゆくのを感じ、俺は小さくかぶりを振った。それから、ふと、薄汚れた窓の向こうに目を向ける。まるで大火事の後のように、黒い煙が漂う校庭が見えた。

 そこに置かれていたのは何百、否、何千台もの机。

 校舎から運び出すだけでも大変だったろうに、ご丁寧にもピラミッドのように積み重ねられている。

「あれは――」

 俺は目を細めた。机でできたピラミッドの頂上――、そこに描かれていたのは、人間の瞳を持つ、不気味な卵の落書き。確か、デュカリ・デュケスの印形とか言う……。地下街ではアレを壊すことで現実の世界に帰ることができた。

「よし……!」

 決意に唇を噛み締め、俺は歩き始めた。

 今から、俺のなすべきことは二つ。一つは、この迷いの世界を脱出するため、落書きのある校庭への抜け道の確保。そして、もう一つは、井原千夏の痕跡をできうる限り見つけ出すこと。

 ここは現実の蛹山第二小学校ではない。迷いの世界の主――井原千夏の記憶や印象、そして強迫観念に基づいて創造された蛹山第二小学校なのだ。

 だとすれば、俺が助かるヒントは、この世界にこそあるのかも知れない。

 何故、俺をこんな目に合わせるのか、井原千夏の真意も。



 懐中電灯の明かりを頼りに注意深く進み続けること数分――、プクプ九と泡立つ血溜まりの中に何かが投げ出されていた。

 ランドセルだった。留め金が壊され、蓋が開けっ放しになった赤いランドセル。

「…………」

 恐る恐る俺はそれを拾い上げた。

 ベットリと染み込んだ血膿がぼたぼたと零れ落ち、俺の手と膝を濡らす。

 気持ち悪くて頭がどうかしてしまいそうだったが、そんなことは言っていられない。俺にはどうしても確認したいことがあった。

 服の裾をハンカチ代わりに、名札にこびり付いた汚れを拭う。

 思った通りだ。

 そこに書かれた名前は、井原千夏だった。

 無言のまま、俺はランドセルの中身をまさぐる。

 出てきたのは――、

 ドロドロになって、何と書いているのか判らない数冊の教科書とノート。真ん中でボッキリとへし折られたソプラノ・リコーダー。踏みつけられたらしく、形が歪んでいる缶ペンケース……。

 どうしようもない不快感が込み上げ、俺は口元を歪めていた。

 まるで殺人現場の遺留品を漁っているような気分だった。

 最後に出てきたのは、丁寧に折り畳まれた一枚の画用紙だった。慎重な手つきで俺はそれを開く。画用紙には、見覚えのある筆跡でこう殴り書きされていた。


 ――もうすぐ掃除の時間だから


「どういう意味だ?」

 その短い文章を繰り返し目で追いながら、俺は呟く。

 金城の言葉を信じるならば、これは間違いなく迷いの世界の主が俺に向けたメッセージなのだろう。

 無意識なのか意識的にそうしているのかは分からない。俺にそれを知る術もない。ただ、今回のメッセージは、以前の物と比べて随分と回りくどい感じがした。

 何かを警告しているような印象ではあるが……。

「ああ、もう! こんなもの無視だ、無視無視!」

 苛立ちを覚え、俺はその画用紙をクシャクシャに丸めた。

 そして、それを腐肉のトンネルの暗闇に向かって投げ捨てた時だった。

「……?」

 ハッ、として俺は耳を済ませた。

 微かにではあるが、人の話し声が聞こえて来たのだ。

 それも、子供か女のような、黄色い声だ。ヒソヒソと囁き合うような声だったので、会話の内容までは分からない。

「げ、幻聴じゃないよな……?」

 低く呻きながら、俺はその声が聞こえてくる方向に向かって再び歩き始める。

 そして、ある可能性に思い至る。

 アマリリスがそうであったように俺以外の人間がこの世界に取り込まれている可能性だってある。例えば、職員室を尋ねる前、廊下ですれ違った子供達。

 まさか、あいつらが……!?

 だとすれば、放って置くわけにはいかない。

「全く、冗談じゃねえ」

 舌打ちしながら俺はリュックサックの中から警棒を取り出す。

 バチッ……!

 軽く振った警棒の先に青白い火花が散った。

 長さ50センチほどの警棒の先端には電極が埋め込まれており、グリップにあるスイッチを抑えることで約8万ボルトの電流を流すことができる。

 要は警棒の形をしたスタンガンだ。

 インター・ネットでのセール商品を面白半分に買ったものだ。勿論、今までこれを使って誰かを傷つけたことはない。まさか、こんな風に身を守るために使わねばならない日がくるとは夢にも思っていなかった。

 やがて――

 子供のものと思しき囁き声に導かれるようにして、俺は腐肉のトンネルの端にまで辿り着いていた。そして、目の前に一枚のドアが現れた。

「……あれ?」

 腐肉がこびり付いたプレートを見上げ、俺は眉をひそめる。

 そこは6年2組だった。この迷いの世界に取り込まれる寸前、河合先生と話をしていた教室だ。

 おかしい。元の場所に戻ってきたのか?

 戸惑いを覚え、俺はたった今、歩いて来た通路を振り返ってみる。

 ただひたすら、真っ直ぐ歩いてきたはずなのに、何故、こんな……?

 そこで俺は考えるのをやめた。

 この世界では理不尽なことしか起きないのだ。目の前で起こることをいちいち気にしていたら、頭がおかしくなっちまう。……いや、もう、手遅れなのかも知れないが。

 息を殺し――、ドアの前で俺は聞き耳を立てていた。中に踏み込む前に少しでも様子を知りたい。

 ……なあ、昨日のアレ、見た?

 聞こえてきたのは、楽しげな子供の声だった。

 ……うん、見た見た。アレだろ、アレ最高だよな、アレ。

 答えるのもやはり子供の声だった。

 アレってアレの造りだから最高なんだよね、アレな感じで、と続ける。

 アレってなかなか手に入らないじゃんアレなだけにさ。

 うん、アレだもんな。そりゃあ、見つけるだけでも難しいんだからなかなか手には入らないよな、アレ。

 だから、ほら、盗んできちゃったよアレ。

 うわ、お前そんなことやっていいと思ってんの犯罪だよ犯罪、犯罪者だよ。

 だからさ、あいつが来た時に備えてもっと準備が必要だと思うんだ、と第三者の声がいきなり、会話を押しのける。

 ドア越しに聞き耳を立てているせいか、声に区別がつきにくい。何だか、一人の人間が延々、喋り続けているようにも思える。

 あいつには随分、やられちゃったからね。何か対策を立てる必要があるんだ。対策って言ってもね、いろいろ、やり方はあると思うんだ。なにせ、相手が相手だからね。下手をうって全滅なんて洒落にならないもん。

 ねぇ、ちょっと、みんな、自分の席につきなさいよ。いつまでも、ワーワー言っていたんじゃ始められないじゃないの……

 不意に教室の中が静まり返った。

 何だ、今のは?

 不自然なまでに明るく、そして噛みあわない会話に俺は胸騒ぎを覚えた。

 酷くアンバランスで危険な物がすぐ側にあるような……。

 しかし、そんな不吉な重いとは裏腹に俺の手はドアのノブに掛かっていた。

 そして、ガラッと音を立ててドアを横に滑らせ、中に足を踏み入れる。

「あっ――」

 思わず、俺は声を上げてしまう。

 教室はベニヤ板のようなもので窓を塞がれ、真っ暗だった。

 そこで俺の目を奪ったのは、黒板の前に降ろされた、ボンヤリと光を放つスクリーン。

 その前に、プロジェクターらしき物は、見当たらない。にもかかわらず、スクリーンには沈んだセピア色の映像が幻のようにゆらゆらと揺らめいている。

「これは……」

 固唾を呑んで見守る俺の目の前で、映像は次第にピントが合ってゆき――、やがて、それは鮮明なものへと変わってゆく。

 映し出されたのは、学校の一室だった。

 広さや机の配置から察するに、恐らく職員室だろう。

 その片隅で、椅子に腰を降ろした若い女性と小柄な女の子が向き合っている。

 困り果てたような表情を浮かべている女性は河合先生だった。今より、外見が少し若い気もするが、見間違いようもない。

 そして、先生の前に座る女の子……。艶やかで長い黒髪。目鼻形はパッチリとしていて、肌は透き通るように白い。しかし、その可愛らしい顔に浮かぶ表情は、幼い子供のものとしてはいささか頑なだった。

 小さな唇はキュッと噛み締められ、河合先生と視線を合わすことを拒むかのように深く俯いている。あれではジーンズの膝に置いた自分の手しか見えないだろう。

「あ、あのね……」

 スクリーンの中で、遠慮がちに河合先生が口火を切る。

「クラスの皆は仲良くしてくれる?」

 思い切った質問、と言う感じだった。

 しかし、

「…………」

 女の子は無言のままだった。

 まるで石像にでもなったかのように、同じ姿勢を崩そうとはしない。

「先生ね、隣のクラスの子に教えてもらったのよ。あなたがクラスの子達に、その、酷い意地悪みたいなことをされていたって」

 意地悪――。

 河合先生の言葉に反応したのか、女の子のか細い肩がピクッと震えた。サーッ、と彼女の顔から血の気が引く音を俺は聞いたような気がした。

「お願いだから、何かお話してくれないかなぁ?」

 そんな女の子の変化に気がつかないのか、河合先生が懇願した。

「先生ね、あなたの悪いようには絶対に……」

「なんでもない、です」

 河合先生の言葉を遮るようにポツリと女の子が言った。

 それは弱々しい、吹けば消し飛んでしまいそうな小さな声だった。

「…………」

「…………」

 暫くの間、河合先生と女の子は互いに口を閉ざしたままだった。

 やがて、

「……本当なの?」

 念を押すように河合先生が女の子に尋ねる。

 その口調には、どこか諦めたような響きがあった。

「井原さん。本当に、何も困ったことはない?」

「はい……」

 と、やはり消え入るような小さな声で女の子、つまり、――小学生の井原千夏が頷く。

 と、場面が切り替わった。夕暮れの赤い光に染まった校庭だ。

 そこを一人、項垂れながらトボトボ歩く井原の姿。その表情は、何かを思いつめたかのように険しく、そして蒼白に見えた。

 と、彼女が校門の前まで来た時だった。

「おい、待てよ!」

 尊大ぶった呼び声が井原の背中を撃ちぬく。

 ビクッと身を強張らせた彼女を取り囲むようにして、バタバタ足音を立てて現れたのは七、八人の子供だった。

 男の子も女の子も、皆、弱った獲物を目の前にした肉食獣のように爛々と目を輝かせている。嫌らしく前歯をむき出しにして、ニヤニヤ笑っている。見ているだけで気分が悪くなってくるような、不気味なガキどもだった。

 そいつらの顔、一つ一つに俺は見覚えがあった。

 六年生の時のクラスメイト達だ。

「な、何……?」

 怯えたように井原が一歩、後退りした時だった。

 取り囲んでいた連中の一人が素早く彼女に駆け寄った。そして、全く手加減を感じさせない勢いで、自分より一回りも小柄な女の子の顔を平手で打ちすえる。

 俺は唖然としていた。

 何のつもりだ、こいつら?

 頬を押さえ、ヨロヨロと足元をふらつかせ、苦しげに喘ぐ井原。ギュッと固く閉ざされた目尻には涙が浮かんでいた。

「おい、死神――」

 腕組みをし、偉そうに言ったのは取り囲んだ連中の中でも一際、大柄な男のガキだった。

「お前、先生に呼び出し喰らってたんだってな? 何、話してたんだよ? まさか、俺らのこと、余計なことを話してないだろうな?」

「う、ううん」

 今にも泣き出しそうな表情で、小さく首を振る井原。

「何にも、話してないよ……?」

 その言葉に、取り囲んだ連中はほっと一安心の表情を浮かばせる。

 そんな仲間達をチラッと振り返ってから、

「へぇ、今日はやけに物分りがいいな。少しは学習能力があったのか」

 井原を平手打ちしたヤツがニヤニヤしながら言った。

「よーし。それじゃあ、今日は特別に仲良く一緒に遊んでやる。男女対抗でサッカーの試合だ。死神、お前も参加させてやるよ。……いつも通り、ボール役でな」

 その言葉に井原の顔が蒼白になってゆく。

 ボール役? 何のことだ?

 次の瞬間、俺の疑問は氷解した。

「よし、じゃあ、試合開始!」

 元気のいい掛け声とともに――、井原の背後に忍び寄っていた二人がその背中に飛び蹴りを加えた。

 きゃあっ、と甲高い悲鳴をあげて、勢いよく突き飛ばされる井原。

 転倒し、可愛らしい顔が土に汚れた。

 そこからは、まるで甘い砂糖に蟻が群がるかのようだった。井原を取り囲んでいた連中が、一斉に彼女に襲い掛かったのだ。倒れ伏した井原の背中や腰を、足の爪先で執拗に蹴りつける。

 キモいんだよ、この死神。いっつも暗い顔しやがって。お前を見てるとイライラするんだ。早く、どこかに行っちゃってよ。死んじゃえば。もう、学校に出てくるなよ。ついでに家からも出てくるな……!

 容赦なく、井原に浴びせ掛けられる罵声が加速してゆく。

 抵抗もできずただ横たわるばかりの女の子に攻撃を加えながら、ガキどもは怒り狂っていた。

 同時に一方的な暴力を振るい続けることに恍惚とした喜びの表情を浮かべていた。

 つまり、一人残らず完全に発狂していた。

「いい加減にしろ! お前ら!」

 耐え切れず、俺は怒鳴り声をあげる。

 スクリーンの中の出来事であるというのに、それはまるで目の前で行われているような生々しさを放っていた。

 その途端、フィルムが焼き切れたかのように映像が消えた。

 そして、頭上でジジッと物が焦げる様な音がして――、刺々しいまでに眩い光が降り注いだ、急に明るくなったせいか、目に極細の針を突き立てられたような痛みが走る。思わず、手で顔を覆いながら、ウァアア、と呻き声をあげてしまう。

 それが天井の照明だと気がつくのに数秒かかった。

「畜生……」

 唸りながらも、しばらく痛みに耐えていると徐々に視力が戻ってきた。

 明かりに照らし出された6年2組の教室は、思った通り、酷い有様だった。

 まるで台風でも吹き荒れたかのように横倒しになった、机や椅子。 壁や床、それに天井はグッショリ湿って腐っているらしく、あちこち穴が開いている。

 カーテンは何十匹もの猫にじゃれ付かれたかのようにズタボロ。窓は悉く割られ、氷のように冷たい外気が流れ込んでくる。

 窓が割れている……!?

 慌てて、俺は窓辺に歩み寄ろうとした。

 もしかしたら、そこから校庭に脱出できるかも知れない。

 だが――

 ハッ、として俺は立ち止まる。視界の隅で何か小さい物が動いた。それが見間違い出なかったことを裏付けるかのように、パタパタ小さな足音が俺から遠ざかってゆく。

 倒れた机や椅子が邪魔で、その足音の主の姿は見えない。

 俺は小さく喉を鳴らし、

「……誰だ?」

 押し殺した声でそう呼びかける。

 心臓がバクバクと高鳴り、緊張のせいか、全身の筋肉が固く強張っている。

 しかし、俺は出来る限りの平静を装っていた。

「そこにいるんだろ? 出て来いよ」

 クスッ――

 返ってきたのは、俺の臆病さを見透かしたかのような小さな笑い声。こんな時、こんな場所でさえなければ、可愛らしいとすら思えたかもしれない子供の忍び笑いだった。

 それは次第に数を増やし、大きく膨れ上がってゆく。

 クスクスクスクスクスクスクス……

 気がつくと、教室中に子供の笑い声が木霊していた。

 呆然と立ち尽くしたまま、俺は奇妙な概視感に襲われる。

 これと同じシチュエーション、以前にも遭遇したことがあるような。それも迷いの世界の中の話ではない。現実の世界で、だ。

 と――

「痛ッ!」

 突然、それは襲ってきた。俺の右肩の後ろに、焼きつくような痛み。肉を突き刺す異物感に顔を歪めながら、反射的に振り返る。

 そこ――俺の背中にしがみ付いていたのは、黒く長い体毛を持つ、驚くほど醜悪な生き物だった。

 身長はおよそ三十センチ。猿と鼠を足して二で割ったような姿をしていたが、無論、そのどちらでもない。赤ん坊のような小さな手には、算数の授業で使うようなコンパスがしっかりと握り締められていた。

「カハッ……!」

 左右の肩甲骨の間にコンパスの針が突き立てられ、大きく開かれた俺の口から空気の漏れ出るような掠れ声が発せられる。

 続いて、ジットリと生温かい物が背中に流れ始める。それが自分の血であると気がつくのにさして時間はかからなかった。苦痛に呻く俺を嘲笑うかのようにそいつが顔を覗きこんでくる。

「……!」

 半ば予想はしていたものの――、そのアンバランスな姿に俺は息を飲む。

 そいつは子供の顔をしていた。ゴムマスクのような、歪な笑顔で固まった子供の顔。

 しかも、俺はそいつの顔に見覚えがあった。さっき見た胸糞の悪い映画の中で、井原千夏を殴る蹴るしていたクソガキの一人だ。

「よオ、六道」

 俺の背中にしがみ付いたまま、そいつは言った。

 まるで、電波障害のラジオのようなひび割れた声だった。

「久しぶりじゃん。まだ生きていたのか?」

「お、お前……」

 声をしゃがれさせながら俺は答えた。

 思い出したくもない思い出が、脳裏に浮かび上がる。

「まさか、……阿部洋介か?」

「嬉しいねぇ」

 今の今まで名前すら忘れていたクラスメイトの顔をした怪物が、ペロッと赤い舌で唇を舐める。プツッ、と嫌な音を立てて、コンパスを背中から引き抜く。

「フルネームで覚えていてくれたなんて、感激だよ。御礼にもっと痛めつけてやる」

「ふざけんな、てめぇ!」

 再び、コンパスを振り上げようとした小さな怪物に俺は、恐怖よりも怒りを覚えた。

「離れろ!」

 叫びながら手にした警棒を肩越しに突き出し、その先端で怪物の顔を一撃する。

 バチッ……!

 ゴムが焼けるような嫌な臭いと共に、俺の耳元に青い火花が散った。

 ぎやっ、と叫んで、のけぞる怪物。その隙を俺は逃さない。激しく上半身を揺すって、そいつを振り落としてやる。床に叩き付けられ、怪物はグエッと汚らしい呻き声を漏らした。

「くたばれっ!」

 良心の呵責など感じている余裕などない。

 激情に突き動かされるまま、止めをさそうと俺は警棒を振り下ろした。

 しかし、予想以上に怪物の動きは素早かった。身をよじって俺の攻撃を回避。そして、床にはいつくばった姿勢のまま、匍匐前進を始める。そのまま机や椅子の陰へと逃げ込もうとする。

「待て! こいつ……!」

 慌てて俺は後を追いかけようとした。逃がしてしまえば、後できっと脅威になる。

 しかし――

「まあ、そんなに怒るなよ」

 馬鹿にした笑いを含んだ子供の声がまた聞こえた。

「久しぶりなんだから、もっと和気藹々と行こうぜ?」

「そうそう、せっかく、みんな揃ったんだから」

 口々に勝手なことを言いながら、そいつらはゾロゾロと這い出してきた。

 ひっくり返った机や椅子、教団、ゴミ箱、それに穴の開いた床下から。

「お前ら……」

 呻きながら、俺はドット冷や汗が全身に溢れるのを感じた。

 そいつら一人一人――いや、一匹一匹の顔に見覚えがあった。阿部洋介と同じく、俺が六年生の時のクラスメイト達だ。半人半獣のような姿をした怪物どもだ。

 怪物どもはそれぞれ鋏やカッターナイフ、千枚通し、彫刻刀、それに金槌など思い思いの道具を手にしていた。

 それを使って、これから共同作業を楽しく始める腹なのだろう。この世界に入り込んだ異物、すなわち俺の解体作業だ。

「や、やめてくれ!」

 わらわらと飛び掛ってくる小さな怪物どもに俺は悲鳴をあげていた。

「近寄るな! あっちに行け!」

 思わず目をつぶり、手にした警棒を闇雲に振り回す。

 二度、三度と警棒は空を切ったが――、四度目で柔らかい粘土を殴りつけたような感触があった。

 血反吐を吐きながら、怪物が一匹、俺の足元に落ちる。

 随分とドン臭いヤツだ。半ばヤケッパチのような俺の一撃であばら骨を追ってしまったらしい。泡を吹いて、キーキーと苦しげにもがいている。

 ざまーみろ!

 忌々しい害虫を踏み潰した時のような暗い喜びが込み上げ、俺はほくそえんだ。トドメとばかりに俺はそいつの頭を踏み潰そうとする。

 が、それよりも早く、他の怪物が傷ついた仲間の両足を引っ掴んで、その場から離れるほうが早かった。健気にも傷ついた仲間を助けようとしている、――わけではなかった。

 俺の手の届かない場所に引き摺っていかれた瀕死の怪物の周りを他の連中が素早く取り囲む。そして、無造作に鈎爪の生えた手を伸ばし、そいつの腹の肉を鮮やかにもぎ取った。

 ゴリゴリ、グチュグチュ、クチャクチャ……

 聞いているだけで胸が悪くなるような咀嚼音を立てて、仲間を貪り始める怪物達。

 他の連中もそのむせ返る様な血と肉の臭いをかいだ途端、俺のことなどどうでも良くなったらしい。ワッと歓声を上げ、仲間の死骸に殺到する。我先にとその死肉を引き千切り、口一杯、頬張ってモグモグやり始めた。

 ああ、神様。

 共食いです。

 こいつら、共食いを始めました……!

 そのあまりにも浅ましく、おぞましい光景に俺は強烈な吐き気を覚えた。

 しかし、気絶などしている場合じゃない。

 やつらが夢中で仲間の死骸をむさぼっている間にこの教室を抜け出さねば……。

 そう決意し、転がるようにして俺はドアへと引き返す。

 ブウッ……!

 死骸に群がる怪物の一匹が豪快な屁をこきやがった。

「最悪だ、こいつら……」

 嫌悪感に顔をくしゃくしゃにしながら、ドアの向こうへと俺は身体を滑り込ませた。



 もう、俺はダメかも知れない……。

 重い足枷のような絶望感を引き摺りながら、ヨロヨロと闇の中に歩み出る。

 ズクズクと、コンパスを突き立てられた背中が熱を持って疼く。それに反比例するかのように俺の手足の先は、氷のように冷たくなっていた。

 すぐに明かりを灯す気にはなれなかった。

 逃げ出したことを感付かれたら、その時こそ一巻の終わりだ。

 怪物どものいる教室から十分、距離を取った後、俺は懐中電灯のスイッチを入れた。

 そして――

「またかよ……」

 俺が教室にいた間に、随分と大掛かりな改装工事が行われたらしい。

 懐中電灯の光に浮かび上がったのは、床に打ち込まれた何十本もの鉄骨。等間隔に置かれた柱のようなそれらの間には、ギラギラした棘を生やした鉄線が無数に張り巡らされており、複雑に交差し会う通路を形成。

 それぞれの通路の先にはドアやら階段やらがあった。一本道の無限通路だった汚濁に満ちた空間は、今や、迷路の様相を呈していた。

 井原千夏の心の迷路か。それとも、混乱しきった俺自身の頭の中身なのか。

 はぁ、と溜息をつき――、トボトボと俺は有刺鉄線の迷路を進み始めた。

 適当な通路を一本選び、その先に見えた階段を下る。

 殆ど、阿弥陀くじのノリだ。どうせ、どこを選んだって俺を待ち構えているのはろくなことじゃない。大体、どこにいけばいいのかも分からない。

 階段はなぜか、螺旋階段だった。

 ぐるぐる、ぐるぐる。

 思った以上にカーブはきつい。不気味に歪んだ手摺にしがみつくようにして階段を降りる途中、鎖に吊るされた鳥籠のような物体が闇の中でいくつも揺れているのを俺は目にした。

 鳥籠の中には、真っ白い肉の塊のような物がブヨブヨ蠢いていた。

 見ようによっては人間にも見えるそれが一体なんなのか、深く考えないようにして俺は歩調を速める。

 まあ、深く考えたって、答えが出るわけじゃない。

 闇の底に向かって螺旋階段は永遠に続いているかのようだった。

 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる……

 そろそろ、目が回ってきたナ、と思った時だった。

 唐突に階段が終った。

 階下に辿り着いたらしい。

 それから暫く、俺は単調な一本道を進み続けた。

 ふと懐中電灯の光を向けた時、有刺鉄線にベットリとした血糊や髪の毛、それに肉片などがこびり付いているのを俺は所々で目にした。誰かが力任せに有刺鉄線に押し付けられ、紅葉卸のように擦り付けられたようだ。

 痛い、何てモノじゃなかっただろう。そこは正に地獄だった。

 気分が悪くなるのを感じながら、俺は先を急いだ。やがて、通路は行き止まり、左右に分岐していた。

 少し、逡巡し――俺は左側の通路を選ぶ。根拠は特にない。この先に迷路の出口があるかもしれないなんて期待もない。立ち止まっていてもどうにもならないから進むだけ。もし、間違った道なら元の場所に戻って別の道を行くしかない。

 案の定、いくらも進まない内に通路は行き止まりとなった。

 張り巡らされた有刺鉄線の隙間から、同じように有刺鉄線に囲まれた狭い通路が見えた。

 先程、俺が歩いてきた通路とは別のものらしい。一体、この迷路はどれだけの広さがあるのか、見当もつかない。

 溜息をつき、引き返そうとした時だった。ガシャン、と鋼が鳴る音が聞こえた。

 ギョッとして振り返った俺は、有刺鉄線の向こうに動く者の姿を認めた。

「……!」

 危うく、俺は声をあげるところだった。

 一瞬、そいつはファンタジー小説なんかによく登場する戦士や騎士のように思えた。

 見上げるような巨体に着込んだ重厚な板金鎧。片手に握り締められているのは、ゾッとするほど厳しい意匠が施された槍。元々は優麗な儀式用の装身具だったのだろうが、今は血に塗れてドロドロだった。その顔は獣のような牙を生やした、髑髏を模した鉄仮面に覆われ、窺い知ることは出来ない。

 死神だ。

 俺は全身から血の気が引くのを感じた。

 鎧に身を固めた、大男の死神だ。――男だろう、多分。

 地下街の一つ目ヤモリや先程、教室に現れた半人半獣どものような浅ましさは感じられない。一歩一歩、重たい鋼の足音を響かせながら悠然と通路を歩く姿は、忌まわしくも、ある種の威厳を漂わせていた。

 こいつはこの狂った世界の王様なのかも知れない。

 そう、怪物達の王様だ。

 まさか、こいつ、俺を探しているんじゃないだろうな……?

 そう思った途端、ガクガクと膝が笑い始めた。さっき見た、可哀そうな誰かの成れの果ての姿が自分と重なった。

 しかし、どうも様子がおかしい。

 死神が持つ、槍の穂先には赤錆びた、大きな鉄の鳥籠がぶら下げられていた。その中に何かが、ギュウギュウに押し込まれている。黒くて長い毛を持つ、鼠くらいの大きさのそれらはキィキィと甲高い声で鳴いていた。

「あれは……」

 俺の独り言は続かなかった。ふと、死神が鉄線の壁の前で足を止めた。そして、血ぬれた籠手を嵌めた手を伸ばし、籠の中の生き物を一匹、引きずり出す。

「うわぁあああ、やめろやめろやめろぅッ!」

 子供の声で悲痛な叫び声をあげたのは――、思った通り、6年2組の教室で襲ってきた怪物どもの一匹だった。キーキー、耳障りな声で鳴きわめき、自らを捕らえた鋼鉄の手を引っ掻き、噛み付いて何とか逃れようとしている。

 が、見た目以上に死神は短気だった。

 叩きつけるようにして、鷲掴みにしたそいつを有刺鉄線の束に押し付ける。

 一瞬の静寂。そして――

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 胸糞が悪くなるような、惨たらしい絶叫が耳朶を震わす。思わず、俺は自分の口に拳を押し当てていた。そうでもしなければ、無様に叫びだしてしまいそうだった。

 幸か不幸か、小さな怪物の断末魔はすぐに止んだ。代わりにグチャグチャと言う、柔らかく湿ったモノを擦り付けるような音が聞こえてくる。ブチブチと細かく引き千切られる肉の音も。

 全身から厭な汗を流しながら、俺はジリジリと後退りしていた。

 怪物が怪物を殺している……?

 込み上げてくる激しい嫌悪感とは別に、疑問が浮かび上がる。

 なぜだ? やつらはともに井原千夏の抱く強迫観念の産物――、悪夢の眷族じゃないのか?

 ベチャッ……

 戸惑う俺を嘲笑うかのように、有刺鉄線の向こうから何かが無造作に投げつけられた。

 足元に叩きつけられたのは、原型を止めぬほどズタズタに切り刻まれ、血袋のようになった小さな怪物の残骸だった。そんなもの、いちいち、確認するまでもない。

 踵を返して、俺は来た道を戻り始めた。

 死神が追ってこないよう、切に祈りながら。

 焦ったせいか、何度か有刺鉄線に衣服を引っ掛けてしまった。布が切り裂かれ、肌に傷を負ってしまったがそんなことに構っていられない。とにかく俺は歩き続けた。がむしゃらに歩き続けた。

 やがて、前方に一枚のドアが現れる。隙間から明るい光が漏れている。

 粘液に塗れてグッショリと湿り、奇怪に変形したドアのノブには、プラスチックのプレートがかけられていた。

 保健室――。確かめるよりも先に、身体を投げ込むようにしてドアを押し開き、勢いよく俺は中に飛び込んだ。



「…………」

 気がつくと、俺は背中を壁に、冷たいモルタルの床に座り込んでいた。

 天井から部屋を照らしつける照明の光は、これまでになく優しく明るい。

 ……ひょっとして、ここは天国?

 焦点が定まらない目でそれを見上げながら、ボンヤリと俺は思った。

 いや、違う。こんな消毒薬臭い天国はない。そして、多分、地獄でもないだろう。

 薬壜やファイルが収められた棚の横に立つ、人体模型の媚びるような笑顔は死後の世界のものとしては余りにも俗っぽい。

 顔をしかめながら俺は立ち上がった。全身が軋むように痛い。見下ろすと上着やジーンズのズボンのあちこちが破れ、そこからジンワリ血が滲んでいた。

「さて。……どうするかな、これから」

 投げやりに独り言を呟き、保健室の中を見回す。

 しかし、役に立ちそうな物は何もない。外の怪物どもに対抗する手段も、この世界から脱出するための手がかりも何も。

 ガッカリしながらも、棚に向かって俺は歩いた。せめて、傷の手当てぐらいはしておきたい。こんな状況じゃ、気休め程度の処置しかできないだろうが。お目当ての救急箱は、すぐに見つかった。

 扉を開いて、それを取り出そうと手を伸ばしかけた時だった。

 スゥー、スゥー……

 小さく、健やかな寝息が微かに聞こえてきた。

 ハッとして、俺は振り返ったのは、保健室の一角を隠すように取り囲む、布地のパーテーション。その向こうから寝息は立てられているようだった。

「…………」

 無言で俺はパーテーションを開く。そこに置かれていたのは一台のベッド。その上で綺麗に洗濯された布団を頭から被り、誰かが寝ていた。

 布団の膨らみは、小さい。酷く華奢な体格の持ち主のようだ。

 焦るなよ、六道歩……!

 片手で布団の端を掴み、もう片方の手で警棒を構えながら俺は自分にそう言い聞かせていた。

 どんな怪物だろうと、寝込みを襲ってやればイチコロのはずだ。

 素早く布団を捲り、容赦のない一撃をそいつの脳天に見舞ってやればいい。

 非情な襲撃者になることを決意し、俺は荒々しく布団を捲った。

「きゃあっ!」

 甲高い悲鳴をあげ、ベッドの上で寝ていた人物が跳ね起きた。

 そして、ドギマギした表情で抗議してくる。

「ちょっ、ちょっと! いきなり、何するの? ビックリするじゃない!!」

 しかし、そいつ以上に俺のほうが驚いていた。

「あれ、歩……?」

 呆然としている俺に気が付き、そいつはポニーテールに結んだ、長く艶やかな金髪を後に払った。

 そして、照れたような微笑を浮かべて言う。

「きゃは、久しぶり! 元気にしてた?」

「おっ、おっ、お前……! 何でだ!?」

 相手に何を問いかけているのか、俺は自分でもよく分からなかった。

 驚愕のあまり、思考も言葉もうまく続けられなかった。

 ベッドの上にいたのは、一昨日、奇怪な姿に変貌した地下鉄構内で線路越しに言葉を交わした、外国人と思しき少女――アマリリスだった。


■3■


 トン、と軽やかな音を立ててベッドから降り立ち、

「…………」

「あーあ、よく寝た……」

 何と言えばいいか分からず、固まっている俺の目の前でアマリリスは両腕を大きく伸ばして欠伸をする。

 呑気な、と言うよりは場違いな仕草だった。あまりにも。

 口元を拭いながら、少女は長い睫毛を瞬かせ俺を振り返る。

 パッチリと開かれた大きな瞳は、透き通るようなスカイブルーだった。

「歩、怪我してるよ?」

「え? あ、ああ……」

 不意に、血の滲む肩を指差され、俺はぎこちなく頷いていた。

「フート・スキャンパーのやつらね、きっと」

 可愛らしい顔に憤りの色が浮かばせるアマリリス。

「小鬼は皆、凶暴だし、意地悪だし、それに不潔だし。あたし、あいつら大嫌い」

 彼女が言っているのは、あの小さな怪物どものことだろう。

 なるほど、小鬼か。

 確かにあいつらは悪魔とか魔神とか、そんな偉そうな感じじゃない。その使い走りってところだ。それでも、戦士でも退魔師でもない俺にとっては十分すぎる脅威だったが。

「あ、ごめん!」

 はっ、とした表情でアマリリスが両手を合わせる。

「こんな話より、傷の手当てが先だよね? 確か、そこに救急箱が――」

「ま、待て! ちょっと、ちょっと待ってくれ!」

 俺は慌てて、近づこうとした相手を片手で制していた。

「ん? どうかしたの?」

「聞きそびれていたけど、お前、いや、君は何者だ?」

 声の調子が固く強張っているのが自分でも分かった。

「何で俺の名前を知っていたんだよ? 大体、ここで一体、何を……」

「歩ったら、ひどいなぁ」

 小さく溜息をつき、少女は少し傷ついたような表情を浮かべる。

「あの時、ちょっとだったけどお喋りしたじゃん。忘れちゃったの?」

 勿論、それは覚えている。

 しかし、俺が尋ねているのは、それ以前に――

「あたしはアマリリス。……名前くらい、ちゃんと覚えてよ」

 少しばかり拗ねたような俺を睨む女の子。

「一応、歩の命の恩人なんだから、さ」

 ああ、そうだった。

 忘れかけていたが、この子――アマリリスの言う通りにしたからこそ、怪物に八つ裂きにされることもなく、元の世界に帰れたのだった。

「すまん」

 素直に俺は頭を下げた。

「ずっとテンパリ通しだったもんだから。慣れてねーんだ、こういうの……」

 たどたどしく言い訳する俺を横目に見て、

「いいよ、もう、許してあげる」

 クスッ、とアマリリスが小さく笑った。

「傷の手当てが済んだら出発しよ? 何時までも、こんな所にいたくないでしょ?」

「あ、ああ……」

 釈然としないながらも、俺は頷き、背後の棚を振り返った。

 そして、その隅に置かれた救急箱を手に取ろうとして、

「あれ?」

 思わず、素っ頓狂な声をあげていた。

 無造作に救急箱の横に突っ込まれていたのは、一本のビデオテープだった。

 DVD機器の普及で、最近、見かけなくなってきたVHS。問題は、その背に張られたラベルの文字だった。今日の日付とともに、それはこう書き殴られていた。

 私を見て――、と。



 傷にバイキンが入らないよう、応急処置をしてもらった後――

 俺はアマリリスと一緒に保健室の外に出た。どこから持ち出してきたのか、アルミニウム製の大きな懐中電灯をアマリリスは所持していた。

 それを点灯しながら、

「ああ、もう! 嫌になっちゃうなぁ」

 醜悪な周囲の光景に頬を膨らませた。

「ドロドロでジトジト……! いつ来ても、ここって最悪の世界ね!」

「…………」

 少し躊躇い――、

「なぁ、アマリリス。聞いていいか?」

「ん? なに?」

 キョトンとした表情で話しかけた俺に懐中電灯に光を向けるアマリリス。

 その眩しさに目をショボショボさせながら俺は尋ねた。

「その、何て言うか、日本語上手いよな? こっちでの生活は長いの?」

「えっ、あたしは生粋の日本人だよ?」

 驚いたような表情を浮かべるアマリリス。

「どうしてそんなこと聞くの?」

「どうしてって……」

 質問を質問で返され、俺は口篭っていた。

 ……いかん。このままでは会話が終ってしまう。

 そう考え、「それじゃあ、さ」とか強引に俺は話題を変えた。

「アマリリスって、この世界に詳しいよな? 何があっても落ち着いているし……」

「えへへへー、そうかな?」

 誉め言葉ととったのか、照れ臭そうにアマリリスが鼻の頭をかく。

「あたし、よく大人っぽいって皆から言われるんだよね」

 いや、大人っぽいとは一言もいっていない……。

 余計なことを言いそうになるが、何とか思い止まり、俺は言葉を続けた。

「どれくらいの間、この世界にいるの? やっぱり、俺と同じように」

「ずーっと、だよ」とスッキリした笑顔でアマリリス。

「えっ」

 何気なく返された言葉を俺は鸚鵡返しに繰り返していた。

「ずーっと……?」

「あれ? 言わなかったっけ?」

 肩を竦めたアマリリスは悪戯っ子のような微笑を浮かべた。

「あたしね、いつか歩がこっちに来ちゃうっていつも感じていたの。……だけど、こっち側の連中には手出しなんかさせないから安心して? 何度でも、あたしが歩を無事にもとの場所に帰してあげるから」

 闇の中に浮かび上がる、向日葵のような屈託の無い笑顔に俺は薄ら寒いものを感じた。

 ひょっとすると、この子――アマリリスは正気を失っているのかも知れない。

 男の俺が、内心、死ぬほどビビッてるってのに、アマリリスは不安がっている様子も怯えている様子も微塵に見せない。こんな訳の分からない、怪物だらけの閉鎖空間に年端も行かない女の子がたった一人で閉じ込められていたにもかかわらず、だ。

「それで――」

 複雑な表情で黙り込んだ俺に、当のアマリリスが明るい口調で言った。

「脱出する前に、そのビデオを再生できるところに行きたいんだよね?」

「あ、ああ……」

 曖昧に頷き、俺は肩越しに背中のリュックサックを一瞥する。

 その中には、先程、保健室で見つけた、私を見て、とラベルに書かれたビデオテープが入っていた。

 正直なところ、俺はそれが気味悪くて仕方がなかった。何しろ、こんな不条理な世界の物だ。何か得体の知れない力で罠が仕込まれているのかも知れない。

 だが、それでも、何故かそのテープを放置していく気にはなれなかった。何が何でも中味を確認せねばならない。そんな想いが俺の中に生じていた。

「うーん、だったら……」

 少し考え、

「放送室に行ってみる?」

 パッと明るい顔に戻って、アマリリスが言った。

「チラッと覘いたことがあるんだけど、機材がいろいろ置いてあったよ。確か、ビデオのデッキもあったと思う」

「……行き方、覚えているのか?」

「もちろん♪」

 そう言って、アマリリスはスタジャンのポケットから一枚の紙片を取り出す。

 はい、と突き出され、首を傾げながら俺は紙切れを受け取った。

 どうやら、それは――、この迷いの世界を俯瞰した地図のようだった。

 しかも、手書きらしく、歪んだ長方形の中に細かい通路のようなものがギッシリ書きこまれている。あちこちに赤インクで×印が付けられており、極めて読みにくい、小さな丸文字で何事か走り書きされている。

 そして、余白部分にはこんな言葉が書かれていた。


 行ったり来たりで、すっごい大変

 だけど、元気にがんばるぞ! (おー♪)


「なぁ、これって、もしかして――」

「きゃはっ、あたしが書いたのよん♪」

 得意げに胸を張り、アマリリスはブイサインをして見せる。

「あたしって、こう見えて優秀なマッパーなんだよ? 驚いた?」

「あ、ああ、そうだな……」

 年上として、出来れば優しく微笑み返してやりたかったが、無理だった。

 大体、何だよ? その、マッパーって言うのは? 職業?

 しかし、まあ、大丈夫だろう。この世界でたった一人、アマリリスが生き延びてきたのは紛れもない事実だ。こんな読みにくい、と言うより落書きそのものの地図でもないよりはマシだ。……多分。

 無理にでも、俺はそう思うことにした。

「じゃあ、そろそろ行こっか」

「あ、ちょっと待ってくれ!」

 まるで散策にでも出かけるよう名気楽さで、歩き出そうとしたアマリリスを俺は慌てて引きとめていた。

「うん? どうしたの?」

「悪い。さっきは言いそびれたんだけどな」

 振り返ったアマリリスに俺は今、思い出したことを告げる。

「怪物は、そのフート・スキャンパーとか言う小さいやつらだけじゃなくて、鎧を着た、死神みたいなデッカイのもウロウロ……」

「ああ、スローターのこと?」

 頷いたアマリリスの顔にはやはり、恐怖も不安の色もなかった。

「最近、見ないなぁって思っていたら、こんな所にいたのね」

「……あいつのこと、知ってるのかよ?」

「うん。まあ、腐れ縁ってやつ?」

 小さく渋面を作り、だが、肩を竦めてアマリリスはこう続けた。

「でも、大丈夫だよ。あいつのことならしばらく気にしなくても」

「何で?」

「だって、あいつ、今、その辺のフート・スキャンパーを狩り殺すのに夢中になっているはずだもん」

 可愛らしい笑顔に戻り、物騒なことをサラリと言ってのけるアマリリス。

「それがスローターのお仕事だからね」

「仕事って、……あれがか?」

 俺の脳裏に浮かんだのは、先刻、目にした血生臭い虐殺の光景。

「でもフート・スキャンパーって繁殖率が高いから、いくらやっつけてもすぐ元の数に戻っちゃうんだよねぇ……」

 溜息混じりにそう言い、アマリリスは俺の前を歩き始めた。

「あ、ちょっと、待ってくれよ!」

 慌てて、俺はその後を追った。



 アマリリスに先導され、俺は再び有刺鉄線の迷路を進んだ。

 進むごとに迷路はますます複雑に入り組んでゆき、場所によっては身体を傾けねば通れないほど狭くなっていた。

 途中、件の小さな怪物どもにも何度か出くわした。しかし、幸いにも俺達はやつらと戦わずにすんだ。有刺鉄線に引っ掛けられ、肉袋のようになったフート・スキャンパーは大抵が息絶えていたから。

 稀に、信じられないような生命力で指先をヒクヒクさせているヤツもいたので止めをさしておいた。痛みを長引かせない、という仏心からではない。生き返ってこないようにと念には念を入れてだ。

 そんなことを繰り返しているうちに、俺もアマリリスもお互いに口数が減り、会話も途絶えていた。

 必要以上に物音を立てて、怪物どもの気を引きたくなかっただけじゃない。鼻が曲がりそうな異臭と汚物にまみれた空間が孕む、尋常ではない負の雰囲気に二人ともすっかり気が滅入っていた。

 しかし、それでも、いや、こんな状況だからこそ、アマリリスの存在はありがたい。

 とてもではないが、俺一人ではこんな強行軍は不可能だった。きっと途中で座り込んでしまい、そのまま二度と動けなくなったに違いない。

 ともすれば萎えてしまうそうな気分も、懐中電灯の明かりの中に彼女の姿を確かめるたびに何とか持ち直すことができた。俺は、いや、俺達はまだ生きていると実感することができて。

 こんな最低最悪の悪夢の世界にあっても、辛うじてではあるが俺達は生き延び続けている。そして、俺はアマリリスと帰る。俺達が本来いるべき世界、現実へと。

 決意に俺が唇を噛み締めた時、出し抜けにアマリリスの姿が消えた。

 ギョッとして思わず歩調を速めたが、彼女は角を曲がっただけだった。

「歩。見て……」

 そう言って、アマリリスが懐中電灯の光を掲げる。

「着いたよ」

 彼女が照らしたのは、有刺鉄線のフェンスに挟まれた長い鉄骨の階段。

 それを昇りきったところに湿り歪みかけたドアが見える。貼り付けられたプレートには、『放送室』と記されていた。



「ね? あたしって、頼りになるでしょ? ね? ね?」

「ああ、本当に助かったよ」

「きゃはー♪」

 そんな会話を交わしながら、俺はアマリリスを背中に庇い、そっと室内に足を踏み入れた。

 片手で警棒を握り締めたまま、もう片方の手を壁に這わせる。

 そして、探し当てたスイッチを押し、部屋の明かりをつける。

 実を言うと、物陰から物騒な先客――つまり、怪物がけたたましい奇声を挙げながら飛び掛ってくるんじゃないかと内心、ビクビクものだったが幸いにも、何も起こらなかった。

「さて、と……」

 改めて部屋の様子を俺は見回す。アマリリスの言った通りだった。

 テーブルの上に置かれた、大きなマイクの付いたコンソールに音響の編集機器。

 学校の各施設に繋がっていたと思しき、数台のモニター。少し、古い感じのデスクトップ・パソコン。それに何だかよく分からない、ゴチャゴチャとした機材がラック棚に積み上げられている……。

 白い埃が山のように塵積もっていたが、さほど古い物でもない。まだまだ使えそうだった。その中から、ビデオデッキを見つけ出し、俺はそれをテーブルの上に置く。

「アマリリス。そこのコードを取ってくれ」

「あ、うん。りょーかい!」

 元気よく、アマリリスが手渡してくれたコードのプラグをデッキとモニターに繋ぐ。

 そして、背中のリュックサックを下ろし、その中から件のビデオテープを取り出す。

 デッキの挿入口にそれを運びかけて……

「…………」

 改めて俺は躊躇いを覚えた。

 このビデオは間違いなく迷いの世界の主たる、井原千夏が寄こしたものだ。これを見たらきっと後戻りできなくなる。そんな気がした。

「じゃあ、歩。あたし、あそこで見張り番してる」

 気を利かせたようにアマリリスがドアを指差し言った。

「何かがやって来たらやばいっしょ?」

「ああ、頼むぜ……」

 引き攣った笑みを返し――、俺は諦念の息を吐く。

 そうだ。ここまで来て、今更、逃げてどうする。覚悟を決め、テープを差し込み口に挿入した。

 ヴィイイイイイイイイイイイイイイイイインッ……

 低い音を立てて、テープを飲み込んだビデオデッキが巻き戻しを開始。

 わずかな沈黙の後、ビデオの再生が始まる。

 しばらく砂嵐が吹き荒れた後、モニターに映し出されたのは見覚えのある夕暮れ時の校庭。正確に言えば、その隅にある水飲み場だ。

 次の瞬間、思わず俺は身を乗り出していた。

 やがて、そこにフラフラとした足取りで現れたのは――、俺だった。

 背中に夕陽を浴び、逆光になっているため、表情はよく見えないが、間違いない。それは小学生の頃の俺だった。

 苦しげに喘ぎながら、子供の俺は蛇口を捻りゴクゴクと水を飲み始める。

 と、その背後に小柄な人影が近づく。それは井原だった。井原はその可愛らしい顔を涙でぐしょぐしょに濡らしていた。

「六道君――」

「ん?」

 小さな、蚊の鳴くような声に呼びかけられ、俺が肩越しに振り返る。

「……ごめんね」

 深く俯いたまま、何かに耐えるような表情で井原が言う。

「わたしのせいで、毎日、こんな――」

「き、気にするなって」

 口の中をモゴモゴさせながら俺が答える。

 苦笑を浮かべたその顔は、右半分が酷く腫れ上がっていた。髪の毛はクシャクシャになり、唇の端が切れている。

「今な、カンフー映画のビデオをいっぱい見て研究中なんだ」

 水で口をゆすぎながら、また俺が言った。

「複数の敵のやっつけ方。明日は俺が勝つよ」

 それから、長い沈黙の後――

「……うん」

 やはり、蚊の泣くような小さな声で井原が頷いた。

 そこで画面が暗転する。

 モニター画面に釘付けになったまま、俺は低く呻いていた。

 そうだ。そうだったんだ。

 俺の中で、パズルが組み合わさるようにして記憶が甦ってくる。

 クラスの連中に取り囲まれ、暴力を振るわれていたのは井原だけじゃない。

 俺もだ。

 俺自身、やつらの下らない鬱憤晴らしのはけ口にされていたのだ。

 いつの日だったか、休み時間、一人で教室に残っていた井原に何となく、声をかけたのがそのきっかけだったと思う。そして――

 何時しか、俺は膝に置いた両の拳を固く握り締めていた。

 胸にこみ上げてきたのは、どす黒いタールのような憎悪の念。

 その瞬間、画面が切り替わり、脳裏に浮かんだ過去の映像と重なった。

 それは夕暮れ時の公園だった。

 俺と井原がいつも寄り道していた、ビジネス街のど真ん中の。

 そこで俺と井原はいろんな話をした。

 家族のこと、好きな食べ物やアニメのこと、勉強や将来の夢も。

 だけど、それはその日、全て終ってしまった。

「くそっ! よくも、こんなことを! よくも!」

 組み伏せた、泣きっ面のクラスメイト――阿部洋介の顔目掛け、パンチを雨あられと降り注ぎながら、小学生の俺は絶叫していた。

 絶叫しながら、泣いていた。

 泣きながらも、嘲りの笑みを浮かべていた。

「いつもの勢いはどうしたよ? それとも、取り巻きがいなきゃ、喧嘩じゃ俺には勝てないってか? あ?」

 ブッと相手が鼻血を溢れさせたのも構わず、俺は殴りつける。

 地面の上に散らばっているのは、無残に破き捨てられた一冊のスケッチブック。

 畜生、俺がここに来るの、いつもより遅れたから……!

 ふと俺は殴りつけるのを止めた。そして、安堵の表情を浮かべかけた阿部の首に両手をかけ、恐ろしいまでに平坦な声で言った。

「死ねよ」

 ギョッとしたヤツの顔以上に俺は蒼白になっていた。

「お前なんざ、死んじまえばいいんだ……!」

 と――

「もう、やめて! やめてよ、六道君!」

 泣きじゃくりながら、背中から俺を抱きすくめたのは井原だった。

「もう、わたし、大丈夫だから! 平気だから! お願いだから、そんな風にならないで! 六道君まで、そんな怖い人になったら、わたし、わたし……」

 ぶつっ、と音を立てて画像が途絶えた。

 ビデオが終了したらしい。

 両肩に圧し掛かる喪失感に俺はガックリと机に突っ伏していた。

 俺が憎しみを向けるべきなのは、井原をいじめ続けたクラスメイト達でもなければ、毎日のように彼女の家にやって来て大声を張り上げた借金取りでもない。

 それは他でもない、俺自身だった。

 あの日、阿部洋介が取り上げた井原のスケッチブックを破くのを目の当りにし、俺は鬱屈した感情を爆発させた。

 そして、助けるつもりだった井原まで怯えさせ、結果傷つけてしまった。

 当時、父親の自殺以来、人が変わったように刺々しい性格になった実の母に彼女が苦しんでいたことを知りながら、だ。

 それから数日後のことだった。

 借金の取立てに苦しんだ母親とともに井原が夜逃げしたと聞かされたのは……。

 だから、意図的に俺は井原のことを忘れていた。

 とんでもない失態を演じてしまった自らを厭う余りに。

 自分の女々しさに改めて怒りが込み上げてくる。

 と、その時だった。

 バタン、と背後でドアが閉まる音が聞こえた。

「……アマリリス?」

 女々しい涙を拭い、俺は背後を振り返った。

 ――いない!?

 ガン、と頭を殴られたような気がして俺は椅子から立ち上がった。俺がビデオを見ている間、ドアの前で見張りをしていたはずのアマリリスの姿が消えていた。

 ドッ、と背中に溢れる冷や汗。同時に心臓が早鐘のように打ち鳴り始める。

「お、おい! 悪ふざけはやめてくれよッ!」

 動揺のあまり、俺は思わず声を荒らげる。しかし、返事もなく、悪戯っぽい微笑を浮かべたアマリリスが物陰から出てくるなんてこともなかった。

 くそ、冗談じゃねぇぞ、こんな時に!

 ぐるぐると血走った視線を俺は巡らし――、ふとモニターの一台に明かりが灯っているのが目にとまった。

 また違った映像がそこに映し出されていた。

 場所は、あの6年2組の教室。

 その教壇の前で、当のアマリリスが椅子に座っている。

 ロープで椅子に縛り付けられ、気を失っているらしい彼女の周りをピョンピョン跳ね回っているのは、あの小さくて醜いやつら……。

 その中でも特に醜い一匹、顔に焼き爛れたような傷を負ったフート・スキャンパーがモニターの向こうから腐ったような紫色の舌を出してケラケラと笑う。

 瞬間、カッと頭に血が昇った。

「阿部ッ! てめえ!」

 怒声を張り上げながら、俺はモニターを掴んでいた。

「その子に、アマリリスに触るな!」

 しかし、そんな俺を嘲笑うかのように映像が消えた。

 残ったのは、空恐ろしいまでの沈黙だけだった。


■4■


 あれこれと物事を考えているような余裕は俺にはなかった。

 脇に置いておいたスタンガン警棒を引っ掴み、放送室を飛び出す。

 あの子を、アマリリスを死なせてたまるか!

 長い鉄骨の階段を駆け下りながら、そんな想いだけに俺は突き動かされていた。そして、アマリリスと歩いた記憶を頼りに、来た道を戻り始める。

 まずは直進。そこから三つ目の通路を右折。

 あの角を曲がったら、しばらく真っ直ぐ道なりに。

 その次は右の狭い通路。

 その次は小さな階段を下ったところを左だ。

 その次は――

 その次は――

「よし、行けるぞ」

 思った以上に有刺鉄線の迷路をスムーズに進めていることに気がつき、俺は笑みを漏らしていた。こんなに自分の記憶力が高いとは知らなかった。

 やがて、アマリリスと再会した、保健室のドアの前を通り過ぎる。

 よし、後は一気に教室まで――そう思った時だった。

 何かが足首に引っかかる感触。カクンッと前のめりに倒れこみそうになるが、咄嗟に踏ん張って、俺は体勢を保った。

 振り返り、そして、見た。俺の足首に、西部劇でみる投げ縄のようになったロープが絡み付いているのを。

 それを外そうと、手を伸ばす暇もなかった。

 闇の中から、次から次へと先を輪に括ったロープが投げかけられて来る。

 為す術もなく縛り上げられながら、その先にいくつもの悪意が蠢くのを感じた。

 誰の仕業か、考えるまでもない。怪物どもだ。

 やつら、俺を待ち伏せしていやがった……!

 やがて、思った通り、俺の前に数匹のフート・スキャンパーが歩み寄って来た。

 その中心にいたのは、阿部……。俺のスタン警棒で顔に火傷を負ったあいつだ。

 小さな身体には不釣合いなほど、やつは厳しく大きな刃物を手にしていた。

 包丁や果物ナイフといった家庭用品じゃない。いわゆる、アーミーナイフと言うヤツだ。

「そんなもん、どこに隠し持っていたんだよ。見つかったら職務質問されるぞ?」

 俺の息も切れ切れの皮肉にも、阿部はニタニタ笑うだけで何も答えなかった。

 恐らく、あいつは手にしたナイフで、身動きの取れなくなった俺をゆっくり嬲り殺しにするつもりだ。そして、仲間を呼び集め、生肉パーティでも始める気なのだろう。

 しかし、俺が感じたのは恐怖ではなかった。怒りだ。

 沸騰し、脳が溶けてしまうのではないかと思えるほど激しい怒りに俺はギリギリと歯軋りしていた。

 トンッ、と足音を立てて床を蹴り、阿部の顔をした怪物が俺に飛び掛ってきた。

 鋭い刃先を俺に向けて、一直線に。

 反射的に俺は目を固く閉じ、身を竦ませていた。

 しかし――、予想していた一撃はなかなか襲ってこない。

 恐々と俺は目を見開き、

「…………!?」

 そこにあった信じられない光景に息を飲んでいた。

 もう一匹、怪物がそこにあらわれていた。

 ギーギーと苦しげに喚く阿部の顔をした怪物の胴を逞しい腕で鷲掴みにしているのは、髑髏の顔を持つ重厚な鎧を身に纏った巨漢、スローターだ。

「…………」

 異形の巨人は無言のまま、黒々とした眼窩でジッと俺を見下ろしていた。

 そして、凍り付いている俺の頭上で――、グシャ、と音を立てて、手中の生き物を握り潰した。

 よく熟れたトマトをそうしたかのように、赤くベトベトした者が周りに飛び散る。

 それ同時に、四方から俺を縛り上げ引っ張っていたロープから力が失われる。

 それからは――、阿鼻叫喚の大騒ぎだった。

 無残にリーダーが殺されたのを見て、逆上したのか、闇に潜んでいた小さな怪物どもが一斉に飛び出してきた。

 その標的は俺ではなく、スローターだった。

 それぞれが手にした鋏やらカッターナイフやらを振り回して、死神が着込んだ鎧の隙間につきたてようとする。

 一方、スローターは全く慌てる様子もなく、フート・スキャンパーどもを手当たり次第に捕らえ、一匹一匹、丁寧な手つきで有刺鉄線に擦りつけ潰してゆく。その仕草は、蜂の群れにたかられて鬱陶しそうに前足を動かす熊に似ていた。

「よーし、その調子だ」

 ロープを解いて戒めから逃れ、阿部が落としたアーミーナイフを拾い上げながら、俺はやつらにエールを送っていた。

「怪物同士、好きなだけ殺し合え!」

 また一つ、また一つと発せられる断末魔を背中に聞きながら、俺は迷路を急いだ。



 何とか、俺は6年2組の教室の前まで戻ってくることができた。

「おい、大丈夫か!?」

 声を張り上げながら、勢いよくドアを開け放つ。

 そして、教壇の前で椅子に縛られたまま俯いているアマリリスに気がつき、急いで駆け寄ろうとした。

 しかし、

「アマリリス……?」

 俺は眉をひそめた。自然と、彼女に近づく足取りが遅くなる。

 ツン、と鼻を刺す鉄のような異臭。それはこの迷いの世界に取り込まれるたび、嫌と言うほど嗅がされてきた臭いだった。

 そして――、ふと、俺は気がつく。

 アマリリスの胸元をジットリと濡らす赤黒い染み……。

 それは夥しい吐血の跡だった。

「う、嘘だろ……」

 項垂れたまま、身動き一つしないアマリリスの前に俺は崩れるように膝をつく。

「アマリリス! 起きてくれよ、なぁ!」

 泣き出しそうな声で揺さぶってみるが――、彼女が息絶えているのは明らかだった。

 見ると、か細く白い首筋には吸血鬼に咬まれたような傷跡が二つ。

 やつらが、あのおぞましいフート・スキャンパーどもが鋭い針のようなもので突き刺したに違いない。

 なんて酷いことを……!

 氷のように冷たくなり始めたアマリリスを胸に抱きしめながら、俺は嗚咽を噛み殺す。

 自分の心が引き裂かれてゆくようだった。いっそのこと、狂ってしまいたい。しかし、皮肉にも俺を正気に保たせたのは、アマリリスを死に追いやったこの世界への怒りだった。

 暫くの後、

「――帰ろう、一緒に」

 俺は呟き、彼女の戒めを解いてやった。

 例え、遺体であろうとこんな場所に置き去りにするには忍びない。

 改めて、俺は教室の中を見回していた。目に止まったのは、先程見つけた、割れた窓から吹き込む風に大きく揺れるカーテン。

 これだ……!

 拾ったナイフを使って、俺はカーテンを真ん中から二つに引き裂いた。

 それをきつく結び合わせて、即席の避難梯子を拵え、しっかりと教室の窓枠に結び付ける。

 即席の緊急梯子の出来上がりだ。

「ちょっと、我慢してくれよ」

 ロープで背中に括りつけたアマリリスに俺は呼びかけていた。

「一緒に帰ろうな……」

 カーテンを手に取り、窓を跨ぎ超え――壁に張り付くようにして俺は下り始める。

 校舎の外は相変わらず黒い煙に包まれていて、俺に怖気を震わせたが幸いにも地面に辿り着くまで、さして時間はかからなかった。

 息をつく間もなく、俺はアマリリスの遺体を抱えたまま、ピラミッドのように積み上げられた机の山に向かう。その頂上に、あの忌まわしい卵の落書き――デュカリ・デュケスの印形があるのは、校舎から確認済みだ。

 ゼェゼェと息を切らしながら、一段一段、机の山を登ってゆく。

 頂上まで後、数段という時だった。

「うわっ!」

 積み重ねられた机の下から伸び出てきた、死人のそれのように青白い腕に足をつかまれ、俺は短く声を発していた。毒虫に刺された時のような痛痒い感触が足首を貫く。

「畜生、離せっ!」

 罵声を挙げながら、殆ど無意識の内に俺はそいつにナイフを突き立てる。

 ブチュッ、と厭な音を立てて鮮血が飛び散り、俺の足首に爪を食い込ませていた怪物の力が弱まる。

 一閃、ニ閃――。

 続けざまに俺はナイフを振るった。

 怒声を上げて指を切り飛ばしてやると、恐れをなしたのか、青白い腕は低い苦悶の呻きとともに机の下に引き下がった。

 荒い息をついて、それを見送った後、

「……待たせてごめんな」

 そう囁きながら、アマリリスを担ぎ直し俺は再び机を昇り始める。

「さあ、一緒に帰ろう」

 それからは邪魔者も現れることなく、頂上に登りつめることができた。

 何をすればいいのか、もう、分かっている。

 件の机――、デュカリ・デュケスの印形が描かれた机を叩き割らんと俺は警棒を力任せに振り落とした。力一杯、叩きつけた警棒が机の落書きを砕いたと思った、次の瞬間だった。ガラガラと轟音を立てて、足元が崩れ始める。

「……!」

 声をあげる間もなく、俺とアマリリスは宙に投げ出されていた。

 咄嗟に俺はアマリリスの華奢な遺体を抱き締める。

 絶対にこの子を現実の世界に連れ帰るんだ……!

 凄まじい勢いで重力に引き寄せられる中、俺はその想いをもう一度噛み締めた。



「――ちょっと、六道君?」

 ハッと気がつくと、俺は冷たい廊下に倒れ伏していた。

 そこは腐肉も異臭もない、勿論、怪物もいない、現実の学校の廊下だ。

 呻きながら両手を突き、身体を起こすと蒼白になった河合先生が駆け寄ってきた。

「どうしたの? やだ、怪我しているじゃない!」

 あー、何度目だろう、これ……。

 迷いの世界から帰還するたび、その場に居合わせた人間に奇妙な印象を抱かせてしまう。当たり前といえば、当たり前だ。河合先生にしたら、数秒前まで普通に話していた俺が、何の脈絡もなくズタボロになっているんだから。

 さて、何と、説明したもんかな?

 大きく息を吐いてから俺は傍らを振り返り――、表情を強張らせていた。

 いない……?

 あの子が、アマリリスがいない。

 何故だ?

 一緒に帰ってきたはずなのに!

「アマリリス!」

 立ち上がりながら、俺は叫んでいた。

 自分でもどうしようもないくらい動転しているのが分かった。

「アマリリス、どこだ!」

「ちょっ、ちょっとどうしたの!? 何を言ってるの?」

 俺の剣幕に河合先生が怯えたように表情を歪ませる。

「だから、一緒に帰ってきたはずの女の子が……」

 いないんですよ、と河合先生に叫ぶように答えようとして――

 俺は足元に一枚のテレフォンカードが落ちているのを見つけた。

 それは一昔前の、アニメのグッズだった。

 描かれているのは、活発で明るそうな微笑を浮かべた少女……。

 それは鳥肌が立つほど、アマリリスに似ていた。

 そして、俺は思い出す。

 そのテレフォンカードは、俺が井原千夏に贈ったものだ。

 雑誌か何かの懸賞で当てたのを似顔絵を描いてくれた礼として渡したのだ。

 その時、井原は学校では一度だって見せたこともない可愛い笑顔で喜んでくれて……。

「嘘だろ。いくらなんでも、そんなこと――」

 河合先生が懸命に何か話しかけているが、混乱する俺には意味を為す言葉に聞こえなかった。

 情けないくらい、震える手でテレフォンカードを拾い上げる。

 そして、そこに記されたアニメのタイトルをうつろな目で追う。


 迷界のアマリリス――


 がん、と頭を殴られたような気がした。

 その衝撃にヘナヘナとその場に膝を着き、それから俺は何も分からなくなった。

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