■第二幕 水曜日 ~the line  of  Fate Destiny~

■1■


 身も心もクタクタだったにもかかわらず、殆ど眠れないまま俺は次の日の朝を迎えた。

 朝飯を胃に流し込むようにして、何とか平らげた後、俺はバスに乗って街に向かった。

 病み上がりなのに、と相変わらず、心配している爺ちゃんには「久しぶりにタワーレコードでも冷やかしてくる」と言っておいた。

 正直、爺ちゃんに嘘をつくのは胸が痛む。とは言え、本当のことを話したところで、孫の頭がおかしくなったと余計な心労を掛けてしまうだけだ。

 何しろ、俺自身、自分が本当に正気なのか、自信がもてないんだから。

 と、まあ、そんなわけで――

 俺は市役所の裏手にある停留所でバスを降りた。

 そこから屋根付きの立体歩道橋をのぼって、市内を縦断する川の対岸へと移動。歩道橋から交差点に降り立ち、横断歩道の先に立つ、大きな石の鳥居を見上げる。その向こうに、大きな商店街の入り口があった。

 商店街全体を覆っていると思しきアーケードには、文字看板が踊っていた。

 夢ノ宮銀座、と。

「…………」

 それを見上げながら、横断歩道を渡り鳥居の下を潜り抜け、商店街に足を踏み入れる。

 まだ午前中ということもあってか、買い物客の姿はまばらだった。

 重たい足取りで商店街の奥へ奥へと進む。

 そんな俺の背中を、萎びたタバコ屋の番をしている、猿の干物のようなバア様がジッと見送っている。

 この夢ノ宮銀座は、この辺りでは一番古く規模の大きな商店街らしい。

 そのせいか、所謂、怪談話の類が後を絶たない。

 曰く――

 夜中になると中年女の顔をした猫が飲食店の裏をうろついているとか、血塗れの婆さんがカラッポのベビーカーを押しているとか、人間サイズの蝉だか蜻蛉だか分からない巨大な虫が電柱に張り付いているとか、酔って刃傷沙汰を起こし相打ちで死んだチンピラ二人が幽霊になった今も路地裏で喧嘩を続けているとか……。

 要は噴飯ものの与太話だ。

 まともな神経の持ち主なら歯牙にもかけまい。

 しかし、昨日、あんな目にあったばかりの俺には、それを笑い飛ばすような余裕はない。

 第二次世界大戦より以前からそこあり、町の様々な記憶を孕んでいる、その商店街に怪しい者たちが巣食っていてもおかしくはない。そんな気がする。

 小さく首を振ると俺は目に止まったパン屋の店先へと近づいていった。

「あの、すいません――」

 頭をかきながら俺が声をかけると、

「あ、いらっしゃいませ」

 太ったパン屋の主人が、丸く明るい笑顔を向けてくる。

 良かった。いい人のようだ。

 余談だが、俺は他人に道を尋ねるのが苦手だ。苦手と言うのも変だが、なぜか、気後れしてしまう。そう言うトラウマがあるのか記憶にないが、とにかく苦手だ。だから、こういう感じのいい人が応対してくれるのは実にありがたい。

「ちょっと、お聞きしたいんですけど」

「はいはい。何ですか?」

「夢見館っていう、占い屋さんを探しているんですけど――」

 どう歩けばいいですかね、と俺が言い終わるよりも早く、人の良さそうな男の顔が白けたものに変わる。それはもう、コインを裏返したかのように見事な変わり様だった。

 何だ、客じゃないのか。そんな心の声が聞こえたような気がした。

「ああ、夢見館ね……」

 腕を組みながら天井に向けられたパン屋の瞳の中には苛立ちが揺らいでいた。

「ここから、ずっと、奥まったところにあるよ」

「ええ、まあ。だから、行き方を知りたいんスけど……」

 食い下がる俺にパン屋は「ちっ」と小さく舌打ちし、

「あそこに案内板があるから。あれの通りに行けばいいんじゃない?」

 と投やりな口調で俺の背後を指差す。

 なるほど、そこには大きな商店街の案内板があった。長年、増築に次ぐ増築でアメーバーのように巨大化してきた商店街は、蜘蛛の巣のように路地が広がり、まるで迷路のように入り組んでいた。

「あ、どうも。すいません……」

 苦笑を浮かべながら俺が振り返ると、パン屋の主人の姿は既にない。俺が客ではないと判断し、店の奥に引っ込んでしまったらしい。

 前言撤回。感じ悪い店だ。パンが食いたくなっても、ここでは買ってやらない。

 ムカムカしながら俺は案内板の前へと移動した。

 パン屋の主人が言った通り、占いハウス、夢見館は商店街の最奥にあると記されていた。その道順を頭に叩き込み、俺は再び歩き始める。

 そこで占い師として働いている目白アカデミーの同期生、金城多恵に会うためだ。

 昨日の地下街での出来事……。

 新聞やテレビのニュースでは、夢ノ宮駅及び夢ノ宮プラザで事件や事故が起きたという報道はなかったが、あれは断じて白昼夢や幻じゃない。その証拠に、俺の手には怪物の目玉を握りつぶした時の生々しくおぞましい感触がまだ残っている。

 そして、あの似顔絵……。数年間、開くこともなかった引き出しの中から出てきた、俺の絵には、作者と思しき人間の名前がサインされていた。

 井原千夏――。

 小学校六年生の時の同級生と思しき、その女の子のことを俺は今の今まで忘れていた。

 おぼろげながら思い出したのは、その子が暗い表情で、いつも一人でいることが多かったということと、よくスケッチブックを持ち歩いていたということだけだ。

 似顔絵の裏にメッセージまで寄せてくれているのだから、俺とは仲が良かったのかもしれない。

 しかし、俺はどうしても当時のことをそれ以上思い出せなかった。まるで記憶の壜に栓でも締められたかのように。

 単に俺が情の薄い、冷たい人間と言うことなのかもしれないが。

 そう考えると、実に嫌な気分だった。

「…………?」

 ふと俺は足を止めた。

 そろそろ、東に折れる道があるはずなのだが……。

 目の前には二件の店――八百屋と雑貨屋の隙間に伸びる、一本の路地。

 並び立つ店舗の裏側らしいそこは日当たりが悪くジメジメしており、生臭い悪臭を放つポリバケツ、カバーも付けていない剥き出しの室外機が点々と並べられているのが見える。

 一応、細い道が敷いてあって、通り抜けることはできるようだった。

 こんなところを行かなきゃならないのか?

 先程、目にした案内板を思い出してみる。

 ここまで殆ど一本道だった。どこかで道を間違えたと言うわけではなさそうだ。だとすると、あの女の店は、この路地を抜け切ったところにある、と言うことになる。

「…………」

 暫くの間、彫像のように俺はその場で立ち尽くしていた。

 しかし、

「まあ、行くだけ行ってみっか」

 ジッとしていても埒があかない。

 溜息をつきながら、俺はその路地へと足を踏み入れていた。



 背の高いコンクリートの壁に挟まれた、その路地を進むと次第に狭まってゆき、俺は言いようもない圧迫感を覚えていた。

 ブォンブォンブォンブォン……

 回転する室外機のファンの音が妙に神経に障る。そこから吐き出される生温かい風は湿っていて、行き場もないため重く澱んでおり、呼吸するのもままならない。

 やはり、遠回りになっても、明るくて人通りの多いルートを探すべきだったか。

 異臭を漂わせる、水溜りを跨ぎながら俺は後悔に苛まれていた。

 こんな場所が、街中に、それも商店街の中にあったなんて。

 頼むから早く出口についてくれ。

 そんな切実な願いを引きずりながら路地を進み続けると、やがて、路地はジグザグと鋭く蛇行し始めた。

 いつの間にか、コンクリの壁には人間の内臓じみた赤銅色に腐食した排水管が這い伝い、ゴボゴボと嘔吐するような音を立てて赤味がかった排水を大量に吐き出す。

 死んだ魚のように生臭いその匂いに喉を詰まらせた時、路地の向こうに光が差し込むのが見えた。

 それは明るい太陽の光だった。

 どうやら、そこで路地は終るらしい。

 氷を湯で溶かしたように不安が去ってゆき、代わりに小さな安堵感が胸に広がってゆく。

「やれれやれ……」

 自分の小心さに苦笑いしながら俺はそちらへと進む。

 しかし、その時だった。

 壁を沿うようにして置かれていたポリバケツに俺は爪先を引っ掛けてしまった。

「あ、やべ……!」

 派手な音を立てて、ポリバケツが横倒しになる。

 蓋が滑り落ち、中には言っていたものが汚れた路地に投げ出される。

 それを一目見て、思わず俺は息を飲んでいた。

 ポリバケツから飛び出して来たのは、赤ん坊の形をした親指ほどのセルロイド人形。

 それも一体や二体じゃない。

 これで幼稚園ごっこをするとしたら、優に六クラスは作れそうな数だ。

 もっとも、こんな気色の悪い物で遊ぼうとする子供なんていないだろうが。

 セルロイドの赤ん坊達は一塊に集められ、バーナーの炎でも浴びせられたらしい。ドロドロに熔け崩れて交じり合い、嫌な臭いを放つ奇怪な一つのオブジェと化していた。固まりかけたゲロの中に、セルロイドで出来た小さな手足や顔がポコポコ浮かんでいるかのようだった。

「うげえ……」

 昨日、怪物と遭遇した時ほどじゃない。

 しかし、そのおぞましい有様に胸が悪くなるのを俺は禁じえなかった。

 こんな物は無視して通り過ぎてしまえばいい……。

 そう思いたいところだが、ポリバケツをひっくり返してしまったのは俺だ。気は進まないが、やはり、元に戻しておかねばマナー違反だろう。

「ああ、くそ。マジで気持ちワリィ……」

 顔をしかめながら、溶け合ったセルロイドの赤ん坊達を指先で拾おうと俺は屈みかけた。

 と――、

「待って」

「あひゃっ?」

 突然、背骨沿いに細い指先の感触が触れる。電撃のように走った悪寒に身を竦ませながら、俺は背後を振り返っていた。

 まるで最初からそこにいたかのように、路地の出口に佇んでいたのは、クレオパトラカットの若い女――金城多恵だった。

 無表情のまま、天を指差す人差し指が実に白々しい。

 もう、片手に下げたコンビニの袋を揺らしながら、

「それ……」

 とセルロイドの人形の塊を指差し言う。

「放っておけば? 肉食だけど、こっちから手出ししない限り、悪さはしないから」

 肉食? 悪さ? 

 不穏な単語に俺の背中に冷や汗を滲ませる。

 思わず伸ばしかけた手を引っ込めていた。

「じゃあ、行きましょうか」

 そう言って、金城はくるりと踵を返す。

「えっ、ど、どこに……?」

 突拍子もない、その言動に俺は戸惑いを禁じえない。

 そっと立ち止まり、

「……何かあったんでしょう、あれから」

 肩越しに俺を振り返りながら事も無げに金城は続けた。

「おかしな物を見て不安になったから、訪ねて来たんじゃないの?」

 あまりにもストレートな、何もかも見透かしたような物言いに俺は息を呑んでいた。

 確かに俺は、この女に会うためにここに来た。

 だが、しかし――

「じゃ、じゃあ、やっぱり、昨日のアレは、あんたの仕業なのか?」

 それはどうしても確かめて置きたいことだった。

「私の仕業?」

 俺を見つめる金城の眼差しがすっと細められる。

「どういう意味?」

「とぼけんなよ!」

 カッと頭に血が昇り、思わず俺は声を荒らげていた。

 相手が、金城が、女でなければ胸倉をつかんでいたかも知れない。

「あんたに話しかけられた直後だったんだ。地下街の出入り口が塞がれていたり、首つり死体とか訳の分かんねぇ怪物がウジャウジャ出てきたり……! お陰で俺は死ぬ思いだったんだぞ!?」

「怪物?」

 その時、金城の表情が微かに険しくなったように思えた。

 案の定、俺の剣幕に臆した様子は微塵も見せない。

「そんなものまでいたの?」

「ああ、いたさ! 一つ目の、でっかいヤモリみたいなヤツが!」

 訝しげに眉をひそめる金城に向かい、俺は両手を広げていた。

「あいつら、夢ノ宮プラザ中にわらわら出てきやがって……」

 激しく言い募り――、急速に俺の声は小さくなっていった。

 昨日の出来事は、間違いなく現実にあったことだ。

 しかし、金城一人では勿論、例え仲間が百人いたところであんな短時間であそこまで大掛かりなことを仕掛けられるわけがない。大体、そんなことをする理由もない。

 今頃になって、やっと理性が働き始めたらしい。

 気恥ずかしくなり、俺は口をつぐんで俯いていた。

「……落ち着いた?」

 食って掛かられたことを気にする様子もなく、やはり淡々とした口調で金城が言う。

「じゃあ、行きましょう」

「あ、ああ。で、でも」

 どこまでも超然とした金城の態度に気圧されながらも、俺は足元を見下ろしていた。

「これ、散らかしたままにするのはちょっと……」

 俺は最後まで言葉を続けられなかった。

 一塊になったセルロイドの赤ん坊たちが、一斉に小さな足を素早く動かし、ポリバケツの中に這い戻ったのだった。それだけではない。タンッと小気味よい音を立てて、バケツが元の位置に跳ね戻る。

 まるでビデオの巻き戻しでも見ているかのようだった。

「………………………………!?」

 戦慄に打ちのめされ、俺は声も出せずに絶叫をあげた。

「この辺りは古い土地だから」

 そんな俺を金城が大した感慨もなさそうな視線で見やり、淡々と言葉を続ける。

「いろんな人の想いがあちこちに漂っているの。強力だけど、眠っている時のように意識は曖昧。感情はあるけれど、それを向けるベクトルが定まらない。――分かり易く言えばそんな感じかしら。でも、安心していいわ。六道君が遭遇した連中とは少し毛色が違うから大丈夫」

 分り易くねーよ……! 

 心の中で、俺は悲鳴をあげていた。

 大体、今の光景を見て、どうやって『安心』だとか、『大丈夫』だとか思えるんだ?

 そうだ、気のせいだ。グルグルと目が回るのを感じながら俺は思った。そうだ、気のせい気のせい。気のせいと言うことにしておこう。 と言うよりも、気のせいでなきゃ嫌だ。

 顔面蒼白になった俺をチラッと一瞥し、金城が転がったバケツの蓋を拾う。

「大人しく寝ていなさい……」

 そう言って、金原が蓋を被せた途端――、それは自動的に一回転してカチッと合わせ目に嵌った。しかも、内側から勝手に、だ。

 ゾッ、と鳥肌が立つと同時に俺は理解していた。

 あいつら――セルロイドの赤ん坊達は、捨てられてそこにいるんじゃない。

 あいつらの寝床はこの悪臭にまみれたポリバケツの中なのだ。と言うことは、さっき動いて、バケツの中に入ったのも気のせいじゃない。

 不幸のどん底に突き落とされたかのような気分だった。

 そんな俺に退屈をもてあましたような表情で金城が言った。

「ねぇ、そろそろ立ち話にも疲れてきたんだけど?」

 否応もない。分かった、と俺は頷いていた。

 一刻も早くこの路地から、いや、変な物が巣食うポリバケツから離れたかった。


■2■


 金城多恵に導かれ、俺は室外機の唸り声に満ちた薄暗い路地を出た。

 抜け出てみると、そこは、商店街の外れであるらしい。

 路地の出口のすぐ隣が大きなゴミ捨て場でその向かいに見えるのが、先ほど、立体歩道橋の上から見た河川敷。下流に向かって金網のフェンスが延々と続いていた。

 そこからまた少し歩いて、俺達は占いハウス、夢見館にたどり着いた。

 占いハウスと聞いて、俺は絵本に出てくる魔女の家のように不気味で神秘的――悪く言えば怪しげな物を想像していた。

 が、実際は違った。

 それは何ら変哲のない、どこにでもありそうな小さな白い建物だった。

 看板がなければ喫茶店か何かと勘違いしたかも知れない。

 そのドアを開きながら、

「入って」俺を振り返り金城が言う。

「ここなら、ゆっくり話ができるでしょ」

「あ、ああ……」

 ぎこちなく頷き、俺は金城の傍らをすり抜けて店の中に足を踏み入れていた。

 その途端、むせ返るような香のかおりが纏わりついて来る。決してそれは嫌なものではなかったけれど、突然の刺激に鼻腔がムズムズしてクシャミが出そうになる。

 片手で鼻を押さえ、懸命にそれを堪えながら俺は店の中を見回していた。

 客をリラックスさせるためなのか、ダウンライトのような目に優しい照明。静かな小川のせせらぎのように、微かに聞こえるヒーリング・ミュージック。壁に置かれた立派な書棚には、海外の書物と思しき占術や魔術、それにオカルト関連のハードカバーがビッシリと並んでいる。

 そして、赤い布が被せられた小さな卓とそれを挟んで置かれた二つの椅子。

 どうやら、そこで相談者は運勢をみてもらうらしい。

 金城に視線で促され、オズオズと俺はそこに腰を降ろした。

 と、金城が先ほど見たコンビニの袋をテーブルの上にトンッと置く。

「…………」

 何と言えばいいか分からず、無言で見つめる俺をよそにビッグサイズのヨーグルトを取り出し、黙々と食べ始める金城。

 えーっと、俺はここに一体、何をしに来たんだっけ?

 あー、そうそう。昨日、地下街で俺を襲った怪異について、この変なネェちゃんに話を聞きに来たんだった。

 口ぶりからして、金城が何か知っているのは間違いない。

 ……と、思う。多分。

「――何?」

「へ?」

 突然、視線を向けられ、俺は阿呆のように大きく口を開いていた。

「……そう、このヨーグルトが欲しいのね。霜印のヨーグルトは本家ブルガリアもビックリの美味しさだものね」

「は? ヨーグルト?」

「でも、ダメよ」

 ニコリともせず、金城はキョトンとしている俺に言い放った。

「これは一週間の運勢をバランス良く運ぶために、私に必要なヨーグルトなの。一口たりとも食べないわけにはいかないわ」

 ……ホントに何なんだ、この女?

 ポカンとしている俺をよそに、黙々と金城はヨーグルトを食べ続けた。

 金城の言葉とは裏腹に、正直、さほど美味そうにも思えなかった。

 息を殺すようにして、そのまま待つこと十数分……。

「じゃ、そろそろ始めましょうか」

 ヨーグルトを食べ終えた金城が、口元を綺麗に拭いながら言った。

「夕方からも仕事が三件入っているの。悪いけど、サクサク済ませるわね」

 よく言うぜ……!

 声には出さなかったものの、俺は思わず目を見開いていた。

 この女、相当、マイペースな性格らしい。俺の一番、苦手なタイプだ。

 しかし、当の金城は俺の胸中など歯牙にもかけない様子で、メモ帳のようなものを取り出し、それを広げながら問いかけてくる。

「昨日、君が地下街で見たもの。それを具体的に教えてくれる?」

「それは……」

 一瞬、俺は口篭った。

 自分に取り付いた狂気を告白するみたいで躊躇いを覚えたのだ。

 それにこの女――、金城が本当に信頼できるかどうか、まだ分からない。

 だが、こうなった以上、黙りこくっているわけにも行かなかった。

 街頭テレビに描かれた不気味な落書き。出口をコンクリの壁で埋められた地下街。ペイズリー柄のネクタイを締めた首つり死体。群れで現れた一つ目のヤモリのような怪物。

 アマリリスと名乗る、外国人と思しき女の子。

 数年振りに手にした、自分の似顔絵。そして、井原千夏の直筆のサイン。

 ……その一つ一つを詳しく話すうちに、俺は気分が悪くなった。

 話の内容にまるで脈絡がない。

 我が事ながら、まるでヤク中か狂人の戯言のようだ。

 だが、その時覚えた戦慄や恐怖の感情は、いまだ生々しく俺の中で疼いていた。

「なるほど……」

 小さく頷きながら、パタンと小さな音を立てて手帳を閉じる金城。

 それから、しばらくの間、彼女は気のない表情でボンヤリと宙を見上げていた。何の呪いかは知らないが、片手の指先で空を切っている。

 そして、暫くの沈黙の後――、

「単刀直入に言うわね」

 片頬に手を当てた金城の眼差しは、やはり、ここではないどこか遠くを見つめているかのようだった。

「六道君に纏わりつき、取り込もうとしているのは――、迷いの世界よ」

「迷いの世界?」

 鸚鵡返しに俺は金城の言葉を繰り返していた。

 ……迷いの世界、か。

 聞き慣れない言葉だった。だが、それは確かに的を射た表現かもしれない。

 何しろ、昨日の一件以来、俺の頭の中はグチャグチャ――言ってしまえば大混乱状態だったから。

 何にしても、名前が分かったのはいいことだ。立ち向かうべき困難や敵は、出来るだけ明確にイメージできたほうが良い。最も、それだけでは何の解決もならないが。

「強迫観念って分かる?」

 突然、問いかけられ俺はキョトンとしていた。

「い、いや。聞いたことはあるけど、具体的には……」

「忘れよう、振り払おうとしても、執拗に心の中で繰り返されるネガティブな考えやイメージのことよ」

「へえ、何か大変そうだな……」

 間抜けな答えを返すしかない俺。

「占いの世界ではね、夢の中の出来事は現実のメタファーとして解釈されるの。――例えば、夢ノ宮プラザに現れた怪物の群れ。彼らはその目に顔を映した者しか襲わない」

 スラスラと立て板に水を流すような口調で金城が続けた。

「つまり、他人に見られることの恐怖心がその存在の原因よ」

「……じゃあ、あの首つり死体は?」

 俺の問いかけにすぐには答えず、そっと金城は席を立った。

 そして、書棚から分厚い大学ノートを一冊引き抜いて戻ってくる。

 それをペラペラと捲り、

「これを見て」

 ページを開いたまま、俺にそれを押し付けてくる。

「読んでピンと来た記事は、私、こうやって保管しているの」

 思わず、俺は身を乗り出していた。

 切り抜かれ、貼り付けられていたのは今から四年前の新聞だ。

 そこには、こんな見出しが躍っていた。

 ――ホテル経営者 経営難を苦に縊死自殺か?

 自然と俺はその記事を目で追っていた。


 先日、●月×日未明。ホテル会社経営、井原幸一さん(41)が夢ノ宮市市営地下鉄の男子トイレ個室にて、縊死死体で発見された。井原さんは自らが経営する夢ノ宮ホテルの経営が行き詰まっていることから深刻なノイローゼを抱えており、警察は自殺との見解を表明している。


「井原幸一……?」

 思わず、俺はその名前を声に出していた。

 その途端、背中を氷塊が滑り落ちるのを感じた。

 ああ、そうか。そうだった。

 俺は思い出していた。

 井原千夏と知り合った時、彼女の家は確か母子家庭だった。何かの折に井原自身がそう教えてくれたような気がする。最も、俺の方から詳しく聞くことはなかったはずだが。

 とすると――

 あのペイズリー柄のネクタイを締めた死体は、井原の親父……?

「で、でも……、何だってあんなところに」

「勿論、本当の死体じゃない。ただのイメージ、ただの強迫観念」

 低く呻いた俺に、金城が肩を竦める。

「身近な人の、それも悲惨な死に様は誰でも深く心を傷つけられてしまうものでしょ? 思い出したくもない光景が何時までも心に残る。それが強迫観念の強迫観念たる由縁ね」

 ああ、そうか……。

 何となくではあるが、金城の言う迷いの世界が何であるか分かった気がした。

 つまり、迷いの世界とは、強迫観念から生まれた異次元空間の一種なのだろう。

 強迫観念とは、拭おうとしても拭いきれない心の傷のことだろう。

 そして、心の傷からはどす黒い悪夢のようなもの吐き出されて――

「信じられねえよ、そんなの」

 おかしな妄想に取り付かれるような気がして、俺は慌てて首を横に振っていた。

 幾らなんでも、そんな突拍子もないことを受け入れられるはずがなかった。

「大体、心の傷なんて大なり小なり、誰にだってあるだろ?」

 自分でも小賢しいと思いつつも、俺は正論を吐いていた。

 またしても、知らないうちに人外魔境に踏み込んだような心境。言わずには、いられなかった。

「迷いの世界は、その度に生み出されるって言うのか?」

「……基本的にはそう言うことね」

 恐ろしいことを金城があっさりと認める。

 もう、1クッション置いた話し方をしてもいいと思うのだが……。

「でもね、殆どの場合、迷いの世界は個人の内面にしか存在できないの。どんなに恐ろしく凄惨な世界だったとしても、それ自体が他人を傷つけることはないわ。だけど――」

「だけど、何だよ?」

 一瞬、黙り込んだ金城に俺は先を促した。

「……そこに呪術的な力が作用していたり、本人が強い霊媒体質であった場合は話が別だけどね。特に前者は意識して行われているはずだから黒魔術のようなものね」

 黒魔術――。

 その言葉に思い浮かんだのは、人間の瞳を持った卵の不気味な落書きだった。

 金髪の外国人と思しき、女の子――アマリリスは、確かあれをデュカリ・デュケスの印形とか言っていた。言われてみると、あれはファンタジー小説なんかで良く見かける、魔法陣とかに雰囲気が似ている。

「その場合、迷いの世界の主が取り込もうとしている人間に対して、並々ならない妄執を抱いているのは論を待たないわ」

 テーブルの上で白く細長い両手の指を組み合わせ、確信に満ちた表情で金城が頷く。

 いや、ちょっと待ってくれ……。

 思わず、俺は涙ぐみそうになる。実際、こんな理不尽な話は他にないだろう。

 当時は仲が良かったはずの、小学生時代のクラスメイトになんで今頃になって、こんな酷い目に遭わされなきゃならない? 大体、俺に何の恨みがあるんだよ……!?

「それで――、」

 自分でも驚くほど、弱々しい声で俺は尋ねた。

「これから、どうすりゃいいんだ? やばいんだろ、俺。このままじゃ……」

「そうね。どうしたものかしら」

 他人事のように――まぁ、実際、他人事なんだろうが――言いながら、軽く腕を組み、何事かを思案するような素振りを見せる金城。

「とりあえずは、迷いの世界の主と思しき人物を探し出して、直接コンタクトを取ることね。相手の事情が分かれば、災いを回避する手段も見えてくるかも知れないわ」

 そこで、言葉を切り、

「心当たりの人、いるでしょ?」

 なぜか、金城は声をひそめる。

「あ、ああ……」

 苦々しい表情で俺は頷く。

 ああ、思った以上にややこしい話になってきた……。

「そして、もう一つは――、とにかく生き延び続けることね」

 そう言って立ち上がり、背後のキャビネットをゴソゴソとやり始める金城。

 やがて――

「はい、これ」

 投やりな口調で金城が手渡してきたのは、一枚の鏡だった。

 取っ手と鏡面の縁は木製。綺麗な草模様の彫刻が彫られているが、別段、変わったところもない手鏡だった。

 恐る恐る、俺はそれに手を伸ばしかけた。

「この鏡は……?」

「呪いの鏡」何の感慨も感じさせない声で金城が言った。

「触るだけで、毎晩、悪霊に地獄の底に誘われてしまう掘り出し物よ」

「……ッ!?」

 ガタッ、と椅子を鳴らし、顔面蒼白で俺は立ち上がる。

 すかさず金城が言った。

「冗談よ」

 何のことか分からず、ポカンとして俺は相手を見返していた。

「そんな危ない物、店先に置けるわけがないじゃない。大体、私が先に触ったでしょ?」

 クスッ、と表情も変えずに小さく笑う金城。

 ……ホントに何なんだ、この女。

 さっきから、俺のことをからかって喜んでいるんじゃないだろうな?

 こっちは命がけだってのに悪趣味にも程がある。

「和んだところで本題に入るわね」

 起こる気力も失せ、顔を強張らせたまま立ち尽くす俺に向かって金城が続けた。

「迷いの世界で生き延びるためには、とにかく、自分を見失わないこと。これはそのために使って」

「そ、そのために使えって、言われても……」

 金城を見返しながら、俺は自然と眉間に皺が寄るのを感じた。

「でも、これ、鏡だよな?」

「そう、鏡ね」

 頷く金城。

 何を分かりきったことを、と言う表情だ。

「で、どうするんだ?」重ねて問いかける俺。

「ん?」

 金城の綺麗な眉が少し顰められる。

「どうするんだ、って?」

「だから、これ、どう使うの?」

 俺の問いかけに、金城の美貌に微かに驚きの表情が浮かぶ。

「六道君の家には鏡がないのね」

「いや、あるよ」

 どことなく、哀れまれたような気がして俺はムッとする。

「毎日、自分の顔を映してる」

「でしょ? 映せばいいの。六道君や他のいろいろなものを」

「…………」

「鏡で映すと言う行為にはね、物事の隠れた本質を照らし出すという呪術的な意味があるの。だから、肌身離さず持ち歩くといいわ」

「な、なるほど……」

 何が「なるほど」なのか、自分でもさっぱり分からなかった。

 まあ、魔除けとでも思っていれば、気休めくらいにはなるのだろう。

「じゃあ、今日はこの辺にしておきましょう」

 受け取った手鏡を俺が胸ポケットに仕舞うのを見て金城がまた言った。

「何かあったら、連絡して頂戴」



 おかしい。絶対におかしい。

 こんな状況は、どう考えても、まともじゃない。

 非現実的だとか非科学的だとか、そう言うレベルでもない。

 何もかもがムチャクチャで意味不明だ。それこそ、気の触れたやつの妄想の中に閉じ込められたような気分だ。

 そんな益体もないことを考えながら、俺は夢ノ宮銀座を後にした。

 来た時と同じ道を歩いたはずだが、あの胸糞の悪いパン屋はどこにもなかった。

 まあ、そんなことはどうでもいい。

 そんなことよりも――

「はぁ」

 バスに乗り込み、シートに腰を降ろすと自然と溜息が出た。

 頭はボーっとしており身体も気だるかったが、心なしか、気分が軽くなっていた。

 正気を疑われるのが怖くて、誰にも話せなかったことを一通り金城に聞いてもらえたからだろう。己の内側に溜まりに溜まった滓のような物が外に吐き出せたような気分だった。

 プシュッ、と音を立ててドアが閉まり、バスが発車する。

 さて、これからどうするか……。

 窓の外に流れ始める町の景色を見つめながら、俺はもう一度、溜息をつく。

 俺を襲う、迷いの世界とやらの主は、小学校時代の友人、井原千夏……。

 金城は彼女に直接会えとアドバイスしてくれた。

 だが、事は容易には運ばないだろう。

 何しろ、三年以上、連絡を取り合っていない相手だ。

 それに、たとえ会えたとしても、だ。長年、思い出すこともなかった、しかも、こっちに呪いをかけているかもしれない相手にどう振舞えばいいのか、見当もつかない。

 これ以上、あなたの迷いの世界に引きずり込むのは勘弁してください、とでも頭を下げればいいのか? だが、相手にそれを拒否された場合は……?

 まあ、なるようになるだろう。なるようにしかならない、と言うべきか。

 行き当たりばったりな自分の思考に俺は苦笑していた。

 こんなことだから、人生のババばかり引いちまうんだ。

 思えば高校を自主退学する羽目になったのも、後先考えずに行動した結果だ。

 そのこと自体、悔やんだ事はない。ただ、時々、十歳の子供でも、俺と同じ場面に立ち会ったとして、もう少し賢く立ち回ったんじゃないかと思うと少し憂鬱になる。

 まあ、何にしても、と腕組みしながら俺は瞑目する。

 今日は、ゆっくり休んで、明日のための英気を養おう。

 六道自転車修理店――つまり、爺ちゃんの家――の店先に辿り着いたのは、そろそろ日が暮れ始めた頃だった。

「ただいま……」

 空腹を覚え、下腹をさすりながら俺は店の中に入ろうとした。

「お、歩か」

 後から声をかけられた。

 振り返ると、爺ちゃんが破顔しながら歩み寄ってくるところだった。

「お帰り。思ったより、早かったなあ」

「うん。欲しいCD、売ってなかったから。爺ちゃんこそ、散歩してたのか?」

「ああ、ちょっと、そこでな」

 頷きながら、爺ちゃんは通りの向こうを指差す。

「清と光子さんと話をしとったんだ」

「……親父と母さん?」

 思わず、俺は渋面になる。

「二人揃って? 何で?」

「何で、ってこともないだろう」

 余程、俺は憮然とした顔をしたらしい。

 苦笑し、肩を竦めながら爺ちゃんが言った。

「お前が心配で様子を見に来たんだ。親心だよ」

 内心、俺は舌打ちをしていた。

 何が親心だ。仕事が忙しくて、入院中、一度も見舞いに来なかったくせに。

 不機嫌な表情で押し黙った俺に笑顔のまま爺ちゃんが言う。

「ちょっと行って、顔を見せてやりな。二人とも、お前と話し合いたい事があるらしい」

 もう一度、俺は心の中で舌打ちをする。

 あの二人が話し合いたい事と言えば、十中八九、それは俺が話したくないことだ。

 何故だかは分からない。しかし、俺が物心ついた時からずっと両親とはそんな噛み合わない関係が続いていた。高校中退を機に、爺ちゃんの家に厄介になるようになったのは、そんな家庭環境にほとほとウンザリしたからだ。そう、お互いに。

 それを今更、何の話し合いがあると言うのだろうか。

 内心、ブツブツ言いながらも爺ちゃんに続いて俺は通りを歩いていった。

 どっちにしても、長時間、話をするつもりはない。

 相手の言うことに、二、三、無難な答えを返したら、さっさと撤退するつもりでいた。

「――ほら、歩」

 ふと前方を指差しながら、爺ちゃんが言った。

「早く、行きな。二人とも、お前を待っているんだから」

「うん……?」

 目を細め、俺はその指先を追う。

 そこにあったのは、ゴミ捨て場だった。週二回、回収車が家庭の生ゴミを持ち帰るための。ゴミ出しの曜日を守らない、不心得者が多いと自治会で問題になっているはずの。

 そこに、うずくまる二つの人影があった。

 ペチャペチャ、クチャクチャ……。

 その二人は、ゴミ袋に顔を突っ込み、厭らしく咀嚼する音を盛んに立てていた。

 まるで飢えた野良犬のような浅ましさだったが、その後ろ姿は、見間違いようもない――、俺の両親だった。

「…………!」

 絶句し、俺は爺ちゃんを振り返った。

 と、爺ちゃんはニコニコと微笑を浮かべたまま――、俺の背中を強く押した。

 ワッ、と小さく声を上げ、前につんのめりかける俺。その音にピクッと反応し、ゴミ捨て場に蹲っていた両親がこっちを振り返った。四つん這いのまま、パタパタと手足でアスファルトの地面を叩いて。

「うおっ……!」

 素っ頓狂な声を俺は挙げていた。

 嫌になるほど平々凡々とした、たまにぶん殴ってやりたくなる見慣れた両親の顔がそこにあった。

 ただし、デカい。とてつもなくデカい。

 頭のてっ辺から顎の先まで、俺の片腕の長さほどもある。

 そして、煎餅のように真ッ平だった。大きく見開かれた瞳は血走り、ギリッと噛み締められた乱杭歯の間には赤黒い鮮血が滴っている。

 コリャ、何の冗談だ?

 グロテスクさよりも滑稽さが際立つ、その怪物の姿に俺は恐怖よりも戸惑いを覚えていた。実際、これが赤の他人なら爆笑しているところだろう。

「なあ、歩……」

 息をするのも忘れてその場に立ち尽くす俺にゆっくりとにじり寄りながら、親父の顔をした怪物が、親父そっくりの声で言った。

「何で、お前はいつもそうやって親に恥ばかりかかせるんだ?」

「そうよ、もっとちゃんとしてくれなきゃ」

 母さんの顔をした怪物が頷きながら、それに続く。

 その時だった。

 ブルッと空気が不気味に震えた。

 次の瞬間――、ベンジンで絵の具を溶かすが如く、周囲の様相が変貌してゆく。

 比較的新しいはずの住宅街の家々が、百年間、放置され続けた廃屋のように黒ずみ、ボロボロになってゆく。音を立てて、ブロック塀や壁土が崩れ落ちる。酸にでも浸されたかのように、電信柱がその根元から腐敗してゆく。

 そして――

 ブォンブォンブォンブォンブォンブォンブォンブォンブォンブォンブォン……

 今朝、路地で聞いた耳障りな音が俺のすぐ頭上から降りかかってきた。

 見上げると、空がなくなっていた。変わりに、ビッシリと埋め尽くされていたのは、血を浴びせ掛けられたかのような赤錆に覆われた室外機の群れ。

 狂った唸り声をあげながら、俺に生臭い風を吹き付けてくる。

「くそっ……!」

 奥歯を噛み締めながら、俺は後退りし、そこから逃げ出そうとした。

 しかし、さっと俺の前に立ち塞がったのは――

「爺ちゃん!」

 もはや、恥じも外聞もない。俺は大声を張り上げていた。

「助けてくれ! こいつら、俺を殺す気なんだ……!」

「こら、歩。言って良いことと悪いことがあるぞ」

 虎の張子のようにカクカク首を揺らして爺ちゃんが笑った。

「冗談でも、殺すなんて言うもんじゃない。親が子供にそんなことをするわけないだろう?」

「違う。こいつらは――!」

 そこまで言いかけて、俺ははっと気がつく。

 これは現実じゃない。迷いの世界だ。が、これまで俺を襲ってきたものとは何かが違うような気がする。ひょっとして、これは俺自身の……?

「うわっ!」

 またしても、爺ちゃんに――否、爺ちゃんの姿をした怪物に突き飛ばされてしまった。

 呻き声を上げながら、俺は地面に転がっていた。

「なあ、歩。父さんも母さんも、お前のことが心配なだけだよ」

 爺ちゃんそっくりの優しい声色でそういいながら、爺ちゃんの姿をした怪物がさっと片手を振る。まるで手品のようにその掌に現れたのは、一本の注射器だった。ベトベトに汚れたその注射器の中には、紫色に輝く得体の知れない液体が揺れていた。

 毒だ……!

 本能的にそう悟り、俺は身体を強張らせる。

 身動きが取れない俺に向かって、三匹の怪物がゆっくりと近づいてくる。

「や、やめろ! 近寄ンじゃねえ!」

 壁を背にしながら、俺は立ち上がろうと必死でもがいた。

「クソッ! ふざけんなよ、お前ら! 舐めた真似しやがったら、ぶっ殺すぞ!」

 怒鳴りつけて威嚇したつもりが、それは情けなく引き攣った悲鳴になった。

「ああ、歩。そんなに興奮しないで」

 母さんの顔で怪物が、クスクス愉しそうに笑う。

「私達は、あなたの口から聞きたいだけなのよ?」

「そうだ。それだけなんだ」

 親父の顔をした怪物が、足でガリガリッと頭を掻いてから同意する。

「お前が隠していることを我々に話して欲しい」

 隠していること?

 痛いほど奥歯を噛み締めながら、俺はやつらを睨んでいた。

 一体、何の話だ?

 こんなやつら相手に隠し事もへったくれもあるか。

「なあ、歩――」

 トン、と壁に手をついたのは、爺ちゃんの姿をした怪物だった。

「本当はお前だって、話してしまいたいと思っているんだろ? 元々、お前の問題でもないのになぁ。爺ちゃん達に全部、話しちまいな? きっと、楽になるよ?」

 哀れむような怪物の言葉に、俺はハッとなった。

 まさか、こいつら……。

 あのことを、言っているのか?

 俺が誰にも語らず、自分の胸の中だけに秘めておこうと決めた、あの出来事……。

「嫌か? どうしても話すのは嫌か?」

 気持ちの悪い猫撫で声で話していた怪物の口調が変わった。

 研ぎ澄まされた刃物のように鋭く冷たい声。やはり、こいつは爺ちゃんではない。ただの、クソッタレの怪物だ。

「……だったら、仕方がない。だったら、仕方がないな」

 溜息をついて怪物が注射器を握り直す。

「爺ちゃんが素直に話せる気分になるお薬を打ってやろう」

「やっ、やめろ!」

 しゃがみ込んだ俺にゆっくりと迫る注射器の針先。

 少しでも、それから遠ざかろうと俺は死に物狂いで身をよじっていた。

 その時だった。

「……!」

 胸ポケットから、携帯電話のような振動が全身に伝わる。

 金城が貸してくれた件の手鏡だ。何故か、手鏡は蛍のように自ら輝いているらしく、ポケットの布を通して淡い光が漏れ出ている。その光に怯えたかのように、ビクッと怪物どもの動きが止まった。

 咄嗟に俺は手鏡をそこから引き抜いていた。

 そして、それで自らの顔を映し見る。

 カッ……!

 鏡面から溢れ出てきたのは、網膜を焼くような眩い光の奔流。

 思わず、俺は硬く目をつぶっていた。

「――歩? どうした? そんなところで突っ立って……」

 背後から、不意に声をかけられた。ギョッとして、俺は目を見開いて振り返った。

 面食らったように目を白黒させているのは――爺ちゃんだった。何もおかしいところはない、正真正銘の俺の爺ちゃんだ。そして、俺は店の前で立ち尽くしていた。

「大丈夫か? やっぱり、無理して出かけたのが良くなかったんじゃないのか?」

 顔を青ざめさせている俺に爺ちゃんが心配そうに尋ねてくる。

 曖昧に頷きながら、俺は胸ポケットをまさぐっていた。

 ……あった。

 金城が俺に貸してくれた手鏡。

 どうやら、助かったのはこいつのお陰らしい。

「歩……?」

「いや、なんでもない」

 爺ちゃんに呼ばれ、引き攣った笑みを浮かべながら俺は手鏡を元に戻した。


■3■


 その日――、学校の体育館の裏手で一人、俺は無為に流れてゆく時間に身を任せていた。

 自らの青春時代のはかなさについて、瞑想に耽っていたのだ。午後からの授業に出るのがかったるくてしょうがなかったため、サボって転寝をしていたとも言うが。

 しかし、十分も経つとそうしているのが辛くなった。

 理由は、近くにあった竹藪。その中から飛来してくる、蚊の群れに身体のあちこちを食われ、ボリボリと掻き毟りながら俺はそこから撤退することにした。

 もう、今日はこのまま帰っちまおうか。

 俺はそう考えたが、馬鹿正直に校門から出て行こうとしては誰かに見咎められてしまうかも知れない。裏山に面した、金網のフェンスのどこかに穴でも開いていないかと俺が物色を始めた時だった。

「ん……?」

 風に乗って、くぐもった女の悲鳴が微かに聞こえた。

 俺はふと顔を上げた。周囲を見回してみるが――誰も、いない。

 空耳か。そう思い直して、緩みかけた金網を引き剥がしにかかった時、もう一度、聞こえた。しかも、今度ははっきりと。

 どうやら、それは体育館の脇にある用具倉庫から聞こえてきたようだった。

「……誰かが、悪趣味なことをやってんじゃないだろうな?」

 嫌な予感に突き動かされ、俺はそちらへと足を向けた。

 いつもならピッタリ閉ざされているはずの用具倉庫の扉は少し隙間が開いていた。俺は躊躇うことなく、両手を使って勢いよく扉を引きあけていた。

 そして、

「おいおい、マジかよ」

 半ば想像はついていたとは言え、えげつないその光景に俺は顔を歪めてしまう。

 用具倉庫の中には、四人の先客がいた。一人は女生徒、後の三人は男だ。

 涙と鼻水で顔をビショビショにしている女生徒の着衣は甚だしく乱れ、スカートが捲りあがって白い太股が露わになっている。

 彼女を押し倒し、左右から押さえている男二人は全く知らないヤツらだったが、ベルトを外そうとした格好のまま、彫像と化している馬鹿には見覚えがあった。

 確か、数日前、下校中に因縁をふっかけて来やがったので軽く撫でてやった馬鹿だ。

 しかし、馬鹿のほうは俺を覚えていなかったようだ。

「何だ、てめぇ!」

 飢えた獣のような、恨めしげな視線で俺を睨みつけてくる。

「そんなところで何してんだ! この、変態野朗!」

 そりゃ、こっちの台詞だろうが。

 馬鹿のあまりの頭の悪さに、俺は頭が痛くなった。

 学校の中で乳繰り合う男女、あるいは同姓同士がいたって別にかまやしない。

 そんなことで目くじら立てるほど俺はナイーブでも硬派でもない。だけど、目の前の光景を見て、こいつらが仲良しセックスフレンドに思えるほどアホでもない。

「助けて……」

 決定打だった。蚊の鳴くような声で、女生徒が俺に助けを求める。

 無論、俺はそれを無視することなど出来ない。しかし、できることなら事を荒立てたくなかった。

 目を剥き、口元を歪めて、まるで盛りのついた猿のように威嚇してくる三馬鹿。

 いい気なもんだよ、全く。

「あのなあ、お前ら……」

 ヤツラに余計な刺激を与えぬよう、慎重な足取りで近づきながら俺は言った。

「いくらなんでも、これは洒落になんねーだろ? もう、この辺にしておけよ。でないと、お前ら三人、負け組み人生のスタートを切ることになるぜ」

 この手の連中、町中に腐るほどいる不良連中に、そんなことをしたら相手が可哀そうだろうとか、もっと社会性を持てなんて説教は100%無意味だ。

 連中のほとんどが病的なまでの自己中心、殴った相手がどんな思いをするかなど想像もできないほど低脳の持ち主であり――つまり、救いようのない馬鹿なのだ。

 連中に手を引かせるには、やんわりと脅して、自分が不利な立場にいることを教えてやるのが一番。そのさじ加減は素人には難しくて、こちらの物言いが柔らかすぎても辛辣すぎても、逆効果となってしまう。何しろ、連中は馬鹿だから。

 まあ、俺くらいのベテランになると相手によって出方を変えることなど朝飯前だ。

 適当におだて、適当に釘を刺し、さっさっと追い払ってしまうという寸法だ。

「お前らのために言ってるんだぜ?」

 出来るだけ優しい口調で俺はヤツラに語り続ける。上から物を言うのではなく、唯一無二の親友のような感じで。反吐が出そうになるのを悟られまいと気を配りながら。

 世間は知らないだろうが、この手の馬鹿はその辺りは実に敏感に反応する。

 馬鹿のくせに生意気な、とは思うが、恐らくそれは動物的感覚のなせる業なのだろう。

「今なら、大したお咎めもないだろうしさ」

 もちろん、嘘だ。

 未成年者で未遂とは言え、白昼堂々と強姦をやらかそうとしたのである。

 それも学校の中で、だ。

 良くて退学、下手したら逮捕される。

 そして、そいつとその家族は多額の賠償を請求されることになる。勿論、やつらはそんな後々のことなど考え付きもしない。何故なんだ、と俺もいつも思うが、それこそが馬鹿が馬鹿である由縁だ。

 まあ、そんなのは俺の知ったことじゃない。

「だからな、もうやめようぜ? 悪いことは言わないって。あ、そうだ。これから、みんなでどこかに――」

 フケちまうか? と俺が優しい、偽物の笑顔で言いかけた時だった。

 ペッ……。

 ペッ、と三馬鹿の一人が生臭い痰を飛ばしやがった。

 突然のことで俺は避けることが出来なかった。まともに顔の真ん中にそれを受けてしまう。咄嗟に当てた手にヌルリと気持ちの悪い物が滴った。

「何、オメー? いきなり現れて、何、ウタッちゃってんの?」

「とっとっと失せろ、ボケが」

「本当はテメーも混ざってヤりたいんじゃね? 誰が入れてやるか」

「………………」

 吐きかけられたヤニ混じりの痰を俺は手の甲で拭う。

 いやぁ、参ったナ、と俺は笑いそうになった。

 これだけフレンドリーな態度で接しているというのに取り付く島もないとは。君たちは一体、何様のつもりなのかな?

 ……いや、いかんいかん。起こってはダメダメ。

 ムクムクと入道雲のように膨れ上がり始めた怒りを俺は懸命に抑えた。

 俺だって教師に目をつけられ、他の生徒から敬遠されているのは同じだ。ここで、やつらと同じように暴力に訴えてどうする?

 少し、冷静にならなければ……。

「おい、今更、何黙り込んでるだよ?」

 ドン、と拳で、胸を小突かれた。

「偉そうに説教垂れやがって。一体、何様のつもりだ、テメーは? あぁ?」

 と、顔を近づけすごんでくる。

 ごめんごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。気に触ったのなら謝るよ。ホント、ゴメンね。

 笑顔でそう言って、俺は仕切り直すつもりだった。

 が、それよりも早く――

 ゴスッ!

 勝手に動いた俺の右ストレートが、馬鹿の顔面を撃ち抜くほうが早かった。

 鼻血を噴出しながら馬鹿が後に吹き飛んでゆく。

 女生徒が甲高い悲鳴を上げ、残り二人の馬鹿が驚愕の表情を浮かべる。

 しかし、やつら以上に驚いていたのは、他ならぬ俺自身だった。

 平和的な解決を目指していたはずだったのに、どうしてこんなことに?

「いってぇーな、畜生……」

 殴り飛ばしてやった馬鹿も、血だらけになった口元を押さえながらヨロヨロと立ち上がる。

 その目には俺に対する憎悪と殺意。恐怖の色はない。

 馬鹿の癖にタフだな、と俺は少し感心する。いや、馬鹿だからタフなのか。

 何にしても、こうなると俺もやつらも後には引けない。

「まあ、いつまでもゴチャゴチャ話してたってお互い埒があかないわな」

 俺は小さく首を振り、やつらに向かって中指を立て、蛇のような笑顔でこう言ってやった。

「……殺してやるから、かかって来い」

 勿論、殺してやると言うのは言葉のアヤだ。

 適当に連中を子好き回した後、俺はヒーローのようにその場をエレガントに退場するつもりだった。

 が、実際には――

 すっかり逆上した俺は、やつら三人の鼻柱とあばら骨を砕いて病院送りにし、自分も全治一週間の軽傷を負わされていた。

 問題の女生徒は、俺達の殴り合いが終る頃には姿を消していた。

 俺は彼女を探さなかったし、学校側に喧嘩の理由を聞かれた時もその存在を話さなかった。

 それは三人の馬鹿にとっても都合が良かったらしい。

 すると、理由もなく俺が三馬鹿に襲い掛かり一方的に暴力を加え続けた、といつの間にか話が変わっていた。今、思い出しても、俺は野生の猛獣か、と笑うしかない。

 しかし、教師の中にはそんな馬鹿話を真に受けた者もいた。あれよと言ううちに、担任教師が学年主任と一緒に家を訪ねてきた。

 先生方が持ってきたのが自主退学の進めだった。

 半ば予想していたことだったから俺は慌てなかったが、何も知らなかった両親はそうもいかない。母さんは出来損ないの不良息子の不始末に滂沱と涙を流し、親父は「何を考えて、そんなことをしたのか理由を言え」と激しく俺を責め立てた。

 少し迷ったが、結局、俺は真相を自分の胸の中に仕舞っておくことにした。

 もし、事実を話せばあの女生徒――そう言えば、未だに名前も知らない――に事態の追求が及べば、どう転んでもあの子は屈辱的な、嫌な思いをする。それはフェアじゃないし、彼女を助けようとした俺の行いが嘘になっちまう。

 そんなわけで、自主退学した後も俺は口を閉ざし続けた。

 そうしているうちに家にも居辛くなり……。

 以上――、俺が高校を退学した顛末だ。我ながら情けない経緯ではあるが、不思議と余り後悔していない。

 まあ、今現在、そのシコリが全くないと言えば、嘘になるが。

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