黒煙のナイトシーカー

梶倉テイク

少女と請負屋

――暗い。暗い。暗い。

――怖い。


 労働種としての自身が特に優れている夜目。わたしは、夜目が利く。けれど、素足で走るぺたぺたと続く音が響く裏通りは暗い。とても、とても。それはまるで今の気分を表しているかのようだった。

 耳を澄ませる。頭の上の猫のような三角の耳を動かして音を拾う。どんな音であろうとも聞き逃さないように耳をすませて、必死に音を聞く。


 走るわたしの荒い息遣い。石畳を走るわたしの足音。複合高層機関時計塔が奏でる共振器オルゴールの音色。夜行機関が奏でる静かな駆動音。

 そして、わたしを追う者たちの足音と息遣い。石畳を忙しなく叩くブーツの靴音が鋭く夜の通りへと反響する。どんどん、どんどん、近づいてくる。


「い、やぁ」


 走って。走って。走る。捕まりたくない。もうあの場所には戻りたくない。いつ死んでもおかしくない穴倉にはもう戻りたくなかった。

 崩落で仲間が死んだ。鞭打ちで隣の子が死んだ。毎日、毎日、毎日、誰かが死んでいく。次は、自分かもしれない。そんな恐怖で夜も眠れない。


 だから、走る。追ってくる足音から逃げるように。裏通りを走って、開く扉を探す。都市の外に出ることはできない。

 既にそこには追手がいる。都市の外に出る為の全ての門に追手がいる。壁を越えることはできる。けれど、疲れ切った身体では。傷を受けている身体では無理だ。


 だから、傷を治し、体力を戻す為の隠れ家がいる。どこか隠れられる場所を。朝まで隠れられる場所を探す。


「おね、がぃ」


 開かない。開かない。開かない。裏通りに面した扉は、開かない。綺麗な扉も。汚い扉も。壊れかけの扉ですら全て施錠されている。

 蒸気犯罪者のせいだ。都市の暗がりで人を殺す、あるいは盗みを行う怪人フリークス。蒸気機関文明が生んだ闇。


 都市の暗がりに潜むという切り裂き魔リッパー・ザ・ジャックの存在が裏通りに警戒という名の鎖をかけている。

 だから、裏通りの扉は開くことはない。


「おね、がぃ」


 願う。どこかで見ているかもしれない神に、運命に。


「あっ――」


 真摯な願いは、届く。


――扉が、開く。


 裏通りにある扉の一つが軋みをあげて開いた。倒れ込むように中へと入る。後ろで扉が音を立てて閉まる。

 慌てて鍵をかけた。その直後、扉の向こう側からブーツの足音が響き、遠ざかって行く。目の前で締めたばかりの扉が開くことはなかった。


「はあ」


 安堵の息を吐いた。それと同時にぴんと張っていた糸が切れるかのように床へと倒れる。絨毯も何も引いていない煤汚れの多い黒ずんだ木の床に倒れ込む。

 ほとんど一日中働き続けたあとに、逃げて走った。もう体力は限界を超えている。脚の筋肉は燃えているかのように発熱していた。


 意識がもうろうとする。まだここが安全かもわからないのに、切れた意識の糸は容易にはつながらない。瞼は落ちて、そのまま水に沈むように意識は闇へと落ちて行った。

 明日、また目覚められることを祈りながら。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「っぅ、いてぇ」


 朝。朝霧の出ている石造りの建物が立ち並ぶ通りをハワードは歩いていた。裏酒場で朝まで飲み明かしていたのだろう。ふらついてはいないが、頭痛が酷いのか頭を押さえていた。

 禁酒の時代だからこそ飲みたいと思うのは人の常だ。それでも限度というものがある。昨晩は少しばかり飲みすぎていた。


 歩く振動で鈍い頭痛を感じながらハワードは自宅へと辿り着いた。そこでふと、何やら付近が騒がしいことに気が付く。

 朝霧に包まれたいつも通りの朝。そこにガスマスクを警邏たちが忙しなく歩き回っていることに気が付いたのだ。その中の一人がハワードに気が付いてやってくる。


「労働種の雌を見なかったか。猫の娘だ」

「あん? 知らねえよ」

「そうか」

「それよりそこの浮浪者をどっか持って行ってくれよ。昨日からそこで野垂れ死んでて迷惑なんだよ」


 そうハワードが言うが、しかし警邏はまったくそんなことなど知らないとばかりにガスマスクの中の視線を真っ直ぐ進行方向に向けたまま機械のように歩いていく。

 そのあまりにも機械的すぎる行動には、中身が歯車だとか言われても信じられるだろう。浮浪者が死んだと言うのに眉一つ動かすことなく歩調も変わらずただただ歩いていく。


 あれにとって大事なのは都市中央区――碩学街の治安と、この都市の発展を支える碩学たちの頭脳であって、浮浪者ではない。問題らしい問題が起きていなければ動かないのも当然であった。

 あのガスマスクも自分たちの汚ならしい呼気が碩学たちを害することを防ぐためという筋金入りの碩学崇拝者で気狂いどもだ。浮浪者など、いいや碩学様以外は自分たちすら塵屑以下の存在でしかないのだろう。


「やれやれ」


 警邏が役に立たないとあれば自分で処理しなければならないが、浮浪者の処理など金をもらわなければやりたいとは思わないが、腐られても困るのだ。


「ったく」


 死んでから幾許か。それなりの時間が経っている為目ぼしいものはとっくの昔にはぎ取られている浮浪者の死体を蹴るように路地へと入れてマンホールの中へと蹴り込む。

 そこは下水道への入り口であり、ここに入れておけば別の浮浪者が勝手に処理してくれる。食うに困った誰かがおそらくは食糧にでもするのだろう。


 ともかく腐ることなく綺麗に処理してくれることにかわりはない。


「さて、寝るか」


 一仕事終えた。当初の目的通り自宅で眠るとしよう。幸いな事にハワードは大きな仕事を終えたばかりで次の仕事の目途はない。

 だから、ゆっくり眠れる。それも見越して飲んだのから当然、眠るに決まっている。真鍮製の鍵を回して軋む扉を開いて家へと入る。


「ん? なんだ」


 そして、そこで眠る見知らぬぼろ布に包まれた何かに気が付いた。


「…………」


 左手で銃を抜いてぼろ布に覆われた何かに向けながらその布を剥ぐ。さらされる少女の姿。まず目に付くのは惜し気もなくさらされた傷だらけで汚れた裸体ではなく、その頭頂部に存在するものだ。


「労働種か」


 獣の耳。片耳に切れ込みのある三角形の黒猫の耳だ。それから人で言う尾てい骨の当たりから延びている尾。


「なるほど、警邏連中が探していたのはこいつか」


 それらの特徴から紛れもない労働種の少女だとわかる。先ほど警邏に知らないかと聞かれた少女だろう。労働種が都市のこんな場所にいるはずなどないからだ。


「逃げたのか」


 労働種ならば首筋にあるはずの首輪がないのを見てハワードはそう結論付ける。


「やれやれ、厄介ごとだ……」


 本当ならばこのまま縛り上げて警邏に引き渡すのが良いのだろう。それが市民として当たり前の行動ですべき行動だ。

 労働種をかばったところで得にはならない。むしろ損をする。もし逃がしてそのままこの労働種が捕まれば同時にハワードも警邏に処理されるだろう。


 労働種は労働する為に作られた者たちだ。それが労働を放棄した。重罪だ。それを逃がした者も同時に重罪だ。

 だから逃がさずさっさと警邏に受け渡した方が合理的である。だが、


「…………」


 閉じられた瞼から流れ出る涙。血まみれの足。酷使したのだろう腫れあがった脚。必死だったのだろう。逃げて、逃げて、逃げてここで力尽きたのだ。

 ハワードは面倒くさそうに頭を掻く。


「やれやれ。俺も焼きが回ったかね。ごほっ――」


 咳を受けた手の平を見る。


「……そうだったな」


 何かを決めたように拳を握りしめたハワードは、少女へ布を再び被せる。それから少女を抱え上げ隣の寝室のベッドへと起こさないように移動させ、慣れた手つきで治療を施す。

 それが終わると扉を閉めることもなく、リビングへと戻りスプリングがほとんど死んでいる安物のソファーへとどかりと腰かけた。


「……何をやってるんだ。俺は、らしくもねえ」


 そして、自嘲気味につぶやく。

 合理的ではない。まったく何をやっているんだ。言葉と共に溢れだした内心の疑問には答えなどでなかった。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 わずかな音で目を覚ます。己の鋭い聴覚を少女は自覚しているゆえに、本当に微かな音でも聞き逃さない。

 僅かな機械音。歯車が回り蒸気が循環する機関機械エンジンマシンの駆動音だ。


「――っ!」


 追手か。そう思い、彼女は跳び起きる。かぶっていた布が宙を舞うのも構わず四肢で以て床へと立つ。眠った時と状況の違いなど気にする余裕などない。

 油断なく、彼女は足音を立てないように開いていた扉の向こう側を見る。暗い部屋の中。どれほど寝たのか。どうやら寝すぎたようだ。


 そこにはどっかくたびれたような右目に眼帯を付けた男が一人。白髪交じりの黒髪にどこか濁った青い瞳の男だ。機関製大量生産品である安物ながら機能性抜群とされる裏にも表にもポケットの多い褐色のコートを身に纏っている。

 見えにくいがその腰には銃帯ピストルベルトを付けているようだった。何処から見ても普通の男だ。警邏ではない。


 それでも油断はできなかった。尾や耳の毛が逆立つ。その理由は決して銃ではない。大口径リボルバー。それは、少女は知る由もないがその銃は、工場生産がほとんどの時代で職人の手作業で部品の一つ一つを作られた銃である。

 名を巨人殺しジャイアントキリング。通称GKとも呼ばれる、大口径リボルバーとしては、傑作リボルバーの一つでありその名の通り巨人すらも殺しうるほどの威力を持つという触れ込みの拳銃だ。


 しかし、油断できないのはその銃の威力を本能が嗅ぎ分けたからではない。労働種である少女にとっては銃を向けられて撃鉄をおろし引き金を引くまでの短い間で逃げることが出来る。

 その少女の労働種としての野生の本能が告げていたのだ、逃げられないと。鋭い嗅覚と聴覚が男の右腕に気を付けろ。そう言っている。


 その鋼鉄の右腕に。そう鋼鉄の右腕だ。篭手ガントレットではない。少女の耳には中から歯車と蒸気圧の奏でる音が響いているのが聞こえている。

 鼻には微かなオイルの匂いがしていることが感じられた。つまりそれは、その腕が機関製の義手であること。


 今時、機関製の義手など珍しくもない。工場で働く者なら週に一度か二度は起こる事故で身体のどこかを失っている。

 窓の外の通りを見渡せば、労働を終えて家に帰ろうとしている男の大半は身体の一部が鈍色の輝きをあげていることが見て取れるだろう。


 しかし、男の義手はそれらとは違う。戦うためのもの。血の匂いの染みついた武器だ。


――どうする。


 少女が考え込んでいると、


「……そんなところにいないでこっちに来たらどうだ」


 目を閉じていた男が少女を見ながらそう言った。そこに敵意はなかった。労働種はそういう匂いに敏感だ。嘘ですら嗅ぎ分ける。

 だが、それだけだ。敵意がないだけ。警戒は解かず少女はおずおずと扉の影から出てくる。


「起きたか。気分は、どうだ」

「…………」


 男の問いに少女は答えない。


「そう警戒するな、お前を警邏に突きだす気はない。突きだすなら、とっくの昔にお前は眠っていられないだろうさ」

「…………なんで」


 おずおずと少女が問う。か細い声だ。ろくに教育も受けられない労働種だ。その言葉はたどたどしい。しかし、聞き取れないほどではない。

 しかし、あまりにか細い為、男は一度聞き返した。間違った答えを返さないようにする大人としての常識だ。


「あん?」

「…………なんで」

「さあな。気まぐれだ。信じられないか?」


 男の問いに少女は頷く。


「だろうな。俺だってお前の立場なら信じられんだろうからな。だが、事実だ。気まぐれでお前を助けた。ただそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」

「…………どうするの」

「どうもしない。俺はお前をどうこうするつもりはない。出ていきたいなら出ていけ。ここにいたいのなら好きにしろ。どうせ、行くところなんてないだろう。俺の気が変わらないうちは、家に置いておいてやる。感謝しろ」

「…………」


 少女には男の言っていることがわかる。生まれて十年、言葉は年上の仲間たちに教えてもらった。喋るのは苦手だが、聞き取る方はそれなりに出来る。

 だから、男が言っていることはわかが不可解。労働種というものは差別階級であると少女は仲間たちに教えられた。さげすまれ、働かされるだけに生まれたのだと少女に鞭打つ男も言っていたのを覚えている。


 逃げた時も人に会えば石を投げられたりしたものだ。だからこそ、男の態度が理解できないのだ。逃げ出した労働種が人間に見つかれば問答無用で殺されるか、警邏に突きだされるかのどちらかだと教えられもした。

 だというのにそのどちらもせずに好きにしろという人間がいる。少女の常識からは考えられなかった。男が嘘をついていないこともわかるのだ。


 本心からの言葉かはさておいて、嘘をついてないことはわかるのだ。嘘をつけば人は少なからず汗をかく。そのわずかな匂いの辺かを感じ取れば嘘をついているかどうかがわかる。

 その変化が男にはない。だから、どうすればいいかわからない。こんな時どうすれば良いかなんて教えられていないのだ。


「それで? お前はどうする。ここから出て行ってどこかで暮らすか? それとも、ここにいるか?」

「…………行く場所、ない」

「そうか」


 少女の言葉を男はどう受け取ったのだろうか。


「お前の名は? これから必要になる。お前は、何と呼ばれていた」


 少女にはわからない。わからない少女に男は名を聞いてきた。男の中では少女がここに住むことが確定しているようである。


「…………ない」

「そうか。ならお前は……アンナだ」

「…………ア、ン、ナ?」

「そうだ。お前の名だ。そう名乗れ」


 名前。それは人間のものだ。労働種である自分には与えられるはずのもの。それが今、与えられた。言い知れようもない感覚が少女、いや、アンナを駆け巡る。


「あ、れ……なん、で」


 気が付けば涙が、流れ出していた。


「なん……で、うぐ、ひっく、ひっく――」


 とめどなく溢れ出し拭っても拭っても止まらない。


「おい、泣くな。頼むから泣くな。女の涙ほど、どうにもならないものはないんだ」


 しかし、アンナは泣き止まない。


「ああ、面倒だ。はあ、本当、何をしているんだ、俺は」


 男はそう言いながら泣いているアンナの所まで行き、抱きしめてやった。そのまま男の服を汚してアンナは泣き続けた。

 泣き疲れて、泣き止むまで。アンナとなった、初めて生きていて良いと言われた労働種の少女は泣き続けた。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 眠ったアンナをベッドまで運ぶ。ついでにアンナの身体を拭いてやってから、ハワードは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった服を着替えるついでにシャワーを浴びて、またどかりとソファーに座る。


「何が、お前はアンナだ、がらじゃねえ。ごほっ、ごほっ――…………」


 咳き込みながら、ハワードは黙ってアンナと名付けた少女が眠る部屋の扉をソファーに座ったまま見つめる。いつの間にか一日が終わり、夜になっている。

 機関灯すら付けずハワードはソファーに座ってリビングにある使っていなかった部屋の扉を見続けていた。


「……労働種、か」


 労働の為に作られた亜人の子孫。獣の特徴を植え付けられ、獣の如き力や能力を持つという。人間では難しく危険な労働を行う為に作られたことから労働種と呼ばれている。

 この都市にも労働種は多くいた。主に都市を支える鉱山で働いている。おそらくアンナはそこからの脱走者だろう、とハワードはあたりを付ける。


 蒸気機関を支える鉱山は、この都市の経済を牛耳る企業や駅の所有物。更に今は、シュリーナカンパニーと呼ばれる企業連所属の企業が何かをしているという噂もある。

 もし、そこから逃げて来たとなれば、どこまでも追われて始末されるだろう。鉱山には企業の秘密がある。そこで何かしらやっているともなると相当の機密があったはずだ。


 最悪なことにアンナの背にはシュリーナの社章が焼印してあった。彼女の脳みそには相当な額の値段がついていることは確実だ。

 働いていたということは、企業の秘密に関する情報を持っているという事。末端の末端でそれらしい情報を持っていなくとも大抵の奴はそう思うし、企業碩学にかかれば、わずかな情報からでも推測するには十分すぎる。


 更に薬物とメスメル学を用いて記憶を吸い出してしまえば、見聞きしたことを強制的に聞きだすことが出来る。その際に記憶を吸い出された奴は廃人になるが、労働種だ誰も躊躇うことはない。

 つまり、シュリーナの追手に見つかれば死。見つからずとも他の企業に見つかれば死。そのどちらにも見つからなくとも労働種として一般市民に嬲り殺されるか、どこかで野垂れ死ぬことだろう。


「まったく、面倒なことだな」


 労働種が生きるには、この世界は厳しすぎる。力が必要だ。この世界を生きる術が必要だ。

 誰かが教える必要がある。それが出来るのはハワードだけだった。


「おいおい、何を考えてるんだ。まったく、俺ともあろう者がよ――」


 懐から取り出した煙草に火をつけて紫煙を吐き出す。


「…………まあ、そういうのもいいかもしれねぇな――ごほっ、ごはっぁ――最後くらいわよぉ」


 同時に咳が出た。口元に持って行っていた手を見る。鋼鉄の手は真っ赤な血で染まっていた――。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 夢を見ていた。何か、幸せそうな夢を。


「ん――!!」


 夢が終わり、アンナは跳び起きた。鉱山にいた頃は、規定通りに起きていなければ鞭で打たれたから。しかし、起きて自らがどこにいるかを悟り、息を吐いた。


「…………」


 目元に手をやる。涙は止まっていた。起き上がり、ぼろ布を纏って部屋を出る。そこに警邏がいるということはなく、ソファーで男が眼を閉じて座っていた。

 昨夜と変わらない。何も。


「……」

「起きたか。良く眠れたか。まあいい。飯にするぞ。来い。いや、その前に服を着ろ。いつまでも裸にぼろ布でいるな。ここで暮らすなら、きちんとした格好をしろ。その部屋のクローゼットの中に入っている」

「…………」


 アンナはそこから動かなかった。男の意思にかわりはない。嘘はない。


「……いいの」

「何がだ」

「…………わたし、ここにいて、いいの」

「好きにしろと言った。お前がここにいたくないのなら出ていけばいい。止めはしないし、警邏にも通報はしない。お前の人生だ。好きに生きろ」

「……わからない、なにをしたいのか」

「そうか……なら、それがわかるまでここにいろ。どうせ出て行っても死ぬだけだ」

「…………」


 こくりと頷いてアンナは部屋に引き返す。そこで初めて部屋を見渡した。男の一人所帯の部屋ではなく、子供の部屋のようだった。

 そのどこか可愛げのある部屋の隅に置いてあるクローゼットを開く。音を立てて開いたクローゼットの中には子供の服が入っていた。そこから動きやすい服装を選んで着替える。着替え方がわからないでいた時は、男がわざわざ着方を教えに来た。


 着せられた服は黒。髪の色と同じ。肌を覆うワンピースコートは柔らかく価値のわからないアンナでも上等なものであることがわかる。

 それでいて動きやすさも兼ね揃えているのだから、本当に高いのだろう。ブーツも履いて、鏡を見ればどこかの上流階級の淑女と言わんばかり。


「それとこれを被ってこれつけとけ。尻尾も出すな」


 そして、最後に彼は大きな制帽をアンナに被せ眼帯をつけて色の違う金と青の瞳の片方を隠した。耳を覆い隠し顔もわずかだが隠れる大きな帽子と男と同じ眼帯だ。

 それから朝食だ。と男は言って冷蔵機関フリーザーエンジンの中から出来合いの料理を出してきて過熱し皿に盛ってテーブルの上に置く。


 いもを焼き揚げ、肉類と共に味付けしたもの。トニッシュ。この都市において母の味とされるものだ。


「食え」

「…………」


 すんすんと匂いを嗅いで毒が入っていないこと、危ないものがないことを確認してからアンナはおずおずと口を付けた。


「――!?」


 一口食べて、次はかき込むように誰にもやらないと言わんばかりの勢いで食べ始めた。空腹だったこともあるが、何よりもその料理がおいしかったのだ。温かかったのだ。

 また泣きながら食べる。味は涙の味がした。けれど、今まで食べたどんなものよりもおいしく感じたのだ。


「…………」


 男はそれを横目に見ながらテーブルの上に置いてあった機関製ラジオのスイッチを入れた。そこから流れるのは共鳴機関オルゴール通信による音声放送。ノイズに塗れながら陽気な音楽が流れパーソナリティーが他愛もないことを喋り倒す。

 情報番組であるのだが、そのパーソナリティーは朝一のニュースを最高にお似合いで、最高に不釣り合いな甘い声で垂れ流していた。


『ハローハロー、ご機嫌なあなたも不機嫌なあなたも私にハローハロー。ラジオ放送一ご機嫌な情報番組へようこそ。こんなご時世だからこそ、陽気さを忘れてはならないと私は思っています』


 この甘い声の音声放送を聞くのが、日課なのだと男は言った。アンナは目をぱちぱちさせながら声が響いてくる不思議な箱ラジオに顔を近づけて放送を聞いてみる。


『――ああ、心にもないことを言ってしまいました。本当はそんなこと一つも思っていません。あ、プロデューサーがうるさいのでニュースいっちゃいまーす。

 さて、本日の朝いちばんはやっぱりこれでしょう。皆さんが喜びそうなニュースを独断と偏見で私が選びました。あ、また怒ってる。プロデューサー、あんまり怒るとハゲますよー。

 さあ、ハゲそうなプロデューサーは気にせず朝一番のニュースをごしょうかーい。今日の朝一はこちら』


 楽しいニュース、あまり楽しくないニュース。聞くだけで世界が広がるような感覚をアンナは味わった。これが好きになった。

 夢中になって聞くアンナ。それを男は見ながら目的のニュースが流れるのを待ったがそれは流れては来なかった。でアンナが逃げたことは一切触れられることはなかったのだ。


「…………」


 しばらくして、番組が終わったところで男はラジオのスイッチを切る。


「あ…………」

「また聞かせてやる。今は、我慢しろ」


 それから椅子を立ち上がる。


「行くぞ」

「…………どこ、に?」


 まさか、警邏に突きだすのか。警戒するアンナ。しかし、男はそれを否定する。


「警邏にゃいかねえよ。仕事だ、仕事。お前が、ここにいるなら金がいる。昨日の報酬を受けとりに行くんだよ。着いて来い。ついでにお前のことも紹介する。そうしておけば、労働種とばれなければ警邏に目を付けられることもない。俺といても問題はなくなる。良いか、俺が言うとおりにしているんだぞ」

「…………」


 アンナは頷いた。その言葉に嘘はない。嘘を突けばわかる、匂いで。男は嘘をついていない。


「良い子だ。まずは、お前と俺の関係だ。お前は、俺が十年前にやった娼婦の娘で、母親が死んで俺の所に来た。良いな?」

「…………」


 アンナは頷く。


「誰かの前じゃ、俺のことをお父さんとでも呼べ。それ以外は、虫唾が走るからおじさんとでも呼べ」

「……わかった、おじさん」

「それでいい。行くぞ、離れずついて来い。心配ならコートの裾でも握ってろ。人間ってのはか弱い生き物にはどこまでも弱いからな」


 頷いて男のコートの裾をぎゅっと握りしめた。


「……行くぞ」


 歩き出す男に従ってアンナは外に出た。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 人通りの多い通りを歩く。メインストリート。人や蒸気自動車の往来が多い通り。その歩道をゆっくりといつもよりも遥かに歩幅を狭くしてハワードはアンナと歩いていた。

 アンナはハワードの少し後ろをコートの裾を掴んでついてくる。何もかもが珍しいのだろう。きょろきょろと辺りを見渡して蒸気自動車に驚いては慌ててしがみついてくる。


「…………」


 それに対して鬱陶しく思うが、ハワードは何も言わずポケットに手を突っ込んだまま歩いていく。咥え煙草に煙る紫煙が尾を引かせて歩いて辿り着いたのはメインストリート中央にある円形通り。

 そこから東に向かう路地へと入る。そして、すぐに脇に合った階段を降りていく。階段を降り切った先にある扉。


 小窓のついた扉をノック。


「時間外だ」

「嘘をつけ。貧乏人に休む暇などあるか。――青い花を持ってきた」

「言い値で買おう」


 そんなやり取りをするとがちゃりと音がして扉が開く。扉の向こうから漂ってくる酒気。ここは酒場だ。天下の悪法禁酒法を逃れて経営されている裏の酒場。

 朝だというのにそこにはかなりの数の客がいた。また朝まで騒いでいたのだろう。その中の一人がハワードに気が付いてやってくる。


 知り合いだ。その吐く息は酒臭い。相当に酔っているようだ。更に言えばその視線はハワードの後ろにいる酒の匂いに顔をしかめているアンナを目ざとく見つけたようである。


「おいおい! 酒場にガキ連れとか、どういうつもりだよぉ~、なあ」

「酒臭いぞ。絡むなよ。違法行為だぞ」

「いいじゃねえの。禁酒法なんてくそっくらえ、だ。で? なんだよ、そのガキ。お前のこれか?」


 卑猥なハンドサインを出す酔っ払い。


「馬鹿を言え、こんなガキ好みじゃねえよ知ってんだろうが」

「じゃあ、なんだよ。まさか、てめえのガキだってのか?」

「そのまさかだよ。最悪なことに十年前にやった娼婦のガキだとよ。その女が死んで、俺のとこにきやがった。最悪だ」

「はははっ! マジかよ! おいみんな聞けよ! この馬鹿が娼婦のガキつくってやがったってよ!」


 酒場はそれで大盛り上がりだ。酔っ払いたちは早々にはやし立てる。騒げればなんでもいいというような連中なのだ。

 アンナに話しかける奴もいたが、彼女はハワードの後ろに隠れてばかり。人見知りなんだと言ってやれば納得したように笑う。似てる似てないなど言う奴もいたが、酔っ払いの言う事である。誰も気にしない。


 こんなことはこの街では割合あることだ。隠し子如きで騒ぎはせど問題にする奴はいない。


「で? 入用でなマスターはいるか」

「奥だよ」


 礼を言ってハワードはアンナと共に機械人形の給仕を躱して奥へと向かう。


「おい、マスター、昨日の報酬を寄越せ」


 奥の扉を蹴破るように中へ入る。いくらかの機関機械が置いてある簡素な部屋だ。報酬部屋。そう呼ばれている。


「丁寧に入れといっているだろう。まったく」


 部屋にいた初老のマスターがぶつぶつと文句を言う。


「報酬だな。ナンバーカードを差し込め。まったく」

「ああ」


 懐から取り出したナンバーカードを装置に差し込めば自動で動き出す。マスターの操作に従ってカードに施された穴に対して歯車機構が連動している一連のレバーを押し付け、穴の空いていない部分のレバーが押されることで歯車機構が動く。

 それによって、数値を伝える解析機関アナリティカルエンジンへと伝えるのだ。そうして初めてカウンターの数字が回り出す。


 カチ、カチ。音を鳴らして回転し止まる。その数値を見て、クレジットが振り込まれていることをハワードは確認した。依頼の前の儀式は完了した。これにて契約は成されたということになる。


「確認した。確かに、報酬は受け取った」

「いい仕事だった。で? そっちの嬢ちゃんは誰だ」

「俺のガキだよ。アンナだ」

「アンナ、か。なるほど。お前さん厄介ごとを背負い込んだな。やれやれ、死ぬなら余所でやってくれ。うちを巻き込むなよ」

「わかってるよ。それで? 何か仕事は来ていないか」

「今はない」


 そうか。なら、これを頼む。そう言って彼は何かのメモ紙を渡す。


「……わかった。頼まれよう。だが、これだけだ。あとは、お前でやれ」

「わかってるよ」


 それだけ言ってハワードはマスターに背を向ける。


「――おい」

「…………なんだ? ツケ払えってか?」

「……いや、良い。それも思ったが、次会ったときにな」

「……なんだよ。なら呼び止めんなよ」


 後ろ手に扉を閉めて酒場をあとにする。特にやることもない。仕事がなければどこかに行く気もなく、ハワードは自宅に戻ってきた。

 そこでようやくアンナはハワードの後ろから離れる。どかりとハワードはソファーに腰かけた。


「ふぅ」

「…………ねえ、おじさん」

「あん? どうしたよ」

「……わたし、何をすればいいの」


 何もない日など経験をしたことないのだろう。だから、仕事がないなにもすることがないということを持て余しているのだ。


「ねえよ。ゆっくりしてろ。ああ、いや、そうだな。お前、これからも生きる気はあるんだよな」

「……生きたい」

「はっきり言うぞ。無理だ。今のままじゃ、お前はここから出ていったら死ぬ。だから、そうだな。暇だしお前に生き方ってやつを教えてやるよ。勘違いすんじゃねえぞ。別にお前の為なんかじゃない。俺が暇だからだ。――来い」


 内心で何を言っているんだとハワードは思いつつも、アンナを伴い地下室へと降りていく。そこは広い部屋だった。

 訓練部屋。ハワードがやっている仕事は危険な仕事だ。ゆえに、ここで鍛錬などを行っていたのだ。埃が積もっていることを見れば最近は利用していないようだが。


「俺は請負屋フィクサーってのをやっている。まあ、便利屋だな。何でも屋だ。やれることやってりゃあ何も言われないし、特に資格がいる職業ってやつでもねえ。お前がもし、ここから先も生きていくなら請負屋になるのが良いだろうよ。いつまでも俺が面倒見切れないからな」


「……なんで」

「あん? 言っただろ。気まぐれだ。少しばかり、暇だったからそこらへんにいたお前に教えてやろうと思った。それだけだ。いやなら、言え」

「……ううん。良い、教えて、おじさん。わたし、生きたい。おじさんが、言ったどうすれば良いか、見つける、まで」

「そうか……」


 なら、まずはこれだ。そう言ってハワードはアンナに小ぶりの拳銃を渡した。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 時間は瞬く間のうちに過ぎて行った。アンナは男から様々なことを習った。

 生きる為に必要な事。読み書き、計算の仕方、機械の使い方。請負屋としての仕事の仕方。拳銃、体術などの戦い方。料理、掃除、服の繕い方。病気の治し方。怪我の治療の仕方。男とのやり方。

 生きるのに必要ないこと。遊び方。酒、煙草。ただの十歳の子供には必要のないことまで全部、全部、なんでも。


 平和な日々だった。この一ヶ月。追手もなく、ただ毎日生きることが出来ていた。楽しい、と初めて感じた。

 アンナはいつの間にか笑えるようになっていた。


「ふぅ」

「おじさん。名前、教えて」


 ふと思いついて彼女はそう男に聞いた。


「ああ、そう言えば名乗ってなかったな」


 アンナは男の名を知らなかった。彼が名乗らなかったから。この一ヶ月、忙しくて楽しくて忘れていた。落ち着いてふと思い出したのだ。


「そうだな。減るもんでもねえが。――ごはぁ!!」

「おじさん!?」


 男が血を吐いた。


「大丈夫だ」


 嘘だ。嘘をつかなかった男が唯一嘘を吐くことだ。


「大丈夫、じゃ、ないよ」


 匂いで分かる。もう男は死ぬ。


「お医者さん、のとこ行こ」

「言ってるよ。無駄だとよ」


 嘘じゃ、ない。


「…………」


 思わず、抱き着いてしまう。


「おいおい、泣くなよ。また俺の服を汚す気かやめろよ。……おい、やめろよ。頼むから」


 絞り出すような男の声。アンナは、俯いたまま離れた。


「……はあ、仕事に行ってくる。寝てろ。大人しくな」

「うん……」

「……なあ、やりたいことは見つかったか?」

「…………ううん」


 いいや、嘘だ。見つかっている。この一ヶ月を男と過ごして。


「そうか」


 男はアンナの返答をそのまま受け取ったのだろうか。そうか、の一言だけでいつものように夜の街へと消えて行った。

 匂いは残っている。追うことは出来る。最初の頃はいつも追っていた。いまでは、家で彼の帰りを待つようになっている。


 信用した。初めて生きていて良いと言ってくれた彼のことを。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 ハワードはアンナが追ってくる気配がないことがわかると後ろを気にすることなく歩き出した。この一ヶ月アンナに生きる為の術を叩き込んだ。

 一ヶ月だ。突貫工事も良いところだ。だが、それでも元が良いのだろう。労働種として身体能力が高いこともあって、戦闘術の方はおおむね修得したと言ってもいい。


 そこらの怪人や人間相手にはもう負けないだろう。だが、彼女はこのままでは負けるだろう。最後の一押しがいる。


「…………」


 まったく、本当に何をやっているのだろうか。この一ヶ月幾度となく思ったことをまた思いながらハワードは目的地へと向かっていた。

 都市中央部。都市政府と経済、富裕層、碩学いる都市中心街。その一角、シュリーナカンパニーの高層複合建築。


 中に入れば、スーツを着込んだ女に出迎えられた。


「ようこそ、どうぞこちらへ」


 完璧な所作でハワードを迎える彼女。彼女と共にハワードは案内されるままに上層階へと向かう。

 ハワードはその女が機械人間サイボーグであることを見抜いた。立ち振る舞い、それから足音から彼女の身体が歯車と機械からなる機械人間であること見抜いたのだ。


 警戒しながらハワードは女と共に応接室へと入る。女は奥、上座に座りハワードはその対面へ。


「では、依頼の話をしましょう。ミスタ・ハワード。貴方は凄腕の請負屋と聞いてます。企業連のブラックリストに載るほどの」


 金さえもらえれば何でもやる。暗殺、企業テロル、煙突掃除、子供のお守り。なんでもだ。断ることは基本的にない。それがハワードという男だった。

 それだけに恨まれることもある。特に、損害を被った企業なんてものは暗殺者を週一で送り込んできたこともあったのだから。


「それがどうした。俺を、殺すか」

「いえ、依頼の話と言いました」

「本題を言え」

「はい、一ヶ月ほど前に我が社の鉱山から逃げ出した労働種。知っていますね」

「話は聞いている」

「それに差し向けた刺客が尽くやられているのです。我が社としてもこれ以上の損害は許容できません。そこで凄腕と言われる貴方に依頼をすることを役員会が決めました。ゆえに、貴方に依頼します。逃げてこの都市に潜伏している労働種の抹殺。おそらくは協力者がいると思われるのでその抹殺もお願い致します」

「…………ああ」

「では、こちらへ」


 そう言ってナンバーカードの読み取り装置の前へと案内される。ナンバーカードを差し込み口へ入れる。女が操作してカウンターの数字が動いていく。


「前金を振り込ませていただきました。では、良い仕事ビズ請負屋フィクサー。我々は貴方をかっています。その期待に応えることを期待します」

「ああ」


 そのまま見送られてシュリーナカンパニーをあとにする。いつの間にか日が暮れていた。ただそれを体感できるかは微妙だ。

 なにせ、空は今も厚い雲に覆われている。太陽の光は雲のカーテン越しにしか感じられない。いつも黄昏時のように明るく暗い。それが重機関都市だ。


 街灯がつき始めた。それが夜の始まりを告げる。裏酒場へ行って、マスターに頼んでいたものを受けとり、男は家へと向かう。通いの娼館の娼婦たちが誘ってくるが無視するように断って家の前まで来た。

 気配で分かる。既にアンナはハワードがここにいることに気が付いているだろう。


「はあ、まったく。柄にもねえ、ことはするもんじゃねえな」


 そう呟いて、腰のGKを抜いた。装弾を確認。六発。それも大威力のマグナム弾が六発。それが装弾されていることを確認して撃鉄を降ろした。


「…………ごはっ」


 血を吐く。


「まあ、生きた方か」


 まあ、悪くない日々だったとハワードは思っていながら、


「さて、それじゃあ、まあ行きますか」


 そう言って彼は銃を抜いたまま扉を開けた。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 アンナは男が家に入ってきた瞬間、空気が変わったのを感じ取った。それは殺気と呼ばれるようなもので、男と戦い方を学ぶ際に感じたものだった。

 それは男から放たれているもので、


「おじ、さん?」


 だからこそ、その一撃を躱すことができた。


「――――っ!?」


 轟音が響き渡り、己が背にしていた壁に巨大な穴が空く。正確に顔の横を撃ちぬいていった。これは警告だ。さっさと構えろそう言っている。

 訓練のとおり、アンナは即座に腰の拳銃を抜いた。しかし、その瞬間には男は距離を詰めてきている。鉄板入りのブーツが跳ね上がり拳銃を蹴り上げられた。


 跳ね上がった腕。胴はフリー。そこに握り込まれた右拳が唸る。アンナはそれを身体能力にまかせて床を蹴り壁を蹴り天井を蹴って躱し男の背後へと降り立つ。

 回し蹴りが来るが優れた動体視力は蹴りの軌道、フェイントすら見抜いて躱しきる。GKでの一発が放たれたが、引き金を引くと同時に射線から外れることで躱す。


 身体は勝手に動いた。恩人と戦うことになっても本能が身体を動かす。一ヶ月で染み込ませた技術が正しい選択肢を選択する。

 自慢の脚力で以て接近し、懐へと入った。身体の小ささを利用して男の間合いの内側へ。強く地面を蹴ってその衝撃と共に膝にて左手首を蹴り折る。


「ぐおっ――」


 男はGKを取り落とす。それはそうだ。労働種の身体能力は子供であっても成人男性に迫る。そうでなければ労働種とは言えない。

 そのまま脚を引き戻すと同時に渾身の蹴りを放った。堅い手ごたえ。しかし、


「大振りだ。ごはっ――」


 喀血し、火のついた煙草を落としながらも男は右腕でアンナの蹴りを掴んでいた。


「おじさん、なんで」

「あん? ああ、仕事だよ。お前の抹殺依頼を受けちまった。そういうこった。俺の仕事の流儀は知ってるだろ」

「…………」

「だから、さ。こうすることにしたわけだ」

「え?」


 ぱっと、男は掴んでいたアンナの脚を離す。いきなりのことで体勢を崩したアンナ。その間に男は肘に隠されたスターターロープを引いた。

 がちり、と腕の中で歯車が切り替わる音を聞いた。それと共に高圧蒸気が圧縮され流されていく音も聞こえた。


 まずい、そう思って咄嗟に離れる為に床を蹴った。


「おせえよ。だが、まあ、合格だな」


 その瞬間、撃発音が響き渡る。圧縮蒸気が解放された瞬間、その圧力によって男がアンナの視界から消え失せた。


「――っ!?」


 後ろだとわかったのは感覚が優れた労働種だからか。しかし、わかったところで地面を離れた身体で躱すことはできない。


「我慢しろよ」


 そして、灼熱が背中を焼いた。


「あああああ――」


 背中が焼ける。肉の焼ける匂いが部屋中に充満し、どさりとアンナは部屋の空調を制御する温熱機関の前に落ちた。


「さて、あとは、あん?」


 焦げ臭いにおい。熱気が部屋を満たしている。それは、男の右腕の内蔵兵装ギミックのせいではない。先ほど取り落とした煙草が家を燃やしていたのだ。

 火は驚くような勢いで燃え広がって行く。


「クソっ!」


 それは、リビングに置いてある温熱機械へと引火し、歪み圧縮され高圧高熱となった蒸気を解放する。それはさながら爆弾でも爆発したかのような威力だった。

 リビングが吹っ飛ぶ。それは当然、目の前にいて動けなかったアンナも同義。少なくともアンナはそう思った。


「―――え」


 だが、アンナは生きていた。


「ああ、がらにもねえことするんじゃねえな。まったくよぉ」


 男が抱きしめるように盾になっていたのだ。先ほどまで殺し合いをしていたというのに、これはどういうことなのか。

 アンナにはわからなかった。


「なん、で」

「計画が狂いそうだったからな」


 男は背中を焼かれ破片が突き刺さりながらも平然としたようすでそう答えた。


「まあ、こうなったら好都合だな」


 火の中で男は持ってきていたトランクを開く。そこに入っていたのは子供の肢体だった。右腕の欠けた少女の死体。アンナと同じくらいの。


「慣れねえことはするもんじゃねえ。教訓だな。覚えとけよ。じゃねえと、こうなる」

「おじ、さん? わたし、わから、ないよ? ねえ、何を言ってるの」


 だらだらと血を流しながらも男は大振りのナイフを取り出す。


「何って、そりゃあ、あれだ。お前を助けてやるって言ってるんだよ。これはお前の代わりだ。ここで焼け死んだことにすりゃあいい。安心しろ。俺が仕事を失敗したことにはならん。ここで死ぬのは二人だ。お前と、協力者。二人だ」

「え? え?」

「さて、もう一つだ。悪いがお前の片腕をもらう。尾の代わりはどうにかなったが右腕だけはどうにもならなくてな。だから、もらうぞ。代わりに俺のをやるよ」


 淡々と血を流しながら作業をする男。アンナにはその真意がまったくと言っていいほどわからなかった。助ける? どうして。意味がわからない。

 仕事と彼は言った。ならば何があっても遂行するのかこの男だ。なのに、なぜ助けるというのか。そもそも、助けるというのならなぜあんな殺し合いを演じる必要があったのか。


「ま、待ってよ、おじさん、わからないよ」

「そうか。といっても説明する時間はないからな。まずは腕をもらう。麻酔は塗ってあるから痛みは弱いが我慢しろよ」

「がっ――――!?」


 そう言って男は躊躇いなく右腕に刃を振り下ろし、綺麗に切り裂いた。切り口がすぐさまふさがるほどに綺麗に切り裂かれた腕。


「で、だ。ほれ」


 そして、男はがちゃん、と自分の右腕の義手を落としてアンナと共に片腕で抱きかかえる。


「少しでけえが選別だ。珍しい型だから、愛好家にでも売れば金になる。そして、自分用の義手でも作れ」

「ま、って、おじ、さん」

「あとはマスターに頼んでいるから安心しろ。きちんと逃がしてくれるしお前の為に用意した荷物も渡してくれるだろ」

「ま、って、待って! わからないよ。答えてよ、おじさん!」

「はあ、時間がねえんだよ。警邏と火消しがすぐに集まってくる。俺はすぐに骨にならなきゃならねえからお前に構ってる暇はねえんだ」


 それは死ぬと言っているようなものだ。どうしてそうなるのかアンナには一切わからない。


「なんで、死ぬなんて言ってるの」

「だから、言っただろ。お前を助けるためだ。気まぐれだよ」

「わからない、よ。おじさん、もっとちゃんと、教えてよ」

「悪いが、そんな時間はない。まあ、そうだな。言えるとしたら、もう娘が死ぬところなんざみたくないってことだ。あと、もうどうせ死ぬんだから、少しくらいは命を良いことに使いたいって思っただけだ」

「あ……――」


 地下への扉が開く。巧妙に隠されたそれ。そこから、


「急げ!」


 酒場のマスターが顔を出す。


「じゃあ、頼むわ」

「まったく、面倒なことを押し付けおって」

「ツケは倍にして払っただろ」

「足りんわい」

「そうか、それは悪いことをしたな。……じゃあ、頼むわ」

「…………任されよう」

「待って、おじさん! マスター、降ろして!」


 マスターは待たず階段を下りていく。男が遠ざかって行く。アンナは必至に手を伸ばした。


「おじさん! おじさん!」

「じゃあな、達者で暮らせ。お前はもう自由だ。アンナ」

「いやだ! やっと、やっとやりたいこと見つかったのに! おじさんと一緒に生きたいって思ったのに! 思えたのに!」

「そいつは悪いな。そうだな。それじゃあ、目的をやろう。別にやりたくなかったらやらなくていい。世界の果てって奴を目指してくれよ。っと、もう限界だな。それじゃあな。アンナ――」


 なんていったのだろう。最後の言葉は。聞き取れないまま、瓦礫が崩れ、男の姿は火へと飲まれていった。


「おじさん! おじさん、おとうさん――――!」


 伸ばした手が届くことはなく。ただ、言葉は虚空へと消えて行った――。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 ラジオによれば火は翌日まで燃え上がりあの辺り一帯を焼き尽くしたらしい。何もかもが燃えたが、死者は二人だけだったという。

 出火元の家にいた二人。警邏が死体を確認して引いていったのをマスターが見た。街中で労働種を探す警邏はもういない。男の作戦は巧く行ったのだ。


「…………」


 アンナは現在、マスターの計らいで裏酒場の奥の一室を借りている。

 治療を施された彼女の前には男の義手だったものと、彼が用意したという彼女に宛てた荷物が置いてあった。

 旅支度。ゴーグルなどの旅衣装に着替え、武器。いつの間にかGKがそこには入っていた。欲しいと言っていたのを覚えていたのか。


 そして、莫大な額のクレジットが入金されたナンバーカード。それは労働種には発行されないはずのアンナの個人情報が入力されてた個人パーソナルカードでもあった。この世界で生きるのに必要なものがそこにあった。


「どう、して」


 それらを前にしてただ呟く。

 わからない。わからなかった。男がどうしてあんなことをしたのか。


「わたしは、あなたが生きていて一緒にいてくれるだけで良かったのに」


 いつまでも続くとは思っていなかった。けれど、別れるときは自分の方だと思っていたし、少なくとも男が死ぬことはないと思っていたのだ。

 あの戦いだって男が手加減をしていた。殺そうと思えば壁越しに狙えば良い。流石の労働種でもアンナには壁越しに狙われているかまではわからないのだから。


 殺気を隠して壁越しに一発撃てばそれで終わりだ。男にはそれが出来た。なのに真正面から戦いを始めたのだ。

 そして、戦っていたと思ったらアンナを蒸気爆発から助け、身代わりを用意し協力者となって、アンナが死んだことにする身代わりまでかって出た。


「なのに、なんで」

「――そいつは、お前さんの為だよ」

「マスター」

「あの馬鹿は、お前を助けたかったんだよ。まったくガラにもねえことして死にやがって。いくら蒸気病で先が長くねえってのがわかってたとしてもよ。似合わな過ぎるだろ。勝手な奴め。

 しかも、娘を殺した労働種の嬢ちゃんに死んだ娘の名前をやるとか。まったくあの馬鹿は何考えてるんだか。それで死んでちゃ世話ねえぜ。まったく」

「…………」


 マスターは愚痴るよう、馬鹿にするように紫煙を吹かしながら出て行く。その後ろ姿はどこか寂しげであった。


「…………わたし、名前も知らないよ」


 アンナは腕を見る。男の右腕であった義手を。それは男が遺した唯一のものだった。


「……わかったよ。お父さん、わたし、ううん。私、世界の果てを目指す。だから、一緒に行こう」


 数日後、アンナは男の腕を自らの腕の右腕とした。大きく不格好になった。バランスも慣れるまではきついだろう。

 それでもアンナは男の腕にこだわった。


「行きます。世界の果てまでちょっとお父さんと一緒に」


 ある程度、腕が動くようになった彼女はマスターにそう言った。


「そうか」

「今までありがとうございました」

「知らん。あいつの言うとおりやっただけだ。用がそれだけならさっさと行け。裏の倉庫に蒸気二輪がある。あの男のだ。好きに使え」

「はい」


 男が用意した旅装束に着替える。動きやすい軍装にも似たズボンに、褐色のコート。腰の銃帯にはGK。大きなトランクを背負い、ゴーグルをつける。落ちないように制帽目深にかぶって、


「行ってきます」


 そう言って彼女はエンジンを吹かし、走り出した。世界の果てを目指して――。

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黒煙のナイトシーカー 梶倉テイク @takekiguouren

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