■第一幕 火曜日 ~rat in a trap~
■第一幕 火曜日 ~rat in a trap~
■1■
「うわっ……!」
短く悲鳴をあげて、俺は飛び起きた。
窓から差し込む赤い夕陽に目を射抜かれ、思わず顔をしかめてしまう。
酷く嫌な夢を見ていたらしい。沼底に沈んでもいたかのように、背中や胸が冷や汗に濡れている。
レールと車輪が軋む、単調な音を聞きながら、前後に、左右に身体が揺さぶられる。
それに合わせるかのように、頭上でブラブラ揺れている吊り革や中吊り広告。
一時間ほど前、地下鉄に乗り込んだことを俺は思い出した。
クスクス、と低く押し殺した笑い声が聞こえた。
自然とそっちに険しい目を向けると、地元の高校の制服を着た女が二人。何だか知らないが、慌てた様子で口を押さえ、俺から顔をそむけるところだった。
げっ、こっち見てる。
ホントだ目つき悪ーい。怒ってるの?
つーか、キモくない?
つーか、あんた声大きいよ、迷惑だって。
何言ってんのあんたのほうが声大きいって。
あんたのほうがもっと笑ってるじゃん……。
ヒソヒソと耳障りな囁き声を交し合う二人。どっちがどっちの声か分からないが、会話の内容は丸聞えだ。ひょっとしたら、ワザとか。
小蝿にたかられるような不快さに舌打ちしながら、俺は首を反らして、肩越しに車窓へと視線を転じた。と言っても、そこに見えたのは、滑るように流れてゆくトンネルの壁と等間隔に備えられた照明だけ。
そして、窓にはそんな味気ない景色を、死ぬほど詰まらなさそうな表情で見つめている若い男が写っていた。
痩せ狼を連想させる、ヒョロッとした長身痩躯。髪の毛は全体的に赤味がかっているが、染めたのではなく生まれつきのものだ。顔立ちは特別悪くもなく良くもない凡庸な造型だが、自然と眉間に皺がよっているため、酷く気難しそうな印象を醸し出している。見ようによってはチンピラに見えないこともない、小生意気そうな若造。
つまり、それが俺――六道歩だ。
面白くもない自分の顔をしばらく眺めていると、車内アナウンスがかかった。癖のある間延びした口調で次に停車する、夢ノ宮駅が近いことを告げる。俺の下車する駅だ。溜息をつきながら、上着のジャンバーに袖を通し直し、座席から立ち上がった。
時刻は夕方の六時を少し回った頃。
長いエスカレーターを昇り、改札口を抜けて、ブティックや飲食店、レコードショップ、それに書店などが立ち並ぶ広い通路の地下街――夢ノ宮プラザへと差し掛かった。
手頃な飲み屋を物色していると思しき、勤め人。部活帰りで腹を空かせているのか、ファーストフードの店に流れ込む学生。百貨店の大きな買い物袋を片手に、もう片方の手でキャーキャー奇声を張り上げる、小さな子供の手を握り締めている若い母親。
わんわん、がやがやと喧噪が鼓膜を揺らす。久しぶりに身をひたした日常の空気に俺は心の底から安堵を覚えた。
「うん、やっぱり娑婆はいい……」
思わず、そんな独り言が口をつく。
と言っても、別に留置所や刑務所にぶち込まれていたわけじゃない。
二、三ヶ月前、俺はよそ見運転の軽トラックに撥ねられてしまった。
人並みの運動神経があり、それなりにタフだったのが幸いし、生命に別状はなかった。だが、さすがに無傷と言うわけにもいかない。
毎日やることもなく、病院のベッドで過ごすのは静かな拷問にも似ていた。心身ともに腐りきり、嫌な臭いがしてくるんじゃないかと思っていたら、ようやく骨が繋がり、退院許可が出たと言うわけ。
そして、待ち侘びていた今日、俗世に帰れたささやかな喜びを噛み締めつつ――
人込みの中、トボトボと俺は地下街を歩き続けた。
向かうのは東出口、市役所の裏手。そこからバスに乗って、下宿先のある商店街に帰るつもりだ。
と、
「――六道歩君」
突然、背後からフルネームで呼びかけられた。
「へっ?」
不意を突かれ、俺は間の抜けた表情で振り返った。
そこに立っていたのは、今から葬式にでも出かけるのか、思わせるような黒装束の若い女だった。
俺より少し年上で、二十歳そこそこといった感じ。
綺麗なクレオパトラカットがとてもよく似合う顔は、下手な女優やモデルなど相手にならないほど美しく整っている。ジッと俺を見つめている栗色の大きな瞳は、息を飲むほど美しく澄んでいた。
しかし、そこにどんな感情が巡らされているのか、読み取ることはできない。
まるで、すましたシャム猫のような、神秘がかった印象の女だった。
えーっと……、誰だっけ?
ドギマギしながら、俺は相手の名前を必死で思い出そうとしていた。
何となく、見覚えはあるのだが。
「あの、どこかで……」
「金城よ」
オズオズと尋ねかけた俺の言葉を遮り、女は出来の悪い生徒を眺める教師のような眼差しで言った。
「金城多恵。同じ目白アカデミーの」
「あ、ああ、金城さんね……」
ぎこちなく頷きながら、俺は思い出していた。
入院していたため、今は休学中だが、目白アカデミーとは、俺が籍を置いているフリースクールだ。
そして、彼女――金城多恵と俺はそこの同期生というわけ。
しかし、目が合った時に挨拶する程度で、互いにほとんど口を聞いたこともない。こんな風に街中で出会っても、話しかけられるなんて思ってもいなかった。
「……ええっと、金城さん」
居心地の悪い空気に耐えかね、先に口を切ったのは俺のほうだった。
「それで、何か、俺に――」
「一体、何があったの?」
俺の言葉を払いのけるようにして、金城が問いかける。
あまりにも唐突だったせいか、その不躾さに腹を立てる暇もなかった。
「エッ? 何がって……」
「ああ、分かったわ」
小さく頷く金城。「気づかない振りをしているのね」
思わず、俺は小首を傾げていた。
訳の分からないことを断定する金城の口調は、相変わらず淡々として平たかったが――、確かな自信に裏付けされた、迫力のようなものを感じさせた。世間で言われているところのカリスマのようなものだろうか。
それは、ともかく、俺の中で金城に対する評価が決定した。
美人だけど変なネェちゃん。
あまり関わりあいにならないほうがいいかも知れない。適当な言い訳を考えて、そろそろ、逃げようかと考えた時だった。
スッ、と白い繊手が目の前に伸びた。
「えっ……?」
驚くほど柔らかな感触の手が俺の顔を挟む。
そして、金城の形のよい額が俺の額にピッタリとくっつけられる。
「ちょっ、何すんだよ!」
文字通り、目と鼻の先まで迫った、金城の綺麗な顔に俺は慌てた。
こんな衆人環視のど真ん中で、俺と金城は、まるでキスでもしているような格好だ。全身が石にでもなったかのように強張り、顔が、耳まで真っ赤になったのが自分でも分かる。
「おい、いい加減にしてくれって……!」
「今、話しかけないで」情けなく声を上擦らせた俺に、瞑目した金城が短く命じる。
「集中できないから」
理不尽な金城の言い草に、俺は思わず呻き声を上げてしまう。
まるで、『もう少し、空気読んだら?』とたしなめられた様な気分だった。
これは一体、何なんだ……?
どんどん身体の体温が上がっていくのを感じながら、俺はさらに混乱していた。
見ると金城は、俺に額を押し付けたまま、ブツブツ、小さく呪文のようなものを唱え始めている。これじゃ、変なネェちゃんどころか電波女だ。
しかし、それでも無碍に金城を振り払わなかったのは、否、払えなかったのはふっくらとした唇の動きが余りに甘美な光景だったからにほかならない。悲しい男のサガってヤツだろうか、あははは……。
頭の中がジンワリと生温かく、ピンク色に染まってゆく。
危うく悩ましげな溜息をついてしまいそうになった時だった。
「やっぱりね」
ふん、と小さく鼻を鳴らした金城にトンッと突き放された。
情けない、まるでお預けを喰った犬になったような気分。露骨にガッカリした表情を浮かべているであろう俺に向かって、金城はやはり淡々とした口調で稿続けた。
「よく今まで無事だったわね。ある意味、強運の持ち主かも」
「は?」
「どこで目をつけられたのか知らないけれど、君に纏わりついている厭な気配。ちょっとやそっとの代物じゃないもの」
そう言って、金城は切れ長な瞳をスッと細める。
「このままじゃ、間違いなく生命に関わるわね」
一方、俺は絶句していた。先程とはちょっと違う理由で。同時に高まっていた体温が急に冷えてゆく。
「でも、今日は八件も相談の予約が入っているの」
ふと思い出したかのように手帳を取り出し、そのページを捲りながら金城が言う。
「悪いけれど明日、私の店に来てくれる? こっちもいろいろ準備しなきゃいけないし」
私の店?
首を傾げている俺に金城は、一枚の名刺を手渡してくる。
機械的に俺はそれを受け取っていた。
人生と言う悪夢に迷う貴方に一筋の光を
占いハウス夢見館 メイデン金城
ああ、そう言えば、と名刺の文面を繰り返し読みながら俺は思い出した。
以前、何かの拍子に小耳に挟んだのだが、金城はプロの占い師だそうだ。
その驚異的な的中率や整った容姿が人気を呼び、地元である夢ノ宮市はもとより、遠方から訪れる相談者も少なくないと言う。最近では、テレビや雑誌にも頻繁に取り上げられているらしい。
ちなみに俺達が通うフリースクールとは、何らかの事情があって普通の学校に籍を置けなくなった人間のための民間の教育施設だ。目白アカデミーの生徒は大半が俺と同じ十代後半だが、金城のように定職を持ち、その合間に通学する者も別に珍しくはない。
まあ、それはともかくとして――
「ごめん、金城さん。せっかくだけど、俺、そっち方面の話って全然、理解できないんだわ」
曖昧な笑みを浮かべ、俺は小さく手を振っていた。
「霊感とか全然、ないしさ。正直、興味もないって言うか」
「…………」
ペラペラまくし立てながら、慎重な足取りで金城を迂回し始める。
そんな俺を金城は黙ったまま、ジッと見すえ続けている。……ちょっと、このお姉さん、怖いんですけど。
「そんじゃ、また……」
引き攣った笑顔のまま、小さく会釈し、俺は金城の傍らを通り過ぎようとした。
と――
「まぁ、どんな目に遭おうと君の自由だものね」
俺を見送る金城の溜息混じりの声が耳元で囁く。
「向こう側に取り込まれないように、せいぜい気をつけてね」
瞬間、全身が鳥肌立った。
ギョッ、として反射的に背後を振り返る。
が、既に金城の姿は、雑踏の中に紛れ込んでいた。
■2■
……結局、何だったんだろう?
小骨が喉に突き刺さったような気分のまま、俺は地下街を進み続けた。
別れ際、金城が俺に言い放った言葉がどうにも頭から離れない。
――向こう側に取り込まれないように、せいぜい気をつけてね
向こう側?
取り込まれる?
何の話だか、さっぱり分からない。だが、どうにも嫌な感じだった。少なくとも、退院してきたその日に占い師から聞かされたい言葉じゃない。
段々、俺は腹が立ってきた。良く考えてみれば、こういうのって、オカルトを商売にしている連中の常套手段じゃないか。相手の不安を煽り、そこに付け込んで金を毟り取るという……。
ムカムカしているうちに、俺は広場のような場所にたどり着いた。
大きな噴水を取り囲むようにして並べられたベンチには、待ち合わせをしていると思しき、大勢の人間の姿があった。
そして――
「……何だ、あれ?」
ふと、それに気がつき、俺は目を細めた。
広場を見下ろすようにして、壁には特大の街頭テレビが設置されていた。
特に気にかかる映像が流れているわけではない。たいして面白くもなさそうな、大作映画の予告編が流されているだけだ。
問題は、そのスクリーンの上……。デカデカとそこに描かれていたのは、細長いオレンジ色の卵の絵。
その真ん中に、長い睫毛を生やし、パッチリと見開かれた人間の瞳が描かれている。一瞬、街中でよく見かけるストリート・アート紛いの落書きかと思った。
しかし、何かが違う。本来なら歯牙にもかけないようなもののはずなのに、こうやって見上げているだけなのに胸がざわざわしてくる。
「…………」
暫くの間、俺はその卵の落書きをただ見上げていた。
勿論、そんなことをしていても埒はあかない。と言って、これを誰かに知らせに行くのも、正直、面倒臭かった。
「まあ、いいか……」
ため息とともに俺は結論を出していた。放っておくことにしよう。
誰がどんなつもりであんな場所に描いたのか、全く気にならないと言えば嘘になるが。そのうち警備員なり清掃係が気づいて、適切な処理を取るだろう。ややこしそうなことに自分から頭を突っ込む必要はない。
肩を竦め、携帯電話を取り出す。そして、電波の通りそうなところ――広場から少し離れたところにある、如何にも不味そうな臭いを漂わせたラーメン屋の前へと移動する。
二、三回、コール音が響き、
「……もしもし、六道自転車修理店でございます」
「あっ、爺ちゃん? 俺だよ、オレオレ」
早口に俺は言った。通りすがりのおっさんが胡散臭そうな目つきを俺に残していった。今、流行の振込み詐欺とでも勘違いされたのだろうか? 外見でそう判断されたのだとしたら、少し、いや、かなりムカつく。
「何だ、歩か」
そんな俺の内心を知ってか知らずか、久々に聞く爺ちゃんの声は優しかった。
「今、どこにいる?」
「地下鉄をあがったところ」
そう言ってから、俺は頭の中で時間を計算した。
「……七時ぐらいにはそっちに着くな」
「身体がしんどいなら、迎えに行ってやろうか?」
爺ちゃんの声が少し、心配そうなものに変わった。
「お前、死ぬかも知れないような大怪我したんだから。歩き回って大丈夫かね?」
「大丈夫だから退院したんじゃんか」
思わず、俺は苦笑してしまう。昔から、爺ちゃんは過保護だった。今年で俺は十六になるが、爺ちゃんの頭の中ではまだ小学校の低学年らしい。
それだけ、頼りないってことか。
何だか気恥ずかしくなり、俺は会話を切り上げようとした。
「じゃあ、今から帰るから」
「ああ。気をつけて――」
帰っておいで、と言いかけた爺ちゃんの声がザザッと雑音に途切れた。
んっ、と俺が眉をひそめた次の瞬間だった。
ぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいんっ……
何人もの人間が一斉に悲鳴をあげているような、それでいて金属的な異音が携帯電話の聞き取り口から発せられた。耳朶が激しく揺さぶられ、言表しようもない不快感が俺の脳をかき混ぜる。
「あっ……?」
異音に続き、激しい眩暈が俺を襲う。
いや、眩暈と言うより――、実際に周囲がグラグラ激しく揺れているのを全身で感じた。
地震か……!?
ドクドク、ドクドクと高鳴ってゆく心臓の鼓動。胃の辺りから喉元にかけて、勢いよく嘔吐感が駆け上がった。そして、得体の知れない悪寒が全身を駆け巡る。
バランス良く立っていられなくなり、片膝を床に着いてしまう。そして、目も開けていられなくなる。
その感覚に俺は身に覚えがあった。
トラックに跳ねられた時も、確かこんな感じだったけ……。
どれくらいの間――、俺はその場にしゃがみこんでいたのだろう?
十分? それとも一時間? あるいは僅か数秒のことだったのかも知れない。
泥沼の底に沈んだかのように、混濁としていた意識が急に鮮明になる。
同時に全身を蝕んでいた、得体の知れない悪寒は嘘のように消えていた。乱れた息を整えながら、俺はゆっくり立ち上がった。
「……あ、あれ?」
思わず、俺は間の抜けた声を発した。
しゃがみこんでいる間に何が起きたのか、夢ノ宮プラザはその様相を一変させていた。
つい先程まで喧しい、だが、幸せな喧噪に満ちた地下街からは、人っ子一人いなくなっていた。通路の左右両側に立ち並ぶ店舗は、どれもシャッターが降ろされ、不機嫌な貝のように沈黙を保っている。
霞が掛かったかのように、弱くなった照明の明かりに照らし出された地下街からは、話し声も、足音も――人間の気配と言う気配が一切、消え失せている。
俺はただ一人、その薄暗く寒々しい空間に取り残されていた。
「な、何だよ、これは……?」
目の前の、まるで集団で神隠しにあったような光景が信じられず、俺は呻き声をあげる。
何かが起きたのかもしれない。それも、きっと、ろくでもないことだ。
事故か? それともテロでも発生したのか? 皆、大慌てで、店も閉めて、どこかに逃げ出したとでもいうのだろうか?
「そうだ、携帯!」
ふと思い出し、俺は床に落としていた携帯電話を拾い上げた。
しかし、駄目だった。物音一つせず、いくら電源を入れてもディスプレイには何も表示されない。落とした衝撃で壊れてしまったのか?
小さく舌打ちし、俺は携帯を胸ポケットにしまいこんだ。
それから暫くの間、その場に立ったまま俺は周囲の様子を伺う。例えば、駅員か誰かが「避難してください! 事故です!」などと叫びながら、駆けつけて来るのではないかと思いながら。
しかし――、どれだけ待っても、誰も現れる様子はなかった。
「……仕方ねぇな」
少しでも緊張をほぐそうと、俺は独り言を呟いていた。
「ともかく、地上に上がるか」
このまま、ここに居続けてもどうしようもない。
大きく溜息をつき、俺は歩き始めた。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ……!」
思わず、俺は声を荒らげていた。
ここは市役所の裏手へと出る東出口。後、数メートルで地上と言うところだ。
そこを、ツルンとした青白いコンクリートの壁が塞いでいた。虫一匹、出入りできないようピッチリと。
「おかしいだろ、こんなの」
あまりの理不尽さに、俺は冷静さを失っていた。正に狐につままれた気分。こんな物、俺が知る限りではなかったはずだ。
と、その壁に一枚の張り紙がしてあることに気がつく。それはA4サイズの白い画用紙だった。クレヨンで描かれたと思しき、短い言葉が踊っている。
ここから出して――
「ここから、出して……?」
思わず、俺はそれを声に出して読んでいた。
その途端、カッと頭に血が昇った。そいつを剥ぎ取り、クシャクシャに丸めて投げ捨てると俺は顔をゆがめながら振り返った。
「おい、コラッ! 誰だか知らねぇけどふざけんじゃねえ!」
火を吐くような勢いで、怒鳴り声を張り上げた。
俺の罵声は壁にぶち当たり、キンキンと長い階段に響き渡る。
それに答える者はない。
だが、俺の疑問は氷解していた。つまり、これは大掛かりな悪戯なのだ。
低俗なテレビ番組が仕掛けたドッキリかなにかだ。大勢のエキストラを雇って、音もなく通行人達を撤収させ、こんな、妖怪ヌリカベみたいな大道具を使って俺をからかい、影で大笑いしていやがるのだ。
ちょっと、飛躍しすぎている気もしないではないが――他に考えられない。
「ンだよッ! 人をコケにしやがって!」
更に怒りが込み上げ、俺はコンクリの壁を殴りつけていた。勿論、そんなことをしてもどうにかなるわけじゃない。俺の手が痛いだけだった。
痺れた手をプラプラさせながら、俺はふと思い出した。
先程、金城に投げかけられた意味ありげな言葉。
あいつが言っていたのは、このことだったのか? だとすれば――
小さく舌打ちし、俺は首を振った。あれこれ考えるのは、後回しだ。
とにかくここを出よう。長居すればするほど、ろくでもないことになると言う予感は確信に近かった。
ここ以外に地上に上がるルートは二つ。
百貨店の地階からエレベーターかエスカレーターに乗るか、地下道を抜けてこことは反対側にある西出口を目指すかだ。
しかし、ここに来る途中、他の店舗と同じように、百貨店の入り口もシャッターが降ろされていた。つまり、たった今、歩いてきた道を引き返して、西出口に向かうしかない。
「遠いな、畜生……」
口の端をゆがめながら俺は再び階段を下り始めた。
棒形の照明が照らし出す、狭い、だが、嫌になるほど長い地下道の通路である。
普段から人気がなく、あまり気持ちの良い場所ではないが、この状況では壁に貼られた、防災ポスターのアイドルの笑顔まで薄気味悪いものに思えてくる。
締め切られ、澱んだ空気の中を歩き続けたせいか、喉がザラザラと痛い。
自分の息遣いと足音以外、物音一つしないせいか、体内時計が狂っている。この地下街を行ったり来たりし始めて、どのくらい経つのか、よく分からなかった。
「……なんで、俺がこんな目にあわなきゃいけないんだよ?」
額に滲んだ汗を拭い、俺はぼやいていた。
今日は、待ちに待った退院日だと言うのに。
変な女に絡まれるわ、ワケの分からない目にあって歩き回らされるわ……。
とにかく最悪だ。それ以外に言葉が見つからない。
しかし、そんな気分も、地下道の端にたどり着くまでだった。
それを見た瞬間――、過去、夜道で見知らぬ相手に金槌で襲い掛かられた時のように、元々乏しい俺の思考力は綺麗に吹き飛ばされた。
西出口もまた、先程と同じようにツルンとした青白いコンクリの壁に塞がれていた。が、俺が目を奪われたのはそんなものではない。
ロープに天井から吊るされ、高価そうな革靴のつま先を微かに揺らしているもの……。
口の端からベロンと出た灰色の舌先。ドロッと白濁した半開きの瞳。信じられないくらい青ざめた肌に点々と浮かぶ、紫色の斑点。そして、宙に浮かんだ足の下に溜まった小さな水溜り。
それは見知らぬ男の首つり死体だった。
目も覚めるような鮮やかなペイズリー柄のネクタイを締めた、勤め人風の。
「な、何でこんなものがここに……?」
呆然とそれを見上げながら、俺はしゃがれた声でそう呻いていた。
自殺か、他殺か。いずれにせよ、これはもう、悪戯なんて可愛いレベルじゃない。誰だか知らないが、この俺に強い悪意を抱く者の仕業だ。
しかし、俺に人に恨まれる覚えなど……、ある。それも山ほど。
喧嘩早い性格が災いしてか、心当たりがあるのは一人や二人じゃない。だが、ここまで手の込んだ、それも人を殺してまで嫌がらせをするようなヤツは、さすがに思いつかない。
そこで、ふと俺は恐ろしい想像に囚われる。
まさか……、このまま外に出られなくなるんじゃないだろうな。
助けも来ず、ここで一人、死ぬまで過ごさなければならなくなったら?
「はは、有り得ねーよ。そんなの」
馬鹿馬鹿しい妄想を俺は否定しようとした。が、できなかった。実際、こうして出口を塞がれてしまい、にっちもさっちもいかないのだ。不安を覚えないほうがどうかしている。
と、その時だった。
ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎぎりぎり……
歯軋りするような厭な音を立てて、首吊り死体が円を描いて揺れた。硬直したつま先から、革靴がするりと抜ける。
トスン、と言うどこか間の抜けた音とともに靴が床に落ちた時、俺の喉元に強烈な吐き気が込み上げてきた。
「……っ!」
慌てて口を押さえ、俺は死体から顔を背ける。
落ち着け、落ち着けよ、俺……!
パニックに陥り、喚き声をあげたくなる自分を俺は必死で宥めていた。
そして、視線の先にボンヤリと白い光を放つ、筐体の存在に気がつく。その前を歩いているはずなのだが、出口のことで頭が一杯で目に入っていなかったらしい。
それはジュースの自動販売機だった。
飲み物……!
そう思った途端、まるでパブロフの犬のように口の中に唾が溜まった。
そうだ。こんな時だからこそ、落ち着かなければ。冷たく清涼なジュースを飲んで喉を潤せば、何か良い打開策が浮かんでくるかも知れない。
飛びつくようにして、自動販売機に駆け寄り――、
「……?」
俺は首を傾げた。
展示スペースに並んでいたのは、見たこともない商品だった。
赤と黄色の毒キノコのような、けばけばしいカラーリングの缶ジュースだ。それには商品名も、メーカーの名前も記されていない。
「まあ、飲めるなら何でもいいか……」
震える声で呟き、俺はポケットの小銭を引っ掴み、投入口に入れた。ボタンを押すと乾いた音を立てて、ジュース缶が取り出し口に落ちる。それを拾い上げると予想外に軽い。奇妙に思い、俺はそれを耳元で振ってみた。
カラカラ、とジュース缶の内側で何か固い物が転がるような音が聞こえた。
液体が詰まっている感触はない。
「おい、これってジュースじゃねぇのかよ?」
こんなの詐欺じゃねえか、と頭に来たが缶の中身も気になる。
ブツブツ文句を言いながらも、俺はプルタブを外し、缶を逆様にして振ってみた。
チャリン、と澄んだ音を立てて銀色に光る小さな物が床に落ちる。
それは一本の古びた鍵だった。
「あ、これ……」
驚愕に目を丸くしながら、俺はその鍵を拾い上げた。
それは俺が小学生の時から使っている、学習机の抽斗の鍵だった。
ずっと以前に失くしたので、数年間、閉め切ったままの。
「……だけど、何でこんな所から出てくるんだよ?」
掌の中の鍵を凝視したまま、俺は低く呻いた。
それにしても、今日は酷い、本当に酷い日だ。次から次へと、変な事ばかりが起こる。
そろそろ打ち止めにして欲しいな、と俺が思った時だった。
ごげぇ……
喉に大量の痰を絡ませた、汚らしい唸り声が聞こえた。
ビクッとして俺は自動販売機を振り返り、そこにあった異様な光景に目をみはらせる。
たった今、ジュース缶を取り出した受け取り口から、ニョロリと伸び出ていたのは、触手めいた、大蛇のように鎌首をもたげた長い腕だった。
ごげぇ……
自動販売機の中から、吐き気をもよおすような唸り声がまた聞こえた。
そいつは自動販売機をゴトゴト揺らし、外に出ようとしているらしかった。
これは、ヤバイ――!
俺の頭の中で警報が打ち鳴り始める。
早く逃げたほうがいい。どう考えてもこいつは人間の友達って感じじゃない。どちらかと言えば、人をバリバリ頭から齧るタイプだ。
しかし、俺は動かなかった。いや、動けなかった。
目の前のあまりに非現実的な出来事に、思考が身体から切り離されてしまったようだ。
言葉を失い、ただ立ち尽くすしかない俺の目の前で――、そいつはゆっくりと自販機の中から姿を現していた。
「……!」
露わになった、そいつの全貌に改めて俺は息を飲む。
そいつは青ざめた肌を持つ、ヤモリのような四つん這いの生き物だった。
しかし、ヤモリじゃない。俺が知る限り、ヤモリはナイフのような鋭い鈎爪など持っていない。
大型犬ほどもある、その身体には体毛もなければ鱗もなく、ベトベトとした粘液にまみれている。蛇か鰐のような形をした頭部には口や鼻らしき器官は存在せず、その中心にはガラス球のような、大きな目玉が一つ、ギョロギョロと蠢いていた。
ウアア、と俺は呻き声をあげる。
火に焙られたかのように、頭の芯が熱い。
全身の水分が冷や汗になって噴出し、再び強烈な吐き気が込み上げてくる。
目の前の生き物に対する、激しい嫌悪感のせいだ。グロテスクなその姿に目を反らしてしまいたいのにできない。
こんな嫌な生き物を目にするのは、生まれて初めてだった。
怪物。陳腐とも思える、二つの文字が俺の頭の中で点滅する。しかし、それ以上にこの生き物を的確に表現した言葉は思いつかない。
長い爪でガリガリと床を掻き毟り、そいつ、ヤモリのような姿をした怪物が、ペタペタ足音を鳴らし、俺に頭を向けた。
「ひッ……」
思わす、俺は小さく声を漏らす。ビクッ、と身体が強張る。
と――、ぐるん、とガラスボールのような怪物の目玉が半回転した。
そこに青ざめ、引き攣った俺の顔が映し出される。
次の瞬間だった。怪物の後ろ足が床を蹴った。汚らしい粘液を撒き散らしながら、ラグビー選手がタックルするように怪物は俺の腰にしがみついて来た。
声をあげる暇すらない。勢いよく怪物に押し倒され、組み伏せられる。怪物の爪がジャラジャラ音を立てて擦れ合い、俺の胸元に伸びた。
咄嗟に俺は腰を捻ってそれをかわす。
ガリッ、と嫌な音を立てて、怪物の爪が固い床を削る。
クソ、冗談じゃねぇぞ……!
飛び散るコンクリの欠片に俺は顔を引き攣らせていた。
想像したくもないが、こいつに引っ掻かれたら痛いどころの騒ぎじゃない。下手をすれば、はらわたを引きずり出されてしまう。
と――、目玉だけの怪物の顔がグイ、と俺の顔を覗き込んだ。
「うっ……!」
俺は蛇に見込まれた蛙だった。
新たに冷や汗が流れ出し、俺は身動きが取れなくなる。
ブチッという肉が裂ける嫌な音がして、怪物の一つしかない目玉の真下が縦に割れ、ギザギザした牙の生えた口らしきものが露わになる。
切り開かれた開かれた怪物の口の奥から、粘るような、あの厭らしい唸り声が聞こえた。
ドッとペンキ缶を倒したかのように、緑色のネバネバした吐瀉物が、怪物の口から勢いよく吐き出される。
それは飛沫を撒き散らし、俺の顔、そして喉元をビショビショに濡らした。
吐き気を催させるほど生臭いそれは、怪物の痰だった。
「うげっ……!」
たまらず目を瞬かせた俺を見て、怪物は馬鹿笑いしやがった。
ひゃひゃ、と歪な頭を揺らして。俺の慌てぶりが面白くてたまらないと言うように。
それを見た途端、恐怖や戸惑いよりも怒りが上回った。
そして、次の瞬間、俺は片手を怪物の顔目掛けて突き出していた。
ぐちょっ。
ヌルッとした感触が俺の掌に伝わる。
それが何か、あえて考えず、渾身の力を込めて俺は握りつぶした。文字通り、血も凍るような絶叫が地下道に響く。
その叫び声の主は、俺ではなく、馬乗りになった怪物だ。
ヤツの大きな一つ目は無残に握り潰され、血だか汁だかよく分からないものが後から後へとその大きな眼窩の縁から溢れ出ていた。
激痛に身悶えする怪物。この隙を逃さず、俺は両足を揃えて、ヤツの胸を蹴り飛ばしてやる。ギャッ、と悲痛な声をあげて怪物は床に転がった。
傷を負わせたのはいいが、このままにしておくわけにはいかない。俺は壁に背中を擦りつけ、必死に身体を立ち上がらせた。自分が鬼のような形相なのは想像にかたくない。
ふと通路の端に目を留める。
そこに落ちていたのは、一本の鉄パイプ。置き忘れられた工事の資材か何かだろう。
考えるより先に俺はそれを拾い上げていた。
そして――、
「死ねッ!」
怒声とともに怪物の脳天目掛けて鉄パイプを振り下ろす。
一撃。もう、一撃。さらにもう一撃と。
一片の慈悲も見せることなく、俺は怪物の頭が原型を止めぬほどグシャグシャになるまで攻撃を加え続けた。しかし、それでも怪物の身体はビクビクと痙攣し、命の炎はなかなか消えそうにない。
業を煮やした俺は、ヌメヌメした背中を思いっきり踏み砕いてやった。
耳障りな断末魔の声を上げて、やっと怪物が動かなくなる。
ゼェゼェと荒い息をつき、
「い、いきなり襲ってきやがって!」
怪物に向かって人差し指を突きつけ、俺はまくし立てていた。
「一体、何なんだ! まさか、宇宙生物とか言うんじゃないだろうな!」
……答えはない。有難いことに死んでくれたらしい。
頭の悪いやつらと頭の悪い小突き合をすることはたまにあっても、こんな風に全身全霊の暴力で生き物を殺すのは生まれて初めてだった。しかし、予想に反して、思ったほどの罪悪感や嫌悪感はない。無論、気分爽快というわけでもないが。
「畜生、ベタベタに汚しやがって……!」
低く呻きながら俺は顔や身体に付いた返り血を片手で拭った。
と――
筆先から零れ落ちた墨のように、黒々としたゼリーのような幾つもの物体が、死んだ怪物を取り囲むようにして、ジュクジュク音を立てて床の隙間から滲み出てきた。
そいつらはブヨブヨと震えながら、倒れ付した怪物の死骸の上に這いあがってゆく。
ジュッ、という肉が焼ける短い音が聞こえた。同時に、鼻腔を突き刺すような凄まじい腐敗臭が漂ってくる。
立ち竦む俺の目の前で、黒ゼリーに覆われた怪物の死骸が腐りグズグズと崩れてゆく。
やがて、それは緑色のネバネバしたよく分からないものに変わり、黒ゼリーたちが、口には見えない口でそれをちゅるちゅる啜り始める。
「げっ……!」
動物のような唸り声をあげて、込み上げる嘔吐感を無理矢理に押さえ、俺はその場から転がるようにして逃げ出していた。黒いゼリーのような怪物達が、俺が殺したヤモリを咀嚼しつくす音を聞きながら。
逃げろ、逃げろ、とにかく逃げろ――!
同じ言葉が呪文のように頭の中で回り始める。安全な場所を探すとか、助けになる人を探すといった合理的なアイデアは浮かんでこなかった。
背後から確かな温度を持って迫る、恐怖と狂気から逃げることしか頭に無かった。
走り、飛び跳ね、転び、這いずって。本能が命じるままに、とにかく逃げて逃げて逃げ回った。
ごげぇ……
走り続ける俺の耳朶にあの厭らしい、痰を絡ませたような唸り声が聞こえた。反射的に俺は声が落ちてきた頭上を見上げる。そして、すぐに後悔した。
ごげぇ……ごげぇ……
アーチ状の天井。ビッシリとそこを埋め尽くすように張り付いていたのは先程のヤモリの怪物の群れ。少なく見ても、五十匹以上はいる。
走り続けながら俺は声もなく笑った。自分が笑っていることに笑った。
人っ子一人いない、廃墟のような地下街を俺は汗まみれ泥まみれで駆けずり回っている。
そう思うと、馬鹿馬鹿しくも滑稽でたまらなかった。
■3■
いつの間にか――
夢ノ宮プラザは、怪物どもが我が物顔で徘徊する、魔窟と化していた。
闇雲に逃げ回っているうちに、俺は地下鉄の入り口までやってきていた。
大した怪我もせず、まだ自分が生きているのが不思議だった。もっとも、このままじゃ、やつらに取り囲まれて八つ裂きにされるのは時間の問題だろうが。
のんびり切符を買うような余裕は無い。案の定、無人だった駅員室を横目に改札口を潜り抜け、停止しているエスカレーターを駆け下りる。
そして、やっとの思いでプラットホームに辿り着いた。
「おいおい」
肩で荒い息を整えながら、俺は引き攣った笑みを浮かべた。
「やり過ぎだろ。いくらなんでも……」
わずか数時間の間に、一体、どんな大工事が行われたというのか。
隣のホームとの間にあったはずの線路が消滅していた。
代わりにそこにあったのは、タールのようなねっとりした闇を湛えた巨大な溝穴。
地獄へと続いているようなそれが一体、どれくらいの深さがあるのか、肉眼では窺い知れなかったし、正直、知りたくもなかった。
これでは電車に乗って脱出など、望むべくも無い。
その身の毛もよだつ景色からヨロヨロと後退り――、転ぶようにして俺はベンチに腰を下ろした。
しばらくの間、身動き一つ取れなかった。
さっき拾った鉄パイプを強く握り締めながら、
「お手上げだな、こりゃ……」
疲れきった声で俺は弱音を吐いていた。
状況はこうだ――。
出口は無い。外部とも連絡は取れない。西出口は誰のものとも知れない首つり死体、夢ノ宮プラザのあちこちを得体の知れない怪物どもがウロウロしている。
正に悪夢の世界に迷い込んでしまった気分だ。
不意に、強烈な睡魔が俺を襲った。無論、居眠りしている場合ではない。が、理性ではそう判断していても、身体が目の前の状況を受け入れることを拒否しているのだ。
どうせ、助からないのならこのまま眠ってしまおうか……。
弱々しく溜息をつき、深くうな垂れた時だった。
「――やっほー、歩ッ!」
場違いなほど明るい声が、死んだような静寂を破った。
ギョッとして俺は顔を上げる。とうとう、幻聴まで聞こえるようになったかと戦慄しながら。
「こっち、こっち。歩、こっちだってば!」
鈴を鳴らしたような、可愛らしい声が再び俺の名を呼ぶ。
一瞬、俺は視線を宙に泳がせ――、竪穴を挟んだ隣のプラットホームで見知らぬ人物がこちらに向かって、ぶんぶん手を振り回しているのを認めた。
薄暗いそこにいたのは、はちきれんばかりの笑顔を浮かべた一人の小柄な女の子だった。
……女の子?
思わず俺は目をゴシゴシと擦り、改めてホームの向こうを見直す。
やっぱり、女の子だ。
年齢は俺より下で、小学校の高学年か中学一年生ぐらい。
黒いシャツの上にスタジアムジャケットを羽織り、白い腿が露わになったデニムのミニスカート。そしてスポーツシューズという軽快そうな出で立ち。
こじんまりした幼い顔は歳相応に可愛らしく、頭の後ろで束ねられたポニーテールは明るいプラチナ・ブロンドだった。
「きゃはっ、やっと気が付いてくれた♪」
俺と目が合い、嬉しそうに、黄色く弾んだ声をあげる女の子。
「……外人?」
やっと自分以外の人間を見つけたというのに、俺は間の抜けたことを呟いていた。
短い時間の間に不気味なものを見すぎてしまったらしい。彼女が纏う、明るく快活な雰囲気はこの異様な場所には、あまりにも不釣合いに思える。
ともかく何か言わねば、と俺が口を開きかけるよりも早く――
「見つけてあげるのが遅くなってごめんねー」
両手を筒のように丸めながら、女の子がまた呼びかけてくる。
驚くほど流暢な日本語だった。
「歩の気配、なかなか捕まえられなかったの。怪我とかしてない?」
「こ、声がでけーよッ……!」
慌てて、俺は口元に人差し指を当てた。
「説明できねえけど今、洒落にならないくらいヤバイ状況なんだぞ?」
こんな場所で、怪物どもに取り囲まれたら一巻の終わりだ。
「あ、デスパイスのこと?」
しかし、そんな俺の焦りを他所に、女の子は屈託の無い笑顔のまま言った。
「なら大丈夫だよ? だって、あいつら、耳が聞こえないんだもの」
「あ?」
俺は戸惑いを禁じえない。いきなり、何を言い出すのやら。
俺と同じように、彼女も怪物どもと遭遇しているのだとしたら、よく無事でいれたものだ。
「……そのデスパイスって」
チラチラ、周りを気にしながら俺は確認した。
「あのヤモリみたいな怪物どものことだよな?」
「うん、そうだよ」
何故か、嬉しそうに女の子は頷く。
「デスパイスは、皆、頭にボールみたいな鏡をつけているでしょ? あれに怖がる顔を映しちゃった人だけを獲物として認識するの」
「あ……」
そう言えば、と俺は思い出していた。
確かに、西出口付近に置かれた自動販売機の中から出てきたヤツは、俺と視線が合った直後に襲い掛かってきた。
と、言うことは――
「だからね、あいつらがそばに寄って来ても、顔さえ見られなければ大丈夫♪」
得意げにVサインを送ってくる女の子。
なんと答えればいいのか分からず、呆然と俺はそれを見返すしかなかった。
「それで、本題なんだけど――」
不意に真面目な顔になって、女の子が尋ねる。
「本当にここから外に出たい? お家に帰りたい?」
「当たり前だ!」
答える俺の声は裏返っていた。
「誰が、好きこのんでこんな所にいるもんか」
「じゃあ、卵を探し出して」
「……卵?」
俺はハッとしていた。脳裏に蘇ったのは爺ちゃんに電話する前に見たあの落書き。街頭テレビのスクリーンにでかでかと描かれていた。あれのことか?
「この世界のどこかにあるはずだから。探し出して割るの」
「えっ、割る?」
女の子の思わぬ言葉に驚き、俺は聞き直す。
「割るって、壊すってことか」
「きゃはっ、大正解! 歩って話が分かるねー」
やはり、明るい笑顔で女の子は頷いていた。
「あれを、デュカリ・デュケスの印形を壊せば歩はお家に帰れるよ」
「デュ、デュカ……?」
思わず、俺は口篭る。
全く、舌を噛みそうな名前だった。
「デュカリ・デュケスだってば」
仕方ないなぁ、とでも言うように女の子が両手を腰に当てる。
「ほら、歩。もう一度、言ってみて?」
「えっと……」
女の子の言葉に、思わず乗せられそうになった時だった。
かぁんかぁんかぁんかぁんかぁんかぁんかぁんかぁんかぁん……
俺と女の子の間に横たわる、巨大な溝穴から、ハンマーで固い壁を打ち鳴らすような耳喧しい音が聞こえてきた。それは耳障りなだけでなく、どこか神経に障るような音だった。
俺は思った。
まさか、この下に誰か落っこちた人がいて必死で助けを求めているとか……?
「ダメ、歩! 近づいちゃ!」
恐々と覗き込もうとした俺を女の子が叫ぶように制した。
「もう、行って! 早く、帰って!」
「ちょ、……ちょっと待ってくれよ!」
何かに怯えたかのように、一歩、後退りする女の子。
次第に大きく、そして加速してゆく叩音に負けじと俺は声を張り上げた。
「結局、お前は誰なんだ!? 何で、俺の名前を知ってたんだよ?」
「私は――」
女の子が口を開きかけた時、突然、目の前に巨大なモノが立ち塞がった。
溝穴から飛び出してきたそれは吸盤に覆われた、蛸のそれのような巨大な触手だった。その先端が、何かを求めるかのようにウネウネと蠢く。
「つ、次から次へと、何なんだよ……!」
度肝を潰され、声を裏返しながら俺はベンチから立ち上がった。
そして、その場から逃げ出す。隣のホームにいる女の子も、無事に逃げられるよう祈りながら。
辛うじて、俺は女の子の名前を聞くことができた。
アマリリス。
それが彼女の名前だった。
それから、数分後――
俺は夢ノ宮プラザの大きな噴水がある広場に引き返していた。
通路のあちこちにヤモリのような怪物ども、デスパイス達が歩き回っていた。
忠告された通り、やつらに顔を見られないよう天井を見上げながら、或いは足元に視線を落としながらそこを通過した。
傍から見れば、かなり阿呆な、と言うより怪しげな姿だろうが仕方がない。
ナイフのように鋭い牙や鈎爪で喉を引き裂かれたり、内臓を抉り出されたりするのは俺の趣味じゃない。常々、爺ちゃんが言うように、逝く時は畳の上で大往生といきたかった。
まあ、そんなしょっぱい事は後で考えるとして――再び、俺は街頭テレビの前に辿り着いていた。
「壊せって言われたけど……」
スクリーンに描かれた、件の落書きを見上げながら俺は低く呻く。
さて、どうしたものか。
今、俺の手には先程、怪物を殴り殺した鉄パイプが握られている。思いっきり、これを投げつけてやれば、或いは……。
ペタペタと湿った足音を立てて、デスパイスの一匹がすぐ側を通過していった。
迷っている時間は、多くなさそうだった。
「よし……」
緊張に冷や汗をかきながらも、俺はバットを構えるようにして鉄パイプを握り締め直した。
ぶんぶん、と素振りし――、渾身の力を込め、スクリーンの上に描かれたオレンジ色の卵に向かってそれを投げつける。
「でぇやああ!」
思わず、声が出ていた。
広場のあちこちで戯れていた怪物どもが一斉に動きを止めた……気がする。
大丈夫、大丈夫。
バラバラと振ってくるガラスの破片を避けながら、萎えてへし折れそうな自分の心に俺は言い聞かせる。
あの子――アマリリスが言った通り、こいつらは耳が聞こえないようだ。
顔さえ、見られなければ襲われることはない。現に、ここまで無事に帰って来れたじゃないか。
カンッ、と大きな音を立てて足元に転がった鉄パイプを拾い上げる。街頭テレビのスクリーンには、蜘蛛が巣を張ったような亀裂が走っていたが、卵の落書きはまだそこに形を留めている。
よし、もう一撃……!
頷き、俺は再び鉄パイプを大きく振りかぶった。
だが、
「……っ!」
突然、背中に冷たく生臭いものが吐きつけられる感触。
ベットリと上着を濡らしたそれは……
嫌悪感のあまり、俺は肩越しに振り返っていた。
そこには一匹の怪物が後ろ足で立っていた。クシャミでもしたのか。そいつにハナミズだか痰だかを浴びせられてしまったらしい。うげえ。
そして、そいつのガラスボールのような目玉には、嫌悪感に歪む俺の顔が映し出されていた。
「やべえ……!」
そう呟いたのと同時、四つん這いになった怪物が突進してくる。ジャラジャラと鈎爪で床を掻き毟りながら。
「う、うわわああああああああああああああああああああああああっ!」
血を吐くような勢いで俺は叫んだ。叫びながら、街頭テレビに向き直り手にした鉄パイプを投げ放つ。怪物が俺に飛び掛るのと、投げつけた松葉スクリーンを砕き割るのは殆ど同時だった。
■4■
「おい、君! どうしたんだ? 具合でも悪いのか!」
突然、耳元で大きな声が聞こえ、激しく肩を揺さぶられた。
わっ、と声をあげてのけぞり――、俺はしゃがみ込んだまま振り返っていた。
「あ、あれ……?」
冷や汗で全身がぐっしょり濡れているのを感じながら、俺は面食らう。
膝を落として屈みこみ、心配そうな顔で俺を覗き込んでいるのは、爺ちゃんに電話をかけた時、胡散臭そうな目つきで俺を睨んでいたオッサンだった。
「急にしゃがみ込んだりするから、ビックリしたじゃないか」
迷惑そうに顔をしかめながらも、一応、気遣う素振りを見せるオッサン。
「……誰か、人を呼んだほうがいいかい?」
「あっ、はい。いや、大丈夫です……」
曖昧な返事を返しながら、俺はゆっくりと立ち上がった。
クラクラと眩暈がする。軽く込み上げてきた吐き気を堪えながら、俺は恐る恐る周囲を見回していた。
そこは何の変哲もない、いつも通りの夢ノ宮プラザ――噴水のある広場だった。
幸せそうに行き交う大勢の人々の賑わい。稼ぎ時なのだから当たり前だが、どの店にもシャッターなど降ろされていない。ましてや、得体の知れない怪物など、どこにもいない。
良く慣れ親しんだ、当たり前の景色がそこにあった。
「あの、チョットお尋ねしますけど」
口を拭い、掠れた声で俺はオッサンに尋ねていた。
「今って……、何時っスかね?」
「時間?」
袖口を捲り上げ、腕時計を見ながら素っ気無くオッサンが答える。
「六時を少し回ったぐらいだな。まだ半までいっていないよ」
それだけ告げると、オッサンは首を振りながら足早に去って行った。
ポツン、と俺が取り残されたのは不味そうな匂いを漂わせるラーメン屋の前だった。
……まだ六時だって?
俺は困惑していた。
最低でも、三時間以上は歩き回ったと思ったのに……。
あのオッサンの言うことが真実ならば、爺ちゃんに帰ると電話を入れていくらも経っていないことになる。そして、あのオッサンが俺に嘘をつく理由はない。
ふと胸騒ぎを覚えて、俺は件の街頭テレビに視線を転じた。
割ったはずの街頭テレビは、壊れてなどいなかった。新品同様、傷一つない。
そして、件の落書きは、初めからそんな物など存在しなかったかのように、何の痕跡も見せずにスクリーンから消え失せていた。
それから――
どうやって下宿している六道自転車修理店、つまり、爺ちゃんの家に帰りついたのか覚えていない。
勿論、いつものように東出口から地上にあがり、停留所からバスに乗って帰ってきたんだろうが、その一つ一つの記憶に霞が掛かり、それこそ夢の中にいたような気分だった。
「――歩? 食欲がないのか?」
「ん……」
まだ、頭の中がスッキリしない。爺ちゃんに話しかけられるまで、俺は茶碗と箸を手にしたまま、ボーッと天井を見上げていた。
「やっぱり、爺ちゃんが迎えに行ってやれば良かったなぁ」
つるりと禿げ上がった頭をさすりながら爺ちゃんが言った。
俺の爺ちゃん――六道正平は御歳、七十歳の自転車修理工だ。表情は柔らかく、赤い帽子と服を着せ、白い髭を伸ばせばそのままサンタクロースに見える。厳しさや鋭さといったものは、どこにも見当たらず、誰が見ても大人しい年寄りと言う印象を受けるだろう。
「お前、病み上がりなのに動き回ったから疲れたんだろ?」
「い、いや、そんなことはないけど」
ぎこちなく微笑みを返して、茶碗の中の白米を口の中に運ぶ。
それが喉に引っかかり、慌てて俺はお茶で流し込んだ。
ふと食卓を見るとスペアリブだのから揚げだのと俺の好きな脂っこいものばかり。退院を祝って爺ちゃんが拵えてくれたのだ。が、まるで味がしない。
爺ちゃんの味付けが薄いわけじゃない。夢ノ宮プラザで味わったショックから、俺の舌が醒め切っていないのだ。一種の放心状態なのだろう。
「なあ、爺ちゃん……」
うん? と、爺ちゃんが柔らかな笑みを浮かべて俺を見返す。
「あのな――」
実は、俺、今日、誰もいなくなった地下街に閉じ込められて、そこを言ったりきたりしているうちに首つり死体を見つけて、ヤモリみたいな怪物に襲われて、そいつぶっ殺しちまって、そいつの死体は黒いゼリーみたいなやつが溶かして食っちまうし、プラットホームで変な女の子が話しかけてくるし、壊したはずの街頭テレビは壊れてないし、もう俺、参っちまったよー。
……何てことは、とても言えやしなかった。
頭がおかしくなったと思われるだけならまだしも、爺ちゃんを悲しませたくはない。
「ん? どうした、歩?」
「いや、なんでもねーよ」
小さく首を振って、俺は良く焼けたスペアリブの脂身を無感動に噛む。
ううむ……、やはり、味がしない。
「ところでな、歩。言い忘れていたけど……」
茶を一口啜り、爺ちゃんが俺に言った。
「今日な、清と光子さんから電話があったんよ」
思わず箸を止めていた。舌打ちしそうになるのを辛うじて堪える。
清、と言うのは俺の父親だ。つまり、爺ちゃんにとっては実の息子である。爺ちゃんには悪いと思うが、俺にとっては名前を聞くだけで食欲が減退する相手だ。
「……ふーん。それで?」
「うん。ようやく退院だと言ったら、安心しとったな」
固くなった俺の声に気がついていないのか、あえて聞き流しているのか――、爺ちゃんはニコニコ微笑みながら続けた。
「一度、お前のほうからも電話してやりな。きっと喜ぶ」
「……ん。まぁ、気が向いたらな」
低い声で答えて、俺は茶碗に残った飯米を掻き込む。
そして、溜息混じりに言った。「ご馳走様」
爺ちゃんと久しぶりの団欒の後、数ヶ月ぶりに俺は自分の部屋に戻った。
学習机の椅子に腰を下ろし、改めて自分がクタクタになっていることを知る。
身体だけじゃない。精神的にも、だ。
あんな目にあったんだから、仕方が無いことであるが。
「はぁ……」
椅子の上で反り返り、天井を見上げながら俺は嘆息する。
と、何気なくポケットに突っ込んだ指先に固い物が触れた。
そうだ、忘れていた……!
ガバッと跳ね起き、俺はそれを引っ張り出す。鍵だ。何故か、夢ノ宮プラザの自動販売機の中から出てきた、机の抽斗の。
操られるようにして俺はそれを握り締め、鍵穴に合わせる。
カチリ。
小さな音を立てて、鍵が開いた。
「…………」
ゴクッ、と俺は小さく喉を鳴らしていた。
そして、そろそろと引き出しを開き――、あっ、と思わず声が漏れ出る。
そこに仕舞われていたのは、一枚の絵だった。
どこの公園だろう。大きな夕陽を背に一台の滑り台が描かれている。そして、その前ではにかんだような笑みを浮かべて立っている子供は、明らかに小学生の時の俺だった。
「これは……」
声が震えるのを感じながら、俺はそれを手に取っていた。
胸の奥底から、何か暑いものがこみ上げてくるのを感じる。そして、その絵の裏側に、小さく可愛らしい字でメッセージらしきものが書き込まれていることに気がつく。
――いつも仲良くしてくれてありがとう
井原千夏
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