迷界のアマリリス
和田 賢一
■序章 三年前 ~quickening~
「悪魔や天使が実在しているかどうかは問題ではない。重要なのはそうしたものが実在しているが如くこの世界に作用すると言う事実である」
――――スコットランド出身の魔術師J・W・ブロッディ=イネス
耳障りなワイヤーの軋めきは絶え間なく聞こえていた。
それはいつかの日にか聞いた、トラックに跳ね飛ばされた野良犬の断末魔に似ていた。それを受けて、赤銅色に腐食した金網に囲まれたエレベーターが小刻みに揺れている。
死者の肌のように青ざめたコンクリートの壁の間をゆっくりと下降して行く人間大の鳥籠の中、私は一人、佇んでいた。
頭からスッポリ被っているのは、中世ヨーロッパの修道士を思わせる黒い外套。エレベーターの床板代わりの金網の隙間から吹き上げる冷たい風がそれを揺らしている。
天蓋から吊り下げられた裸電球は、まるで太った蜘蛛のようだった。その赤みがかった灯りが、私の頭の芯をジンワリと温めてくる。
深く俯いて、痩せっぽちで青白い自分の素足を見つめているうちに、いつものように私は胸中に不安が黒い泉のように湧き上がるのを感じた。
地下で私を待っているもの。それは俗世に縛られた、凡人としての生の終わり。そして、新しい世界を生み出す者の一人としての新しい生の始まり。具体的なことはよく分からないが、とにかく、そう聞かされていた。
「大丈夫……」
ギシッと音を立てて、足の裏に金網が食い込む感触が不快だった。
それに耐えながら、私は自分に言い聞かせていた。
「この試練に耐えれば、きっと私は幸せになれる。皆がそう言っているんだもの。絶対に大丈夫……」
萎えそうな自分の気持ちを繋ぎとめるように、私はキュッと唇を噛み締める。
だけど――
(私が幸せになるって、どう言うことなんだろう……?)
初めてここを訪れた時と同じ疑問が脳裏に蘇ってくる。これまでの私の十三年の人生は、思い出したくもない悲しいことや苦しいこと、怖いこと――自分でも驚くほど嫌なことばかりだった。
私の幸せとは、そういったことが一切なくなる状況をさすのだろうか?
それとも……
小さく頭を振り、私は雑念を払いのけようとした。
もうすぐ、大切な儀式が始まるのだ。今はそのことだけに集中しないと……。
と、唐突に絶え間なく響いていた陰鬱な機械音が止まった。同時に金網のエレベーターの動きも止まる。そして、金属が擦りあう音を立てて、眼前の金網が上へと移動し、重々しい鉄製の扉が開く。その向こうから、賛美歌のような低いコーラスが聞こえてくる。
われら眠りの向こうに横たわる、
真なる世界を受け入れん
燃え盛る虹の輪を潜りぬけ
万人が望む楽園へと旅立たん……
少し躊躇った後、私はエレベーターの外へと足を踏み出した。
「…………」
出迎えたのは、奈落の底から汲み上げてきたような、ねっとりとした漆黒の洪水。
周囲の様子を伺うどころか、自分自身の存在すら塗りつぶされてしまいそうな威圧的な暗闇が私を一飲みにしようと押し寄せてきた。
心臓を鷲掴みにされたような圧迫感が全身を駆け巡る。冷や汗がジットリと背中をぬらし、息遣いが荒くなる。私は身震いした。幼い子供のように、纏わりつく闇が恐ろしかった。
と、その時だった。
「怖れることはありませんよ。こっちにいらっしゃい」
闇の向こう側から、私に投げかけられる声があった。それは鈴を鳴らしたように高く、繊細で――それでいて途方もない力強さを感じさせる不思議な声。
その声が合図だったかのようにピタッとコーラスが止まる。
闇の中にボンヤリと浮かび上がったのは、私と同じような格好をした、人達だった。二十人か三十人。いや、もっと大勢いるのかもしれない。
私と同じ歳ぐらいの子供もいれば、腰の曲がったお年寄り、中年のおじさんやおばさん、大学生くらいのお兄さんお姉さんもいる。それぞれが蝋燭やランタン、それに懐中電灯など照明器具を手に私を見つめていた。
一つの信仰で結びついた、霊的な仲間たち……。彼らは私にとって大切な『同胞』であり、『家族』だった。そして、そのなかに私のお母さんもいた。私を見て、お母さんは誇らしげな笑みを浮かべていた。それは夢を見ているようで、どこか危うげなものだったけれど――、久しぶりに見るお母さんの笑顔だった。
自然と胸の奥がジンとしてくるのを私は感じた。やっぱり、この儀式を授かると決めたのは間違いじゃなかった。少なくともお母さんは喜んでくれている。
と――
「何も怖れることはありません」
黒い外套姿の人々の間から進み出てきたのは、一人の若い男の人だった。
「貴方は新しい世界を生み出すために選び出された『特別』な人間の一人です。もっと自信を持ちなさい」
そう言いながら、その人はそっと手を私の肩に乗せる。思わず、私は息を飲んでいた。
フードに隠れてその人の顔はよく見えなかった。だけど、どんな女の人よりも綺麗な唇を綻ばせているのは暗がりの中でもよく分かった。
「ご、ごめんなさい……」
自分が赤面しているのを感じながら、私は頭を下げた。
その人は――、ただ導師様とみんなから呼ばれていた。
不思議な力を持った奇跡の人であり、私の、いや、ここにいる全ての人間にとって救いの主とも言うべき存在だった。
「それでは今宵、最後の儀式を始めるとしましょう」
皆を振り返って、導師様が言った。「暗闇よ、しりぞけ」
導師様が軽快に指を鳴らすと同時、天井に設えられていたシャンデリアに火が灯った。
その明かりに照らし出されたのは、教会の礼拝堂によく似た、広大な空間だった。
しかし 、色鮮やかなステンドグラスに描かれているのはイエス・キリストと十二使徒でもなければ聖母マリアでもなく、経典を携えた大天使でもない。
それは中心に人間の瞳を持つ、オレンジ色の卵。
私達の信仰と結束の証であり、この祝福された場所の象徴でもあった。
しかし、それに込められた教義を私はまだ学んでいなかった。
「さあ、こちらに……」
巨大な祭壇の前に立った導師様が私を手招く。引き寄せられるようにして私はふらふらとそちらに歩み寄り、お姫様のように身体を抱き上げられていた。
「あなたの、あなただけの真なる世界を解放するのです」
囁くような導師様の宣言とともに、礼拝堂に満ちていた静謐な雰囲気が変わり始めた。まるで、目には見えない虫の群れが騒ぎ出したかのように、空気がざわつき始める。
と、突然、身体を横たえられたのは、病院で使うようなストレッチャーの上。
戸惑い、私は落ち着きなく視線をさ迷わせる。
こんなのは聞いていない。
一体、何が始まると言うの?
わけの分からない恐怖心が私を捉えた。
私は声をあげようとした。横で見ているはずの母に助けを求めようとしたのかもしれない。しかし、それを遮るようにして、再びコーラスの唱和が始まる。
それと同時に強烈な睡魔に襲われ、私は瞼をゆっくりと閉ざしていた。額に優しく触れる、指先の感触があった。
「――君に良き夢のご加護がありますように」
その言葉を最期に、私を取り囲む世界は無音の闇に崩れ落ちていった。
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